薩摩守忠度
『前賢故実』に描かれる平忠度です。
平家都落ちに際し、和歌の師である藤原俊成の家に和歌の巻物を届ける場面です。
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左は小池義人監修・三浦真厳編纂『摂津国八部郡福祥寺古記録 須磨寺「當山歴代」』(校倉書房 年)です。
須磨寺の古記録『当山歴代』の釈文、読み下しは、戸田芳実・北島万次。解題は戸田芳実。
付録として「沙門弘源(福祥寺文書)<影印・釈文>」「摂州須磨寺略縁起」が載ります。釈文は戸田芳実。
以下、同書の解題より引用。
須磨寺の古記録『当山歴代』は、中世以来、同寺において書き継がれてきた寺の年代記である。その記事に多少の欠落や精粗の差はあるが、平安末期の嘉応二年(1170)から近世の宝暦二年(1752)まで、五百八十年余りの同寺の造営と興行を中心とした寺史の歩みを、全体として正確で実務的な筆致で簡明に書き綴っており、中近世を一貫した寺院史および周辺地域史の編年史料として、高く評価すべき内容を有している。
※ここ数日間、この本を書庫で探していたのですが、見つからずあきらめかけていたところ、リビングの料理本の棚から発見!うれしくてエントリー。
須磨寺について調べようと思ったらオススメ。
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さざ波や志賀の都はあれにしを むかしながらの山ざくらかな(『千載集』)
平清盛の末弟平忠度は歌人としても知られ、『千載集』をはじめ勅撰集に入首しています。
一の谷合戦において、平忠度は西の城戸口・一の谷の大将軍でした。敗れて駒ヶ林めざして落ち行く途中、源氏方の岡部六弥太忠澄と戦い、忠澄の首を討ち取ろうとしたところを、忠澄の家臣に右腕を切り落とされてしまいます。忠度はついに静かに念仏して討たれました。その箙には、「行きくれて木の下かげを宿とせば花やこよひの主ならまし」という歌が書かれた紙片が結ばれていたことで、平忠度であることがわかりました。
平忠度の胴塚と腕塚が、神戸市長田区にあります。両塚の石塔は、阪神淡路大震災でバラバラに崩れるという被害にあいましたが、現在では修復されています。
平忠度胴塚(野田町8丁目)
胴塚は忠度の胴を埋めた所と伝えられています。
平忠度腕塚(駒ケ林町4丁目)
平忠度が岡部六弥太忠澄の郎党に斬り落とされた腕を埋めた場所と伝えられています。
腕塚堂という小堂が建ち、堂前には十三重塔が建っています。堂内には平忠度の位牌が祀られています。
後世、腕や腰の痛みがなおると人々から篤く信仰されました。
未見ですが、平忠度塚、腕塚は、明石市にもあるそうです。
平家物語の異本の伊藤家本、南都本に、平忠度は明石へ落ちのびたと書かれていることから、伝承地が生まれました。
平忠度塚は、江戸時代、明石藩主松平忠国が梁田蛻嵓に命じて碑文を作らせ、墓域を修復しています。
周辺には「腕塚神社」、平忠度と岡部六弥太忠澄が対峙したという「両馬川旧跡」、平経正の馬を埋めた伝説を持つ「源平合戦馬塚旧址」もあります。
【参考文献】
『兵庫県史』第2巻
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平重衡は一の谷合戦で生捕りにされます。
乳母子に裏切られて馬を失い、自害を覚悟したところを捕らえられました。
山陽電鉄須磨寺駅改札口北側に、「平重衡とらわれの遺跡」碑があります。
かつては大きな松があり、「重衡腰掛けの松」と呼ばれていました。
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軍記・語り物研究会の2005年大会
【日時】8月28日(日)29日(月)
【会場】名古屋大学 東山キャンパス 文学部棟2階 237講義室
【プログラム】
第1日 受付開始 12:30〜
<大会企画>「軍記物語と中世の〈義経〉像」
基調講演(13:00〜14:00)
中世人の義経像〜文学にたどる 池田敬子氏
関連報告(14:10〜15:10)
平家物語にみる〈義経〉像のゆらぎー人と事件と歴史の創造 鈴木 彰 氏
御霊義経の可能性ー敗者から弱者へ 樋口 州男 氏
共同討議(15:20〜16:50) 司会 小秋元段氏
第2日 受付開始 9:00〜
【研究発表 午前の部】9:30〜11:30
重衡遺品伝承と「源平盛衰記」ーその人物像の享受 大川 真智子 氏
流布本『平家物語』の成立 高木 浩明 氏
【研究発表 午後の部】13:30〜15:30
『梅松論』における将軍とその周辺 北村 昌幸 氏
丹波赤井氏関係軍記について 山上 登志美 氏
詳しくは軍記・語り物研究会のサイトで
http://www5e.biglobe.ne.jp/~gunki/index.htm
※手もとに届いた案内チラシには、
「一般の皆様の来聴を歓迎します。事前の申込みの必要はありません」
とあります。も少し近ければ行きたいところです。
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『前賢故実』の平敦盛の図です。
上に書かれているのは、敦盛がその最期に持っていた巻物に書かれていた長歌。
そして手にしているのは漢竹の篳篥(ひちりき)。
敦盛といえば「青葉の笛」が連想されます。
しかし「青葉の笛」という名称は平家諸本に登場しません。
平家の諸本で敦盛の最期に持っていた物は、
・小枝(こえだ・さえだ)の笛<覚一本、百二十句本、八坂本>
・無名の笛<四部合戦状本、南都本>
・篳篥<延慶本、長門本>
・巻物<延慶本、長門本>
だそうです。
では「青葉の笛」は何だということになります。
謡曲「敦盛」の中で敦盛の亡霊が持つ笛に「青葉の笛」という名称が使われています。
また須磨寺の勧進に、敦盛像とともに「青葉の笛」が展観され、貴賤の人気を集めます。
謡曲の普及、須磨寺の信仰が、「青葉の笛」の名称を定着させました。
須磨寺の宝物館では「青葉の笛」が展示されています。
追記:厨子の中の右が青葉笛、左は高麗笛。
【参考文献】
佐谷真木人『平家物語から浄瑠璃へ 敦盛説話の変容』(慶応義塾大学出版界 2002年)
小池義人『滅びの美「敦盛」』(神戸新聞出版センター)
冨倉徳次郎『平家物語全注釈』下巻一
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寿永3年(1184)一の谷合戦で、平経盛の子息平敦盛が、源氏方の熊谷次郎直実によって首を討たれました。『平家物語』では「敦盛最期」として広く知られる場面です。
敦盛説話は、室町時代から江戸時代にかけて、数多く作られた謡曲や幸若舞曲、古浄瑠璃などに盛んに取り上げられました。西国街道にある敦盛塚は、往来する人々にとって格好の名所となったに違いありません。
敦盛を供養するために建立されたという伝承を持つ巨大な五輪塔が、山陽電鉄須磨浦公園駅の西側、国道2号線沿いにあります。塔の高さ約3.5メートル。室町時代後期の建立と推定されています。
石塔の下の地輪部分は土に埋まっていましたが、源平合戦八百年祭記念の年(1985年)に発掘調査が行われ、現在ではその全体像を見ることができます。
この石塔の故実について川辺賢武氏は、次のように分類しています。
1、北条貞時が平家一門の冥福を祈るために建立したという説(「五畿内志」「摂津名所図絵」等)
2. 敦盛塚は「あつめ塚」の転訛とする説(「西摂大観」他)
3. 敦盛の霊が再来して建てたとする説(「摂陽郡談」「兵庫名所記」)
4. 誰のしわざとも知れず一夜のうちに建てられたという説(「須磨浦古跡記」)
5. 弥陀六という人物のよる造建という説(「一谷嫩軍記」)
それらの諸説を詳細に検討し、この塚が誰によって何のために建てられたかは不明ではあるが、敦盛のもでのでないとする決定的な根拠が見いだせない以上、旧説のとおり敦盛塚としておくのが正しいと結論づけられています。
『兵庫県の地名』には、敦盛塚は「須磨寺参詣曼陀羅(福祥寺蔵)に描かれ、文禄5年(1596)の大地震で浜まで流され、復元が福祥寺によってなされているので(当山歴代)、同寺が管理していたと考えられる」とあります。
※福祥寺とは通称須磨寺のこと。「当山暦代」は、福祥寺の古記録集。校倉書房から『摂津国八田部郡福祥寺古記録須磨寺「当山歴代」』として翻刻が出ています。
【参考文献】
川辺賢武「敦盛塔造顕年代考」(『神戸史談 川辺賢武特集』228 1971年、初出は『神戸史談 須磨特集』1941年)
小池義人『滅びの美「敦盛」』(神戸新聞社出版センター 1985年)
『兵庫県の地名』
神戸大学附属図書館のWEBサイトに、震災記録写真(大木本美通撮影)というコーナーがあります。
阪神淡路大震災時、震災直後から2002年1月まで、放送カメラマン大木本美通氏によって撮影された、三宮・元町周辺はじめ神戸市内の地域の記録です。源平史跡の石塔等の文化財がいかに被害にあったのかを知ることができる貴重なデーターです。
須磨区一の谷の敦盛塚 五輪塔
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神戸源平シンポジウム
源平合戦〜伝承された戦いの虚実〜
■基調講演
「源平合戦の虚像を剥ぐ〜生田森・一の谷合戦を中心に〜」
東京都立大学 川合 康助教授
■パネルディスカッション:
「内乱史研究の最前線〜武士、伝承、地域社会〜」
パネラー:神戸大学 高橋昌明教授 ほか
コーディネーター:天理大学 藤田明良教授
【日時】平成17年9月25日(日)14:00〜17:00
【場所】神戸木材会館大ホール(神戸高速「新開地駅」・市バス「新開地」徒歩5分)
【主催】兵庫区民まちづくり会議・兵庫区役所 歴史資料ネットワーク
◇定員 200名 *応募者多数の場合は抽選
往復はがきで申込みが必要。8月26日締め切りです!
申込み先等詳しくは、「義経 神戸源平物語」のサイトでご確認ください。
http://kobe-genpei.jp/index.html
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前後しましたが、一の谷合戦の風景を紹介していきます。
こちらは搦手義経軍が進攻したのは一の谷口。
平家軍は一の谷を西の城戸としました。現在の須磨浦公園一帯です。
鉢伏山へと登るロープーウェイから展望。
鵯越から平家軍の北の城戸口へと向かう山中。眼下に見えるのは夢野あたりです。
多田行綱軍が最初に山手を落したとされています。
たしかにここから平家軍に突入すると、勝てると思いました。
大手範頼軍が進攻したのは生田口。
平家軍は生田の森を東の城戸とし、生田川に逆茂木を並べて陣を張りました。
生田神社の境内生田の森です。
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ダンナさんからのお土産です。古書市で見つけたそうです。かなり大きなものです。
粟津ケ原の合戦を描いたもので、義仲、巴をはじめ、木曾の四天王が丁寧に書き込まれています。
ダンナさんは絵馬の下書きかなあと言います。
わたしはお節句の旗か幟の下書きかなあと思っています。
※これが何かわかる方がいらっしゃいましたら、ぜひコメントお願いします。
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佐藤継信・忠信兄弟(『前賢故実』巻8)
佐藤継信忠信は、平泉から義経に従っている腹心です。
佐藤兄弟は、奥州の有力武士団の子弟です。ステータスも高い自立した存在です。
それがなぜ義経につき従ったのでしょうか。
京都女子大学宗教文化研究所の野口実先生は、義経が陸奥で結婚した女性(この女性との間にできた娘は、源頼政の孫の有綱に嫁している)は、佐藤兄弟の姉妹に当たる人物ではないかという説をしめしておられます。
【参考文献】
野口実「義経を支えた人たち」(上横手雅敬編著『源義経流浪の勇者』文英堂)
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屋島の合戦では、海側からの攻撃に備えていた平家方ですが、背後の陸からの義経の奇襲に虚をつかれ、あわてて屋島の御所を捨て海へと逃げてしまいます。源氏の軍勢が少数と見て引き返しますが、後の祭り。あっという間に勝負がつきました。
しかしこの合戦で義経は腹心の佐藤継信を失います。能登守教経の強弓から義経の身を守ろうとして壮絶な最期を遂げます。
佐藤継信の墓が、屋島東町と牟礼町に2か所あります。
いずれにも初代高松藩主・松平頼重による墓石が建てられています。
屋島東町の墓は、屋島寺への旧遍路道沿いにあたります。佐藤継信が義経の身代わりとして忠死したことを武士道の鑑であると賞賛して、多くの人に知らしめるために建てれてたものです。
牟礼町の王墓のそばにある墓は、継信が埋葬された場所と伝えられています。昭和のはじめに佐藤継信の子孫によって整備されました。
同所には、義経が佐藤継信の菩提を弔うことを命じた僧へ賜ったという義経の愛馬大夫黒の墓もあります。
屋島東町の佐藤継信の墓
牟礼町の佐藤継信の墓
大夫黒の墓
牟礼町の佐藤継信の墓に隣接しています。
【参考文献】
読売新聞社高松支局編『源平の舞台はいま』
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少し古い本ですが、読売新聞高松支局編『源平の舞台はいま』(美巧社 1986年)を紹介します。
昭和60年(1985)読売新聞香川版に、源平八百年祭を記念して県内の源平まつわる伝説地を訪ねる記事が1年間連載されました。この本はそれをまとめたものです。
より史実に近いもの、伝承の域をでないもの千差万別ではありますが、いずれも地元の人々によって大切に守られています。同時に、香川県内だけでもこれだけの伝説地があるということに驚かされます。
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屋島の対岸にあたる牟礼町には、屋島合戦にまつわる伝説地がたくさん残されています。
那須与一が扇の的を射る場面にちなむ祈り岩や駒立岩。義経の弓流しの跡や、景清の錣引きの跡などなど。
牟礼町の伝説地めぐりには、左の小冊子がお役立ち者。牟礼町教育委員会が出されている『牟礼町歴史散歩 平家物語と史跡めぐり』。
『牟礼町歴史散歩』によると、平家方は屋島に陣をはっていましたが、屋島の内裏ができるまで牟礼町の六万寺を行在所にしていました。海の源氏方に向けての防衛に備えた門があったのが、総門跡です。
総門跡
六万寺
屋島の中腹にある安徳天皇社
屋島の内裏跡と伝えられています。境内には、源平の戦死者たちの供養塔がまつられています。周辺から寄せ集められた石塔類だということです。
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高松の駅を降りてまず目に入ったのがこの郵便ポスト。
ポストの上には、今まさに鏑矢を番え、ひょうと射ようとする瞬間の那須与一像がのっていました。
しかし、この像は2004年の夏に撤去されてしまいました。像へのいたずらが相次いだためです。残念です。
菊池容斎『前賢故実』に描かれる那須宗隆(与一)
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屋島の展望台から源平古戦場を臨みます。
写真を合成してつなげてみました。ブログのエントリー枠におさめるにはちょっと無理がありますね。
後日、大きい写真を見ることができるようにします。
次回の大河ドラマ義経では今井翼くんの那須与一が登場。
それまでは屋島の源平史跡を紹介していきます。
一の谷の源平史跡を紹介するタイミングをはずしてしまいました。
来週にでもエントリーさせます。
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静御前の鈴守です。
鎌倉へ遊びに行ったおり、鶴岡八幡宮で授かりました。
烏帽子の先端がはげてきたので、きれいなうちにエントリーしておきます。
※ブログ平家物語のバナーをエーティーネットさんに作っていただきました。
夏ツバキ(沙羅双樹)の花が咲くと同時に平家物語に字が浮かび上がるステキな仕上がり。このバナーは有料ですが、無料のステキな素材もたくさんあります。
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復刻版『参考源平盛衰記』上中下(改定史籍集覧本 臨川書店)です。
『参考源平盛衰記』とは、徳川光圀が『大日本史』編纂の史料とするため、今井弘済・内藤貞顕に命じて編纂させたものです。史料としての信憑性の検討が目的で、11種の異本との校合、104種の日記・記録などを引用して本文を考証しています。成立は、元禄2年(1689)。48巻、剣巻。
他に『大日本史』編纂準備の一環として生まれたものに、『参考保元物語』『参考平治物語』『参考太平記』があります。
上の写真の『参考源平盛衰記』にもたれかかっている薄い1冊は、国書刊行会の『参考保元平治物語 全』です。
わたしはこの本が欲しくて、先月いっぱい働きました。
【参考文献】
平家物語研究事典
「解題」『参考源平盛衰記』上(改定史籍集覧本 臨川書店)
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ぼんやりの平家グッズコレクションの模型の源平船を、屋島の最北端に浮かべてみました。
屋島を東から見る。
平べったい台地のように見えます。
屋島を南から見る。
陸から攻めた義経軍はこちらから攻撃を加えました。
屋島を北から見る。
海から見ると屋島はピラミッド状にとがっており、まさに瀬戸内海航路のランドマークとなります。
【参考文献】
野口実「平家の本拠地をめぐって 立地空間の軍事的評価」(『古代文化』特集平家と福原 57巻4号 2005年)
※上の論文で野口先生は、平家の本拠について、六波羅・西八条・八〜九条末、福原・一ノ谷、屋島の各拠点の軍事的評価を加えて詳しく論じられています。要チェックです。
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熊野へ参らむと思へども
徒歩より参れば道遠し すぐれて山きびし
馬にて参れば苦行ならず
空より参らむ 羽賜べ 若王子
(『梁塵秘抄』巻2)
熊野参りをしようと思うけれど、
歩いて参るには遠すぎる。山は本当に険しい。
馬で参ると苦行にはならない。
空より鳥となって参ろう。羽を与えて下さいませ、若王子の神さま。
院政期、熊野参詣は大いに流行り、宮廷の年中行事のような様相をていしていました。
参詣の回数を重ねるというのは、多数作善功徳信仰のあらわしています。参詣の回数が多いほど熊野権現の功徳が強いということです。
平家一門で見ると、久安3年(1147)以後の供奉人には平忠盛・頼盛.教盛などが登用されています。
白河上皇9回、鳥羽上皇21回、崇徳上皇1回、後白河法皇34回、後鳥羽上皇28回
熊野本宮大社
大斎原(おおゆのはら 本宮大社の旧社地)
みちの駅奥熊野古道ほんぐうでは、藤原定家の『熊野御幸記』のレプリカが展示され、レプリカの上にはイラストマップで定家の26日間の様子が描かれています。レプリカは売っていませんが、イラストマップの巻物は販売されています。歴史好きな方へのお土産に最適(?)。ぼんやりは夫へのお土産に買いました。
※『熊野御幸記』とは、定家が後鳥羽上皇の熊野御幸に随行した建仁元年(1201)の日記です。
みくまのねっと
熊野古道を歩くなら絶対にチェックして欲しいサイト
http://www.mikumano.net/
【参考文献】
豊島修『死の国・熊野』講談社現代新書
小山靖憲『熊野古道』岩波新書
※二書を読み比べますと、宗教民俗学という観点の豊島氏、歴史学という観点の小山氏の間に、当然ながら見解の違いがあります。手に取りやすい二書なので、ご興味のある方は、ぜひ読み比べてくださいませ。(ただし講談社現代新書『死の国・熊野』は絶版になっています)
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これまでにぼんやりのコレクションとして鞆柄(巴)、源義高妻(大姫)、平重衡を描いた粉本をこのブログで紹介してきました。他に12枚の源平時代の人物を描いた粉本を持っています。
これが何の粉本なのかずっと気になっていたのですが、何を写したものなのかがわかりました。
菊池容斎『前賢故実』10巻がそうです。明治元年刊行。
菊池容斎(1788〜1878)は、幕末から明治にかけて活躍した歴史画家です。
『前賢故実』は、有職故実を考証しながら古代から中世にいたるまでの500人以上の賢人を集め、見開きの右に略伝、左に図を載せたものです。
当時の歴史画家たちの絵手本となりました。きっとわたしの所有する粉本も、画家が模写したものだと思います。
どんな人物が描かれているかは、はてなダイアリーの前賢故実に列挙されています。
ネット上では、京都大学電子図書館の貴重資料画像で全巻を見ることができます。
上の写真は、明治36年に菊池容斎の孫菊池武九によって、さらに有職故実の考証1巻を加えて『考証前賢故実』11巻(東陽堂)として刊行されたものです。サイズは文庫本の大きさなので、元の『前賢故実』に比べて迫力に欠けます。
ブログ用にスキャナするにはちょうど良い大きさかもしれません。おいおい紹介していきたいと思います。
【参考文献】
出口久徳「絵画ー挿絵・近代絵画」(『國文学』特集平家物語生まれかわりつづける物語 47巻12号10月号、2002年)←これを読んで『前賢故実』という書物を知り、京都府立総合資料館で菊池容斎『前賢故実』10巻を見せていただき判明しました。
『考証前賢故実』11巻(東陽堂)は、古書店で購入。
※私事ですが、毎日仕事が入ったのと、体調が悪いのとが重なって、更新が滞ってしまいました。すみません。
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