2005.05.28

源朝長の墓

頭殿、「こらへつべくは供せよかし」と、世にあはれげにて仰せられしかば、大夫進殿、泪をながさせ給て、「かなふべくは、いかでか御手にかからんと申すべき」とて、御頸をのべさせ給たりしを、頭殿、やがて打ちまいらせて、きぬ引かづけまいらせて、「大夫進が足をやみ候。不便にし給へ」とて、出させ給ひぬ。
(『平治物語』中巻)

頭殿:源義朝  大夫進:源朝長

(十二月)二十九日。義朝二男朝長於美濃国青墓宿自害。生年十六。
(『帝王編年記』巻21)

平治の乱で敗れた源義朝は、東国目指し落ちのびる途中、美濃国青墓(現岐阜県大垣市青墓町)の大炊長者を頼って立ち寄ります。しかし、近郷の者たちが落人狩りにが押し寄せてきました。負傷していた次男朝長は、「耐えられるのなら供をせよ」という父義朝の言葉に、涙ながらに死を願い出ます。16歳の短い生涯でした。

岐阜県大垣市青墓町の山中の円興寺跡に、源朝長の供養塔があります。説明板によると、中央の3基の五輪塔の左から朝長、義朝、義平の墓。左側の3基の五輪塔が平野八十郎、平野藤十郎、僕八助の墓(以上3名朝長と同時に切腹)と伝えられています。
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墓入口のには「刀石」と呼ばれる石があります。朝長の墓に参る際の礼儀として、帯刀を一時預けた場所と伝えられています。
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2005.05.10

古典講読シリーズ平治物語

148岩波ブックシリーズの日下力『古典講読シリーズ・平治物語』岩波セミナーブックス107(岩波書店 1992年)。
1991年に開催された岩波市民セミナー「軍記物語の世界ー平治物語講読」と題する講義のをもとに書き下ろされたものです。講義形式に話が進められるので、とても読み易く、この本を読んで以来、平治物語がたいへんおもしろいと感じるようになりました。
この本に出会えたことが、下の新日本古典文学大系の『保元物語平治物語承久記』を読んでみたいというきっかけになりました。
また同じ著者による『平治物語の成立と展開』(汲古書院 1997年)は、さらに詳しく平治物語を究めたい方におすすめ★


147栃木孝惟・日下力・益田宗・久保田淳校注『保元物語平治物語承久記』新日本古典文学大系(岩波書店 1992年)。
平治物語部分について紹介します。

底本は、上巻は陽明文庫蔵(一)本、中・下巻は学習院大学図書館蔵本(九条家旧蔵)。
形態は、上に本文、下に脚注がつきます。さらに解説、付録がとても充実しています。人物一覧、参考資料の掲載、系図に地図、図面など、どれも使えるものばかりです。
1番の特色は、『平治物語』の現存最古の古態本が収録されているということです。

※このブログでは、平治物語の舞台なども、どんどんと紹介していきたいと思っています。

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2005.05.05

鏡の宿

沙那王十六と申承安四年三月三日のあかつき、鞍馬寺をぞ出てける。(中略)其日、鏡の宿に着て夜半ばかりに、手づから髪をとりあげて、日来、武勇せんとて懐に持たりける〔刀をさし、つねにざれて着ける〕烏帽子、取出して着てけり。

『平治物語』(牛若奥州下りの事)では、義経は近江国の鏡の宿で元服したと書かれています。
鏡の宿は、現在の滋賀県竜王町にあたります。
謡曲『烏帽子折』の舞台でもあり、元服池や、烏帽子を掛けたとされる烏帽子掛松、義経が泊まった宿泊の館跡などの伝承地が整備されています。

元服池
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源義経宿泊の館跡
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鏡神社と烏帽子掛松
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道の駅竜王かがみの里では、義経元服料理や小冊子「義経元服ものがたり」が用意されています。ぼんやりが訪ねた時は、休館日でした。残念。

道の駅竜王かがみの里。定休日:火曜日(祝日の場合は翌水曜日)。ゴールデンウイーク中は無休。
滋賀県竜王町観光協会「鏡の宿 義経元服ものがたり」のサイト
http://www.town.ryuoh.shiga.jp/yoshitune/

【参考文献】
新日本古典文学体系『保元物語・平治物語・承久記』(岩波書店)

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2005.04.30

金王丸伝説2

金王八幡宮は、『金王八幡神社社記』によると寛治6年(1092)渋谷氏の祖河崎土佐守基家の創始と伝えています。
金王八幡宮のある高台一帯は、渋谷氏の居館跡でもあります。境内には砦の石と称する石も残されています。
金王八幡宮の金王桜は、江戸時代には三銘木のひとつに数えられる有名な桜の木でした。

金王桜
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この桜の木に関する由来はさまざまです。
金王丸自身の手植えの桜であるとする説、頼朝の時に清水寺の桜を移したという説、義朝が金王丸に鎌倉亀ケ谷の桜を与えたという説、頼朝が金王丸をしのんで鎌倉亀ケ谷の桜を移し植えたという説。
『金王八幡神社社記』は最後の説で、頼朝が奥州より下向のとき、渋谷家重の家に宿し、金王丸をしのび、その忠義を賞して、鎌倉亀ケ谷の桜を移し植えたと伝えています。

現在の金王桜は何代目かの若木で、拝殿の横にあります。もとは大鳥居の傍らにあった池のほとりにあったようです。また氷川町の氷川神社にも金王桜とよばれる桜がありました。

川合康先生の日記ブログ「日本中世史を歩く」では、金王桜の開花している様子を見る事ができます。
http://blogs.yahoo.co.jp/kibamusya2005

金王桜の横には芭蕉の句碑が建っています。
しばらくは花の上なる月夜かな

【参考文献】
『図説渋谷区史』
『新修渋谷区史』上、中
金王八幡宮参拝の栞

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2005.04.29

金王丸伝説 1

東京都渋谷区渋谷にある金王八幡宮を訪ねました。
繁華街の喧騒を離れ、ホッと一息つける場所だと感じました。

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『平治物語』に源義朝の従者として登場する金王丸は、坂東平氏の渋谷氏の出身だとされています。
『平治物語』によると、金王丸は幼いころから源義朝に仕え、その最期までつき従い、常磐御前にその最期の様子を伝えた後に出家し、諸国を行脚して義朝の菩提を弔ったとされています。
渋谷区にある金王八幡宮には金王丸御影堂があり、金王丸の木像が祀られています。
江戸時代になって、金王丸を題材にした文芸作品が流行ります。
金王丸の旧蹟である金王八幡宮は、江戸庶民の遊興地として賑わいました。

金王丸御影堂
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渋谷氏は、坂東八平氏のひとつ秩父氏より出ています。渋谷氏に関する系図は数多く存在し、その系譜は必ずしも一致しませんが、秩父重綱の弟基家が荏原郡河崎(川崎市)を領して河崎氏をなのり、重家、重国と続き、重国が渋谷庄司と号しました。
金王丸は、金王八幡宮の社記によると重家の子とされています。しかし、「渋谷氏系図」によると金王丸を重家とするもの、重国とするもの、重国の弟とするもの、重国の次男高重とするものなどがあり、実在する人物であったのかどうかもはっきりとはわかっていません。
また『平家物語』の八坂・如白・南都本では、頼朝が差し向けた義経暗殺の刺客となった土佐坊昌俊の前身を金王丸であるとしていますが、別人と考えた方が良さそうです。

【参考文献】
『図説渋谷区史』
『新修渋谷区史』上、中
金王八幡宮参拝の栞
「保元物語・平治物語 人物一覧」『保元物語・平治物語』新日本古典文学大系

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2005.01.11

源義朝の最期

NHK大河ドラマ「義経」第1回、楽しまれましたか?
平治の乱が簡潔にまとめられてしまいました。
加藤雅也演じる源義朝、もっと見たかったです。

平治の乱に敗れた源義朝は、東国を目指して落ち延びる途中、尾張国野間(愛知県知多郡美浜町)で、相伝の家人長田忠致父子の奸計によって湯殿で命を落とします。

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大御堂寺にある源義朝の墓

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湯殿跡

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