« 2006年7月 | トップページ | 2006年9月 »

2006.08.24

橋弁慶

446

中堂寺六斎念仏保存会による狂言「橋弁慶」。
(2006年8月24日右京ふれあい会館)

六斎念仏とは、京都とその近郊で行われる念仏踊のひとつ。もとは鉦を叩き、経文に節をつけた鉦念仏でしたが、笛・太鼓が加わり、獅子舞や曲打ち太鼓・能・歌舞伎・浄瑠璃などから加えられ、六斎踊が中心となっていきました。(『日本民俗事典』、田中緑紅『六斉念仏と六斉踊』)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.08.20

頼政塚

京都府亀岡市の頼政塚。

445_1

京都市内から9号線を通って亀岡へと行く途中、「頼政塚」という交差点を通過します。通るたびに気になっていたのですが、先日やっと頼政塚を訪ねることができました。

京都府亀岡市丘陵上に、頼政塚と呼ばれる塚があります。古来、源頼政の首塚であるとか、源氏の宝物が埋まっているとか、頼政の退治した鵺の墓だとか、さまさまに伝えられています。現在、頼政塚の辺りは、宅地造成のため丘陵が半分削られて、ちょうど塚の部分だけが取り残されている形になっています。
塚の上には、江戸時代に建てられた石碑が残っています。安永8年(1779)、源頼政没後の600年に建てられたものです。表面には「従三位源公之墓」と彫られ、裏面・側面にわたって石碑建立の由緒がびっしりと刻まれています。

444

頼政の鵺退治はこちら

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006.08.07

額打論

永万元年(1165)7月28日、二条院が崩御します。その大葬の際、延暦寺の大衆(だいしゅ)と興福寺の大衆との間に、墓所の周囲にかける額の順番をめぐって争いが起こります。延暦寺の僧が、延暦寺の額を興福寺の上に置いたため、興福寺の僧が怒って、延暦寺の額を切り落としてしまいます。そのことから端を発して、延暦寺の大衆は、興福寺の末寺清水寺を焼き払うという事件へと発展します。後白河法皇が延暦寺に平家追討を命じたとの噂が広まり、緊張が走りました。

この事件について、『百練抄』『歴代皇紀』『顕広王記』に史料が残っています。
『百練抄』『歴代皇紀』は、簡単な記事ですが、『顕広王記』8月9日条には詳しく書かれています。

九日乙酉、午二点、清水寺、山の大衆のため焼亡し了んぬ。これ一昨日御葬送の間、奈良の額、山の大衆切り失い了んぬ。而して奈良の僧ら引率して逃げ、而して山の大衆、勝に乗るの刻、奈良の大衆起立して時を作し、山の大衆退く間、山の額を打ち破り了んぬ。大衆ら又刃傷せられ了んぬ。その会稽と云々。

少し平家物語とは話の流れが違い、先に延暦寺の大衆が興福寺の額を切り、その報復に興福寺の大衆が延暦寺の額を打ち割ったというのです。
また平家物語では、延暦寺が清水寺を焼き討ちしたことで終わっていますが、事件はまだ続きます。8月には報復のため、興福寺の大衆が比叡山の東西坂本に発向かうしようとする動きがあり、10月には神木・神輿を奉じて木津川を渡り、天台座主俊円らの流罪を求めています。(上横手雅敬先生「平家物語をよむ」京都アスニー講座の講義より

天皇の墓所の周囲に寺々の額をかけるという(額打、額立)という行為、本当にあったのでしょうか。興味を持って調べているのですが、史料に見えず、よくわかりません。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2006.08.06

二条天皇陵

昨日見シ君ガ御幸ヲ今日トヘバ帰ラヌ路ト聞ゾカナシキ

443

香隆寺陵(京都市北区平野八丁柳町)

二条天皇は、香隆寺の艮(東北)の野で火葬し、その骨は三昧堂に納められたとされています。香隆寺は平安時代中期に創建された真言宗の寺院ですが中世には廃絶し、陵の所在も長く不明となりました。その所在については松原村、衣笠山東麓、船岡山北麓など諸説がありましたが、明治22年(1889)、香隆寺の寺地の推定から現在地に治定されました。

上の歌は、二条院の葬送を拝して澄憲が詠んだ歌です。ただし諸本により歌句、作者に違いがあります。作者は、八条中納言長方、隆憲、本蔵の上人とも。上の句は、文禄本より引用。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年7月 | トップページ | 2006年9月 »