対面石
ただいま三島に宿泊中。
源頼朝と義経が対面した伝承を持つ、八幡神社(静岡県駿東郡清水町)境内の対面石をみてきました。
対面石については、八幡神社のサイトで
http://www.inarijinja.com/yahata/
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ただいま三島に宿泊中。
源頼朝と義経が対面した伝承を持つ、八幡神社(静岡県駿東郡清水町)境内の対面石をみてきました。
対面石については、八幡神社のサイトで
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大物の浦より舟に乗って下られけるが、折節西の風烈しく吹き、住吉の浦に打ち上げられて、吉野の奥にぞ籠りける。(中略)忽ちに西の風吹きける事も平家の怨霊の故とぞ覚えける。
頼朝と対立した義経は、大物浦(だいもつうら)から西国を目指して船出します。しかし、激しい風にあい船は難破し、平家の怨霊の仕業と平家物語では語ります。
謡曲『船弁慶』では、平知盛の亡霊が現れて弁慶に祈り伏せられます。
大物浦は、現在の尼崎市の南東部にあたります。
大物主神社は、社伝によると平清盛が厳島神社参詣の際に当地を訪れ、同社を勧請したとされています。境内には義経・弁慶隠家の碑があります。
神社の周辺にも、義経伝説がいくつか残っています。
大物主神社のそばを流れる大物川は、現在では埋め立てられて緑地公園をなっています。大物川にかかっていた大物橋のそばには義経の旅宿があったと伝え、また謡曲『船弁慶』では義経と静は大物で別れる筋になっているのにちなみ「伝静なごりの橋」の石碑もありました。石碑は現在では辰巳八幡神社の境内に移されて保存されています。
【参考文献】
「大物の義経旧跡と周辺の史跡・文化財マップ」尼崎市教育委員会歴博・文化財担当
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今日の大河ドラマ義経では義経の母・常盤が病気で亡くなってしまいました。
ちょっと早すぎます。
常盤についてわかっていることは、九条院に仕えていた雑仕女であったこと。
平治の乱の後、清盛の妾となり女子を一人生んだこと。
その後すぐに一条長成の後妻となり、男子を生んでいること。
『吾妻鏡』文治2年(1186年)6月13日条に、義経の行方についての詮議のために一条河崎観音堂付近で捕らえられ、鎌倉へ護送すべきかどうかという記事に出てくること。
当番の雑色宗廉、京都より参着す。去る六日、一條河崎観音堂辺に於いて、与州の母ならびに妹等を尋ね出し生虜る。関東に召し進らすべきかの由と。
ただし『吾妻鏡』の記事では、捕まった後どうなったかについては記されていません。
一条河崎観音堂は、一条東京極(現在の寺町通)東の鴨川西岸にあった感応寺と号しました。応仁の乱で焼失して後、真言宗の寺院・清和院に合併され、現在では一条通七本松上ル東側に移っています。
写真は、清和院です。入って左の建物が観音堂で河崎観音が祀られています。洛陽三十三か所観音めぐりの最終番として今でも厚く信仰されています。
【参考文献】
『京都市の地名』(平凡社)
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京都市内と山科をつなぐ街道沿い、日岡峠を境として京都寄りを「蹴上(けあげ)」といいます。この地名の由来には、義経伝説が関わっています。
京都の近世の地誌『山城名勝志』巻第13(『新修京都叢書』第14)には、次のように書かれています。
○蹴上水{在粟田口神明山東南麓土人云関原與市重治被討所}
異本義經記云安元三年初秋ノ比美濃國ノ住人關原與市重治ト云者在京シタリ私用ノ事有テ江州ニ赴タリ山階ノ辺邊ニテ御曹司ニ行逢重治ハ馬上ナリ折節雨ノ後ニテ蹄蹟ニ水ノ有シヲ蹴掛奉ル義經其無禮ヲ尤テ及闘諍重治終ニ討レ家人ハ迯去ヌ
(美濃国の侍関原与市と従者の一行が、山科(山階)あたりを通りかかった時、過って義経に水溜まりの水を蹴りかけてしまった。それを咎めた義経と争いになり、義経は与市と従者を斬り殺してしまう。)
日岡峠を境として山科よりを九体町といいました。九体町は、斬り殺された与市ら9人の菩提を弔うために村人が石仏を9体安置したのが地名の由来とする伝承があります。この9体の石仏のうち6体は無くなくなりましたが、3体は街道筋に残されているといいます。下の写真の左側2体がそうです。左の1体は、街道筋の北側にまつられています。中央の1体は、日向大神宮の鳥居をくぐり、神宮へ行く参道の途中に、義経大日如来としてまつられています。もう1体は、街道沿いにあるらしいのですが未見です。竹村俊則先生の「京の牛若丸とその一行」(『京都伝説の旅』所収)によると、日岡付近は昔粟田口の刑場があったところで、石仏は刑死者の菩提を弔うために作られたものだと考えるのが妥当のようです。
日岡峠からさらに進んだ山科区御陵血洗町には、「血洗いの池」または「義経刀洗い水」「与市の首洗い水」と称する池と「牛若丸腰掛石」という伝説地が残っています。義経と与市一行との争いの伝承から生まれたものです。
「牛若丸腰掛石」は、京都薬科大学(京都市山科区)のグラウンドの隅にあります。牛若丸が、金売り吉次に連れられて京都から奥州平泉に下る途中、休憩して腰掛けた石だという伝承をもっています。「血洗いの池」は、腰掛け石のすぐそばです。
また、義経が奥州下向の折りに祈念したといういわれを持つ恵比須像が、粟田神社の境内にまつられています。この像は、もと粟田山字夷谷にあったものが、明治に粟田神社へ移されたそうです。
このように粟田口から山科を抜け奥州へ向かう街道にそって、義経の伝説地が多く残されているのはとても興味深く思います。
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今日の大河ドラマ義経では、タッキー義経が平泉入りを果たしました。
わたしが平泉へ初めて旅行したのは、1992年。
柳之御所遺跡の発掘調査の現地説明会でした。
その時の、古い写真をスキャナしました。
柳之御所遺跡とは、奥州藤原氏の政庁「平泉館(ひらいずみのたち)」の跡と考えられる場所です。
下の写真は復元整備された毛越寺の大泉池です。
『吾妻鏡』によると、毛越寺は二代基衡が造営した寺院とされています。
毛越寺のホームページ
http://www.motsuji.or.jp/
中尊寺のホームページ
http://www.chusonji.or.jp/
平泉文化遺産のホームページ
http://www.iwate21.net/hiraizumi/
【参考文献】
斉藤利男『平泉 よみがえる中世都市』岩波新書
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義経の奥州への旅立ちに関する伝説地を紹介します。
まずは、首途八幡宮(かどではちまんぐう 京都市上京区)です。神社の由緒によると、この地に金売り吉次の屋敷があったと伝えられ、源義経が奥州平泉におもむく際、道中の安全を祈願して出立したといわれています。
金売り吉次は、義経を奥州へ伴った人物として『平治物語』や『義経記』に登場します。その正体は、いろいろな説がありますが、実在した人物であるかどうかはわかりません。
昨年の9月、境内に「源義経奥州首途之地」の石碑を建立されました。下の写真は、除幕式にかけつけて撮影したものです。
首途八幡宮の北隣に、桜井公園があります。公園の中には、西陣五水(染殿井・桜井・安居井・千代井・鹿子井)に数えられた桜井が復元されています。桜井は、「牛若首途の井戸」また「吉次の井」ともいいました。
首途八幡宮ホームページ
http://www.nishijin.net/kadodehachimangu/index.htm
もうひとつ京都市内には金売り吉次の邸宅跡と伝えられている場所と首途の井戸があります。
妙心寺のそばの願王寺(京都市右京区)には、義経かどで地蔵尊が祀られています。この辺りを「木辻」と呼ばれていたことから、「木辻」の音が「吉次」に通じて、金売り吉次の邸宅があったといわれました。願王寺の略縁起によると、地蔵菩薩は吉次の守り本尊でした。義経が、奥州平泉への旅立ちに際し、道中安全を祈願し、宿願を果たしたといういわれがあります。
すぐそばの妙心寺道沿いの民家の前に、「牛若丸首途乃井」の石碑が建っています。今は井戸はありませんが、民家の内には「義経姿見の井戸」と呼ばれた井戸がありました。奥州平泉に下る時、姿をうつしたと伝えられています。
【参考文献】
井上頼寿『京都民俗志』
※まっきぃさんのブログ「源義経の奥州下りルートの謎を解いちゃうブログ」では、金売り吉次の調査記録など参考になる記事があります。
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今夜のNHK大河ドラマではいよいよ頼朝と政子の登場です。
下の写真は、伊豆の「史跡 蛭ケ小島」に立つ頼朝と政子の像です。ふたりの目線の先には、でっかい富士山(のはず。わたしがこの写真を撮った日は曇っていて見えません)。
平治の乱の後、源頼朝は伊豆国韮山(静岡県田方郡韮山町)の蛭ガ島へ流されます。
伊豆の中部は、東西を低い山に囲まれ、南北に長い盆地となっており、その中を流れる狩野川にそって集落がひらけています。蛭ガ島は、その盆地の北条の集落の近くにありました。おそらく狩野川の中州にあったものと推定されますが、確実な位置はわかっていません。現在「史跡 蛭ケ小島」として保存整備されている場所は、江戸時代に推定されたもので、正しい位置かどうかは不明です。昭和59年に発掘調査が行われましたが、頼朝の時代の遺物や遺構は見つかりませんでした。
伊豆の北条は、北条氏の根拠地。韮山町と長岡町には北条氏にゆかりのお寺や史跡が残されています。
北条政子の産湯の井戸と伝承されている井戸。
北条氏の館跡発掘中。
韮山町のホームページ
http://www.nirayama.kyogikai.mishima.shizuoka.jp/
伊豆長岡町観光協会のホームページ
http://izunotabi.com/
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京の五条の橋の上
明治に作られた文部省唱歌「牛若丸」の最初のフレーズです。
この唱歌は、謡曲『橋弁慶』によるものとされています。
このフレーズによって、牛若丸と弁慶の出会いは京の五条橋と、誰もが知っています。
五条橋での出会いが一般化するのは、御伽草子で描かれてからです。
(『弁慶物語』では最初が北野社、次に法性寺、最後に清水から連れ立って五条橋と描かれています)
『義経記』では、まず五条の天神社で出会い、次に清水寺への参詣道の清水坂、最後の清水寺の舞台では弁慶は義経に組み伏せられ、君臣の契約を誓います。
五条天神(京都市下京区)
五条天神社(京都市下京区)は、鬼一法眼の娘婿との対決にも登場した場所です。
五条天神では、義経と弁慶のかわいい絵柄の入ったタオル(500円)、日本手ぬぐい(400円)、フキン(300円)がありました。
わたしは日本手ぬぐいをいただいて帰りました。
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さてこそ静が舞に知見ありとて、日本一と宣旨を賜はりける
『義経記』では、義経と静御前が初めて出会ったのは神泉苑(京都市中京区)としています。
ある年、日照りが続き、神泉苑では百人の高僧が呼ばれて雨乞いのために仁王経を読みます。しかし、いっこうに効き目がありません。そこで今度は、容姿の美しい百人の白拍子が集められ、舞わせることになりました。九十九人の白拍子が舞ったのに、その効き目が顕われません。最後の一人、静が舞ったところ、雷鳴が響き渡り、3日間洪水のように雨を降らせました。このことで後白河法皇からは、静の舞が日本一であるという宣旨を受けました。
この時に、静は義経に見初められました。そして義経の堀川の御所に呼び寄せられ寵愛を受けました。
神泉苑の公式ホームページ
http://www.shinsenen.com/
NHK大河ドラマでの出会いの場面。
唐突すぎて、あれはいったいどこだったの?なぜに静はあそこにいたの?と、消化不良。
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