義澄等相戦ふといへども、昨〈由比の戦い〉今両日の合戦に力疲れ矢尽く。半更に臨み城を捨て逃げ去るに、義明を相具せんと欲す。義明云く、われ源家累代の家人たり。幸いその貴種再興の秋に逢うなり。なんぞこれを喜ばざらんや。保つところすでに八旬有余なり。余算を計るに幾ばくならず。今老命を武衛(源頼朝)に投げうち、子孫の勲功に募らんと欲す。汝等急ぎ退去して、彼(頼朝)の存亡を尋ねたてまつるべし。われ独り城郭に残留し、多軍の勢を模し、重頼に見せしめんと云々。義澄以下、涕泣度を失ふとへども、命に任せてなまじひにもつて離散しをはんぬ。(治承4年8月26日条)
辰の刻(午前7時〜9時)、三浦介義明〈年八十九〉、河越太郎重頼・江戸太郎重長等がために討ち取らる。齢八旬余。扶持する人無きに依ってなり。(治承4年8月27日条)
※〈 〉は割り注、( )は管理人追記。
『吾妻鏡』では上のように三浦義明の最後の様子が書かれています。
城を捨てて逃げ去ろうとする時、義明は義澄以下に言います。
「私は源家の累代の家人である。幸いにその貴種再興の時にめぐりあった。どうしてこれを喜ばないでおれよう。しかしすでに八十有余歳となり、余命いくばくもない。今、この命を頼朝様に捧げ、子孫の勲功の賞にあてたいと思う。おまえたちは急いで退去し、頼朝様のもとに行きなさい。私は一人で城郭に残り、大勢の軍を装い、重頼に見せよう」
その日のうちに義澄以下は一族は、頼朝のいる安房へと退去していきました。
そして翌日の朝、三浦義明は、助ける人も無く、河越重頼・江戸重長らによって討ち取られます。
『吾妻鏡』だけを読むと、三浦一族の長老の美談に終わっていますが、読み本系の延慶本平家物語や源平盛衰記ではその最後の様子がかなり違っています。美談ではなく滑稽で哀れな話になっています。
義明は城に残って討死しようとしていたのですが、一族の者は義明を無理やり手輿に乗せて連れ出してしまいます。しかし、手輿を担ぐ雑色たちは敵が迫ると義明を捨てて逃げ出します。残された義明は敵の雑兵たちに身ぐるみを剥がれ赤裸にされ、城に残って死んだ方が恥をさらさなくてすんだものをと身の不運を嘆きます。そして、討たれるのであればせめて外孫の畠山重忠に討たれて手柄を立てさせてやりたいと願いますが、結局はそれもかなわず、江戸重長によって頸を取られてしまいます。
どちらがより真実に近いかはわかりません。しかし、いずれにしても、その後の頼朝の三浦氏への待遇を考えると、「子孫の勲功に募らんと欲す」という義明の目的が達せられて良かったです。
と安易に文章を結んだところ、師匠から破門を言い渡されました。
一連の史跡レポートを仕上げた後、ちゃんとしめくくりますので、破門を解いてください!
(2006.05.08 追記)
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