2006.08.07

額打論

永万元年(1165)7月28日、二条院が崩御します。その大葬の際、延暦寺の大衆(だいしゅ)と興福寺の大衆との間に、墓所の周囲にかける額の順番をめぐって争いが起こります。延暦寺の僧が、延暦寺の額を興福寺の上に置いたため、興福寺の僧が怒って、延暦寺の額を切り落としてしまいます。そのことから端を発して、延暦寺の大衆は、興福寺の末寺清水寺を焼き払うという事件へと発展します。後白河法皇が延暦寺に平家追討を命じたとの噂が広まり、緊張が走りました。

この事件について、『百練抄』『歴代皇紀』『顕広王記』に史料が残っています。
『百練抄』『歴代皇紀』は、簡単な記事ですが、『顕広王記』8月9日条には詳しく書かれています。

九日乙酉、午二点、清水寺、山の大衆のため焼亡し了んぬ。これ一昨日御葬送の間、奈良の額、山の大衆切り失い了んぬ。而して奈良の僧ら引率して逃げ、而して山の大衆、勝に乗るの刻、奈良の大衆起立して時を作し、山の大衆退く間、山の額を打ち破り了んぬ。大衆ら又刃傷せられ了んぬ。その会稽と云々。

少し平家物語とは話の流れが違い、先に延暦寺の大衆が興福寺の額を切り、その報復に興福寺の大衆が延暦寺の額を打ち割ったというのです。
また平家物語では、延暦寺が清水寺を焼き討ちしたことで終わっていますが、事件はまだ続きます。8月には報復のため、興福寺の大衆が比叡山の東西坂本に発向かうしようとする動きがあり、10月には神木・神輿を奉じて木津川を渡り、天台座主俊円らの流罪を求めています。(上横手雅敬先生「平家物語をよむ」京都アスニー講座の講義より

天皇の墓所の周囲に寺々の額をかけるという(額打、額立)という行為、本当にあったのでしょうか。興味を持って調べているのですが、史料に見えず、よくわかりません。

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2006.08.06

二条天皇陵

昨日見シ君ガ御幸ヲ今日トヘバ帰ラヌ路ト聞ゾカナシキ

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香隆寺陵(京都市北区平野八丁柳町)

二条天皇は、香隆寺の艮(東北)の野で火葬し、その骨は三昧堂に納められたとされています。香隆寺は平安時代中期に創建された真言宗の寺院ですが中世には廃絶し、陵の所在も長く不明となりました。その所在については松原村、衣笠山東麓、船岡山北麓など諸説がありましたが、明治22年(1889)、香隆寺の寺地の推定から現在地に治定されました。

上の歌は、二条院の葬送を拝して澄憲が詠んだ歌です。ただし諸本により歌句、作者に違いがあります。作者は、八条中納言長方、隆憲、本蔵の上人とも。上の句は、文禄本より引用。

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2006.07.27

続・妓王の故郷

2005年5月5日、滋賀県野洲市の妓王寺に立ち寄ったことを書きました。
その時は拝観できませんでしたが、今年、あらかじめ拝観を申し込んでおき、再訪問いたしました。
その写真を置いておきます。

妓王・妓女、母の刀自、仏御前の4人の像は、厨子に納められ、8月の命日の供養日にのみ開扉されます。
境内には、妓王の供養塔が建っています。

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去年のエントリー「妓王の故郷」はこちら

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2006.02.23

殿下騎合事件2

殿下騎合事件の地図を作りました。
クリックすると大きくなります。

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殿下騎合事件1はこちら

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2005.10.21

長講堂

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長講堂(ちょうこうどう)とは「法華長講弥陀三昧堂」の略で、法華経を長期間講義し、阿弥陀仏を念じて三昧境地に入るという意味を持ちます。
長講堂はいくつかありますが、中でも有名なのは、後白河法皇の院御所六条殿(ろくじょうどの)の長講堂です。

寿永2年(1183)12月10日、源義仲に法住寺殿(ほうじゅうじどの)を焼かれた後白河法皇は、左京六条二坊十三町(六条西洞院)にあった近臣・平業忠の邸宅に移りました。六条殿は文治4年(1188)に焼失しますが、法皇はこれを一町に拡張して再建し、邸内に大規模な持仏堂を営みます。それが長講堂です。建久3年(1192)、後白河法皇は、六条殿においてその波瀾にみちた生涯を終えます。

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現在、後白河法皇の長講堂は、下京区富小路五条下ルに移っています。後白河法皇座像(江戸時代 重文)を所蔵し、過去帳(後白河法皇の筆と伝えられていますが、江戸時代の写し)には「閉 妓王 妓女 仏御前」の名前が載せられています。

写真は、2003年に長講堂で行われた今様歌合せの様子です。本堂の阿弥陀様の前で白拍子舞が奉納されました。

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2005.05.17

法住寺殿

後白河法皇の院御所。もともと藤原為光が建立した法住寺の跡であったことから法住寺殿と呼ばれました。
広義の法住寺殿は多数の御所と寺院の複合体です。七条大路末を東西の軸とし、その北側に七条殿の東西両殿(現・京都国立博物館敷地)、南側に蓮華王院と法住寺南殿(狭義の法住寺殿)。その南方に巨大な池(現・東山区今熊野池田町)と建春門院の建立した最勝光院(現・同区本池田町・下池田町付近)。また熊野と日吉の二社が勧請され、新熊野神社・新日吉社がありました。

法住寺殿は、『平家物語』にたびたび舞台として登場します。なかでも、寿永2年(1183)11月、後白河法皇に離反した木曽義仲は、法住寺殿を襲撃し、殿舎を焼き払ってしまいます(8巻法住寺合戦)。その後建久8年(1197)源頼朝によって再建されています。

蓮華王院(三十三間堂)に建つ法住寺殿跡の石碑
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【参考文献】
野口実・山田邦和「法住寺殿の城郭機能と域内の陵墓について」(京都女子大学宗教・文化研究所『研究紀要』16号 2003年)
野口実・山田邦和「六波羅の軍事的評価と法住寺殿を含めた空間復元」(京都女子大学宗教・文化研究所『研究紀要』17号 2004年)
『平安時代史事典』


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2005.05.05

妓王の故郷

滋賀県野洲市には、妓王・妓女の生まれ故郷であるという伝承が伝えられています。
野洲市には、妓王屋敷跡、妓王寺などの史跡があります。

地元の伝承、妓王寺の縁起によると、妓王・妓女の姉妹は、江辺庄司橘次郎時長の娘として生まれました。院の北面であった橘次郎時長は保元の乱で崇徳方につき戦死し、母とともに都へ出て白拍子になります。都へ出た妓王は、平清盛に仕え寵愛を受けました。妓王は、水不足で苦しむ故郷の人々のために、清盛に水路を引くことを願いでました。さっそく清盛は水路をひかせ(現在の祇王井川)、一帯の水不足は解消し近江でも有数の米どころとなりました。村人たちは妓王に感謝し、その菩提を弔うために建てられたのが妓王寺といわれています。
未見ですが、妓王寺には、妓王・妓女、母の刀自、仏御前の4人の像が安置されているそうです。

妓王屋敷跡
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妓王寺
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妓王寺の拝観は予約が必要です。
詳しくは、野洲市観光物産協会のサイトで
http://homepage3.nifty.com/ohmifuji/top.html

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2005.03.29

鹿ヶ谷事件

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鹿ヶ谷事件の舞台である俊寛僧都山荘跡は、哲学の道から霊鑑寺の横のなだらかな坂を山の方へと進みます。山道を入って渓谷沿いに15分ほど歩くと、右手に滝が見えてきます。その滝の上に俊寛僧都顕彰碑が建っています。

治承元年(1177)、法勝寺の執行であった俊寛の鹿ヶ谷の山荘で、俊寛、西光、藤原成親・成経父子、平康頼らが平家打倒の談合をしていたことが発覚します。西光は惨殺され、俊寛、平康頼、藤原成経の3人は鬼界ヶ島に流されます。のちに俊寛を除く2人は赦されて都へ帰りますが、俊寛は赦されずに島に残されその地で亡くなります。

鹿ヶ谷とは、京都市左京区の東南部、如意ヶ嶽西麓一帯の地名です。俊寛の山荘の場所は不詳ですが、近世の京都の地誌類に「談合谷」と呼ばれている所がそうだと伝えられており、左京区鹿ヶ谷御所ノ段町の北部の台地付近と推定されています。
上の写真は「俊寛僧都忠誠之碑」と刻まれた石碑です。この横には「俊寛僧都鹿谷山荘遺址記」の石碑も建てられています。ただし山荘跡と推定される地よりも山中に入った所にあります。かつて山中にあった如意寺の跡、楼門の滝のそばにあります。

【参考文献】
村井康彦『平家物語の世界』
『史料京都の歴史 左京区』平凡社

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2005.02.25

殿下騎合事件

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先週の大河ドラマ「義経」で、殿下騎合事件のようなシーンが登場しました。
でもあのシーンは、『平家物語』に出てくる「殿下騎合事件」とは違い、ドラマの創作ということです。

殿下騎合事件について簡単にまとめてみます。
まず『平家物語』の「殿下騎合(てんがにのりあひ)」(巻1)ではどう描かれているでしょう。

 嘉応2年(1170)10月16日、平重盛の次男資盛が供の若侍たちと蓮台野・紫野、右近馬場あたりまで狩りに出かけました。夕方になり六波羅への帰路へつく資盛一行は、時の摂政である松殿・藤原基房が参内する途中の行列に、大炊御門猪熊で行きあいました。摂政の行列にあうと、下馬の礼をとるのが礼儀でしたが、資盛の一行はみな二十歳以下の若者ばかりで、下馬の礼の作法をわきまえるどころか、行列の前を駈け破って通ろうとしました。摂政の供の者たちは、その無礼なふるまいに対して、資盛一行をみな馬から引きずりおろし、恥辱を与えます。
 ほうほうの体で逃げ帰った資盛は、祖父の清盛へ訴えます。事の次第を聞いた清盛は、大いに怒り、摂政に復讐してやろうと言います。それを聞いた重盛は、下馬の礼をとらなかったことこそが礼儀知らずであること言います。そして、事件に関わった侍たちを召して注意をし、摂政には自分から無礼を働いた事をお詫びしたと思うと述べます。
 しかし、事件はそれだけでは終わりませんでした。清盛は、重盛に相談せずに侍たちを集め、摂政が参内する途中を猪熊〜堀川辺りで待ち伏せ、前駆・随身たちの髻を切るなどさんざんな乱暴を働きました。このことを知った重盛は、この乱暴に参加した侍たちを勘当し、資盛を伊勢へと追放します。

※上の写真は、猪熊通と二条通竹屋町通と猪熊通の交差点。つまり『平家物語』で描かれている「大炊御門猪熊」にあたります。最初の事件が起きた場所。暗くてよく見えませんが、正面に見えるのは二条城です。

では史実ではどうでしょう。『玉葉』『百錬抄』によると、事件の様子が少し違ってきます。復讐を企てたのは清盛ではなく重盛でした。

 嘉応2年(1170)7月3日、摂政・藤原基房が法勝寺の御八講初に向かう途中、女車に乗った資盛に行き合います。摂政の舎人・居飼らが、資盛の女車を打ち破って乱暴を働きます。この乱暴に及んだ理由ですが、『玉葉』『百錬抄』のは何も触れられていません。摂政は家に帰った後、使いとともに事件を起こした舎人・居飼らを重盛のもとに遣わし、早速にわびをいれます。その後も重盛の怒りを恐れて、事件当時の前駆・随身を勘当し、舎人・居飼らは検非違使に引き渡します。
 しかし、それでもなお重盛の怒りはおさまらず、侍たちに摂政が参内するのを大炊御門堀川で待ち伏せさせ、前駆を馬から引きずりおろし、髻を切る暴力を働きます。

【参考文献】
村井康彦『改訂 平家物語の世界』(徳間書店 1973)
冨倉徳次郎『平家物語全注釈』上(角川書店 1966)

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2005.01.22

白拍子

白拍子(しらびょうし)
050白拍子とは、白拍子舞を演ずる遊女をいう。
白拍子とは本来は節の名であったのが、院政期には歌舞の名称となり、これを舞う遊女もさすようになった。
男舞と呼ばれたように、水干に立烏帽子、白鞘巻の脇差を差すという男装で舞った。
起源については2説ある。ひとつは『平家物語』巻1「祇王」の段が伝える、鳥羽院の時、島の千歳・和歌の前が舞いだしたとする説。もうひとつは『徒然草』225段に、磯の禅師が藤原通憲(信西)から舞を学び、禅師の娘静(義経の愛妾静)がさらにこれをついだとする説。

『平家物語』には白拍子が登場します。
祇王・祇女、仏御前、源義経の愛妾静御前。
ぼんやりも白拍子に扮してみました。完全になりきってます。

【参考文献】
『平安時代史事典』
『平家物語全注釈』上

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