2007.03.26

閑院内裏石碑復旧

ご報告が遅れましたが、閑院内裏石碑が復元されました!
1月ほど前、西福寺のご住職さまより、いつのまにか復元されているというお電話をいただきました。

復元された石碑
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閑院内裏についての最近の研究はこちら
〈京都女子大学宗教文化研究所 野口 実先生の掲示板から引用〉

野口孝子「閑院内裏の空間領域」『日本歴史』674,2004年
野口孝子「仁和寺本『系図』に描かれた陣中について」『仁和寺研究』5,2005年
野口孝子「閑院内裏の空間構造−王家の内裏−」(髙橋昌明編『院政期の内裏・大内裏と院御所』文理閣,2006年)
木村英一「王権・内裏と大番」(髙橋昌明編『院政期の内裏・大内裏と院御所』文理閣,2006年)
野口 実「中世前期の権力と都市−院御所・内裏・六波羅−」(髙橋康夫編『中世都市研究12 中世のなかの「京都」』新人物往来社,2006年)

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2007.01.15

小川法印忠快の寺

2006年の秋、東京国立博物館で開催された「仏像展 一木にこめられた祈り」に行きました。仏像好きな私にとって、うれしい展覧会でした。
前半のメイン展示は、宝菩提院願徳寺の国宝伝如意輪観音像。凛とした美を感じる像です。
宝菩提院願徳寺は平家ゆかりの寺でもあります。
昨日、九州から来た友人を案内して久々に同寺を訪ねました。

宝菩提院願徳寺は、京都の東山にあった宝菩提院と、乙訓郡にあった願徳寺が合体したお寺です。
宝菩提院は、平教盛の子・忠快の持仏堂です。忠快は、平家滅亡後、伊豆に流されていましたが帰京後、父教盛の所領であった小川(現在の京都市東山区高畑町)の地を返却され、そこに住坊(小川殿)と持仏堂(宝菩提院)をたてました。
一方、願徳寺(向日市寺戸)は、7世紀に創建された古い寺院ですが、鎌倉時代の初めには荒廃してしまいます。
忠快の門弟承澄によって、東山にあった宝菩提院が、乙訓郡に移り、宝菩提院願徳寺となったのです。

現在、宝菩提院願徳寺は、京都市西京区大原野に移って法灯を伝えています。
拝観寺院ですので、伝如意輪観音像はいつでも拝むことができます。
また、本尊如意輪観音像の脇には、宝菩提院の本尊であったと推定される薬師如来立像(平安時代後期)が祀られています。忠快はじめ残された平家一門が拝した仏様かと手を合わすと感慨深いです。
忠快僧都像も祀られていましたが、暗くてお顔をはっきりと拝めなかったのが残念。次回訪ねる時には、双眼鏡必携。

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大原野神社、勝持寺(花の寺)のすぐそばなので、大原野散策の際は、ぜひ寄ってみてくださいませ。
http://www.gantoku.or.jp/index.html

【参考文献】
角田文衛「忠快僧都」『平家後抄』
『京都府の地名』平凡社

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2006.03.31

京都の三嶋神社

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京都市東山区渋谷街道沿いにあるマンションの裏側にひっそりと小さな祠がまつられています。
復興された三嶋神社です。
三嶋神社は、多額の負債をかかえ、神社の境内地を手放さざるを得なくなったことが、数年前に新聞の紙面で話題となりました。
跡地にはマンションが建設されたと聞いていたので、神社は無くなったんだと思っていました。
近所の方のお話によると、若い宮司さんががんばっていらっしゃるそうです。

神社の由緒によれば、後白河天皇の女御建春門院(平滋子)が皇子のないことを憂い、摂津国三嶋大神に祈願したところ、後の高倉天皇が生まれました。後白河天皇はたいそう喜び、平重盛に命じて山城国愛宕郡朝岡山小松ケ谷に社殿を造営し、勧請したのがはじまりだとしています。
京都では今も安産の神様としての信仰がよせられています。

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2006.01.03

厳島神社 謹賀新年

明けましておめでとうございます。
平家物語に関連しての最初のエントリーは、今朝の撮りたて写真です。

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厳島神社といっても安芸の宮島の厳島神社ではありません。
京都御苑の旧九条邸に祀られている厳島神社です。
祭神は厳島の三女神と清盛の母といわれる祇園女御。
神社の由緒によれば、平清盛が摂津国兵庫築島に勧請した厳島神社を、後世に遷されたものとしています。
社前の破風形の鳥居は、京都三大鳥居のひとつに数えられる珍しい造りです。この鳥居も、兵庫築島の厳島神社から移されたたものと伝えられています。

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2005.05.28

源朝長の墓

頭殿、「こらへつべくは供せよかし」と、世にあはれげにて仰せられしかば、大夫進殿、泪をながさせ給て、「かなふべくは、いかでか御手にかからんと申すべき」とて、御頸をのべさせ給たりしを、頭殿、やがて打ちまいらせて、きぬ引かづけまいらせて、「大夫進が足をやみ候。不便にし給へ」とて、出させ給ひぬ。
(『平治物語』中巻)

頭殿:源義朝  大夫進:源朝長

(十二月)二十九日。義朝二男朝長於美濃国青墓宿自害。生年十六。
(『帝王編年記』巻21)

平治の乱で敗れた源義朝は、東国目指し落ちのびる途中、美濃国青墓(現岐阜県大垣市青墓町)の大炊長者を頼って立ち寄ります。しかし、近郷の者たちが落人狩りにが押し寄せてきました。負傷していた次男朝長は、「耐えられるのなら供をせよ」という父義朝の言葉に、涙ながらに死を願い出ます。16歳の短い生涯でした。

岐阜県大垣市青墓町の山中の円興寺跡に、源朝長の供養塔があります。説明板によると、中央の3基の五輪塔の左から朝長、義朝、義平の墓。左側の3基の五輪塔が平野八十郎、平野藤十郎、僕八助の墓(以上3名朝長と同時に切腹)と伝えられています。
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墓入口のには「刀石」と呼ばれる石があります。朝長の墓に参る際の礼儀として、帯刀を一時預けた場所と伝えられています。
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2005.05.17

法住寺殿

後白河法皇の院御所。もともと藤原為光が建立した法住寺の跡であったことから法住寺殿と呼ばれました。
広義の法住寺殿は多数の御所と寺院の複合体です。七条大路末を東西の軸とし、その北側に七条殿の東西両殿(現・京都国立博物館敷地)、南側に蓮華王院と法住寺南殿(狭義の法住寺殿)。その南方に巨大な池(現・東山区今熊野池田町)と建春門院の建立した最勝光院(現・同区本池田町・下池田町付近)。また熊野と日吉の二社が勧請され、新熊野神社・新日吉社がありました。

法住寺殿は、『平家物語』にたびたび舞台として登場します。なかでも、寿永2年(1183)11月、後白河法皇に離反した木曽義仲は、法住寺殿を襲撃し、殿舎を焼き払ってしまいます(8巻法住寺合戦)。その後建久8年(1197)源頼朝によって再建されています。

蓮華王院(三十三間堂)に建つ法住寺殿跡の石碑
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【参考文献】
野口実・山田邦和「法住寺殿の城郭機能と域内の陵墓について」(京都女子大学宗教・文化研究所『研究紀要』16号 2003年)
野口実・山田邦和「六波羅の軍事的評価と法住寺殿を含めた空間復元」(京都女子大学宗教・文化研究所『研究紀要』17号 2004年)
『平安時代史事典』


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2005.04.07

悪しう候、浄妙坊

以仁王の陵墓のある京都府相楽郡山城町の高倉神社の南の田の中に、小さな円墳があります。
以仁王にしたがい宇治川の合戦で奮戦した筒井浄妙の墓だと伝えられています。

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筒井浄妙といえば橋合戦。

浄妙坊が甲の手先に手を置いて、「悪しう候、浄妙坊」とて、肩をずんと踊り越えてぞ戦ひける

敵が渡れないように橋桁をはずした宇治橋で、平家の大軍を前に、三井寺の悪僧たちのパフォーマンスが始まります。
先に奮戦していた浄妙坊の頭の上を、一来法師が手をかけてさっと飛び越えます。

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以仁王の墓

京都府相楽郡山城町の高倉神社には以仁王がまつられており、社前には以仁王の墓と伝えられる陵墓があります。下の左写真は陵墓を背後から撮ったものです。
以仁王は、宇治川合戦の後、奈良へ落ちていく途中、流矢に当たって亡くなりました。後世、村人によって神社境内に葬られたとされています。

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頼政の鵺退治

『平家物語』(巻4)によると、源三位頼政は2度鵺(ぬえ)退治を行っています。
一度は仁平年間(1151〜1154)、近衛天皇を夜な夜な悩ませた、頭は猿、胴体は狸、尾は蛇、足手は虎という妖怪を退治しました。
二度目は応保年(1161〜62)、二条天皇をおびえさせた怪鳥を退治しました。いずれの妖怪・怪鳥とも「東三条の森」から暗雲とともに御所へとやってきました。そして頼政によって射殺されます。

二条城の北側、二条児童公園には、鵺退治に関わる伝説地「鵺池跡」があります。
頼政が鵺を射た血のついた鏃を洗った池の跡だと伝承されています。公園に隣接して鵺大明神を祀る祠があり、鵺池の由来を記した「鵺池碑」が建っています。公園の池の中には、古い「鵺池碑」があります。
二条公園は2003年から整備工事が始まり、2005年4月にやっとリニューアルオープンしました。
下の2枚の写真は、新しくなった二条公園の鵺池と、公園から見た鵺大明神です。

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さらに詳しくは、平安京探偵団の「鵺の鳴く夜は」をご覧下さい。

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2005.04.03

以仁王の御所

治承4年(1180)、後白河院の第2皇子以仁王(1151〜1180)は源頼政とともに挙兵します。挙兵は失敗に終わりますが、以仁王が発した諸国への令旨は、反平氏勢力の結集をうながし、諸国の源氏を蜂起させます。源頼朝の東国政権もこの令旨が拠り所であるとされています。

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以仁王の御所は平安京の高倉小路西、三条大路北、東洞院大路東、姉小路南にあり「高倉宮」と呼ばれていました。現在の京都文化博物館、中京郵便局、京都市教育相談総合センターにあたります。
京都市東洞院通姉小路下ル東側の京都市教育相談総合センター(こども相談センターパトナ)には、「高倉宮跡」の石碑が建っています。

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