お土産・腰越状
満福寺では腰越状の縮小版をわけていただけます。
200円くらいだったと思います。
お土産にいかがでしょうか。
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佐伯真一先生が、『幸若舞曲研究』5巻に所収の「腰越」という舞曲の補注の中で、腰越状について整理されているのを読み、一般に通説のように考えられている義経の腰越逗留ですが、考え直してもいいのではないかと思うようになりました。
平家物語の諸本によって、義経の下向の内容が少しづつ違います。
延慶本(読み本系)→「腰越状」が無い。義経はいったん鎌倉に入り、頼朝と対面。しかし言葉をかけてもらえずに「金洗沢」に追い返される。
源平盛衰記(読み本系)→「腰越状」が無い。延慶本と同様だが、「金洗沢」を記さず、義経の逗留場所は不明。
長門本(読み本系)→「腰越状」がある。「金洗沢」が「腰越」に書き換えられる。
屋代本・竹柏園本等(語り本系)→「腰越状」が無い。義経は鎌倉へ着いたが、頼朝との対面は無かった。
百二十句本(語り本系)→「腰越状」がある。百十一句では屋代本と同様だが、百十四句で再び時をさかのぼらせ「腰越」で留められ、「腰越状」を語る。
一方流諸本・八坂本・南都本等(語り本系)、義経記→「金洗沢」で留められ、「腰越」に追い返された。
次に『吾妻鏡』を見てみます。こちらも矛盾があることを指摘されています。
まず記事を記します。
文治元年五月十五日条では、酒匂駅に到着した義経一行が、明日鎌倉へ入るという使者を送ったところ、北条時政を使いとして酒匂宿で平宗盛父子を迎え取らせ、義経は鎌倉へ入るな、酒匂宿の辺りに逗留せよとの命令がくだります。
文治元年五月二十四日条では、鎌倉に入れず腰越駅で日を送り、そこから腰越状を差し出したとされ、腰越状の全文が記載されています。
文治元年六月六日条には、義経は、酒匂宿あたりに逗留し、宗盛父子をともなって都へ帰ったとしています。
頼朝は酒匂駅で宗盛父子を受け取った後、義経の鎌倉入りを許さなかったので、義経は腰越駅に滞在し腰越状を書きました。
酒匂(さかわ)、金洗沢、腰越の位置を記しておきます。
酒匂は、酒匂川河口付近の東岸、現在の神奈川県小田原市、中世東海道の宿。
腰越は、七里ガ浜の西端、現在の鎌倉市腰越。
金洗沢は、腰越の少し東、行合川の西方。
鎌倉を前にして鎌倉入りを許されなかった義経、その深い嘆きを切々と綴った腰越状。
しかし平家物語の諸本を見ていくと、義経と頼朝は鎌倉で対面したのではないか、腰越状は本当にあったのかどうかという疑問が強くわいてきました。
また、『吾妻鏡』には「腰越状」が入ってはいますが、酒匂宿の辺りに逗留せよとの命令が出ているにも関わらず、なぜ腰越駅で滞在し腰越状を送ったのでしょう。五月二十四日条は、『吾妻鏡』編纂時において義経伝説から取り入れられたものではないかという疑問がでてきます。
【参考文献】
佐伯真一注釈「腰越」(『幸若舞曲研究』5巻 三弥井書店)
平田俊春『平家物語の批判的研究』下(国書刊行会)
『平家物語研究事典』
平凡社地名事典
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腰越の浜
義経は何を思い腰越の海を見つめたのでしょうか。
満福寺の腰越状
満福寺は腰越の駅舎跡に建つ寺で、弁慶が書いたという義経の款状(かんじょう、嘆願書)の草案が伝えられています。世に言う腰越状です。
満福寺境内の弁慶の手玉石(右端)と弁慶の腰掛け石(左端)
義経は鎌倉へ入れなかったのか、腰越に足留めされたのか。
明日にでも続きをエントリーし、佐伯真一先生のご研究を紹介します。
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平家の一杯水
壇ノ浦合戦で負傷した平家方の武将が、陸に上がって最後の水を飲んだという伝説を持つ平家の一杯水。
平家の一杯水から西を見る。
平家の一杯水から東を見る。
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今ぞ知る みもすそ川の御ながれ 波の下にもみやこありとは
(今こそわかります。伊勢の五十鈴川の流れをくむ帝にとって、流れそそぐ波の下のにも都があるのだと。)
壇ノ浦古戦場
「安徳帝入水之処」歌碑
歌碑には、二位尼が安徳天皇を抱いて入水する時に残したという歌(『延慶本』等の読み本系諸本)が刻まれています。
「御裳川碑」
この石碑の側面に、御裳川について刻まれていたのを記したメモをなくしました。
ご存じの方、お教え下さいませ。
現在、みもすそ川公園には、源義経の八艘飛びと平知盛の碇を担いだ像が建立されているそうです。わたしはまだ見ていないので、ぜひとも見てみたいものです。
う〜ん。待ちきれないので、なぎさんのサイト「花橘亭」さんに見に行きましょう♪
源義経・平知盛の像
【参考文献】
麻原美子編『長門本平家物語の総合研究』第ニ校注篇下巻
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現在、安徳天皇を祭神とする赤間神宮(山口県下関市阿弥陀寺町)は、壇ノ浦合戦で敗れ入水した安徳天皇の霊を弔うために、後鳥羽天皇が御影堂を建立したのが始まりです。建久2年(1191)勅願寺となり、聖衆山阿弥陀寺と称しました。明治8年(1875)阿弥陀寺が廃され、本堂の跡に安徳天皇を祭神とする赤間宮(現在の赤間神宮)が建立されました。
現在の安徳天皇の阿弥陀寺陵は、明治22年に治定され、旧御影堂(天皇殿)の跡に陵が築かれたものです。
陵とはいえ、遺体を埋葬した陵ではなく、供養のための施設といえます。
陵の背後には、平家塚とか七盛塚と呼ばれる平家一門の供養塔が並んでいます。慶長年間(1600年頃)に、平家一門の供養と顕彰を目的として建立されたものと考えられています。
阿弥陀寺陵の現況は、小円墳を八角形に石で囲いが施されています。
もちろん中には入れませんが、七盛塚からその形を確認することができます。
赤間神宮の公式サイト
http://www.tiki.ne.jp/~akama-jingu/
【参考文献】
上野竹次郎『山陵』下
郷土の文化財を守る会『赤間神宮 下関源平史跡と文化財』
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赤間神宮へ平家一門のお墓参り
写真の左に見える階段は、安徳天皇の陵墓への階段です。
墓所の入り口には「耳なし芳一」のお話で有名な芳一堂
1957年に市内の有志により建立されたものだそうです。
芳一堂には、芳一の木像が
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屋島の合戦では、海側からの攻撃に備えていた平家方ですが、背後の陸からの義経の奇襲に虚をつかれ、あわてて屋島の御所を捨て海へと逃げてしまいます。源氏の軍勢が少数と見て引き返しますが、後の祭り。あっという間に勝負がつきました。
しかしこの合戦で義経は腹心の佐藤継信を失います。能登守教経の強弓から義経の身を守ろうとして壮絶な最期を遂げます。
佐藤継信の墓が、屋島東町と牟礼町に2か所あります。
いずれにも初代高松藩主・松平頼重による墓石が建てられています。
屋島東町の墓は、屋島寺への旧遍路道沿いにあたります。佐藤継信が義経の身代わりとして忠死したことを武士道の鑑であると賞賛して、多くの人に知らしめるために建てれてたものです。
牟礼町の王墓のそばにある墓は、継信が埋葬された場所と伝えられています。昭和のはじめに佐藤継信の子孫によって整備されました。
同所には、義経が佐藤継信の菩提を弔うことを命じた僧へ賜ったという義経の愛馬大夫黒の墓もあります。
屋島東町の佐藤継信の墓
牟礼町の佐藤継信の墓
大夫黒の墓
牟礼町の佐藤継信の墓に隣接しています。
【参考文献】
読売新聞社高松支局編『源平の舞台はいま』
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