平忠度腕塚・胴塚
さざ波や志賀の都はあれにしを むかしながらの山ざくらかな(『千載集』)
平清盛の末弟平忠度は歌人としても知られ、『千載集』をはじめ勅撰集に入首しています。
一の谷合戦において、平忠度は西の城戸口・一の谷の大将軍でした。敗れて駒ヶ林めざして落ち行く途中、源氏方の岡部六弥太忠澄と戦い、忠澄の首を討ち取ろうとしたところを、忠澄の家臣に右腕を切り落とされてしまいます。忠度はついに静かに念仏して討たれました。その箙には、「行きくれて木の下かげを宿とせば花やこよひの主ならまし」という歌が書かれた紙片が結ばれていたことで、平忠度であることがわかりました。
平忠度の胴塚と腕塚が、神戸市長田区にあります。両塚の石塔は、阪神淡路大震災でバラバラに崩れるという被害にあいましたが、現在では修復されています。
平忠度胴塚(野田町8丁目)
胴塚は忠度の胴を埋めた所と伝えられています。
平忠度腕塚(駒ケ林町4丁目)
平忠度が岡部六弥太忠澄の郎党に斬り落とされた腕を埋めた場所と伝えられています。
腕塚堂という小堂が建ち、堂前には十三重塔が建っています。堂内には平忠度の位牌が祀られています。
後世、腕や腰の痛みがなおると人々から篤く信仰されました。
未見ですが、平忠度塚、腕塚は、明石市にもあるそうです。
平家物語の異本の伊藤家本、南都本に、平忠度は明石へ落ちのびたと書かれていることから、伝承地が生まれました。
平忠度塚は、江戸時代、明石藩主松平忠国が梁田蛻嵓に命じて碑文を作らせ、墓域を修復しています。
周辺には「腕塚神社」、平忠度と岡部六弥太忠澄が対峙したという「両馬川旧跡」、平経正の馬を埋めた伝説を持つ「源平合戦馬塚旧址」もあります。
【参考文献】
『兵庫県史』第2巻
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コメント
例の先生のご講義では「『のたまひもはてねば、六野太うしろよりよって、薩摩守の頸を討つ』というのは無礼!余りにも心無い仕打ち!!です」
「野蛮!浅はか!大将の頸を取ることだけしか考えない。」
ということでした。本当に念仏を終えて従容と死についていてくれたらと思います。明石に逃れた、というのも忠度ファンが多かったからなんでしょうねぇ・・・。
投稿: 怪傑おばさん頭巾 | 2005.08.30 00:02
怪傑おばさん頭巾さん コメントありがとうございます♪
埼玉県深谷市の清心寺にも忠度の供養塔があるそうです。
以前、掲示板を設置していたおりに、教えていただきました。
岡部忠澄は、忠度の遺髪を自分の故郷に持ち帰り、葬ったと伝えれています。
地元では慈悲深い英雄としての姿があります。。
投稿: ぼんやり | 2005.08.30 00:48
平忠盛腕塚(野田町8丁目)は平忠度胴塚です。
そして写真は2葉とも駒ヶ林4丁目の腕塚の写真ですね。
つまり、胴塚と腕塚の写真が入れ替わっているわけです。
蛇足ですが本文中も忠盛となっています。
投稿: 長田区住人 | 2007.12.24 00:18
長田区住人さま
ご指摘、ありがとうございます。
さっそく訂正いたします。
投稿: ぼんやり | 2007.12.25 23:04