2005.09.18

柳浦御所

壇ノ浦合戦より少しさかのぼりますが、柳浦の御所跡を紹介します。
壇ノ浦を訪れた際にはぜひ立ち寄っていただきたいと思います。

都落ちした平家は、福原から西国へと落ちて行き、柳浦に滞在します。平重盛の三男清経は、ここで入水自殺を遂げます。
柳浦の場所については、豊前国企救郡(現在の北九州市門司区)、豊前国宇佐郡(現在の大分県宇佐市)の2説ありますが、先の豊前国企救郡と見る説が有力です。

下の写真は、北九州市門司区柳町にある安徳天皇御所旧趾の石碑です。御所神社の境内にあります。

安徳天皇御所旧趾の石碑。
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この神社周辺には、清経塔があった観音堂の跡地、平家の太刀を洗ったという伝承を持つ大刀洗の池(現在は井戸にあっているそうです)、風呂の井などの伝承地が残されています。

なぎさんのサイト花橘亭の中の次のページで詳しく紹介されています。
安徳天皇・柳の御所、風呂の井戸<福岡県北九州市>

北九州市門司区の観光情報・大里地区のページ
http://www.city.kitakyushu.jp/~moji/kankou/s_dairi.html

【参考文献】
砂川博「清経入水考」『平家物語の形成と琵琶法師』(おうふう 2001年)

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2005.07.17

平重衡

住みなれしふるき都の恋しさは神もむかしに思ひしるらん
(住みなれた古き都の恋しさは、祭神である菅原道真公もよくご存じでしょう)

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左肩にある和歌は、平家が都を落ちて太宰府に着き、菅原道真の墓所であった安楽寺(現在の太宰府神社)へ参詣した時に平重衡が詠んだ歌です。

※ぼんやり所有の平重衡を描いた粉本です。
一の谷で捕らえられ鎌倉へ送られ、狩野宗茂にあずけられていた時を描いたものです。


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2005.05.17

法住寺殿

後白河法皇の院御所。もともと藤原為光が建立した法住寺の跡であったことから法住寺殿と呼ばれました。
広義の法住寺殿は多数の御所と寺院の複合体です。七条大路末を東西の軸とし、その北側に七条殿の東西両殿(現・京都国立博物館敷地)、南側に蓮華王院と法住寺南殿(狭義の法住寺殿)。その南方に巨大な池(現・東山区今熊野池田町)と建春門院の建立した最勝光院(現・同区本池田町・下池田町付近)。また熊野と日吉の二社が勧請され、新熊野神社・新日吉社がありました。

法住寺殿は、『平家物語』にたびたび舞台として登場します。なかでも、寿永2年(1183)11月、後白河法皇に離反した木曽義仲は、法住寺殿を襲撃し、殿舎を焼き払ってしまいます(8巻法住寺合戦)。その後建久8年(1197)源頼朝によって再建されています。

蓮華王院(三十三間堂)に建つ法住寺殿跡の石碑
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【参考文献】
野口実・山田邦和「法住寺殿の城郭機能と域内の陵墓について」(京都女子大学宗教・文化研究所『研究紀要』16号 2003年)
野口実・山田邦和「六波羅の軍事的評価と法住寺殿を含めた空間復元」(京都女子大学宗教・文化研究所『研究紀要』17号 2004年)
『平安時代史事典』


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