2006.05.12

伝佐原義連廟所

425

満願寺の境内、本堂の背後にある観音堂の横に、佐原義連の墓と伝えられる五輪塔があります。
三浦義明の末子・佐原義連は、弓馬にすぐれ、頼朝の信頼も厚く、重用されました。

三浦義明像に会いに行くことからはじまった三浦氏墓参ツァーでした。
小雨の中、途中いく度も道に迷いながらの道中でした。
見逃した史跡も多く、行く前にもっと予習しておけば良かったと反省しています。しかし、それは再び訪ねるための口実になりそうです。
次回は、三浦氏墓参ツァーを120パーセント楽しむための本を紹介します。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2006.05.09

伝三浦為継とその一党の廟所

423

横須賀市大矢部にある清雲寺には、伝三浦為継とその一党の廟所があります。
三浦氏三代、初代為通、二代為継、三代義継の墓と伝えられています。
清雲寺の廟所には、もともと中央の三浦為継墓と伝えられる五輪塔がありましたが、昭和14年に付近にある深谷の円通寺跡やぐら群から為通、義継の墓と伝える五輪塔が移転され、三代の墓として祀られました。
深谷の円通寺跡やぐら群は、19か所のやぐらからなり、その中で最も大きいやぐらに為通、義継の墓と伝えられる五輪塔がありました。それ以外のやぐらは三浦九十三騎墓と呼ばれていました。
三浦九十三騎墓は、三浦党の九十三人の墳墓と伝えられているほか、建保合戦の時に和田義盛に味方して討ち死にした九十三人の墓ともいわれています。
三浦九十三騎墓のやぐらの各五輪塔、文永8年の銘が入った板碑も、同じ時期に清雲寺廟所に移されました。

三浦三代の五輪塔
422

左は三浦九十三騎墓で、三代の五輪塔の左右に並んでいます。
右は文永8年の銘が入った板碑で、瓦塀の廟所の入り口にあります。
424

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.05.08

三浦大介義明

『考證 前賢故實』巻7の三浦義明に彩色。

421_1

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.05.07

三浦大介腹切松伝承地

418

横須賀市大矢部に「腹切松公園」があり、「三浦大介戦死之處」の石碑が建っています。
腹切松には、次のような伝説が残っています。
衣笠城から愛馬・黒雲にのって逃れた三浦義明は、先祖の墓所へと向かいます。しかし、老松の根元、黒白2つの石の前で、黒雲はぴたりと動かなくなりました。老松は傘松と呼ばれ、黒白の石とともにご神体・ご神石として崇敬されていたものでした。義明は自らの運命を悟り、この松の根元で腹を切り自害してはてたということです。それ以後、松を腹切松、黒白2つの石を駒止石を呼ばれるようになりました。

「三浦大介戦死之處」石碑の左にある石は、黒白駒止石の黒石です。黒白駒止石は、維新時に行方不明になっていたのを、大正年間に北村包直氏によって黒石が発見されました。白石は行方がわからないままです。

松は「三浦大介戦死之處」石碑が建てられた時、衣笠城趾から移植されたとのことでですが、今の松はその時の松なのでしょうか。。

419

【参考文献】
北村包直『三浦大介及三浦党』

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.05.06

伝三浦義明廟所

伝三浦義明廟所(満昌寺境内)
416

三浦矢部郷の内に、一堂を建立すべきの由思しめし立つ。故介義明が没後を訪はれんがためなり。今日仲業に仰せて、その地を巡検すと云々。 (建久5年9月29日条)

『吾妻鏡』の建久5年の記事に、源頼朝が三浦義明の追善のために堂を建立しようと思い立ち、中原仲業に検地させたことが見えます。その後、この堂が建立されたのかどうかは『吾妻鏡』ではわかりませんが、臨済宗義明山満昌寺(横須賀市大矢部)が、その堂であると伝えられています。
満昌寺本堂左手の御霊明神社には三浦義明が祀られており、等身大の三浦義明座像がご神体として安置されています。御霊明神社は『新編相模国風土記稿』によると、建暦2年(1212)和田義盛(義明の孫)が建立したと伝えられています。
神社の背後には瓦塀に囲まれた三浦義明廟所があり、中央の宝篋印塔が義明、右の五輪塔を義明の妻の各供養塔と考えられています。『新編相模国風土記稿』は、この石塔を「大介の首塚」としています。

御霊明神社
415

伝三浦義明廟所 近くから撮影
417

※事前に満昌寺さんへ予約すると三浦義明坐像をはじめ仏像・宝物を拝観することができます。廟所へのお参りは自由です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

三浦義明の最後

義澄等相戦ふといへども、昨〈由比の戦い〉今両日の合戦に力疲れ矢尽く。半更に臨み城を捨て逃げ去るに、義明を相具せんと欲す。義明云く、われ源家累代の家人たり。幸いその貴種再興の秋に逢うなり。なんぞこれを喜ばざらんや。保つところすでに八旬有余なり。余算を計るに幾ばくならず。今老命を武衛(源頼朝)に投げうち、子孫の勲功に募らんと欲す。汝等急ぎ退去して、彼(頼朝)の存亡を尋ねたてまつるべし。われ独り城郭に残留し、多軍の勢を模し、重頼に見せしめんと云々。義澄以下、涕泣度を失ふとへども、命に任せてなまじひにもつて離散しをはんぬ。(治承4年8月26日条)

辰の刻(午前7時〜9時)、三浦介義明〈年八十九〉、河越太郎重頼・江戸太郎重長等がために討ち取らる。齢八旬余。扶持する人無きに依ってなり。(治承4年8月27日条)
※〈 〉は割り注、( )は管理人追記。

『吾妻鏡』では上のように三浦義明の最後の様子が書かれています。
城を捨てて逃げ去ろうとする時、義明は義澄以下に言います。
「私は源家の累代の家人である。幸いにその貴種再興の時にめぐりあった。どうしてこれを喜ばないでおれよう。しかしすでに八十有余歳となり、余命いくばくもない。今、この命を頼朝様に捧げ、子孫の勲功の賞にあてたいと思う。おまえたちは急いで退去し、頼朝様のもとに行きなさい。私は一人で城郭に残り、大勢の軍を装い、重頼に見せよう」
その日のうちに義澄以下は一族は、頼朝のいる安房へと退去していきました。
そして翌日の朝、三浦義明は、助ける人も無く、河越重頼・江戸重長らによって討ち取られます。

『吾妻鏡』だけを読むと、三浦一族の長老の美談に終わっていますが、読み本系の延慶本平家物語や源平盛衰記ではその最後の様子がかなり違っています。美談ではなく滑稽で哀れな話になっています。
義明は城に残って討死しようとしていたのですが、一族の者は義明を無理やり手輿に乗せて連れ出してしまいます。しかし、手輿を担ぐ雑色たちは敵が迫ると義明を捨てて逃げ出します。残された義明は敵の雑兵たちに身ぐるみを剥がれ赤裸にされ、城に残って死んだ方が恥をさらさなくてすんだものをと身の不運を嘆きます。そして、討たれるのであればせめて外孫の畠山重忠に討たれて手柄を立てさせてやりたいと願いますが、結局はそれもかなわず、江戸重長によって頸を取られてしまいます。

どちらがより真実に近いかはわかりません。しかし、いずれにしても、その後の頼朝の三浦氏への待遇を考えると、「子孫の勲功に募らんと欲す」という義明の目的が達せられて良かったです。
と安易に文章を結んだところ、師匠から破門を言い渡されました。
一連の史跡レポートを仕上げた後、ちゃんとしめくくりますので、破門を解いてください!
(2006.05.08 追記)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.05.05

衣笠城2

衣笠城趾の写真です。雨だったので、コンパクトデジカメで撮影。

山頂の郭(曲輪)
409

山頂の郭(曲輪)の西方にある物見岩
410

物見岩の横にある「衣笠城趾」石碑
411

山頂の郭(曲輪)の北方にある御霊神社祠
412

大手口から山頂までの中腹にあった旗立岩
413

衣笠山から西方の大楠山へ抜ける道 切通しのような感じ
414

| | コメント (0) | トラックバック (0)

衣笠城1

畠山が一族、河越・稲毛・小山田・江戸・葛西、惣じて七党の兵共悉くおこりあひ、都合其の勢三千余騎、三浦衣笠の城に押し寄せて、一日夜責め候ひし程に、大介討たれ候ひぬ。子共は皆久里浜の浦より舟に乗つて、安房・上総へ渡りぬ

覚一本平家物語巻5「大庭早馬」では、相模国の大庭景親が福原の清盛の元へ頼朝挙兵の第一報を届けたことになっています。ここに載せられた景親の書状には、頼朝との戦いの様子が簡潔にまとめられています。
兼隆夜討からはじまり、石橋山の合戦、由井・小坪の合戦、衣笠の合戦、三浦一族の安房・上総への逃亡と続きます。
これが読み本系の諸本になると、もう少し詳しく合戦の様子が描かれます。

治承4年(1180)8月、三浦義明とその子義澄らは頼朝の挙兵に参加しようとしましたが、間に合いませんでした。義明らは石橋山の合戦で頼朝方が敗北したのを知り、いったん三浦へ引き上げようとしました。三浦軍はその途中、由井(由比)浜で平家方の畠山重忠軍と戦い勝利します(由井・小坪の合戦)。その後、三浦一族は本拠地である衣笠城に籠城するものの、勢いを盛りかえした畠山重忠・河越太郎重頼・江戸太郎重長らによって攻められ敗北します。89歳の三浦義明は、義澄をはじめ一族を久里浜から海を渡って安房へと逃がし、自身は城と運命を共にします。

わたしが今回訪ねたのは、衣笠城趾とその周辺の寺院です。
JR横須賀駅から三崎行き(もしくは長井行き)のバスに乗り15分ほどで、衣笠城趾前のバス停に着きます。
降りたバス停から大通りを横断し、細い道をしばらく進むと、衣笠城趾への矢印が見えます。
追手口(大手口)跡の石碑を過ぎ、アスファルトの急な坂道を上って行きます。
途中に、郭(曲輪)らしき平坦地がありますが、住宅が立ち並んでいます。三浦氏の居館跡はこの辺のようです。
さらに進むと、不動井戸という井戸につきあたります。ちょうど大善寺の門前です。
大善寺の周辺一体が衣笠城趾です。寺の階段を上り、本堂脇に遊歩道があります。
遊歩道を3分も歩かないうちに、山頂の郭(曲輪)へ到着です。
遊歩道が途中で二手に別れていますが、どちらへ進んでも同じ郭(曲輪)へと出ます。
右に進むと、郭(曲輪)を経て御霊神社の小さな祠へ、左に進むと、郭(曲輪)を経て物見岩へと続きます。
山頂の郭(曲輪)には、「三浦大介義明八百年記念碑」の石碑と、衣笠城趾説明版があります。
ちょうどその後方が、物見岩と呼ばれる大きな岩が半分露出した場所です。ここには平安時代の経塚があったらしく、経筒・合子・鏡・刀子などが発見されています。
物見岩の横には「衣笠城趾」の大きな石碑が建っています。物見岩から先は、急な傾斜地となっています。

衣笠城は、宝治合戦(1247年)で三浦氏が滅んだあと、戦国時代に後北条氏によって整備拡張されているので、三浦義明時代の衣笠城がどれだけ残っているのか私にはわかりません。しかし、山頂の城郭跡に立つことで読み本系の諸本に描かれた衣笠城の攻防戦の様子が活き活きと目の前に広がってきました。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

三浦氏墓参ツァー

神奈川県博の特別展「神々と出逢うー神奈川の神道美術」(〜5月7日まで)に出展されている満昌寺の三浦義明座像を見てきました。
写真ではよく見るのですが、実物を見るのは初めてです。
ほぼ等身大で、予想していたよりはるかに大きかったのに驚きました。
像の視線は前を向かずに、やや前屈みに下をむいており、武士というよりも修行者という印象を受けました。

三浦義明座像との対面を起点として、彼の最期の地を訪ねる旅に出ました。
何回かにわけて、三浦氏墓参ツァーをエントリーさせます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.03.18

頼朝真鶴崎より安房の国へ向かう

武衛自土肥眞名鶴崎乗船。赴安房国方給。
(武衛は土肥真名鶴崎より乗船し、安房の国の方に赴き給う。)
『吾妻鏡』治承4年8月28日条

治承4年(1180)8月、伊豆国に流刑となっていた源頼朝は、伊豆国目代平兼隆を討ち、挙兵を決行します。その後伊豆を出た頼朝は、相模国土肥郷に入り、三浦氏の軍勢との合流を図ります。しかし、三浦氏と合流する前に、石橋山(神奈川県小田原市)で、大庭景親、伊東祐親の平家方追討軍に挟撃され大敗してしまいます。敗走した源頼朝は、土肥郷真名鶴崎(神奈川県真鶴町)より乗船し、安房の国へと逃亡しました。北条時政・義時父子は、一足先に、土肥郷岩浦(神奈川県真鶴町 岩海岸)より乗船し、安房へ入り頼朝を迎えました。

388

先月の伊豆旅行では真鶴半島の最先端まで行ってきました。残念ながら安房の国、房総半島はかすかにしか見えませんでした。
北条時政・義時父子らが乗船した岩浦こと岩海岸には、「源頼朝船出の浜」の石碑が建っているそうですが、今回は訪ねることがかないませんでした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧