2006.06.27

六代御前の墓その2

それよりしてこそ平家の子孫は永く絶えにけれ

平維盛の長男六代は、平家滅亡後、大覚寺の北、菖蒲谷に隠れ住んでいた所を捕らえられ鎌倉へと護送されます。その途中、駿河国千本松原で処刑される寸前、高雄神護寺の僧文覚の助命嘆願により助かります。その後、六代は、文覚のもとで出家し妙覚と改め、諸国を修行して歩きます。しかし、師の文覚が謀反の嫌疑で捕らえられたことから、再び捕らえられ、相模国田越川のほとりで処刑されました。

六代(六代丸、六代御前)(『禰寝氏家譜』『高野春秋編年輯録』では本名を平高清とする)の処刑された年月日、処刑された場所等、同時代史料から確認することができず、平家物語諸本においても異なります。

六代の処刑された時期
1、建久9年(1198)2月5日→『北条九代記』『鎌倉年代記』『保暦間記』
2、建久10年正月(1199)以降→平家物語
2、建仁3年(1203)11月27日→『禰寝氏家譜』

六代の処刑場所
1、相模国田越川(神奈川県逗子市)→覚一本等、『北条九代記』『鎌倉年代記』『禰寝氏家譜』
2、駿河国千本松原(静岡県沼津市)→長門本・延慶本等
3、鎌倉六浦坂(神奈川県横浜市金沢区)→屋代本・南都本等
4、芝(場所不明)→『保暦間記』

家の書庫の平家物語の諸本を読み比べていて、その1冊の解説の中に、おもしろい記事を見つけました。それをふまえて六代御前の考察編は後日に続けます。

【参考文献】
『平家物語研究辞典』の「六代御前」の項
角田文衞『平家後抄』

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2006.06.04

六代御前の墓その1

先月、関東に行く用事があったので、神奈川県逗子市にある六代御前の墓にお参りしてきました。
まずは旅レポートから。

JR逗子駅を下車して徒歩で向かいます。
駅のそばには、逗子市役所があるので、寄り道して無料の観光マップをいただきましょう。
市役所を出て京浜急行の線路を越えたら、すぐ右手に三浦胤義遺孤碑が見えてきます。
三浦胤義遺狐碑は、承久の乱で上皇方についた三浦胤義の幼い子どもたちが、田越川河畔で処刑されたことを哀れみ、大正12年、地元の有志によって建てられた石碑です。しかし、史実では三浦胤義の子どもたちは、宝治合戦の時まで生きており、幼い子らが処刑される話は、『承久記』の創作のようです。

田越川に沿って歩いていきます。田越河原は中世には処刑場であり、鎌倉の四境祭や七瀬祓の地でもありました。
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バス停「六代御前まえ」に着くと、「六代御前最後之故址」の大きな石碑が見えてきます。この石碑は、昭和に建てられたもので、中村岳陵の書です。
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六代御前の墓、全景。小高い塚になっています。中段には、六代御前墓建立の由来を示す碑や、庚申塔が建っています。
手前には不動明王をまつる護摩堂があり、中をのぞくと六代御前と大きく書かれた提灯がつるされていました。大正年間、六代御前は疫病除けの守り神として信仰されていたようです。
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六代御前の墓。大きなケヤキの根元に六代御前と書かれた石標(写真画面右に拡大)があります。左側の石碑は、もともと六代御前の首塚と伝えられる場所に祀られていた石碑で、大正11年、道路拡張により現在地に移されたものだそうです。
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帰りはバスで逗子駅まで戻り、駅前の路地裏の小さな食堂で、カツオの刺身定食を食べました。
わたしは時間が許す限り、地元の図書館に立ち寄ることにしています。郷土資料の品揃えは、地元の図書館にまさるものはありません。今回も、腹ごしらえをすませると、図書館へ向かい、訪ねた史跡に関する資料を探し、必要なものはコピー。
その後は、逗子と鎌倉の距離感をつかみたかったので、小坪経由のバスを使って鎌倉へと向かいました。鎌倉では国宝館に立ち寄っただけで、今回のプチ旅行はおしまい。

六代御前につていの概説は後日その2で展開させます。

【参考文献】
『改訂逗子町誌』(1974年)
三浦澄子「六代御前塚墓の伝承聞書」(『厨子の郷土史 手帳』170号)
上杉孝良「『承久記』私考〜「三浦胤義の子供、處刑の事」について」(『三浦一族研究』3号)

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2005.11.08

大物浦その2

大物浦の位置を地図で確認しておきましょう。

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【参考文献】
図面は山田邦和作成提供

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2005.11.06

大物浦

大物の浦より舟に乗って下られけるが、折節西の風烈しく吹き、住吉の浦に打ち上げられて、吉野の奥にぞ籠りける。(中略)忽ちに西の風吹きける事も平家の怨霊の故とぞ覚えける。

頼朝と対立した義経は、大物浦(だいもつうら)から西国を目指して船出します。しかし、激しい風にあい船は難破し、平家の怨霊の仕業と平家物語では語ります。
謡曲『船弁慶』では、平知盛の亡霊が現れて弁慶に祈り伏せられます。

大物浦は、現在の尼崎市の南東部にあたります。
大物主神社は、社伝によると平清盛が厳島神社参詣の際に当地を訪れ、同社を勧請したとされています。境内には義経・弁慶隠家の碑があります。
神社の周辺にも、義経伝説がいくつか残っています。
大物主神社のそばを流れる大物川は、現在では埋め立てられて緑地公園をなっています。大物川にかかっていた大物橋のそばには義経の旅宿があったと伝え、また謡曲『船弁慶』では義経と静は大物で別れる筋になっているのにちなみ「伝静なごりの橋」の石碑もありました。石碑は現在では辰巳八幡神社の境内に移されて保存されています。
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【参考文献】
「大物の義経旧跡と周辺の史跡・文化財マップ」尼崎市教育委員会歴博・文化財担当

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2005.10.31

土佐房昌俊をまつる社

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京都の四条通に面する繁華街のど真ん中、「冠者殿社」と呼ばれる小さな社がまつられています。
祇園祭で有名な八坂神社の境外末社にあたります。祭神は素戔嗚尊。
「誓文払い(せいもんばらい)」の神様として知られています。誓文払いの神事は、10月20日、商人や芸妓が商売上の虚言の罪を払うため、冠者殿社に参拝する風習です。

この冠者殿社、一説には土佐房昌俊を祀るともいわれています。
土佐房昌俊は、義経の前で暗殺の意志は無いと起請文(誓文)を書きながら、その日のうちに反古にして義経を襲撃します。そのことが「誓文払い」と結びついたのでしょう。
しかし、土佐房昌俊祭神説は、すでに江戸時代の地誌類でも俗説と書かれています。

【参考文献】
京都大事典

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2005.10.30

堀川夜討ち

今日の大河ドラマ義経は堀川夜討ち!

頼朝から義経暗殺の密命を受けた刺客土佐房昌俊が、都へ上ります。都に着いた土佐房は、すぐに義経の元に召し出され、義経から自分を討ちに来たのであろうと詰問されます。土佐房は、七枚もの起請文を書いて熊野詣だとしらを切り、その場は釈放されますが、その夜、大番役の武士たちとともに、義経の堀川六条館に夜討ちをかけました。義経の愛妾静の機転により襲撃はすぐに察知され、夜討ちは失敗に終わりました。土佐房は、鞍馬山へ逃げますが、鞍馬の法師たちに絡めとられ、翌日、義経の元に送られ、六条河原で処刑されました。

しかし、この展開、ずっと疑問でした。
頼朝が刺客を送ったりするでしょうか。しかもあまりにもおそまつな事件経過に、堀川夜討ちって本当にあったのかさえ疑いたくなります。
そう思っていたら、雑誌「日本歴史」(2005年5月号 日本歴史学会編集 吉川弘文館)に、菱沼一憲氏の「源義経の挙兵と土佐房襲撃事件」という論文が載りました。
なるほど〜と、おもしろく読みました。
そこには通説とは異なる論が展開されています。
頼朝の刺客土佐房が京都へ派遣され暗殺計画が実行されたことにより、義経が決起したのではなく、先に義経の決起があって、それを受けた在京の頼朝方(土佐房・児玉党ら)による先制攻撃が堀川夜討ちだと考えられているのです。

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2005.09.18

源氏堀川館

平安京内での源氏の本拠地はどこかといえば、若宮八幡宮の周辺です。

下の写真は、若宮八幡宮です。源頼義によって天喜元年(1053)に創建されました。この地に、源頼義の子・義家親子の邸宅がありました。
周辺には源氏累代の館である六条堀川館がありました。保元の乱の時には源為義が、平治の乱の時には源義朝の邸宅でした。京都に入った源義経もまた、この邸宅を宿所としています。

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詳しくは平安京探偵団の「源氏館はいずこ?」をご覧下さい。

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