2008.05.28

平安京・京都研究集会「戦国時代の本能寺と織田信長」、の巻

5月25日(日)
 第17回 平安京・京都研究集会「戦国時代の本能寺と織田信長」を開催いたしました。多数のご来場、ありがとうございました。

 午前中は本能寺跡などを巡検。集合場所の阪急大宮駅に、どんどん人が集まってくる。問い合わせもかなりあったのである程度予想はしていたが、それでも嬉しい悲鳴である。山本雅和氏の解説付きで、大宮六角の本能寺跡、西洞院六角の本能寺跡(「本能寺の変」がおこった場所)、南蛮寺跡、妙覚寺跡、二条新造御所(二条殿)跡などを廻る。いつも通っている場所なのだが、やはり問題意識を持って見ると勉強になる。
 午後はシンポジウム。とうてい座席が足りないと予想できたので、急遽、新たな椅子をたくさん運び込む。吉川義彦、河内将芳、仁木宏、山本雅和の各氏による報告とコメントも充実したものとなった。私は仁木さんと共にシンポジウムの共同司会を担当。ちょっと討論の時間が足りなかったが、なかなか問題点があぶり出されてきたぞ。
 充実した研究会が終わったあとは、例によっての「打ち上げ」懇親会。受付に座っていただいたウチのゼミ生のKTさん・KCさんも参加してくれる(ご苦労様でしたm(_ _)m)。おそらく彼女らにとっては、こういう研究会も懇親会も始めての経験だったと思う。最新の研究成果がぶつかりあい、新たな問題意識に向かって止揚していく現場を経験することは、学問の素晴らしさを感じる一番の方法だと思う。これからも、できるだけ学生諸君にこうした現場を見てもらいたいと思う。

2008.05.21

平安京・京都研究集会「本能寺」予告、の巻

下記の通り、第17回「平安京・京都研究集会」を開催いたします。ふるってご参加ください。

===================================================
第17回 平安京・京都研究集会「戦国時代の本能寺と織田信長」
 ご無沙汰してしまい、申し訳ありません。平安京・京都の歴史の学際的研究を積み重ねてきた「平安京・京都研究集会」を久々に再開いたします。
 織田信長が思いがけない最期を遂げた本能寺の変は、戦国の世を揺るがす大事件として、天下統一への歩みを大きく塗り替えました。近年、本能寺跡の発掘調査がめざましい進展を見、従来では考えられなかったような新知見が続々と提示されつつあります。この機会に、本能寺の変の解明を単なる「謎解きゲーム」に終わらせるのではなく、京都の都市史の中に的確に位置づけようとする試みに挑戦いたします。考古学と文献史学のコラボレーションによる新しい歴史像の表出にご期待ください。

日 時 2008年5月25日(日)
現地巡見 午前10時、阪急電車大宮駅改札口集合(本能寺跡、南蛮寺跡、妙覚寺跡、二条御所跡など)         案内:山本雅和氏(京都市埋蔵文化財研究所)
シンポジウム  午後1時半〜午後5時
  場 所 機関誌会館5階大会議室(京都市上京区新町通丸太町上ル東側。市バス府庁前下車すぐ。または地下鉄丸太町駅下車2番出口より西へ2筋目を北へ、徒歩5分)
  報 告   吉川義彦氏(関西文化財調査会、考古学) 「本能寺跡の発掘調査」
        河内将芳氏(奈良大学、日本中世史) 「文献史料からみた中世の本能寺」
  コメント  仁木 宏氏(大阪市立大学、日本中世史) 「都市京都と本能寺・信長」 
        山本雅和氏(京都市埋蔵文化財研究所、考古学) 「本能寺の発掘調査への所見」
主催  平安京・京都研究集会   後援  日本史研究会
要資料代。一般来聴歓迎。
-------------------------------------------------------------------------
皆様へお願い
 平安京・京都研究集会の案内は、従来は郵便でおこなってきましたが、省力化と会計の簡素化のため、今後はできるだけ、電子メールの利用に切り替えていきたいと考えます。電子メールでの連絡は無料とさせていただきますので、できるだけこちらのご利用をお願い申し上げます。下記のアドレスに、住所・氏名・所属を明記の上、「電子メールでの連絡希望」と書いてお送りいただければ、会員名簿に登録いたしますので、よろしくお願い申し上げます。
平安京・京都研究集会 事務局 山田邦和 FZK06736アットマークnifty.ne.jp(スパムメール防止のため、一部変更しております。「アットマーク」は「@」です)

2008.05.20

角田文衞先生御葬儀、の巻

Hon〈←角田文衞先生の御著書・編纂書の数々。圧倒される・・・〉

 5月14日に95歳で御逝去された角田文衞先生の御葬儀は、通夜が18日(日)18時〜19時、告別式が19日(月)12時半〜14時半に、いずれも、京都駅八条口からほど近い公益社京都南ブライトホールにおいておこなわれた。私は受付の隅っこでお手伝いをさせていただく。さすがに大先生の御葬儀だけあって、ホールは満杯である。告別式での弔辞は作家・瀬戸内寂聴さん、京都大学名誉教授・樋口隆康先生が読まれた。最後のお別れを、ということで棺の中に花を捧げると、そこには小さく小さくなられた先生が眠っておられた。感謝の言葉をつぶやきながら合掌するが、思わず目頭が潤んでくる。

 私が始めて角田先生の御名前を知ったのは、小学校六年生の時であった。町を自転車で走っていた私は、『紫式部邸宅跡』という看板を掲げた廬山寺というお寺を見つけた。あれっ、紫式部はウチの近所に住んでいたんだ、と思ってなんだか嬉しくなった私は、早速、寺の境内に入ってみた。本堂の前には白砂と苔で造られた清楚な庭があり、そこに紫式部の邸宅跡を示す大きな石碑が据わっていた。本堂の長押の上には、ここに式部邸が存在したことを考証した壮年の学者の写真がかかっていた。キリリとひきしまった端正な容姿が、子供心にも強い印象を与えずにはいなかった。お寺の人が「これは平安博物館館長の角田文衞先生といい、ここに紫式部が住んでいたことを証明してくださった偉い先生なんです」と説明してくれた。これが、私と角田先生との『出会い』だった。
 後年、この話を先生にすると、「あなたはそんな早くから私の名を知っていてくれたのですか」と、逆に感激していただいた。光栄なことである。

 廬山寺ではさらに、平安博物館は三条高倉にあるということを教えてもらった。ヘェ、三条高倉ならばウチのすぐ近所だ、と思うと、私は今度は平安博物館の探検にでかけた。重厚な赤煉瓦の建物の入口をくぐると、展示室はひっそりと静まりかえっていた。京都の人にとって「博物館」というのはまず京都国立博物館のことであるし、私も同博物館には行ったことがあった。しかし、平安博物館は私がそれまで知っていた博物館像とはまったく異なった博物館であった。過去の文化財を単なる美術品として並べるのではなく、そのひとつひとつに歴史を語らせようとする意図が痛いほど伝わってきた。特に、中央ホールの実物大の平安宮内裏清凉殿復元模型は圧巻だった。平安博物館は日本の「歴史博物館」のパイオニアであったのである。私はすっかり魅了されてしまった。こんな博物館を造りあげた角田先生とはどんな人なのだろうか。それ以来、私の心には先生の名前がくっきりと刻み込まれることになった。

 高校時代には、清水睦夫先生「世界史」の講義を受けることができた。清水先生は当時の日本では珍しいロシア・東欧史の学者で、角田先生の高弟であった。私は清水先生の名講義(明らかに、高校の授業のレヴェルをはるかに突き抜けていた)を通じて、「角田史学」の真髄に触れたのである。それに刺激された私は、角田先生がローマ帝国の章を執筆された山川出版社の『世界各国史・東欧史』(旧版)を紐解いた。この本は、帝国の東西分裂を認めず、古典ローマ帝国→中世ローマ帝国という体系でヨーロッパ史を理解しようとする史観で貫かれていた。そこにあったのは、教科書的なヨーロッパ史とはまったく違った世界だった。歴史とは視点を変えることによってどんなに魅力的になるものなのか、それを私は始めて教えられたのである。
 清水先生は、私の家が京都の中京にあることを知り、時々、『古代文化』への起稿論文を平安博物館に届けて欲しい、と頼まれるようになった。郵送すれば済むことなのであるが、それをわざわざ私に命じられるのは、私が考古学に志していることを知っておられたから、平安博物館とのつながりを作ってやろうというお気持ちだったのだと思う。そうして改めて訪ねてみた平安博物館は、高校生の私にとってはまさに見上げるような学問の殿堂であった。当時の私にとって、平安博物館というのは憧れの的であった。

 大学進学が決まる頃、私は『古代学序説』の読破に挑戦した。この名著の『凄さ』については既に語り尽くされている。考古学・文献史学等の統合の上に立ち、世界史的な視野にもとづいた『古代学』の偉容! それは、まさに圧倒的な感銘を私の心に残すものであった。
 当時、平安博物館では大学の授業に準じた「古代学講座」を開催していた。平安博物館の研究員がそれぞれ自分の分野の講義をおこなうのである。館長・角田先生御自身は、土曜日の午前の授業を担当しておられた。大学2回生の時、私は角田先生の講義の受講を申し込んだ。驚いたことに、館外からの受講生は私ひとりで、他は平安博物館の研究員(学界の第一線で活躍されている早々たる先生方である)が受講されるのである。角田先生の講義は、独特の東北弁の訥々としたものであったが、内容は厳しかった。角田先生は絶えず研究員を指名して質問をあびせかけ、答えられないと「あなた、こんなことも知らないのですか」「考古学をやっている以上、こんなことは常識です」などとキツイことを言われるのである(その実況中継の一部は、語りぐさになっている「設問・平安博物館研究員諸氏との対話」〈『古代文化』第32巻第12号〉に見ることができる)。

 駆け出しの時代にこうした高い理想を持つ史観に触れたことは、その後の私の歩む道を決定した。私は今までにさまざまな細かい研究にとりくんだが、そのそれぞれが私なりの『古代学』のテスト・ケースであるという意識は失っていないつもりである。ある人は私の研究を、考古学者としては珍しく文献史学の成果の吸収に積極的だ、と評してくれる。もし本当にそうだとすると、それは私が、『角田史学』から学んだ通り、考古学者である以前になによりもまず歴史学者でありたい、という願いを常に持ち続けているからだと思う。その意味で、『角田史学』に触れることがなければ今の私は存在しなかったであろう。

 大学院博士課程前期を修了した後、私は平安博物館研究嘱託(非常勤)・同館発掘調査部調査員として半年過ごし、それから(財)古代学協会研究員・平安博物館助手に正式採用された。平安博物館への就職が決まった時の嬉しさを、私は生涯忘れないであろう。古代学協会での仕事で最も思い出深いのは、『平安京提要』の編纂事業であった。これを私に命じられた時に角田先生は微笑みながら「この仕事をやりとげることができたならば、『平安京の権威』になれますよ」と言われた。駆け出しの私にとってこれは確かに大きなチャンスをいただいたことであった。もちろん、今でも「平安京の権威」になれたわけではないのであるが、この仕事をやったことによって暗中模索だった私の平安京研究に大きな曙光が指したことは間違いない。ありがたいことであった。

 角田先生に会うたびに言われるのは、「研究者は著書を出さねばなりません」「本を出す予定はどうですか」ということであった。だから、私が博士号を取得し、博士論文を公刊した時には大変々々喜んでいただいた。しかし、その後も会うたびにそう言われるのはなかなか辛いものがあった。最近になってようやく、平安京・京都都市史関係の論文をまとめた論文集を公刊する予定となり、そのことを申し上げるとこれも大変喜んでいただけた。しかし、私の怠惰から同論文集はまだ刊行できず、ついに先生の生前にお目にかけることができなくなってしまった。痛恨事である。

 最近では、さすがにお身体が弱られ、目が見えにくくて本が読めない、とボヤいてられたし、また脚も弱って歩行が困難になっておられた。しかし、古代学協会の「仁明朝史の研究」を始めとして、色々な企画を考え出されては矢継ぎ早に指示を出しておられることは変わりなかった。
 先月の9日、先生の95歳の誕生日に協会の西井芳子・鈴木忠司両氏とともに御自宅にうかがった。ベッドに横たわったまま起きあがることができなくなっておられたことは、なんとも悲しかった。それでも驚いたのは、頭脳は最期まで明晰で、小さな声で「私はまだまだやりたいことがあるのです」とおっしゃっておられたことであった。この時が、私にとって生前の先生との最期の別れになった。

 考古学と文献史学を総合し、洋の東西を問わず世界史の全分野を対象とされた大学者。自力で資金を集めて研究機関を設立・運営していくという離れ業を続けてこられたことも驚嘆に値する。もう、こんなスケールと行動力を兼ね備えた学者は出てこないかもしれない。角田先生の御冥福をお祈りし、先生の「理想」のたとえ万分の一であっても引き継いでいくことを誓いたいと思う。

2008.05.18

1
〈2001年4月、角田文衞先生米寿記念会にて。中央:角田先生。左:角田有智子夫人〉

2008.05.15

巨星墜つ

財団法人古代学協会名誉会長・社団法人紫式部顕彰会会長、文学博士
角田文衞先生におかれましては、
5月14日午後11時59分、御逝去になられました。
95歳でした。

謹んで先生のご冥福をお祈り申し上げます。

2008.05.01

凄いぞ!広上淳一・井上道義、の巻

 4月18日(金)
 京都市交響楽団の第511回定期演奏会。第12代常任指揮者に就任された広上淳一さんの就任記念演奏会である。曲目は、コープランド:市民のためのファンファーレ、ハイドン:交響曲第104番「ロンドン」、リムスキー=コルサコフ:交響組曲「シェエラザード」。広上さんの指揮は、以前に小山実稚恵さんのバックを努められた時に聞いたことがあるだけなのだが、その時にはなんだかビジネスライクに聞こえて、正直言ってあんまり感心しなかった。だから私は、広上さんが京響の新常任になると聞いて、どこまで期待できるか、懐疑的になっていた。しかし、これはどうも私の不明であった。嬉しい誤算とでもいうのか、この日の演奏会は凄かった。最初にコープランドのファンファーレは、これから京都市民と共に歩んでいこうという広上さんの決意がビンビンと伝わってきた。ハイドンも充実していたし、なによりも、私の大好きな「シェエラザード」がすばらしい。ヴァイオリン・ソロを受け持った京響のコンサートマスター、グレブ・ニキティンさんのロマンティックな響きもなんともいえない。広上さんの指揮も余裕綽々で、思いのままにオケをドライヴしながら、シンフォニックにまとめていく。凄い、凄いぞ、広上淳一! 
 閉演後は、おそらく広上さんのアイデアなのだろう、ホールでミニ・コンサートと触れ合い会。広上さんもTシャツに着替えて、気さくに観客の皆さんと語り合い、サインをしている(広上さんって、すごく小柄な人なんですね。ステージ上でのエネルギッシュな指揮姿を見ていると、もっと大きい人のように思っていた・・・)。いっぺんで、広上さんのファンになってしまった。京響、素晴らしい新指揮者を迎えてくれてありがとう!

 4月25日(金)
 朝、ひとつ用事をすませ、それから京都新聞文化センターの講座をやって、某古本屋さんで交渉事をやり、京都文化博物館の特別展「源氏物語千年紀展」のオープニングにでかける。けっこう忙しいぞ。「源氏物語千年紀展」は、源氏物語の存在が確認されてから千年となる今年を記念する各種のイヴェントの中で、中心となるものである。さすがにリキの入った展覧会で、絢爛豪華。
 それから、京都コンサートホールでの特別演奏会、第9回現代日本オーケストラ名曲の夕べ「道義の一押し」にでかける。指揮は私たち夫婦が大好きな井上道義さん。管弦楽は京響を中心として全国のオケから集まった臨時編成のオールジャパン・シンフォニー・オーケストラである。曲目は、芥川也寸志 「オルガンとオーケストラのための響」、伊東乾「天蓋の碑」、石井眞木「交響詩 祇王—横笛とオーケストラのための—」、そして井上道義さんの自作「メモリー・コンクリート」。中でも聞き物だったのは、京都コンサートホールのパイプオルガンが躍動する芥川さんの「響」と、井上さんの自作。後者は以前にも聞いたことがあり、その鮮烈な響きに感動した。楽章の途中に「指揮者のためのカデンツァ」(!)という破天荒な部分がある。要するに、小太鼓のリズムだけに乗って、指揮者が好きなパフォーマンスを繰り広げる、という部分である。ここでの井上さん、礼服を脱ぎ捨ててTシャツ姿になり、ボール紙製の王冠をかぶってタップダンス。それから花束を受け取って楽員ひとりひとりに配っていくという、やりたい放題である。しかし、ほかの人ならばやりすぎと感じられるようなことでも、この人がやるとまったく見事なまでにツボにはまるんだよな。指揮者、オケ、観客が一体となって楽しめた夜だった。

=========================================================
■京都新聞出版センター編、井上由理子・今西健二・河村吉宏・熊谷栄三郎・黒田正子・高野澄・中村武生・中村勝・永守淳爾・西村彰朗・藤慶之・山田邦和執筆『第4回京都検定 問題と解説』(京都、京都新聞出版センター、2008年4月21日)

2008.04.18

人文地理学会例会と授業開始、の巻

 4月11日(金)
 朝日カルチャーセンターへ出講。
 午後は、京都大学構内遺跡の「吉田泉殿町遺跡」の現地説明会にでかける。鎌倉時代の京都朝廷の重鎮で従一位太政大臣にまで昇った西園寺家の藤原公経の別業「吉田泉殿」の推定地ということで、これは見逃せない。担当者である京都大学文化財総合研究センター(旧・埋蔵文化財研究センター)のIA助教の解説のもと、見事な石敷の雨落溝を持つ建物跡が検出されており、興味深くながめる。京都市文化財保護課の課長に就任されたKT氏や京都市埋蔵文化財研究所の皆さんとともに、遺跡の評価について議論する。

 4月12日〈土〉
 人文地理学会第263回例会「歴史都市の景観復元研究」(於佛教大学四条センター)に出席。私は人文地理学会の会員ではないのだが、幹事をつとめられるB大学のWH教授から、報告を依頼された。私の「中世都市嵯峨の復元」、奈良女子大学の中西和子氏の「伏見城下における都市構造の変遷」の報告と、神戸大学の藤田裕嗣教授の「コメント」がおこなわれる。他分野の研究者の方々の前で喋るのは勝手が違うものだし、学界の重鎮であり、我が国を代表する巨大研究機関のチーフに就任されて御多忙を極めているKA先生までも御出席になっており、いささか緊張する。しかし、討論は大変有益。皆様方からの御教示に多謝。場所を変えての懇親会では、KA先生、OG大学のMS教授らと共に、おいしいワインで乾杯。さらに河岸を変えて、ホテル・グランヴィアのバーで、またまたワイン。

 4月13日(日)
 3回生ゼミの今年始めてのフィールドワークとして、京都御所の一般公開にでかける。桜花は盛りをすぎていたが、しだれ桜で満開のものもまだまだあり、新春の御所を皆と一緒に楽しむ。ついでに、京都府庁本館の一般公開に足をのばす。

 今年度春学期の授業(特記なきものは、同志社女子大学現代社会学部)
〔月〕2講時 「専門基礎演習」(2回生ゼミ)
   3講時 「基礎演習」(1回生ゼミ)
   7講時 同志社大学「日本史」
〔火〕2講時 京都府立大学大学院文学研究科「日本考古学講義IA」
〔水〕2講時 「卒業研究」(4回生ゼミ)
   3講時 「博物館概論」
〔木〕2講時 「応用演習」(3回生ゼミ)
   4講時 「考古学I」

 この他、大学の授業ではないが、金曜の午前には毎月各一回づつ、朝日カルチャーセンターと京都新聞文化センターの講座がはいる。なお、本来は同志社女子大学大学院文学研究科「考古学特論」も予定されていたが、登録をしてみると今年は受講生がゼロとなり(3年に一度くらい、こういうことがある)、残念ながら休講(>_<)。
 同志社大学の「日本史」は夜の授業。昨年は金曜6講時(18時25分〜19時55分)だったが、今年は月曜の7講時、つまり20時05分〜21時25分という遅い時間になった。そんな時間まで学生は学校には残っていないだろう、受講生はせいぜい十数人くらいだろうと予想していたが、フタをあけてみると登録者は180人にのぼっている。何がおこったのだ? 最近の学生さんは夜遅くの授業を苦にしないのかもしれない。
 「応用演習」は3回生ゼミ、「卒業研究」が4回生ゼミ、つまりこのふたつが同志社女子大学でのメインの「山田ゼミ」ということになる。去年は新人ということで少なかったが、今年の応用演習は17人となる。さあ、どういうことを学んでもらうか、授業の前日まで考えあぐねる。とにかく、京都の史跡を見てくれなくては話にならないので、最初から「フィールドワーク重視」を宣言しておき、今年は5回くらいの巡検とゼミ合宿を予定することにする。また、「博物館概論」も、一年たってようやく知名度がでてきたのか、去年よりは受講生が増加。

2008.04.14

工藤静香さんHAPPY BIRTHDAY、の巻

 2008年4月14日(月)
 本日は工藤静香さんの38回目のお誕生日。おめでとうございますm(_ _)m

P1060476
 写真は、先月発売された「歌手ソロデビュー20周年記念企画第3弾」の「Shizuka Kudo 20th Anniversary B-side collection」。つまり、これまでのシングルのうち、A面収録曲は「Shizuka Kudo 20th Anniversary the Best」に集大成された。そこで今回は、B面収録曲の多くが集められたのである(とはいうものの、1996年の映画「爆走!ムーンエンジェル—北へ」の主題曲「ルナ—月の女神」などはなぜか収録されなかった。ゴキゲンな曲なので、ちょっと惜しいぞ)。B面収録曲というのは日があたらず、知らず知らずのうちに埋もれてしまうことが多いので、これはありがたい。
 このCDで一番嬉しいのは、初回限定版だけの特典ではあるが、DVD「SHIBUYA-AX(07.8.31)LIVE DIGEST」が附属していることである。昨年の8月・9月に2回だけ、東京と大阪でソロ・デビュー20周年記念ライヴ「Shizuka Kudo 20th Anniversary the Best」(毎日放送主催、ポニーキャニオン後援、Purple/ON THE LINE企画製作)がおこなわれた。私は大阪のライヴに行ったということは既にのべた。その時に「こんな熱気あふれるライヴをやった時には、その映像も発売しなきゃもったいないぞ。ポニーキャニオンさん、ぜひともよろしくm(_ _)m」と書いたのだが、実際はほとんど諦めていた。それが、まさか私の意見を斟酌してくれたというわけではないだろうが、思いがけず、東京ライヴの映像が、ダイジェスト版(全体の5分の1程度)とはいえ、入手できるようになったのである。「禁断のテレパシー」「FU-JI-TSU」「Blue Rose」「めちゃくちゃに泣いてしまいたい」「嵐の素顔」「Blue Velvet」「慟哭」「抱いてくれたらいいのに」の8曲を見ることができる。
 もちろんナマでライヴに参加するのとDVDの映像とでは感動の度合いがまったく違うが、それでもあの日の興奮を思い出すことは充分に可能なのは、まったくありがたい限りである。白のタンクトップ・シャツにゴールドのデニムのパンツ、それに黒のベストをひっかけたカッコいい姿での「禁断のテレパシー」「FU-JI-TSU」。真っ赤なドレスに身を包んでの、工藤静香最高傑作「Blue Rose」。会場とひとつになった「慟哭」など、充分に楽しめる出来である。今はまだこのDVD付きの初回限定盤が手に入ると思うので、御希望の方はお急ぎのほどを!
 ただ、この東京ライヴと、私が参加した大阪ライヴとを比べると、大阪での方がはるかに出来は良かったのではないかと思う。もちろん、ナマで聞いたものと映像だけのものは比べものにならないから、私のこの感想はあてにはならないことは当然である。ただ、この映像で見る限り、東京では静香さん、歌詞を間違えたり、ノリが悪いようなところが散見される。それに比べて、大阪では2回目ということもあったのか、のびのびと自分の持ち味を発揮していたように思う。今度は大阪ヴァージョンの映像を発売してくれないかな〜〜〜(^^;)

2008.04.11

チベットと共に立ち上がろう!-ダライ・ラマを支援しよう—、の巻

 ダライ・ラマ14世法王が来日された。「中国政府は私のことを悪魔だというが、そう見えますか? 私は単なる人間であって、悪魔ではない。頭に角も生えていないでしょ?」と、ユーモアを交えながら、なおかつ揺るぎない信念を語る姿に感銘を受けた日本国民は多いと思う。
 環境問題・人権問題・貧富問題などについての活動をおこなっている国際的な市民団体「Avaaz.org」が、チベット問題の解決にむけ、「チベットと共に立ち上がろう! - ダライ・ラマを支援しよう—」の署名運動をおこなっています。すでに署名をおこなった人々は160万人を越えています。目標の200万人に達するため、皆さんの御協力を御願いしますm(_ _)m。
 署名はこちら↓
http://www.avaaz.org/jp/tibet_end_the_violence/97.php/?cl_tf_sign=1
 以下、同団体から送られてきたメール・メッセージ(見やすくするために一部編集)を紹介します。
--------------------------------------------(以下、引用)-------------------------------------
みなさん
 チベットの人々は世界に向けて何十年も続く抑圧に苦しむ現状を打破したいと声を上げています。オリンピックで中国への注目が集まっている中で、チベットの指導者であるダライ・ラマ師は、自制と対話によって全ての暴動と暴力にピリオドを打つように求めています。
 中国の指導者たちは公然とダライ・ラマ師を非難していますが、チベットの安定には対話こそが大事であると考える中国当局者も多いのです。中国政府は、今、さらなる残虐行為か対話かの決定的な選択をしようとしています。この選択で、チベットと中国の将来が決まると言えるでしょう。
 わたしたちは、この歴史的な選択に影響を与えることができます。中国政府は自国の評判をとても気にしていますから、わたしたちは中国が正しい進路を選択するよう促すことが可能なのです。胡錦涛中国国家主席は、正しい選択しない限り、『中国産』ブランドも、まもなく開催される北京オリンピック も成功しないという声に耳を傾けるべきです。しかし、同時に胡錦濤主席の注意をひきつけるために、全世界の民衆の力を怒涛のうねりとして押し寄せる必要が あります。下記のリンクをクリックして、すでに署名した150万人に続いて、今すぐに請願書に署名してください。また、今すぐ、このEメールをご友人やご家族に転送してください。わたしたちの目標はチベットのために200万人の声を一つにすることです。
 中国経済は世界が購入する『中国産』製品の輸出に完全に依拠しており、また、中国政府はこの夏の北京オリンピックを尊敬に値する新生中国の祝典とすることを熱望しています。一方で、中国は残酷な過去をもつ非常に多面性のある国であり、その安定性に懸念を抱かざるを得ません。 確かに、チベットの暴動参加者の中には無実の民衆を殺戮した者もいます。しかし、胡主席は中国の安定性と発展に対する最大の危険は、対話と変革を求めるチベット人によるものではなく、抑圧を強めると喧伝する強硬派によるものであることを認めるべきです。
 わたしたちは、この請願書を、抗議集会、デモ行進、集会、個人的な面会の場で、世界各地の中国政府外交官に提出しました。また、わたしたちは、署名が増え続ける限り、請願書を送り続けます。このメールの重要性についてあなた自身が友人に説明した文章をつけて、このメールをアドレス帳に転送していただくようお願いします。また、署名された後に立ち上がる"tell-a-friend"ツールをご利用いただいても結構です。 チベット民衆は何十年もの間、音を立てず苦しんできました。彼らが声を上げるときがついにやってきたのです。彼らの声が聞き遂げられるよう、わたしたちは手を貸さなくてはいけません。

希望と敬意を表して、
Ricken, Iain, Graziela, Paul, Galit, Pascal, Milena, Ben and the whole Avaaz team

以下にチベットの抗議活動とそれに対する中国の反応に関する情報へのリンク があります。
中国軍、ラサに精鋭部隊投入 チベット周辺包囲か
中国当局、四川省の暴動での発砲認める、新華社通信
チベット暴動:日本、外交で苦慮 人権問題で新たな対応も
高村外相、中国要人の来日時にチベット問題を提起へ
--------------------------(引用おわり)---------------------------------

なお、チベット亡命政府の日本代表部(ダライ・ラマ法王日本代表部事務所)による「サポート~チベット支援のために、あなたのご協力を!~」の頁も参照してください。まったくお金をかけずにできる、簡単な支援方法も紹介されています。

2008.04.08

チベット!チベット!チベット!、の巻

 4月7日(月)
 KKさんが伊勢から、好物の「さめんたれ」を届けてくれる\(^o^)/。では、一緒に食事でも、ということになり、日本では珍しい純粋のチベット料理(たいていの店は、チベット料理とはいいながら、ネパール料理との抱き合わせになっている)の店「ランゼン」にでかけることにした。
P1060421 この店では、日本人向けに味つけを変える、というところのない、まったく純粋のチベット郷土料理を味あわせてくれる。したがって、他のレストランのように豪勢なメニューを期待するのは筋違いというものである。ひとつひとつの素朴な味をかみしめながら、チベットの人々に想いを馳せれば良い。写真は肉とキクラゲ入りのお饅頭。肉厚のモチモチした皮と、熱々の具のコンビネーションがなんともいえない。
 先月からのチベットにおける「暴動」と、中華人民共和国政府がそれに対してとった強権的弾圧については、中国を除く世界中にニュースが流れたところである。その映像を見ながら、涙がボロボロとこぼれ落ちるのを止めることができなかった。そして、昨日・今日には北京オリンピックの聖火がロンドンとパリを通るというので、中国に抗議する人々が聖火リレーの妨害行動に立ち上がった、というニュースが流れている。実際の力を使った抗議、というところにまで事態が進展したことはマズイと思うのだが、チベット問題を憂い、中国政府の残虐で暴力的な行為に憤る人々の気持ちには全面的に共感せざるをえない。
P1060432 〔←店で買い求めた、ダライ・ラマ法王の絵葉書と、チベット問題についての本〕 小さな店の長押の上には、チベット仏教の最高指導者にして中央チベット行政府(ガンデンポタン、チベット亡命政府)の指導者ダライ・ラマ法王14世テンジン・ギャツォと、ダライ・ラマに次ぐチベット仏教指導者パンチェン・ラマの先代であるパンチェン・ラマ10世チューキ・ギャルツェン(1989年遷化)の写真が飾ってある(なぜここで飾ってある写真のパンチェン・ラマが先代であるのかは、「パンチェン・ラマ11世問題」およびこちらを参照)。4月6日、ダライ・ラマ法王はチベット人に向けた声明を発表した。ここに説かれている内容は、人類が到達した叡智のひとつの極地というべきであろう。暴力に対して「非暴力」、憎悪に対して「愛」、怒りに対して「理性」、虚偽に対して「真実」、そして弾圧に対して「対話」。「中国の人々の心に憎しみを生むようなことをしてはだれのためにもなりません。暴力と威嚇の上に調和ある社会が築かれることはないのですから、私たちは、心のなかに信頼と敬いの念を育むことで調和ある社会を築いていく必要がある」という言葉には、まさに千金の重みがある。他の民族紛争ならば、民族の指導者たちは憎悪を扇動し、その結果として暴力が無限大の連鎖をくりかえすということになってきたのである。現在の世界で、あれほどまでに理不尽かつ残虐な弾圧にさらされながら、しかしそれに対して暴力で応えるのではなく、忍耐強く対話を求めてきた指導者は、おそらくこの人のほかにはいないであろう。この高潔さと、中国政府の品性のない下劣なプロパガンダは、まったく見事なほどの好対照をなしている。
 それにしても、中国政府のアホさ加減はどうしたことだろう。彼らはとにかく力で押さえつけさえすれば良いのだと考えている。そして、高齢のダライ・ラマ法王14世がこの世を去ればこっちのものだと思っている(おそらく、14世が遷化した後は、自らのいいなりになる傀儡ダライ・ラマを擁立する算段なのであろう)。しかし、それで問題が解決すると思うのはまったく甘い見通しだといわざるをえない。今、チベットがあれほど緊迫しながらもからくもバランスを保っていられるのは、ひとえに対話主義・平和主義のダライ・ラマ法王あればこそである。もし、法王がいなくなれば、その後には強硬主義者や軍事路線主義者の台頭を押さえることができなくなるかもしれない。そうなってしまってはもう遅い。その時、双方が果てしない血を流し続ける地獄の紛争が無限ループで繰り返されることになるのは、他の民族紛争から見てもほとんど明らかなのである。中国政府に必要なことは、ダライ・ラマ法王が繰り返し求め続け、国際社会もそれを支持している「対話」によって問題の解決をはかることでなければならないのである。

2008.04.07

「陵墓」シンポジウム、の巻

Ts2d0018_2〔昼食の親子丼を食べに行ったついでに寄った西陣聖天さん(雨宝院)のしだれ桜=「歓喜桜」も満開。今回は、平安時代の重要文化財・十一面千手観音像も拝観することができた\(^o^)/〕

 4月3日(木)
 新入生のオリエンテーションの開始。このあたり、ウチの大学はなかなか懇切丁寧なところである。
P1060376 夕方、四条で、帰国されたばかりの山中章博士と、SM博士とまちあわせ。ひさしぶりに京都で呑むことになる。場所は祇園の炭火焼肉店。焼肉は久しぶりだな。ワインとビールで、痛飲。帰り際に、木屋町四条の高瀬川沿いに咲く、見事な桜をながめる。ちょっとしたお花見気分である。

 4月5日(土)
 16学協会シンポジウム「『陵墓』研究のいま—神功皇后陵から五社神古墳へ—」(於奈良県文化会館)にでかける。歴史学関係の学会が16集まって、宮内庁に対して天皇陵の公開を要望し続けてきた。今年にはいってちょっとした前進があり、2月22日に奈良市の五社神<ごさし>古墳、つまり宮内庁治定の「神功皇后佐紀池上陵」が限定的に公開されたのである。16学会のひとつに(財)古代学協会がはいっているので、私はそこの「陵墓問題担当」になっている。ただ、私は残念なことに、2月22日の公開日にはヴェトナムに行っており、公開に参加することができなかった。せめてもの、ということで、今回のシンポジウムで公開の成果を学ぶことにする。
 定刻10分前に会場に着くと、受付で「もう席がありませんよ」と言われる。仰天。確かに、中に入ってみると、300人の会場が超満員である。陵墓問題がこんなに市民の方々の関心を集めているとは知らなかった。しかし、立ち見はカンベンして欲しい。会場を見回すと、幸いなことに、前列の中央にひとつだけ空いているところがあった。ありがたい。身を小さくして、椅子にすべりこむ。
 日本考古学協会の西谷正会長の挨拶の後、日本考古学協会の高橋浩二氏(富山大学准教授)の「陵墓公開運動と歴史資料としての陵墓」、古代学研究会の今尾文昭氏(奈良県立橿原考古学研究所総括研究員)の「佐紀古墳群の構成と課題」、大阪歴史学会の岸本直文氏(大阪市立大学准教授)の「五社神古墳の概要」と、考古学研究会の大久保徹也氏(徳島文理大学教授)と日本史研究会の福島幸宏氏(京都府立総合資料館)が司会をされるシンポジウムが続く。シンポジウムでは、文化財保存全国協議会の宮川徏氏の「五社神古墳の築造企画と二系列併立していた大王墓」のコメントがある。今尾・岸本両氏の御報告は、いずれも精緻にして「過激」。これからの古墳研究の方向性のひとつが見えるような気がする。それ以上に重大だったのは、とにかく、陵墓の中に研究者が立ち入ることで、ここまでの情報を引き出すことができる、という事実である。この限定公開は、わずか2時間半くらいのものだったという。それでもこれだけの成果があがる、ということを示したことは、今後の陵墓公開運動に大きな刺激を与えるものとなろう。
 終了後の打ち上げに、私も誘っていただく。近鉄奈良駅近くの呑み屋にくりこんで、例によって大騒ぎ。帰りの電車では知らず知らずのうちに寝込んでしまい、京都駅で別の乗客の方におこしていただく。
 聞いたところでは、この、陵墓の限定公開は多方面の非常な関心を集めたようで、公開日にはマスコミだけではなく、たくさんの市民の方々が遠巻きに「見学」しておられたという。驚いたのは、その中には「御皇室の尊厳と陵墓の安寧を護る国民の会」という数人のグループがあって、日の丸を振りながら「何人も聖域に立ち入るな!宮内庁は陵墓をしっかりと守れ!」というスローガンを掲げてシュプレヒコールをされていたという。しかし、今回のシンポジウムでも、西谷正先生が「私たちの運動は、陵墓を発掘せよ、ということではない。発掘は破壊なのであるから、むしろ陵墓を発掘することには反対である」と表明されていたり、会場から発言された岡山大学の新納泉教授が「陵墓公開運動を政治的な対立にすりかえてはならない」という趣旨を述べられたりしていた。私もまったく同感である。政治的な立場としては、「右」も「左」もあってもよい。天皇制護持を真情とする人がいても良いし、また天皇制撲滅を信念とする人がいても、それはすべて思想信条の自由なのである。私は以前から主張しているのだが、陵墓公開の議論の中に、いわゆる「右翼」の人も積極的に入ってもらったら良いと思う。彼らとも充分な議論をして、陵墓の静謐と立ち入り調査との妥協点をどこで見いだすか、真剣に模索していったら良いと思う。重要なのは、よりたくさんの人々が真の情報に接することができるための環境を作っていく、という一点なのである。

2008.04.05

春爛漫、の巻

P1060359_2入学式が終わり、新学期が始まった。やっと暖かくなり、わが同志社女子大学の京田辺キャンパスの桜並木も満開。

2008.04.02

京都市の新入職員研修、の巻

P10603514月1日(火)
 新年度が始まった。とはいっても、大学は明日から。
 今日は、京都会館会議場にでかける。京都市職員研修センターから、平成20年度「京都市職員研修」の講演を依頼されたのである。この仕事、一昨年もやったことがあるので、再登板ということになる。題名は、「京都・歴史から未来へ」とする。
 会場に入ると、スーツ姿の新入職員が2百数十人、居住まいをただしておられる。皆さん、初日ということで緊張しているのがよくわかる。私が演壇に立つと、号令一荷「起立!礼!着席!」となるのがなんとも恥ずかしい限りである。ふと思いついて手をあげてもらうと、過半数は京都以外の出身者だという。ともあれ、皆さん、難関を突破して京都市の職員になったのだから、がんばって仕事して京都市をより住みやすい街にしていってくださいね。
 講演おわって、ぶらぶらと白川の川岸(写真)を歩きながら帰る。例年になく肌寒い4月1日だが、桜はかなり咲いており、ちょっとしたお花見気分になる。

2008.03.31

年度末いろいろ、の巻

 今日で2007年度もおしまい。明日からは新学期である。

 3月20日(木・祝)
 (財)古代学協会の「仁明朝史研究会」。

 3月21日(金)
 今年度最後の、わが学部の教員会議。

 3月22日(土)29日(土)
 JR西日本「京都おこしやす大学」の「京の魅力・探訪ウォーク」で、「中世都市嵯峨コース」を担当する(同一内容で2回)。午前中はJR嵯峨嵐山駅前のコミュニティ嵯峨野で私が講演。午後は、皆さんと一緒に中世都市嵯峨の巡見。ありがたかったのは、事務局が交渉していただき、大堰川の川岸に臨む名刹、臨川寺に入らせてもらったことである。このお寺、後醍醐天皇皇子世良親王のために建てられた臨済宗の名刹であるが、ここ数十年は拝観を停止しており、私も入ったことがなかったのである。堂々たる本堂の裏側には、開山の夢窓国師の墓が眠る。開山堂の地下に国師の遺体が埋葬されており、床下をのぞき込むと国師の石室の上端部を見ることができる。その横には、世良親王墓の石塔が建つ。本堂には足利歴代将軍の位牌が安置されており、その中には有名な足利義満の「鹿苑院太上法皇」の位牌もある。とにかく、めったに入ることができないお寺を見せていただき、大満足。

 3月23日(日)
 JR東海「そうだ 京都、行こう!」のイヴェントに出講。京都アスニーで「平安京」講座。午後は平安宮跡を巡見。

 3月24日(月)
 花園大学人権教育研究センターの懇親会。花園会館の「花ごころ」で、豚の鍋に舌鼓を打つ。私は今年度は同センターの「委嘱研究員」であったが、その任期が切れるので、いわば「お別れ会」である。私の論考も載せていただいた「花園大学人権論集」15『個の自立と他者への眼差し』も無事に刊行される。
 この日の産経新聞京都版の「きょうと 京人」に「奥深い歴史の町を楽しもう」と題して、私のインタヴュー記事が掲載される。

 3月25日(火)
 京都SKYセンター主催の「平成19年度 新・京都SKY大学」の「総合活動コースA」に出講。京都新聞社の文化ホールで「平安京・京都の歴史を歩く」を話す。

 3月28日(金)
 京都新聞文化センターに出講。「王朝時代」の3回目で、「宇治の王朝文化—頼通から忠実へ—」を話す。
 夜は、伏見の老舗料亭・魚三楼で、同志社女子大学現代社会学部の歓送迎会。去っていく方々を見送り、新年度から新たにお迎えする方々と歓談する。

------------------------------------------------------
■山田邦和「中世京都の被差別民空間—清水坂と鳥部野—」(花園大学人権教育研究センター編『個の自立と他者への眼差し—時代の風を読み込もう—』〔花園大学人権論集15〕所収、東京、批評社、2008年3月)、193〜223頁。

2008.03.19

新しい家族、の巻

Luke 3月11日(火)
 我が家に大事件。新しい家族が増えたのである。産まれて五ヶ月の真っ黒いペキニーズが来た。ウチの奥さんが「ルーク」と命名する。マック→クイール→ルーク、まるでしりとりである。
 もう30数年前の子供の頃、近所に犬が放し飼いにされていて、私はそれを可愛いがっていた。それを見た父親が、ウチでも犬を飼うことに決め、行きつけのお医者さんで産まれたばかりの子犬をもらってきてくれた。最初はあまりに小さすぎて、踏んづけてしまわないかと心配になるほどだった。メスだったので「メリー」と名付けた。それが、真っ黒いペキニーズだった。コロコロとして、足の先だけが白いのがなんとも可愛いかった。ペキニーズはマックのように茶色とかまたは真っ白が普通であって、クイールのような白黒とか真っ黒というのはかなり珍しい。とにかく、子供の時のこの経験があるので、私はペキニーズが大好きになったし、黒ペキがどこかにいないかな?と思っていた。
 新しくきたルーク、元気でやんちゃで、さっそくに家中を駆け回っている。どうか元気で育ってね。そして、マックとクイールと仲良くしてね。\(^o^)/

Kuzira 3月14日(金)
 朝日カルチャーセンター京都「平安京・京都の歴史を歩く(20)初期摂関時代の京都」の3回目で、「初期摂関時代の展開」。承和の変と応天門の変を中心に講義する。
 その後、京都市役所の方々と打ち合わせ。それが終わると某新聞社に出向き、インタヴューを受ける。
 夜は、東京から久しぶりに上洛されたM氏を囲んで、D大学のMK教授とともに飲み会。MK教授の行きつけの日本料理屋さんで、なんと、珍しいクジラのハリハリ鍋。子供のころはよく食べさせてもらった料理だが、商業捕鯨が禁止されてからは縁遠くなってしまった。M氏とともに、舌鼓。

 3月16日(日)
 大阪歴史博物館で、都城制研究会。中国・西北大学の王維坤教授の日中都城制比較研究と、花園大学の古市晃氏の飛鳥の都市論を聞かせていただく。
 夜は京都に戻る。花園大学の院生と卒業生が、私を囲む会を開いてくれる。場所は先斗町。

 3月17日(月)
 花園大学の「学位授与式(卒業式)」。私としては、これに出席するのは最後ということになる。私が指導した院生4人に、修士(文学)の学位記を手渡す。学窓を離れ、それぞれの道へと進んでいく彼ら彼女らに幸あれ。夜は、河原町四条で卒業式の打ち上げ。

Sotugyou 3月18日(火)
 こんどは昨日とはうってかわって、同志社女子大学の卒業式。なんとなく、京田辺キャンパスで開催されるように思っていたが、違った。今出川キャンパスの栄光館だった。暖かい日になったのがありがたい。栄光館の前は、振袖姿の学生の大群である。こちらはもちろんキリスト教スタイルの儀式。コトリとも音をたてず、粛々と式がすすむ。それは良いのだが、とにかく人がたくさんで、栄光館の中は暑くて閉口である。
 夜は、京都ブライトンホテルに場を移して、ウチの学科の卒業記念パーティ。卒業式ではほとんど振袖だったのが、パーティになると過半がドレスに着替えてくる。それが300人も集まるのだから、確かに華やかきわまりない。ゼミの先生方にはそれぞれの受講生が花束を贈呈して記念写真大会とあいなる。私は今年はまだ4回生を担当していないから「教え子」がいないのであるが、哀れんでもらえたのか(?)、幹事の学生さんからちゃんと花束をもらう。

=============================================================

■山田邦和「考古学者スウェーデン皇太子入洛」(丸山宏・伊従勉・高木博志編『みやこの近代』所収、京都、思文閣出版、2008年)222〜225頁(「みやこの近代(84)(85)スウェーデン皇太子来洛す(上)(下)」〈『京都新聞』2004年〈平成16年〉7月1日号〈朝刊〉・7月8日号〈朝刊〉掲載、京都、京都新聞社、2004年7月〉の補訂再録)。

2008.03.13

結婚式とパーティ、の巻

 山中博士も無事にヴェトナムに戻られ、遺跡調査を再開されたとのことである。

 3月6日(木)
 KB大学を定年退職されるTM教授のこれまでの御労苦をねぎらう、ということで、D大学のST准教授の御一行とともに大阪・梅田の土佐料理屋にくりこむ。ヴェトナムの眠気がまだ残っていたが、飲み始めるとそんなことも忘れ、ゆっくりとした時間をすごさせていただく。

 3月8日(土)
 花園大学大学院で私が担当した学生であったOK君がめでたく結婚されるということで、披露宴に参列。会場の「びわ湖大津館」とはなんだろうと思っていたら、堂々たる和洋折衷建築に着いた。かつての「琵琶湖ホテル」の建物を改装したのだという。OK君、結婚とともにN県G市の新たな職場に赴任するという。一安心である。かつての「教え子」の諸君がひさしぶりに揃う。故郷に帰ってがんばっているTS君が、もう結婚して子供もいる、ということを聞いてびっくり。さまざまな趣向をこらした披露宴となる。2次会で、ウェディングケーキならぬ「ウェディング豆腐」への入刀があったのには、笑ってしまったぞ。

 P10602643月9日(日)
 山中家の御葬儀に参列したあと、こんどはお祝いの会。新・都ホテルで滋賀県立大学の菅谷文則教授の定年退職の祝賀会があるのである。行ってみてびっくり。300人をこえる大パーティである。これも菅谷教授の交友関係の広さだな。写真は、大峰山から贈られた装束を身につけた山伏姿で挨拶される同教授。

 3月10日(月)
 (財)古代学協会の評議員会。東京から専務理事のSH先生が来洛され、古代学協会の今後について述べられる。まだまだ不確定要素は多いのだが、学術雑誌『古代文化』の重要性は皆の共通する思いである。とにかく、やれるところからやっていこう。

2008.03.10

哀悼、の巻

 3月9日(日)
 悲しい出来事がおこった・・・
 山中章博士の御母堂がみまかられたのである。私がヴェトナムから帰国した次の日だったらしい。山中博士は急遽、帰国された。
 実は、ヴェトナムでの発掘調査中、発掘現場で、御母堂の御病状が良くないことを山中博士から打ち明けられた。「もしかすると、急遽帰らなければならないかもしれない」とおっしゃっていたので、私も案じていたのである。調査が終わって博士が帰国されるまで何とかご無事で、と祈っていたのであるが、それもかなわなかった。俗な言い方をすると「死に目に会えなかった」ということになるのであろうが、「大好きなアジアに息子が行くのだから、死に目に会えなくても『現場、が大事だから!頑張れ!』と言ってくれたとおもう」、というのはまったくその通りだったのだと思う。
 今日、伏見で、博士御母堂の葬儀がしめやかに営まれた。あまり大きいことにしたくない、という博士の御意向もあって、研究者仲間にはほとんど知らせていなかったようである。DJ大学のOH教授、KRM博物館のHK教授、K大学のNR教授、それから、私たちの盟友のSM博士が参列されていた。
 葬儀が終わって、山中博士が御挨拶を述べられる。声をつまらせ、涙をこらえながら感謝の言葉を述べられる博士を見ていると、こちらの目頭も潤んでくる。「自分は神を信じず、人間も死んだら単なる元素に帰るだけだと思っている。しかし、母にだけは来世があって、極楽で楽しく過ごしてもらいたいと思う」というのは、一見するとまったく前後相矛盾しているのであるが、その実、博士ならではの真情に溢れた温かい言葉だったと思う。
 私たちの「10年会」の大切な大切な仲間であるAEさんからは、心のこもった弔電が届いていた。「かくも才気溢れた魂をこの世に送り出してくだされたお母様に、感謝」という言葉には、心から同感である。山中夏美様、山中章博士を慈しみ育てられたことに、私たちは心から感謝いたします。どうか、やすらかにお眠りください・・・ 〔合掌〕

2008.03.07

ヴェトナム(10)、の巻

〔タンロン皇城跡出土須恵質円筒形鉢の分類〕
Photo_2 タンロン皇城跡の遺跡を調査しながら、自分に何ができるのか、ということを考えていた。とはいっても、ヴェトナム考古学にはまったくの門外漢である。遺跡も、さまざまな時期の遺構が複雑怪奇に積み重なっていて、とても一筋縄ではいきそうにない。
 われわれの発掘現場でも、また隣の地区でも、土器・陶器を多量に含んだ包含層が露出している。その中にあって、日本で言うと須恵器か中世の無釉陶器にあたるような焼きの、円筒形の鉢がやたらに目立っている。どれくらい目立つかというと、犬も歩けば棒にあたるという言葉があるが、考古学者も歩けば円筒形鉢にあたる、というくらいにたくさんあるのである。これをじっくりと見ていると、どうも地区ごとに型式の区別ができそうだ。こうした普遍的な遺物の分類と編年をやっておけば、パッと見ただけでだいたいの時代がわかることになる。それは、調査に参加する学生達にも、またこれから現場に来て頂く研究者の皆さん方にも、ある程度は役に立つものになるのではないか、と思い出したのである。それからは時間をみつけてはタンロン皇城跡の各地区を歩き回り、円筒形鉢を観察することにつとめた。現場に寝ころんでいる土器の出土状態を写真にとり、実測用具をとりだして略測していった。
 なお、現場の整理室には大型の「サヤ鉢」(窯道具)が大量に並べられており、私も最初はこの「サヤ鉢」と円筒形鉢を混同していたが、よく見ると両者はぜんぜん違う。サヤ鉢は大型(口径30cm以上)で厚手で粗製の土器であるが、円筒形鉢は中型〜小型(口径15〜25cm)で、作りもなかなか精妙な焼物である。

 研究成果はすみやかに公開して共有財産にすべし、という山中博士の方針に従い、分類の概略を述べよう。
 円筒形鉢は大きくわけてI〜IVの4型式にわけられる。さらに細かく見ると、I型式はIa・Ib・Icの3小型式に、III型式はIIIa・IIIbの2小型式に細別するのが可能になるから、Ia・Ib・Ic・II・IIIa・IIIb・IVの7型式にわけることができるのではないかと思う。

 I型式は、口縁部が「く」の字形に屈曲するものである。タンロン皇城跡の宮殿建物跡にともなうと見られるのは、すべてこの型式である。3つに細分できる。Ia型式は口縁部の屈曲が鋭く、胴部がやや湾曲する。胴部は調整痕を丁寧にナデ消す。Ib型式は口縁部断面がやや方形になり、胴部が円筒形になる。調整痕をナデ消す。Ic型式は口縁部断面が長方形に近くなる。口縁部下端に数条のカキメ沈線をいれる。胴部には縦方向の条線の文様をいれるようになる(西村昌也氏によると割った竹を押し付けて施文するという)。
 II型式は、口縁部断面が楕円形になるもの。一番の特徴は口縁部内面に1条の突帯をめぐらすことである。これは明らかに、I型式で見られた口縁部の屈曲の「痕跡器官(ルジメント)」である(ルジメントの典型例として、考古学の授業で使いたいくらいのものだな)。外面の文様は、Ic式を引き継ぐ。われわれの発掘調査地区であるD3区の下層の遺物包含層にみられる。
 III型式は、口縁部が玉縁状になるもの。われわれの発掘調査地区の上層の包含層にみられる。外面の文様は、Ic〜II式を引き継ぐ。ふたつに細分できる。IIIa型式は口縁部内面の「痕跡器官」の突帯がのこる。IIIb型式は「痕跡器官」が退化し、「く」の字形の屈曲となる。
 IV型式は、全体に退化が進み、ぼったりと厚ぼったい粗製になるもの。外面の文様が消失する。発掘現場では見られなかったが、整理室で見つけた。おそらく、最上層から出土したものだと思う。

 この分類に実年代をあてはめるのは、なかなかにむつかしい。ただ、I型式はタンロン皇城の主要建物に伴うから、李朝(11世紀前葉〜13世紀前葉)から陳朝(13世紀中葉〜14世紀末葉)にかけてのものだと考えてよい。それに対して、II・III式はそうした宮殿の建物を破壊して埋められた分厚い包含層に含まれるから、黎<レ>朝(15世紀中葉〜18世紀末葉)に降ると考えることができる。IV型式は、おそらく黎朝のある段階のものであろう。そうすると、I型式を11世紀〜14世紀、II・III型式を15・16世紀、IV式を17世紀以降と考え、その中で年代を割り振っていくというのが穏当であるように思う(Iaを11世紀、Ibを12世紀、Icを13世紀、IIを14世紀、IIIaを15世紀、IIIbを16世紀、IVを17世紀というように1世紀ごとに割り振れたら綺麗なのだが、まあそんなにうまくは割り切れないだろうな・・・(^^;))。

 ただし、これはあくまでも現段階の仮案である。われわれの共同研究者西村昌也氏の博士論文『紅河平原とメコン・ドンナイ川平原の考古学的研究』(東京大学大学院人文社会研究科2006年度提出)を見せていただくと、ヴェナトム各地ででた多数の同様の土器が分類・編年されている。こうした御業績を勉強させていただき、分類と編年を徐々に固めていきたいものだと思う。

2008.03.06

ヴェトナム(9)、の巻

 無事に日本に帰国しました。みなさま、ありがとうございましたm(_ _)m。

 0000001〈タンロン皇城跡発掘調査現場で、塼<セン>積みの宮殿遺構の観察〉

 3月4日(火)(続き)
 山中博士からは、「お土産が必要なら、午後は発掘を休んで市内で買い物をしていただいても良いですよ」と、めずらしく(?!)優しい言葉を掛けていただく。しかし、なんだかやっぱり遺跡のことが気になって、結局は最後まで現場でウロウロしていた(写真)。そうすると、やはり今まで気がつかなかったことに目を開かされる。刑事ではないが、現場百遍、というのは考古学でもまさに真理だな。
 17時半、作業終了。18時、ホテル帰着。シャワーを浴びてさっぱりする。このホテル、シングル・ルームにはシャワーだけで浴槽は設置していない(学生が宿泊していたツイン・ルームには浴槽がある)。私としては、それはまったく苦にならない。トイレとシャワーがひとつの洗面所の中にあるのは通例であるが、シャワーの部分がガラスの扉で仕切れるようになっていることは大変大変ありがたい。私は、シャワーがカーテンで仕切られているヤツが、濡れたカーテンが身体に触れたり、シャワーのあとに用を足そうとするとトイレまで湯気でもうもうとしていたりというので、大嫌いなのである。おかげで、仕事帰りのシャワーを日課にすることができた。
 あわてて荷物を部屋中にぶちまけるが、なかなか整理はつかない。18時半、皆さんとともに夕食。持ってきたポカリスエットの粉末や液体石鹸の余りを学生たちにさしあげる。
 20時、やっと整理が完了。近くのシェラトン・ホテルまで行ってタクシーを拾う。ここで、山中博士と学生さんとはお別れである。夜の高速道路を疾走して、ハノイの国際空港に到着する。夜の空港は気が滅入るようで嫌いなのであるが、これはやむをえない。チェック・イン・カウンターのところで並んでいると、あちらから大きな荷物をひっぱった日本人男性が近づいてきて私の後ろに並ぶ。あれっ?、と思うと、大学の先輩にあたるNI氏であった。N市教育委員会に所属なのだが、今はそこからユネスコの関連組織に派遣されて国際交流業務を担当しておられる。今回はヴェトナムの農村との交流事業のために来越されたのだという。日本では近くにいるのにいつもお目にかかる機会を逸しているのに、こんなところでバッタリとは面白いことである。お互いに、奇遇を喜ぶ。
 チェック・インは思ったよりも簡単にすみ、あとはひたすらに飛行機を待つ。しかし、眠たくて仕方ない。何でも良いからとにかく早く乗せてよ、と言いたくなる。23時15分、やっとゲートが開き、飛行機に乗り込む。
 23時30分、離陸。やっとウトウトとしたと思ったら、2時間余りでもう朝食が出る。けっきょく、ほとんど寝られなかった。ボーッとした頭を振る中、5時30分(ヴェトナム時間ではまだ夜中の3時30分)、無事に関西国際空港に着陸。6時半の関空特急「はるか」を待ち、8時過ぎに京都に帰ってくる。
 私がいなくなった途端に山中博士は豪華な洋風居酒屋なんぞでグルメと洒落込んでいるようである。私は、久しぶりに和風中華料理屋にでかける。その後、ウチの奥さんが行きたがっていた新開店の居酒屋で日本酒。しかし、やはり寝不足が祟っているようで、一杯飲むともう眠気が襲ってくる。早々に帰宅し、そのまま布団にもぐりこんで、爆睡。そのおかげで、やっと元気を取り戻す。

2008.03.04

ヴェトナム(8)、の巻

 3月4日(火)
P1060249 私のヴェトナム滞在最終日。山中博士らはあと2週間、発掘を継続されるが、私は一足お先に帰国である。今はヴェトナム時間19時(日本時間21時)。これから空港に向かい、深夜の飛行機に乗り込み、日本到着は明日の早朝となる。
 発掘現場で記念写真。両脇は、ヴェトナム在住の考古学者、西村昌也氏・西野範子氏の御夫妻。西村さん、西野さん、本当にお世話になりました。ありがとうございました。そしてもちろん、今回の得難い機会を与えてくださった、山中章博士に、深謝。

2008.03.03

ヴェトナム(7)、の巻

P1050944<>〔コーロア城跡の城壁遺構〕
 3月2日(日)
 この数日、ハノイの気温は変化が激しい。朝がたは結構冷え込むのでセーターなどを着ていくと、昼頃には暑くなってしまい、上着を脱ぎ捨てる、ということになっている。
 さて、発掘もエンジンがかかってきたのであるが、私はあと数日で帰国である。2週間というとかなりの長い時間のように思っていたが、実際には早いものだな。
 この日は、みんなでハノイ北郊のコーロア城跡の見学にでかけることになる。全員そろっての遠出は初めてなので、なんとなくウキウキする。朝8時、われわれのホテルに、ヴェトナム考古学研究所のヒープ氏と、コーロア城跡の発掘調査にとりくんでいるアメリカ・イリノイ大学大学院生のナム氏とが迎えにきてくれる。おふたりとも実に気さくで誠実な方々で、車中でも会話が弾む。
 30分くらいで、コーロアの遺跡に到着する。周囲8kmの大遺跡で、外城・中城・内城の3重の城壁が実によく残っているのに驚愕!! ヴェトナム学界の定説では、これがなんと、紀元前3世紀に構築されたという。もしこの時期比定が本当ならば凄い事である。それを批判する能力はもちあわせていないが、いずれにしても東アジアでは中国文明に比肩する巨大な都市を築いていたことになる。これは見逃せない遺跡である。
 遺跡中心部にある小さなお寺で内城壁を見た後、中城壁と外城壁を踏む。それから、中城壁の北端のナム氏の発掘現場を見学させてもらう。城壁の複雑な構造がよくわかる、きわめて興味深い成果が得られる。その後、もう一度、遺跡中心部に戻って、村の集会所に附設された展示室を観覧。
 ハノイに戻る途中でちょっと豪華な昼御飯をよばれて、われわれの現場まで送ってもらう。ここでヒープ氏とナム氏とはお別れ。お世話になりました。

2008.03.02

ヴェトナム(6)、の巻

 2月29日(金)
 現場を見渡すと、いろいろな土器が露出している。施釉陶器もあるけれども、多くは素焼きの硬質土器で、還元焔焼成の暗灰色の焼物である。ということは、日本の須恵器に該当する焼物だということになる。須恵器の研究ならば、私は専門家の部類に属するはずである。
 と、いうことで、現場やその隣の発掘区に点在する土器を注意してきた。まだはっきりしたことはわからないが、どうも型式変遷が追えそうなものがある。ウチの現場での層位関係と対応させると、うまく編年が組めそうに思える。ヴェトナム考古学界でこういう地味な土器の研究がどこまで進んでいるのか知らないのであるが、自分なりに考えをまとめて見たいものである。
 夜、共同研究者の西村昌也氏・西野範子氏御夫妻のご自宅にうかがい、検討会。

 3月1日(土)
 午前中、山中章博士は三重大学の卒論発表会にインターネット参加されるとかで、現場を離れられる。それにしても、ハノイから日本に電子会議で参加できるとは、時代も変われば変わったものである。昔、私がエジプトの発掘調査に行った時など、日本とはほとんど音信不通。唯一の通信手段はカイロの日本大使館の御厚意で預かってくれる郵便だけだったもんな・・・ しかし、逆に、世界のどこに居ても仕事が追いかけてくるというのは、便利なようでまったく難儀ものでもある。

2008.02.29

ヴェトナム(5)、の巻

 2月28日(木)P1050821 〔ハノイの歴史博物館〕
 ヴェトナムに来て、一週間がすぎた。なんだか、もう何ヶ月もこちらにいるような気がするな・・・
 ようやく、発掘区全体の土層堆積の概要がつかめてくる。とにかく、15〜16世紀頃に、遺物が大量にはいった土で2m以上も分厚く埋め尽くしているようで、しかもその土が北から南へと斜めに傾斜している。
 午後からは、山中博士のお許しを得て、はじめてひとりでハノイの市内にでかけることにする。今まで一週間、ほとんどホテルと現場の往復だけだったから、そろそろ外出がしたかったのである。第一の目的はやはり、ハノイの旧市街に位置する、歴史博物館である。大学で博物館学芸員課程を担当するわが身としては、外国に出かけて博物館を見ずに帰ってはまったく立つ瀬がないのである。
 歴史博物館はヴェトナム語では「Bao tang Lich Su」。なるほど、「リクスー」というのが「歴史」で、「バオタン」が「博物館」だな。フランス支配時代の1932年に建てられた美しく風格ある建物(写真)である。入場料は1万5千ドン、別にカメラ持込代として1万5千ドンが必要だから、合わせて3万ドン。だいたい2百数十円、といったところである。考古学遺物を中心として、ヴェトナムの通史が展示されている。やはり、目玉となるのはドンソン文化の銅鼓であろう。ごくおおざっぱであるが、ヴェトナムの考古学資料を堪能することができた。もっとも、もうすこし展示に地図とか復元図を活用して欲しいとは思うが、それはないものねだりだろうな。図録が売ってなかったのは少し肩すかしだった。
 歴史博物館を出た後、少し時間があるので、隣の「革命博物館」を見て(ガイドブックには有料だとされていたのだが、行ってみるとどういうわけかタダだった)、インディラ・ガンジー公園に立つ李朝大越国の初代皇帝・太祖李公蘊(リー・タイトー)の銅像を眺める。それから、ホアンキエム湖を回り込んで、チャンティエン通の商店街を冷やかす。大きな書店があったので、精密な地図が欲しいと思って入ってみたが、これはかなえられなかった。
 タクシーに乗り込んで、旧市街の中心にある「東河門」へ向かう。阮朝時代のタンロン城の東城壁の門として唯一現存しているものである。ところが、タクシーが悪かった。一昨日もそんなのに乗り合わせてしまったのだが、メーターが見る見るうちにカシャカシャと上がっていく。普通の倍近い値段を払わされてしまったのだが、どういうことかよくわからない。タクシーにも何種類かあって、やたらに高いメーターをつけているものもあるのかもしれない。まあ、日本円に直せばたかが知れている額なのであるが・・・・
 東河門は思ったよりもこじんまりとした可愛らしい城門であった。その周囲はまったくの庶民の街。狭い道路の周りにいっぱいのお店屋さんが並んでいる。その近くには、ハノイを代表する市場であるドンスアン市場もあった。
 くたびれて、やっとタクシーをつかまえると、これがなんと、メーターを使わないタクシーだった。これは危ないのであわてて降りると、逆に、タクシーの兄ちゃんがえらく安いことを言いだす。半信半疑、ドキドキものでもう一度乗り込んだのだが、結局はその安い金額で済んだ。まったく、わけがわからないものである。

2008.02.27

ヴェトナム(4)、の巻

P1050714〔← 山中博士の人生は、このようにたくさんの人たちに支えられているのです〕
 2月26日(火)
 この季節のヴェトナムではしばしばあることらしいが、朝から天気が悪い。雨とはいっても、日本風にいうならば「霧雨」である。巨大な噴霧器で空中全体に霧を吹きかけているようなものである。なるほど、これでは洗濯物が乾かないのもさもありなん。しかし、ヴェトナムの作業員の人たちは勤勉で、この霧雨の中でも黙々と仕事をつづけている。私たちも、100円ショップで買ってきた簡易レインコートに身を包んで、現場に立つ。とはいっても、雨は雨。地面が泥濘んで、歩きにくいことはこのうえない。
 困ったことに、学生諸君が次々に体調を悪くする。女子学生のひとりはホテルで寝ているし、男子学生のひとりは現場の簡易ベッドに身体を沈める。疲れが出てきたのだろうな・・・
 夕方、A地区にある研究所での会議に臨む。重要な点でかなりの駆け引きがあったが、結果としては山中博士の粘り勝ちとなる。最低限ではあるが、うまくいけばヴェトナム考古学の都市遺跡調査に新たな画期となるかもしれない。
 晩にはN氏の友人の日本人がやっている日本食レストラン「紀伊」に連れて行ってもらう。南郊殿の遺跡のすぐそばの場所である。ホヤのシオカラやウニなんて、ヴェトナムで食べられるとは思わなかったぞ。

 2月27日(水)
 現場の土層の認識はほぼできつつある。もう少しすれば、掘り下げにかかれるだろう。それに備えて、現場の地区割と基本的層序を決定する。
 それにしても、ヴェトナム側の作業員の皆さんは実に勤勉である。我々が現場入りする前の、朝の7時からもう作業を開始しており、昼の11時半まで、まとまった休憩無しに黙々と働き続ける。午後も、2時間の休みを挟んで、13時半から17時までが仕事である。私たちとは言葉が通じないのがもどかしいのであるが、こちらがあいさつするとこの上ない親しげな笑顔がかえってくる。こんな笑顔を見ていると、ヴェトナム人には悪い人はいないような気がしてくる。
 びっくりしたこと。現場の付近の樹木、青々とした葉っぱを豊かにたくわえているのは良いのであるが、風が吹くと、葉っぱがまるで嵐のように降り注ぐ。現場の写真撮影しようとしてせっかく奇麗に掃除しても、すぐに葉っぱの嵐となる。あとからあとから、まったくキリがないのである。なかなか、難儀なことである。

2008.02.25

ヴェトナム調査は続く、の巻

 2月25日(月)
P1050586
 23日(土)には、調査区の西壁を精査と掘り下げ。要は、堆積層の状況を確認しなくてはどないもこないもならないのである。しかし、堆積の状況は近世の京都都市遺跡(平安京左京)に似ている‼ 大量の遺物を含む土で、分厚い埋土が形成されているのである。違いといえば、こちらの埋土にはイヤになるほど大量の塼(レンガ)が含まれているということくらいである。
 この日の夜は、ヴェトナム側のご招待による宴会(写真)。ホテルの近くのシーフード・レストランで、貝とカニに舌鼓をうつ。
 ところが、どうも疲れが出てきたようである。宴会の最後の頃から、どうも調子が悪い。ホテルに帰ってすぐに寝るのだが、お腹がシクシクと痛みだして、眠れない。
 
 2月24日(土)
 ふらふらしながら起床。外国に来て体調を崩すのは例のごとしとはいえ、どうにも気分が滅入るものである。山中博士にいたわられながら、なんとか出立。まずは、ハノイ南部にあるタンロン城の「南郊殿」跡の発掘現場に向かう。これはぜひ見たかった。行ってみてびっくり!! 巨大な工事現場のようなところに、一辺1.5mくらいの木箱が数えきれないほどに列をなしている。なんと!!、現地保存ができないとかで、遺構を切り取って移設する作業をしているというのである。日本でも小規模な遺構を切り取り保存することはあるけれども、ここではいわば、ひとつの遺跡を丸ごと、バラバラに分解して切り取っていこうとしているのである。しばし、絶句。
 われわれの現場にもどるが、やはり調子悪い。微熱もあるようで、ほとんど立っていられないのは情けない限りである。なんとか現場作業を終えてからホテルに戻り、薬をしこたま飲んで、布団にもぐりこむ。

 2月25日(月)
 やはり疲れがたまっていたようである。こんな時にはなによりの薬は睡眠。一晩ぐっすりと寝たおかげで、なんとか回復した。ご心配おかけしました(山中博士は、山田が調子が悪いのは自分がイジめたためではないとか、毒をもったわけではないと強調しておられるが、これはウソではないだろう。犯罪には必ず動機がある。今、私に毒を飲ませても、山中博士には一文の得にもならないのである。念のため・・・)。
 午前中、われわれの現場の東側に隣接する「A区」を見学。タンロン皇城跡でも最も調査が進んでいる地区である。ちょうど現地指導に来ておられたN研究所のI氏にお目にかかり、遺跡について意見交換。そして、A区をじっくりと見学。
 われわれの現場の南側では、旧・国会議事堂の建物を壊している。ここも近く発掘調査が開始されるはずである。ふと覗いてみると、敷地の真ん中に机を持ち出して、地鎮祭の祭壇が設けられている。かわいらしい馬の作り物、花、お菓子、お酒、紙銭、鶏肉などが捧げられている。終わった後は、敷地の隅っこで作り物や紙銭を燃やして煙にする。面白い場面に出会うことができた。

2008.02.23

ヴェトナム2日目、の巻

 2月22日(金)
 ゆっくり寝て、6時起床。朝はホテルでヴェトナム式のウドンをすする。なかなかに美味なものである。外国に行って現地の食事をおいしく食べられるというのは、幸先の良いものである。
 現地の共同研究者のN氏御夫妻に出迎えていただき、さっそく現場へ。ヴェトナムの大統領官邸の目の前という、日本で言うと霞ヶ関のど真ん中という信じられないところにある遺跡である。ヴェトナム側の責任者のT氏のご案内で、遺跡をじっくりと見学する。
 実は、今日は遺跡の見学と調査計画立案だけでのんびりできるだろうと思っていたのであるが、これは甘かった。なんのなんの、山中章博士をボスとする調査がそんなことで済むはずはないのである。しごく自然な流れとして、現場作業が開始される。私も手ガリを手にして、あわてて現場にとびこむ。まずは既掘部分の土層断面の精査である。最初は何がどうなっているか検討もつかなかったが、削っていくうちに、なんとなく遺構全体の雰囲気がつかめてくる。
 夜は、ホテル近くのヴェトナム料理店で乾杯。ヴェトナム料理といえば香草がギンギンきいているようなイメージでちょっと心配していたのだが、案ずるより産むが易しだった。これくらいの香草ならば、刺激物嫌いの私にもまったく問題はなくおいしく食べられる。カエル料理やイノシシ料理など、めずらしいものも堪能させてもらう。

2008.02.22

ヴェトナム入り、の巻

 2月21日(木)
 ヴェトナム・ハノイのタンロン城調査プロジェクトに参加の1日目。
 早朝5時に起きて、そのまま関西国際空港へ。9時に山中章博士御一行と合流。11時のホーチミン行き飛行機に乗り込む。ホーチミン経由で、ハノイ着は現地時間夜の19時半。ホテルはハノイ北郊の、小さいがなかなか奇麗なところで、ほっと一安心である。インターネットも無事つながるようで、これもありがたい。さあ、明日からは現地調査の開始である。

2008.02.20

明日からヴェトナム、の巻

 しばらくブログを休んだから、どうしてるのか?と思ってくれた方もいると思う。何のタタリか、この3週間、タチの悪いカゼに取り憑かれて難渋していた。治ったと思うとまたぶり返しという連続で、エライ目にあってしまった。今日もまだボーッとしているのだが、とにかく明日からはヴェトナムに行くことになっている。とにかく今日は早く寝て、明日に備えねばならない。

 1月23日(水)
 古い友人のOHさんが九州より久しぶりの上洛。MS氏・NJ氏御夫妻とともに、歓迎の宴。西陣の小洒落た料亭でのひとときを過ごす。

 1月27日(日)〜30日(水)
 入学試験の前期日程。ひたすら、襟を正して待機。

 1月29日(火)
 脇田修・脇田晴子両先生の『物語京都の歴史—花の都の二千年—』ができあがった。私は、同志社大学の鋤柄俊夫准教授とともにこの本の巻頭図版の歴史地図の作成に協力させていただいた。新書としてはムリを言って、歴史地図はすべてカラー印刷にしてもらう。でも、なかなかの出来上がりとなった。今日はその打ち上げの宴。国登録有形文化財にも指定されている洛中の料亭・近又で、ゆっくりとした時間を過ごさせていただく。ありがたや。

 2月1日(金)
 久々の、平安京・京都研究集会の準備会。五月開催予定です。皆様、お楽しみに。

 2月2日(土)・3日(日)
 山中章博士のお膝元、三重大学に出向く。第10回考古学研究会東海例会「古代東海と奈良時代王権」が開かれるのである。のんびりと近鉄特急に乗っていたら、山中博士から電話。なんと、打ち合わせ会はもう始まっているという。あわてて電車を飛び降り、三重大学に滑り込む。
 私に当てられたのは、初日のシンポジウムで「コメント」をやること。例によって何も考えずに行こうかと思ったのだが、山中博士の怒顔を想像するとそういうわけにもいかない。温めていた「聖武・天武両天皇の首都構想」のサワリを話させてもらう。私の持論なのだが、要するに、聖武天皇と天武天皇は難波宮を正都(第1首都)と構想していた、という結論である。思いがけずも山中博士からは、「めずらしくふたりの意見が一致しましたね」との評をいただく。コメントをしてしまうと、あとはひたすらに勉強させてもらう。頭がいっぱいになったところで、おいしいお酒。
 3日の朝、おきると、窓の外は一面の銀世界であった。この日は私の誕生日。ついに49歳になってしまった・・・・
 
 ◎山田邦和「聖武・天武両天皇の首都構想」(第10回考古学研究会東海例会資料集『古代東海と奈良時代王権』所収、津、考古学研究会東海例会、2008年2月)、88〜90頁。
 ○山田邦和「コメント 聖武・天武両天皇の首都構想」 山中章司会、榎村寛之・天野三恵子・大崎哲人・山田邦和「ミニシンポ 文献・考古資料からみた聖武東国行幸」(第10回考古学研究会東海例会「古代東海と奈良時代王権」、於三重大学共通教育190番教室、2008年2月2日)。

 2月10日(日)
 前近代都市論研究会。アスニー山科で、SK大学のKM氏の「平安京都市文化とニオイ」、H大学のFA氏の「五・六世紀の王宮をめぐる基礎的問題」を学ぶ。懇親会は琵琶湖畔に立つドイツからの移築民家のドイツレストラン・ヴュルツブルグで、ドイツ料理。間もなくドイツに遊学される仁木宏さんの壮行会を兼ねる、ということだったが、何か雰囲気がおかしい。ありゃ?と思っていると、おもむろにサープライズ発表がある。いや、おどろきましたが、でも実にめでたい。次のサープライズの時には「3悪トリオ筆頭」某古代史研究者のフレンチカンカン踊りが見られるという約束までとりつけたので、ますますめでたい。

 2月11日(月・祝)
 東京からSH先生が来られるので、じっくりと相談事。

 2月12日(火)
 花園大学の修士論文の口頭試問。私は、四人の主査ということになる。夜は、審査を終わったばかりの院生5人(考古学4、古代史1)と、古代史担当のFA先生、考古学担当のTK先生をお招きして、我が家でささやかな「打ち上げ」をやる。試問が終わったから、みんなホッとしている。巣立っていく彼ら彼女らの前途に幸いあれ!

 さあ、明日は早起き。2月21日(木)〜3月5日(水)の2週間、山中博士のプロジェクト、ヴェトナム・ハノイのタンロン城(昇竜城)の遺跡調査へ参加させていただくのである。はてさて、どうなることか? (うまくインターネットにつながれば、向こうから更新することもありえます。でも保証はできませんので、本格更新は帰国後になります。それでは・・・m(_ _)m) 

2008.01.23

「岩手日報」に載る、の巻

 時々、インターネットの検索エンジンに自分の名前を打ち込んでみることがある。中には、思いもしないところに自分が登場していることがあって、なかなかに面白い。以前には、「天漢日乗」というブログで、「最近、山田邦和先生経由で、与那原家という沖縄そば屋を知った。早速注文すると、もの凄い太っ腹なお店であった(以下略)」という書き込みに出会って驚いたことがある(私がご紹介した沖縄そばに満足していただけたようで、大変結構でした(^o^))。

 昨日、そうしてやってみると、岩手県の地方紙である「岩手日報」がでてきた。あれっ?、ということで接続してみると、同紙の2008年1月7日号に掲載された「埋文行政の未来 発掘から活用に重点を」(中村紀顕執筆)という記事がでてきた。現在、埋蔵文化財行政は「危機」的な状況にある。バブル崩壊後の不況と小泉改革が相まって、埋蔵文化財調査専門機関はどこもかしこも経営難と行政からの締め付けに喘いでいる。さらに、民間企業も遺跡発掘調査に乗り出しており(いわゆる「発掘会社」)、それが自治体傘下の埋蔵文化財調査専門機関の「パイ」を浸食することにもなっている。学術雑誌『日本史研究』の編集委員会から、こうした現状を考え直すための提言を、という依頼を受けて同誌に執筆したのが、私の「時評 埋蔵文化財をめぐる社会システムの混迷」という一文であった。「岩手日報」はそれに注目し、記事の中でとりあげてくれたのである。

 〔以下、引用〕「行政や関連組織は今後埋蔵文化財に対し、どういう立脚点にあるべきか。貴重な提言が07年10月発行の「日本史研究542号」に掲載された。山田邦和・同志社女子大教授の「時評 埋蔵文化財をめぐる社会システムの混迷」がそれだ。
 「このなかで山田教授は、文化財保護法の<第3条 政府及び地方公共団体の任務>を論拠に「文化財を保存し、国民文化に役立てるという仕事こそ『公』の果たす責務だ」とする。具体的には、目先の発掘調査に追われることから脱して▽遺跡の保護▽民間組織の指導・監督▽出土遺物の保存・管理・研究・活用-こそ重要だ、としている。国民のためにある文化財保護という考え方で、多くの賛同を得られる示唆だ。」〔引用終わり〕

 私の提言の主旨を正確に紹介してくれており、ありがたい限りである。私の現状認識としては、自治体や自治体傘下の埋蔵文化財調査専門機関が民間の「発掘会社」と、少なくなった「パイ」を奪い合うだけでは考古学界の未来はない。バブル期のように、自治体や自治体傘下の埋蔵文化財調査専門機関が休む間もなく遺跡の発掘に追いまくられるという方が異常だったのである。これから絶対にやらねばならないのは、埋蔵文化財の調査研究にとって、民間に委ねても良い部分は何か、その一方で「公」が絶対に果たさなければならない責任とは何か、ということを充分に見極めることなのである。拙文の締めくくりに記した「たとえ政府や地方自治体が財政難に苦しんでいるとしても、それは、このような『公』の責任を放棄することの理由にはならないのである」という文章には、こうした想いをこめたつもりでいる。
 ささやかな提言であるが、それに注目してくださった「岩手日報」に、深謝 m(_ _)m m(_ _)m。