2006.05.10

佐原義連

三浦の佐原十郎義連、進み出でて、「三浦の方で、我等は鳥一つたてても朝夕か様な所をこそ馳せありけ。三浦の方の馬場よ。」とて、真先懸けて落しければ、
(三浦の佐原十郎が進み出て、「わたしの故郷の三浦では、鳥一羽を追うのにも、これくらいのところは、朝夕馬で馳せ歩いています。三浦では馬場も同然。」と言い放ち、真っ先に落としたので、)

426

一の谷の坂落しでは、三浦義明の子・佐原義連が活躍します。
あまりの急な坂に躊躇している時、上のセリフを言い放ち、真っ先に駆け降ります。
三浦墓参りツァーの最後は、佐原義連の廟所のある満願寺に行きました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005.08.29

平忠度腕塚・胴塚

さざ波や志賀の都はあれにしを むかしながらの山ざくらかな(『千載集』)

平清盛の末弟平忠度は歌人としても知られ、『千載集』をはじめ勅撰集に入首しています。

一の谷合戦において、平忠度は西の城戸口・一の谷の大将軍でした。敗れて駒ヶ林めざして落ち行く途中、源氏方の岡部六弥太忠澄と戦い、忠澄の首を討ち取ろうとしたところを、忠澄の家臣に右腕を切り落とされてしまいます。忠度はついに静かに念仏して討たれました。その箙には、「行きくれて木の下かげを宿とせば花やこよひの主ならまし」という歌が書かれた紙片が結ばれていたことで、平忠度であることがわかりました。

平忠度の胴塚と腕塚が、神戸市長田区にあります。両塚の石塔は、阪神淡路大震災でバラバラに崩れるという被害にあいましたが、現在では修復されています。

平忠度胴塚(野田町8丁目)
胴塚は忠度の胴を埋めた所と伝えられています。
196

平忠度腕塚(駒ケ林町4丁目)
平忠度が岡部六弥太忠澄の郎党に斬り落とされた腕を埋めた場所と伝えられています。
腕塚堂という小堂が建ち、堂前には十三重塔が建っています。堂内には平忠度の位牌が祀られています。
後世、腕や腰の痛みがなおると人々から篤く信仰されました。

198

197

未見ですが、平忠度塚、腕塚は、明石市にもあるそうです。
平家物語の異本の伊藤家本、南都本に、平忠度は明石へ落ちのびたと書かれていることから、伝承地が生まれました。
平忠度塚は、江戸時代、明石藩主松平忠国が梁田蛻嵓に命じて碑文を作らせ、墓域を修復しています。
周辺には「腕塚神社」、平忠度と岡部六弥太忠澄が対峙したという「両馬川旧跡」、平経正の馬を埋めた伝説を持つ「源平合戦馬塚旧址」もあります。

【参考文献】
『兵庫県史』第2巻

| | コメント (4) | トラックバック (2)

2005.08.27

平重衡とらわれの遺跡

平重衡は一の谷合戦で生捕りにされます。
乳母子に裏切られて馬を失い、自害を覚悟したところを捕らえられました。

山陽電鉄須磨寺駅改札口北側に、「平重衡とらわれの遺跡」碑があります。
かつては大きな松があり、「重衡腰掛けの松」と呼ばれていました。

201

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005.08.25

平敦盛

『前賢故実』の平敦盛の図です。

312

上に書かれているのは、敦盛がその最期に持っていた巻物に書かれていた長歌。
そして手にしているのは漢竹の篳篥(ひちりき)。

敦盛といえば「青葉の笛」が連想されます。
しかし「青葉の笛」という名称は平家諸本に登場しません。

平家の諸本で敦盛の最期に持っていた物は、
・小枝(こえだ・さえだ)の笛<覚一本、百二十句本、八坂本>
・無名の笛<四部合戦状本、南都本>
・篳篥<延慶本、長門本>
・巻物<延慶本、長門本>
だそうです。

では「青葉の笛」は何だということになります。
謡曲「敦盛」の中で敦盛の亡霊が持つ笛に「青葉の笛」という名称が使われています。
また須磨寺の勧進に、敦盛像とともに「青葉の笛」が展観され、貴賤の人気を集めます。
謡曲の普及、須磨寺の信仰が、「青葉の笛」の名称を定着させました。

須磨寺の宝物館では「青葉の笛」が展示されています。
追記:厨子の中の右が青葉笛、左は高麗笛。
313

【参考文献】
佐谷真木人『平家物語から浄瑠璃へ 敦盛説話の変容』(慶応義塾大学出版界 2002年)
小池義人『滅びの美「敦盛」』(神戸新聞出版センター)
冨倉徳次郎『平家物語全注釈』下巻一

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005.08.23

敦盛塚

寿永3年(1184)一の谷合戦で、平経盛の子息平敦盛が、源氏方の熊谷次郎直実によって首を討たれました。『平家物語』では「敦盛最期」として広く知られる場面です。
敦盛説話は、室町時代から江戸時代にかけて、数多く作られた謡曲や幸若舞曲、古浄瑠璃などに盛んに取り上げられました。西国街道にある敦盛塚は、往来する人々にとって格好の名所となったに違いありません。

200

敦盛を供養するために建立されたという伝承を持つ巨大な五輪塔が、山陽電鉄須磨浦公園駅の西側、国道2号線沿いにあります。塔の高さ約3.5メートル。室町時代後期の建立と推定されています。
石塔の下の地輪部分は土に埋まっていましたが、源平合戦八百年祭記念の年(1985年)に発掘調査が行われ、現在ではその全体像を見ることができます。

この石塔の故実について川辺賢武氏は、次のように分類しています。
1、北条貞時が平家一門の冥福を祈るために建立したという説(「五畿内志」「摂津名所図絵」等)
2. 敦盛塚は「あつめ塚」の転訛とする説(「西摂大観」他)
3. 敦盛の霊が再来して建てたとする説(「摂陽郡談」「兵庫名所記」)
4. 誰のしわざとも知れず一夜のうちに建てられたという説(「須磨浦古跡記」)
5. 弥陀六という人物のよる造建という説(「一谷嫩軍記」)
それらの諸説を詳細に検討し、この塚が誰によって何のために建てられたかは不明ではあるが、敦盛のもでのでないとする決定的な根拠が見いだせない以上、旧説のとおり敦盛塚としておくのが正しいと結論づけられています。

『兵庫県の地名』には、敦盛塚は「須磨寺参詣曼陀羅(福祥寺蔵)に描かれ、文禄5年(1596)の大地震で浜まで流され、復元が福祥寺によってなされているので(当山歴代)、同寺が管理していたと考えられる」とあります。
※福祥寺とは通称須磨寺のこと。「当山暦代」は、福祥寺の古記録集。校倉書房から『摂津国八田部郡福祥寺古記録須磨寺「当山歴代」』として翻刻が出ています。

【参考文献】
川辺賢武「敦盛塔造顕年代考」(『神戸史談 川辺賢武特集』228 1971年、初出は『神戸史談 須磨特集』1941年)
小池義人『滅びの美「敦盛」』(神戸新聞社出版センター 1985年)
『兵庫県の地名』

神戸大学附属図書館のWEBサイトに、震災記録写真(大木本美通撮影)というコーナーがあります。
阪神淡路大震災時、震災直後から2002年1月まで、放送カメラマン大木本美通氏によって撮影された、三宮・元町周辺はじめ神戸市内の地域の記録です。源平史跡の石塔等の文化財がいかに被害にあったのかを知ることができる貴重なデーターです。
須磨区一の谷の敦盛塚 五輪塔

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005.08.19

一の谷合戦の風景

前後しましたが、一の谷合戦の風景を紹介していきます。

こちらは搦手義経軍が進攻したのは一の谷口。
平家軍は一の谷を西の城戸としました。現在の須磨浦公園一帯です。
鉢伏山へと登るロープーウェイから展望。
193

鵯越から平家軍の北の城戸口へと向かう山中。眼下に見えるのは夢野あたりです。
多田行綱軍が最初に山手を落したとされています。
たしかにここから平家軍に突入すると、勝てると思いました。
194

大手範頼軍が進攻したのは生田口。
平家軍は生田の森を東の城戸とし、生田川に逆茂木を並べて陣を張りました。
生田神社の境内生田の森です。
199

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005.08.11

那須与一つきポスト

229

高松の駅を降りてまず目に入ったのがこの郵便ポスト。
ポストの上には、今まさに鏑矢を番え、ひょうと射ようとする瞬間の那須与一像がのっていました。
しかし、この像は2004年の夏に撤去されてしまいました。像へのいたずらが相次いだためです。残念です。

菊池容斎『前賢故実』に描かれる那須宗隆(与一)
306

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2005.08.10

屋島古戦場展望

305

屋島の展望台から源平古戦場を臨みます。
写真を合成してつなげてみました。ブログのエントリー枠におさめるにはちょっと無理がありますね。
後日、大きい写真を見ることができるようにします。
次回の大河ドラマ義経では今井翼くんの那須与一が登場。
それまでは屋島の源平史跡を紹介していきます。

一の谷の源平史跡を紹介するタイミングをはずしてしまいました。
来週にでもエントリーさせます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005.07.10

一の谷合戦の虚実

『平家物語』に現れる源義経は、彼の生涯の中で最も華々しく活躍した2年間のみが描かれています。
上横手雅敬先生は、『平家物語』に現れる源義経像を、「強く明るくかげりのない戦士、戦う英雄」と表現されています。一の谷、屋島、壇ノ浦の合戦における義経はまさに戦うヒーローです。

195
「摂州一谷鵯越坂落の図」(『平家物語図絵』より)

今夜の大河ドラマ義経は、いよいよ一の谷合戦。
義経による鵯越の坂落しの奇襲によって勝敗が決します。
しかし『平家物語』に描かれる一の谷合戦は、物語が作り上げた仮想の空間であることが指摘されています。
また『玉葉』の寿永三年ニ月八日条から、最初に山の手を攻め落としたのは多田行綱であることがわかります。つまりは鵯越の坂落しを実行したのは源義経ではなく多田行綱であるというのが史実であるようです。

【参考文献】
鈴木彰「『平家物語』と〈一の谷合戦〉ー延慶本における合戦空間創出への指向をさぐりつつ」(『古典遺産』50号 2000年)
早川厚一「『平家物語』の成立ー一の谷合戦をめぐって」(『名古屋学院大学研究年報』17 2004年)
早川厚一「『平家物語』におかる西国合戦譚についてー一谷合戦を中心として」(山下宏明編『軍記物語の生成と表現』和泉書院 1995年)
菱沼一憲「一ノ谷の合戦」『源義経の合戦と戦略』(角川書店 2005年)

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2005.07.01

今井兼平の最期

『平家物語図絵』下巻9「今井四郎中原兼平自害の図」。

左ページ
189

右ページ
188

左ページの上の赤丸の中に義仲、右ページの赤丸の中に石田次郎為久が描かれています。

『平家物語図絵』とは江戸時代の後期に出版された読本です。前編6巻、後編6巻からなっています。戯作者高井蘭山の作で、浮世絵画家有阪蹄斎が画を描いています。
『平家物語』を通俗的にダイジェスト化して書かれたもので、浮世絵画家による挿画がおもしろいです。
上の画像は、昭和10年に富永興文堂から出た刊本の『平家物語図絵』からスキャンしました。

【参考文献】
『平家物語研究事典』

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧