2006.08.20

頼政塚

京都府亀岡市の頼政塚。

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京都市内から9号線を通って亀岡へと行く途中、「頼政塚」という交差点を通過します。通るたびに気になっていたのですが、先日やっと頼政塚を訪ねることができました。

京都府亀岡市丘陵上に、頼政塚と呼ばれる塚があります。古来、源頼政の首塚であるとか、源氏の宝物が埋まっているとか、頼政の退治した鵺の墓だとか、さまさまに伝えられています。現在、頼政塚の辺りは、宅地造成のため丘陵が半分削られて、ちょうど塚の部分だけが取り残されている形になっています。
塚の上には、江戸時代に建てられた石碑が残っています。安永8年(1779)、源頼政没後の600年に建てられたものです。表面には「従三位源公之墓」と彫られ、裏面・側面にわたって石碑建立の由緒がびっしりと刻まれています。

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2006.01.31

小松内大臣と蛇

小松内大臣が、ある時宮中に参内されて、夜中面道(めんどう 殿中を貫通して通した廊下風の道)で、長年馴染んでいた一女房と逢っておられる時に、突如蛇が小松内大臣の肩に這い上がった
(冨倉徳次郎『平家物語全注釈』上巻解説より)

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右の小松内大臣さまは、『考証前賢故實』巻7の平重盛に着色しました。着色しているうちにドンドンと妄想が膨れ上がって、いつのまにかワタクシ自身が宮中の女房になっていました。
左の女房は、恥ずかしながらワタクシです。背景は、京都府京都文化博物館に保存されている清涼殿の復元模型。
写真を撮ってくれたのは源氏の部屋の小池笑芭さん。

上の小松内大臣こと平重盛と蛇の話は、『延慶本』に出てくる説話です。
覚一本などでは、たづねる相手が違います。
馴染みの女房ではなく、妹である中宮徳子の御所を訪ねたことになっています。
蛇が出てきたのを、中宮や女房たちを驚かせぬために、直衣の袖に入れました(巻4「競」)。

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2005.04.07

悪しう候、浄妙坊

以仁王の陵墓のある京都府相楽郡山城町の高倉神社の南の田の中に、小さな円墳があります。
以仁王にしたがい宇治川の合戦で奮戦した筒井浄妙の墓だと伝えられています。

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筒井浄妙といえば橋合戦。

浄妙坊が甲の手先に手を置いて、「悪しう候、浄妙坊」とて、肩をずんと踊り越えてぞ戦ひける

敵が渡れないように橋桁をはずした宇治橋で、平家の大軍を前に、三井寺の悪僧たちのパフォーマンスが始まります。
先に奮戦していた浄妙坊の頭の上を、一来法師が手をかけてさっと飛び越えます。

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以仁王の墓

京都府相楽郡山城町の高倉神社には以仁王がまつられており、社前には以仁王の墓と伝えられる陵墓があります。下の左写真は陵墓を背後から撮ったものです。
以仁王は、宇治川合戦の後、奈良へ落ちていく途中、流矢に当たって亡くなりました。後世、村人によって神社境内に葬られたとされています。

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頼政の鵺退治

『平家物語』(巻4)によると、源三位頼政は2度鵺(ぬえ)退治を行っています。
一度は仁平年間(1151〜1154)、近衛天皇を夜な夜な悩ませた、頭は猿、胴体は狸、尾は蛇、足手は虎という妖怪を退治しました。
二度目は応保年(1161〜62)、二条天皇をおびえさせた怪鳥を退治しました。いずれの妖怪・怪鳥とも「東三条の森」から暗雲とともに御所へとやってきました。そして頼政によって射殺されます。

二条城の北側、二条児童公園には、鵺退治に関わる伝説地「鵺池跡」があります。
頼政が鵺を射た血のついた鏃を洗った池の跡だと伝承されています。公園に隣接して鵺大明神を祀る祠があり、鵺池の由来を記した「鵺池碑」が建っています。公園の池の中には、古い「鵺池碑」があります。
二条公園は2003年から整備工事が始まり、2005年4月にやっとリニューアルオープンしました。
下の2枚の写真は、新しくなった二条公園の鵺池と、公園から見た鵺大明神です。

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さらに詳しくは、平安京探偵団の「鵺の鳴く夜は」をご覧下さい。

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