八条河原口盛国の家
養和元年(1181)閏2月4日、平清盛が亡くなりました。『吾妻鏡』同日条は清盛の死去の場所を「九条河原口盛国家」としています。これは清盛の家司平盛国の邸宅であり、その場所は平安京の南東端の左京九条四坊十三町のあたりだと考えられてきました。※
しかし、神戸大学の高橋昌明先生の最新の研究(「清盛家家政の一断面ー備後国太田荘関係文書をてがかりとして」〈笠井昌昭編『文化史学の挑戦』思文閣出版 2005年〉)により、平盛国邸は八条河原口であることが明らかにされました。
同論文によると、『師元朝臣記』応保元年(1161)9月3日条に、憲仁親王(高倉天皇)が「八条河原口右(左)衛門尉盛国宅に於いて降誕」とあることから、『吾妻鏡』の記事は九条と八条の誤記であろうとされています。
八条河原口は、鴨川のすぐ対岸に後白河院の法住寺殿御所、西に西八条邸、北北東に六波羅が位置し、西八条邸・六波羅とはほぼ等距離にあり、平氏の家政を預かる平盛国邸として、もっともふさわしい場所といえます。
平安京探偵団の六波羅・法住寺殿地図をご覧下さい。
九条大路の末に「平盛国?」とあるのが、通説の九条河原口盛国邸です。
その上に赤い丸で囲ったあたりが八条河原口です。
地図を見てもわかりますように、鴨川を隔てた対岸は法住寺殿です。
『平家物語』慈心坊(巻6)には、清盛が死んで葬送の夜、院の御所法住寺殿から2,30人の声で、拍子をとって舞い踊り、どっと笑う声がしたといいます。
『百錬抄』の養和元年閏2月4日条には、今様乱舞の声が聞こえてきたのを、もう少し具体的に法住寺殿の最勝光院としています。
このどんちゃん騒ぎ、九条河原口では聞こえないけれど、八条河原口だと確かに聞こえてくるよねと、先日、私が参加させていただいている某大学のゼミの百錬抄の講読会で話題になりました。
※「九条河原口盛国家」を平盛国邸ではなく、権大納言藤原邦綱の父右馬権助盛国邸とする説もあります。上横手雅敬「平氏政権の諸段階」(安田元久先生退任記念論集刊行委員会編『中世日本の諸相 上』吉川弘文館 1989年)。
| 固定リンク


コメント
ぼんやり夫人さん、こんにちは♪
清盛が薨じた平盛国の邸宅の位置について、大変興味深く読ませていただきました。なるほど、平安京の南東のすみよりも、八条河原にあったと考えた方が自然かもしれませんね。そしてその場所が、西八条殿と六波羅殿の中間というのも興味深いです。確かに、あそこなら今様のどんちゃん騒ぎも聞こえたかも……と私も思います。平安京の住民探しは興味が尽きないですよね。
投稿: えりか | 2005.05.20 12:37
えりかさん、コメントありがとう♪
はたしてそこに後白河はいたのかどうか。。
想像すると楽しいです。
投稿: ぼんやり | 2005.05.20 18:41