2006.01.20

建礼門院徳子の後半生

昨日に引き続き、オフ会用レジメから。
この時のオフ会のテーマは、建礼門院徳子でした。
角田文衞先生の論文「建礼門院の後半生」(『王朝の明暗』東京堂出版)をまとめて表にしたものです。

文治元年4月25日(1185)
葛野川(桂川)を上り草津(伏見区横大路草津町)に着く。

同  年4月27日
都に入る。八条堀河堂(八条大路南・堀河大路東)

同  年4月28日
【吾妻鏡】吉田あたり(神楽岡とその西の平坦地)にある律師・実憲の坊。

同  年5月1日
【平家】長楽寺の阿房上人・印西を戒師として出家し、布施として安徳天皇の直衣をおくる。
【吉記】戒師は大原の来迎院の本成房・湛ごう。

同  年6月21日
野河の御所(左京区吉田中阿達町)

同  年7月9日
大地震にあう

同  年10月初め
【平家・長門本】大原・寂光院へ入る

文治2年4月23日(1186)
【平家・四部合戦状】【盛衰記】大原御幸

同  年  秋
建礼門院右京大夫が訪ねる

文治5年7月(1189)
前権少僧都・全真が訪ねる(二位の尼・時子の甥)

建久2年2月中旬(1191)
【平家・流布本】寂光院に止住し、往生
※大原西陵は明治9年に治定(ただし根拠なし)

建久初年(1190ごろ)
法勝寺の西南・善勝寺へ遷御
【平家・読み物系の諸本】寂光院から他へ遷御しそこで崩じたとする。
四部四部合戦状→法勝寺という処 延慶本→法性寺なる所

承久元年4月2日(1219)

尊勝寺の西塔から出火
鷲尾の四条家の山荘・金仙院へ遷御

貞応2年3月(1223)
鷲尾(京都市東山区鷲尾町、霊山観音背後の霊山より西北へ舌状に派生した丘の末端)で崩じ、鷲尾に葬られた。

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2005.10.01

長楽寺の安徳天皇御衣幡

長楽寺

330

京都市東山区にある長楽寺は、もとは天台宗のお寺でしたが、現在では時宗の末寺となっています。建礼門院徳子が落飾した寺として知られています。
『平家物語』では、建礼門院は長楽寺の阿証坊上人・印西(印誓、印清とも)を戒師として出家したと語っています。その布施として安徳帝の直衣を上人に与え、上人はその直衣を幡にして長楽寺の仏前に掛けました。
しかし、『吉記』の文治元年5月1日条に「今日建礼門院有御遁世、戒師大原本成房云々」とあり、建礼門院の戒師は大原の本成房であることがわかり、史実としては印西は誤りであるされています。

長楽寺の宝物に、安徳天皇の直衣を幡に作りかえたという「安徳天皇御衣幡」が伝わっています。春季特別展には一般公開されます。長楽寺の公式サイトの「安徳天皇御衣幡」の説明には、「近年の詳細な調査の結果、約800年前の当時の平絹の繊維に 間違いなく、古代の繊維の資料としても注目されている」とあります。

後白河法皇の皇子・守覚法親王が書いた『左記』の序文に、次の一節があります。
去比長楽寺聖人。奉為彼御菩提。有餝佛事之儀。為結縁潜詣件道場。仏前有奇恠箱一合。尋問聖人之處、為先帝御衣之由答。
長楽寺の聖人が、先帝(安徳)の菩提を弔うための仏事を行いました。守覚法親王は、結縁のためひそかにその道場をたずねました。すると仏前に不思議なふたのある箱があります。法親王は、聖人にその箱の中身は何かと尋ねたところ、先帝の御衣であるという答えが返ってきました。

上の『左記』の記事から、長楽寺の聖人のもとに、安徳天皇の御衣があり、仏事を行ったていることがわかります。
御橋悳言氏は、平家物語の受戒の本文は『左記』の記事にかけて書かれたものとしています。また冨倉徳次郎氏は、『左記』に出てくる長楽寺の聖人を阿証坊上人印西と見てもよいのではと解釈されています。

長楽寺境内 建礼門院遺髪塔
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※この塔については書いておきたいことがあるのですが、また後日に。

長楽寺の公式サイト
http://www.age.ne.jp/x/chouraku/
10月20日からは秋季特別展が始まります。

【参考文献】
御橋悳言『平家物語略解』(宝文館)
冨倉徳次郎『平家物語全注釈』(角川書店)

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