額打論
永万元年(1165)7月28日、二条院が崩御します。その大葬の際、延暦寺の大衆(だいしゅ)と興福寺の大衆との間に、墓所の周囲にかける額の順番をめぐって争いが起こります。延暦寺の僧が、延暦寺の額を興福寺の上に置いたため、興福寺の僧が怒って、延暦寺の額を切り落としてしまいます。そのことから端を発して、延暦寺の大衆は、興福寺の末寺清水寺を焼き払うという事件へと発展します。後白河法皇が延暦寺に平家追討を命じたとの噂が広まり、緊張が走りました。
この事件について、『百練抄』『歴代皇紀』『顕広王記』に史料が残っています。
『百練抄』『歴代皇紀』は、簡単な記事ですが、『顕広王記』8月9日条には詳しく書かれています。
九日乙酉、午二点、清水寺、山の大衆のため焼亡し了んぬ。これ一昨日御葬送の間、奈良の額、山の大衆切り失い了んぬ。而して奈良の僧ら引率して逃げ、而して山の大衆、勝に乗るの刻、奈良の大衆起立して時を作し、山の大衆退く間、山の額を打ち破り了んぬ。大衆ら又刃傷せられ了んぬ。その会稽と云々。
少し平家物語とは話の流れが違い、先に延暦寺の大衆が興福寺の額を切り、その報復に興福寺の大衆が延暦寺の額を打ち割ったというのです。
また平家物語では、延暦寺が清水寺を焼き討ちしたことで終わっていますが、事件はまだ続きます。8月には報復のため、興福寺の大衆が比叡山の東西坂本に発向かうしようとする動きがあり、10月には神木・神輿を奉じて木津川を渡り、天台座主俊円らの流罪を求めています。(上横手雅敬先生「平家物語をよむ」京都アスニー講座の講義より)
天皇の墓所の周囲に寺々の額をかけるという(額打、額立)という行為、本当にあったのでしょうか。興味を持って調べているのですが、史料に見えず、よくわかりません。
| 固定リンク
| コメント (3)
| トラックバック (0)
最近のコメント