2006.11.14

番外編 実朝墓参り紀行2

翌日、鎌倉入りして鎌倉国宝館へ向かう。
鎌倉国宝館では、特別展「武家の古都鎌倉」(〜11月26日)が開催中。山梨の善光寺の実朝像が出品されている。退耕行勇の木像にも出会うことができた。また秦野の御首塚の木造の五輪塔は、現在では鎌倉国宝館に寄託されており、常時、見ることができる。

ここまで実朝づくしできたのなら、やはり寿福寺の実朝の墓もお参りしておこう。

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それに忘れてはならないのは、勝長寿院跡。『吾妻鏡』によると、実朝の首の無い胴体は、鬢髪を頭部の代用とし、勝長寿院の辺りに埋葬したとされている。勝長寿院は、源頼朝が父義朝の菩提を弔うために創建した寺院だが、今は跡形もない。勝長寿院跡の石碑の横には、源義朝、鎌田正家の供養塔が建っている。石碑の周囲に集められている石は、勝長寿院跡あたりより出土した礎石だという。

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午前中、ばたばたとレンタサイクルで走り回ったので、午後からはゆっくり過ごそうと海へと向かった。海はいいね。波の音も良いし、砂浜を踏みしめる感触も良い。実朝が夢見た渡宋計画を思いながら海辺を歩き、江ノ島で生しらすの定食を食べて旅を終えた。
舟ぜんさんの生しらす定食♪ 1980円だったかな?

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今回の宿題。
武常春という人物について、興味がわく。彼はいったい何者?
『武氏系譜』に、武常春の母が実朝の乳母とあるので、彼は実朝の乳母子。武氏系譜にのる彼の事績から、将軍家、波多野氏・三浦氏との関係、について考えていきたい。

【参考文献もしくは旅のお供】
貫達人監修『実朝と波多野』
湯山学『波多野氏と波多野庄』
『秦野市史』
『図説秦野の歴史』
永井路子『相模のもののふたち』

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2006.11.13

番外編・実朝墓参り紀行1

先週、東京へ行くついでがあったので、神奈川県秦野市の実朝首塚へ寄ってみることにした。
京都から秦野市までは、新幹線で小田原まで出、小田急線に乗り換えるのが最短コース。9時に京都駅を出発し、秦野駅に着いたのは、11時半ごろだった。
駅からタクシーを利用する。運転手さんは、とても美人な女性で感じが良い。タクシーで10分ほどで「源実朝御首塚」へ到着。
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小さな墳丘上に五輪塔が建ち、周囲には顕彰碑、歌碑などが建っている。
建保7年(1219)、右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮に参詣した実朝は、甥の公暁によって暗殺される。その首の行方はわからなくなっていたのだが、武三浦介常春によって発見され、秦野の地に葬られたと伝えられている。実朝の帰依僧退耕行勇が導師となり埋葬し、その印に木造の五輪塔が建てられたという。その後木造の塔は金剛寺に移され(現在、鎌倉国宝館に寄託されている)、そのあとには石造の五輪塔が建てられた。

お参りをすませ、金剛寺へと向かう。
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金剛寺は、縁起によると、建保6年(1218)退耕行勇を開山として創建され、本尊は源頼朝の念持仏であった。建長2年(1250)には、波多野忠綱が伽藍を再興したとされている。
拝観寺院では無いので、断られるのを覚悟でお参りさせてくださいと頼んでみると、快く迎えてくださった。
新しくできた本堂に入り、先ずは本尊を拝む。本尊の左脇に、これもまた新しく作られた実朝像と、従来からある実朝像が並んでいる。その前に大きなお位牌が安置されている。

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タクシーを待たせていたので、長居もできず、お供えをして辞した。帰り道は、波多野城跡を通ってもらい、相模の武士団波多野氏に思いをはせる。

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2006.02.27

伊豆山神社

今日は熱海市にある伊豆山神社へ行きました。

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上の写真は、神社の本殿脇にある源頼朝と政子の腰掛け石。

伊豆山神社のサイトはこちら
http://jinjya.info/

※旅先での通信は、ノートパソコンにPHSを使っています。詳しくは帰ってから補足します。

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2005.12.18

永福寺跡

永福寺(ようふくじ)とは、源頼朝によって、源義経・藤原泰衡をはじめ奥州合戦の戦没者の鎮魂のために建立された寺院です。
永福寺の中心伽藍である二階堂は、奥州藤原氏の中尊寺二階大堂(大長寿院)を模倣して造られました。
鎌倉市によって永福寺跡の発掘調査が行われ、その全容が明らかになっています。
東面する二階堂を中心に、両脇に北側に薬師堂、南側に阿弥陀堂を配し、その幅がは南北約125メートルに及ぶ大伽藍です。各々の堂間は複廊で結ばれていました。
前面には、南北約200メートル、東西約70メートルの瓢箪形の地がありました。
応永12年(1405)に焼失し、二階堂という地名として残りました。
現在では国指定史跡に指定され、史跡公園とするための整備作業が進められています。

2005年12月3日、中世鎌倉研究会主催により永福寺シンポジウムが開催されました。
シンポジウムに先立って、永福寺跡見学会が行われたのに参加してきました。
永福寺跡背後の丘陵に上るための遊歩道が途中まで完成しています。
しかし途中からは未完成で、急な山道のアップダウンが続きます。ひとりで参加したわたしは誰に頼ることもできず、ダンナさんに恐いよ〜!とメールしました。
サムネイルは、永福寺跡の背後の丘陵上(2枚目の写真の▼印の地点)から永福寺跡の全景を撮影したものです。クリックすると拡大します。
▼地点は、二階堂の南側・阿弥陀堂のちょうど背後にあたります。
参考になるサイトを下にあげたおきました。

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さて永福寺の二階堂とはどんな建物だったのでしょうか。
次にあげるサイトで、その様子をコンピュータグラフィクによって見ることができます。
・「国指定史跡永福寺跡」のコンピュータグラフィクによる復元
http://www.shonan-it.org/yofuku-ji/index.html

こちらのサイトはきれいな写真・イラスト入りのパンフレットも発行されています。
・「武家の古都・鎌倉」の世界遺産登録を目指して
http://www.elec.shonan-it.ac.jp/kamakura/

【参考文献】
中世鎌倉研究会シンポジウム「日本史の中の永福寺 予稿集」

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2005.08.29

平忠度腕塚・胴塚

さざ波や志賀の都はあれにしを むかしながらの山ざくらかな(『千載集』)

平清盛の末弟平忠度は歌人としても知られ、『千載集』をはじめ勅撰集に入首しています。

一の谷合戦において、平忠度は西の城戸口・一の谷の大将軍でした。敗れて駒ヶ林めざして落ち行く途中、源氏方の岡部六弥太忠澄と戦い、忠澄の首を討ち取ろうとしたところを、忠澄の家臣に右腕を切り落とされてしまいます。忠度はついに静かに念仏して討たれました。その箙には、「行きくれて木の下かげを宿とせば花やこよひの主ならまし」という歌が書かれた紙片が結ばれていたことで、平忠度であることがわかりました。

平忠度の胴塚と腕塚が、神戸市長田区にあります。両塚の石塔は、阪神淡路大震災でバラバラに崩れるという被害にあいましたが、現在では修復されています。

平忠度胴塚(野田町8丁目)
胴塚は忠度の胴を埋めた所と伝えられています。
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平忠度腕塚(駒ケ林町4丁目)
平忠度が岡部六弥太忠澄の郎党に斬り落とされた腕を埋めた場所と伝えられています。
腕塚堂という小堂が建ち、堂前には十三重塔が建っています。堂内には平忠度の位牌が祀られています。
後世、腕や腰の痛みがなおると人々から篤く信仰されました。

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未見ですが、平忠度塚、腕塚は、明石市にもあるそうです。
平家物語の異本の伊藤家本、南都本に、平忠度は明石へ落ちのびたと書かれていることから、伝承地が生まれました。
平忠度塚は、江戸時代、明石藩主松平忠国が梁田蛻嵓に命じて碑文を作らせ、墓域を修復しています。
周辺には「腕塚神社」、平忠度と岡部六弥太忠澄が対峙したという「両馬川旧跡」、平経正の馬を埋めた伝説を持つ「源平合戦馬塚旧址」もあります。

【参考文献】
『兵庫県史』第2巻

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2005.08.27

平重衡とらわれの遺跡

平重衡は一の谷合戦で生捕りにされます。
乳母子に裏切られて馬を失い、自害を覚悟したところを捕らえられました。

山陽電鉄須磨寺駅改札口北側に、「平重衡とらわれの遺跡」碑があります。
かつては大きな松があり、「重衡腰掛けの松」と呼ばれていました。

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2005.08.19

一の谷合戦の風景

前後しましたが、一の谷合戦の風景を紹介していきます。

こちらは搦手義経軍が進攻したのは一の谷口。
平家軍は一の谷を西の城戸としました。現在の須磨浦公園一帯です。
鉢伏山へと登るロープーウェイから展望。
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鵯越から平家軍の北の城戸口へと向かう山中。眼下に見えるのは夢野あたりです。
多田行綱軍が最初に山手を落したとされています。
たしかにここから平家軍に突入すると、勝てると思いました。
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大手範頼軍が進攻したのは生田口。
平家軍は生田の森を東の城戸とし、生田川に逆茂木を並べて陣を張りました。
生田神社の境内生田の森です。
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2005.08.14

佐藤継信の最期

屋島の合戦では、海側からの攻撃に備えていた平家方ですが、背後の陸からの義経の奇襲に虚をつかれ、あわてて屋島の御所を捨て海へと逃げてしまいます。源氏の軍勢が少数と見て引き返しますが、後の祭り。あっという間に勝負がつきました。
しかしこの合戦で義経は腹心の佐藤継信を失います。能登守教経の強弓から義経の身を守ろうとして壮絶な最期を遂げます。

佐藤継信の墓が、屋島東町と牟礼町に2か所あります。
いずれにも初代高松藩主・松平頼重による墓石が建てられています。

屋島東町の墓は、屋島寺への旧遍路道沿いにあたります。佐藤継信が義経の身代わりとして忠死したことを武士道の鑑であると賞賛して、多くの人に知らしめるために建てれてたものです。
牟礼町の王墓のそばにある墓は、継信が埋葬された場所と伝えられています。昭和のはじめに佐藤継信の子孫によって整備されました。
同所には、義経が佐藤継信の菩提を弔うことを命じた僧へ賜ったという義経の愛馬大夫黒の墓もあります。

屋島東町の佐藤継信の墓
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牟礼町の佐藤継信の墓
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大夫黒の墓
牟礼町の佐藤継信の墓に隣接しています。
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【参考文献】
読売新聞社高松支局編『源平の舞台はいま』

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2005.08.12

屋島の内裏

308屋島の対岸にあたる牟礼町には、屋島合戦にまつわる伝説地がたくさん残されています。
那須与一が扇の的を射る場面にちなむ祈り岩や駒立岩。義経の弓流しの跡や、景清の錣引きの跡などなど。
牟礼町の伝説地めぐりには、左の小冊子がお役立ち者。牟礼町教育委員会が出されている『牟礼町歴史散歩 平家物語と史跡めぐり』。

『牟礼町歴史散歩』によると、平家方は屋島に陣をはっていましたが、屋島の内裏ができるまで牟礼町の六万寺を行在所にしていました。海の源氏方に向けての防衛に備えた門があったのが、総門跡です。

総門跡
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六万寺
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屋島の中腹にある安徳天皇社
屋島の内裏跡と伝えられています。境内には、源平の戦死者たちの供養塔がまつられています。周辺から寄せ集められた石塔類だということです。
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2005.05.30

義円の墓

卿公義円深入りして討たれにけり。

平清盛亡き後の最初の源平合戦が墨俣(洲俣)の戦いです。
『平家物語』によると、治承5年(1181)3月、源行家ら六千余騎の軍勢が尾張まで攻め上って来たとの知らせを受け、平氏は平知盛(※)・清経・有盛ら三万余騎で京を発向します。両軍は、尾張川(木曽川の古名)をはさんで対峙します。夜半、源氏の軍勢が河を渡り、突撃を開始します。しかし、平家の大軍に攻めたてられ、源氏方は惨敗します。頼朝の異母弟・義円は深入りして討死にしてしまいます。源行家は、いったん三河国に退きますが、ここでもやはり敗北してしまいます。

覚一本では、上に記したようにあっさりと一言で義円(ぎえん)の死を語ります。しかし『源平盛衰記』では、もう少しくわしく義円の戦いの様子が描かれています。

墨俣は岐阜県安八郡の地名で、木曽川、長良川、揖斐川の合流点にあたります。尾張と美濃の境でもあります。
墨俣の古戦場跡には、義円の墓と伝えられる五輪塔がああります。
義円は、源義朝と常盤の間に生まれた3人の子どもの一人です。義経の兄にあたります。幼名乙若。平治の乱の後、仏門に入り、円成といい、のちに義円とあらためます。後白河院の皇子八条宮円恵法親王に仕えて坊官となります。墨俣合戦では叔父源行家の軍に参じますが、討死します。

岐阜県安八郡下宿に残る義円の墓。
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義円の墓のそばには、義円公園があります。
公園には、義円地蔵、義円供養塔、墨俣古戦場の碑などがあります。
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※史実では、平家方の大将軍は平知盛ではなく、平重衡でした。

【参考文献】
『平安時代史事典』『岐阜県の地名』
『平家物語全注釈』中

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