2005.05.17

法住寺殿

後白河法皇の院御所。もともと藤原為光が建立した法住寺の跡であったことから法住寺殿と呼ばれました。
広義の法住寺殿は多数の御所と寺院の複合体です。七条大路末を東西の軸とし、その北側に七条殿の東西両殿(現・京都国立博物館敷地)、南側に蓮華王院と法住寺南殿(狭義の法住寺殿)。その南方に巨大な池(現・東山区今熊野池田町)と建春門院の建立した最勝光院(現・同区本池田町・下池田町付近)。また熊野と日吉の二社が勧請され、新熊野神社・新日吉社がありました。

法住寺殿は、『平家物語』にたびたび舞台として登場します。なかでも、寿永2年(1183)11月、後白河法皇に離反した木曽義仲は、法住寺殿を襲撃し、殿舎を焼き払ってしまいます(8巻法住寺合戦)。その後建久8年(1197)源頼朝によって再建されています。

蓮華王院(三十三間堂)に建つ法住寺殿跡の石碑
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【参考文献】
野口実・山田邦和「法住寺殿の城郭機能と域内の陵墓について」(京都女子大学宗教・文化研究所『研究紀要』16号 2003年)
野口実・山田邦和「六波羅の軍事的評価と法住寺殿を含めた空間復元」(京都女子大学宗教・文化研究所『研究紀要』17号 2004年)
『平安時代史事典』


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