平重盛
『考證 前賢故實』巻7より平重盛
手につかんでいるのは蛇です。
愛情いっぱい込めて、着色ました。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
『前賢故実』に描かれる熊谷直実です。
直実こと蓮生は、馬に逆さにのっている姿が描かれています。これは「逆馬(さかさうま)」の故事によります。
蓮生は「行住座臥、西方に背を向けず」という『往生礼賛』に出てくる一節を深く信じていました。京都から鎌倉へ下向するときも、西に背を向けないように、馬の鞍を逆さまに置かせて乗ったといいます(『四十八巻伝』第27巻)
【参考文献】
梶村昇『熊谷直実 法然上人をめぐる関東武者1』(東方出版 1991年)
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
佐藤継信・忠信兄弟(『前賢故実』巻8)
佐藤継信忠信は、平泉から義経に従っている腹心です。
佐藤兄弟は、奥州の有力武士団の子弟です。ステータスも高い自立した存在です。
それがなぜ義経につき従ったのでしょうか。
京都女子大学宗教文化研究所の野口実先生は、義経が陸奥で結婚した女性(この女性との間にできた娘は、源頼政の孫の有綱に嫁している)は、佐藤兄弟の姉妹に当たる人物ではないかという説をしめしておられます。
【参考文献】
野口実「義経を支えた人たち」(上横手雅敬編著『源義経流浪の勇者』文英堂)
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
源頼朝と北条政子の長女として生まれた大姫。
大姫は、人質として鎌倉に迎えられた木曽義仲の嫡子義高と婚約します。
しかし、頼朝の命によって義仲が討たれた後、義高も殺されてしまいます。
大姫6歳、義高11歳の幼い恋が終わりました。
義高の死のショックで床につく大姫を描いた粉本です(管理人のコレクション)。
| 固定リンク
| コメント (10)
| トラックバック (0)
この比一条堀川のおんじやう寺法師に、鬼一法眼とて、文武二道の達者あり。天下の御祈祷してありけるが、これ(『六韜』)を給はりて秘蔵してぞ持ちたりける。
鬼一法眼
「きいちほうげん」(古くは「おにいちほうげん」)。『義経記』巻2に登場する一条堀川に住む陰陽師法師(古本には園城寺法師)。文武両道にすぐれ、兵法書『六韜』を秘蔵していた。
『義経記』によると、17歳の義経は、兵法書『六韜』の噂を聞き、一条堀川の鬼一法眼の館へと出かけた。義経は、鬼一法眼に面会して『六韜』を見せて欲しいと頼んだが断られてしまう。義経はあきらめず法眼の館にひそんで、法眼の娘と懇ろになり、娘の手引きによって密かに読破して暗記してしまう。『六韜』を暗記してしまった後は公然と婿のようにふるまう。怒った法眼は、妹婿で白川の印地の大将である湛海に命じ、義経を五条天神で待ち伏せして殺させようとした。しかし逆に湛海はその仲間とともに義経に斬り殺されてしまう。義経はその首を法眼の館に持ち帰り、法眼に投げつけて驚かし、館を去っていった。娘は義経を慕って焦がれ死にしてしまう。
【参考引用文献】
梶原正昭校注・訳『義経記』日本古典文学全集(小学館)
| 固定リンク
| コメント (3)
| トラックバック (1)
NHK大河ドラマ「義経」で鬼一法眼を美輪明宏さんが演じています。
その謎めいた魅力に、ぼんやりはメロメロです。
『義経記』に登場する鬼一法眼。
通説にいうように創作された人物なのか、その存在って何なのか。
鬼一法眼の伝説地に立って考えてみることにしました。
考察は後日に別エントリーとして、まずは史跡写真をご覧下さい。
堀川一条(京都市上京区)
写真は、安部晴明が式神を隠していたことでも有名な一条戻り橋。
『義経記』では、堀川一条の西に鬼一法眼の屋敷があったとしています。
鬼一法眼之古跡(京都市北区)
叡電の貴船口駅のそばクスの大木の下に、鬼一法眼之古跡という石碑が建っています。
ここは、鬼一法眼の屋敷跡とも墓とも伝えられています。
鬼一法眼社(京都市北区)
鞍馬寺の山門を入ってすぐに魔王の瀧と並んで、鬼一法眼社があります。
| 固定リンク
| コメント (4)
| トラックバック (1)
源義経(1159〜1189)
平安末期から鎌倉初期にかけての武将。義朝の子。母は九条院(近衛天皇中宮藤原呈子)の雑仕女常盤。幼名は牛若。義朝が平治の乱に敗れた後、母や兄(今若〈後の全成〉・乙若〈後の義円〉)とともに捕えられるが、助命され鞍馬寺に入る。鞍馬寺を出て奥州の藤原秀衡を頼り、治承4年(1180)兄頼朝の挙兵に参じ、頼朝の代官として平家追討軍を率い、平氏を一の谷・屋島・壇ノ浦に破る。その後、頼朝の許可を得ずして朝廷より検非違使・左衛門少尉に任じられたことから頼朝の怒りを買う。叔父源行家とともに頼朝に反したが、失敗。陸奥に潜行し、再び秀衡を頼って平泉に入る。しかし、秀衡が死去した後にその子泰衡に襲われ、衣川で自刃。
史実の中で義経を知ることができるのは、鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』、右大臣藤原兼実の日記『玉葉』などの貴族の日記に登場する9年間のみ。黄瀬川で兄頼朝と対面するまでの義経の前半生は、『吾妻鏡』の治承4年10月21日条には次のように書かれています。
今日、弱冠一人、御旅館の砌に佇み(中略)この主は、去ぬる平治二年正月、襁褓の内において父の喪に逢ふの後、継父一條大蔵卿〈長成〉の扶持によって、出家のために鞍馬に登す。成人の時に至りて、しきりに会稽の思ひを催し、手づから首服を加へ、秀衡の猛勢を恃みて奥州に下向し、多年を歴るなり。しかるに今武衛宿望を遂げらるるの由を伝へ聞きて、進発せんと欲するのところ、秀衡強ちに抑留するの間、密々にかの館を遁れ出でて首途す。秀衡悋惜の術を失ひ、追って継信・忠信兄弟の勇士を付け奉ると云々。
(『全釋 吾妻鏡』第1巻)
上の記事の中、わたしたちがよく知っている弁慶との五条橋での出会いとか、金売り吉次に連れられての奥州下りをしたとかのエピソードのかけらも見当たりません。それらの話は後の時代につけ加えられていった創作・伝説で、真実の義経像が見えないほどに、創作と伝説がどんどんと一人歩きしてしまいました。「判官びいき」という言葉があるように、いつの時代も日本人にとって源義経は、悲劇のヒーローであり続ける必要があったからでしょうか。
【参考文献】
『平安時代史事典』『角川 日本史辞典』
『全釋 吾妻鏡』第1巻(新人物往来社 1976)
渡辺保『源義経』(吉川弘文館 1966)
| 固定リンク
| コメント (2)
| トラックバック (1)
平清盛(1118〜1181)
平安末期の武家の棟梁。忠盛の子。白河法皇の落胤とも伝える。通称平大相国(へいだいしょうこく)。法名は浄海(じょうかい)。保元・平治の乱の後対立勢力をおさえ、仁安元年(1166)内大臣、翌年には太政大臣となったが、ほどなく辞任、病を得て出家する。承安2年(1175)娘徳子を高倉天皇の中宮として入内させ、平氏一門あわせて500余ヶ所におよぶ荘園、30余ヶ国といわれる知行国を持ち、一族を朝廷の高位高官につけた。治承3年(1179)クーデターをおこし後白河法皇を幽閉し高倉上皇の院政を実現して、平氏政権を樹立した。治承4年(1180)安徳天皇、高倉上皇を伴い福原に移った。これが世に言う福原遷都である。しかし半年で挫折する。また大輪田泊を修築し、瀬戸内海航路の整備にもつとめ日宋貿易を推進した。平氏一門への権力集中に、朝廷でも地方でも反感がつのり、治承4年の内乱など各地に反平氏勢力が挙兵するさなか、熱病により薨去。
『平家物語』の中心人物。清盛なしでは語れません。
『平家物語』では、悪逆非道に描かれていますが、元木泰雄『平清盛の闘い』(角川書店 2001)を読むと、清盛こそ新しい時代を切り拓こうとしたパイオニアであったことがわかります。
平清盛については五味文彦『人物叢書 平清盛』(吉川弘文館 1999)もあります。手元にはあるのですが、まだ読み終えていないので内容はわかりません。
【参考文献】
『平安時代史事典』『角川 日本史辞典』
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
最近のコメント