六代御前の墓その2
それよりしてこそ平家の子孫は永く絶えにけれ
平維盛の長男六代は、平家滅亡後、大覚寺の北、菖蒲谷に隠れ住んでいた所を捕らえられ鎌倉へと護送されます。その途中、駿河国千本松原で処刑される寸前、高雄神護寺の僧文覚の助命嘆願により助かります。その後、六代は、文覚のもとで出家し妙覚と改め、諸国を修行して歩きます。しかし、師の文覚が謀反の嫌疑で捕らえられたことから、再び捕らえられ、相模国田越川のほとりで処刑されました。
六代(六代丸、六代御前)(『禰寝氏家譜』『高野春秋編年輯録』では本名を平高清とする)の処刑された年月日、処刑された場所等、同時代史料から確認することができず、平家物語諸本においても異なります。
六代の処刑された時期
1、建久9年(1198)2月5日→『北条九代記』『鎌倉年代記』『保暦間記』
2、建久10年正月(1199)以降→平家物語
2、建仁3年(1203)11月27日→『禰寝氏家譜』
六代の処刑場所
1、相模国田越川(神奈川県逗子市)→覚一本等、『北条九代記』『鎌倉年代記』『禰寝氏家譜』
2、駿河国千本松原(静岡県沼津市)→長門本・延慶本等
3、鎌倉六浦坂(神奈川県横浜市金沢区)→屋代本・南都本等
4、芝(場所不明)→『保暦間記』
家の書庫の平家物語の諸本を読み比べていて、その1冊の解説の中に、おもしろい記事を見つけました。それをふまえて六代御前の考察編は後日に続けます。
【参考文献】
『平家物語研究辞典』の「六代御前」の項
角田文衞『平家後抄』
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
最近のコメント