2006.02.05

保元の乱史跡

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中京区姉小路通釜座東入ル北側に高松神明社があります。醍醐天皇の皇子・源高明(914〜982)の邸宅でした。平安時代後期には後白河天皇の内裏となります。
保元の乱(1156)では、後白河天皇の本拠地となります。
源義朝、平清盛の軍勢は、この御所に参集して白河へと攻め込みます。
平治の乱(1159)で、御所は全焼しますが、高松殿の鎮守・高松明神は、高松神明社として名残を伝えています。

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白河法皇が造営した御所・白河北殿跡の石碑が、京都大学熊野寮内にあります。保元の乱では、崇徳上皇側の本拠地となりました。この乱で焼失しました。

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2006.02.04

保元の乱年表

保元の乱にいたる経過をまとめました。

【保元の乱】
応徳3年(1086)11月 白河上皇、院政開始。
嘉承元年(1107)7月 鳥羽天皇即位。
永久5年(1117)12月 藤原璋子〈後の待賢門院〉入内。
元永2年(1119)5月 顕仁親王〈後の崇徳天皇〉誕生。
保安4年(1123)1月 崇徳天皇即位。
大治4年(1129)7月 白河法皇崩御、鳥羽上皇の院政開始。
永治元年(1141)12月 崇徳天皇退位、近衛天皇即位。
久安6年(1150)8月 藤原忠実、嫡男の関白忠通を勘当。9月 頼長を氏長者とする。
仁安元年(1151)1月 藤原頼長、内覧就任
久寿2年(1155)7月 近衛天皇崩御、後白河天皇即位。
保元元年(1156)
7月2日 鳥羽法皇崩御。
7月5日 検非違使に都を固めさせる。
7月6日 安芸判官平基盛(清盛の次男)、頼長方の大和源氏源親治を討つ。
7月8日 左大臣頼長の流罪決定。
     天皇側の源義朝、左大臣頼長の東三条殿を接収。
7月9日 夜、崇徳上皇、秘かに鳥羽殿の田中殿を出る。
     上皇、白河の前斎院〈統子内親王〉御所に入る。
     斎院御所手狭のため、上皇、白河北殿に移る。
7月10日 頼長、白河北殿に入る。崇徳上皇、白河北殿に兵を集める。
      天皇側は高松殿に集結。
7月11日 未明、後白河天皇軍、崇徳上皇側の白河北殿を急襲
      天皇、東三条殿に行幸。上皇・頼長、敗北し逃走。
      天皇、高松殿に還御。
7月13日 上皇、仁和寺に入り、身柄拘束さる。
      重傷の頼長、大堰川より木津へ向かう。忠実、頼長に面会を拒否。
7月14日 頼長、薨去。
7月16日 源為義、逮捕。
7月23日 崇徳上皇の讃岐配流が決定。
7月28・30日 上皇側の武士、処刑。

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2006.02.03

保元の乱地図

思い立って保元の乱を読むための地図を作りました。
クリックすると大きくなります。

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※久々にイラストレターを使ったので、操作をすっかり忘れていました。
作業時間2時間。
手伝ってくれてありがとう>ダンナさま

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2005.06.22

源為義の墓

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源為義は保元の乱で崇徳上皇方につき敗れて首をはねらました。
その墓と伝えられる石塔が、権現寺(下京区朱雀裏畑町)の参道脇にまつられています。
『保元物語』では、後白河天皇方についた長男の源義朝に七条朱雀(現在の千本七条付近)で首を切られ、首実検の後、北白河の円覚寺(今はありません)に葬られたとしています。

源為義の墓についてさらに詳しくは平安京探偵団の源為義の墓をご覧ください。
http://homepage1.nifty.com/heiankyo/heike/heike21.html

先日近くを通りかかったら、アジサイがあまりにもきれいだったので、エントリーしました。
入り口の柵には、「下京まちなみ散歩」という京都市下京区役所が発行しているマップが置かれていました。
ちょうど「源為義公塚」は、下京区歩くモデルコース「源氏ゆかりの地」のコースに入っています。


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