源朝長の墓
頭殿、「こらへつべくは供せよかし」と、世にあはれげにて仰せられしかば、大夫進殿、泪をながさせ給て、「かなふべくは、いかでか御手にかからんと申すべき」とて、御頸をのべさせ給たりしを、頭殿、やがて打ちまいらせて、きぬ引かづけまいらせて、「大夫進が足をやみ候。不便にし給へ」とて、出させ給ひぬ。
(『平治物語』中巻)
頭殿:源義朝 大夫進:源朝長
(十二月)二十九日。義朝二男朝長於美濃国青墓宿自害。生年十六。
(『帝王編年記』巻21)
平治の乱で敗れた源義朝は、東国目指し落ちのびる途中、美濃国青墓(現岐阜県大垣市青墓町)の大炊長者を頼って立ち寄ります。しかし、近郷の者たちが落人狩りにが押し寄せてきました。負傷していた次男朝長は、「耐えられるのなら供をせよ」という父義朝の言葉に、涙ながらに死を願い出ます。16歳の短い生涯でした。
岐阜県大垣市青墓町の山中の円興寺跡に、源朝長の供養塔があります。説明板によると、中央の3基の五輪塔の左から朝長、義朝、義平の墓。左側の3基の五輪塔が平野八十郎、平野藤十郎、僕八助の墓(以上3名朝長と同時に切腹)と伝えられています。
墓入口のには「刀石」と呼ばれる石があります。朝長の墓に参る際の礼儀として、帯刀を一時預けた場所と伝えられています。
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