建礼門院徳子の後半生
昨日に引き続き、オフ会用レジメから。
この時のオフ会のテーマは、建礼門院徳子でした。
角田文衞先生の論文「建礼門院の後半生」(『王朝の明暗』東京堂出版)をまとめて表にしたものです。
文治元年4月25日(1185)
葛野川(桂川)を上り草津(伏見区横大路草津町)に着く。
同 年4月27日
都に入る。八条堀河堂(八条大路南・堀河大路東)
同 年4月28日
【吾妻鏡】吉田あたり(神楽岡とその西の平坦地)にある律師・実憲の坊。
同 年5月1日
【平家】長楽寺の阿房上人・印西を戒師として出家し、布施として安徳天皇の直衣をおくる。
【吉記】戒師は大原の来迎院の本成房・湛ごう。
同 年6月21日
野河の御所(左京区吉田中阿達町)
同 年7月9日
大地震にあう
同 年10月初め
【平家・長門本】大原・寂光院へ入る
文治2年4月23日(1186)
【平家・四部合戦状】【盛衰記】大原御幸
同 年 秋
建礼門院右京大夫が訪ねる
文治5年7月(1189)
前権少僧都・全真が訪ねる(二位の尼・時子の甥)
建久2年2月中旬(1191)
【平家・流布本】寂光院に止住し、往生
※大原西陵は明治9年に治定(ただし根拠なし)
建久初年(1190ごろ)
法勝寺の西南・善勝寺へ遷御
【平家・読み物系の諸本】寂光院から他へ遷御しそこで崩じたとする。
四部四部合戦状→法勝寺という処 延慶本→法性寺なる所
承久元年4月2日(1219)
尊勝寺の西塔から出火
鷲尾の四条家の山荘・金仙院へ遷御
貞応2年3月(1223)
鷲尾(京都市東山区鷲尾町、霊山観音背後の霊山より西北へ舌状に派生した丘の末端)で崩じ、鷲尾に葬られた。
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