2009.11.21

豊臣秀吉と大山崎、日蓮、の巻

Flyer_yamazakishiryo
 11月20日(金)
 行こう行こうと思っていてグズグズしていた展覧会を二本。
 午前中、大山崎町歴史資料館の「豊臣秀吉と大山崎」展。受付を覗くと、学芸員のF島K彦さんがおられる。近畿地方における中世城郭の研究ではトップを走っておられる研究者である。挨拶して、じっくりと展示を拝見。小さな博物館で決して派手な活動をやっているわけではないが、噛めば噛むほど味の出る展示である。堺市博物館本の「洛中洛外図屏風」におめにかかる。周山の慈眼寺にある明智光秀木像も出品されている。有名な作品であるが、実は私も現物を見るのははじめてである。また、山崎の中心寺院のひとつである「宝積寺絵図」はみもの。
 事務室にお邪魔してF島さんからいろいろ教えてもらった後、古代学協会に急ぐ。『古代文化』の編集委員会。
 終了後、ウチの奥さんに迎えにきてもらって、一緒に、京都国立博物館。ここでは、「『立正安国論』奏進750年記念『日蓮と法華の名宝—華ひらく京都町衆文化—』」が開催中。しかし、11月23日までであるから、あやうく見逃すところであった。金曜日は夜間開館しているから、なんとか間に合ったぞ。法華宗とはあんまりご縁がないのだが、京都の中世を考える場合にはなくてはならない重要なものである。日蓮自筆の「立正安国論」を眼前にして、フムフムと頷く。
 夕食は、東一条まで足を伸ばして、レストラン「しらん」のフレンチ。

2009.11.15

全国大学博物館学講座協議会西日本部会@伊勢、の巻

 11月13日(金)14日(土)
 全国大学博物館学講座協議会西日本部会。会場は三重県伊勢市の皇学館大学。
091115_2〈←新装なった伊勢神宮の宇治橋〉
 ◎伊勢神宮(正式な名称は、単に「宗教法人 神宮」)は、まもなく20年に一度の式年遷宮をむかえようとしている。その先頭をきって、五十鈴川にかかる宇治橋が架け替えられた。檜の匂いが香しい新品の橋を渡るのもなかなかいいもんだぞ。神宮本殿では、特に申し込んで、内垣内での正式参拝をさせていただく。めったにない機会を与えていただいた。
 ◎伊勢神宮は、充実した博物館群を持っていることでも知られている。神宮徴古館、神宮美術館、神宮農業館である。徴古館は、重要文化財に指定されている福岡県羽根戸出土の須恵器配像筒形器台と子持ハソウが所蔵されているので、だいぶ前に行ったことがあった。しかし、美術館や農業館は初めてである。これらは実は、日本最初の私立博物館であるという。現在も残っている農業館の建物が、京都にもたくさんの作品を残した「宮廷建築家」の片山東熊の設計になるものであったことも興味深い。また、農業館には、日本最初のジオラマともいうべき模型が展示されていたりして、博物館学的にも大変重要な意義がある。
 ◎皇学館大学は神道博物館を持っている。大変充実した施設であり、大学でこういう博物館を整備しているとは羨ましい限りである。度肝を抜かれたのは、皇学館大学の「博物館実習」受講学生による展示がおこなわれていたこと。とはいっても、よくあるような、いかにも手作りの「学園祭」的な展示ではない。堂々として内容も濃い、どこかの博物館の企画展にそのまま持っていっても通用しそうなレベルである。案内に立ってくれた学生の皆さんに聞くと異口同音に、大変だったけれども充実していた、という答を聞く事ができた。皇学館大学の学生の皆さんの熱意と、指導された先生方の情熱とに、感動。
091115_3〈←皇学館大学神道博物館〉
 ◎受け入れ校側の担当者のおひとりが、中世史の岡野友彦教授であった。神道博物館の館長もかねておられるという。岡野教授の御厚意により、教授の最新刊である『北畠親房―大日本は神国なり』 (ミネルヴァ日本評伝選) を頂戴することができた。買おう買おうと思いながらまだ入手していなかったので、大変にありがたい。バスの中で開いてみて、驚愕した。中世の北畠氏の邸宅であり、北畠親房の生誕地でもあると推定される「北畠亭」、名前は知っていたが、京都のどこにあったかなんて、これまで意識に上らせたことはなかった。それが、岡野教授によると、北畠亭は平安京北郊の「毘沙門堂」付近であるという。この毘沙門堂の故地というのは京都市上京区毘沙門町という地名として残っているし、その一部はわが同志社女子大学の今出川キャンパスの北東端にかかっている!!! ということは、南北朝時代の歴史を彩った最重要人物である北畠親房の邸宅は、もしかするとわが大学の敷地にもおよんでいるかもしれないのである。目からウロコ、とはこのことである。また新たな研究テーマをいただくことができた。岡野先生、ありがとうございました(/ ^^)/

2009.11.13

妻、出家する?、の巻

 ウチの奥さんの、抗ガン剤治療が始まった。まるで血のような真っ赤な薬品を、ゆっくりゆっくりと点滴していくという。気になるのはやはり副作用である。帰宅してからはえらく元気だし、副作用の個人差もいちじるしいらしいから、もしかして彼女は副作用に強いのかと思っていた。実はそうではなく、点滴をするとすぐに副作用がでるのではなく、かなり時間差があるらしい。やはり、一週間ほどしてから身体の節々が痛いと訴える。
 突然、彼女の髪の毛が抜け出した。抗ガン剤の副作用としては予想通りなのだが、やはり衝撃ではある。そしていよいよ、ガサっと抜けてまるで幽霊のような髪形になってしまった。ただ、副作用が激しいということは、それだけ薬が効いているということであるはずだ。その分、まだ息をひそめているのかもしれないガン細胞の残存勢力を攻略しているということだから、副作用がでるというのはむしろ喜ぶべきことなのだと思う。
 ただ、女性にとってはやはり髪の毛は気になるではないか、と思っていた。だから、こんな展開になると、普通ならば本人自身がショックを受けて落ち込んでしまうと思う。しかし、不思議なのは、彼女自身はぜんぜんそんな気になっていないようである。髪の毛が抜け始めた時でも、おっ、抜ける抜ける、面白いぞ、などと言っている。ごっそり抜けた時にはついに、めんどくさいから全部剃ってしまう、などといいだした。仕方ないのでこわごわハサミを入れてあげるが、うまく切れない。私の電気ひげ剃りを持ち出して、それで剃るとうまくいく。あと、お風呂で自分でカミソリをあてれば、クリンクリンの小坊主のできあがりである。鏡を見て、なかなか似合うぞ、しかし頭の後ろが絶壁なのが気になる、などと言っている。彼女のミクシィ日記のコメント欄には、友達からの「ショックでしょう。元気だしてください」という書き込みが溢れているのだが、実は当の御本人自身はぜんぜん動じていない。ウチの奥様のことではあるが、このあたりは彼女の本領発揮というべきであろう。ただ、頼むから外出するときはカツラをつけてよね。高い買い物だったんだから・・・

2009.11.07

ダライ・ラマ14世法王、来日、の巻

091107 ダライ・ラマ14世法王は10月30日から日本を訪れておられた。東京、愛媛、沖縄を訪問され、本日(11月7日)にインドの聖地ダラムサラへの帰途につかれたはずである。昨年に引き続きの来日、ありがたい限りである。
 と、いうことで、私は東京でおこなわれた法話に参加した。会場は両国の国技館。せっかく両国までいくのだから、まずは江戸東京博物館を覗く。ここは館内での写真撮影が許されているから嬉しい。授業のネタ集めとして、いっぱい撮らせてもらう。
 そして、法話の会場である両国国技館へ向かう。国技館前の歩道では、チベット・サポーターの方々が法王のチベット帰還を訴えてプラカードを掲げておられる。共感。館内に入ると、もはや満員である。ロビーでは本屋さんが店を出して法王の著作やDVDなどの販売をしているが、近づけないくらいの黒山の人だかり。飛ぶような売れ行きである。どちらかというチベット問題に冷淡に思える我が国で、これだけ多くの方々が関心を持っておられることは嬉しい。私も潜り込んで、手提げ袋一杯の買い物をしてしまう。
 両国国技館に入るのは初めてだが、ふだんは相撲の土俵が設置されている中央部分が片付けられて、アリーナ席となっている。私は去年の北九州での法王の御講演に行った時ははるか遠くの三階席だったのであるが、今回はダライ・ラマ法王日本代表部事務所(チベットハウス)の会員として申し込んだから、アリーナ席が取れた。法王の御座からはいささか斜めだが、距離は近く、悪くない席である。

 ついにダライ・ラマ法王の御登壇。法王、開口一番、「皆で般若心経を唱えましょう」とおっしゃる。と、会場の一角から朗々たる般若心経の合唱が響き渡る。私も一緒に唱えようと思うのだが、なんだかおかしい。どう聞いても、私の知っている般若心経とはぜんぜん違うのである。とまどってしまったのだが、後で真相がわかった。法王の御法話を聞きに、はるばる韓国から仏教僧の一団が来られていたのである。なるほど、韓国語の般若心経ならば、わからないのも当然である。
 面白かったのは、通訳付きのチベット語で話し始めた法王、途中で突然、話を切って、「この中で英語の分かる人はどれくらいいますか?」と問いかけられる。他の国ならば英語で話をされることが多いので、通訳の手間を省ければよいと思われたのだろうな。ところがどっこい、ここは日本である。パラパラしか手があがらなかった。法王、「少ないですね」とつぶやいてニヤッと笑い、「では私もチベット語で続けます。この方が私も話しやすいから」とおっしゃる。
 今回の御題は、「悟りへ導く三つの心と発菩提心—ラムツォナムスムとセームキュ」。かなり難しい話である。正直、私も充分理解できたとはとても言えない。まあこれは仕方ないな。あちらは観音菩薩の化身、こちらは一介の凡俗なんだから。
 むしろ聴きものは、最後の質問コーナーの方にあった。司会者はふたりくらいで切りたいらしかったが、法王は次から次へと、結局7人の質問を受け付ける。中でも、最後に立った若い若い女性の時が注目だった。彼女は両手をぎゅっと握りしめながら意を決したように、「私は自分に自信がない。自分を好きになれない。どうしたら自分を好きになれるのでしょうか」と、法王に問いかけたのである。彼女、きっと決死の勇気を奮い起こして質問台に立ったのだろうな。法王はこれに対して、さながら慈父のように、静かにゆっくりと彼女に語りかけられる。法王の慈悲の心が彼女の胸に染み通っていく様子が手にとるように感じ取れる。感動的な場面であった。
 最後の花束贈呈は、今年の準ミス・ユニバース(名前は知らない)と、元宝塚歌劇団のトップだった檀れいさん。檀さんはさすがに目をみはるほどの美しさであった。
 
 今回の法王の訪日にあたって、ちょっと注目していることがあった。政権交替したばかりの日本政府が、法王に対してどのような対応に出るか、ということである。鳩山由紀夫氏は民主党幹事長時代の2007年11月、来日した法王と会談し、法王の進めるチベットの中道政策を支持する考えを表明している。この時には在日本の中国大使館は例によって例のごとしの傍若無人な非難声明を民主党に投げつけていたのである。しかしその時は野党。今回は鳩山さんも首相という立場になった。どんな対応をするか、興味津々であった。
 結局は、「チベット問題を考える議員連盟」の有志の皆さんが法王と会談した。チベット議連の会長の牧野聖修議員(民主党、静岡1区選出、衆院政治倫理・公選法改正特別委員長)は従来からチベット問題に真剣に取り組んでおられる国会議員である(牧野議員と五十嵐文彦議員の共著『ダライ・ラマの微笑』、先日手に入れて読んだのだが、すごく興味深かった)。鳩山首相は「スケジュールの都合」を理由にして同席しなかったが、「再びお会いできることを願っている」という首相メッセージを牧野議員に託した。外交的にはいつもながらヘタレの姿勢しか示せないわが国としては、まあ精一杯の現実的対応だといわねばならないだろうな。ともあれ、牧野議員等だけでも法王に会え、鳩山首相も腰が引けながらもチベットの人々を見捨てていないという姿勢を示すことができたのは、良かったというべきだろう。
 もちろん、これに対して中国は早速の非難声明をヒステリックに叫んでいる。まったく、いつもながらの駄々っ子的反応である。世界最大の人口と世界有数の軍事力を誇る中国が、たった一本の銃すら持たない丸腰の坊さんの一挙一動をこれほどまでに恐れているということが浮き彫りになるばかりである。こんな声明を出せば出すほど、ますます他国の人々から呆れられることがわからないのだろうか? 

2009.11.05

ドラマ「唐招提寺1200年の謎」を見る、の巻

 11月3日(火)
 毎日放送で「JNN50周年記念 歴史大河スペクタクル/唐招提寺1200年の謎—天平を駆けぬけた男と女たち—」が放映された。日本の古代史、特に奈良時代をあつかったテレビドラマは珍しいから、テレビの前に座ってみた。
 番組の半分くらいは唐招提寺金堂の解体修理のドキュメンタリー、それに鑑真和上を主人公としたドラマを組み合わせる、という構成だった。ドキュメンタリーは確かに勉強になった。あの金堂がばらばらに解体されていく様子なんか、なかなかみることはできない。また、金堂の創建当初を復元したコンピューター・グラフィックスもおもしろかった。
 ドラマの方は、ドキュメンタリーとの交互だから、話の間がどんどんと飛ばされてしまう。費用節約なのかもしれないが、もったいないことである。ドキュメンタリーとドラマを分けて、ふたつの番組にしても良かったんじゃないだろうか。
 中村嘉葎雄さんの鑑真はさすがで、圧倒敵な存在感。また、智努王(文室浄三)滝田栄さんも自然体の名演である。
 しかし、そのあとの配役は「?」である。鑑真の弟子でこのドラマの主人公の如宝は、中村嘉葎雄の甥にあたる中村獅童が演じているが、申し訳ないがどうみても偉い僧侶には見えず、私にはミスキャストにしか思えなかった。その他の皆さんも人物造形が薄く、ぜんぜん存在感がないのはどうしたことだ。道鏡をキックボクサー兼俳優の魔裟斗が演じたのはやや新鮮に思えたが、ほとんど台詞がないのではどうしようもない。
 光明皇后島田陽子さん。彼女も近年は登場の機会が少なくなっていたので、久しぶりにお目にかかれた。しかし、やっぱり存在感に欠けているぞ。
 もうひとりの主役は孝謙天皇=称徳天皇。テレビドラマでこの女帝が登場するというのは珍しいだろうから、その点では貴重である。彼女を南野陽子さんが演じるとは驚きだった。しかし、申し訳ないがやっぱりイメージが違うな。私の感覚では、孝謙・称徳女帝ならば一種異様な「狂気」と、他を圧する力感を出してほしいのだが・・・・ それに、女帝が晩年(南野陽子さん、ぜんぜん歳をとってないぞ!)に道鏡をも遠ざけてしまった、となっていたが、史実にもあっていないし、話の流れとしても唐突に思えた。
 思わずニヤリとしたのが、恵美押勝の乱の戦闘場面。押勝=藤原仲麻呂永島敏行)は挂甲<けいこう>を着ており、これはまずまずだろうな。しかし、彼のかぶっていた冑は眉庇付冑<まびさしつきかぶと>で、これは古墳時代中期〜後期のものであって奈良時代にはまずあり得ない。また、仲麻呂を追い詰める和気清麻呂永井大)が着用しているのはなんと短甲衝角付冑<しょうかくつきかぶと>で、しかもその衝角付冑は明らかに三角板鋲留式のものである。これだと古墳時代中期であって後期にすら降り得ない。そうすると、奈良時代からさかのぼること300年くらいはたっている。つまり、「仲麻呂さんも清麻呂さんも、どこからそんな骨董品を引っ張り出してきたの?」と皮肉りたくなるのである。ただ、こういうことを言うのはイケズな揚げ足取りであることもわかっている。つらつら考えてみると、奈良時代の冑はほとんど遺例がなく、この時代にどんな冑が使われていたのかというのは、まったくと言っていいほどわからないのである。その点ではドラマ製作者には同情の余地がある。
 揚げ足取りついでにもうひとつ。滝田栄さんが演じた人物を終始、「智努様」とか「智努殿」と呼び、解説では「元皇族」と紹介していたのはどういうことだろう? 彼は天武天皇の孫であるが、元皇族というのならば「智努」ではなく「文室真人浄三<ふんやのまひと・きよみ>」なのではないか? また、臣籍降下する以前ならば「智努」ではなく「智努王」でなくてはならないはずである。このあたり、なんだかよくわからなかった。

2009.11.02

道義=京響とシャイー=ゲヴァントハウス、の巻

 10月30日(金)、11月1日(日)
 オーケストラふたつ。
 まず、京都市交響楽団第529回定期演奏会。指揮は、私たち夫婦が大好きな井上道義さん。曲目は、モーツァルトの交響曲第36番「リンツ」と、ブルックナーの交響曲第9番。なんでモーツァルトとブルックナーなのかな?と思っていたが、ブルックナーの活躍地はドイツのリンツということで、「リンツ」つながりだった。
 次に、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の来日演奏会。指揮は「ゲヴァントハウス・カペルマイスター(楽長)」の称号を持つリッカルド・シャイー。曲目はモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第3番とマーラーの交響曲第1番「巨人」である。モーツァルトのソロはアラベラ・美歩・シュタインバッハーがつとめる。
 しかし、私はこれまで、ブルックナーやマーラーの良い聞き手とは言えなかった。彼らの交響曲はどうしても、大海の大波が際限なく続くように感じてしまうので、積極的には聞いてこなかったのである。私のCDコレクションを見ても、以前はブルックナーの交響曲はパラパラあるだけで、「ミスターS」ことスタニスラフ・スクロヴァチェフスキ指揮ザールブリュッケン交響楽団の全集が出たのでやっと全集を揃えた、というにすぎない。マーラーの交響曲にいたっては単独の全集は持っておらず、第1番から第9番と「大地の歌」、それに第10番のデリック・クック再構成版が、全部バラバラの演奏者によるものでようやく揃っている、という惨状だった(第4番「大地の歌」には、わが最愛のフリッツ・ライナー指揮シカゴ交響楽団盤があるので、ずっと以前から持っていた)。だから今回も、曲というよりも指揮者とオケを聞くために、というところであった。

 しかし、聞いてからは自分の不明を恥じることになった。このどちらも凄かった。井上さんと京響、モーツァルトは小編成の室内オケ方式で、肩の力を抜いた軽やかな演奏。ブルックナーでは一転して厳しい顔つきでの渾身の演奏を聞かせてくれた。さすがはミッキーである。彼の指揮棒が静かに降り、一瞬の静寂の後、割れんばかりの大拍手となる。この一瞬の静寂のタイミングが損なわれてしまうと興が半減するのだが、今回はそれも絶妙だった。
 しかし、ウチの奥さんは抗ガン剤の副作用で演奏中に体調不良となり、一番良い第2楽章のところで退席せざるをえなくなり、そこを聞き逃してしまった。可哀想に。
 感動的だったこと。先日、京響の元コンサートマスター工藤千博氏が62歳で逝去された。井上さんは最初のトークの時に工藤氏の想い出を切々と語られた。工藤氏の奥様が来場して聴かれていたとのことで、終演後、井上さんが会場に降りて、奥様に花束を渡しておられた。観客から指揮者に花束贈呈はよくあるが、指揮者から観客への花束というのは初めて見たのであるが、その分、井上さんの暖かい心に触れたような気がした。

 そして、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団。言わずと知れた、世界最古の歴史を誇る名門オケである。昨年の来日がシャイーの急病で延期となったため、今回は仕切り直しということになる。
 いやあ、これは凄かった。筆舌に尽くし難い、というのはこのことである。私の貧しい音楽体験の中では、おそらく最高の演奏会だった。世界の超一流とはこういうことなんだろうな。オケの楽器同士が溶け合ってまるでひとつの楽器のような響きを作り出すかと思うと、クライマックスでは一転してものすごいパワーを発揮する。京都コンサートホールの天井がぶっ飛ぶかと思ったぞ。最初から最後まで手に汗を握り続け、あの長ったらしいはずのマーラーの曲が、あれ?こんなに短かったっけ?とさえ錯覚させられるほどの完成度であった。凄い、凄いぞ、シャイーとゲヴァントハウス!!!
 一方のモーツァルト。ソロのアラベラ・美歩・シュタインバッハーは「シンデレラ・ガール」などと言われる最近注目の若手である。それにしても綺麗な女性だ。グリーンのドレスに亜麻色の髪がよく映えている。ただ、私の席は最上階だったので、演奏中の表情がよく見えなかったのが残念無念。本番のモーツァルト
も良かったのだが、アンコールでの私の知らない現代曲(後できくと、イザイの無伴奏ソナタ第2番の第3楽章だということだった)がすばらしかった。かなりの難曲だと思うのだが、どうだ、こんなことが出来るんだぞ、といわんばかりの自信に満ちた演奏だった。
 会場では、N木HさんとK樂M帆子さんご夫妻に出会う。N木さんはドイツから帰ったばかりで、向こうでは公務の余暇を縫って北ドイツ放送交響楽団を聴いてきた、とのこと。羨ましい限りである。

2009.10.31

おめでとう〜、山中博士、の巻

 山中章博士のお宅に慶事。一般的にいう「ま○」(←なんだ、これは)、つまり「息子の娘」がお生まれになったのである。お誕生日は10/27だとのこと。もう1日ずれていたら、平安京遷都の記念日である10/28になっていたのに、ちょっと惜しかったぞo(*^▽^*)o。私はま○どころか子供もいないのでよくわからないのだが、一般論としてま○というのはたいそう可愛いらしい。特に男にとっては、ま○女の子だったりするとまさにメロメロになる、という。「鬼」の異名をとって天下に名高い山中博士も、こればかりは目尻を下げまくることになるのだろうな。
 しかし、山中博士は、未だに「ま○」というwordを禁句に指定して「息子の息子」とか「息子の娘」と呼び、彼ら彼女らにも自分のことを「おじ◎さん」ではなく「おおきいとおちゃん」と呼ばしているというのだから、相変わらず強情なことである。どなたか、説得してくれませんかね?

 10/30(金):姫路市生涯学習課の「平成21年度 歴史講座Cコース 『源氏物語』の世界」の現地見学で、80人の姫路市民の方々をお迎えし、京都の源氏物語ゆかりの地をご案内。廬山寺(紫式部邸宅跡)、伝紫式部墓、友禅美術館、 渉成園(枳殻邸)、京都市平安京創生館と巡回。平安京創生館はリニューアルして11/1にオープンのはずなのだが、特別に見せてもらった。法勝寺や鳥羽殿の復元模型も搬入されて展示面積が倍増。平安京を学ぶ拠点施設としてますます充実した。ありがたいことである。

2009.10.28

平安京のお誕生日、の巻

091028
←第1次の平安宮大極殿復元C.G.
 10月28日。平安京のお誕生日。つまり、今から1215年前、延暦13年(794)10月28日に桓武天皇は「平安京遷都の詔」を発布したのである。「葛野の大宮の地は山川も麗しく、四方の国の百姓<おおみたから>の参出で来んことも便にして、云々」。太陰暦(もっと正確にいうと、太陰太陽暦)と現行の太陽暦の違いはあるけれども、細かいことは言わないでおこう。

 普通は平安京の誕生日というと10月22日(だから、桓武天皇を祭神とする平安神宮の時代祭はこの日に挙行される)とされている。しかし、あれは実は桓武天皇のお引っ越しの日。つまり、延暦13年の10月22日に桓武天皇は長岡京を出立、新しい都である「葛野大宮」(平安宮の当初の仮称)に遷ったのである。まあ、10月22日でも28日でもどっちでもあんまり変わらないのであるが、私はやっぱり28日にこだわっている。なんといっても、遷都を正式に宣言することが大事だと思う。それに、これ以降現在にいたるまで、「遷都の詔」が発布されることは二度となかったのである。

2009.10.22

日本考古学協会2009年度山形大会、の巻

 しばらくごぶさたでした。単なるサボリです。
 
091021(←復元された山形城東大手門。以前来た時はまだ工事中だった)
10月17・18日(土・日)
 秋は学会シーズン。10月10・11両日には日本史研究会大会が佛教大学を会場としておこなわれた。これは京都で開催されるから、行くのは楽。しかし、日本考古学協会の大会は、今年は山形市の東北芸術工科大学が会場である。京都から山形はやっぱり遠い(山形の人は、京都は遠いな、と思っているだろう)。本来的には飛行機は嫌いなのだが、やはり乗らざるをえない。

 今回の研究会では、シンポジウムIII「霊地・霊場の考古学」を聞いた。奥羽の名刹・山寺立石寺をテーマにした濃厚な研究である。この寺は慈覚大師円仁が開いたということになっており、「入定窟」に円仁の木彫の首を入れた棺がおさめられていることでも名高い。しかし、今回の研究会で、この円仁入定窟についても再検討の余地があることを強く感じた。

 それから、「人間万事塞翁が馬」ということわざがあるが、今回の旅ではそれを思いっきり感じたぞ。
 (1)この九月に、中世都市研究会大会があった。懇親会が終わって、いつもなら二次会に繰り込んでどんちゃん騒ぎとなるのであるが、どうしたわけかその時だけは皆とはぐれてしまい、私はひとり寂しくホテルに帰って缶ビールをあおって寝てしまったのである。しかし、今回の考古学協会の席上で、中世都市研究会にも出席しておられたI氏に会って話をしていると、「山田さん、あの時の二次会に出なくてよかったですよ」と言われる。どうして?と思ったら、「あの時、出席者の中にインフルエンザの人がいて、自分も含めて二次会に出席した人はみんなそれをうつされてしまったんですよ」と言うのである。はぐれたために、私はそれをまぬがれたことになる。良かった〜〜。
 (2)山形空港から山形市内は、路線バスが廃止されたため、交通手段が予約制乗合タクシーしかない。山形駅まで予約して乗り込んだのだが、少しでも東北芸術工科大学の近くまで行くほうがよいかな、と思って運転手にその旨を告げたところ、ケンもホロロに断られてしまった。いくらなんでも他に言い方があるだろう、と少しムカッとしたのであるが、山形駅まで行って気が変わった。最初は旧石器の講演だし、3時からの分科会に間に合えばよいのであり、息せき切ってかけつけることはない。じゃあ、山形県立博物館に寄り道しよう、ということになった。県立博物館では収穫多し。特に、今回の考古学協会の分科会のテーマにもなっている「山寺」(立石寺)の特別展はなかなかのみものだった。これを見ることができたのも、あの無愛想なタクシー運転手のおかげだ、と思うと、腹もたたなくなった。
 (3)考古学協会の懇親会。事前の予約を忘れていて、当日に申し込もうとした。いつもならスッと受け付けてくれるのだが、今回は満員だという。ガックリ。一人寂しくビールでも飲もうか、と思っていたら、帰り際にG研究所のS氏が声をかけてくれた。地元の研究者YH氏の車に乗せてもらい、まずは山形県天童市の「 B級グルメ焼きソバ」を堪能。天をつくようなボリュームで600円とはなんと安い。それから、お風呂に入ろうということになる。そのへんの風呂屋さんかと思えば、山形県最大の露天風呂だというスーパー銭湯。天然温泉をたっぷりと堪能。これで300円は安すぎるぞ。それから、YH氏のご自宅(豪邸!!)にお邪魔して、氏のご自慢のコレクションを拝見しながらの酒宴とあいなった。このほうが、懇親会よりずっとトクだった(YHさん、ありがとうございました(/ ^^)/)。

2009.09.25

青蓮院と胞衣塚、の巻

 もうじき秋学期の授業開始だぞ。う〜〜ん・・・

 9月22日(火)
 前近代都市論研究会。いつもの3悪トリオ筆頭・某古代史研究者がご欠席。あれれ、と思ったら、ヴェトナムで奮闘中だとのこと。がんばってくださいね。研究会では、歴史地理学研究者・YA氏の近著を学ぶ。ご本人を前にしていうのはおかしいのかもしれないが、歴史地理学からみた都市史研究の「輝ける星」のひとつであることはまちがいない。

090925_2
 9月23日(水)
 「京都学研究会」の学生グループの付き添いで、知恩院と青蓮院(写真上)。どちらも、じっくりと散策するのはかなり久しぶりである。知恩院ではちょうどお彼岸の法要がおこなわれており、たくさんのお坊さんたちの読経を聞く。青蓮院では、秘仏で国宝の「青不動」の御開帳がおこなわれている。このチャンスを逃すと、私たちが生きているうちに二度とお目にかかることはできないかもしれない。
 やっぱり知らないこともあるね。青蓮院境内の高いところに祀られている日吉神社にお参りすると、その手前に石碑が林立しているところがある。なんだ?と思うと、「賀彦王御胞衣」「家彦王御胞衣」「恭仁子女王御胞衣」などと刻まれている。あれま、胞衣塚の群集だ。明治時代の皇族・多嘉王(久邇宮朝彦親王皇子)の子供たちのものだという。おじいさんの朝彦親王が青蓮院門跡をつとめたことがあるのでその関係かもしれないが、寺院の一番高いところに胞衣塚がたくさんあるというのも不思議な光景である。学生たちに「胞衣ってなんだか知っているか?」と聞いたが、誰も知らなかった。と、いうことで、にわかに胞衣塚の講義をすることになる。

2009.09.22

角田文衞先生の墓参、の巻

090921
 9月20日(日)
 お彼岸。なので、右京区の化野念仏寺にでかけて、角田文衞先生のお墓参り。化野念仏寺では駐車場を探してうろうろしてしまう。角田先生のお墓は、小さいながらきちんとした様式の五輪塔である。お花とお線香をそなえて、しばし、祈りをささげる。
 夜は、京都駅南側の新・都ホテルで、伯父の91歳のお誕生会。高齢なのだが、まだまだ元気いっぱいなのがありがたい。どうか、いつまでもご健勝で。

2009.09.14

仕事、ヤマを越す、の巻

 9月13日(土)
 山中章博士のブログで既報だが、難産だった仕事が、ようやくヤマを越した(まだ完了したわけではないので気は抜けないが・・・)。同志社女子大学名誉教授・朧谷壽先生の古稀を祝うための論文集の、最終の打ち合わせをおこなったのである。本来ならば今年の3月末日の、朧谷先生の誕生日と御退職にあわせて出版しなくてはならなかったのだが、私たち編集発起人グループの不手際が重なって今まで遅延してしまった。早くに原稿を提出していただいていた執筆者の先生方には合わせる顔もない。本当に、本当に申し訳ありませんm(_ _)m
 しかし、お陰様で文献史学・考古学・歴史地理学など、20名ほどの第一線の先生方の論文を集めることができた。ただ、朧谷先生の御交友関係はあまりにも広いので、通例の「古稀記念論文集」にすると大部の書物になりすぎることが予想され、それでは使用にも不便なものになってしまうということを考えると、先生のご専門である平安時代にテーマを限ろう、ということにならざるをえなかった。先生と親しい方々でも、平安時代以前や以降の時代をご専門とする方々にはお声がけすることができなかった。これも、あわせて御寛恕くださいませ。それに、「自分のために皆さんにご苦労をかけるのは申し訳ない」という朧谷先生御自身のご意向により、「古稀記念論文集」とは銘打たず、あくまで平安時代に関する研究論文集、という体裁で出すことになった。
 ともあれ、朧谷壽・山中章編『平安京とその時代』(思文閣出版)が、2009年12月の刊行予定となった。出版社の御厚意で、固い内容の論文集にもかかわらず、定価1万円を切る見込みになりました。刊行の節にはまた御案内申し上げますが、平安時代研究の最前線が詰まった本になるはずですので、たくさんの方々が買っていただくことを希望します。よろしく!

 「会議」が終わった後は、朧谷先生につれていただいて、思文閣の編集担当・営業担当のおふたりと、山中博士とともに、祇園新橋の天麩羅。情緒あふれる料亭で、揚げたての天麩羅に舌鼓を打つ。二次会は山中博士と一緒に普通の居酒屋。明後日にはまたまた中国に飛び立つ(ホント、忙しい人だ・・・)博士とともに、久しぶりの酒杯。

2009.09.08

東京で北山殿を学び、姫路で源氏物語を語る、の巻

090908〈←兵庫県加古川市・鶴林寺の国宝「太子堂」〉
 9月5・6日(土・日)
 東京・青山学院大学で、中世都市研究会の第16回研究集会。今年度のテーマは「都市を区切る」である。小田原、鎌倉、加賀・畝田遺跡群、京都、大和・筒井城とその付近、博多、丹後・成相寺など、多様な都市群が語られる。
 私がぜひ聞きたかったのは、まずは日本学術振興会特別研究員の細川武稔氏の「足利義満の北山新都心構想」。いやぁ、この研究には脱帽したし、細川さんの研究的センスの良さにも感服である(*゚▽゚)ノ。足利義満が「日本国王宮殿」としての北山殿を築いたことは良く知られている。私もかつて、北山殿を「中世京都の『巨大都市複合体<きょだいとしコンプレックス>』を構成する衛星都市のひとつ」として位置づけたことがある(山田『京都都市史の研究』所収の「中世都市京都の変容」)のであるが、北山殿の都市区画の復元に手を染めるにはいたらなかった。と、いうより、史料が不足だと頭っから思い込んでいたから、具体的なイメージをつかもうという努力をしていなかったのである。それが、細川氏の研究によってまさに見事に復元されることになった。氏の研究によって、義満の「北山新都心」が東西1km、南北1.5kmにもおよぶ広大な都市であり、平安京でいうと朱雀大路にあたるようなシンボル・ストリートまでも持っていたということが如実に示されたのである。まさに目から鱗の大発見である。これを聞くことができただけでも、東京まで行ったかいがあったというものである(v^ー゜)ヤッタネ!!。この研究は今のところではこの研究集会の資料集で知るほかはないが、来年に刊行される『中世都市研究』(今までは新人物往来社だったが、次からは山川出版社になるらしい)に論文化されるとのこと。楽しみである。それにしても、京都都市史にもこんなテーマがまだまだ残っていたんだな。私としても闘志をかき立てられるぞannoy
 京都工芸繊維大学助教の岩本馨氏の「参詣曼荼羅に見る都市と区画」も、注目であった。ここでとりあげられているのは、丹後・天橋立の付け根の山上にある成相寺。たまたま私も、京都府が主唱する天橋立を世界遺産にしようとする委員会の委員をつとめているので、興味津々である。岩本さんの研究は、成相寺の参詣曼荼羅を実に緻密に分析し、そこから成相寺を中心とする都市の構造を復元しようとする意欲作である。参詣曼荼羅から都市を語るというのは、たとえば、私の敬愛する歴史地理学研究者である山村亜希さんなどが盛んにやっておられる。私もこの点には興味を持っていたから、岩本さんのご研究には触発されるところが大である。
 シンポジウムの時、ボーッと考え込んでいたら、突然、司会者(飯村均・本郷和人両氏)から発言をうながされてしまった。不意打ちでドギマギであったが、以上のようなことをなんとか説明する。

 研究会の終了後、あわてて渋谷駅から横浜に向かう。できれば見たかったのが、パシフィコ横浜で開催中の海のエジプト展—海底からよみがえる、古代都市アレクサンドリアの秘宝—。閉場になんとか間に合ったが、切符を買うのにも長蛇の列で、いささかびっくり。会場内も満杯でじっくりと遺物を見ることはできなかったが、エジプトの水中考古学の成果を堪能する。アレクサンドリアの町は懐かしい。カイロの雑踏と埃っぽさに辟易したあと、地中海に面した港町であるアレクサンドリアに入ると、そのしっとりと落ち着いた雰囲気に癒されたことであった。ことに、地中海に臨み、この海の彼方にはギリシアがあり、そして、さらには、はるかにローマまでつながっているのだと思うと、感激にこの身が震えたことを思い出す。

 9月7日(月)
 姫路行き。中世史研究の大御所である上横手雅敬先生(京都大学名誉教授)が企画・構成される「歴史講座」である。去年も呼んでもらったのだが、今年のテーマは「源氏物語」。私に割り当てられたお題は「『源氏物語』の舞台」である。昨年も感心したのだが、姫路市民の皆さんの知的貪欲さはまさに驚嘆に値する。この講座でも、700人収容の姫路市市民会館がいっぱいであり、実はこれでも参加者は抽選で当たった方々ばかりなのだという。
 私はもちろん源氏物語の研究者ではないが、源氏物語の舞台のほとんどが平安京であることはまちがいない。源氏物語のモデルとなったさまざまな土地と紫式部の足跡を、平安京の実地にあたりながら解説していく。
 講演終了後、すぐに帰洛するつもりだったのだが、姫路駅まで行ってちょっと気持ちが変わった。山陽電車に飛び乗って、まずは蓮如上人が建立したという西日本の一向宗の総元締め・亀山御坊本徳寺。そして次には、加古川市に入って、尾上の松駅で下車。尾上神社に行ってみる。この神社については、時々古本屋さんで江戸時代の木版刷をみかけることがあり、そこに見事な朝鮮鐘が描かれていたので名前だけは知っていた。しかしこれまではあんまり意識しておらず、加古川にあることすら知らなかったのである。かなり道に迷ったが、汗だくになりながらなんとか到着。朝鮮鐘はコンクリート造りの収蔵庫におさめられていたから見ることはかなわないが、現地を踏むことができて、これは満足である。
 そのあと、これも汗をかきかき足をひきずって、播磨の名刹で「播磨の法隆寺」の異名をとる鶴林寺になんとか到着。この寺はやはりすばらしい。国宝の本堂(1397年)も良いが、平安時代に建てられた太子堂(1112年)(写真)の優美さには見とれるしかない。宝物館で展覧されていた聖徳太子絵伝(室町時代)もなかなかのみものであった。
 歩きまわってくたくたになってしまったが、充実した1日を過ごさせてもらった。ありがたいことである。

【しゃべったこと】
○「『源氏物語』の舞台」(姫路市教育委員会主催「平成21年度姫路市市民教養講座〈歴史講座〉」、2009年9月7日、於姫路市市民会館)

2009.08.28

さようなら鳳舞、の巻

8月27日(木)
090827_2
 夕食は、賀茂川の西岸の中華料理店「鳳舞」(写真左)にでかける。行ってみると、長蛇の列。40分ほど待って、やっと食事にありつける。と、いうのも、実はこの店、今月いっぱいで42年の歴史に幕を降ろし、閉店することになっている。私たちと同じように、ひそかに別れを告げようというお客さんがいっぱいだったのかもしれない。
 私の中では、中華料理(正確に言うと、日本ナイズされた広東料理、かな?)の味の標準が、この店だった。家族で最初に行ったのはもういつだったか忘れてしまうほど遙かな昔だから、おそらく開店の当初から通っていたのだと思う。そうか・・・ 42年もおつきあいしていたのか・・・ 店の壁に、袁世凱の書が飾られている(写真右)のも、子供の頃から変わっていない。実は、袁世凱という人物の名前を最初に覚えたのも、この店のインパクトだった。
 我が家の定番は、アワビと鶏肉とマッシュルームをとろりとした甘い汁に絡めた「アワビかしわ」(写真中上)とか、ちょっと辛子をきかせたアンが特徴的な「エビかしわソバ」(写真中下)。少なくとも、他の店では食べたことのない独特の品であり、絶品。今思い出しても口の中にヨダレがあふれてくるぞ。しかも、値段も手頃。この味ともうお別れだとは、残念無念の極みといわねばならない(;ω;)。
-----------------------------------------------------------
 そういえば、今年のはじめには、ラーメンの新進亭も閉店してしまった。マラソンで鍛えていたハズだった店主がお怪我をされたようで、リハビリにだいぶかかるということでこの仕儀にあいなったのである。これも残念無念であった。この店にも、子供の頃から数え切れないくらい通って、ひそかに「京都最高のラーメン」だと信じていたもんな・・・(一乗寺には、店主の弟さんがやっておられる一乗寺店があるので、もしかするとあの味は継承されているのかもしれないが、まだ行っていない)。

2009.08.24

妻の乳ガン手術、の巻

 8月21日(金)
 しばらくブログが散発的になったり、私にメールしていただいても返事が遅かったりして、不審に思われていた方もおいでかと存じます。申し訳ありませんでした。

 実は、1ヶ月前に、妻の身体に乳ガンが見つかりました。

 妻が急に、「胸にシコリがある。おかしい」と言い出したのです。見てみると、確かにその通りです。「乳ガンかもしれない」というのですが、まさかそんなことはないだろう、女性の乳房には良性腫瘍が出来ることも多いというから、どうせそんなところだろう、とは言ったのですが、不安が黒雲のように拡大してきます。とにかく病院に行ったほうが良い、ということになったのですが、はたしてどんな病院に行けばよいのやら、私にはさっぱりわかりません。
 しかし、こんな時には女性は強い(私ならば、なんやかんやと理屈をつけて医者に行くことを1日延ばしにしてしまっていただろうな・・・)。ほとんど思考停止状態に陥っている私を尻目に、妻はどこから調べたのか、そうした方面の専門の病院を探してきて、早速の予約をとりました。翌日、病院に行った妻から携帯電話に連絡が入りました。「やはり、乳ガンの疑いが濃い。日を改めて精密検査をする」とのことです。頭が真っ白になる、というのはこのことです。その時、私は何かの打ち合わせをしていたのですが、それから後はほとんど上の空になってしまいました。
 数日置いて精密検査をすると、やはり乳ガンであると断定されました。この段階でわずかに希望がでてきたのは、骨や内臓には転移は見られないようである、ということ。乳ガンを四段階に分けると一段階くらいにあたるということで、腫瘍がやや大き目なのが気になるのですが、まだしも早期発見の部類にはいるようです。乳ガンは早期発見ならば外科手術で根治の可能性が高い、と聞いていましたので、その希望にすがりつく思いです。
 ただ、この段階ではまだわからなかったのは、リンパ節への転移の可能性。おそらくは大丈夫だろう、とは言っていただいたのですが、こればっかりはリンパ節にメスを入れて組織検査をしてみないと断定的なことはいえない、ということです。リンパ転移があるかどうかで乳ガンの「段階」が分かれ、その後の治療がだいぶ変わってきます。どうかリンパ転移がありませんように、と祈るような気分です。とにかく、お盆をはさんで8月21日に手術をしていただくことになります。

 とはいっても、本人は外見で見る限りでは元気そのもの。「あたしはもう死ぬかもしれないから、今のうちに好きなことをやっておきたい。おいしいものも食べておきたい」とのことで、あっちこっちに連れ回されることになります。奈良・生駒の聖天さん(宝山寺)での世阿弥や金春禅竹の能楽史料の特別公開に連れて行かれたのも、その一環でした。こんなに走り回っていて、果たしていいのだろうか(´ρ`)。

 地に足がつかないような気分の3週間が過ぎ、8月20日に入院、21日の手術の日を迎えました。そのあたりの経緯は、本人がこちらに書いているとおりです。幸い、手術は成功裏に終わり、心配していたリンパ節への転移も確認されませんでした。いわば、乳ガンの手術としてはもっとも「軽い」措置で済んだことになりますし、根治の可能性も高いということになったと見てよいと思います。不幸中の幸い、とはこのことであったと思います。また、手術も、昔ならば乳房の全切除が推奨されたといいますが、現在では部分切除で、できる限り乳房の形を残すことが考えられているようで、これもありがたいことです。
 もちろん、今後の再発の可能性はゼロというわけではないですし、今後も根気よく治療を続ける必要があります。しかし、ともあれ、当面の最大の危機を脱したということになります。

 しかし、つくづく思い知らされました。「乳ガン検診」といったポスターやチラシはあちこちで見ていましたし、歌手アグネス・チャンさん(私は子供の頃、彼女のファンだったhappy01)が乳ガンの手術を受けた、などというニュースも知っていました。でも、所詮はそんなのは余所事、とタカをくくっていて、それが自分のところにふりかかってくるなど夢にも思っていなかったのです。つくづく、反省、です。

 これを読んでいただいている女性の方々には、ぜひ定期的に乳ガン検診を受けられることをお勧めします(また、男性の方は周囲の女性に勧めてください)。何よりも早期発見!、そして早期治療!です。

2009.08.20

ダライ・ラマ法王の冗談、の巻

 いやあ、法王猊下、やっちゃってくれてますね〜〜〜!!!(・∀・)イイ!!!、というのが、8月4日のスイス・ローザンヌでの記者会見のこのニュース。新型インフルエンザについて意見を求められたダライ・ラマ14世法王、なんと、記者団の前で鼻薬を鼻の穴に突っ込んでみせた、というのである。この御方、亡命中とはいえひとつの国の元首であり、世界的な宗教の最高指導者ですよ。そんな立場にありながら、こんなことがスッとできてしまうのは世界広しといえどもこの人くらいであろう(o^-^o)。出席していた海千山千の記者たちも、さすがに毒気を抜かれて、それから大爆笑だったに違いない。さらに、同行の側近たちが「また、猊下のいつもの悪いクセが始まった・・・」と苦笑いしている様子まで目に浮かぶようである。おそらく、法王自身も自分のジョークに満足して、記者たちと一緒になって、あの有名な腹の底からの豪快な高笑いをしていただろうな。

 報道では、法王が鼻につっこんでいるのは「鼻スプレー」となっていたけれども、これは誤りのようです。ホントはタイの庶民的な嗅ぎ薬の「ヤードム」だったらしい。使ったことはないが、メンソレータムを強烈にしたようなもので、鼻も頭もスーッとする薬のようで、単に嗅いでもよいが、鼻に突っ込んでおくのもよいということで、法王が鼻に突っ込んだのも、使い方としては別におかしいことではないらしい。たぶん、法王の日頃の愛用品なんだろうな(私もいろんなところでしばしば居眠りしてしまうから、ぜひ使ってみたいぞ〈追記〉)。

 ダライ・ラマ法王がスイスを訪問していたのは、ジュネーヴでの「和解のための国際共同体」と「スイスチベット友好協会」が主催した「チベット・中国会議」に出席されたためである。報道では「中国とチベットの代表団が、二つの共同体間により良い理解を醸成するための方法を議論し、チベット問題の平和的解決の方法を検討するために集った、というのだが、もちろん中国政府や中国共産党が出席したわけではなく、海外在住の中国人で、現在の中国政府・共産党のやりかたに反対する人々の団体が代表を送ったのだろう。

 それにしても、この「鼻薬」の写真、よく考えてみると、単なるウケ狙いのパフォーマンスではない。もし私が中国共産党の対外プロパガンダ担当者であったなら、この写真を見せられたら絶望的な気分に陥ってしまうだろう。だってそうでしょう。これまで営々として、「ダライ(中国共産党は法王をこのように呼び捨てにする)は悪魔だ」「ダライは人の血肉をすすっている」「ダライは人間の皮をかぶった鬼だ」と口をきわめて罵ってきたのに、その、「悪魔」であるはずの当の本人は世界中のマスコミの前で茶目っ気たっぷりに鼻薬を鼻につっこんで大爆笑をとっているのだから!! 中国側がせっかく一生懸命続けてきた宣伝が、法王の一発の冗談の前に木っ端みじんに粉砕されてしまっている。格の違いを見せつけられる、というのはまさにこのことである。
 中国の宣伝担当者は、こんな途方もない人物を相手にしなくてはならないのである。しかも、ダライ・ラマ法王は自分は100歳まで生きると確信している、と発言している。これも中国の対外宣伝担当者にとっては頭をぶん殴られたようなショックだと思う。100歳ということが本当に実現したとすると、彼らはあと四半世紀の間(中国の公務員の定年は何歳なのだろう?)、この、多大な労力がかかるのにまったく成果のあがらない、割に合わない仕事を続けなくてはならないのだから。中国政府および中国共産党の対外宣伝担当の皆さん、自業自得とはいえ、ホントにお気の毒なことである( ̄ー ̄)。

〈追記〉ヤードムとその類似品の中で、アメリカ製の「ヴィックス インヘラー(L−デソキシエフェドリンを含有するもの)」だけは、日本には輸入禁止です。

2009.08.16

「大文字」、「法」の頂点に立つ、の巻

090817 (写真上:「大文字五山の送り火」の「妙法」の「法」。写真下:燃え上がる「法」の字)
 8月16日(日)
 今年もお盆。四苦八苦していた原稿になんとかメドをつけてポストに投函。ひとつ仕事が終われば、そのことはスッパリと忘れることにする。しかし、仕事の山は全然低くならないぞ・・・(ρ_;)
 今日は「大文字」の日。いつもの年ならば家の近所から「大」の字を拝むのであるが、今日は違った。ウチの親戚が「大文字・五山」のひとつである「妙法」の「法」の字の下に住んでいて、その護持にたずさわる保存会でも活動しているので、そこにお邪魔することになる。ワクワクである。
 親戚の家は松ヶ崎でも旧家のひとつで、お盆のお精霊<しょうらい>さん送りの行事もきちんとやっている。今年はそれを、京都市文化財保護課と、MBSテレビが撮影するそうである。京都市からは誰が来るのかな?と思っていたら、大学の後輩にあたるMT氏だった。向こうは、民俗調査に来たらその家から私が顔を出したので、なんでこんなところに山田さんがいるの?と面食らったようである。
 おいしい鳥のスキヤキをごちそうになってから、山に登る。もちろん、普通はたちいることができない場所なので、「妙法保存会」の手ぬぐいをいただいて、首に巻く。これが通行手形代わりである。真っ暗な山の斜面を、ややもすると滑り落ちそうになりながら、登る。親戚の家の担当は、「法」の字の一番頂点の火床。ゼイゼイ言いながら登りつめて後ろを振り返ると、すばらしい光景が広がる。なにせ、京都の夜景が一望なのである。あまりの見事さに、しばし立ちつくす。
 夜の8時。「大」の字に火がともる。この山の上からはよく見えるのであるが、いささか斜めの角度なので、「大」の字がちょっと歪んで見えるのはご愛敬。8時10分。いよいよ「法」の番である。世話役の「点火」のかけ声に合わせて、一斉に火がはいる。間近にいるので、炎が熱い。しかし、乱舞する炎はまさに筆舌につくしがたい美しさである。手を合わせて、しばし、ご先祖様を念じる。
 この貴重な行事を大事に守っておられる地元の保存会の皆さんの熱意には本当に脱帽である。そして、このすばらしい体験をさせていただいたことに、心より感謝。

2009.08.08

やっと夏期休暇、の巻

ながらくご無沙汰しました。ちょっとゴタゴタしていて、一ヶ月近くブログをお休みいたしました。
簡単に、日記を取り戻しておきます。

2009年7月12日(日)
第18回 平安京・京都研究集会「京都の歴史イメージはどのようにつくられたか—公共の歴史学のために—」。今回は私は裏方。小林丈広氏(京都市歴史資料館)のコーディネイトによって、てきぱきと進む。当然のことであるが、古代・中世を扱うことの多いいつもの会とは、かなり「客層」が違うようである。会場もほぼ満席で、成功。

7月13日(月)
東京行き。16学会・協会の宮内庁との「陵墓懇談」に臨む。今年度の陵墓公開、期待できそうである。

7月16日(木)
祇園祭の宵山。せっかくだから浴衣を着る。とはいっても着替えている時間はないので、浴衣姿で大学に行き、浴衣姿で授業をする。ウチは「京都学・観光学コース」なのだから、これも実践である。
ドイツに留学してあちらで日本中世史の研鑽をされているHKさんがご主人とともに一時帰国されたので、NHさん、KMさんのご夫妻とともに、鉾町で食事。のちほど、祇園祭研究の第一人者であるKMさんも合流。ふらふらと宵山の人波を楽しむ。

7月18日(土)
1617会の奈良例会。元興寺極楽坊から、奈良町を丁寧に歩く。

7月19日(日)
ゼミの巡検で、二条城。

7月20日(月)21日(火)
来年度の博物館実習の開講にむけて、博物館学芸員課程の面接指導。いよいよ完成年度が近づいてきた。

7月26日(日)
前近代都市論研究会。このたびはウチの大学の今出川キャンパスが会場。と、いうことで、午前中は相国寺周辺のミニ巡検に御案内。
午後は、来年度の論文集刊行に向けて(できるかな・・・(゚ー゚;)、日本古代の「複都制」について報告する。とはいってもかなり穴だらけで、KYさん(古代史)、YMさん(考古学)から厳しい批判を受ける。う〜〜〜。主宰者の仁木宏さんからも厳しい総括。もう一度戦線を再構築しなくては・・・

8月2日(日)
ここ2年余り続けてきた古代学協会の「仁明朝史研究会」の最後の総括研究会。故・角田文衞先生が生前に発案された最後の仕事なので、なんとか形にしなくてはならない。

8月3日(月)〜5日(水)
わが大学では、この夏に部屋の大移動がある。一部の学科が京田辺キャンパスから今出川キャンパスに移転したので、京田辺キャンパスも再編がおこなわれる、ということで全研究室や学部事務室も移動になるのである。私の研究室は2階から3階へ移動することになる。多くの仕事は運送屋さんまかせであるが、私の部屋には土器や埴輪という特殊な品物があるし、また、書類や細々としたものは自分で箱詰めが必要となる。と、いうことで、汗水たらして移動の準備。

8月7日(金)
ウチの奥さんに引かれて、奈良・生駒の聖天さん(宝山寺)にお詣り。世阿弥や金春禅竹の能楽史料の特別公開をながめる。T郷土資料館のSNさんが来ておられて、お互いびっくり。なんでも、同資料館で今秋、能楽の特別展をやるという。
山からおりてけっこうヘトヘトなのだが、せっかくなので奈良国立博物館に足をのばし、「聖地寧波<ニンポー>—日本仏教1300年の源流〜すべてはここからやってきた〜—」展を観覧。すばらしい。要するに中世日宋交流史の大展覧会である。

------------------------------------------------------
6日に、ショッキングなニュースがとびこんできた。女優の大原麗子さんが自宅でお亡くなりになったというのである(亡くなられたのは8月3日と推定されるらしい)。最近は難病を患われて芸能活動から遠ざかっておられたのは知っていたが、まさか亡くなられるとは思わなかった。以前からファンだっただけに、大ショック。麗子さんが主演された大河ドラマ「春日局」がCSで再放送されており、この日の夕方にも録画を見ながら、やっぱり綺麗な人だな〜、と見とれていただけに、衝撃もなおさらである。
ご冥福を祈るために、市川崑監督の「おはん」を見る。この映画、吉永小百合さんが主演なのだが、大原麗子さんの存在感が圧倒的で、明らかに主役を喰ってしまっている。麗子さんのキビキビとした芸者役が、無責任ダメ男(オイオイお前、もうちょっとしっかりせ〜よ!、といいたくなるシーンが満載。石坂浩二さん、名演!)との対比によっていやがおうでも引き立つ。
20世紀後半の日本を代表する名女優であった大原麗子さん。ご冥福をお祈りいたします。

2009.07.11

平安京・京都研究集会案内、の巻

風邪でぶっ倒れておりましたので、ブログでの告知を失念しておりました。明日になってしまいましたが、下記のとおり第18回の平安京・京都研究集会を開催いたします。平安京・京都研究集会としては初めて、近代の京都にとりくみますので、こぞっての御参加をお待ち申し上げております。

===========================================
第18回 平安京・京都研究集会

「京都の歴史イメージはどのようにつくられたか—公共の歴史学のために—」

「建都千二百年」から十数年、京都学や各種検定の盛行など、京都の歴史に対する関心は空前の高まりを見せている。その一方、歴史学をはじめとする人文学はその存在意義が問われているともいう。私たちはこの機会に、歴史学が社会とどのように関わってきたのかをそれぞれの時代の現場に即して検証したい。京都における歴史認識のあり方を、史学史としてたどるとき、私たちが直面している課題に対しても何らかのヒントが得られるのではないだろうか。

日 時 2009年7月12日(日)
シンポジウム  午前11時〜午後5時

  場所 機関誌会館5階大会議室
     (京都市上京区新町通丸太町上ル東側、市バス府庁前下車すぐ、または地下鉄丸太町駅下車2番出口より西へ徒歩5分)
  報告 入山洋子氏(元京都市市政史編さん助手・近代史)「西田直二郎の『京都市史』をめぐって」
     秋元せき氏(京都市歴史資料館・地方自治論)「大正期京都の都市計画展覧会の歴史的意義について—都市計画をめぐる歴史意識—」
     福家崇洋氏(京都外国語大学講師・近代日本思想史)「川島元次郎と海外発展史研究」
     高木博志氏(京都大学・日本近代史)「公教育と京都像」
  討論 司会:小林丈広氏(京都市歴史資料館・日本近世・近代史)

主 催  平安京・京都研究集会
後 援  日本史研究会
要資料代。一般来聴歓迎。

2009.06.29

北海道・網走、の巻

 090628〔上:常呂遺跡、下:ホンモノのツブ貝の寿司〕
 6月26日(金)・27日(土)
 珍しく、北海道行き。網走市の東京農業大学オホーツクキャンパスでおこなわれる全国大学博物館学講座協議会の大会に出席のためである。
 白状すると、これまで、ほとんど北海道と縁がなかった。その地を訪れたことがあるのも、かなり以前に友人の結婚式で札幌・小樽に行っただけなのであり、今回の訪問で僅か2回目、ということになる。だいたい、飛行機が嫌いなので、ストレス無く鉄道で行ける範囲を超えてしまうところには、どうしても足が向かない、ということになるのである。でも、今回はどうしても行かなくてはならないことになった。
 最初は金曜日の早朝に出発すれば良いと早合点していたのであるが、調べてみると、大阪発で女満別空港に着く飛行機は午後の便しかない。昼前に会場に到着するには、羽田発の7時55分という飛行機しかないのである。これはしかたない。木曜日の授業が終わってから夜に東京に入り、羽田で一泊して飛行機に乗り込むしかない。いやはや、めんどくさいことである。

 金曜日午前、東京農業大学着。市街地から離れた丘の上のキャンパスである。周囲を見渡すと、のたのたのたのたと低い丘が連なり、その間は広大な畑地が広がる。なんとなく日本離れした風景で、以前に見たイングランドの風景を思い出す。11時、事前打ち合わせ会に出席。13時、会議開始。ここで私は、総会の議長を務めねばならない。実は、来年度のこの大会をわが大学で引き受けることになってしまっている。会の副委員長と総会議長は次年度大会開催校が担当する、という義務があるのである。どちらにしても、来年のことを考えると大会の運営の隅々まで見せておいていただいた方が良い。
 報告会では、「網走地域の博物館の現状と課題」ということで、地元の網走市立美術館美幌博物館上湧別町ふるさと館の事例を聞かせていただく。いずれも小規模な博物館であるが、地域に密着した旺盛な活動を続けておられるところが印象的であった。続いて「博物館法省令改訂について」を文化庁美術学芸課長(前・文部科学省生涯学習政策局社会教育課)の栗原祐司氏が話される。2年後から、博物館学芸員課程のカリキュラムが大きく変わる。これは博物館学芸員課程を置いている大学にとって死活的ともいえる大問題なのであるから、詳しく聞いておかねばならない。実は6月29日に文部科学省の説明会が実施されるのであるが、栗原氏はこの改訂を主導した中心的な人物であるので、そちらから話を聞けるのはこの上なく貴重な機会である。
 大会のあとは、網走市内のホテルに会場を移しての情報交換会。みんな、タラバガニに群がる。次年度開催校としての挨拶もさせられてしまう。終了後は、全博協西日本部会長のH大学のYT教授らのおともをして、二次会。

 土曜日、せっかくだからちょっとだけ早く起きて、ホテルの近くの有名遺跡・モヨロ貝塚へと足を伸ばす。
 見学研修会は3コースが用意されるが、私は「常呂コース」に参加。網走市立郷土博物館北海道立北方民族博物館ところ遺跡の森(国指定史跡常呂遺跡)(ところ遺跡の館、ところ埋蔵文化財センター「どきどき」 、東京大学文学部常呂資料陳列館)を見せていただく。網走市立郷土博物館は地味で素朴な展示だが、正直いうと、こういう昔ながらの博物館のほうが心が和む。北海道立北方民族博物館、これは素晴らしい。北海道だけにとどまらず、ロシア、カナダ、アラスカなどをも含めた国際的規模で資料が収集され、みごとな展示が形作られている。この博物館なら、何時間いても飽きないだろうな。また機会を作って、じっくりと訪問することにしよう。
 常呂遺跡(写真)は東大の調査で有名だから名前だけは知っていたが、その中身については、まったく勉強不足であった。行ってみて驚愕。さすがは世界文化遺産への登録を目指すというだけある。数千件の竪穴住居跡が累々と分布する巨大遺跡である。冬になると竪穴住居跡だけに雪が残って面白い写真が撮れるというのも、初めて納得する。東京大学が現地に研究施設を建てて継続的な調査研究にとりくんでいるというのもうらやましい限りである。資料館の中には、オホーツク文化、擦文文化と並んで、トビニタイ文化の土器が並んでいる。つい先般、わが大学の同僚の大西秀之准教授が『トビニタイ文化からのアイヌ文化史』という著書を出されたので、それで名前だけは知っていた。ふむふむ、なるほど、これがその実物か、と、ひとりで頷く。

 充実した1日をすごしたあと、女満別空港へ帰着。お土産を買っていて、ふと空港内の寿司屋を覗くと、O大学のMK教授が生ビールを傾けているのを発見。ご一緒させていただくことにして、本場ならではのホンモノ(?)のツブ貝の寿司(写真)を頬張る。

 6月20日(土)
 花園大学考古学研究室の大会。刊行されたばかりの、花園大学考古学研究室30周年記念論集『花園大学考古学研究論叢II』をいただく。私が花園大学考古学研究室に在籍したのは1999年度から2006年度までの8年間であるが、その間に考古学研究室創設20周年を迎え、その記念として2001年に『花園大学考古学研究論叢』を刊行したことであった。今回、研究室の30周年をむかえて「II」が刊行されたのである。私の後任の高橋克壽准教授の御指導のもと、花園大学考古学研究室がますます発展していることを目の当たりにし、嬉しい気持ちでいっぱいである。

【書いたもの】
◎「『文久の修陵』による天皇陵改造」(花園大学考古学研究室30周年記念論集『花園大学考古学研究論叢II』所収、京都、花園大学考古学研究室30周年記念論集刊行会、2009年3月)201〜211頁。
◎「平安京の空間構造」(舘野和己編『古代都城のかたち』〈同成社古代史選書3〉所収、東京、同成社、2009年6月)、51〜73頁。
【テレビ番組監修】
●山田邦和監修「THE 世界遺産 第55回『日本の古都スペシャルII 古都京都の文化財』」(毎日放送〈TBS〉テレビ、2009年4月26日放送)。

2009.06.22

山中博士に怒られる、の巻

090622〈←待賢門院建立の法金剛院では、今、アジサイの花がまっさかり〉
 6月22日(月)
 ありゃりゃ・・ 山中章博士に怒られてしまったぞ。いつもは山中博士が過激なことを言い、それを私が右往左往しながら宥めるというのが役回りなのに、今回はどうしたことなのだろうか?

 これは、6月3日の「日本考古学協会2009年度総会」の条で、春成秀爾氏らの研究グループがおこなった「放射性炭素年代測定法の新研究によると箸墓古墳は卑弥呼の墓である」との研究発表に対して述べたところです。確かに、ついつい冷静さを欠いた表現をしてしまったかもしれず、それが博士の逆鱗に触れることになったのかもしれません。
 はっきりさせておきたいのは、私は、情報は専門家の間だけでまわしていって、一般の市民の方々やマスコミから隠すべきだ、なんてことはひとことも言っていませんし、考えもしていません。むしろ、情報はどんどん公開して幅広い議論をまきおこしていったら良いと思っています。それは「もちろん、考古学協会の研究発表会は公開されているし、考古学をやっている学生さんたち、一般の考古学愛好者の皆さん、さらにはマスコミの記者たちを排除する理由はない」と書いたとおりです。その点では山中博士とまったく同意見なのです。ただ、今回、考古学協会当局に対して申し上げたのは、事前にマスコミに流れるという予想外の事態がおこったことで、会場が満杯になって聞きたくても聞けない人がでる可能性がある(事実、以前の「弥生時代の実年代の放射性炭素年代測定法」の時には聞けない人がいっぱい出た)。それへの対処をお願いしたのです。聞きたい人が聞けるようにしてほしい、というのは間違っているとは思いません。その結果、当局の機敏な判断によって会場が変更され、みんなが聞けるようになった。このこと自体はまことに結構なことだと思っています。

 たしかに私は、「マスコミを使って自分の学説の既成事実化をたくらんだと思われても抗弁の余地がない」と過激なことを言ってしまったのは確かです。春成氏らの研究グループに対して失礼な物言いだと感じられる方がおられたのならば、そのことはお詫びしなくてはならないと思います。また、山中博士がおっしゃる通り、学界とマスコミがお互いに利用しあっているという側面も否定することはできません。

 ただ、私が危惧するのは、一方の学説だけをマスコミが囃し立てることによって、自由な論議が妨げられるということがありうる、ということなのです。例の「前期旧石器遺跡捏造事件」の時には、日本における旧石器時代の開始の年代がどんどん遡るという一方的な「発見」だけがどんどんマスコミに流れていきました。あとでよく考えてみるとそこにはまるで学問的な検証がなされていなかったり、学界の一部では反論が提起されるところもあったのですが、それはほとんどとりあげられることはなく、「日本旧石器時代の開始は○○万年前にさかのぼる!」「日本の旧石器時代人は高度な精神生活をおくっていた!」などというところばかりがぶち上げられ、高名な学者もそれを大々的にとりあげて一般向けの書物などで紹介したりして、いつしかそれが「通説」となったような気にさせられていったのです。私たちはあの苦い経験をくりかえしてはなりません。

 研究者とマスコミの関係というのは、いわば「両刃の剣」だと思います。使い方によっては善くもなるし、また、まちがった使い方をしてしまうと社会全体に悪影響を与えることにもなりかねません。何が良い使い方で何がまちがった使い方かの基準がどこにあるかは難しいし、私にもうまく言えないのですが、「邪心」の有無、というところになるのではないかと思います。マスコミを使って自分の学説を有利にしようとか、自分の利益を計ろうとか、これによって自分が名声を得ようなどというのは、「邪心」の最たるものでしょう。研究者たるもの、自らの心に絶えずこうした無言の問いかけをしなくてはならないと思います。

 今回の春成氏らの研究グループの報告を聞いて私が目を剥いたのは、「炭素14年代は平均値を記載する」(『日本考古学協会第75回総会研究発表要旨』)とされていたところです。これは明らかにマズい。私はもちろん科学分析の専門家ではないので詳しい知識はないのですが、炭素14年代はどんなに精度があがっても誤差ゼロというところには行き着きません。炭素14年代には必ず、±何年、という幅がつきます。そして、国際的には炭素14年代のプラスマイナスは1σであらわすことが約束事になっています。たとえば、「B.P.1900±50」というような記載法です。しかしそれを「平均値を記載」ということで「B.P.1900」としてしまうことは明らかにルール違反です。グラフには表示してあるといっても、それは免罪符にはならないでしょう。それに、「B.P.1900±50」とは、B.P.1950からB.P.1850(わかりやすくするために西暦に直訳すると、紀元元年〜紀元100年)の間におさまる確率が68.3パーセントということをあらわしており、あとの31.7パーセントはその範囲から逸脱することも充分にありえるのです。さらに、「B.P.1900±50」とは西暦紀元50年である確率が一番高く、西暦紀元元年や紀元100年である確率は低い、というものではありません。「B.P.1900±50」は、西暦紀元元年である確率と紀元50年である確率と100年である確率はまったく同じなのです。この点でも、「平均値を記載」というのはまったく誤ったやりかたなのです。
 こんなことは、理科系の頭を持っていない私ですら知っているくらいの炭素14年代測定法の初歩の初歩ですから、春成氏らのグループという専門家集団がそれを知らないはずはありません。知っていてそれでもあえて「平均値を記載する」というのは確信犯としかいいようがないのであり、と、いうことは、ここには何かの「邪心」を感じざるをえない。そう考えたからこそ、ついつい(私らしからぬ?)厳しい口調になってしまったのです。
 なお、春成氏らのグループの方法は、一見完璧見えても実はあちらこちらで危うい部分を持っており、それは考古学協会当日に座長をつとめられた(こう書いてしまうと、実名がバレバレですね・・(・∀・))flyingmqn氏のブログに詳しいので、そちらに譲らせてください。そうした危うさを持ちながら、「箸墓古墳は卑弥呼の墓であった」と結論づけるのは、やはりかなりの飛躍だと思います。

 もうひとつ大事なのは、マスコミ側と研究者側の間の、ある種の緊張感でしょう。マスコミも、ある研究者のいうことを鵜呑みにしてその成果だけを一方的にとりあげるのではなく、それへの反論も同じくらいの比重でとりあげて欲しいと思います。マスコミは特定の研究者のタイコ持ちなのではなく、公正な議論のための素材を社会に提供する使命があるのですから。この炭素14年代測定法についても、田中良之氏(九州大学)らの研究グループの弥生時代の人骨の研究では、春成氏らのグループの成果とはかなり違った測定値がでているはずです。どちらが正しいのかは私には判断はつきませんが、少なくともそうした成果が公表されている以上、マスコミも春成氏グループだけでなく、そちらにもスポットをあてて公平な情報を出してほしいのです。

 ついでに言っておくと、こうした研究成果にマスコミが「歴博の研究で〜〜ということが判明した」という言い方をするのは、なんとかならないのでしょうかね。もちろん歴博という組織に属する研究者が組織の金と設備を使って出す研究ではあるのですが、研究をするのはあくまで個々の研究者であるはずです。たとえば、私が出す研究成果は、たとえ同志社女子大学の研究費を使っていても、「山田という研究者の成果」なのであって、「同志社女子大学の研究成果」とはちょっと違うと思います。「歴博の研究成果」とされてしまうと、マスコミ報道を聞いた一般の市民の方々に、「そうか、『国立』『権威ある』研究機関が『最新の科学的方法』によって研究し、日本考古学協会という『日本を代表する』考古学の学会で発表されたのだから、これが定説になったのだ」などという誤解をあたえないとも限りません。

 「邪心」をゼロにすることは、私も含め生身の人間にはむつかしいのかもしれない。しかし、私たちは絶えず自分の良心に問いかけ、自戒し続けなくてはならない、と痛感いたします。

2009.06.15

文化財保存全国協議会第40回記念京都大会、の巻

090605〈←宇治平等院「鳳凰堂」。やっぱり、実にうつくしい〉
 6月12日(土)〜13日(日)
 同志社大学において、文化財保存全国協議会(文全協)の第40回記念京都大会。文全協は、大阪府堺市いたすけ古墳の保存運動に端を発し、全国的な文化財保存の中核として活発な活動を続けてきた団体で、今年で創設40周年となる。その記念すべき年の大会を京都でおこなうことになったのである。
 それは大変結構なことなのであるが、どうしたわけか私は今回大会の実行委員会の「事務局長」を仰せつかってしまった!!(゚ロ゚屮)屮。私のように計算に弱く、仕事もいいかげんな人間にこんな大役をまかせるというのは、いったいぜんたいどうなってるんだろうか? しかも、報告もせねばならない、というのだから大変である。
 土曜日は見学会。「宇治の遺跡と文化財」ということで、宇治市の文化財調査と保存の中核をになってこられたSH氏にご案内いただく。最後の最後まで参加人数が確定できなかったのであるが、結局は50人弱の大所帯での移動となった。京阪宇治駅から太閤堤跡、橋寺放生院、宇治上神社、塔の島の十三重石塔を見て、宇治川側で食事。そのあとは平等院とその博物館である鳳翔館(寺院のミュージアムとしては超一級の存在である)、山本宣治墓、県神社と見て、宇治橋に帰ってくる。ちょっと蒸し暑いのが閉口であるが、SH氏の熱のこもった解説と、裏方を努めてくださった実行委員会のHK氏の的確な配慮で、無事に済む。それにしても、宇治市は歴史的遺産を充分に活かした魅力的な町づくりにとりくんでいることがよくわかる。
 そのあとは、同志社大学寒梅館で懇親会。
 日曜日にはいよいよ本番。九時スタートなので、40分前に会場入りして、段取りにかかる。とはいっても、手伝いの同志社大学考古学研究室の学生諸君がテキパキと動いてくれる。これなら安心。
 私はトップバッター(前座?)での登壇。基調報告1「都市遺跡としての京都」。京都の史跡・文化財保存の現状と問題点を紹介する。こうしたテーマでは史跡公園にばかり目がいくが、石碑や説明板の建立による史跡顕彰事業の大事さを力説。もちろん、「平安京検非違使庁址」の石碑を紹介することも忘れない。さらに、京都のような大都市では広面積の遺跡保存はほとんど不可能であるから、むしろ「点」を増やしていくこと、そして、その点同士のネットワーク作り、史跡を知ることのできる拠点施設(博物館など)の建設、それを中核とした町づくりをしていくことが大事だということを述べる。要は、史跡・文化財の保存・活用とは、すなわち町づくりに他ならない、ということなのである。こういう視点で京都の史跡の話をするのはちょっと珍しいのかもしれず、参加者の皆さんにはけっこう好意的に受け止められたとおもう。
 今回は、私のものを含めて合計10本の報告がおこなわれた。いずれも的確で面白い発表で、本当に勉強になった。事務局役はいささかしんどかったが、良い会になって、良かった良かったo(*^▽^*)o。

【書いたもの】
◎「都市遺跡としての京都」(文化財保存全国協議会第40回記念京都大会実行委員会編『文化財保存全国協議会第40回記念京都大会 都市遺跡の調査と保存・活用・整備 予稿集』所収、〈大阪〉、文化財保存全国協議会、2009年6月)、1〜5頁。
【しゃべったこと】
○「都市遺跡としての京都」(文化財保存全国協議会・文化財保存全国協議会第40回記念京都大会実行委員会〈主催〉「文化財保存全国協議会第40回記念京都大会〜都市遺跡の調査と保存・活用・整備」
、於同志社大学明徳館、2009年6月14日)。
【社会活動】
▼文化財保存全国協議会第40回記念京都大会実行委員会事務局長

2009.06.03

日本考古学協会2009年度総会、の巻

090603(左:ダライ・ラマ法王日本代表部事務所のあるビル。右:日本考古学協会総会)
 5月29日(金)〜31日(日)
 東京・早稲田大学において、日本考古学協会の総会。
 金曜日、東京着。ほんの少し時間があるので、どこに寄り道しようかと迷った。いつものように神田神保町の古書店街、という手はあるのだが、急に、新宿にあるダライ・ラマ法王日本代表部事務所を訪ねてみたい!、と思った。ここはチベット亡命政府の在日本大使館ともいえる存在であるし、予約もなしに行ってはマズいかな、という不安はあった。しかし、私はチベットハウス(同事務所文化部)の会員であるし、ささやかではあるが、チベットの皆さんを援助するためのブルー・ブック・プロジェクトの参加者でもある。少なくとも、同事務所の図書室は一般公開しているはずだから、まかりまちがっても図書室を見ることくらいはできるハズである。
 と、いうことで訪れたダライ・ラマ法王日本代表部事務所。新宿三丁目駅から徒歩数分の小さなビルの中にある小さな事務所である。エレベーターを降りると、ちょうど、若いボランティアの女性が出てくるところに行き当たった。来意を告げると中に案内してくれて、ツェワン・ギャルポ・アリヤ経理・広報担当官に引き合わせてくれ、同担当官から話を聞かせてもらうことができる。さらに、ラクパ・ツォコ代表(要するに、中央チベット行政府〈チベット亡命政府〉の「日本駐在大使」)にも挨拶することができた。ありがたいことであった。これからもチベットのサポーターであり続けたいということを伝え、わずかではあるがブルー・ブックに寄付金を納めて事務所を辞する。

-----------------------------------------------------------------------
 午後は、日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会。今回は、結構たくさんのメンバーが集まっている。終了後は、やっぱり呑み会(*゚ー゚*)。

 土曜日は、いよいよ本番の総会である。今回の総会は大切なものである。と、いうのは、いままでの日本考古学協会は「有限責任中間法人」であったが、法律改訂によってそれを「一般社団法人」に変更することを議決しなくてはならない。しかし、そのためには会員(約4,000名)の三分の二の出席(含委任状)が必要となり、理事会の皆さんはその確認に大変だったようである。皆さんのご努力もあって総会は成立するにいたり、これは御同慶のいたりであった。本日をもってめでたく、「一般社団法人日本考古学協会」が誕生したのである。

 ただ、今回の総会では、私も言っておきたいことがあった。挙手をしての発言は勇気がいるし、限られた時間を消費することで顰蹙を買うことになるだろうが、それはいたしかたない。少なくとも、私の主張を記録にとどめてもらうことが必要だと思ったのである。
 それはこういうことである。理科系の学会には、そこが発行する学術雑誌に論文を掲載する際に、「論文の著者は論文の著作権を学会に譲り渡さなくてはならない」という規定を持つところが多い。それが徐々に文科系の学会にも波及してきた。と、いうのも、最近では学術雑誌を電子アーカイブにしてインターネットに公開することが流行っており、そのためには学会が著作権を持っていた方がはるかにやりやすいからである。もちろん、電子アーカイブ化自体は大変結構なことであるから進めればよい。しかし、そのための著作権の扱いについては、また別の方策があるはずである。少なくとも、著作権に疎い理科系は知らず、文科系にはこうしたやりかたは馴染まない。なぜならば、文科系の研究者にとって、自らの著作の著作権は研究者としての「生命」に等しい価値を持っているからである。
 したがって、私は、少なくとも私の関係している学会については、学会が著者の著作権を奪い取るという「暴挙」を許すわけにはいかないと決意しているのである。日本考古学協会ではまだそこまでは至っていないのであるが、最近、その方向への危惧が現れ出た。これは、流れができる前に先手を打っておかねばならないであろう。そこで発言を求め、以上のことを述べた。会員の皆さんに私の真意が伝わったかどうかはわからないが、すくなくとも記録にはとどめていただいたハズであり、その点では私の希望はかなえられたことになる。

 しかし、私の発言で時間を喰ったことは確かであるし、その点では理事の皆さんには申し訳ないことをした。と、いうことで、懇親会では理事のみなさんに対してひたすら平身低頭m(. ̄  ̄.)m。苦笑いをされたが、許していただいた(と、思う(^-^;)。結局、いつもの通り二次会まで繰り込んで、またまた大騒ぎ。

 もうひとつ、総会では執行部と実行委員会にお願いをした。それは、29日金曜日の朝日新聞朝刊を見て仰天したからである。そこには、「奈良・箸墓古墳築造、卑弥呼の死亡時期と合致 歴博測定」の大見出しが踊っていた。これはマズいことになった。こういうことは、学会で発表して相互に議論した後にマスコミに出すのが本来である。事前にマスコミに流すというのでは、マスコミを使って自分の学説の既成事実化をたくらんだと思われても抗弁の余地がない。以前にも、この研究グループの弥生時代の開始年代をめぐる放射性炭素年代測定法の成果発表の際、前日にマスコミに報道されたという「前科」があった。その結果どうなったかというと、日本考古学協会の研究発表会の会場は超満員になってしまった。おそらくそこには、考古学協会員以外の人々がかなり参加していたはずである。もちろん、考古学協会の研究発表会は公開されているし、考古学をやっている学生さんたち、一般の考古学愛好者の皆さん、さらにはマスコミの記者たちを排除する理由はない。しかし、考古学協会の研究発表会の意義は第一義的には協会員同士の討論というところにあるのであり、したがって私たち協会員は研究発表を聞く権利を有しているはずである。その権利が侵害されることではいけないはずである。今回もそのような危惧があったので、円滑に研究発表会がおこなわれるようにお願いをしたわけである。
 私のお願いが聞き入れられた結果かどうかはわからないが、31日午後からの研究発表会場は急に変更になり、午前の倍以上の教室になった。これは本当に良かった。その広い会場がほとんど満席に近く、おそらく400人くらいは入場していたからな。私もゆっくりと聞くことができた。日本考古学協会理事会と総会実行委員会の機敏な対応はまさに見事。感謝、感謝。
 なお、この研究発表の内容については、私は納得できなかった。一見すると科学的に見えるけれども、そこにはかなりの仮定の積み重ねと強引な誘導がある。結論の当否は別として、これで「箸墓は卑弥呼の墓だ」と断じるのは飛躍にすぎる、というのが正直なところである。

 発表内容についてはそう感じたのだが、この研究発表の際に司会をつとめられた協会理事のTKI大学のHY教授の名司会ぶりは特筆モノである。ピントはずれの質問については毅然と応対し、さらに報道機関には冷静な対応を求めるなど、見事な手綱さばきですごくカッコ良かった(HYさん、もともとカッコいい人なんですけどね。羨ましい・・・)。
 もうひとつ、私の聞いた研究発表の中ですばらしかったのはKS大学のMK教授による「中国四川省晏爾龍石棺墓地の発掘調査」。私は専門外なので細部についてはよくわからないのであるが、強烈な意志の力がグイグイと迫ってくるのに圧倒された。こんなの聞かされると、私も頑張らなくっちゃな、という気になるな。

2009.05.26

出雲路幸神社で疫病除け、そして貝塚「ぼっかんさん」、の巻

P1120376(左:京都市上京区・出雲路幸神社の境内に祭られている「神石(石神様)」と「疫神社」)
(右:大阪府貝塚市・願泉寺の寺内町)
 5月18日(月)
 世間は新型インフルエンザで大騒ぎ。大阪府と兵庫県で感染者が大量に出て、そちら方面ではエラいことになっていたらしい。私も、新型インフルエンザを食い止めるために何かしなくてはならないと思いだした。しかし、私は医者でも薬学者でもない。歴史学の研究者としての私にできることは何か? そう、これは「神頼み」しかない! 古来から、疫病の発生に際してはさまざまな祭祀がおこなわれた。特に、京の都に侵入しようとする疫神を退けることを目的として、四角四堺祭、宮城四隅疫神祭、道饗祭など、いろんな祭りが実施されたのである。
 さいわい、月曜日の大学院の授業は今出川キャンパスである。そこで、授業を振り替えて、外にでかけることにした。同志社女子大学今出川キャンパスの東北側の街中に、出雲路幸神社という小さな小さな神社がある。「こうじんじゃ」とか「さいわいじんじゃ」と読んではならない。「いずもじ・さいのかみのやしろ」と読む。つまり、塞神・道祖神(日本神話の猿田彦命と同一視される)を祭る神社なのである。そして、道祖神は道路の神、性愛の神であるとともに、境界の神である。つまり、現世と異界との境界を守護することにより、現世に悪神が入ってくるのを防ぐ役割をもっている。この神社は「皇城表鬼門守護」を名乗るだけあって、平安京の東北の鬼門を押さえることによって悪神(特に疫神)の侵入を防いでいるのである。
 現に、この境内には男性シンボルになぞらえた道祖神の神石や、疫神社の小さな祠が祀られている(写真左)。私は、この神社は平安時代に平安京の東北隅でおこなわれた「四角四堺祭」の祭場が常設の神社に転化したものだと考えている。この仮説があたっているならば、この神社は平安時代の境界祭祀の痕跡を今に伝える重要な史跡だということになるのである。ともあれ、ここにお詣りしておけば大丈夫、ということで、大学院生の諸君とともに手を合わせる。
 その後、やっぱり京都にも疫病が入ってきて、ウチの大学も5/22〜5/27が休講になってしまった。しかし、京都の感染者は大阪・兵庫に比べると二桁低く、数人にとどまっているから、おそらくは私たちのお詣りの霊験があったのであろう(?)

 5月24日(日)
 大阪府貝塚市に出かける。実は、ここは私の母の故郷。今も、現当主である母の弟を始め、母の一族の多くはここに住んでいる。この日は先代の当主で私からすると大伯父にあたる人の17回忌の法事。ひさしぶりの貝塚訪問である。
 本当ならば、貝塚の中心である貝塚御坊・願泉寺で法事をするはずだった。この願泉寺、大坂本願寺(「石山本願寺」)を退去して紀州の鷺森本願寺に移った顕如上人が、さらに大坂・天満本願寺に移るまでの2年間、居住していた「貝塚本願寺」なのである。
 願泉寺のことを、母の親戚はみんな「ぼっかんさん」と呼ぶ。最初はいったい何のことなのか、さっぱりわからなかった。実はこれ、天文年間(1550頃)にこの寺を創建した初代住職・卜半斎了珍<ぼくはんさい・りょうちん>に由来する呼称なのであり、こんなところに中世が脈々と生き続けているのである! 現在、願泉寺は本堂が大修理中となっている。結局、家に願泉寺の御住職(「御前様<ごぜんさま>」)をお迎えしての法要になる。御前様というからどんな老僧がおいでになるのかと思っていたが、若い若い御方で、ちょっとびっくり。法事が終わった後は、母の従兄弟に案内してもらって、貝塚寺内町を散策(写真右)。

2009.05.23

山田邦和『京都都市史の研究』刊行、の巻

Kyotohon
 懸案になっておりました、私の論文集『京都都市史の研究』が、とうとう完成いたしました(o^-^o)。何年も前から出す出すと言っていたのが遅れに遅れ、やっと今日の仕儀にあいなりました。第1論文集であり学位論文であった『須恵器生産の研究』を出したのが1998年だから、それから11年たってしまい、「10年に一冊の学術書公刊」という目標からはちょっと外れてしまった。
 最初はA5版函無しの予定だったのであるが、吉川弘文館の編集者のみなさんががんばってくれて、B5版函入、ハードカバー(クロス装)ということにしていただいた。なんでも、このクロス装も最高品質のものを選んでいただいたという。ありがたい限りである。頁数は索引を入れて312頁。ホントはもっと入れたい論文もあったが、これ以上分厚くすると定価がバカ高くなるから、それは次の機会へとまわすことにした。定価は9,500円+消費税。これも、最初は1万円台後半になるとの見込みであったので、ちょっと怯えていた。それが、これも出版社の御努力によって税込みで1万円を切る価格に押さえていただいた。おそらく、こんな固い内容の学術書でこの値段は破格だと思う。とにかく、これだけの「厚遇」をいただいた吉川弘文館にはいくら感謝してもしすぎることはない。
 できあがりを手にしていささか感動したのは、紙の質と印刷の良さ。出版社の中には、費用的な問題で技術の低い印刷所を使ったり、また、もともと図面を多用する本に慣れていなかったりして、図面や写真の仕上がりに問題を残すような本を作るところがある。しかし、歴史書に定評のある吉川弘文館は、さすが、というべきであろう。ひょっとすると私の原図よりも綺麗(?)だと思われるくらい、シャープな図に仕上がっている。これはありがたい。本書には、平安京復元図、平安宮復元図、平安京邸宅配置図、唐洛陽城復元図、唐長安城復元図のような、基本中の基本というべき図面をできるだけたくさん収録した。これなら、私自身が使い回しするのにも便利だし、他の研究者の皆さんにもいろいろとお役立ていただくことができるのではなかろうか。
 本書には、平安遷都1200年記念の1994年から、一昨年の2007年までの13年間に書いた論文を収録した。私としては、35歳から48歳までの時期の研究成果だということになる。研究者としての私の人生にとって、これはやはり非常に大きな意味を持っていた時期だと思う。

 もちろん、私の論文のすべてをこの書に収録できたわけではない。いくつかは、頁数の都合で割愛せざるをえなかった。たとえば、平安京・京都の都市民の信仰をあつかった「古代社会の信仰―古代都京の信仰―」や「鴨川の治水神」。六波羅・法住寺殿についての「六波羅・法住寺殿復元試案の作成」。中世の京都の衛星都市である嵯峨についての「院政王権都市嵯峨の成立と展開」「中世都市嵯峨の変遷」。豊臣秀吉の伏見城下町を扱った「伏見城とその城下町の復元」。これらも、私の京都都市史研究の中では必要欠くべかざるものである。さらに、平清盛の福原を論じた「『福原京』に関する都城史的考察」「『福原京』の都市構造」「福原遷都の混迷と挫折」も、私の中では大きな意味を持っている。しかし、欲を言ったらきりがないのであって、それらはまた改めて、別の一書にまとめることにしたいと思っている。

 ともあれ、自分の研究人生の大きな一里塚を築くことができた。吉川弘文館さま、ありがとうございましたm(_ _)m。そして、この本がきちんと売れますように・・・


 目 次
第1部 平安京の都市構造
 第1章 平安京研究の現状
 第2章 桓武朝における楼閣附設建築
 第3章 「前期平安京」の復元
第2部 中世都市京都の成立と展開
 第1章 中世京都都市史研究の課題
 第2章 中世都市京都の成立
 第3章 中世都市京都の変容
 第4章 戦国期京都の復元
第3部 平安京・京都の葬送空間
 第1章 平安京の葬送地
 第2章 京都の都市空間と墓地
 第3章 考古学からみた近世京都の墓地
あとがき
索引

【書いたもの】
◎山田邦和『京都都市史の研究』(東京、吉川弘文館、2009年6月)。

=============================================

陵墓シンポジウム、の巻

5月17日(日)
 既報の通り、陵墓関係16学・協会の主催によるシンポジウム「陵墓公開運動の30年-佐紀陵山古墳・伏見城の報告とともに-」がおこなわれた。広報にまで手が回らなかったこともあってどれくらいの人が来ていただけるか不安だったが、200人弱ははいっていただけたと思う。まずまず、成功である。
 私の担当は、「伏見城跡(桃山陵墓地)の立ち入り調査」。仁木宏さん、松尾信裕さん、中井均さんとの共同報告であるが、みなさんとディスカッションの上で、私が代表してしゃべることになった。いささか緊張。でも、パワーポイントのおかげで発表時間を守ることもできたし、まずまず好評だったのではなかろうか。
 驚いたのは、会場の方々に質問用紙を書いてもらうと、深い知識にもとづく的確な質問が頻出したこと。聞いてみると、いずれも伏見の地元の市民の方々だという。伏見について、そこに住んでおられる人の中にはこんなにも伏見を愛し、伏見の歴史や史跡に関心を持たれる方がおられるんだな。すばらしいことである。私たち研究者も、マスコミも、行政も、こうした熱意ある市民の期待に応える責務がある、つくづくそう実感させられた。
 終了後は、京都駅南側の、知る人ぞ知る豚のホルモン焼の専門店水月亭で打ち上げの宴会。私も、この店は久しぶりである。どこか変わったかな?と思ったが、幸い、全然昔と変わっていなかった。ここは、巷にあふれるお上品な焼肉屋とはまったく違う。狭い店中にもうもうと煙をたてながらの焼肉である。ホルモンも、いったいどこの部分なのかさっぱりわからないものが出てくるが、しかしそれがいずれも美味いのである(しかし・・・ ホルモンにビール。通風にはもっとも良くない組み合わせだな・・・ また叱られるぞ・・・)。

【しゃべったこと】
○山田邦和・仁木宏・松尾信裕・中井均「伏見城跡(桃山御陵地)の立ち入り調査」(陵墓関係16学・協会〈主催〉シンポジウム「陵墓公開運動の30年-佐紀陵山古墳・伏見城の報告とともに-」、於キャンパスプラザ京都、2009年5月17日)

2009.05.17

フランス版『京都歴史地図』刊行、の巻

Kyotoatlas(右は、図版の一部。私の原図になる「戦国期京都の酒屋分布図」)
 先日、フランスから国際郵便で重たい重たい荷物が届いた。さっそくにあけてみると、巨大でカラフルな豪華本が出てきた。出版されたばかりの、FIÉVÉ, Nicolas, éditeur"ATLAS HISTORIQUE DE KYOTO, Analyse spatiale des systèmes de mémoire d'une ville, de son architecture et de son paysage urbain"(ニコラ・フィエヴェ編『京都歴史地図—都市の記憶システムの空間的分析と、その建築と都市景観—』)が届いたのであるヽ(´▽`)/。待望の刊行である。しかし、こんなに大きい本になるとは思ってもいなかった。日本風にいえばB4版くらいの大きさで、総ページ数は528ページ、厚さは4.5cmという巨大さなのである。重さは4.4kg(!)だというから、変な姿勢で持ち上げたらギックリ腰にもなりかねない。
 さっそくあけてみた。この本のうち、下記の5章が私の執筆分である(ホントはもう1章書いたのであるが、他の人の執筆分と内容が重複したようで、やむなくカットとなった)。
L'urbanisation de Shirakawa et de Toba à la fin du XIe siècle(11世紀末の白河と鳥羽の都市化), pp.113-116.
Kyôto à l'époque des luttes entre les provinces (1467-1573)(戦国期〈1467〜1573年〉の京都), pp.145-150.
Les châteaux forts et les bastions médiévaux autour de Kyôto(京都をめぐる中世城郭), pp.157-161.
La résidence de Jurakudai et le château de Fushimi(聚楽第と伏見城), pp.167-174.
Le château de Nijô, le palais impérial et le quartier des nobles de Cour(二条城と内裏・公家町), pp.175-182.
Les groupes de quartiers à l'époque d'Edo(江戸時代の京の町組), pp.201-206.

 この本、かなりの難産だったようで、私が原稿を執筆したのはもう10年くらい前になる。京都大学の高橋康夫先生からお話をいただいて、先生のお手伝いという意味合いであった。高橋先生によると、コレージュ・ド・フランス(国立フランス学院)のニコラ・フィエヴェ博士がユネスコからフランス語の『京都歴史地図』を刊行したいという計画を持っておられる、ということで、そこに参加させていただくことになったのである。原稿を書くだけでなく、図面の算段までしなくてはならないので、かなりの大仕事となった。原稿締め切りからだいぶ遅れてしまって、フィエヴェ先生をやきもきさせてしまう仕儀になった(その節はすみませんでした・・・m(_ _)m)。これがご縁で、2002年には1年間京都に滞在して研究されるフィエヴェ博士と初めてお会いすることができた。流暢な日本語を話されるので、ホッと安心した。
 そうして原稿は出したのだが、フランス語への翻訳と図面の製図、さらにはユネスコからの資金の獲得などに多大の労力がかかったらしく、ようやく今日、それが刊行された。おそらく、ここまでこぎつけたフィエヴェ先生の奮闘は大変だっただろう。

 できあがってみると、これは凄い。なんといってもオールカラーというのは迫力がある。なによりも、単なる地図集ではなく、京都の都市史の専門書としても充分通用する内容である。さらに、京都の史跡のカラー写真も豊富だから、ヨーロッパの人々に京都の魅力を紹介することにも一役買うことができるであろう。こんな充実した京都歴史地図集は、日本ですら出版されてはいない。むしろ、この本を補訂してフランス語から日本語に逆翻訳して出版しても、充分意義のあるものになるだろう。おそらく、今後かなりの永い期間にわたって、ヨーロッパにおける日本研究・京都研究の基本書として使い続けられることは確実だろう。そんな重要な書物の製作に参画させてもらった幸福に、感謝々々。
 ただ、個人的にただひとつ悲しいのは、私はフランス語は皆目わからず、この本はまったく読めない、ということ(;ω;)。なにせ、自分で書いた部分を見ても、固有名詞の単語をたどるしかできないのだから、情けない限りである。
 この本の刊行を契機として、ヨーロッパでも京都都市史研究の重要性が広まりますように・・・

書誌を記載しておきます。アマゾンで見ると、定価79ユーロだそうです。つまり日本円に直すと1万円くらい。これは安いといわねばならないでしょうね。お買い得です。もちろんフランス語が読める人に限ってのことですが・・・

"ATLAS HISTORIQUE DE KYOTO, Analyse spatiale des systèmes de mémoire d'une ville, de son architecture et de son paysage urbain"
éditeur : Nicolas FIÉVÉ
Auteur : Paul AKAMATSU, FUJII Tadashi, Francine HÉRAIL, HIRAO Kazuhiro, HONGÔ Keiko, HOSOKAWA Takatoshi, ITÔ Sadahiko, KATÔ Kuniko, Nathalie KOUAMÉ, KÔZAI Katsuhiko, KUMAZAWA Eiji, François MACÉ, Marie MAURIN, Joan PIGGOTT, Philippe PELLETIER, SENDAI Shô'ichirô, TAKAHASHI Yasuo, Corinne TIRY, Charlotte von VERSCHUER, Michel WASSERMAN, YAMADA Kunikazu, YAMASAKI Masafumi
Paru le : 25/11/2008
UNESCO
ISBN-10: 2859174869
ISBN-13: 978-2859174866

【書いたもの】
◎YAMADA Kunikazu,“L'urbanisation de Shirakawa et de Toba à la fin du XIe siècle”,“Kyôto à l'époque des luttes entre les provinces (1467-1573)”,“Les châteaux forts et les bastions médiévaux autour de Kyôto”,“La résidence de Jurakudai et le château de Fushimi”,“Le château de Nijô, le palais impérial et le quartier des nobles de Cour”,“Les groupes de quartiers à l'époque d'Edo”, in Nicolas FIÉVÉ ed., ATLAS HISTORIQUE DE KYOTO, Analyse spatiale des systèmes de mémoire d'une ville, de son architecture et de son paysage urbain (Paris, 2008), pp.113-116,145-150,157-161,167-174,175-182,201-206.

2009.05.15

東京極春日で賀茂祭を見る、の巻

 Aoimaturi〈←今、平安京から山城国に踏み出した斎王代。後ろの森が京都御苑〉
 5月15日(金)
 晴れ。葵祭(賀茂祭)の日。
 京都では毎日のようにどこかでお祭りがおこなわれているが、実際に見ることができるものは数少ない。こちとらも一応は本務を持っているのであるし、それを投げ出しての祭見物というわけにはいかないのである。それが、今日の午前中は仕事がはいっていない。幸い、天気も良いし、葵祭の見物ということにしよう。
 実は、今回はひとつもくろみがあった。ぜひ、丸太町通寺町の角(つまり、京都御苑の東南角)で葵祭の行列を見物させてもらおう、と決めていたのである。一昨年、ひさしぶりに葵祭を見に行った際に、おもしろいことに気がついた。行列の先頭にはまず2騎の検非違使(検非違使志<けびいしのさかん>・検非違使尉<けびいしのじょう>)が先導し、そのあとに「山城使<やましろつかい>」(山城国司の2等官である山城介)が続くのである。つまり、葵祭の行列が出発する御所は平安京の中であるから、その警護は平安京の「首都警察」である検非違使(ちなみに、拙宅は検非違使庁の庁舎跡に位置する)の管轄である。しかし、目的地である賀茂社(上賀茂神社・下鴨神社〈正式には賀茂別雷神社・賀茂御租神社〉)は平安京の外側の山城国に位置するから、その警備の責任は検非違使から離れて山城国司に移ることになる。さすが葵祭。こういうところの伝統はキッチリと引き継がれているのである。
 と、いうことで、出かけた丸太町通寺町の角。丸太町通は平安京の春日小路、寺町通はほぼ平安京の東京極大路にあたっているから、私の立っているのは東京極春日ということになる。そして、東京極大路は平安京の東端の道路であるから、ここが平安京と山城国の境界地点ということになる。アッ、検非違使がこの境界ラインを越えた。ここまでどうもご苦労様。次は山城介。ここからはあなたの担当ですよ。どうかしっかりとお役目を果たしてね。飾馬に堂々とまたがる四位近衛中将の勅使が通り過ぎ、そして今、祭の主役である斎王代が平安京から山城国に入った・・・
 と、こんなことを考えながら祭の行列を眺めていたのは、多くの観客の中でもたぶん私ひとりじゃなかっただろうか。ホント、物好きなことである。

 午後は、古代学協会で「古代文化」編集委員会。帰りにレコード屋さんによって、西本智実さん指揮のブダペスト・フィルハーモニー管弦楽団の演奏による、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」他のDVDを購入。

2009.05.13

阿波勝瑞城館を学ぶ、の巻

Syouzui5月9日(土)・10日(日)
 ひさしぶりに、「1617会」の例会への出席。なんか、最近は日程があわずにご無沙汰していたからな・・・ 今回のテーマは、徳島県藍住町の勝瑞城館(写真上)。すなわち、室町時代の阿波国守護・細川氏と、戦国期に阿波の実権を握った三好氏の居館、つまり阿波国の守護所の遺跡である。と、いうと、私がさもこの遺跡に詳しそうであるが、実はこれまで名前だけしか知っておらず、場所もよく把握していなかった。お恥ずかしや・・・ ともあれ、せっかくの機会だから、勉強させていただきに行くことにした。
 京都駅から高速バスで徳島へ。渋滞を心配したが、なんとか昼前には到着。駅前でうろうろしていると、花園大学の卒業生のM君とH君にバッタリ出会う。M君は徳島県内の自治体、H君は島根県内の自治体において、それぞれ考古学の道で頑張っている。1617会に行く途中というが、思いがけないところで出会った奇遇を喜ぶ。昼飯は徳島駅前のセルフうどんの店。うどんというと讃岐ばかりが名高いが、阿波のうどんも讃岐のそれに比肩する美味しさだと思う。
 9日は、勝瑞城館跡とその周辺の城下町推定地の現地見学会。徳島県教育委員会のIさんと、地元の藍住町教育委員会のSさんとが懇切丁寧な案内をしてくださる。水濠が残されている(写真上)勝瑞城跡は、勝瑞城館の最末期、三好氏統治下の築造であり、本来の勝瑞城館はもっともっと大きかったのだという。発掘地は更地になっているが、もうすでに買収が終わっており、数年後には見事な史跡公園に生まれ変わる予定だという。うらやましい限りであるとともに、藍住町教育委員会と徳島県教育委員会の遺跡保存にかける熱意に、感動。
 城下町推定地の一角には、ほぼ一町規模(120m四方)の細川氏時代の守護所が推定されている。「上杉本洛中洛外図屏風」に描かれた、京都上京の「細川殿」や「三好筑前」邸の姿を思い出しながら歩くと、関心はますます高まってくる。思いがけない出会いだったのは、その近くにある「南陽神社(旧・日枝神社)」(写真下)。なんと! 承久の乱の責を負って四国(当初は土佐、後に阿波)に流された土御門上皇の行宮跡という伝説が残っているという。同上皇の配流地の伝承地はもっと西方(現・阿波市土成町)であることは知っていたが、こんなところにも伝説が残っているとは知らなかった。なんか、嬉しかったぞ。
 楽しく学んだ後は、同町内の旅館にはいって、例によっての大宴会。宿泊だということで気が大きくなったのか、いやあ、呑んだ呑んだ(*^.^*)。二次会の会場から宿屋まで帰ってこれたのが奇跡のようである。
 2日目は、藍住町の大きな役場の上にあるホールで、研究会。勝瑞城館の最新成果のエッセンスを学ばせてもらう。特に、山村亜希さんのいつもながらの緻密な歴史地理学的考察、仁木宏さんのスケールの大きな比較検討に、聞き惚れる。
 帰りの時間が心配だったが、M君の御厚意で徳島駅まで送ってもらうことができた。そうすると逆に少し時間ができたので、今度は徳島ラーメンを味わってから、帰途につく。

2009.05.02

シンポジウム「陵墓公開運動の30年」予告、の巻

425月1日(金)
 来る5月17日、シンポジウム「陵墓公開運動の30年」がおこなわれるので、そのための準備会。談論風発の中で、伏見城跡の立ち入りの成果をまとめていく。なるほど。けっこういろんなことがわかってきたぞ。あんな短時間の立ち入りだけでも、こんなにたくさんの問題点を炙り出すことができるのだから、やっぱり現地を見るということは大事だということを実感する。

と、いうことで、下記のとおりシンポジウムが開催されます。せっかくの成果、できるだけ広く公開したいので、どうかふるってご参加くださいませm(_ _)m。事前申し込み不要ですが、先着300名です。
==================================================
シンポジウム「陵墓公開運動の30年-佐紀陵山古墳・伏見城の報告とともに-」

1979年に白髪山古墳が限定公開されてから今年で30年。この節目の年に、本年2月の立ち入りの成果紹介を行いつつ、「陵墓」とその公開のあり方をあらためて考えます。

日時:5月17日(日) 13:00~17:30
場所:キャンパスプラザ京都(JR京都駅下車、西北へ徒歩3分)5階第1講義室(事前申し込み不要、ただし定員は当日先着300名)
資料代:500円
主催:陵墓関係16学・協会(大阪歴史学会、京都民科歴史部会、考古学研究会、古代学協会、古代学研究会、史学会、地方史研究協議会、奈良歴史研究会、日本考古学協会、日本史研究会、日本歴史学協会、文化財保存全国協議会、歴史科学協議会、歴史学会、歴史学研究会、歴史教育者協議会)

主催者挨拶:福永伸哉(日本考古学協会)
陵墓公開を求めて30年:宮川徏(文化財保存全国協議会)
佐紀陵山古墳の報告:岸本直文(大阪歴史学会)
伏見城跡(桃山御陵地)の立ち入り調査:山田邦和(古代学協会)、仁木宏(大阪歴史学会)、松尾信裕(日本歴史学協会)
陵墓公開運動のこれから:後藤真(日本史研究会)
ディスカッション:司会:谷口榮(地方史研究協議会)、森岡秀人(歴史科学協議会)
=============================================

2009.04.26

長岡京の宴会、の巻

46345901154月19日(日)
 京都駅前の居酒屋「まそほ 京都店」で、宴会。
 国立歴史民俗博物館の共同研究「律令国家転換期の王権と都市」と、それに引き続いての同博物館企画展「長岡京遷都—桓武と激動の時代—」では、昨年までの6年間、本当に楽しい時間を過ごさせてもらった。さらに、今年一月にはこの展覧会にともなう「歴博フォーラム」、つまり、講演会とシンポジウムをまとめた、国立歴史民俗博物館編『桓武と激動の長岡京時代』(「歴博フォーラム」、東京、山川出版社、2009年1月)がめでたく刊行され、大団円と相成ったのである。それを祝って、みんなで打ち上げ、ということになった。関東からはこの大事業の推進力であった、同博物館のNA・MJ両氏がわざわざお越しいただく。と、いうことで、この店名物の、熊野灘の魚の一夜干しを炭火でじっくりと焼きながらの酒杯、となる。
 『桓武と激動の長岡京時代』という本、自画自賛してもなんだが、なかなかの良い本である。謎が多かった長岡京時代について、コンパクトかつわかりやすくまとめられている。この中で私は、「長岡京・平安京と陵墓」を書かせていただくとともに、「座談会 長岡京から平安京へ—光仁・桓武・嵯峨朝の世相—」でも発言させてもらった。
 この本は一般書であって決して専門論文というわけではないが、よく読んでいただくと、あっちこっちに注目される提言が含まれている。私のかかわりでいうと、従来の通説では「陵寺<りょうじ>」(陵墓に付属する寺院)は平安時代前期の仁明天皇陵に始まるということになっていたが、実はその源流は平安時代初期の悲運の皇族の鎮魂というところにある、ということを指摘した。
 「なぜ長岡京は廃都となったのか? なぜ10年しか保たなかったのか?」という疑問は、長岡京時代を考える上での最大の問題である。これに対しては、怨霊説、洪水説などさまざまな回答案がでているが、決定的なものはなかった。ところが! これについて、座談会の中の132頁で私は結構良い事(?)を言っている(^Д^)。つまり、洪水説を再評価しよう、ということである。そういうと、考古学的にみると長岡京の洪水はたいしたことなかった、洪水説なんてのはナンセンスだ、といわれかねないのであるが、私は次のように考える。「案外洪水説というのは再評価していいではないかと思いました。桓武は自分の権威の基盤を天命においている。洪水なんかが起きると、どれくらいの被害があったのかは別にして、天が桓武を見放したというような考え方がなされる。そうすると、すべてを一新して天命を取り戻そうとする試みとして、遷都が構想されることになる」というわけである。「長岡京の権威」である山中章博士がどう評価してくださるかはわからないが、私は現段階では、この方向で行って間違ってないのではないか、と思っている。
 二次会は、山中博士に引っ張られて、めでたいことがあったR大学のKT氏ととともに、新都ホテルのバーへ。完全に酔いつぶれて、ほとんど意識不明・・・

■京都新聞出版センター編、井上由理子・太田垣實・河村吉宏・熊谷栄三郎・黒田正子・高野澄・中村武生・中村勝・永守淳爾・西村彰朗・前川佳代・山田邦和執筆『第5回京都検定 問題と解説』(京都、京都新聞出版センター、2009年4月)(分担頁不記載)
□山田邦和「歴史探検—京のみやこ」(平成21年度「電友会」〈京都市立洛陽工業高校電気科同窓会〉総会、於京都タワーホテル、2009年4月18日)

2009.04.14

工藤静香、中島みゆきを歌う「MY PRECIOUS -Shizuka sings Miyuki-」、の巻

41fzkrioy3l_sl500_aa240_
2009年4月14日(火)
(←アルバムのデザインも実にうつくしい)

 本日は、工藤静香さんの39回目の御誕生日。おめでとうございますm(_ _)m。

 昨年は、静香ファンにとってまさに特別な年であった。静香さんが久しぶりに中島みゆきさんから楽曲の提供をうけた新曲「NIGHT WING/雪傘」が発売されたし、その直前には静香さんがみゆきさんの名曲をカバーしたアルバム「MY PRECIOUS -Shizuka sings Miyuki-」も公表されたからである。

 静香(以下、すべて敬称略)は以前からずっと、「中島みゆきさんほど憧れる人はいない」と公言しているし、中島みゆきもその想いに応えるように、静香に大量の詩・曲を提供している。なにせ、中島みゆきはこれまでに46組の歌手に合計98本の曲や詞を提供しているが、静香への提供曲・詞は実に2割強にあたる22本を占めており、この中ではダントツの第一位なのである。中島みゆきの曲の名表現者として有名な研ナオコへの提供曲でさえ15本であり、第三位の柏原芳恵は4本にとどまっているから、静香への22本というのは異常ともいうべき高率なのである。

 このCDの発売と同時にNHKは、『SONGS』工藤静香特集(2008年11月12日)を放送した。この中で印象深かったのは、静香へ向けた中島みゆき本人のヴォイス・メッセージが流されたことである。そこでみゆきは「あなた(静香)に巡り会えたことが、私にとっての宝物です」という温かい言葉を贈った。この言葉を聞いたとたん、静香はハッと息を呑んだ。そして、その大きな瞳からは大粒の嬉し涙が溢れ出てきたのである。

 さて、その「MY PRECIOUS -Shizuka sings Miyuki-」。静香が長年のみゆきへの想いのたけを全て注ぎ込んだアルバムとなった。正直言って、聞く前には、期待半分不安半分だった。中島みゆきの曲はだいたいが音域がものすごく広く、またひとつひとつのフレーズが綿々と長いため、かなりの難曲が多いのである。いくら熱烈な想いがあるとはいえ、静香がこうした難曲を唄い切ることができるのかどうか、ファンとしての贔屓目から見てもいささか不安だったのである。

 しかし! 出来上がりを聞いてみて、まさに驚愕した。これは凄い! 静香がこれまでに発表した29点にのぼるアルバムの中でもベストであるといってまちがいない。昨年10月の発売からこのかた、数えきれないほどの回数、聞いてしまったぞ(註1)

 その中でも最も感動的なのは、「命の別名」である。この曲こそ、クライマックスで低域から高域へと駆け上がる難曲中の難曲なのである。中島みゆきの自演ですら、このクライマックスの部分はかなり苦しいのであるから、ましてや静香がこれを歌いこなせるかどうか、聞く前には疑問に思っていた。確かに、中盤の低域部にはいささか危なっかしい部分もあった。しかし、後半部の完成度はどうだ。静香の歌声は、濁りもためらいも憂いもなく、天空を目指して真っすぐに羽ばたいていく。その美しさはまったく筆舌につくしがたい。これは、歌手としての静香の円熟を心から感じさせる傑作となったのである。

 そもそも、中島みゆきは自分の曲を歌うときには、その圧倒的な声量にモノをいわせて、どの曲もドラマティックに盛り上げていく。それに対して、このアルバムでの静香は、みゆきの自演とは正反対の透明で涼やかな仕上がりを目指した。空と君のあいだに」「銀の龍の背に乗って」も良い出来であるが、「見返り美人」の爽やかさはどうだ。中島みゆきの自演(註2)が、地下の底から高温のマグマが恐るべき勢いで噴出するような「熱さ」と「凄まじさ」を感じさせたのに対して、静香版は人里離れた山奥からサラサラと流れ出すうつくしい泉水のような清らかさを表現した。みゆき自演版とはまったく対極の解釈であるが、それが見事にツボにはまっているのである。もちろん、どんな解釈にも十全に反応し切る、曲自体の完成度の高さがあってのことであるが。

 こうした解釈の極地を示したのは、「土用波」であろう。この曲は今まで、圧倒的な迫力でグイグイとせまってくるみゆき自演版(註3)で聞いていたから、この静香版は新鮮きわまりなかった。いやぁ、あの「土用波」が、こんなに甘くこんなに切なく響くとは、今の今まで想像もできなかったぞ。みゆき版が文字通り、晩夏に襲来する怒濤の荒波だとすると、静香版は、人っ子一人いなくなった海岸で静かに眺める初秋のさざ波に例えられるかもしれない。アーティストとしての静香の表現力に、脱帽。

 「やまねこ」もすばらしい。静香は、1986年みゆき自演版に比べるとかなりゆっくりとしたテンポをとり、じっくりと唄い上げる。ふつうだったらバックのドラムセットが曲全体を煽りに煽るところなのであるが、静香版のこの曲ではドラムはワザと控えめのイン・テンポをとり、サビの効いた静香の歌声をガッシリと支えて、陰鬱きわまりない雰囲気を醸し出している。しかしそれは欠点ではない。この「やまねこ」という曲自体がそもそも実に暗澹たる内容なのであるから、静香版はこの曲の本来の魅力を十全に表現したといわねばならないのである。

 そして、「宙船<そらふね>」。みゆきがTOKIOに提供した名曲である。この曲は、みゆき自身の2006年セルフカバーのスタジオ録音もすばらしいが、2007年コンサートツアー・ライヴみゆきと宮下文一(註4)が共演して歌い上げた超名演がある。と、いうよりも、この2007年のみゆき+宮下版は、人間技を超えてほとんど「神」の領域に達した史上空前の圧倒的な仕上がりになっているのである。したがって、ことこの曲に関していうならば、静香といえどもいささか分が悪い。しかし、彼女自身が「(宙船には)グッときた」と語っている(NHK『SONGS』2008年11月12日放送)ように、静香はこの曲が大好きなんだな。その大好きな名曲に対して小細工を弄するのは、決して彼女の潔しとするところではなかったのだろう。そこで彼女は、「静香節」と呼ばれるドスの効いたダイナミックな表現力を生かしたまま、正面からこの曲に堂々と立ち向かうことを選んだ。そこで現れたのはみゆき版とは別の意味で見事な「宙船」の姿なのであり、2007年みゆき+宮下版には及ばないにしても、2006年みゆきセルフカバー版に肉薄する名演になったのである。

 最後に収録された「激情」「雪・月・花」「Clavis-鍵-」はボーナス・トラックで、いずれもかつて中島みゆきが静香に提供したオリジナル曲である。これを聞くと、中島みゆきという人が他の歌手に楽曲を提供する時に、その歌手の表現力に最も合った曲を作り出していることがよくわかる。ただ、これらは今回の新録音でなく、以前の録音が使われたのはちょっと惜しい。今の静香ならば「激情」「雪・月・花」をどのように表現するか、聞いてみたかった。「Clavis-鍵-」は録音が新しいのでそんな不満はないし、そもそもこれは、静香の全曲目の中で「Blue Rose」と双璧をなす名曲なのであるから、何度聞いても飽きる事がない。

 これだけの凄いアルバム、静香ファン、みゆきファンのみならず、ぜひ、たくさんの人たちに聞いてほしいものである。

(註1)今、iTunesを確認したら、「命の別名」だけで再生回数80を記録していた。ということは、この曲だけでもあちこちで機会あるごとに聞いているから、それをすべてカウントすると300回は優に超えることになるだろうな。我ながら呆れてしまった・・・(=´Д`=)ゞ
(註2)中島みゆきの「見返り美人」には、1986年オリジナル・ヴァージョンと、1991年セカンド・ヴァージョンがあり、両者がまったく正反対の解釈を採っていることが興味深い。私自身の趣味からいうと、1986年オリジナルの方が好き。
(註3)「土用波」は、1988年スタジオ録音がオリジナルであるが、それ以上に2004年セルフ・カバー・ヴァージョンが超名演。さらに、その2004年版をすら突き抜けた凄い仕上がりになったのが、2005年のロス・アンジェルスでのスタジオ・ライヴ映像である。
(註4)宮下文一は、いつもはみゆきのバックコーラスを務めている歌手。「宙船」をTOKIOに提供した時も、仮歌を担当したのがこの宮下だという。余談だが、こんな圧倒的な実力の持主 ——男性歌唱による「宙船」としては、TOKIOを遥かに凌駕している—— が普段はバックコーラスに入ってるんだから、「みゆき一座」の凄まじさはまさに鳥肌モノである。

2009.04.13

授業開始、の巻

P1110681(4/12、またまた神戸でペキニーズ・オフ。左はマック、右は親戚犬の大ちゃん)
新年度にはいって、今日から授業。

今年度春学期の授業(特記なきものは、同志社女子大学現代社会学部)
〔月〕3講時 同志社大学大学院文学研究科「考古学特講I」
   4講時 同志社女子大学大学院文学研究科「考古学特論」
   7講時 同志社大学「日本史(1)-101」
〔火〕2講時 「卒業研究」(4回生ゼミ)
   4講時 「博物館学各論」
〔水〕2講時 「基礎演習」(1回生ゼミ)
   3講時 「専門基礎演習」(2回生ゼミ)
〔木〕2講時 「応用演習」(3回生ゼミ)
   4講時 「考古学I」

 昨年は春学期も「博物館概論」があったが、今年からこれは秋学期になった。追加は「博物館学各論」。これは私もまったく初めての担当なので、授業の準備にオオワラワである。それと、今年から変更になったのは、同志社女子大学で、従来の学芸学部英語英文学科・日本語日本文学科が表象文化学部に再編され、今出川キャンパスに移転したこと。これにともない、大学院文学研究科も今出川キャンパスに移った。これが何の関係があるかというと、私も今出川キャンパスで授業を担当せねばならない、ということである。それから、同志社大学大学院の「考古学特講I」は、同大学のMK教授がサバティカルとなるので、その代役である。調整したあげく、月曜日は「今出川の日」とすることにした。同志社女子大学と同志社大学の今出川キャンパスをいったりきたりすることになる。お隣同士とはいえ、移動は小走りだな・・
 
【書いたもの】
◎山田邦和「角田文衞博士の古代学」(『古代文化』第60巻第4号掲載、京都、古代学協会、2009年3月)、5〜7頁。
◎山田邦和「求めよ、さらば与えられん」(『Chapel』第14号掲載、京都・京田辺、同志社女子大学宗教部、2009年3月)、17〜19頁。
◎山田邦和「平安京と京都」(地球の歩き方MOOK『京都の歩き方』所収、東京、ダイヤモンド・ビッグ社、2009年3月)、134・135頁。
◎山田邦和監修、黒澤達矢イラスト「鳥瞰:平安京」(歴史群像シリーズ特別編集『最新古代史論』所収、東京、学習研究社、2009年4月)、13頁。
◎山田邦和「京都で学ぶ歴史」(『Vine』Vol.50掲載、〈京田辺〉、同志社女子大学、2009年4月)、14・15頁。
◎山田邦和「最終回 平安京創生館クイズ」(『まなびすと』Vol.8掲載、〈京都〉、〈京都市生涯学習総合センター〉、2009年4月)、17頁。
【インタビュー記事】
○「京都・洛中 平安京へ旅しよう—同志社女子大学教授・山田邦和先生と歩く—」(地球の歩き方MOOK『京都の歩き方』所収、東京、ダイヤモンド・ビッグ社、2009年3月)20・21頁
【しゃべったこと】
□「伏見城—天下人終焉の地—」(「楽々キャンパス」、於同志社大学今出川キャンパス、2009年3月10日)
□「京都を愛する」(京都市職員研修センター 平成21年度「京都市職員研修」、於京都会館会議場、2009年4月1日)
□「藤原種継暗殺事件—長岡京から平安京へ—」(ラボール学園〈京都勤労者学園〉「日本史講座—検証・京の事件簿(古代・中世)—」、於同学園、2009年4月6日)

2009.03.31

祖父50回忌と吉田泉殿、の巻

P1110536(滞英中の祖父。なかなかにハイカラである(o^-^o))
3月8日(土)
 わが山田家の菩提寺である蹴上の安養寺で、祖父・山田萬吾郎の50回忌の法事。通例として、50回忌というのはむしろめでたいことだとされている。祖父は岐阜の田舎の農家の次男坊で、若い時に神戸に出て働き、そこでたまたま来日中のイギリスの貴族に目をかけてもらった。そのお殿様が帰国する時に「一緒にイギリスに来い」と誘いを受け、イギリスに渡った。これ、明治後半の話だから、当時としてはかなり珍しい事例だったはずである。わが家には家宝のひとつとして、お祖父ちゃんがこの時に使った明治のパスポートが保管してある。数年たって帰国したあと、京都に居を定め、英国じこみのキングズ・イングリッシュにものをいわせて外国人相手の美術の商売を始めた。これが、わが山田家の創設となったのである。

P1110568 3月29日(日)
 京都市が進めていた、堀川の再建・遊歩道化の工事が完成。堀川は平安京とともに造営された歴史的遺産であるが、戦後すぐに水脈を絶たれてコンクリートで固められてしまい(当時の京都市役所の担当者のセンスが疑われる)、まことに無残な状態で放置されてきた。それが数十年ぶりによみがえったのである。これには、素直に喜びたい。ウチの近所なので、マック、クイール、ルークも楽しいお散歩道ができて大喜び。
 午後は、古代学協会の「仁明朝史研究会」。故・角田文衞先生の提唱によって開始し、一年間続けてきたこの研究会も一区切りである。

P1110546 3月30日(月)
 京都大学構内遺跡の現地説明会が開催される。百万遍交差点の南西で、鎌倉時代の西園寺公経の別業であった吉田泉殿の跡と推定される地点である。昨年の発掘調査で綺麗な建物遺構が検出されている。今回の調査地では庭園とみられる河川遺構や敷石遺構が出ており、吉田泉殿の南半部にあたることはまちがいない。鎌倉時代の貴族邸宅についての大発見であるとともに、権勢をふるった西園寺公経の実像に近づく大きな手がかりとなる。
 現場でであったK大学のMY教授、KJ大学のNM教授ご夫妻らとともに、京都大学医学部の芝蘭会館別館のレストランで昼食。
 夜は、伏見の魚三楼で、ウチの学部の歓送迎会。わが大学の名物教授であった朧谷寿先生が、なごりを惜しまれながらの御退任となる。

 さあ、明日からは新年度だ。

2009.03.18

同志社女子大学2008年度卒業式、の巻

 1959年3月17日の夜半から18日の深夜にかけて、若きダライ・ラマ14世法王は兵士に変装してチベットのノルブリンカ離宮を脱出、亡命の途につかれた。今からちょうど50年前のことである。

P1110498 2008年3月18日(水)
 わが同志社女子大学の卒業式・学位授与式。うららかな暖かい日になって、なによりである。いつもながら華やいだ式になる。写真は、わが大学の山田ゼミの第1期の卒業生の3人。卒業式には和服で登場である。終了後は、宝ヶ池のグランドプリンスホテル京都に会場を移し、現代社会学部社会システム学科の「謝恩会」となる。わが学科は、ひとつの学科だけで一学年の定員300人。今年の卒業生は実に300数十人にもおよび、ほかの大学ならばひとつの学部に匹敵するくらいの学生を抱える巨大学科である。学生はこの会にはドレスにお色直ししてくるのが大半(写真下)。したがって、広い会場がドレスアップした女性たちで満員になる。ともあれ、無事に社会に旅立つ日を迎えた彼女らの将来に幸あれ。

 3月7日(土)・8日(日)
 角田文衞先生をしのぶ会が終わったら、すぐに奈良に急行して、条里制・古代都市研究会の大会に出席する。7日は「聖武朝の遷都」、8日は香川県屋島城などの最新成果報告があってそれぞれ興味深いのであるが、実はもうひとつ、これに出席しなくてはならない目的がある。この研究会の次年度の事務局長、私が引き受けることになった。う〜〜ん。お金の勘定とかしなくてはならないぞ・・・ 計算が大の苦手の私が、うまく回すことができるのだろうか・・・ 会員の皆さん、頼りない事務局長ではありますが、なにとぞ御寛恕の上、ぜひ御協力のほど、よろしくお願いもうしあげますm(_ _)m。

2009.03.11

チベット民族蜂起50周年、の巻

Tibet_23月10日
(写真左:1959年3月12日、ポタラ宮殿の周囲で反中国のデモ行進をするチベットの民衆。写真右:1959年3月、ダライ・ラマ法王を守ろうと、法王の住居のノルブリンカ離宮に集結したチベットの民衆。ダライ・ラマ〈木村肥佐生訳〉『チベットわが祖国』、同〈山際素男訳〉『ダライ・ラマ自伝』に拠る)
 この日は、チベット民族蜂起50周年記念日である。この日にあたって、ダライ・ラマ14世法王は声明を出しておられる。なお、日本のマスコミは「チベット動乱50周年」と言っているが、「動乱」ではチベットの人たちが何か悪いことをしたようにもとられかねないので、中央チベット行政府の用語である「民族蜂起」を使うべきであろう。
 中華人民共和国は建国後すぐにチベットへの野望をあらわにし、1951年10月にはついに「人民解放軍」の武力によってチベットを侵略・併合するにいたったのである。ダライ・ラマ14世法王ひきいるチベット政府はその絶望的な状況のなかでなんとか事態の打開をはかったが、その努力もむなしく終わった。今から50年前の1959年3月10日、法王自身の身の安全も脅かされる局面を迎えたことによって、チベットの民衆は法王を守るために続々とノルブリンカ離宮(法王の住居)の周囲に集結し、それとともにラサを中心とするチベット各地に中国への抗議活動が拡大したのであった。しかしそれに対して中国は残忍な弾圧によって応え、ダライ・ラマ法王はついにラサを脱出、インドに亡命することを余儀なくされたのであった。
 1959年2月3日が私の誕生日である。つまり、生まれたての私が温かな布団に包まれてすやすやと眠っていたその同じ時、同じ地球上のチベットではこうした悲劇が進行していたのである。それから50年にわたって中国のチベット抑圧政策は変わることなく続いていることに驚愕するし、心が痛む。最近では、中国に抗議して焼身自殺をはかったチベット人の若い僧侶が、中国の兵士によってすぐに射殺されるという事件がおこった。中国兵は、油をかぶって火だるまになっている人を助けようとするのではなく、逆に銃撃するのだから恐ろしい。

 中国政府と中国共産党の強権手法がすぐに改まることは考えにくい。大多数の中国民衆も、政府と党の都合の良い情報しか流されない統制の中で知らず知らずのうちに洗脳されているから、あてにはならない。しかし、わずかな光明は見えている。それは、中国の心ある知識人たちが昨年、「08憲章=中華連邦共和国憲法要綱」を公表し、賛同の署名を集めていることである。中国政府と党はこの憲章を無視するとともに、一方でこの憲章の広がりを徹底的に封じ込めようとしている。しかし、この憲章に書かれていることは、一言一句までまったく理の当然であり、私は双手を上げて賛同する。特に、「大きな知恵で各民族の共同の繁栄が可能な道と制度設計を探求し、立憲民主制の枠組みの下で中華連邦共和国を樹立する」とされている点はチベット問題の全面的解決につながる。また、「今日の世界のすべての大国の中で、ただ中国だけがいまだに権威主義の政治の中にいる。またそのために絶え間なく人権災害と社会危機が発生しており、中華民族の発展を縛り、人類文明の進歩を制約している。このような局面は絶対に改めねばならない!」と結論づけている点は、やっと中国の国内からもこういう正当な主張をする人々が現れだしたということで、素直に感動する。
 いつの日にか中国が、この憲章が示しているような、世界中の人々の尊敬を集めることのできる国として生まれ変わることを心から望んでいる。

【2009.3.14追記】
 (下記のリンクには衝撃的な画像が含まれていますのでご注意ください) 続報によりますと、上に記したニュースの、2月27日に中国に抗議の焼身自殺をはかって中国兵からの銃弾を浴びたチベット人僧侶は、なんとか一命をとりとめたようです。ただ、中国兵による銃撃は足を狙ったものであった可能性が高いとされており、この僧は両足切断を迫られているといいます。

2009.03.09

角田文衞先生を偲ぶ会、の巻

P1110179(角田先生の書き込みがびっしりとある『尊卑分脈』)
 3月7日(土)
 (財)古代学協会の主催する、角田文衞先生を偲ぶ会が、京都ホテルオークラにおいておこなわれた。先生が亡くなられたのは昨年5月だから、本当はもっと早くやるべきだったのだが、いろんな事情によってのびのびになっていた。しかし、ようやく開催できて、良かった。140人ほどのご列席を得て、盛会であったこともありがたい限りである。
 私は、この時には「映像」の担当。この日のために、角田先生の生前の写真をシコシコとパソコンにとりこみ、パワーポイントに落としていった。角田先生はホントに写真好きで、その時々の記念写真を実によく残しておられたし、また、それには日時や場所も丁寧に記録されていたから、まことに助かる。私なんか、昔の写真はどこにいったか全然わからないもんな・・・ 会場ではうまく映るかどうか不安だったが、なんとかなった。最後の一枚だけ、切り替えがうまくいかなかったのは御愛嬌。バック・グランド・ミュージックはかつての平安博物館の「館歌」でもあった「紫女讃歌」を流す。この歌、芝祐久作曲・白川伊織作詞となっているのであるが、この作詞の白川伊織というのは実は、角田先生の盟友の北海学園大学教授三森定男氏と、角田先生御自身の合作のペンネームである。そしてこのネームの由来は、学生時代の角田先生が左京区の北白川伊織町に下宿していたことによっている。
 それから、NHK京都が放送したことのある角田先生のインタビュー(全体は15分であったが、時間の関係で7分半に切り詰めた)を流す。こちらはもちろん音声入りだったから、ありし日の先生を偲ぶこの上ないよすがとなった。このインタビューの中、「平安時代に生まれ変わりたいですか?」というアナウンサーの質問に対して先生が、「やはりそうですね。下級貴族くらいが良いですね」とにこやかに応えられていたのが印象的だった。
 会場前には、角田先生の遺品などが展示された。中でも皆の目を引いたのは、先生の研究資料。先生が座右の書とされていた『尊卑分脈』(写真)など、どの頁を開いても、つけペンで書かれた小さな小さな文字で、びっしりと書き込みがある。角田文衞という不世出の学者の秘密の一端を見たような気になる。

 終了後は、NJ大学のMKさんと一緒にタクシーにとびのり、奈良で開催中の条里制・古代都市研究会に向かう。

2009.02.27

ペキニーズいっぱい、の巻

P1110083
 2月22日(日)
 神戸の鈴蘭台のドッグカフェCandyCandyにおいて、ペキニーズ・オフ会がおこなわれるというので、ウチの三匹をつれて出かけてみる。とはいっても、オフ会なんて何をやるのか、まったく見当もついていない。少し早い目に着いて待っていると、続々とペキニーズたちが到着。結局、30匹近くのペキが集まったことになる。マック、クイール、ルークも楽しそうに遊んでいる。白黒のペキニーズはクイールひとりだけ。ルークのようなブラックペキニーズは数匹いる。その中に、顔がルークそっくりの仔がいた。むこうさんは足先が白いのだが、それがなかったらどっちがどっちかわからないぞ。驚いたのは、とっても大きなフォーンのペキニーズがいて、それが実はマックの年上の甥にあたるのだという。しかしこの2匹、なかなか仲良くならず、しばらく睨み合って(写真中央)からいきなり吠えだす。オイオイ、覇権争いなんかするなよ・・・
 くたびれましたが、面白い経験でした。ウチの三匹も疲れ果ててぐったり。でも、また行ってみよう・・・・

2009.02.23

伏見城跡立ち入り調査、の巻

P1100969(写真:明治天皇陵への正面階段。伏見城跡の増田郭の南面にあたる)
 2月20日(金)
 翌日の新聞やテレビニュースで既報で、あちこちに私の談話やインタビューもでていたようだが、大阪歴史学会・京都民科歴史部会・考古学研究会・古代学研究会・古代学協会・史学会・地方史研究協議会・奈良歴史研究会・日本考古学協会・日本史研究会・日本歴史学協会・文化財保存全国協議会・歴史科学協議会・歴史学会・歴史学研究会・歴史教育者協議会の16学協会による、第2回目の「陵墓立ち入り」が、宮内庁の許可と案内のもとでおこなわれた。午前中には奈良市の佐紀陵山古墳(宮内庁治定の、垂仁天皇皇后日葉酢媛命陵)、午後には京都市伏見区の通称「桃山陵墓地(または桃山御料地)」内に所在する伏見城跡に立ち入りが許された。雨に祟られたのはいささか残念。立ち入り調査の成果については、近い将来に16学協会によって報告会がおこなわれる予定であるし、また16学協会のそれぞれの媒体によって公表されるであろうし、それを待たねばならない。ただ、伏見城跡の立ち入り調査で感じた私見を述べることは現時点でも許されると考える。

 ◎16学協会の陵墓公開運動にとっては、陵墓に秘められた古墳以外の文化財に目を向けたという点で、画期的。
 ◎しかし、これまでも学術的な研究グループの要請に応えて伏見城跡への立ち入りが認められた例もあり、同遺跡に立ち入るのは16学協会が始めてではない。
 ◎今回の立ち入りでも、判明した諸点は数々ある。しかし、短時間の立ち入りで何かの謎がパッと解明できると考えるならば、それは誤りである。わかったことよりも今後の課題が増えたというのが正確。
 ◎今回の公開にこぎつけるまでには、予想しがたいさまざまな困難にぶつかった。それがひとつひとつ解決されて今日の日をむかえることができたのは、この運動にかかわったメンバーや関連の諸司の努力と善意の賜物である。この運動に関心を持つ方々は、そうした苦労にも思いを馳せてほしい。
 ◎「明治天皇陵」に立ち入ったと誤解されている向きもあるが、これは誤りである。私たちが入れてもらったのは、広大な、通称「桃山陵墓地(または桃山御料地)」の中の、明治天皇陵や昭憲皇太后陵を除く部分である。
 ◎私たち参加者は、個々の思想の違いを乗り越えて、同じ人間の永眠の地として、明治天皇や昭憲皇太后の山陵に対して礼を尽くした。
 ◎私の談話も新聞に出ていたが、私の真意とはズレを感じた。マスコミへの対応の難しさをつくづく感じさせられた。
 ◎宮内庁は、私たち学会側の、時にはワガママな要求に対して、真摯かつ親切に対応していただいた。私は、それに心より感謝している。

2009.02.19

朧谷壽先生最終講義、の巻

 山中章博士は今度はレバノン。あちらでずっと調査にたずさわっているTSさんに呼ばれたそうだが、ホント、忙しい人だな。

Photo 2月14日(土)
 わが同志社女子大学の「顔」ともいえる名物教授だった朧谷壽先生が、今年度で定年退職を迎えられる。それを記念して、最終講義「摂関家の確立—道長と望月の歌」がおこなわれた。会場は今出川キャンパスに新装オープンした純正館。一般公開だから、市民の方々にわが大学を紹介するのにも良い機会である。なお、私にとっては、今を去ること32年前、私が同志社大学に入学して最初の授業だったのが、当時は非常勤講師をつとめておられた朧谷先生の「基礎演習」だった。私としては、それからずっとお世話になりっぱなしである。なお、2年前に私が同志社女子大学に移籍したのも、形式上では朧谷先生の後任というわけではないのであるが、実質的にはそれに近い人事であった。
 会場は、大入り満員だった。300人入る大教室が用意されたのであるが、あとからあとから人々が詰めかけ、補助席を出しても出しても追いつかない。おそらく450人くらいは入っていたのではないだろうか。朧谷先生の人気のほどがうかがえる。開口一番からユーモアにあふれた語り口で、たちまちのうちに聴衆をグッと掌握してしまう話術は先生ならではの名技である。
 夜は、全日空ホテルに場所を移し、大学の有志による「朧谷先生を励ます会」。事実上の退任記念パーティである。それにしても、我が大学にこれだけ芸達者がそろっているとは思わなかったぞ。
 楽しい一日であった。朧谷先生、これまでどうもご苦労様でした。今後ともなにとぞよろしくご指導くださいますよう、お願いいたしますm(_ _)m。

 2月15日(日)
 大阪で、前近代都市論研究会。いつもながらの楽しい学びの場。懇親会は、仁木宏さんが見つけてきたちりとり鍋のお店「えい吉」。ちりとり鍋? それなんじゃ? と思ったのだが、大阪・鶴橋で生まれた、いわば韓国風のホルモンすき焼きだという。唐辛子の許容量が人より少ない私としてはちょっと警戒したのだが、箸をつけてみるとこれが大変美味である(写真下)。終了後のおじや(雑炊)も含めて、いくらでも胃袋にはいってしまう。お値段もリーズナブルで、大変結構でした。調べてみると、京都にもいくつかちりとり鍋をやっている店があるらしいから、今度ぜひまた行ってみよう。

2009.02.07

鳥羽の離宮と鳥の鍋、の巻

 2月4日(水)
P1100658 (写真上:安楽寿院本御塔、下:城南宮を歩く一寸法師とウチの学生)
 ウチのゼミの巡見。鳥羽殿(鳥羽離宮)の跡を散策することにする。と、いうのも、「京の冬の旅」の非公開文化財特別公開の中に、安楽寿院がはいっているからである。いうまでもなく、鳥羽法皇が建立し、そこで亡くなった名刹である。新たな御堂兼収蔵庫が建てられて面目を一新したのだが、入る機会は始めてである。これは見逃せない。
 感慨深かかったのは、新築された御堂兼収蔵庫が「本御塔<ほんみとう>」と名付けられていたこと。本御塔とは、鳥羽法皇が自らの陵として安楽寿院に生前から建てていた塔のことである(それに対して、「新御塔」と呼ばれたのが現在の近衛天皇陵)。ただ、この塔は早くに失われてしまい、江戸時代には安楽寿院のひとつの堂が代用をつとめていた。さらに、幕末の文久の修陵でこの堂を取り除けて法華堂を新築したのが、現在の鳥羽天皇安楽寿院陵なのである。今回、もともとの本御塔の本尊であり、鳥羽法皇自身が造らせたすばらしい阿弥陀如来像をおさめるための御堂兼収蔵庫が新設され、ゆかりの「本御塔」の名が復活したのである。堂の周囲には鳥羽殿跡の発掘調査で出土した庭石を再利用して庭園が造られている。鳥羽殿の遺構そのものではないけれども、それを偲ぶよすがには充分になりうるであろう。
 新しい本御塔の中で拝ませていただく阿弥陀如来像はさすがに見事である。さらに嬉しいのは、室町時代頃の製作と推定される鳥羽法皇・美福門院・八条院の肖像が公開されていたこと。これ、本ではよく見るのだが、現物を拝見させていただくのは滅多にない機会である。最近、保元の乱について考える機会があったので、食い入るように眺める。

 そのあとは、鳥羽殿の跡地を巡見する。鳥羽殿の中心部の金剛心院跡のあたりは、まったく残念なことに現在はラヴ=ホテル街になっている。昼間とはいえ、そんなところを女子学生を引き連れてウロウロするのはかなり勇気がいるのであるが、平安時代の重要な遺跡がこんなふうに破壊されてしまっているということを知ってもらうのも意義があるだろう。ホテルとホテルの間の隙間に挟まるようにして後宮塚陵墓参考地が残されているところなどを見せると、さすがに学生諸君も驚いたようである。それから、鳥羽離宮跡公園を経て、城南宮まで歩く。城南宮の本殿の前に一寸法師の可愛らしいお人形がいる(写真)のはご愛嬌である。これだけでもだいぶ疲れたのだが、せっかくだから伏見にまで足をのばし、伏見奉行所跡の発掘調査現場を見学させていただく。
 
 洛中にもどってしばらく時間をつぶし、今度は京都府立大学考古学研究室のコンパ。今年度一年間、この大学の大学院の「考古学特講」を担当させていただいた。菱田哲郎准教授が率いておられるこの研究室、良い意味での昔風の考古学研究室で、そこに集っている学生諸君の学問的熱気はもの凄い。私も、そうした学生さんたちと一年間つきあわせていただいて、本当に楽しく授業をやらせてもらった。こんな機会を与えていただいた菱田先生に、感謝m(_ _)m。今回のコンパは私に対する謝恩の意味もあるという。ありがたいことである。会場は高倉通錦のそば酒菜さかえ庵。いつも前を通っているはずなのだが、こんな店があるなんて気がついていなかった。ソバ屋でコンパ?と最初は疑問に思ったが、これがめっぽううまい。カモと鶏の鍋を堪能する。充分にダシが出たところで、締めはソバ。鍋にソバ?と、これも疑問だったが、やってみるとなかなかすばらしい。お値段もリーズナブルで、充分に楽しめた。菱田先生、そして府立大学考古学研究室の皆さん、本当にありがとうございましたm(_ _)m。

2009.02.03

五十の賀、の巻

 2月3日は私の誕生日。ついに満50歳になってしまった・・・・ それにしても、いつもならば私の誕生日には必ず雪が降るのに、今年は雪ではなく雨だった。地球温暖化の影響かしら?

Ts2d0034山中章博士のブログでは既報だが、1月25日(日)には恒例の「10年会」の新年会。ウチの大学の卒業生でもあるYEさんのご好意で、風格ある京都の町屋を会場として提供していただく。冬らしく、あったかいお鍋。メインは、山中章博士が伊勢湾から届けてくれた新鮮な金目鯛と伊勢エビで、これにサザエの壺焼が加わる。これでおいしくなければウソである。朧谷寿先生おんみずからサザエを焼いてくださる。畏れ多いことである。それにしても、さすがは伊勢湾。サザエなんか、普通のものならばシッポのところが生臭いのだが、これはまったくそんなことはない。シッポまで磯の香りが染み付いて、とろけるようである。
 極め付きは、鍋のあとのお雑炊。誰がなんといおうと、鍋のあとの幸福はなんといってもお雑炊である。この時ほど、日本人として産まれた幸せを実感し、日本文化の偉大さに感極まる瞬間はない。具材のダシがこってりと溶け込んだスープを一滴のこさず味わいつくすことができるのだから。
 おいしく食べて、たくさん飲んで、気がつくとほとんど正体不明。でも、幸せな日でした。

 1月28日(水)には、再開された、京都府の「天橋立世界遺産可能性検討委員会」。昨年の文化庁の判定で、天橋立は世界遺産リストへの暫定登録を逃した。確かに、年々登録基準が厳しくなっているのだから、これはやむをえまい。ただ、文化庁の判断としては、暫定登録を逃した中では最高ランクの評価だったということで、リベンジの可能性は充分残されている。

 1月31日(土)は、古代学協会の「仁明朝史研究会」。山中博士と、K研究所のAN氏が報告される。多分野からの検討で、いつもながら和気あいあいの楽しい時間となる。

 2月1日(日)。「京の魅力探訪ウォーク」に出講。今熊野観音寺に集合し、後白河法皇をテーマとした講演と巡検をおこなう。

2009.01.25

古市古墳群と豊臣秀吉と、の巻

 正月以降、ずっとノドを痛めていた。ホント、しつこい風邪である。三週間近くのガラガラ声だったのだが、やっとマシになってきたぞ。どうしてこうノドが弱いのかな・・・・

P1100586 1月16日(金)
 大阪府松原市と藤井寺市にまたがる河内大塚山古墳にでかける。しかし、阿倍野橋で急行と準急を乗り間違えてしまい、さらには待ち合わせ場所も間違ってしまい、大幅に遅れてしまう。申し訳ありませんでしたm(. ̄  ̄.)m。
 I大学のMM名誉教授と食事のあと、せっかくここまで来たんだから、津堂城山古墳も見学。後円部頂上だけが陵墓参考地になっており、中世の城郭の建設によって墳丘はかなり原形を損ねているが、さすがは古市古墳群の開始を飾る巨大古墳である。横にあるミニ資料館兼休憩場所も充実。
 藤井寺の駅に戻り、これもせっかくだから欲張って、西国三十三ヶ所第五番札所の葛井寺に参詣。驚いたのは、山門の前に、「遣唐留学生井真成(葛井真成)生誕之地」の木標と、「おかえりなさい藤井寺へ いのまなりくん」という可愛らしいイラストの看板があったこと。井真成というのは、2004年に中国・西安市で墓誌が発見され、遣唐使として渡海して異国で亡くなったとして大きな話題を呼んだ人物である。この墓誌と井真成という人物についてはまだまだ検討の余地が残っていると思うのであるが、藤井寺市ではすっかり「郷土の英雄」扱いになっているんだな・・・・
 もうひとつ驚いたのは、岡ミサンザイ古墳の東側に建てられている、藤井寺市生涯学習センター「アイセル・シュラホール」。なかなか充実した考古学展示室があって勉強になるし、また、井真成の墓誌の精巧なレプリカも展示されているのは貴重である。それはいいのだが、建物が「市内から出土した古代の木ぞり「修羅」と、古代船の埴輪の形を組み合わせた姿をイメージしたもの」だという(写真)。しかし、この建物、ガミラスの侵略の際にはイスカンダル星へコスモクリーナーをもらいにいくため、波動エンジンが点火して宇宙に飛び立つとしか思えないぞ(笑)。

 1月19日(月)
 同志社大学学際科目「シルクロードの歴史と文化」のゲスト・スピーカーとして出講。この科目、10年ほどずっと分担していたのだが、今年からは本務校の都合で退任させてもらった。それへのゲストであるから、喜んでやらせてもらう。一般公開授業にもあたっているので、市民の方々もかなり参加されておられる。
 テーマは何にしようかな、と考えたのだが、ちょっと目先を変えて、シルクロードの終着点をとりあげることにして、「世界の十字路・コンスタンティノポリス」とした。古代ローマ帝国から中世ローマ帝国、そしてオスマン帝国と、1000年以上にわたって世界帝国の首都となってきた巨大都市であり、世界中でもこれほど憧れに満ちた都市は(日本の京都を除くならば)ちょっと考えられない。かなり以前になるが、私もこの町を訪れ、ウチの奥さんと一緒に、足を棒にしながら歩き回ったものである。ただ、ノドがまだガラガラで聞きづらかったであろうことは聴衆の皆さんには申し訳なかった。

 1月24日(土)
 JR西日本『京都おこしやす大学〜京の魅力探訪ウォーク』のイヴェントに出講。いつもは講演と巡検をセットにするのだが、今回はひとつ趣向を変えて、歴史地理研究者の中村武生氏と「豊臣秀吉と京都」をテーマにしたシンポジウムをすることになる。あらら。中村氏は京都の御土居の専門家として知られる研究者だから、ヘタは打てないぞ。と、いうことで、前日までいろんな図書館に籠って豊臣秀吉について予習。やっぱり、いままで気づかなかったことがいろいろ発見できて面白い。よく言われる「秀吉はなぜ征夷大将軍にならなかったか?(またはなれなかったか?)」というテーマについても、従来の諸説のアラがだいぶ見えてきたし、自分なりのささやかな仮説もたてることができそうだ。本番では、中村氏の適切なリードによって、気持ちよくしゃべらせてもらう。ありがたいことである。

【書いたもの】
■山田邦和「長岡京・平安京と陵墓」。永井路子・朧谷寿(出席者)、山中章・山田邦和(司会)「座談会 長岡京から平安京へ—光仁・桓武・嵯峨朝の世相—」。清水みき・仁藤敦史(司会)、網伸也・榎村寛之・河角龍典・中島信親・三上喜孝・吉川真司(パネラー)、朧谷寿・永井路子・山田邦和・山中章(コメント)「討論 長岡京時代を考える」(国立歴史民俗博物館編『桓武と激動の長岡京時代』〈歴博フォーラム〉所収、東京、山川出版社、2009年1月)200〜211頁、5〜30頁、125〜146頁。
【しゃべったこと】
□「京都検定・京都学講座『京都の原点を探る』第9期「平治の乱と源平合戦」(京都新聞文化センター、於同センター、2009年1月23日)(2008年より継続)
□「世界の十字路・コンスタンティノポリス」(同志社大学学際科目2「シルクロードの歴史と文化」ゲスト・スピーカー〈授業の一部公開〉、於同志社大学京田辺校地、2009年1月19日)
□山田邦和・中村武生「歴史フォーラム 豊臣秀吉と京都」(JR西日本『京都おこしやす大学〜京の魅力探訪ウォーク』、於本能寺会館、2009年1月24日)

2009.01.11

研究初めの百舌鳥古墳群と大御堂観音寺、の巻

 1月9日(金)・10日(土)
 年始年末は大変だった。最近は俳人となられた山中章博士の名句「初詣 祈る心に 風痛し」さえも、私のように僻み根性で見るならば、「通風が痛くなるように」という呪詛だと解釈されてしまうのである。さらにノドをやられて、年初の授業では声がでなくて四苦八苦してしまう。
 RityuuTinooka とはいうものの、今年の「研究初め」。朝日カルチャーセンターのの講義をやってから、バタバタと大阪に向かう。大阪府堺市の百舌鳥陵山古墳(石津丘古墳ともいう)、つまり宮内庁治定の履中天皇陵、日本第3位の巨大古墳である。久しぶりに来たのだが、周囲を回るとさすがにデカいな。渇水期で、西側の造り出しがよく見えているのも面白い。少し時間があったので、TB大学のOT教授、H県A市教育委員会のMH氏、H県立考古博物館のY氏等とともに、ついでに乳の岡古墳へと足をのばす(写真右)。巨大古墳揃いの百舌鳥古墳群の中にあるから目立たないが、全長155mの堂々たる大古墳である。しかも、百舌鳥古墳群の中では一番最初に築造されたと考えられているから、この古墳群の性格を考える上でも無視できない遺跡である。
 昼飯を食いそびれていたので、皆さんと別れてから、乳の岡古墳近くで見つけた回転寿司屋にとびこんで遅い昼食。中途半端な時間なので客は私ひとりだったが、なかなか良いネタをそろえた、おいしい店だった。

Oomidou 土曜日の朝に外を見ると、みぞれ混じりの雪が降っていた。どうしよう、サボろうかな、とも思ったが、大学へ向かう。OH教授、AT准教授とともに、ウチの大学の「京都研究会」の見学会におつきあい、である。まずは同志社大学京田辺キャンパスを通り抜け(これがまた広いんだな・・・)、同志社のちょうど西側にある、大御堂観音寺<おおみどう・かんのんじ>へ行く。鄙びた小さな寺だが、実は奈良時代に創建された古刹で、本尊十一面観音菩薩像は天平彫刻の逸品で国宝に指定されている。国宝の観音さまは、日本でもわずか6体しかないという。ウチの学生諸君に聞いても、この寺には始めて来る、というのばかりである(私も久しぶり)。京田辺市には史跡が何も無いと思っている諸君も多いが、大学から歩いてこれる範囲にこんなすばらしい仏像があるのだから、見ておかなきゃソンだよ。
 それから、今度はみんなで酬恩庵一休寺へ向かう。いうまでもなく、室町時代の名僧・一休さんのお寺である。これも、せっかく京田辺にあるのに、学生諸君は始めてくる、という人ばかり。おいおい、もったいないぞ。一休さんは実は後小松天皇の皇子だから、その墓は宮内庁が管理して「宗純王墓」という厳めしい形になっている。方丈に安置される一休禅師木像は、その生前に作られたという逸品。

【書いたもの】
■山田邦和「銅鏡の国」(宮崎興二・小町谷朝生・細矢治夫編集『日本文化のかたち百科』所収、東京、丸善 、2008年12月)、494〜497頁。

2009.01.03

梅宮大社初詣、の巻

1月3日(土)
Cimg6675_4Umemiya
 3匹のおトボケ犬(左から、ルーク、マック、クイール)からもご挨拶。あけましておめでとうございます m(_ _)m
  
 今年の初詣はどこにしようか、と考えていたが、梅宮大社にいくことにした。近頃ごぶさたである、という以外には特に理由はない。
 梅宮大社は、橘氏の関連の古社である。お酒造りの神様であるから、私も日頃お世話になっている、ということになる。檀林皇后・橘嘉智子が仁明天皇を産む時の安産の神様である、という伝承をも持っている。現在、古代学協会で「仁明朝史研究会」をやっているから、こちらからしてもまんざらゆかりがないわけではない。
 本殿は修理中で、神様は脇の仮本殿に御動座中であるが、本殿の屋根は綺麗に吹き替えられていて檜皮の色が美しかった。恐る恐る、おみくじを引いてみる。かつて、おみくじを引くと二回続けて「凶」がでたことがあるから、ちょっとトラウマになっているのである。幸い、ここでは「大吉」。良かった良かった。

2009.01.01

2009年謹賀新年、の巻

P1100385 2009年1月1日(木・祝)
(←我が家のささやかなおせち料理) みなさま、あけましておめでとうございます。ブログの場を借りまして、ご挨拶申し上げます。

 昨年はチベットの民衆蜂起とそれに対する中国政府の残虐な弾圧から始まり、秋にはグルジアにおける南オセチアの紛争、世界的金融危機とその日本への波及、さらにはイスラエルのパレスチナ・ガザへの空爆という暗いニュースの中で年末を迎えました。そして、パレスチナの悲劇は、新年を迎えた今もまだ継続中です。近い将来、人類がこのような愚行の繰り返しを回避できる日がくることを心より念じております。

 今年は、永らくの懸案となっておりました第2論文集『京都都市史の研究(仮題)』の刊行をようやく果たせる見込みとなりました。また、それに引き続いていくつかの研究成果も開陳できると思います。牛歩のような歩みではありますが、着実に進んでいきたいと思っております。

 今年一年が、皆様にとっても良い年となりますように・・・・・・ m(_ _)m。 

2008.12.31

2008年もおしまい、の巻

2008年12月31日(水)
P1100316 大晦日。今年もおしまい。恒例の「第9」を聞きながら、しみじみと今年一年を偲ぼう。今年の「第9」は、ちょっと珍しいものを、と思って、フランツ・リストによる2台のピアノ編曲版を選んだ。第1ピアノがレオン・マッコーリー、第2ピアノがアシュリー・ウェイスによるナクソス盤である。もちろん、ピアノ編曲版なのでオーケストラも合唱もはいらない。しかし、これがなかなかの聴きものである。ピアノの名人であるリストの手によるものだけあって、豪壮華麗な仕上がりになっていて、よくもまあピアノだけでここまでできたものだと唸るほどのできばえである。

 実家の店の大掃除を手伝いに行って、それから下御霊神社にお詣り。境内に護摩壇のようなものがしつらえてあって、あれっ?、と思ったら、そこで儀式が始まった(写真)。信者から供えられた人形<ひとがた>を火にくべて、今年の穢れを払う「大祓<おおはらえ>」であった。これはちょうど良いところに出くわした。私も参列して、今年の厄払いをさせてもらう。

 年越し蕎麦を食べた後、義弟といっしょに祇園さん(八坂神社)の白朮参<おけらまいり>に出かける。ここでも、一年の厄を落とし、新年の多幸を祈る。帰り道で知恩院さんの前を通りかかると、三門が荘厳にライトアップされており(写真)、しばし、みとれる。

 それにしても、今年は時間のたつのがえらく早かったように思う。その割にまとまったことができていないので、これはやっぱり来年に向けて反省、である。

 それでは皆様、どうかよいお年をお迎えください o(_ _)oペコッ。P1100373

2008.12.29

2008年にやったこと、の巻

 2008年12月29日(月)

 2008年ももう暮れようとしている。恒例によって、今年やったことを振り返っておこう。
【著書(分担執筆)】
■京都新聞出版センター編、井上由理子・今西健二・河村吉宏・熊谷栄三郎・黒田正子・高野澄・中村武生・中村勝・永守淳爾・西村彰朗・藤慶之・山田邦和執筆『第4回京都検定 問題と解説』(京都、京都新聞出版センター、2008年4月)(分担頁不記載)
【論文】
■山田邦和「中世京都の被差別民空間—清水坂と鳥部野—」(花園大学人権教育研究センター編『個の自立と他者への眼差し—時代の風を読み込もう—』〔花園大学人権論集15〕所収、東京、批評社、2008年3月)、193〜223頁。
【その他の著作】
■山田邦和「聖武・天武両天皇の首都構想」(第10回考古学研究会東海例会資料集『古代東海と奈良時代王権』所収、津、考古学研究会東海例会、2008年2月)、88〜90頁。
■山田邦和「考古学者スウェーデン皇太子入洛」(丸山宏・伊従勉・高木博志編『みやこの近代』所収、京都、思文閣出版、2008年3月)222〜225頁(「みやこの近代(84)(85)スウェーデン皇太子来洛す(上)(下)」〈『京都新聞』2004年〈平成16年〉7月1日号〈朝刊〉・7月8日号〈朝刊〉掲載、京都、京都新聞社、2004年7月〉の補訂再録)。
■山田邦和「コンスタンティノポリスの思い出」「ニュース」(『土車』第116号掲載、京都、古代学協会、2008年3月)3頁・5頁。
■山田邦和「『源氏物語』の平安京—固定概念にとらわれない真実の姿求めて—」(『京都民報』第2336号〈2008年5月25日号〉掲載、京都、京都民報社、2008年5月)5頁。
■山田邦和「学界消息〜角田文衞氏の訃」(『日本歴史』第724号掲載、東京、吉川弘文館、2008年9月)、139頁。
■山田邦和(監修・文)「リアルイラスト 【鳥瞰】秀吉時代の京都」(『決定版 図説 戦国合戦地図集』〈「歴史群像シリーズ」特別編集〉所収、東京、学習研究社、発行年不記載〈2008年〉)、93〜96頁(「鳥瞰イラスト 秀吉の京都」〈歴史群像シリーズ 戦国セレクション『驀進 豊臣秀吉』所収、東京、学習研究社、2002年4月〉の再録)。
■山田邦和「民族で見る貴州」(西幹夫〈写真〉、黒川美富子〈紀行文編集〉『中国貴州省 少数民族の暮らしと祭り—苗族・トン族・プイ族・老漢族の村々を行く—』所収、京都、文理閣、2008年9月)、213〜222頁。
■山田邦和「平安京大図解」(村井康彦監修、京都新聞出版センター編『平安京と王朝びと—源氏物語の雅び—』所収、京都、京都新聞出版センター、2008年10月)。
■山田邦和「例会要旨 中世都市嵯峨の復元」(『人文地理』第60巻第4号掲載、京都、人文地理学会、2008年)
■山田邦和「森浩一先生の知的格闘技」(『森浩一先生傘寿記念 大寿祝賀文集』所収、枚方、古代学研究会、2008年11月)34頁
■山田邦和「第4回 平安京創生館クイズ」(『まなびすと』Vol4.掲載、京都、京都市生涯学習総合センター、2008年1月)
■山田邦和「第5回 平安京創生館クイズ」(『まなびすと』Vol5.掲載、京都、京都市生涯学習総合センター、2008年4月)
■山田邦和「第6回 平安京創生館クイズ」(『まなびすと』Vol6.掲載、京都、京都市生涯学習総合センター、2008年9月)

【学会・研究会報告】
◎山田邦和「仁明天皇陵とその関連陵墓」(古代学協会「仁明朝史の研究」第2回研究会、於思文閣会館、2008年1月20日)
◎山田邦和「コメント 聖武・天武両天皇の首都構想」、山中章司会、榎村寛之・天野三恵子・大崎哲人・山田邦和「ミニシンポ 文献・考古資料からみた聖武東国行幸」(第10回考古学研究会東海例会「古代東海と奈良時代王権」、於三重大学、2008年2月2日)
◎山田邦和「中世都市嵯峨の復元」(人文地理学会第263回例会「歴史都市の景観復元研究」、於佛教大学四条センター、2008年4月12日)
◎山田邦和「タンロン皇城遺跡出土須恵質円筒形土器の型式変化について」(「GISを用いた東アジア都市・王城遺跡形成史の比較研究」2008年度第1回研究会、於三重大学、2008年6月1日)
【講演、その他】
□「東山地区の歴史」(於ハイアットリージェンシー京都、2008年1月9日)
□「戦国武将ゆかりの地を訪ねる」(JR西日本『京都おこしやす大学〜京の魅力探訪ウォーク』、於豊国神社と巡検、2008年1月12日)
□「  同  」(JR西日本『京都おこしやす大学〜京の魅力探訪ウォーク』、於豊国神社と巡検、2008年1月26日)
□「嵯峨は平安〜室町時代にかけて政治の中心だった!」(JR西日本『京都おこしやす大学〜京の魅力探訪ウォーク』、於嵯峨野コミュニティプラザと巡検、2008年3月22日)
□「  同  」(JR西日本『京都おこしやす大学〜京の魅力探訪ウォーク』、於嵯峨野コミュニティプラザと巡検、2008年3月29日)
□「山田先生の平安京講座」(JR東海「そうだ 京都、行こう!」イヴェント、於京都アスニーと巡検、2008年3月23日)
□「平安京・京都の歴史を歩く」(京都SKY大学「総合活動コース」、於京都新聞文化ホール、2008年3月25日)
□「京都・歴史から未来へ」(京都市職員研修センター 平成20年度「京都市職員研修」、於京都会館会議場、2008年4月1日)
□「平安京への道」(ラボール学園〈京都勤労者学園〉「日本史講座—歴史のなかの京都と他所(古代・中世)—」、於同学園、2008年4月28日)
□「平安京の天皇陵—大規模陵墓から仏式陵墓へ—」(京都アスニー「ゴールデン・エイジ・アカデミー講座」、於同センター、2008年5月16日)
□「平安京の世界」(京都府立嵯峨野高校社会人講師の講義、2008年6月3日、於京都府立嵯峨野高校)
□「奈良山丘陵の天皇陵」(木津川市・木津の文化財と緑を守る会・興福寺「第5回木津川市ふれあい文化講座」、於木津川市中央交流会館、2008年6月28日)
□「京都の歴史(1)(2)」(京都SKY観光ガイド協会「京都SKY観光ガイド養成講座」、於はーとぴあ京都、2008年7月4日)
□「ブライトンから見る平安京と源氏物語」(京都ブライトンホテル「第20回京都ブライトンホテル協力会 定期総会」、於同ホテル、2008年8月26日)
□「洛中洛外図に見る京都」(京都SKYセンター、於京都新聞文化ホール、2008年9月10日)
□「清水寺・地主神社」(姫路市教育委員会「平成20年度市民教養講座・歴史講座Cコース 世界遺産の寺社を訪ねる 第6回」、於姫路市文化会館、2008年9月22日)
□「伏見城と城下町を復元する」(聖母女学院短期大学「秋の公開講座・伏見学」、於同大学、2008年10月18日)
□「王朝貴族と平安京」(下京区身体障害者団体連合会「平成20年度福祉のつどい」、於京都東急ホテル、2008年11月2日)
□「現地見学」(姫路市教育委員会「平成20年度市民教養講座・歴史講座Cコース 世界遺産の寺社を訪ねる 現地見学」、清水寺・醍醐寺・東寺巡検、2008年11月7日)
□「平安京」(於祇園「福島」、2008年11月18日)
□「源氏物語を歩く 第4回 源氏・別れの舞台」(京都新聞文化センター、嵯峨野方面巡検、2008年11月22日)
□「源氏物語を歩く 第5回 千年の時空を超えて・平安宮の旧跡を辿る」(京都新聞文化センター、平安宮跡巡検、2008年12月20日)
□「日本国第一の大天狗・後白河院の謎多き肖像に迫る!」(JR西日本『京都おこしやす大学〜京の魅力探訪ウォーク』、於今熊野観音寺と法住寺殿跡巡検、2008年12月21日)
□「京都検定・京都学講座『京都の原点を探る』第6期「平安王朝の諸相」(京都新聞文化センター、於同センター、2008年1月25日、2月8日、3月28日)
□「京都検定・京都学講座『京都の原点を探る』第7期「院政期の京都」(京都新聞文化センター、於同センター、2008年4月25日、5月23日、6月27日)
□「京都検定・京都学講座『京都の原点を探る』第8期「保元・平治の乱」(京都新聞文化センター、於同センター、2008年7月25日、9月26日、10月3日)
□「京都検定・京都学講座『京都の原点を探る』第9期「平治の乱と源平合戦」(京都新聞文化センター、於同センター、2008年10月17日、12月26日)(2009年に継続)
□「平安京・京都の歴史を歩く(20)初期摂関時代の京都」(朝日カルチャーセンター京都、於同センター、2008年1月11日、2月1日、3月14日)
□「平安京・京都の歴史を歩く(21)初期摂関時代の展開と御室仁和寺」(朝日カルチャーセンター京都、於同センター、2008年4月11日、5月9日、6月13日)
□「平安京・京都の歴史を歩く(22)平安王朝の爛熟」(朝日カルチャーセンター京都、於同センター、2008年7月11日、9月12日、9月19日)
□「平安京・京都の歴史を歩く(23)藤原道長の栄華」(朝日カルチャーセンター京都、於同センター、2008年10月10日、11月14日、12月12日)
【展覧会担当】
△「DWCLAの誕生—今に受け継がれるリベラル・アーツの精神」(同志社女子大学史料室第14回企画展示、於同志社女子大学今出川キャンパス ジェームズ館・史料室、2008年11月21日〜2009年7月31日)(2008年度同志社女子大学史料室運営委員会委員としての分担)
【社会活動】
▼財団法人古代學協會 評議員
▼財団法人古代學協會 古代文化刊行委員会 編集委員
▼平安京・京都研究集会世話人
▼文化史学会監事
▼京都民俗学会監事
▼有限責任中間法人日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会全国委員
▼京都市環境影響評価委員

 うう〜〜〜。これはヤバイ。「論文」が1本キリに終わってしまった(しかも、これも、純粋な学術論文とは言い難い・・(゚ー゚;)。一昨年は4本、昨年は6本だったから、明らかに失速である。成稿した論文ならば何本かある、とか、単著の論文集の刊行のメドがついた、というのは言い訳にはならないだろうな。確かに、今年はスランプ状態に陥っていたような気がする(´・ω・`)ショボーン。
 来年はひとつ、褌を締め直してがんばろう!!!

2008.12.22

朽木の池の沢遺跡から若狭へ、の巻

12月13日(土)
Ikenosawa いささか二日酔気味で寝過ごしていたら、ウチの奥様がどうしても、滋賀県高島市朽木の「池の沢遺跡」の現説に行きたい、と言い出す。たしかに、平安時代末期から鎌倉時代初期の頃に作られた庭園遺跡の傑作だということは、地元出身のHK君から以前に聞いた事がある。よし、行くか、ということで京都から若狭へ通じる、いわゆる「鯖街道」に沿った朽木とでかける。
 行ってみて、確かに良かった。これはすばらしい遺跡である。古代末〜中世初期の大規模な庭園遺跡が、そっくりそのままといってよいほど良好な状態で残っている。平安京内の貴族邸宅の庭園遺跡はズタズタになっているものがほとんどであるし、寺院の庭園は後世に改変されているものが多い。その点、この池の沢遺跡は、池の跡は窪地となって明瞭に判別できるし、庭石も露出していたらしい。要は、落ち葉とわずかな表土を掻き分ける程度で庭園遺構を検出することができるのである。それに、池に注ぐ泉はまだ生きていて、清らかな山水をサラサラと生み出している。それが、石組みの水口を経て、数十m下の安曇川に瀧となって落ちていくのも圧巻である。この遺跡は、古代・中世の庭園研究の基本となるに違いない。
 この遺跡はおそらく平安貴族の山荘だったのであろうが、いったい誰がこんな庭園を築いたのだろうか。興味津々である。

 池の沢遺跡見学を終えて、朽木で「十割蕎麦」と鯖寿司のセットを頼む。値段は張ったが、味はよかった。それから、朽木陣屋跡と資料館を見学。
 そのまま帰洛しても良いのだが、急に気が変わった。ここまで来たのだから、ひさしぶりに若狭に抜けてみよう。と、いうことで、昔ながらの街道町の面影を残す若狭熊川宿で遊びながら、たらたらと山越えをする。いぜんの上中町の役場の一部を改装した若狭町歴史文化館では、有名な十善の森古墳の冠帽に出会う。それから、須恵器の「脚付連結壺」の新例にも出会う。東海地方特産の脚付連結壺がこんなところにも出ているなんて知らなかったぞ。さらに、若狭の一宮の若狭姫神社に参拝、ひさしぶりの福井県立若狭歴史民俗資料館を見学する。

Tutimikado 京都へ抜けるために、福井県おおい町の旧・名田庄村を通ることにする。名田庄というと、昔なつかしい高石ともやとザ・ナターシャ・セブンを思い出してしまうが、それとともにこの地は陰陽道の土御門家関連史跡の宝庫である(写真)。前から行ってみたかったのだが、やっと念願が果たせた。資料館である暦会館では、京都の梅小路の土御門家の邸宅指図の存在を知る。うんうん、なかなか収穫だぞ。実務家貴族である土御門家が室町時代にこの地に下向して荘園経営をおこない、しかもまったく土着するのではなくてしばしば京都と往復していたというのは、中世の京都の貴族のありかたに面白い示唆を与えるものだと思う。

2008.12.21

河内大塚山古墳を見る、の巻

 12月10日(水)
P1090531
 考古学・歴史学の16の学会連合の要望に応えて、宮内庁も陵墓の調査の公開に少しづつ前向きにとりくんでくれるようになってきている。もちろん、私たちの立場からしたらまだまだ不十分ではあるのだが、それでも以前に比べると隔世の感であることは確かである。今回、大阪府松原市の河内大塚山古墳(大塚陵墓参考地)の立会調査の見学が許されることになった。
 この古墳は全長330mの超巨大古墳で、従来から「謎の前方後円墳」と言われてきた。以前はこれを雄略天皇の真陵に宛てる説がほぼ通説となっていたが、雄略天皇陵だとすると古墳時代中期の5世紀後半だということになる。最近では、それよりも古墳時代後期後半の6世紀後半に降るとする説が有力となってきているし、私もそれが正しいと思う。そうすると、奈良県橿原市五条野丸山古墳(見瀬丸山古墳)と並んで、古墳時代後期後半に築造された、ただふたつの超巨大前方後円墳ということになり、その時代の歴史を考える上で最重要の古墳だということになる(ついでに言ってしまおう。よく、河内大塚山古墳を大阪府高槻市今城塚古墳と奈良県五条野丸山古墳の間に編年している考古学の本があるが、これは根拠薄弱である。知られている資料による限り、五条野丸山古墳と河内大塚山古墳の間にはそんなに時期差を考えることはできないと思う。それから「江戸時代、河内大塚山古墳の前方部の上には村があった。だからこの古墳の前方部は大幅に削平されている」とされることも多いのであるが、私見では、これも、ムリ。)。しかし、この古墳についてはほとんどデータが無く、その位置づけについては従来から頭を悩ませてきたのである。
 行ってみると、前方部の西端にあって周濠をまたぐ渡り堤の部分が調査されている。ちゃんとした検討は宮内庁の正式報告と、来年度に予定されている反対側の渡り堤の調査の成果を待たねばならないので、まだ軽卒なことをいうべきではないが、この発掘の結果には仰天した! この謎の古墳の位置づけが、よりはっきりしたように思う。 

 それから、地元研究者のNT氏のご案内で、河内大塚山古墳周辺のあちこちを見学。山中章博士に捧げた柴籬神社(しばがきじんじゃ)の「歯磨き面」はこの時に行ったものである。
 皆さんと別れてからは、大阪市立美術館での「三井寺展」を見学。会場への道で同僚のRT客員教授と、また会場内ではR大学のFK客員教授と、それぞれバッタリ。今後数十年は見る事ができないかもしれない秘仏群との出会いに、感動する。

2008.12.18

その時歴史が動いた第346回「平安京誕生」の巻

12月18日(水)
Captur1 NHKの「その時歴史が動いた」、今回は「平安京誕生—千年の都に秘められた苦闘—」でした。どなたはんが出はるんかいな、と思っていたら、山中章博士だったんですね。ををっ! カッコいい〜〜〜!!(^Д^)。いつもはこの番組、ゲストと称してケッタイな作家はんとかを出すことが多いのですが、今回は専門家の中の専門家の井上満郎先生(京都産業大学教授)で、結構なことでした。さらに、書架の前で研究にいそしむSM博士のお姿まで拝見することができました。

Capture6←しかし、早良親王の怨霊のこの無惨な姿は、ちょっと酷いと思います・・・・

2008.12.10

文化史学会大会で高橋昌明先生を聞く、の巻

 12月6日(土)
Takahasi 恒例の「文化史学会」大会。つまり、同志社大学文学部文化史学科が母体となって結成している学会である。小さいけれども、雑誌『文化史学』の刊行を着実に続けているし、同志社大学の文化史の卒業生の懇親を深める場としても機能している。私は監事を仰せつかっているので、数日前には事務局にでかけていって領収書と帳簿の首っ引きをやった。どちらも完璧で、めでたしめでたし。
 例年ならばこの大会では研究発表も聞くのだが、所用のためそちらは欠席。公開講演だけにかけつける。どうしても聞き逃せないのは、神戸大学名誉教授・高橋昌明先生が御登壇で、「平家都落ちの諸相を話されることになったのである。高橋先生、滋賀大学から神戸大学という国立大学の教授を永く勤められていた(今春、無事退官されて名誉教授となられた)のであるが、御出身は同志社大学の文化史であり、滋賀大学に迎えられる前には同志社高校でも教鞭をとっておられた。私にとっては、母校での大々々先輩ということになる。先生、普段は口に出されないのであるが、お酒が進んだ時などには同志社に対する熱い想いを語ってくださることがある。
 会場には早く着きすぎたが、しばらく待つと、KJ大学のNM教授も聞きにこられる。ウチの奥様もやや遅れて合流。
 高橋先生の御講演は、さすがにリキの入ったものである。平家都落ちという、わずか一ヶ月程度の大激震を、ひとつひとつ克明に分析される。その中で、あらゆる障害をモノともしない後白河法皇の強烈な意思の貫徹を強調されたところなど、従来の優柔不断な後白河法皇像を一変させるものではなかろうか。「朝敵」という言葉が本来の漢語ではなく、おそらく源頼朝の造語だなんて、まさに目からウロコ、である。終了後は、懇親会。高橋先生は、ここぞとばかり待ち構えていた大学院生連中に取り囲まれて質問攻めにあい、ちょっとしたスター並みである。とっても満足の日、だった。
 
Ts2d0032_2←12/9。ウチの奥さんと食事に出ようと思ったら、お気に入りの中華料理屋さんはもう閉まっていた(;ω;)。しかたないので奥様御勧めのフレンチにしようとしたら、そちらも臨時休業。あらら。ふと見ると、そのフレンチの隣にインド料理(+ネパール料理)レストランのTAJ MAHALという店がある。たまにはインド料理もいいか、というのではいってみる。おおきなおおきなナン。焼きたてで、とっても美味。左側は、ネパール風のシューマイ。
P1090359←これは、裏寺町の四条にあるフランス料理店、キッチン今村亭。ダンナさんと女将さんのふたりだけでやっている小さな小さなお店である。昔々はよく行ったのだが、どういうわけか足が遠のいており、今回は久しぶりの訪問となった。昔と味が変わっていたらどうしよう、と思ったのだが、杞憂だった。決してゴージャスではないが、心のこもった絶品のフランス料理を出してくれる。おいしかった〜〜(o^-^o)

2008.12.05

西大寺で遊ぶ、の巻

山中章博士も中国から無事に帰国し、バリバリと仕事を片付けていっている御様子、まったく御同慶のいたりである(^Д^)。この分だと未来は明るいぞ。

 12月1日(月)
 出勤するために近鉄電車に乗ったら、ついウトウトとしてしまい、ハッと目を覚ますと新田辺駅でドアが閉まるところだった(つд⊂)。授業疲れで帰りの電車で寝過ごすことはしばしば経験しているが、往路でこんなことは始めてだ。これも、復路であれば京都駅が終点だから、そんなに実害はない。しかし往路となると、この電車は急行だから、次の新祝園駅で降りて引き返さなくてはならないことになる。
P1090374_2 しかし、転んでもタダで起きず、地頭は倒るるところに土を掴め、崖から落ちてもキノコを採って這い上がれ、と、いうほど大げさではないのだが、せっかく乗り過ごしたし、今日の授業にはまだ時間があるから、そのまま奈良まで行ってしまうことにした。最近、直木孝次郎氏の論文を読んで称徳天皇陵についてちょっと勉強してみたので、久しぶりに西大寺を訪れる。いうまでもなく、これは奈良時代後期に称徳天皇が創建した巨大寺院である。
 やっぱり行ってみるもんだね。もちろん、始めて来たというわけではないのだが、今まで知らなかったことばかり。愛染堂では、叡尊上人サマ(興正菩薩、というそうだ)の木像にお目にかかる。中世前期に大活躍したお坊さんであり、京都でもあちこちでこの方の事績に出会うことができる。現境内から少しはなれたところの奥の院は、この人の墓所。堂々とした立派な五輪塔に感銘を受ける。
 本堂の前の巨大な東塔の基壇(写真)を眺めていて、周囲に八角形の石列が並んでいることに気づいた。ふ〜ん、と思いながら説明板を読んで、たまげた。この塔、もともとは八角九重塔として建て始められ、それが途中で方形塔に変更されたのだという。八角九重塔といえば平安時代後期に建てられた京都の法勝寺のものが有名なのだが、それより数百年前に西大寺には同様の巨大タワーが計画されていたのである! 称徳天皇という人、単なる異常性格の困ったバアさんかと思っていたのだが、それだけで済ませたら気の毒だということがよくわかった。
 それから、四天王堂にはいる。薄暗い中に安置されている四天王像の邪鬼は称徳天皇時代のものだという。ほうほう、なるほど。その真ん中の十一面観音像を見て、圧倒された。身長6mを超える巨大像である。これは凄い。しかし、解説を読んで、またまたぶっ飛んだ。この像、もともとは鳥羽法皇が造らせて京都の法勝寺に安置していたものを、亀山上皇の命によってこの西大寺に移したのだという。つまりこれは、院政期の白河・六勝寺の重要な構成要素の仏像なのである。偶然とはいえ、またまたここで法勝寺が出てきた! この巨大な彫刻、やっぱり院政期の破天荒な文化的風潮が生み出したものなんだな。
 こんなことがあると、電車の乗り過ごしも悪くないな。これからちょくちょく寝過ごしてみよう( ̄▽ ̄)。もっとも、授業に遅刻すると困るけれども。

2008.12.01

百舌鳥御廟山古墳を見、ゲルギエフを聴く、の巻

P109031311月28日(金)
 現在も、宮内庁によって天皇・皇后や皇族の陵墓に治定(「ちてい」ではなく「じじょう」と訓む)されている古墳や遺跡や建造物には、原則として立ち入ることはできない。これが考古学・歴史学研究への大きな障害となっているのは周知の事実である。そこで、考古学や歴史学の学会では、この30年の間、共同して宮内庁に陵墓公開を求めてきた。なかなか宮内庁のガードは固いのだが、最近では少しそれに変化も見えてきた。
 と、いうことで、今回は宮内庁の「陵墓限定公開」として、大阪府堺市の百舌鳥古墳群にある百舌鳥御廟山古墳(宮内庁では「百舌鳥陵墓参考地」と呼ぶ)が選ばれた。各学会から合計40数人が参加。私は、(財)古代学協会の陵墓担当の資格での参加である。
 今回の陵墓限定公開の特徴は、百舌鳥御廟山古墳の墳丘裾部の発掘調査を、宮内庁と堺市埋蔵文化財センターが「同時調査」をおこなっており、堺市による調査地は市民への公開がなされる、ということである。なぜこんなことになったかというと、百舌鳥御廟山古墳は墳丘部だけが宮内庁管理であり、周濠は堺市管理の民有地であるからである。宮内庁と堺市は綿密に打ち合わせして調査にはいったということであり、一本のトレンチ(試掘溝)が、境界線を境にして宮内庁分と堺市分とに分かれている。この場合、もちろん土層断面図などは一続きになるものが作成されるはずだし、遺物も場合によっては両者の調査のものが接合するということもありうる。そして、墳丘に接した部分に堺市が見学用の仮設通路を設置しており、11月29・30日にはこれを市民の方々にも公開する、ということになっている。
 我々も、この仮設通路からの見学ということになり、トレンチに近づくことに限界があったので、いささか隔靴掻痒の気分である。このことを陵墓公開の退歩とみるか、堺市との同時調査と市民公開という点を評価して陵墓公開の進歩と見るか、いささか悩ましいところである。でも、埴輪列や葺石が綺麗にでているところがあり、これは堪能する。
 見学終了後には、みんなで堺市博物館を見学し、その一室をお借りして討論会をおこなう。
============================================
 さて、討論会終了後には、ビールの誘惑に後ろ髪を引かれながらも帰洛を急ぐ。京都コンサートホールに滑り込み、頭を古墳から音楽に切り替える。「京都の秋音楽祭」の掉尾を飾るロンドン交響楽団の演奏会があるのである。指揮は、今、人気絶頂のワレリー・ゲルギエフ。曲目は、ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第3番」(ピアノ:アレクセイ・ヴォロディン)とプロコフィエフ「ロメオとジュリエット」組曲である。あれっ、と思うと、私の目の前の席にはKF大学のIN教授が座られる。幕間にロビーに出ると、某古代史研究者ことKMさんに声をかけられる。NHさんとご夫婦で来られているとのこと。
 ヴァイオリンを両翼に配置し、チェロやコントラバスを向かって左手に、金管楽器を向かって右手奥に島状にかためるのはゲルギエフの趣味だろうか? あんまり見たことのない楽器配置である。オーケストラはやっぱり凄い。クライマックスでは身震いがするほどの迫力である。ラフマニノフでのピアノは若いピアニスト。初めて聞く名前なのだが、ゲルギエフに同行するくらいだから注目株なんだろうな。ただ、ちょっとピアノがオケに呑まれてしまったような感を受けたのは残念(ピアノのアンコールのショパンのマズルカのロマンティックな演奏は良かった)。ゲルギエフの指揮は指揮棒が無く、10本の指をヒラヒラさせながらなので、なんだかピアニストがふたりいるようなイメージを受けてしまった。プロコフィエフは管楽器が活躍する曲だけに、ロンドン響の名手の妙技が炸裂。チューバなんか、度肝を抜かれるほどの圧倒的な存在感だった。
 どうでもいいことだが、チェロの真ん中の黒髪の女性奏者、なかなかの別嬪さんだった。また、コンサートマスターはなんだか若き日のウラディーミル・ホロヴィッツを想わせる風貌の人。ホロヴィッツがヴァイオリンを引きまくっているようで、なんだか可笑しかったヘ(゚∀゚ヘ)。

 ロンドン交響楽団を聞くのは、実は約30年ぶり。ただ、前の機会の指揮者は、当時は「幻の指揮者」と言われていた故セルジュ・チェリビダッケだった。チェリさんを聞いたことがある、というのは、今ではちょっとした自慢かもしれないな┗(^o^ )┓。
===================================================
P1080987←11月18日、祇園のお茶屋「福島」に招いてもらって「平安京」のミニ講演。祇園だということで、祇園歌舞練場の裏側の崇徳天皇廟をネタにすると、聞いてくれた人の中に「自分の先祖は崇徳上皇が讃岐に流された時に同道した従者だったと伝えられている」という方がおられて、びっくりびっくり。拙い講演の後は、すばらしい京料理と舞妓・芸妓さんの踊りを堪能。

2008.11.24

森浩一先生、傘寿おめでとうございます、の巻

P1080958←京都は紅葉まっさかり。あちこちの名所は押すなへすなの大混雑である。でも、穴場はある。これは比叡山西麓の赤山禅院。真っ赤な紅葉と珍しい寒桜のコラボレーションがうつくしい。

11月23日(日)
 四苦八苦していた原稿のひとつがやっと完成。NJ大学のT先生のもとに発送し、ちょっと一息。しかし、まだまだ未成原稿の山は低くならないぞ・・・(´Д⊂グスン
 夕方、京都タワーホテルで、「森浩一先生傘寿をお祝いする会」。昨年の11月にも傘寿記念会がおこなわれているが、それは同志社大学考古学研究室の主催であり、今回は先生が若い頃から手塩にかけて育ててこられた古代学研究会の主催である。ようやくぎりぎりで滑り込む。まずは先生が、「古代学研究会の出発と膨らみ」という講演をおこなわれる。先生、体調を崩されてからは、必要不可欠な以外は講演をセーブしてこられたから、私も先生の講演を聞くのは久しぶりである。改めて聞かせていただくと、森先生が古代学研究会と雑誌「古代学研究」をいかに大事にされてきたかということと、古代学研究会の活動を自分の青年期から壮年期にかけての基軸とされてきたかということがよくわかる。嬉しかったのは、体調がすごくよさそうにお見受けしたこと。昨年とか一昨年はかなりお痩せになっておられて、ちょっと心配した。今日はお顔の艶もよく、話も絶好調である。
 そのあとは、会場を移動しての祝宴が始まる。古代学研究会の菅谷文則代表(滋賀県立大学名誉教授)が軽妙な開会挨拶。先生も、奥様(森淑子同志社女子大学名誉教授)とともに微笑みながら聞いておられる。菅谷さんのおっしゃる「文人考古学」、まさに森先生にぴったりの言葉だと思う。
P1090173

書いたもの
◎山田邦和「森浩一先生の知的格闘技」(『森浩一先生傘寿記念 大寿祝賀文集』所収、枚方、古代学研究会、2008年11月)34頁

2008.11.09

日本考古学協会2008年度大会、の巻

Misaki_2
 11月8・9日(土・日)
 日本考古学協会の大会。今回は愛知県名古屋市の南山大学が会場となる。開会までちょっと時間があったので、名古屋のど真ん中の愛知県芸術文化センターに行って、愛知県美術館を見学。パリのポンピドゥー・センターをモデルにしたというだけあって、巨大な芸術の複合施設である。
 ぎりぎりで考古学協会大会に滑り込み。今回は、「縄文時代晩期の貝塚」「農耕社会の民族考古学」「東海地方の窯業生産」の三つのシンポジウムが併行する。縄文は割愛するとして、まずは窯業生産の会場に潜り込む。東海地方の窯についてはしばらくご無沙汰だったので、思い出しながら最新の研究成果を聞く。また、民族考古学シンポでは、ウチの大学に先年まで在職されていたGA教授がコーディネイターを務められるとともに、私の同僚のOH准教授、さらに同志社大学のWK准教授の報告があるので、それをお目当てに聞きにいく。専門外だが、民族考古学ってなかなか面白いものだな。
 夜の懇親会は、名古屋中心部のホテル。この時にしかお目にかかれない方々が多いので、挨拶回りに飛びまわる。S県立大学に行かれた、私の元同僚のSH教授とも久しぶりの再会を果たす。同大学のSF名誉教授は、「最近の考古学はデータばかりになっている。昔ながらの『文人考古学』を復興させよう!」と怪気炎。どうやら、私も「文人考古学」のお仲間に入れていただいているようで、光栄の限りであるψ(`∇´)ψ。そんなことをしながら二次会までいくと、例によって例のごとしのぐでんぐでん。

 いささか二日酔いの頭を振りながら二日目の会場に行くと、受付に若い女性歌手のCDとチラシが置いてある。あれっ?と思って側を見ると、その御本人が座っておられた。長野県を拠点にして活躍しておられるシンガー・ソング・ライターの美咲さんとおっしゃる方で、長い髪が印象的な、とっても綺麗な女性である。この方、遺跡や文化財に大変々々関心がおありで、信州では現代と古代のコラボレーションを目指した「縄文の女神LIVE」という活動を続けておられるそうで、それがご縁で今回の日本考古学協会大会に呼ばれたのだという。おやおや、お固いばかりが取り柄かと思っていた我が日本考古学協会、なかなか味なことをやるようになったじゃないか( ̄ー ̄)ニヤリ。これは聞き逃せないので、昼休みはライヴの会場に席をとる。美咲さん、縄文時代をイメージした貫頭衣ふうの衣装にギターを持ち、透き通るような爽やかな歌声を響かせる(写真)。うん、これは良いじゃないか。うん、大変に良いぞ。
 せっかくだからCDを手に入れようと思って受付に急ぐと、東アジア考古学の権威として知られるMK教授が先に並んでおられた。彼も大変に気に入ったようで、CDを三枚も購入、愛娘の名前を入れたサインまでしてもらっていたぞ(おやおや、なかなか娘さん想いの良いお父さんじゃないか(・∀・)ニヤニヤ)。私も彼につられて、サインをねだる。
 
 午後は、考古学協会の埋蔵文化財対策委員会の連絡会に出席。3時から白熱の討論が続き、予定を大幅に超過して、終わったのは六時過ぎ。くたびれたけれども、各地の最新の問題点の情報を得ることができる。

2008.11.08

ダライ・ラマ14世法王を拝む、の巻

Kitakyushu2008_2 周期的に回ってくる、スランプ。おかげでブログもしばらくお休みしてしまった。御気遣いいただいた皆様、申し訳ありませんでした。

 ダライ・ラマ14世法王が講演のために来日された。少し前に胆石の手術をなさったそうで案じていたが、それも大過なかったようでなによりである。今回は、北九州市と東京で講演をされるとのこと。関西でもやっていただけたら良いのだが、贅沢はいえない。この機会を逃すと後悔するだろうから、仕事の段取りをつけて、北九州での講演に参加することにした。会場は巨大な北九州メディアドーム。主催者発表では、6000人を超える数の人々が参加したという。
 待つこと1時間半、主催者の福岡県仏教連合会の方々が登場し、最初の「世界平和祈念法要」の開始である。福岡のお坊さんたちが居住まいをただす中、突然、おなじみのエンジ色の袈裟に身を包んだ法王が登壇される。全員が日本風の般若心経を読んだ後に、法王がチベット語で般若心経を朗読されたのが印象的だった。面白かったのは、法王、儀式の継ぎ目のタイミングがよくわからなかったようで、周囲を見回して様子を測っておられたと見るや、カッカッカッという忍び笑いを漏らされていたこと。
 法王の御講演は「幸せへ導く 慈しみのこころ」。法王の独擅場ともいえる、人間にとっての「慈悲の心」の大事さを身振り手振り入りで詳細に説き聞かせる(ただ、残念だったのは、日本語翻訳がいさささか分かりにくく、せっかくの御講演の全体像がよくつかめなかった)。
 法王は、講演そのものよりもその後の質疑応答を楽しみにしておられたようで、司会者が時刻を気にして終了に持っていこうとしても、「ワン・モア・クエッション」と会場を催促される。結局、実に予定を1時間もオーバーする仕儀とあいなった。
 それにしても、この御方はなんと誠実で正直なことだろう。観音菩薩の化身として崇められている身なのであるから、もうちょっと偉そうにしても不思議ではない。それなのに、この人は平然と「自分は一介の僧侶にすぎません。他の人とまったく変わったところはないのです」とおっしゃるし、自分の中に抱えている矛盾も赤裸々にさらけ出し、隠そうとはされない。時には自分のジョークに自分で大受けして、腹の底から高笑いされる(同じような世界的宗教指導者でも、現任のローマ教皇ベネディクト16世が公の場で自分のジョークに大笑いする様子など、私には想像もつかない)。こうした法王の気質を批判する向きもあるようだが、少なくとも私にはこの上なく自然な態度に思える。
 ひとときではあったが、現代世界の最高の人物と、同じ場で同じ空気を共有することができた。これを幸せといわずしてなんと言おう。

 講演が終わった後は福岡に足を伸ばし、KK博物館のIR氏を呼び出して、中州で痛飲。

2008.09.22

清水寺を語り、書写山に登る、の巻

 9月19日(金)
 朝日カルチャーセンター京都の巡見で、醍醐寺の見学会。しかし、台風が接近しているというので気が気ではない。あんのじょう、ポツリポツリと降り出したかと思うと五重塔の前で大雨になる。あわてて三宝院に駆け込んで、庭園を眺めながら雨宿り。
 先日、上醍醐の准胝堂<じゅんていどう>が落雷で火災となり、全焼した。現在、上醍醐への入山は全面禁止となっている。自然災害ではあるし、上醍醐の重要文化財建築は難を逃れたとはいえ、なんとも心痛むことである。

 9月20日(土)
 明後日の予習を兼ねて、清水寺の拝観。ものすごい数の観光客に圧倒される。ちょうど、花山法皇1千年の御遠忌ということで、秘仏のご本尊・十一面千手観音菩薩像の御開帳がおこなわれている。

 9月21日(日)
 伯父の誕生祝い会。90歳の高齢であるが、まだまだカクシャクとして元気でいてくれるのが嬉しい。どうかいつまでも健康で長寿を保たれんことを・・・

P1080171 9月22日(月)
 姫路市教育委員会主催の「平成20年度市民教養講座 歴史遺産Cコース・世界遺産の寺社を訪ねる」の第6回「清水寺・地主神社」に出講。中世史の大家・UM先生から御指名をいただいたので、喜んで出かける。会場は姫路市市民会館の大ホール。驚くべきことに、600人くらいの参加者がおられるという。10時から11時50分までの2時間近くという長講一席だが、それもみなさん熱心に聞いていただく。姫路市民の旺盛な知的好奇心には、まさに脱帽である。
 午後から時間が空いたので、せっかく姫路まで来たのだから、書写山円教寺(えんきょうじ、だと思っていたら、えんぎょうじ、なのだという)に登ることにする。これまで行きたい行きたいと思っていたのだが、なかなかその機会に恵まれなかった。ロープウェーで山上まで上がったのでもうすぐだと思ったらとんでもない。さすがは播磨の名刹、巨大な境内地と伽藍を持つ大寺院である。山道をふうふう言いながら中心伽藍にたどりつき、摩尼殿(写真)や大講堂(本堂)の壮麗さに見とれる。

2008.09.21

『中国貴州省 少数民族の暮らしと祭り』、の巻

Kisyuu ステキな本ができあがった。西幹夫(写真)、黒川美富子(紀行文編集)『中国貴州省 少数民族の暮らしと祭り—苗族・トン族・プイ族・老漢族の村々を行く—』(文理閣)。中国・貴州省の写真集・紀行文集である。私も、「民族で見る貴州」という一文を寄稿させてもらった。
 とにかく、写真がすばらしい。著者の西幹夫さんという方、普通のサラリーマン生活を送ってこられたのだが、50歳の時にふと思い立って写真教室に通い始めたという。そして、特に中国の周縁地域に魅せられて取材旅行を続けて来られた。こんな言い方をすると失礼ではあるが、大器晩成、という言葉がピッタリくる。この本のどの頁からも、貴州省の土の匂い、人々の息吹がただよってくるのを感じざるをえない。その1コマ1コマを丹念に切り取った西さんの才能には、まさに脱帽である。
 そもそも日本では貴州省はあんまり知られていないし、貴州をテーマとした単独の書物もほとんど見られないはずだ。その意味でもこの本は貴重な存在になったと思う。

 私が貴州に行ったのは、2002年の年末から翌年の正月までのことだった。西さん・黒川さんのお供をさせていただいて、始めて異国の地で大晦日と正月を過ごした。しかし、暖かいはずの貴州に大雪が降るという、何十年に一度の異常気象を体験した。その顛末は本書所収の紀行文に書いたので、ご興味のある方は御覧いただければ幸いです。ただ、今年の初めの「チベット騒乱」などの事件によって、中国の少数民族政策の矛盾と問題点が白日のもとに晒された。そうした危惧も盛り込んだので、紀行としてはちょっと毛色の変わった内容かもしれない。

 本書のお問い合わせは、書店または、「図書出版・文理閣」(京都市下京区七条河原町西南角、電話075-351-7553)へどうぞ。

==============================
【書いたもの】
■山田邦和「民族で見る貴州」(西幹夫〈写真〉、黒川美富子〈紀行文編集〉『中国貴州省 少数民族の暮らしと祭り—苗族・トン族・プイ族・老漢族の村々を行く—』所収、京都、文理閣、2008年9月)、213〜222頁。
■山田邦和(監修・文)「リアルイラスト 【鳥瞰】秀吉時代の京都」(『決定版 図説 戦国合戦地図集』〈「歴史群像シリーズ」特別編集〉所収、東京、学習研究社、発行年不記載〈2008年〉)、93〜96頁(「鳥瞰イラスト 秀吉の京都」〈歴史群像シリーズ 戦国セレクション『驀進 豊臣秀吉』所収、東京、学習研究社、2002年4月〉の再録)。
■山田邦和「学界消息〜角田文衞氏の訃」(『日本歴史』第724号掲載、東京、吉川弘文館、2008年9月)、139頁。

2008.09.08

中世都市研究会大会、の巻

 9月4日(木)
 井上道義指揮京都市交響楽団の演奏会。曲目は、モーツァルト:アダージョとロンド、クセナキス:ノモス・ガンマ、ホルスト:組曲「惑星」。実はこれ、1990~1998年に京響音楽監督&第9代常任指揮者を務めた井上さんが、1990年7月に音楽監督&常任指揮者就任披露演奏会(京響第326回定期)で演奏したプログラムをそっくりそのまま再現したものだそうだ。モーツァルトは、フルート、オーボエ、ヴィオラ、チェロの四重奏曲で、井上さんは指揮とチェレスタを兼ねている。クセナキスの曲は、オーケストラが指揮者を取り巻くサラウンド形式で、一番外周には四組の打楽器が配され、迫力満点の音を出す。
 聞き物はなんといっても「惑星」。私の大好きな曲である。この曲での井上さん、いつものようなケレン味をいささか押さえて、着実な音づくりをやっている。「惑星」といえば金管群の見せ場が多いので、ちょっと心配していた。しかし、この期待は良い意味で裏切られた。いゃあ、京響の金管がこんなにウマかったなんて! 特にチューバの活躍がすばらしい。さらに、京都コンサートホール自慢の、日本最大級のパイプオルガンが加わって、迫力満点の合奏を聴かせてくれる。

P10709589月6・7日(土・日)(上:方形周溝墓の表示、下左:弥生2丁目遺跡、下右:弥生式土器発掘ゆかりの地の石碑)
 東京で、2008年度中世都市研究会「都市を比較するーー東アジアの都市と住宅」。行きたいとは思っていたのだが最後まで予定がたたず、ほとんど諦めていた。しかし、ウチの奥さんが背中を押してくれて、やっと出かける決意がつく。
 会場は東大だとしか聞いていなかったので、地下鉄の本郷3丁目駅で降りる。東大の赤門まで行って係の学生さんに聞くと、なんと、赤門からは正反対の浅野キャンパスだという。ぐるっと回り道をして、やっと到着。しかし、このあたりは日本考古学にとっては記念的な遺跡、つまり「弥生式土器」「弥生時代」の名祖<なおや>となった旧・本郷弥生町の向ヶ岡貝塚である。浅野キャンパスの隅には「弥生式土器発掘ゆかりの地」の石碑(写真)が立っている。会場の綺麗な建物の隅には、発掘された方形周溝墓が表示されている(東大のTS准教授が案内してくれた。TSさん、ありがとうございましたm(_ _)m)。さらに、キャンパスの隅っこには「弥生2丁目遺跡」の一部が残されている(写真)。
 今回の中世都市研究会は、東アジア各地の都市と住宅がテーマ。朝鮮半島、中国大陸、ベトナム、鎌倉、十三湊、益田、博多、豊後府内の、それぞれ最新の成果を勉強させてもらう。懇親会ではひさしぶりの先生方に御挨拶。二次会はKRM博物館のMJさんと痛飲。

«ひとつの仕事、完了、の巻