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2005.05.08

入道死去1

悶絶躄地して、遂にあつち死にぞし給ひける
(身もだえして息絶えて倒れ、とうとう悶死をなさった)

養和元年(1181)閏2月4日、清盛は九条河原口の平盛国邸で波乱に満ちた生涯を終えます。語り本系『平家物語』では、清盛の遺体は愛宕(おたぎ)で火葬され、遺骨は円実法眼が頸にかけて運び、経の島に納めたと書かれています。経の島がどこにあったのかはわかっていませんが、能福寺の東北にあたる築島寺(来迎寺)付近、または清盛が造営した八棟寺の境内とも伝えられています(八棟寺は現存しませんが、現在切戸町の清盛塚がある辺りだろうとされています)。このことから、次に紹介する清盛塚(兵庫区切戸町)、能福寺の平相国廟が清盛の墓所であると考えられてきました。

もっとも史実に近いであろうと思われるのは、『吾妻鏡』の記述に出てくる「播磨国山田法花堂」です。『吾妻鏡』の養和元年閏二月四日条には、「三ケ日以後葬の儀あるべし。遺骨においては播磨国山田法花堂に納め、七日ごとに形のごとく仏事を修すべし。毎日は修すべからず。また京都においては追善をなすべからず。子孫はひとえに東国帰往の計を営むべし。」と清盛の遺言を伝えています。この記事でいう「播磨国山田」とは、平家没官(もっかん)領のうちの播磨山田領のことで、現在の神戸市垂水区西舞子町付近です。『延慶本平家物語』には、「花見の春の園の御所、初音尋る山田御所。月見の秋の岡の御所、雪の朝の萱の御所、嶋の御所、馬場殿、泉殿、二階桟敷殿」と、「山田御所」の名前が見られ、『高倉院厳島御幸記』に「はりまの国山だ」の山荘で昼食をとったことが知られています。

【参考文献】
『兵庫県史』(1975)
角田文衞『平家後抄』下(朝日新聞社 1981)
元木泰雄『平清盛の闘い〜幻の中世国家』(角川書店 2001)
冨倉徳次郎『平家物語全注釈』
『兵庫県の地名』(平凡社)

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