2009.06.29

北海道・網走、の巻

 090628〔上:常呂遺跡、下:ホンモノのツブ貝の寿司〕
 6月26日(金)・27日(土)
 珍しく、北海道行き。網走市の東京農業大学オホーツクキャンパスでおこなわれる全国大学博物館学講座協議会の大会に出席のためである。
 白状すると、これまで、ほとんど北海道と縁がなかった。その地を訪れたことがあるのも、かなり以前に友人の結婚式で札幌・小樽に行っただけなのであり、今回の訪問で僅か2回目、ということになる。だいたい、飛行機が嫌いなので、ストレス無く鉄道で行ける範囲を超えてしまうところには、どうしても足が向かない、ということになるのである。でも、今回はどうしても行かなくてはならないことになった。
 最初は金曜日の早朝に出発すれば良いと早合点していたのであるが、調べてみると、大阪発で女満別空港に着く飛行機は午後の便しかない。昼前に会場に到着するには、羽田発の7時55分という飛行機しかないのである。これはしかたない。木曜日の授業が終わってから夜に東京に入り、羽田で一泊して飛行機に乗り込むしかない。いやはや、めんどくさいことである。

 金曜日午前、東京農業大学着。市街地から離れた丘の上のキャンパスである。周囲を見渡すと、のたのたのたのたと低い丘が連なり、その間は広大な畑地が広がる。なんとなく日本離れした風景で、以前に見たイングランドの風景を思い出す。11時、事前打ち合わせ会に出席。13時、会議開始。ここで私は、総会の議長を務めねばならない。実は、来年度のこの大会をわが大学で引き受けることになってしまっている。会の副委員長と総会議長は次年度大会開催校が担当する、という義務があるのである。どちらにしても、来年のことを考えると大会の運営の隅々まで見せておいていただいた方が良い。
 報告会では、「網走地域の博物館の現状と課題」ということで、地元の網走市立美術館美幌博物館上湧別町ふるさと館の事例を聞かせていただく。いずれも小規模な博物館であるが、地域に密着した旺盛な活動を続けておられるところが印象的であった。続いて「博物館法省令改訂について」を文化庁美術学芸課長(前・文部科学省生涯学習政策局社会教育課)の栗原祐司氏が話される。2年後から、博物館学芸員課程のカリキュラムが大きく変わる。これは博物館学芸員課程を置いている大学にとって死活的ともいえる大問題なのであるから、詳しく聞いておかねばならない。実は6月29日に文部科学省の説明会が実施されるのであるが、栗原氏はこの改訂を主導した中心的な人物であるので、そちらから話を聞けるのはこの上なく貴重な機会である。
 大会のあとは、網走市内のホテルに会場を移しての情報交換会。みんな、タラバガニに群がる。次年度開催校としての挨拶もさせられてしまう。終了後は、全博協西日本部会長のH大学のYT教授らのおともをして、二次会。

 土曜日、せっかくだからちょっとだけ早く起きて、ホテルの近くの有名遺跡・モヨロ貝塚へと足を伸ばす。
 見学研修会は3コースが用意されるが、私は「常呂コース」に参加。網走市立郷土博物館北海道立北方民族博物館ところ遺跡の森(国指定史跡常呂遺跡)(ところ遺跡の館、ところ埋蔵文化財センター「どきどき」 、東京大学文学部常呂資料陳列館)を見せていただく。網走市立郷土博物館は地味で素朴な展示だが、正直いうと、こういう昔ながらの博物館のほうが心が和む。北海道立北方民族博物館、これは素晴らしい。北海道だけにとどまらず、ロシア、カナダ、アラスカなどをも含めた国際的規模で資料が収集され、みごとな展示が形作られている。この博物館なら、何時間いても飽きないだろうな。また機会を作って、じっくりと訪問することにしよう。
 常呂遺跡(写真)は東大の調査で有名だから名前だけは知っていたが、その中身については、まったく勉強不足であった。行ってみて驚愕。さすがは世界文化遺産への登録を目指すというだけある。数千件の竪穴住居跡が累々と分布する巨大遺跡である。冬になると竪穴住居跡だけに雪が残って面白い写真が撮れるというのも、初めて納得する。東京大学が現地に研究施設を建てて継続的な調査研究にとりくんでいるというのもうらやましい限りである。資料館の中には、オホーツク文化、擦文文化と並んで、トビニタイ文化の土器が並んでいる。つい先般、わが大学の同僚の大西秀之准教授が『トビニタイ文化からのアイヌ文化史』という著書を出されたので、それで名前だけは知っていた。ふむふむ、なるほど、これがその実物か、と、ひとりで頷く。

 充実した1日をすごしたあと、女満別空港へ帰着。お土産を買っていて、ふと空港内の寿司屋を覗くと、O大学のMK教授が生ビールを傾けているのを発見。ご一緒させていただくことにして、本場ならではのホンモノ(?)のツブ貝の寿司(写真)を頬張る。

 6月20日(土)
 花園大学考古学研究室の大会。刊行されたばかりの、花園大学考古学研究室30周年記念論集『花園大学考古学研究論叢II』をいただく。私が花園大学考古学研究室に在籍したのは1999年度から2006年度までの8年間であるが、その間に考古学研究室創設20周年を迎え、その記念として2001年に『花園大学考古学研究論叢』を刊行したことであった。今回、研究室の30周年をむかえて「II」が刊行されたのである。私の後任の高橋克壽准教授の御指導のもと、花園大学考古学研究室がますます発展していることを目の当たりにし、嬉しい気持ちでいっぱいである。

【書いたもの】
◎「『文久の修陵』による天皇陵改造」(花園大学考古学研究室30周年記念論集『花園大学考古学研究論叢II』所収、京都、花園大学考古学研究室30周年記念論集刊行会、2009年3月)201〜211頁。
◎「平安京の空間構造」(舘野和己編『古代都城のかたち』〈同成社古代史選書3〉所収、東京、同成社、2009年6月)、51〜73頁。
【テレビ番組監修】
●山田邦和監修「THE 世界遺産 第55回『日本の古都スペシャルII 古都京都の文化財』」(毎日放送〈TBS〉テレビ、2009年4月26日放送)。

2009.06.22

山中博士に怒られる、の巻

090622〈←待賢門院建立の法金剛院では、今、アジサイの花がまっさかり〉
 6月22日(月)
 ありゃりゃ・・ 山中章博士に怒られてしまったぞ。いつもは山中博士が過激なことを言い、それを私が右往左往しながら宥めるというのが役回りなのに、今回はどうしたことなのだろうか?

 これは、6月3日の「日本考古学協会2009年度総会」の条で、春成秀爾氏らの研究グループがおこなった「放射性炭素年代測定法の新研究によると箸墓古墳は卑弥呼の墓である」との研究発表に対して述べたところです。確かに、ついつい冷静さを欠いた表現をしてしまったかもしれず、それが博士の逆鱗に触れることになったのかもしれません。
 はっきりさせておきたいのは、私は、情報は専門家の間だけでまわしていって、一般の市民の方々やマスコミから隠すべきだ、なんてことはひとことも言っていませんし、考えもしていません。むしろ、情報はどんどん公開して幅広い議論をまきおこしていったら良いと思っています。それは「もちろん、考古学協会の研究発表会は公開されているし、考古学をやっている学生さんたち、一般の考古学愛好者の皆さん、さらにはマスコミの記者たちを排除する理由はない」と書いたとおりです。その点では山中博士とまったく同意見なのです。ただ、今回、考古学協会当局に対して申し上げたのは、事前にマスコミに流れるという予想外の事態がおこったことで、会場が満杯になって聞きたくても聞けない人がでる可能性がある(事実、以前の「弥生時代の実年代の放射性炭素年代測定法」の時には聞けない人がいっぱい出た)。それへの対処をお願いしたのです。聞きたい人が聞けるようにしてほしい、というのは間違っているとは思いません。その結果、当局の機敏な判断によって会場が変更され、みんなが聞けるようになった。このこと自体はまことに結構なことだと思っています。

 たしかに私は、「マスコミを使って自分の学説の既成事実化をたくらんだと思われても抗弁の余地がない」と過激なことを言ってしまったのは確かです。春成氏らの研究グループに対して失礼な物言いだと感じられる方がおられたのならば、そのことはお詫びしなくてはならないと思います。また、山中博士がおっしゃる通り、学界とマスコミがお互いに利用しあっているという側面も否定することはできません。

 ただ、私が危惧するのは、一方の学説だけをマスコミが囃し立てることによって、自由な論議が妨げられるということがありうる、ということなのです。例の「前期旧石器遺跡捏造事件」の時には、日本における旧石器時代の開始の年代がどんどん遡るという一方的な「発見」だけがどんどんマスコミに流れていきました。あとでよく考えてみるとそこにはまるで学問的な検証がなされていなかったり、学界の一部では反論が提起されるところもあったのですが、それはほとんどとりあげられることはなく、「日本旧石器時代の開始は○○万年前にさかのぼる!」「日本の旧石器時代人は高度な精神生活をおくっていた!」などというところばかりがぶち上げられ、高名な学者もそれを大々的にとりあげて一般向けの書物などで紹介したりして、いつしかそれが「通説」となったような気にさせられていったのです。私たちはあの苦い経験をくりかえしてはなりません。

 研究者とマスコミの関係というのは、いわば「両刃の剣」だと思います。使い方によっては善くもなるし、また、まちがった使い方をしてしまうと社会全体に悪影響を与えることにもなりかねません。何が良い使い方で何がまちがった使い方かの基準がどこにあるかは難しいし、私にもうまく言えないのですが、「邪心」の有無、というところになるのではないかと思います。マスコミを使って自分の学説を有利にしようとか、自分の利益を計ろうとか、これによって自分が名声を得ようなどというのは、「邪心」の最たるものでしょう。研究者たるもの、自らの心に絶えずこうした無言の問いかけをしなくてはならないと思います。

 今回の春成氏らの研究グループの報告を聞いて私が目を剥いたのは、「炭素14年代は平均値を記載する」(『日本考古学協会第75回総会研究発表要旨』)とされていたところです。これは明らかにマズい。私はもちろん科学分析の専門家ではないので詳しい知識はないのですが、炭素14年代はどんなに精度があがっても誤差ゼロというところには行き着きません。炭素14年代には必ず、±何年、という幅がつきます。そして、国際的には炭素14年代のプラスマイナスは1σであらわすことが約束事になっています。たとえば、「B.P.1900±50」というような記載法です。しかしそれを「平均値を記載」ということで「B.P.1900」としてしまうことは明らかにルール違反です。グラフには表示してあるといっても、それは免罪符にはならないでしょう。それに、「B.P.1900±50」とは、B.P.1950からB.P.1850(わかりやすくするために西暦に直訳すると、紀元元年〜紀元100年)の間におさまる確率が68.3パーセントということをあらわしており、あとの31.7パーセントはその範囲から逸脱することも充分にありえるのです。さらに、「B.P.1900±50」とは西暦紀元50年である確率が一番高く、西暦紀元元年や紀元100年である確率は低い、というものではありません。「B.P.1900±50」は、西暦紀元元年である確率と紀元50年である確率と100年である確率はまったく同じなのです。この点でも、「平均値を記載」というのはまったく誤ったやりかたなのです。
 こんなことは、理科系の頭を持っていない私ですら知っているくらいの炭素14年代測定法の初歩の初歩ですから、春成氏らのグループという専門家集団がそれを知らないはずはありません。知っていてそれでもあえて「平均値を記載する」というのは確信犯としかいいようがないのであり、と、いうことは、ここには何かの「邪心」を感じざるをえない。そう考えたからこそ、ついつい(私らしからぬ?)厳しい口調になってしまったのです。
 なお、春成氏らのグループの方法は、一見完璧見えても実はあちらこちらで危うい部分を持っており、それは考古学協会当日に座長をつとめられた(こう書いてしまうと、実名がバレバレですね・・(・∀・))flyingmqn氏のブログに詳しいので、そちらに譲らせてください。そうした危うさを持ちながら、「箸墓古墳は卑弥呼の墓であった」と結論づけるのは、やはりかなりの飛躍だと思います。

 もうひとつ大事なのは、マスコミ側と研究者側の間の、ある種の緊張感でしょう。マスコミも、ある研究者のいうことを鵜呑みにしてその成果だけを一方的にとりあげるのではなく、それへの反論も同じくらいの比重でとりあげて欲しいと思います。マスコミは特定の研究者のタイコ持ちなのではなく、公正な議論のための素材を社会に提供する使命があるのですから。この炭素14年代測定法についても、田中良之氏(九州大学)らの研究グループの弥生時代の人骨の研究では、春成氏らのグループの成果とはかなり違った測定値がでているはずです。どちらが正しいのかは私には判断はつきませんが、少なくともそうした成果が公表されている以上、マスコミも春成氏グループだけでなく、そちらにもスポットをあてて公平な情報を出してほしいのです。

 ついでに言っておくと、こうした研究成果にマスコミが「歴博の研究で〜〜ということが判明した」という言い方をするのは、なんとかならないのでしょうかね。もちろん歴博という組織に属する研究者が組織の金と設備を使って出す研究ではあるのですが、研究をするのはあくまで個々の研究者であるはずです。たとえば、私が出す研究成果は、たとえ同志社女子大学の研究費を使っていても、「山田という研究者の成果」なのであって、「同志社女子大学の研究成果」とはちょっと違うと思います。「歴博の研究成果」とされてしまうと、マスコミ報道を聞いた一般の市民の方々に、「そうか、『国立』『権威ある』研究機関が『最新の科学的方法』によって研究し、日本考古学協会という『日本を代表する』考古学の学会で発表されたのだから、これが定説になったのだ」などという誤解をあたえないとも限りません。

 「邪心」をゼロにすることは、私も含め生身の人間にはむつかしいのかもしれない。しかし、私たちは絶えず自分の良心に問いかけ、自戒し続けなくてはならない、と痛感いたします。

2009.06.15

文化財保存全国協議会第40回記念京都大会、の巻

090605〈←宇治平等院「鳳凰堂」。やっぱり、実にうつくしい〉
 6月12日(土)〜13日(日)
 同志社大学において、文化財保存全国協議会(文全協)の第40回記念京都大会。文全協は、大阪府堺市いたすけ古墳の保存運動に端を発し、全国的な文化財保存の中核として活発な活動を続けてきた団体で、今年で創設40周年となる。その記念すべき年の大会を京都でおこなうことになったのである。
 それは大変結構なことなのであるが、どうしたわけか私は今回大会の実行委員会の「事務局長」を仰せつかってしまった!!(゚ロ゚屮)屮。私のように計算に弱く、仕事もいいかげんな人間にこんな大役をまかせるというのは、いったいぜんたいどうなってるんだろうか? しかも、報告もせねばならない、というのだから大変である。
 土曜日は見学会。「宇治の遺跡と文化財」ということで、宇治市の文化財調査と保存の中核をになってこられたSH氏にご案内いただく。最後の最後まで参加人数が確定できなかったのであるが、結局は50人弱の大所帯での移動となった。京阪宇治駅から太閤堤跡、橋寺放生院、宇治上神社、塔の島の十三重石塔を見て、宇治川側で食事。そのあとは平等院とその博物館である鳳翔館(寺院のミュージアムとしては超一級の存在である)、山本宣治墓、県神社と見て、宇治橋に帰ってくる。ちょっと蒸し暑いのが閉口であるが、SH氏の熱のこもった解説と、裏方を努めてくださった実行委員会のHK氏の的確な配慮で、無事に済む。それにしても、宇治市は歴史的遺産を充分に活かした魅力的な町づくりにとりくんでいることがよくわかる。
 そのあとは、同志社大学寒梅館で懇親会。
 日曜日にはいよいよ本番。九時スタートなので、40分前に会場入りして、段取りにかかる。とはいっても、手伝いの同志社大学考古学研究室の学生諸君がテキパキと動いてくれる。これなら安心。
 私はトップバッター(前座?)での登壇。基調報告1「都市遺跡としての京都」。京都の史跡・文化財保存の現状と問題点を紹介する。こうしたテーマでは史跡公園にばかり目がいくが、石碑や説明板の建立による史跡顕彰事業の大事さを力説。もちろん、「平安京検非違使庁址」の石碑を紹介することも忘れない。さらに、京都のような大都市では広面積の遺跡保存はほとんど不可能であるから、むしろ「点」を増やしていくこと、そして、その点同士のネットワーク作り、史跡を知ることのできる拠点施設(博物館など)の建設、それを中核とした町づくりをしていくことが大事だということを述べる。要は、史跡・文化財の保存・活用とは、すなわち町づくりに他ならない、ということなのである。こういう視点で京都の史跡の話をするのはちょっと珍しいのかもしれず、参加者の皆さんにはけっこう好意的に受け止められたとおもう。
 今回は、私のものを含めて合計10本の報告がおこなわれた。いずれも的確で面白い発表で、本当に勉強になった。事務局役はいささかしんどかったが、良い会になって、良かった良かったo(*^▽^*)o。

【書いたもの】
◎「都市遺跡としての京都」(文化財保存全国協議会第40回記念京都大会実行委員会編『文化財保存全国協議会第40回記念京都大会 都市遺跡の調査と保存・活用・整備 予稿集』所収、〈大阪〉、文化財保存全国協議会、2009年6月)、1〜5頁。
【しゃべったこと】
○「都市遺跡としての京都」(文化財保存全国協議会・文化財保存全国協議会第40回記念京都大会実行委員会〈主催〉「文化財保存全国協議会第40回記念京都大会〜都市遺跡の調査と保存・活用・整備」
、於同志社大学明徳館、2009年6月14日)。
【社会活動】
▼文化財保存全国協議会第40回記念京都大会実行委員会事務局長

2009.06.03

日本考古学協会2009年度総会、の巻

090603(左:ダライ・ラマ法王日本代表部事務所のあるビル。右:日本考古学協会総会)
 5月29日(金)〜31日(日)
 東京・早稲田大学において、日本考古学協会の総会。
 金曜日、東京着。ほんの少し時間があるので、どこに寄り道しようかと迷った。いつものように神田神保町の古書店街、という手はあるのだが、急に、新宿にあるダライ・ラマ法王日本代表部事務所を訪ねてみたい!、と思った。ここはチベット亡命政府の在日本大使館ともいえる存在であるし、予約もなしに行ってはマズいかな、という不安はあった。しかし、私はチベットハウス(同事務所文化部)の会員であるし、ささやかではあるが、チベットの皆さんを援助するためのブルー・ブック・プロジェクトの参加者でもある。少なくとも、同事務所の図書室は一般公開しているはずだから、まかりまちがっても図書室を見ることくらいはできるハズである。
 と、いうことで訪れたダライ・ラマ法王日本代表部事務所。新宿三丁目駅から徒歩数分の小さなビルの中にある小さな事務所である。エレベーターを降りると、ちょうど、若いボランティアの女性が出てくるところに行き当たった。来意を告げると中に案内してくれて、ツェワン・ギャルポ・アリヤ経理・広報担当官に引き合わせてくれ、同担当官から話を聞かせてもらうことができる。さらに、ラクパ・ツォコ代表(要するに、中央チベット行政府〈チベット亡命政府〉の「日本駐在大使」)にも挨拶することができた。ありがたいことであった。これからもチベットのサポーターであり続けたいということを伝え、わずかではあるがブルー・ブックに寄付金を納めて事務所を辞する。

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 午後は、日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会。今回は、結構たくさんのメンバーが集まっている。終了後は、やっぱり呑み会(*゚ー゚*)。

 土曜日は、いよいよ本番の総会である。今回の総会は大切なものである。と、いうのは、いままでの日本考古学協会は「有限責任中間法人」であったが、法律改訂によってそれを「一般社団法人」に変更することを議決しなくてはならない。しかし、そのためには会員(約4,000名)の三分の二の出席(含委任状)が必要となり、理事会の皆さんはその確認に大変だったようである。皆さんのご努力もあって総会は成立するにいたり、これは御同慶のいたりであった。本日をもってめでたく、「一般社団法人日本考古学協会」が誕生したのである。

 ただ、今回の総会では、私も言っておきたいことがあった。挙手をしての発言は勇気がいるし、限られた時間を消費することで顰蹙を買うことになるだろうが、それはいたしかたない。少なくとも、私の主張を記録にとどめてもらうことが必要だと思ったのである。
 それはこういうことである。理科系の学会には、そこが発行する学術雑誌に論文を掲載する際に、「論文の著者は論文の著作権を学会に譲り渡さなくてはならない」という規定を持つところが多い。それが徐々に文科系の学会にも波及してきた。と、いうのも、最近では学術雑誌を電子アーカイブにしてインターネットに公開することが流行っており、そのためには学会が著作権を持っていた方がはるかにやりやすいからである。もちろん、電子アーカイブ化自体は大変結構なことであるから進めればよい。しかし、そのための著作権の扱いについては、また別の方策があるはずである。少なくとも、著作権に疎い理科系は知らず、文科系にはこうしたやりかたは馴染まない。なぜならば、文科系の研究者にとって、自らの著作の著作権は研究者としての「生命」に等しい価値を持っているからである。
 したがって、私は、少なくとも私の関係している学会については、学会が著者の著作権を奪い取るという「暴挙」を許すわけにはいかないと決意しているのである。日本考古学協会ではまだそこまでは至っていないのであるが、最近、その方向への危惧が現れ出た。これは、流れができる前に先手を打っておかねばならないであろう。そこで発言を求め、以上のことを述べた。会員の皆さんに私の真意が伝わったかどうかはわからないが、すくなくとも記録にはとどめていただいたハズであり、その点では私の希望はかなえられたことになる。

 しかし、私の発言で時間を喰ったことは確かであるし、その点では理事の皆さんには申し訳ないことをした。と、いうことで、懇親会では理事のみなさんに対してひたすら平身低頭m(. ̄  ̄.)m。苦笑いをされたが、許していただいた(と、思う(^-^;)。結局、いつもの通り二次会まで繰り込んで、またまた大騒ぎ。

 もうひとつ、総会では執行部と実行委員会にお願いをした。それは、29日金曜日の朝日新聞朝刊を見て仰天したからである。そこには、「奈良・箸墓古墳築造、卑弥呼の死亡時期と合致 歴博測定」の大見出しが踊っていた。これはマズいことになった。こういうことは、学会で発表して相互に議論した後にマスコミに出すのが本来である。事前にマスコミに流すというのでは、マスコミを使って自分の学説の既成事実化をたくらんだと思われても抗弁の余地がない。以前にも、この研究グループの弥生時代の開始年代をめぐる放射性炭素年代測定法の成果発表の際、前日にマスコミに報道されたという「前科」があった。その結果どうなったかというと、日本考古学協会の研究発表会の会場は超満員になってしまった。おそらくそこには、考古学協会員以外の人々がかなり参加していたはずである。もちろん、考古学協会の研究発表会は公開されているし、考古学をやっている学生さんたち、一般の考古学愛好者の皆さん、さらにはマスコミの記者たちを排除する理由はない。しかし、考古学協会の研究発表会の意義は第一義的には協会員同士の討論というところにあるのであり、したがって私たち協会員は研究発表を聞く権利を有しているはずである。その権利が侵害されることではいけないはずである。今回もそのような危惧があったので、円滑に研究発表会がおこなわれるようにお願いをしたわけである。
 私のお願いが聞き入れられた結果かどうかはわからないが、31日午後からの研究発表会場は急に変更になり、午前の倍以上の教室になった。これは本当に良かった。その広い会場がほとんど満席に近く、おそらく400人くらいは入場していたからな。私もゆっくりと聞くことができた。日本考古学協会理事会と総会実行委員会の機敏な対応はまさに見事。感謝、感謝。
 なお、この研究発表の内容については、私は納得できなかった。一見すると科学的に見えるけれども、そこにはかなりの仮定の積み重ねと強引な誘導がある。結論の当否は別として、これで「箸墓は卑弥呼の墓だ」と断じるのは飛躍にすぎる、というのが正直なところである。

 発表内容についてはそう感じたのだが、この研究発表の際に司会をつとめられた協会理事のTKI大学のHY教授の名司会ぶりは特筆モノである。ピントはずれの質問については毅然と応対し、さらに報道機関には冷静な対応を求めるなど、見事な手綱さばきですごくカッコ良かった(HYさん、もともとカッコいい人なんですけどね。羨ましい・・・)。
 もうひとつ、私の聞いた研究発表の中ですばらしかったのはKS大学のMK教授による「中国四川省晏爾龍石棺墓地の発掘調査」。私は専門外なので細部についてはよくわからないのであるが、強烈な意志の力がグイグイと迫ってくるのに圧倒された。こんなの聞かされると、私も頑張らなくっちゃな、という気になるな。

2009.05.26

出雲路幸神社で疫病除け、そして貝塚「ぼっかんさん」、の巻

P1120376(左:京都市上京区・出雲路幸神社の境内に祭られている「神石(石神様)」と「疫神社」)
(右:大阪府貝塚市・願泉寺の寺内町)
 5月18日(月)
 世間は新型インフルエンザで大騒ぎ。大阪府と兵庫県で感染者が大量に出て、そちら方面ではエラいことになっていたらしい。私も、新型インフルエンザを食い止めるために何かしなくてはならないと思いだした。しかし、私は医者でも薬学者でもない。歴史学の研究者としての私にできることは何か? そう、これは「神頼み」しかない! 古来から、疫病の発生に際してはさまざまな祭祀がおこなわれた。特に、京の都に侵入しようとする疫神を退けることを目的として、四角四堺祭、宮城四隅疫神祭、道饗祭など、いろんな祭りが実施されたのである。
 さいわい、月曜日の大学院の授業は今出川キャンパスである。そこで、授業を振り替えて、外にでかけることにした。同志社女子大学今出川キャンパスの東北側の街中に、出雲路幸神社という小さな小さな神社がある。「こうじんじゃ」とか「さいわいじんじゃ」と読んではならない。「いずもじ・さいのかみのやしろ」と読む。つまり、塞神・道祖神(日本神話の猿田彦命と同一視される)を祭る神社なのである。そして、道祖神は道路の神、性愛の神であるとともに、境界の神である。つまり、現世と異界との境界を守護することにより、現世に悪神が入ってくるのを防ぐ役割をもっている。この神社は「皇城表鬼門守護」を名乗るだけあって、平安京の東北の鬼門を押さえることによって悪神(特に疫神)の侵入を防いでいるのである。
 現に、この境内には男性シンボルになぞらえた道祖神の神石や、疫神社の小さな祠が祀られている(写真左)。私は、この神社は平安時代に平安京の東北隅でおこなわれた「四角四堺祭」の祭場が常設の神社に転化したものだと考えている。この仮説があたっているならば、この神社は平安時代の境界祭祀の痕跡を今に伝える重要な史跡だということになるのである。ともあれ、ここにお詣りしておけば大丈夫、ということで、大学院生の諸君とともに手を合わせる。
 その後、やっぱり京都にも疫病が入ってきて、ウチの大学も5/22〜5/27が休講になってしまった。しかし、京都の感染者は大阪・兵庫に比べると二桁低く、数人にとどまっているから、おそらくは私たちのお詣りの霊験があったのであろう(?)

 5月24日(日)
 大阪府貝塚市に出かける。実は、ここは私の母の故郷。今も、現当主である母の弟を始め、母の一族の多くはここに住んでいる。この日は先代の当主で私からすると大伯父にあたる人の17回忌の法事。ひさしぶりの貝塚訪問である。
 本当ならば、貝塚の中心である貝塚御坊・願泉寺で法事をするはずだった。この願泉寺、大坂本願寺(「石山本願寺」)を退去して紀州の鷺森本願寺に移った顕如上人が、さらに大坂・天満本願寺に移るまでの2年間、居住していた「貝塚本願寺」なのである。
 願泉寺のことを、母の親戚はみんな「ぼっかんさん」と呼ぶ。最初はいったい何のことなのか、さっぱりわからなかった。実はこれ、天文年間(1550頃)にこの寺を創建した初代住職・卜半斎了珍<ぼくはんさい・りょうちん>に由来する呼称なのであり、こんなところに中世が脈々と生き続けているのである! 現在、願泉寺は本堂が大修理中となっている。結局、家に願泉寺の御住職(「御前様<ごぜんさま>」)をお迎えしての法要になる。御前様というからどんな老僧がおいでになるのかと思っていたが、若い若い御方で、ちょっとびっくり。法事が終わった後は、母の従兄弟に案内してもらって、貝塚寺内町を散策(写真右)。

2009.05.23

山田邦和『京都都市史の研究』刊行、の巻

Kyotohon
 懸案になっておりました、私の論文集『京都都市史の研究』が、とうとう完成いたしました(o^-^o)。何年も前から出す出すと言っていたのが遅れに遅れ、やっと今日の仕儀にあいなりました。第1論文集であり学位論文であった『須恵器生産の研究』を出したのが1998年だから、それから11年たってしまい、「10年に一冊の学術書公刊」という目標からはちょっと外れてしまった。
 最初はA5版函無しの予定だったのであるが、吉川弘文館の編集者のみなさんががんばってくれて、B5版函入、ハードカバー(クロス装)ということにしていただいた。なんでも、このクロス装も最高品質のものを選んでいただいたという。ありがたい限りである。頁数は索引を入れて312頁。ホントはもっと入れたい論文もあったが、これ以上分厚くすると定価がバカ高くなるから、それは次の機会へとまわすことにした。定価は9,500円+消費税。これも、最初は1万円台後半になるとの見込みであったので、ちょっと怯えていた。それが、これも出版社の御努力によって税込みで1万円を切る価格に押さえていただいた。おそらく、こんな固い内容の学術書でこの値段は破格だと思う。とにかく、これだけの「厚遇」をいただいた吉川弘文館にはいくら感謝してもしすぎることはない。
 できあがりを手にしていささか感動したのは、紙の質と印刷の良さ。出版社の中には、費用的な問題で技術の低い印刷所を使ったり、また、もともと図面を多用する本に慣れていなかったりして、図面や写真の仕上がりに問題を残すような本を作るところがある。しかし、歴史書に定評のある吉川弘文館は、さすが、というべきであろう。ひょっとすると私の原図よりも綺麗(?)だと思われるくらい、シャープな図に仕上がっている。これはありがたい。本書には、平安京復元図、平安宮復元図、平安京邸宅配置図、唐洛陽城復元図、唐長安城復元図のような、基本中の基本というべき図面をできるだけたくさん収録した。これなら、私自身が使い回しするのにも便利だし、他の研究者の皆さんにもいろいろとお役立ていただくことができるのではなかろうか。
 本書には、平安遷都1200年記念の1994年から、一昨年の2007年までの13年間に書いた論文を収録した。私としては、35歳から48歳までの時期の研究成果だということになる。研究者としての私の人生にとって、これはやはり非常に大きな意味を持っていた時期だと思う。

 もちろん、私の論文のすべてをこの書に収録できたわけではない。いくつかは、頁数の都合で割愛せざるをえなかった。たとえば、平安京・京都の都市民の信仰をあつかった「古代社会の信仰―古代都京の信仰―」や「鴨川の治水神」。六波羅・法住寺殿についての「六波羅・法住寺殿復元試案の作成」。中世の京都の衛星都市である嵯峨についての「院政王権都市嵯峨の成立と展開」「中世都市嵯峨の変遷」。豊臣秀吉の伏見城下町を扱った「伏見城とその城下町の復元」。これらも、私の京都都市史研究の中では必要欠くべかざるものである。さらに、平清盛の福原を論じた「『福原京』に関する都城史的考察」「『福原京』の都市構造」「福原遷都の混迷と挫折」も、私の中では大きな意味を持っている。しかし、欲を言ったらきりがないのであって、それらはまた改めて、別の一書にまとめることにしたいと思っている。

 ともあれ、自分の研究人生の大きな一里塚を築くことができた。吉川弘文館さま、ありがとうございましたm(_ _)m。そして、この本がきちんと売れますように・・・


 目 次
第1部 平安京の都市構造
 第1章 平安京研究の現状
 第2章 桓武朝における楼閣附設建築
 第3章 「前期平安京」の復元
第2部 中世都市京都の成立と展開
 第1章 中世京都都市史研究の課題
 第2章 中世都市京都の成立
 第3章 中世都市京都の変容
 第4章 戦国期京都の復元
第3部 平安京・京都の葬送空間
 第1章 平安京の葬送地
 第2章 京都の都市空間と墓地
 第3章 考古学からみた近世京都の墓地
あとがき
索引

【書いたもの】
◎山田邦和『京都都市史の研究』(東京、吉川弘文館、2009年6月)。

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陵墓シンポジウム、の巻

5月17日(日)
 既報の通り、陵墓関係16学・協会の主催によるシンポジウム「陵墓公開運動の30年-佐紀陵山古墳・伏見城の報告とともに-」がおこなわれた。広報にまで手が回らなかったこともあってどれくらいの人が来ていただけるか不安だったが、200人弱ははいっていただけたと思う。まずまず、成功である。
 私の担当は、「伏見城跡(桃山陵墓地)の立ち入り調査」。仁木宏さん、松尾信裕さん、中井均さんとの共同報告であるが、みなさんとディスカッションの上で、私が代表してしゃべることになった。いささか緊張。でも、パワーポイントのおかげで発表時間を守ることもできたし、まずまず好評だったのではなかろうか。
 驚いたのは、会場の方々に質問用紙を書いてもらうと、深い知識にもとづく的確な質問が頻出したこと。聞いてみると、いずれも伏見の地元の市民の方々だという。伏見について、そこに住んでおられる人の中にはこんなにも伏見を愛し、伏見の歴史や史跡に関心を持たれる方がおられるんだな。すばらしいことである。私たち研究者も、マスコミも、行政も、こうした熱意ある市民の期待に応える責務がある、つくづくそう実感させられた。
 終了後は、京都駅南側の、知る人ぞ知る豚のホルモン焼の専門店水月亭で打ち上げの宴会。私も、この店は久しぶりである。どこか変わったかな?と思ったが、幸い、全然昔と変わっていなかった。ここは、巷にあふれるお上品な焼肉屋とはまったく違う。狭い店中にもうもうと煙をたてながらの焼肉である。ホルモンも、いったいどこの部分なのかさっぱりわからないものが出てくるが、しかしそれがいずれも美味いのである(しかし・・・ ホルモンにビール。通風にはもっとも良くない組み合わせだな・・・ また叱られるぞ・・・)。

【しゃべったこと】
○山田邦和・仁木宏・松尾信裕・中井均「伏見城跡(桃山御陵地)の立ち入り調査」(陵墓関係16学・協会〈主催〉シンポジウム「陵墓公開運動の30年-佐紀陵山古墳・伏見城の報告とともに-」、於キャンパスプラザ京都、2009年5月17日)

2009.05.17

フランス版『京都歴史地図』刊行、の巻

Kyotoatlas(右は、図版の一部。私の原図になる「戦国期京都の酒屋分布図」)
 先日、フランスから国際郵便で重たい重たい荷物が届いた。さっそくにあけてみると、巨大でカラフルな豪華本が出てきた。出版されたばかりの、FIÉVÉ, Nicolas, éditeur"ATLAS HISTORIQUE DE KYOTO, Analyse spatiale des systèmes de mémoire d'une ville, de son architecture et de son paysage urbain"(ニコラ・フィエヴェ編『京都歴史地図—都市の記憶システムの空間的分析と、その建築と都市景観—』)が届いたのであるヽ(´▽`)/。待望の刊行である。しかし、こんなに大きい本になるとは思ってもいなかった。日本風にいえばB4版くらいの大きさで、総ページ数は528ページ、厚さは4.5cmという巨大さなのである。重さは4.4kg(!)だというから、変な姿勢で持ち上げたらギックリ腰にもなりかねない。
 さっそくあけてみた。この本のうち、下記の5章が私の執筆分である(ホントはもう1章書いたのであるが、他の人の執筆分と内容が重複したようで、やむなくカットとなった)。
L'urbanisation de Shirakawa et de Toba à la fin du XIe siècle(11世紀末の白河と鳥羽の都市化), pp.113-116.
Kyôto à l'époque des luttes entre les provinces (1467-1573)(戦国期〈1467〜1573年〉の京都), pp.145-150.
Les châteaux forts et les bastions médiévaux autour de Kyôto(京都をめぐる中世城郭), pp.157-161.
La résidence de Jurakudai et le château de Fushimi(聚楽第と伏見城), pp.167-174.
Le château de Nijô, le palais impérial et le quartier des nobles de Cour(二条城と内裏・公家町), pp.175-182.
Les groupes de quartiers à l'époque d'Edo(江戸時代の京の町組), pp.201-206.

 この本、かなりの難産だったようで、私が原稿を執筆したのはもう10年くらい前になる。京都大学の高橋康夫先生からお話をいただいて、先生のお手伝いという意味合いであった。高橋先生によると、コレージュ・ド・フランス(国立フランス学院)のニコラ・フィエヴェ博士がユネスコからフランス語の『京都歴史地図』を刊行したいという計画を持っておられる、ということで、そこに参加させていただくことになったのである。原稿を書くだけでなく、図面の算段までしなくてはならないので、かなりの大仕事となった。原稿締め切りからだいぶ遅れてしまって、フィエヴェ先生をやきもきさせてしまう仕儀になった(その節はすみませんでした・・・m(_ _)m)。これがご縁で、2002年には1年間京都に滞在して研究されるフィエヴェ博士と初めてお会いすることができた。流暢な日本語を話されるので、ホッと安心した。
 そうして原稿は出したのだが、フランス語への翻訳と図面の製図、さらにはユネスコからの資金の獲得などに多大の労力がかかったらしく、ようやく今日、それが刊行された。おそらく、ここまでこぎつけたフィエヴェ先生の奮闘は大変だっただろう。

 できあがってみると、これは凄い。なんといってもオールカラーというのは迫力がある。なによりも、単なる地図集ではなく、京都の都市史の専門書としても充分通用する内容である。さらに、京都の史跡のカラー写真も豊富だから、ヨーロッパの人々に京都の魅力を紹介することにも一役買うことができるであろう。こんな充実した京都歴史地図集は、日本ですら出版されてはいない。むしろ、この本を補訂してフランス語から日本語に逆翻訳して出版しても、充分意義のあるものになるだろう。おそらく、今後かなりの永い期間にわたって、ヨーロッパにおける日本研究・京都研究の基本書として使い続けられることは確実だろう。そんな重要な書物の製作に参画させてもらった幸福に、感謝々々。
 ただ、個人的にただひとつ悲しいのは、私はフランス語は皆目わからず、この本はまったく読めない、ということ(;ω;)。なにせ、自分で書いた部分を見ても、固有名詞の単語をたどるしかできないのだから、情けない限りである。
 この本の刊行を契機として、ヨーロッパでも京都都市史研究の重要性が広まりますように・・・

書誌を記載しておきます。アマゾンで見ると、定価79ユーロだそうです。つまり日本円に直すと1万円くらい。これは安いといわねばならないでしょうね。お買い得です。もちろんフランス語が読める人に限ってのことですが・・・

"ATLAS HISTORIQUE DE KYOTO, Analyse spatiale des systèmes de mémoire d'une ville, de son architecture et de son paysage urbain"
éditeur : Nicolas FIÉVÉ
Auteur : Paul AKAMATSU, FUJII Tadashi, Francine HÉRAIL, HIRAO Kazuhiro, HONGÔ Keiko, HOSOKAWA Takatoshi, ITÔ Sadahiko, KATÔ Kuniko, Nathalie KOUAMÉ, KÔZAI Katsuhiko, KUMAZAWA Eiji, François MACÉ, Marie MAURIN, Joan PIGGOTT, Philippe PELLETIER, SENDAI Shô'ichirô, TAKAHASHI Yasuo, Corinne TIRY, Charlotte von VERSCHUER, Michel WASSERMAN, YAMADA Kunikazu, YAMASAKI Masafumi
Paru le : 25/11/2008
UNESCO
ISBN-10: 2859174869
ISBN-13: 978-2859174866

【書いたもの】
◎YAMADA Kunikazu,“L'urbanisation de Shirakawa et de Toba à la fin du XIe siècle”,“Kyôto à l'époque des luttes entre les provinces (1467-1573)”,“Les châteaux forts et les bastions médiévaux autour de Kyôto”,“La résidence de Jurakudai et le château de Fushimi”,“Le château de Nijô, le palais impérial et le quartier des nobles de Cour”,“Les groupes de quartiers à l'époque d'Edo”, in Nicolas FIÉVÉ ed., ATLAS HISTORIQUE DE KYOTO, Analyse spatiale des systèmes de mémoire d'une ville, de son architecture et de son paysage urbain (Paris, 2008), pp.113-116,145-150,157-161,167-174,175-182,201-206.

2009.05.15

東京極春日で賀茂祭を見る、の巻

 Aoimaturi〈←今、平安京から山城国に踏み出した斎王代。後ろの森が京都御苑〉
 5月15日(金)
 晴れ。葵祭(賀茂祭)の日。
 京都では毎日のようにどこかでお祭りがおこなわれているが、実際に見ることができるものは数少ない。こちとらも一応は本務を持っているのであるし、それを投げ出しての祭見物というわけにはいかないのである。それが、今日の午前中は仕事がはいっていない。幸い、天気も良いし、葵祭の見物ということにしよう。
 実は、今回はひとつもくろみがあった。ぜひ、丸太町通寺町の角(つまり、京都御苑の東南角)で葵祭の行列を見物させてもらおう、と決めていたのである。一昨年、ひさしぶりに葵祭を見に行った際に、おもしろいことに気がついた。行列の先頭にはまず2騎の検非違使(検非違使志<けびいしのさかん>・検非違使尉<けびいしのじょう>)が先導し、そのあとに「山城使<やましろつかい>」(山城国司の2等官である山城介)が続くのである。つまり、葵祭の行列が出発する御所は平安京の中であるから、その警護は平安京の「首都警察」である検非違使(ちなみに、拙宅は検非違使庁の庁舎跡に位置する)の管轄である。しかし、目的地である賀茂社(上賀茂神社・下鴨神社〈正式には賀茂別雷神社・賀茂御租神社〉)は平安京の外側の山城国に位置するから、その警備の責任は検非違使から離れて山城国司に移ることになる。さすが葵祭。こういうところの伝統はキッチリと引き継がれているのである。
 と、いうことで、出かけた丸太町通寺町の角。丸太町通は平安京の春日小路、寺町通はほぼ平安京の東京極大路にあたっているから、私の立っているのは東京極春日ということになる。そして、東京極大路は平安京の東端の道路であるから、ここが平安京と山城国の境界地点ということになる。アッ、検非違使がこの境界ラインを越えた。ここまでどうもご苦労様。次は山城介。ここからはあなたの担当ですよ。どうかしっかりとお役目を果たしてね。飾馬に堂々とまたがる四位近衛中将の勅使が通り過ぎ、そして今、祭の主役である斎王代が平安京から山城国に入った・・・
 と、こんなことを考えながら祭の行列を眺めていたのは、多くの観客の中でもたぶん私ひとりじゃなかっただろうか。ホント、物好きなことである。

 午後は、古代学協会で「古代文化」編集委員会。帰りにレコード屋さんによって、西本智実さん指揮のブダペスト・フィルハーモニー管弦楽団の演奏による、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」他のDVDを購入。

2009.05.13

阿波勝瑞城館を学ぶ、の巻

Syouzui5月9日(土)・10日(日)
 ひさしぶりに、「1617会」の例会への出席。なんか、最近は日程があわずにご無沙汰していたからな・・・ 今回のテーマは、徳島県藍住町の勝瑞城館(写真上)。すなわち、室町時代の阿波国守護・細川氏と、戦国期に阿波の実権を握った三好氏の居館、つまり阿波国の守護所の遺跡である。と、いうと、私がさもこの遺跡に詳しそうであるが、実はこれまで名前だけしか知っておらず、場所もよく把握していなかった。お恥ずかしや・・・ ともあれ、せっかくの機会だから、勉強させていただきに行くことにした。
 京都駅から高速バスで徳島へ。渋滞を心配したが、なんとか昼前には到着。駅前でうろうろしていると、花園大学の卒業生のM君とH君にバッタリ出会う。M君は徳島県内の自治体、H君は島根県内の自治体において、それぞれ考古学の道で頑張っている。1617会に行く途中というが、思いがけないところで出会った奇遇を喜ぶ。昼飯は徳島駅前のセルフうどんの店。うどんというと讃岐ばかりが名高いが、阿波のうどんも讃岐のそれに比肩する美味しさだと思う。
 9日は、勝瑞城館跡とその周辺の城下町推定地の現地見学会。徳島県教育委員会のIさんと、地元の藍住町教育委員会のSさんとが懇切丁寧な案内をしてくださる。水濠が残されている(写真上)勝瑞城跡は、勝瑞城館の最末期、三好氏統治下の築造であり、本来の勝瑞城館はもっともっと大きかったのだという。発掘地は更地になっているが、もうすでに買収が終わっており、数年後には見事な史跡公園に生まれ変わる予定だという。うらやましい限りであるとともに、藍住町教育委員会と徳島県教育委員会の遺跡保存にかける熱意に、感動。
 城下町推定地の一角には、ほぼ一町規模(120m四方)の細川氏時代の守護所が推定されている。「上杉本洛中洛外図屏風」に描かれた、京都上京の「細川殿」や「三好筑前」邸の姿を思い出しながら歩くと、関心はますます高まってくる。思いがけない出会いだったのは、その近くにある「南陽神社(旧・日枝神社)」(写真下)。なんと! 承久の乱の責を負って四国(当初は土佐、後に阿波)に流された土御門上皇の行宮跡という伝説が残っているという。同上皇の配流地の伝承地はもっと西方(現・阿波市土成町)であることは知っていたが、こんなところにも伝説が残っているとは知らなかった。なんか、嬉しかったぞ。
 楽しく学んだ後は、同町内の旅館にはいって、例によっての大宴会。宿泊だということで気が大きくなったのか、いやあ、呑んだ呑んだ(*^.^*)。二次会の会場から宿屋まで帰ってこれたのが奇跡のようである。
 2日目は、藍住町の大きな役場の上にあるホールで、研究会。勝瑞城館の最新成果のエッセンスを学ばせてもらう。特に、山村亜希さんのいつもながらの緻密な歴史地理学的考察、仁木宏さんのスケールの大きな比較検討に、聞き惚れる。
 帰りの時間が心配だったが、M君の御厚意で徳島駅まで送ってもらうことができた。そうすると逆に少し時間ができたので、今度は徳島ラーメンを味わってから、帰途につく。

2009.05.02

シンポジウム「陵墓公開運動の30年」予告、の巻

425月1日(金)
 来る5月17日、シンポジウム「陵墓公開運動の30年」がおこなわれるので、そのための準備会。談論風発の中で、伏見城跡の立ち入りの成果をまとめていく。なるほど。けっこういろんなことがわかってきたぞ。あんな短時間の立ち入りだけでも、こんなにたくさんの問題点を炙り出すことができるのだから、やっぱり現地を見るということは大事だということを実感する。

と、いうことで、下記のとおりシンポジウムが開催されます。せっかくの成果、できるだけ広く公開したいので、どうかふるってご参加くださいませm(_ _)m。事前申し込み不要ですが、先着300名です。
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シンポジウム「陵墓公開運動の30年-佐紀陵山古墳・伏見城の報告とともに-」

1979年に白髪山古墳が限定公開されてから今年で30年。この節目の年に、本年2月の立ち入りの成果紹介を行いつつ、「陵墓」とその公開のあり方をあらためて考えます。

日時:5月17日(日) 13:00~17:30
場所:キャンパスプラザ京都(JR京都駅下車、西北へ徒歩3分)5階第1講義室(事前申し込み不要、ただし定員は当日先着300名)
資料代:500円
主催:陵墓関係16学・協会(大阪歴史学会、京都民科歴史部会、考古学研究会、古代学協会、古代学研究会、史学会、地方史研究協議会、奈良歴史研究会、日本考古学協会、日本史研究会、日本歴史学協会、文化財保存全国協議会、歴史科学協議会、歴史学会、歴史学研究会、歴史教育者協議会)

主催者挨拶:福永伸哉(日本考古学協会)
陵墓公開を求めて30年:宮川徏(文化財保存全国協議会)
佐紀陵山古墳の報告:岸本直文(大阪歴史学会)
伏見城跡(桃山御陵地)の立ち入り調査:山田邦和(古代学協会)、仁木宏(大阪歴史学会)、松尾信裕(日本歴史学協会)
陵墓公開運動のこれから:後藤真(日本史研究会)
ディスカッション:司会:谷口榮(地方史研究協議会)、森岡秀人(歴史科学協議会)
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2009.04.26

長岡京の宴会、の巻

46345901154月19日(日)
 京都駅前の居酒屋「まそほ 京都店」で、宴会。
 国立歴史民俗博物館の共同研究「律令国家転換期の王権と都市」と、それに引き続いての同博物館企画展「長岡京遷都—桓武と激動の時代—」では、昨年までの6年間、本当に楽しい時間を過ごさせてもらった。さらに、今年一月にはこの展覧会にともなう「歴博フォーラム」、つまり、講演会とシンポジウムをまとめた、国立歴史民俗博物館編『桓武と激動の長岡京時代』(「歴博フォーラム」、東京、山川出版社、2009年1月)がめでたく刊行され、大団円と相成ったのである。それを祝って、みんなで打ち上げ、ということになった。関東からはこの大事業の推進力であった、同博物館のNA・MJ両氏がわざわざお越しいただく。と、いうことで、この店名物の、熊野灘の魚の一夜干しを炭火でじっくりと焼きながらの酒杯、となる。
 『桓武と激動の長岡京時代』という本、自画自賛してもなんだが、なかなかの良い本である。謎が多かった長岡京時代について、コンパクトかつわかりやすくまとめられている。この中で私は、「長岡京・平安京と陵墓」を書かせていただくとともに、「座談会 長岡京から平安京へ—光仁・桓武・嵯峨朝の世相—」でも発言させてもらった。
 この本は一般書であって決して専門論文というわけではないが、よく読んでいただくと、あっちこっちに注目される提言が含まれている。私のかかわりでいうと、従来の通説では「陵寺<りょうじ>」(陵墓に付属する寺院)は平安時代前期の仁明天皇陵に始まるということになっていたが、実はその源流は平安時代初期の悲運の皇族の鎮魂というところにある、ということを指摘した。
 「なぜ長岡京は廃都となったのか? なぜ10年しか保たなかったのか?」という疑問は、長岡京時代を考える上での最大の問題である。これに対しては、怨霊説、洪水説などさまざまな回答案がでているが、決定的なものはなかった。ところが! これについて、座談会の中の132頁で私は結構良い事(?)を言っている(^Д^)。つまり、洪水説を再評価しよう、ということである。そういうと、考古学的にみると長岡京の洪水はたいしたことなかった、洪水説なんてのはナンセンスだ、といわれかねないのであるが、私は次のように考える。「案外洪水説というのは再評価していいではないかと思いました。桓武は自分の権威の基盤を天命においている。洪水なんかが起きると、どれくらいの被害があったのかは別にして、天が桓武を見放したというような考え方がなされる。そうすると、すべてを一新して天命を取り戻そうとする試みとして、遷都が構想されることになる」というわけである。「長岡京の権威」である山中章博士がどう評価してくださるかはわからないが、私は現段階では、この方向で行って間違ってないのではないか、と思っている。
 二次会は、山中博士に引っ張られて、めでたいことがあったR大学のKT氏ととともに、新都ホテルのバーへ。完全に酔いつぶれて、ほとんど意識不明・・・

■京都新聞出版センター編、井上由理子・太田垣實・河村吉宏・熊谷栄三郎・黒田正子・高野澄・中村武生・中村勝・永守淳爾・西村彰朗・前川佳代・山田邦和執筆『第5回京都検定 問題と解説』(京都、京都新聞出版センター、2009年4月)(分担頁不記載)
□山田邦和「歴史探検—京のみやこ」(平成21年度「電友会」〈京都市立洛陽工業高校電気科同窓会〉総会、於京都タワーホテル、2009年4月18日)

2009.04.14

工藤静香、中島みゆきを歌う「MY PRECIOUS -Shizuka sings Miyuki-」、の巻

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2009年4月14日(火)
(←アルバムのデザインも実にうつくしい)

 本日は、工藤静香さんの39回目の御誕生日。おめでとうございますm(_ _)m。

 昨年は、静香ファンにとってまさに特別な年であった。静香さんが久しぶりに中島みゆきさんから楽曲の提供をうけた新曲「NIGHT WING/雪傘」が発売されたし、その直前には静香さんがみゆきさんの名曲をカバーしたアルバム「MY PRECIOUS -Shizuka sings Miyuki-」も公表されたからである。

 静香(以下、すべて敬称略)は以前からずっと、「中島みゆきさんほど憧れる人はいない」と公言しているし、中島みゆきもその想いに応えるように、静香に大量の詩・曲を提供している。なにせ、中島みゆきはこれまでに46組の歌手に合計98本の曲や詞を提供しているが、静香への提供曲・詞は実に2割強にあたる22本を占めており、この中ではダントツの第一位なのである。中島みゆきの曲の名表現者として有名な研ナオコへの提供曲でさえ15本であり、第三位の柏原芳恵は4本にとどまっているから、静香への22本というのは異常ともいうべき高率なのである。

 このCDの発売と同時にNHKは、『SONGS』工藤静香特集(2008年11月12日)を放送した。この中で印象深かったのは、静香へ向けた中島みゆき本人のヴォイス・メッセージが流されたことである。そこでみゆきは「あなた(静香)に巡り会えたことが、私にとっての宝物です」という温かい言葉を贈った。この言葉を聞いたとたん、静香はハッと息を呑んだ。そして、その大きな瞳からは大粒の嬉し涙が溢れ出てきたのである。

 さて、その「MY PRECIOUS -Shizuka sings Miyuki-」。静香が長年のみゆきへの想いのたけを全て注ぎ込んだアルバムとなった。正直言って、聞く前には、期待半分不安半分だった。中島みゆきの曲はだいたいが音域がものすごく広く、またひとつひとつのフレーズが綿々と長いため、かなりの難曲が多いのである。いくら熱烈な想いがあるとはいえ、静香がこうした難曲を唄い切ることができるのかどうか、ファンとしての贔屓目から見てもいささか不安だったのである。

 しかし! 出来上がりを聞いてみて、まさに驚愕した。これは凄い! 静香がこれまでに発表した29点にのぼるアルバムの中でもベストであるといってまちがいない。昨年10月の発売からこのかた、数えきれないほどの回数、聞いてしまったぞ(註1)

 その中でも最も感動的なのは、「命の別名」である。この曲こそ、クライマックスで低域から高域へと駆け上がる難曲中の難曲なのである。中島みゆきの自演ですら、このクライマックスの部分はかなり苦しいのであるから、ましてや静香がこれを歌いこなせるかどうか、聞く前には疑問に思っていた。確かに、中盤の低域部にはいささか危なっかしい部分もあった。しかし、後半部の完成度はどうだ。静香の歌声は、濁りもためらいも憂いもなく、天空を目指して真っすぐに羽ばたいていく。その美しさはまったく筆舌につくしがたい。これは、歌手としての静香の円熟を心から感じさせる傑作となったのである。

 そもそも、中島みゆきは自分の曲を歌うときには、その圧倒的な声量にモノをいわせて、どの曲もドラマティックに盛り上げていく。それに対して、このアルバムでの静香は、みゆきの自演とは正反対の透明で涼やかな仕上がりを目指した。空と君のあいだに」「銀の龍の背に乗って」も良い出来であるが、「見返り美人」の爽やかさはどうだ。中島みゆきの自演(註2)が、地下の底から高温のマグマが恐るべき勢いで噴出するような「熱さ」と「凄まじさ」を感じさせたのに対して、静香版は人里離れた山奥からサラサラと流れ出すうつくしい泉水のような清らかさを表現した。みゆき自演版とはまったく対極の解釈であるが、それが見事にツボにはまっているのである。もちろん、どんな解釈にも十全に反応し切る、曲自体の完成度の高さがあってのことであるが。

 こうした解釈の極地を示したのは、「土用波」であろう。この曲は今まで、圧倒的な迫力でグイグイとせまってくるみゆき自演版(註3)で聞いていたから、この静香版は新鮮きわまりなかった。いやぁ、あの「土用波」が、こんなに甘くこんなに切なく響くとは、今の今まで想像もできなかったぞ。みゆき版が文字通り、晩夏に襲来する怒濤の荒波だとすると、静香版は、人っ子一人いなくなった海岸で静かに眺める初秋のさざ波に例えられるかもしれない。アーティストとしての静香の表現力に、脱帽。

 「やまねこ」もすばらしい。静香は、1986年みゆき自演版に比べるとかなりゆっくりとしたテンポをとり、じっくりと唄い上げる。ふつうだったらバックのドラムセットが曲全体を煽りに煽るところなのであるが、静香版のこの曲ではドラムはワザと控えめのイン・テンポをとり、サビの効いた静香の歌声をガッシリと支えて、陰鬱きわまりない雰囲気を醸し出している。しかしそれは欠点ではない。この「やまねこ」という曲自体がそもそも実に暗澹たる内容なのであるから、静香版はこの曲の本来の魅力を十全に表現したといわねばならないのである。

 そして、「宙船<そらふね>」。みゆきがTOKIOに提供した名曲である。この曲は、みゆき自身の2006年セルフカバーのスタジオ録音もすばらしいが、2007年コンサートツアー・ライヴみゆきと宮下文一(註4)が共演して歌い上げた超名演がある。と、いうよりも、この2007年のみゆき+宮下版は、人間技を超えてほとんど「神」の領域に達した史上空前の圧倒的な仕上がりになっているのである。したがって、ことこの曲に関していうならば、静香といえどもいささか分が悪い。しかし、彼女自身が「(宙船には)グッときた」と語っている(NHK『SONGS』2008年11月12日放送)ように、静香はこの曲が大好きなんだな。その大好きな名曲に対して小細工を弄するのは、決して彼女の潔しとするところではなかったのだろう。そこで彼女は、「静香節」と呼ばれるドスの効いたダイナミックな表現力を生かしたまま、正面からこの曲に堂々と立ち向かうことを選んだ。そこで現れたのはみゆき版とは別の意味で見事な「宙船」の姿なのであり、2007年みゆき+宮下版には及ばないにしても、2006年みゆきセルフカバー版に肉薄する名演になったのである。

 最後に収録された「激情」「雪・月・花」「Clavis-鍵-」はボーナス・トラックで、いずれもかつて中島みゆきが静香に提供したオリジナル曲である。これを聞くと、中島みゆきという人が他の歌手に楽曲を提供する時に、その歌手の表現力に最も合った曲を作り出していることがよくわかる。ただ、これらは今回の新録音でなく、以前の録音が使われたのはちょっと惜しい。今の静香ならば「激情」「雪・月・花」をどのように表現するか、聞いてみたかった。「Clavis-鍵-」は録音が新しいのでそんな不満はないし、そもそもこれは、静香の全曲目の中で「Blue Rose」と双璧をなす名曲なのであるから、何度聞いても飽きる事がない。

 これだけの凄いアルバム、静香ファン、みゆきファンのみならず、ぜひ、たくさんの人たちに聞いてほしいものである。

(註1)今、iTunesを確認したら、「命の別名」だけで再生回数80を記録していた。ということは、この曲だけでもあちこちで機会あるごとに聞いているから、それをすべてカウントすると300回は優に超えることになるだろうな。我ながら呆れてしまった・・・(=´Д`=)ゞ
(註2)中島みゆきの「見返り美人」には、1986年オリジナル・ヴァージョンと、1991年セカンド・ヴァージョンがあり、両者がまったく正反対の解釈を採っていることが興味深い。私自身の趣味からいうと、1986年オリジナルの方が好き。
(註3)「土用波」は、1988年スタジオ録音がオリジナルであるが、それ以上に2004年セルフ・カバー・ヴァージョンが超名演。さらに、その2004年版をすら突き抜けた凄い仕上がりになったのが、2005年のロス・アンジェルスでのスタジオ・ライヴ映像である。
(註4)宮下文一は、いつもはみゆきのバックコーラスを務めている歌手。「宙船」をTOKIOに提供した時も、仮歌を担当したのがこの宮下だという。余談だが、こんな圧倒的な実力の持主 ——男性歌唱による「宙船」としては、TOKIOを遥かに凌駕している—— が普段はバックコーラスに入ってるんだから、「みゆき一座」の凄まじさはまさに鳥肌モノである。

2009.04.13

授業開始、の巻

P1110681(4/12、またまた神戸でペキニーズ・オフ。左はマック、右は親戚犬の大ちゃん)
新年度にはいって、今日から授業。

今年度春学期の授業(特記なきものは、同志社女子大学現代社会学部)
〔月〕3講時 同志社大学大学院文学研究科「考古学特講I」
   4講時 同志社女子大学大学院文学研究科「考古学特論」
   7講時 同志社大学「日本史(1)-101」
〔火〕2講時 「卒業研究」(4回生ゼミ)
   4講時 「博物館学各論」
〔水〕2講時 「基礎演習」(1回生ゼミ)
   3講時 「専門基礎演習」(2回生ゼミ)
〔木〕2講時 「応用演習」(3回生ゼミ)
   4講時 「考古学I」

 昨年は春学期も「博物館概論」があったが、今年からこれは秋学期になった。追加は「博物館学各論」。これは私もまったく初めての担当なので、授業の準備にオオワラワである。それと、今年から変更になったのは、同志社女子大学で、従来の学芸学部英語英文学科・日本語日本文学科が表象文化学部に再編され、今出川キャンパスに移転したこと。これにともない、大学院文学研究科も今出川キャンパスに移った。これが何の関係があるかというと、私も今出川キャンパスで授業を担当せねばならない、ということである。それから、同志社大学大学院の「考古学特講I」は、同大学のMK教授がサバティカルとなるので、その代役である。調整したあげく、月曜日は「今出川の日」とすることにした。同志社女子大学と同志社大学の今出川キャンパスをいったりきたりすることになる。お隣同士とはいえ、移動は小走りだな・・
 
【書いたもの】
◎山田邦和「角田文衞博士の古代学」(『古代文化』第60巻第4号掲載、京都、古代学協会、2009年3月)、5〜7頁。
◎山田邦和「求めよ、さらば与えられん」(『Chapel』第14号掲載、京都・京田辺、同志社女子大学宗教部、2009年3月)、17〜19頁。
◎山田邦和「平安京と京都」(地球の歩き方MOOK『京都の歩き方』所収、東京、ダイヤモンド・ビッグ社、2009年3月)、134・135頁。
◎山田邦和監修、黒澤達矢イラスト「鳥瞰:平安京」(歴史群像シリーズ特別編集『最新古代史論』所収、東京、学習研究社、2009年4月)、13頁。
◎山田邦和「京都で学ぶ歴史」(『Vine』Vol.50掲載、〈京田辺〉、同志社女子大学、2009年4月)、14・15頁。
◎山田邦和「最終回 平安京創生館クイズ」(『まなびすと』Vol.8掲載、〈京都〉、〈京都市生涯学習総合センター〉、2009年4月)、17頁。
【インタビュー記事】
○「京都・洛中 平安京へ旅しよう—同志社女子大学教授・山田邦和先生と歩く—」(地球の歩き方MOOK『京都の歩き方』所収、東京、ダイヤモンド・ビッグ社、2009年3月)20・21頁
【しゃべったこと】
□「伏見城—天下人終焉の地—」(「楽々キャンパス」、於同志社大学今出川キャンパス、2009年3月10日)
□「京都を愛する」(京都市職員研修センター 平成21年度「京都市職員研修」、於京都会館会議場、2009年4月1日)
□「藤原種継暗殺事件—長岡京から平安京へ—」(ラボール学園〈京都勤労者学園〉「日本史講座—検証・京の事件簿(古代・中世)—」、於同学園、2009年4月6日)

2009.03.31

祖父50回忌と吉田泉殿、の巻

P1110536(滞英中の祖父。なかなかにハイカラである(o^-^o))
3月8日(土)
 わが山田家の菩提寺である蹴上の安養寺で、祖父・山田萬吾郎の50回忌の法事。通例として、50回忌というのはむしろめでたいことだとされている。祖父は岐阜の田舎の農家の次男坊で、若い時に神戸に出て働き、そこでたまたま来日中のイギリスの貴族に目をかけてもらった。そのお殿様が帰国する時に「一緒にイギリスに来い」と誘いを受け、イギリスに渡った。これ、明治後半の話だから、当時としてはかなり珍しい事例だったはずである。わが家には家宝のひとつとして、お祖父ちゃんがこの時に使った明治のパスポートが保管してある。数年たって帰国したあと、京都に居を定め、英国じこみのキングズ・イングリッシュにものをいわせて外国人相手の美術の商売を始めた。これが、わが山田家の創設となったのである。

P1110568 3月29日(日)
 京都市が進めていた、堀川の再建・遊歩道化の工事が完成。堀川は平安京とともに造営された歴史的遺産であるが、戦後すぐに水脈を絶たれてコンクリートで固められてしまい(当時の京都市役所の担当者のセンスが疑われる)、まことに無残な状態で放置されてきた。それが数十年ぶりによみがえったのである。これには、素直に喜びたい。ウチの近所なので、マック、クイール、ルークも楽しいお散歩道ができて大喜び。
 午後は、古代学協会の「仁明朝史研究会」。故・角田文衞先生の提唱によって開始し、一年間続けてきたこの研究会も一区切りである。

P1110546 3月30日(月)
 京都大学構内遺跡の現地説明会が開催される。百万遍交差点の南西で、鎌倉時代の西園寺公経の別業であった吉田泉殿の跡と推定される地点である。昨年の発掘調査で綺麗な建物遺構が検出されている。今回の調査地では庭園とみられる河川遺構や敷石遺構が出ており、吉田泉殿の南半部にあたることはまちがいない。鎌倉時代の貴族邸宅についての大発見であるとともに、権勢をふるった西園寺公経の実像に近づく大きな手がかりとなる。
 現場でであったK大学のMY教授、KJ大学のNM教授ご夫妻らとともに、京都大学医学部の芝蘭会館別館のレストランで昼食。
 夜は、伏見の魚三楼で、ウチの学部の歓送迎会。わが大学の名物教授であった朧谷寿先生が、なごりを惜しまれながらの御退任となる。

 さあ、明日からは新年度だ。

2009.03.18

同志社女子大学2008年度卒業式、の巻

 1959年3月17日の夜半から18日の深夜にかけて、若きダライ・ラマ14世法王は兵士に変装してチベットのノルブリンカ離宮を脱出、亡命の途につかれた。今からちょうど50年前のことである。

P1110498 2008年3月18日(水)
 わが同志社女子大学の卒業式・学位授与式。うららかな暖かい日になって、なによりである。いつもながら華やいだ式になる。写真は、わが大学の山田ゼミの第1期の卒業生の3人。卒業式には和服で登場である。終了後は、宝ヶ池のグランドプリンスホテル京都に会場を移し、現代社会学部社会システム学科の「謝恩会」となる。わが学科は、ひとつの学科だけで一学年の定員300人。今年の卒業生は実に300数十人にもおよび、ほかの大学ならばひとつの学部に匹敵するくらいの学生を抱える巨大学科である。学生はこの会にはドレスにお色直ししてくるのが大半(写真下)。したがって、広い会場がドレスアップした女性たちで満員になる。ともあれ、無事に社会に旅立つ日を迎えた彼女らの将来に幸あれ。

 3月7日(土)・8日(日)
 角田文衞先生をしのぶ会が終わったら、すぐに奈良に急行して、条里制・古代都市研究会の大会に出席する。7日は「聖武朝の遷都」、8日は香川県屋島城などの最新成果報告があってそれぞれ興味深いのであるが、実はもうひとつ、これに出席しなくてはならない目的がある。この研究会の次年度の事務局長、私が引き受けることになった。う〜〜ん。お金の勘定とかしなくてはならないぞ・・・ 計算が大の苦手の私が、うまく回すことができるのだろうか・・・ 会員の皆さん、頼りない事務局長ではありますが、なにとぞ御寛恕の上、ぜひ御協力のほど、よろしくお願いもうしあげますm(_ _)m。

2009.03.11

チベット民族蜂起50周年、の巻

Tibet_23月10日
(写真左:1959年3月12日、ポタラ宮殿の周囲で反中国のデモ行進をするチベットの民衆。写真右:1959年3月、ダライ・ラマ法王を守ろうと、法王の住居のノルブリンカ離宮に集結したチベットの民衆。ダライ・ラマ〈木村肥佐生訳〉『チベットわが祖国』、同〈山際素男訳〉『ダライ・ラマ自伝』に拠る)
 この日は、チベット民族蜂起50周年記念日である。この日にあたって、ダライ・ラマ14世法王は声明を出しておられる。なお、日本のマスコミは「チベット動乱50周年」と言っているが、「動乱」ではチベットの人たちが何か悪いことをしたようにもとられかねないので、中央チベット行政府の用語である「民族蜂起」を使うべきであろう。
 中華人民共和国は建国後すぐにチベットへの野望をあらわにし、1951年10月にはついに「人民解放軍」の武力によってチベットを侵略・併合するにいたったのである。ダライ・ラマ14世法王ひきいるチベット政府はその絶望的な状況のなかでなんとか事態の打開をはかったが、その努力もむなしく終わった。今から50年前の1959年3月10日、法王自身の身の安全も脅かされる局面を迎えたことによって、チベットの民衆は法王を守るために続々とノルブリンカ離宮(法王の住居)の周囲に集結し、それとともにラサを中心とするチベット各地に中国への抗議活動が拡大したのであった。しかしそれに対して中国は残忍な弾圧によって応え、ダライ・ラマ法王はついにラサを脱出、インドに亡命することを余儀なくされたのであった。
 1959年2月3日が私の誕生日である。つまり、生まれたての私が温かな布団に包まれてすやすやと眠っていたその同じ時、同じ地球上のチベットではこうした悲劇が進行していたのである。それから50年にわたって中国のチベット抑圧政策は変わることなく続いていることに驚愕するし、心が痛む。最近では、中国に抗議して焼身自殺をはかったチベット人の若い僧侶が、中国の兵士によってすぐに射殺されるという事件がおこった。中国兵は、油をかぶって火だるまになっている人を助けようとするのではなく、逆に銃撃するのだから恐ろしい。

 中国政府と中国共産党の強権手法がすぐに改まることは考えにくい。大多数の中国民衆も、政府と党の都合の良い情報しか流されない統制の中で知らず知らずのうちに洗脳されているから、あてにはならない。しかし、わずかな光明は見えている。それは、中国の心ある知識人たちが昨年、「08憲章=中華連邦共和国憲法要綱」を公表し、賛同の署名を集めていることである。中国政府と党はこの憲章を無視するとともに、一方でこの憲章の広がりを徹底的に封じ込めようとしている。しかし、この憲章に書かれていることは、一言一句までまったく理の当然であり、私は双手を上げて賛同する。特に、「大きな知恵で各民族の共同の繁栄が可能な道と制度設計を探求し、立憲民主制の枠組みの下で中華連邦共和国を樹立する」とされている点はチベット問題の全面的解決につながる。また、「今日の世界のすべての大国の中で、ただ中国だけがいまだに権威主義の政治の中にいる。またそのために絶え間なく人権災害と社会危機が発生しており、中華民族の発展を縛り、人類文明の進歩を制約している。このような局面は絶対に改めねばならない!」と結論づけている点は、やっと中国の国内からもこういう正当な主張をする人々が現れだしたということで、素直に感動する。
 いつの日にか中国が、この憲章が示しているような、世界中の人々の尊敬を集めることのできる国として生まれ変わることを心から望んでいる。

【2009.3.14追記】
 (下記のリンクには衝撃的な画像が含まれていますのでご注意ください) 続報によりますと、上に記したニュースの、2月27日に中国に抗議の焼身自殺をはかって中国兵からの銃弾を浴びたチベット人僧侶は、なんとか一命をとりとめたようです。ただ、中国兵による銃撃は足を狙ったものであった可能性が高いとされており、この僧は両足切断を迫られているといいます。

2009.03.09

角田文衞先生を偲ぶ会、の巻

P1110179(角田先生の書き込みがびっしりとある『尊卑分脈』)
 3月7日(土)
 (財)古代学協会の主催する、角田文衞先生を偲ぶ会が、京都ホテルオークラにおいておこなわれた。先生が亡くなられたのは昨年5月だから、本当はもっと早くやるべきだったのだが、いろんな事情によってのびのびになっていた。しかし、ようやく開催できて、良かった。140人ほどのご列席を得て、盛会であったこともありがたい限りである。
 私は、この時には「映像」の担当。この日のために、角田先生の生前の写真をシコシコとパソコンにとりこみ、パワーポイントに落としていった。角田先生はホントに写真好きで、その時々の記念写真を実によく残しておられたし、また、それには日時や場所も丁寧に記録されていたから、まことに助かる。私なんか、昔の写真はどこにいったか全然わからないもんな・・・ 会場ではうまく映るかどうか不安だったが、なんとかなった。最後の一枚だけ、切り替えがうまくいかなかったのは御愛嬌。バック・グランド・ミュージックはかつての平安博物館の「館歌」でもあった「紫女讃歌」を流す。この歌、芝祐久作曲・白川伊織作詞となっているのであるが、この作詞の白川伊織というのは実は、角田先生の盟友の北海学園大学教授三森定男氏と、角田先生御自身の合作のペンネームである。そしてこのネームの由来は、学生時代の角田先生が左京区の北白川伊織町に下宿していたことによっている。
 それから、NHK京都が放送したことのある角田先生のインタビュー(全体は15分であったが、時間の関係で7分半に切り詰めた)を流す。こちらはもちろん音声入りだったから、ありし日の先生を偲ぶこの上ないよすがとなった。このインタビューの中、「平安時代に生まれ変わりたいですか?」というアナウンサーの質問に対して先生が、「やはりそうですね。下級貴族くらいが良いですね」とにこやかに応えられていたのが印象的だった。
 会場前には、角田先生の遺品などが展示された。中でも皆の目を引いたのは、先生の研究資料。先生が座右の書とされていた『尊卑分脈』(写真)など、どの頁を開いても、つけペンで書かれた小さな小さな文字で、びっしりと書き込みがある。角田文衞という不世出の学者の秘密の一端を見たような気になる。

 終了後は、NJ大学のMKさんと一緒にタクシーにとびのり、奈良で開催中の条里制・古代都市研究会に向かう。

2009.02.27

ペキニーズいっぱい、の巻

P1110083
 2月22日(日)
 神戸の鈴蘭台のドッグカフェCandyCandyにおいて、ペキニーズ・オフ会がおこなわれるというので、ウチの三匹をつれて出かけてみる。とはいっても、オフ会なんて何をやるのか、まったく見当もついていない。少し早い目に着いて待っていると、続々とペキニーズたちが到着。結局、30匹近くのペキが集まったことになる。マック、クイール、ルークも楽しそうに遊んでいる。白黒のペキニーズはクイールひとりだけ。ルークのようなブラックペキニーズは数匹いる。その中に、顔がルークそっくりの仔がいた。むこうさんは足先が白いのだが、それがなかったらどっちがどっちかわからないぞ。驚いたのは、とっても大きなフォーンのペキニーズがいて、それが実はマックの年上の甥にあたるのだという。しかしこの2匹、なかなか仲良くならず、しばらく睨み合って(写真中央)からいきなり吠えだす。オイオイ、覇権争いなんかするなよ・・・
 くたびれましたが、面白い経験でした。ウチの三匹も疲れ果ててぐったり。でも、また行ってみよう・・・・

2009.02.23

伏見城跡立ち入り調査、の巻

P1100969(写真:明治天皇陵への正面階段。伏見城跡の増田郭の南面にあたる)
 2月20日(金)
 翌日の新聞やテレビニュースで既報で、あちこちに私の談話やインタビューもでていたようだが、大阪歴史学会・京都民科歴史部会・考古学研究会・古代学研究会・古代学協会・史学会・地方史研究協議会・奈良歴史研究会・日本考古学協会・日本史研究会・日本歴史学協会・文化財保存全国協議会・歴史科学協議会・歴史学会・歴史学研究会・歴史教育者協議会の16学協会による、第2回目の「陵墓立ち入り」が、宮内庁の許可と案内のもとでおこなわれた。午前中には奈良市の佐紀陵山古墳(宮内庁治定の、垂仁天皇皇后日葉酢媛命陵)、午後には京都市伏見区の通称「桃山陵墓地(または桃山御料地)」内に所在する伏見城跡に立ち入りが許された。雨に祟られたのはいささか残念。立ち入り調査の成果については、近い将来に16学協会によって報告会がおこなわれる予定であるし、また16学協会のそれぞれの媒体によって公表されるであろうし、それを待たねばならない。ただ、伏見城跡の立ち入り調査で感じた私見を述べることは現時点でも許されると考える。

 ◎16学協会の陵墓公開運動にとっては、陵墓に秘められた古墳以外の文化財に目を向けたという点で、画期的。
 ◎しかし、これまでも学術的な研究グループの要請に応えて伏見城跡への立ち入りが認められた例もあり、同遺跡に立ち入るのは16学協会が始めてではない。
 ◎今回の立ち入りでも、判明した諸点は数々ある。しかし、短時間の立ち入りで何かの謎がパッと解明できると考えるならば、それは誤りである。わかったことよりも今後の課題が増えたというのが正確。
 ◎今回の公開にこぎつけるまでには、予想しがたいさまざまな困難にぶつかった。それがひとつひとつ解決されて今日の日をむかえることができたのは、この運動にかかわったメンバーや関連の諸司の努力と善意の賜物である。この運動に関心を持つ方々は、そうした苦労にも思いを馳せてほしい。
 ◎「明治天皇陵」に立ち入ったと誤解されている向きもあるが、これは誤りである。私たちが入れてもらったのは、広大な、通称「桃山陵墓地(または桃山御料地)」の中の、明治天皇陵や昭憲皇太后陵を除く部分である。
 ◎私たち参加者は、個々の思想の違いを乗り越えて、同じ人間の永眠の地として、明治天皇や昭憲皇太后の山陵に対して礼を尽くした。
 ◎私の談話も新聞に出ていたが、私の真意とはズレを感じた。マスコミへの対応の難しさをつくづく感じさせられた。
 ◎宮内庁は、私たち学会側の、時にはワガママな要求に対して、真摯かつ親切に対応していただいた。私は、それに心より感謝している。

2009.02.19

朧谷壽先生最終講義、の巻

 山中章博士は今度はレバノン。あちらでずっと調査にたずさわっているTSさんに呼ばれたそうだが、ホント、忙しい人だな。

Photo 2月14日(土)
 わが同志社女子大学の「顔」ともいえる名物教授だった朧谷壽先生が、今年度で定年退職を迎えられる。それを記念して、最終講義「摂関家の確立—道長と望月の歌」がおこなわれた。会場は今出川キャンパスに新装オープンした純正館。一般公開だから、市民の方々にわが大学を紹介するのにも良い機会である。なお、私にとっては、今を去ること32年前、私が同志社大学に入学して最初の授業だったのが、当時は非常勤講師をつとめておられた朧谷先生の「基礎演習」だった。私としては、それからずっとお世話になりっぱなしである。なお、2年前に私が同志社女子大学に移籍したのも、形式上では朧谷先生の後任というわけではないのであるが、実質的にはそれに近い人事であった。
 会場は、大入り満員だった。300人入る大教室が用意されたのであるが、あとからあとから人々が詰めかけ、補助席を出しても出しても追いつかない。おそらく450人くらいは入っていたのではないだろうか。朧谷先生の人気のほどがうかがえる。開口一番からユーモアにあふれた語り口で、たちまちのうちに聴衆をグッと掌握してしまう話術は先生ならではの名技である。
 夜は、全日空ホテルに場所を移し、大学の有志による「朧谷先生を励ます会」。事実上の退任記念パーティである。それにしても、我が大学にこれだけ芸達者がそろっているとは思わなかったぞ。
 楽しい一日であった。朧谷先生、これまでどうもご苦労様でした。今後ともなにとぞよろしくご指導くださいますよう、お願いいたしますm(_ _)m。

 2月15日(日)
 大阪で、前近代都市論研究会。いつもながらの楽しい学びの場。懇親会は、仁木宏さんが見つけてきたちりとり鍋のお店「えい吉」。ちりとり鍋? それなんじゃ? と思ったのだが、大阪・鶴橋で生まれた、いわば韓国風のホルモンすき焼きだという。唐辛子の許容量が人より少ない私としてはちょっと警戒したのだが、箸をつけてみるとこれが大変美味である(写真下)。終了後のおじや(雑炊)も含めて、いくらでも胃袋にはいってしまう。お値段もリーズナブルで、大変結構でした。調べてみると、京都にもいくつかちりとり鍋をやっている店があるらしいから、今度ぜひまた行ってみよう。

2009.02.07

鳥羽の離宮と鳥の鍋、の巻

 2月4日(水)
P1100658 (写真上:安楽寿院本御塔、下:城南宮を歩く一寸法師とウチの学生)
 ウチのゼミの巡見。鳥羽殿(鳥羽離宮)の跡を散策することにする。と、いうのも、「京の冬の旅」の非公開文化財特別公開の中に、安楽寿院がはいっているからである。いうまでもなく、鳥羽法皇が建立し、そこで亡くなった名刹である。新たな御堂兼収蔵庫が建てられて面目を一新したのだが、入る機会は始めてである。これは見逃せない。
 感慨深かかったのは、新築された御堂兼収蔵庫が「本御塔<ほんみとう>」と名付けられていたこと。本御塔とは、鳥羽法皇が自らの陵として安楽寿院に生前から建てていた塔のことである(それに対して、「新御塔」と呼ばれたのが現在の近衛天皇陵)。ただ、この塔は早くに失われてしまい、江戸時代には安楽寿院のひとつの堂が代用をつとめていた。さらに、幕末の文久の修陵でこの堂を取り除けて法華堂を新築したのが、現在の鳥羽天皇安楽寿院陵なのである。今回、もともとの本御塔の本尊であり、鳥羽法皇自身が造らせたすばらしい阿弥陀如来像をおさめるための御堂兼収蔵庫が新設され、ゆかりの「本御塔」の名が復活したのである。堂の周囲には鳥羽殿跡の発掘調査で出土した庭石を再利用して庭園が造られている。鳥羽殿の遺構そのものではないけれども、それを偲ぶよすがには充分になりうるであろう。
 新しい本御塔の中で拝ませていただく阿弥陀如来像はさすがに見事である。さらに嬉しいのは、室町時代頃の製作と推定される鳥羽法皇・美福門院・八条院の肖像が公開されていたこと。これ、本ではよく見るのだが、現物を拝見させていただくのは滅多にない機会である。最近、保元の乱について考える機会があったので、食い入るように眺める。

 そのあとは、鳥羽殿の跡地を巡見する。鳥羽殿の中心部の金剛心院跡のあたりは、まったく残念なことに現在はラヴ=ホテル街になっている。昼間とはいえ、そんなところを女子学生を引き連れてウロウロするのはかなり勇気がいるのであるが、平安時代の重要な遺跡がこんなふうに破壊されてしまっているということを知ってもらうのも意義があるだろう。ホテルとホテルの間の隙間に挟まるようにして後宮塚陵墓参考地が残されているところなどを見せると、さすがに学生諸君も驚いたようである。それから、鳥羽離宮跡公園を経て、城南宮まで歩く。城南宮の本殿の前に一寸法師の可愛らしいお人形がいる(写真)のはご愛嬌である。これだけでもだいぶ疲れたのだが、せっかくだから伏見にまで足をのばし、伏見奉行所跡の発掘調査現場を見学させていただく。
 
 洛中にもどってしばらく時間をつぶし、今度は京都府立大学考古学研究室のコンパ。今年度一年間、この大学の大学院の「考古学特講」を担当させていただいた。菱田哲郎准教授が率いておられるこの研究室、良い意味での昔風の考古学研究室で、そこに集っている学生諸君の学問的熱気はもの凄い。私も、そうした学生さんたちと一年間つきあわせていただいて、本当に楽しく授業をやらせてもらった。こんな機会を与えていただいた菱田先生に、感謝m(_ _)m。今回のコンパは私に対する謝恩の意味もあるという。ありがたいことである。会場は高倉通錦のそば酒菜さかえ庵。いつも前を通っているはずなのだが、こんな店があるなんて気がついていなかった。ソバ屋でコンパ?と最初は疑問に思ったが、これがめっぽううまい。カモと鶏の鍋を堪能する。充分にダシが出たところで、締めはソバ。鍋にソバ?と、これも疑問だったが、やってみるとなかなかすばらしい。お値段もリーズナブルで、充分に楽しめた。菱田先生、そして府立大学考古学研究室の皆さん、本当にありがとうございましたm(_ _)m。

2009.02.03

五十の賀、の巻

 2月3日は私の誕生日。ついに満50歳になってしまった・・・・ それにしても、いつもならば私の誕生日には必ず雪が降るのに、今年は雪ではなく雨だった。地球温暖化の影響かしら?

Ts2d0034山中章博士のブログでは既報だが、1月25日(日)には恒例の「10年会」の新年会。ウチの大学の卒業生でもあるYEさんのご好意で、風格ある京都の町屋を会場として提供していただく。冬らしく、あったかいお鍋。メインは、山中章博士が伊勢湾から届けてくれた新鮮な金目鯛と伊勢エビで、これにサザエの壺焼が加わる。これでおいしくなければウソである。朧谷寿先生おんみずからサザエを焼いてくださる。畏れ多いことである。それにしても、さすがは伊勢湾。サザエなんか、普通のものならばシッポのところが生臭いのだが、これはまったくそんなことはない。シッポまで磯の香りが染み付いて、とろけるようである。
 極め付きは、鍋のあとのお雑炊。誰がなんといおうと、鍋のあとの幸福はなんといってもお雑炊である。この時ほど、日本人として産まれた幸せを実感し、日本文化の偉大さに感極まる瞬間はない。具材のダシがこってりと溶け込んだスープを一滴のこさず味わいつくすことができるのだから。
 おいしく食べて、たくさん飲んで、気がつくとほとんど正体不明。でも、幸せな日でした。

 1月28日(水)には、再開された、京都府の「天橋立世界遺産可能性検討委員会」。昨年の文化庁の判定で、天橋立は世界遺産リストへの暫定登録を逃した。確かに、年々登録基準が厳しくなっているのだから、これはやむをえまい。ただ、文化庁の判断としては、暫定登録を逃した中では最高ランクの評価だったということで、リベンジの可能性は充分残されている。

 1月31日(土)は、古代学協会の「仁明朝史研究会」。山中博士と、K研究所のAN氏が報告される。多分野からの検討で、いつもながら和気あいあいの楽しい時間となる。

 2月1日(日)。「京の魅力探訪ウォーク」に出講。今熊野観音寺に集合し、後白河法皇をテーマとした講演と巡検をおこなう。

2009.01.25

古市古墳群と豊臣秀吉と、の巻

 正月以降、ずっとノドを痛めていた。ホント、しつこい風邪である。三週間近くのガラガラ声だったのだが、やっとマシになってきたぞ。どうしてこうノドが弱いのかな・・・・

P1100586 1月16日(金)
 大阪府松原市と藤井寺市にまたがる河内大塚山古墳にでかける。しかし、阿倍野橋で急行と準急を乗り間違えてしまい、さらには待ち合わせ場所も間違ってしまい、大幅に遅れてしまう。申し訳ありませんでしたm(. ̄  ̄.)m。
 I大学のMM名誉教授と食事のあと、せっかくここまで来たんだから、津堂城山古墳も見学。後円部頂上だけが陵墓参考地になっており、中世の城郭の建設によって墳丘はかなり原形を損ねているが、さすがは古市古墳群の開始を飾る巨大古墳である。横にあるミニ資料館兼休憩場所も充実。
 藤井寺の駅に戻り、これもせっかくだから欲張って、西国三十三ヶ所第五番札所の葛井寺に参詣。驚いたのは、山門の前に、「遣唐留学生井真成(葛井真成)生誕之地」の木標と、「おかえりなさい藤井寺へ いのまなりくん」という可愛らしいイラストの看板があったこと。井真成というのは、2004年に中国・西安市で墓誌が発見され、遣唐使として渡海して異国で亡くなったとして大きな話題を呼んだ人物である。この墓誌と井真成という人物についてはまだまだ検討の余地が残っていると思うのであるが、藤井寺市ではすっかり「郷土の英雄」扱いになっているんだな・・・・
 もうひとつ驚いたのは、岡ミサンザイ古墳の東側に建てられている、藤井寺市生涯学習センター「アイセル・シュラホール」。なかなか充実した考古学展示室があって勉強になるし、また、井真成の墓誌の精巧なレプリカも展示されているのは貴重である。それはいいのだが、建物が「市内から出土した古代の木ぞり「修羅」と、古代船の埴輪の形を組み合わせた姿をイメージしたもの」だという(写真)。しかし、この建物、ガミラスの侵略の際にはイスカンダル星へコスモクリーナーをもらいにいくため、波動エンジンが点火して宇宙に飛び立つとしか思えないぞ(笑)。

 1月19日(月)
 同志社大学学際科目「シルクロードの歴史と文化」のゲスト・スピーカーとして出講。この科目、10年ほどずっと分担していたのだが、今年からは本務校の都合で退任させてもらった。それへのゲストであるから、喜んでやらせてもらう。一般公開授業にもあたっているので、市民の方々もかなり参加されておられる。
 テーマは何にしようかな、と考えたのだが、ちょっと目先を変えて、シルクロードの終着点をとりあげることにして、「世界の十字路・コンスタンティノポリス」とした。古代ローマ帝国から中世ローマ帝国、そしてオスマン帝国と、1000年以上にわたって世界帝国の首都となってきた巨大都市であり、世界中でもこれほど憧れに満ちた都市は(日本の京都を除くならば)ちょっと考えられない。かなり以前になるが、私もこの町を訪れ、ウチの奥さんと一緒に、足を棒にしながら歩き回ったものである。ただ、ノドがまだガラガラで聞きづらかったであろうことは聴衆の皆さんには申し訳なかった。

 1月24日(土)
 JR西日本『京都おこしやす大学〜京の魅力探訪ウォーク』のイヴェントに出講。いつもは講演と巡検をセットにするのだが、今回はひとつ趣向を変えて、歴史地理研究者の中村武生氏と「豊臣秀吉と京都」をテーマにしたシンポジウムをすることになる。あらら。中村氏は京都の御土居の専門家として知られる研究者だから、ヘタは打てないぞ。と、いうことで、前日までいろんな図書館に籠って豊臣秀吉について予習。やっぱり、いままで気づかなかったことがいろいろ発見できて面白い。よく言われる「秀吉はなぜ征夷大将軍にならなかったか?(またはなれなかったか?)」というテーマについても、従来の諸説のアラがだいぶ見えてきたし、自分なりのささやかな仮説もたてることができそうだ。本番では、中村氏の適切なリードによって、気持ちよくしゃべらせてもらう。ありがたいことである。

【書いたもの】
■山田邦和「長岡京・平安京と陵墓」。永井路子・朧谷寿(出席者)、山中章・山田邦和(司会)「座談会 長岡京から平安京へ—光仁・桓武・嵯峨朝の世相—」。清水みき・仁藤敦史(司会)、網伸也・榎村寛之・河角龍典・中島信親・三上喜孝・吉川真司(パネラー)、朧谷寿・永井路子・山田邦和・山中章(コメント)「討論 長岡京時代を考える」(国立歴史民俗博物館編『桓武と激動の長岡京時代』〈歴博フォーラム〉所収、東京、山川出版社、2009年1月)200〜211頁、5〜30頁、125〜146頁。
【しゃべったこと】
□「京都検定・京都学講座『京都の原点を探る』第9期「平治の乱と源平合戦」(京都新聞文化センター、於同センター、2009年1月23日)(2008年より継続)
□「世界の十字路・コンスタンティノポリス」(同志社大学学際科目2「シルクロードの歴史と文化」ゲスト・スピーカー〈授業の一部公開〉、於同志社大学京田辺校地、2009年1月19日)
□山田邦和・中村武生「歴史フォーラム 豊臣秀吉と京都」(JR西日本『京都おこしやす大学〜京の魅力探訪ウォーク』、於本能寺会館、2009年1月24日)

2009.01.11

研究初めの百舌鳥古墳群と大御堂観音寺、の巻

 1月9日(金)・10日(土)
 年始年末は大変だった。最近は俳人となられた山中章博士の名句「初詣 祈る心に 風痛し」さえも、私のように僻み根性で見るならば、「通風が痛くなるように」という呪詛だと解釈されてしまうのである。さらにノドをやられて、年初の授業では声がでなくて四苦八苦してしまう。
 RityuuTinooka とはいうものの、今年の「研究初め」。朝日カルチャーセンターのの講義をやってから、バタバタと大阪に向かう。大阪府堺市の百舌鳥陵山古墳(石津丘古墳ともいう)、つまり宮内庁治定の履中天皇陵、日本第3位の巨大古墳である。久しぶりに来たのだが、周囲を回るとさすがにデカいな。渇水期で、西側の造り出しがよく見えているのも面白い。少し時間があったので、TB大学のOT教授、H県A市教育委員会のMH氏、H県立考古博物館のY氏等とともに、ついでに乳の岡古墳へと足をのばす(写真右)。巨大古墳揃いの百舌鳥古墳群の中にあるから目立たないが、全長155mの堂々たる大古墳である。しかも、百舌鳥古墳群の中では一番最初に築造されたと考えられているから、この古墳群の性格を考える上でも無視できない遺跡である。
 昼飯を食いそびれていたので、皆さんと別れてから、乳の岡古墳近くで見つけた回転寿司屋にとびこんで遅い昼食。中途半端な時間なので客は私ひとりだったが、なかなか良いネタをそろえた、おいしい店だった。

Oomidou 土曜日の朝に外を見ると、みぞれ混じりの雪が降っていた。どうしよう、サボろうかな、とも思ったが、大学へ向かう。OH教授、AT准教授とともに、ウチの大学の「京都研究会」の見学会におつきあい、である。まずは同志社大学京田辺キャンパスを通り抜け(これがまた広いんだな・・・)、同志社のちょうど西側にある、大御堂観音寺<おおみどう・かんのんじ>へ行く。鄙びた小さな寺だが、実は奈良時代に創建された古刹で、本尊十一面観音菩薩像は天平彫刻の逸品で国宝に指定されている。国宝の観音さまは、日本でもわずか6体しかないという。ウチの学生諸君に聞いても、この寺には始めて来る、というのばかりである(私も久しぶり)。京田辺市には史跡が何も無いと思っている諸君も多いが、大学から歩いてこれる範囲にこんなすばらしい仏像があるのだから、見ておかなきゃソンだよ。
 それから、今度はみんなで酬恩庵一休寺へ向かう。いうまでもなく、室町時代の名僧・一休さんのお寺である。これも、せっかく京田辺にあるのに、学生諸君は始めてくる、という人ばかり。おいおい、もったいないぞ。一休さんは実は後小松天皇の皇子だから、その墓は宮内庁が管理して「宗純王墓」という厳めしい形になっている。方丈に安置される一休禅師木像は、その生前に作られたという逸品。

【書いたもの】
■山田邦和「銅鏡の国」(宮崎興二・小町谷朝生・細矢治夫編集『日本文化のかたち百科』所収、東京、丸善 、2008年12月)、494〜497頁。

2009.01.03

梅宮大社初詣、の巻

1月3日(土)
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 3匹のおトボケ犬(左から、ルーク、マック、クイール)からもご挨拶。あけましておめでとうございます m(_ _)m
  
 今年の初詣はどこにしようか、と考えていたが、梅宮大社にいくことにした。近頃ごぶさたである、という以外には特に理由はない。
 梅宮大社は、橘氏の関連の古社である。お酒造りの神様であるから、私も日頃お世話になっている、ということになる。檀林皇后・橘嘉智子が仁明天皇を産む時の安産の神様である、という伝承をも持っている。現在、古代学協会で「仁明朝史研究会」をやっているから、こちらからしてもまんざらゆかりがないわけではない。
 本殿は修理中で、神様は脇の仮本殿に御動座中であるが、本殿の屋根は綺麗に吹き替えられていて檜皮の色が美しかった。恐る恐る、おみくじを引いてみる。かつて、おみくじを引くと二回続けて「凶」がでたことがあるから、ちょっとトラウマになっているのである。幸い、ここでは「大吉」。良かった良かった。

2009.01.01

2009年謹賀新年、の巻

P1100385 2009年1月1日(木・祝)
(←我が家のささやかなおせち料理) みなさま、あけましておめでとうございます。ブログの場を借りまして、ご挨拶申し上げます。

 昨年はチベットの民衆蜂起とそれに対する中国政府の残虐な弾圧から始まり、秋にはグルジアにおける南オセチアの紛争、世界的金融危機とその日本への波及、さらにはイスラエルのパレスチナ・ガザへの空爆という暗いニュースの中で年末を迎えました。そして、パレスチナの悲劇は、新年を迎えた今もまだ継続中です。近い将来、人類がこのような愚行の繰り返しを回避できる日がくることを心より念じております。

 今年は、永らくの懸案となっておりました第2論文集『京都都市史の研究(仮題)』の刊行をようやく果たせる見込みとなりました。また、それに引き続いていくつかの研究成果も開陳できると思います。牛歩のような歩みではありますが、着実に進んでいきたいと思っております。

 今年一年が、皆様にとっても良い年となりますように・・・・・・ m(_ _)m。 

2008.12.31

2008年もおしまい、の巻

2008年12月31日(水)
P1100316 大晦日。今年もおしまい。恒例の「第9」を聞きながら、しみじみと今年一年を偲ぼう。今年の「第9」は、ちょっと珍しいものを、と思って、フランツ・リストによる2台のピアノ編曲版を選んだ。第1ピアノがレオン・マッコーリー、第2ピアノがアシュリー・ウェイスによるナクソス盤である。もちろん、ピアノ編曲版なのでオーケストラも合唱もはいらない。しかし、これがなかなかの聴きものである。ピアノの名人であるリストの手によるものだけあって、豪壮華麗な仕上がりになっていて、よくもまあピアノだけでここまでできたものだと唸るほどのできばえである。

 実家の店の大掃除を手伝いに行って、それから下御霊神社にお詣り。境内に護摩壇のようなものがしつらえてあって、あれっ?、と思ったら、そこで儀式が始まった(写真)。信者から供えられた人形<ひとがた>を火にくべて、今年の穢れを払う「大祓<おおはらえ>」であった。これはちょうど良いところに出くわした。私も参列して、今年の厄払いをさせてもらう。

 年越し蕎麦を食べた後、義弟といっしょに祇園さん(八坂神社)の白朮参<おけらまいり>に出かける。ここでも、一年の厄を落とし、新年の多幸を祈る。帰り道で知恩院さんの前を通りかかると、三門が荘厳にライトアップされており(写真)、しばし、みとれる。

 それにしても、今年は時間のたつのがえらく早かったように思う。その割にまとまったことができていないので、これはやっぱり来年に向けて反省、である。

 それでは皆様、どうかよいお年をお迎えください o(_ _)oペコッ。P1100373

2008.12.29

2008年にやったこと、の巻

 2008年12月29日(月)

 2008年ももう暮れようとしている。恒例によって、今年やったことを振り返っておこう。
【著書(分担執筆)】
■京都新聞出版センター編、井上由理子・今西健二・河村吉宏・熊谷栄三郎・黒田正子・高野澄・中村武生・中村勝・永守淳爾・西村彰朗・藤慶之・山田邦和執筆『第4回京都検定 問題と解説』(京都、京都新聞出版センター、2008年4月)(分担頁不記載)
【論文】
■山田邦和「中世京都の被差別民空間—清水坂と鳥部野—」(花園大学人権教育研究センター編『個の自立と他者への眼差し—時代の風を読み込もう—』〔花園大学人権論集15〕所収、東京、批評社、2008年3月)、193〜223頁。
【その他の著作】
■山田邦和「聖武・天武両天皇の首都構想」(第10回考古学研究会東海例会資料集『古代東海と奈良時代王権』所収、津、考古学研究会東海例会、2008年2月)、88〜90頁。
■山田邦和「考古学者スウェーデン皇太子入洛」(丸山宏・伊従勉・高木博志編『みやこの近代』所収、京都、思文閣出版、2008年3月)222〜225頁(「みやこの近代(84)(85)スウェーデン皇太子来洛す(上)(下)」〈『京都新聞』2004年〈平成16年〉7月1日号〈朝刊〉・7月8日号〈朝刊〉掲載、京都、京都新聞社、2004年7月〉の補訂再録)。
■山田邦和「コンスタンティノポリスの思い出」「ニュース」(『土車』第116号掲載、京都、古代学協会、2008年3月)3頁・5頁。
■山田邦和「『源氏物語』の平安京—固定概念にとらわれない真実の姿求めて—」(『京都民報』第2336号〈2008年5月25日号〉掲載、京都、京都民報社、2008年5月)5頁。
■山田邦和「学界消息〜角田文衞氏の訃」(『日本歴史』第724号掲載、東京、吉川弘文館、2008年9月)、139頁。
■山田邦和(監修・文)「リアルイラスト 【鳥瞰】秀吉時代の京都」(『決定版 図説 戦国合戦地図集』〈「歴史群像シリーズ」特別編集〉所収、東京、学習研究社、発行年不記載〈2008年〉)、93〜96頁(「鳥瞰イラスト 秀吉の京都」〈歴史群像シリーズ 戦国セレクション『驀進 豊臣秀吉』所収、東京、学習研究社、2002年4月〉の再録)。
■山田邦和「民族で見る貴州」(西幹夫〈写真〉、黒川美富子〈紀行文編集〉『中国貴州省 少数民族の暮らしと祭り—苗族・トン族・プイ族・老漢族の村々を行く—』所収、京都、文理閣、2008年9月)、213〜222頁。
■山田邦和「平安京大図解」(村井康彦監修、京都新聞出版センター編『平安京と王朝びと—源氏物語の雅び—』所収、京都、京都新聞出版センター、2008年10月)。
■山田邦和「例会要旨 中世都市嵯峨の復元」(『人文地理』第60巻第4号掲載、京都、人文地理学会、2008年)
■山田邦和「森浩一先生の知的格闘技」(『森浩一先生傘寿記念 大寿祝賀文集』所収、枚方、古代学研究会、2008年11月)34頁
■山田邦和「第4回 平安京創生館クイズ」(『まなびすと』Vol4.掲載、京都、京都市生涯学習総合センター、2008年1月)
■山田邦和「第5回 平安京創生館クイズ」(『まなびすと』Vol5.掲載、京都、京都市生涯学習総合センター、2008年4月)
■山田邦和「第6回 平安京創生館クイズ」(『まなびすと』Vol6.掲載、京都、京都市生涯学習総合センター、2008年9月)

【学会・研究会報告】
◎山田邦和「仁明天皇陵とその関連陵墓」(古代学協会「仁明朝史の研究」第2回研究会、於思文閣会館、2008年1月20日)
◎山田邦和「コメント 聖武・天武両天皇の首都構想」、山中章司会、榎村寛之・天野三恵子・大崎哲人・山田邦和「ミニシンポ 文献・考古資料からみた聖武東国行幸」(第10回考古学研究会東海例会「古代東海と奈良時代王権」、於三重大学、2008年2月2日)
◎山田邦和「中世都市嵯峨の復元」(人文地理学会第263回例会「歴史都市の景観復元研究」、於佛教大学四条センター、2008年4月12日)
◎山田邦和「タンロン皇城遺跡出土須恵質円筒形土器の型式変化について」(「GISを用いた東アジア都市・王城遺跡形成史の比較研究」2008年度第1回研究会、於三重大学、2008年6月1日)
【講演、その他】
□「東山地区の歴史」(於ハイアットリージェンシー京都、2008年1月9日)
□「戦国武将ゆかりの地を訪ねる」(JR西日本『京都おこしやす大学〜京の魅力探訪ウォーク』、於豊国神社と巡検、2008年1月12日)
□「  同  」(JR西日本『京都おこしやす大学〜京の魅力探訪ウォーク』、於豊国神社と巡検、2008年1月26日)
□「嵯峨は平安〜室町時代にかけて政治の中心だった!」(JR西日本『京都おこしやす大学〜京の魅力探訪ウォーク』、於嵯峨野コミュニティプラザと巡検、2008年3月22日)
□「  同  」(JR西日本『京都おこしやす大学〜京の魅力探訪ウォーク』、於嵯峨野コミュニティプラザと巡検、2008年3月29日)
□「山田先生の平安京講座」(JR東海「そうだ 京都、行こう!」イヴェント、於京都アスニーと巡検、2008年3月23日)
□「平安京・京都の歴史を歩く」(京都SKY大学「総合活動コース」、於京都新聞文化ホール、2008年3月25日)
□「京都・歴史から未来へ」(京都市職員研修センター 平成20年度「京都市職員研修」、於京都会館会議場、2008年4月1日)
□「平安京への道」(ラボール学園〈京都勤労者学園〉「日本史講座—歴史のなかの京都と他所(古代・中世)—」、於同学園、2008年4月28日)
□「平安京の天皇陵—大規模陵墓から仏式陵墓へ—」(京都アスニー「ゴールデン・エイジ・アカデミー講座」、於同センター、2008年5月16日)
□「平安京の世界」(京都府立嵯峨野高校社会人講師の講義、2008年6月3日、於京都府立嵯峨野高校)
□「奈良山丘陵の天皇陵」(木津川市・木津の文化財と緑を守る会・興福寺「第5回木津川市ふれあい文化講座」、於木津川市中央交流会館、2008年6月28日)
□「京都の歴史(1)(2)」(京都SKY観光ガイド協会「京都SKY観光ガイド養成講座」、於はーとぴあ京都、2008年7月4日)
□「ブライトンから見る平安京と源氏物語」(京都ブライトンホテル「第20回京都ブライトンホテル協力会 定期総会」、於同ホテル、2008年8月26日)
□「洛中洛外図に見る京都」(京都SKYセンター、於京都新聞文化ホール、2008年9月10日)
□「清水寺・地主神社」(姫路市教育委員会「平成20年度市民教養講座・歴史講座Cコース 世界遺産の寺社を訪ねる 第6回」、於姫路市文化会館、2008年9月22日)
□「伏見城と城下町を復元する」(聖母女学院短期大学「秋の公開講座・伏見学」、於同大学、2008年10月18日)
□「王朝貴族と平安京」(下京区身体障害者団体連合会「平成20年度福祉のつどい」、於京都東急ホテル、2008年11月2日)
□「現地見学」(姫路市教育委員会「平成20年度市民教養講座・歴史講座Cコース 世界遺産の寺社を訪ねる 現地見学」、清水寺・醍醐寺・東寺巡検、2008年11月7日)
□「平安京」(於祇園「福島」、2008年11月18日)
□「源氏物語を歩く 第4回 源氏・別れの舞台」(京都新聞文化センター、嵯峨野方面巡検、2008年11月22日)
□「源氏物語を歩く 第5回 千年の時空を超えて・平安宮の旧跡を辿る」(京都新聞文化センター、平安宮跡巡検、2008年12月20日)
□「日本国第一の大天狗・後白河院の謎多き肖像に迫る!」(JR西日本『京都おこしやす大学〜京の魅力探訪ウォーク』、於今熊野観音寺と法住寺殿跡巡検、2008年12月21日)
□「京都検定・京都学講座『京都の原点を探る』第6期「平安王朝の諸相」(京都新聞文化センター、於同センター、2008年1月25日、2月8日、3月28日)
□「京都検定・京都学講座『京都の原点を探る』第7期「院政期の京都」(京都新聞文化センター、於同センター、2008年4月25日、5月23日、6月27日)
□「京都検定・京都学講座『京都の原点を探る』第8期「保元・平治の乱」(京都新聞文化センター、於同センター、2008年7月25日、9月26日、10月3日)
□「京都検定・京都学講座『京都の原点を探る』第9期「平治の乱と源平合戦」(京都新聞文化センター、於同センター、2008年10月17日、12月26日)(2009年に継続)
□「平安京・京都の歴史を歩く(20)初期摂関時代の京都」(朝日カルチャーセンター京都、於同センター、2008年1月11日、2月1日、3月14日)
□「平安京・京都の歴史を歩く(21)初期摂関時代の展開と御室仁和寺」(朝日カルチャーセンター京都、於同センター、2008年4月11日、5月9日、6月13日)
□「平安京・京都の歴史を歩く(22)平安王朝の爛熟」(朝日カルチャーセンター京都、於同センター、2008年7月11日、9月12日、9月19日)
□「平安京・京都の歴史を歩く(23)藤原道長の栄華」(朝日カルチャーセンター京都、於同センター、2008年10月10日、11月14日、12月12日)
【展覧会担当】
△「DWCLAの誕生—今に受け継がれるリベラル・アーツの精神」(同志社女子大学史料室第14回企画展示、於同志社女子大学今出川キャンパス ジェームズ館・史料室、2008年11月21日〜2009年7月31日)(2008年度同志社女子大学史料室運営委員会委員としての分担)
【社会活動】
▼財団法人古代學協會 評議員
▼財団法人古代學協會 古代文化刊行委員会 編集委員
▼平安京・京都研究集会世話人
▼文化史学会監事
▼京都民俗学会監事
▼有限責任中間法人日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会全国委員
▼京都市環境影響評価委員

 うう〜〜〜。これはヤバイ。「論文」が1本キリに終わってしまった(しかも、これも、純粋な学術論文とは言い難い・・(゚ー゚;)。一昨年は4本、昨年は6本だったから、明らかに失速である。成稿した論文ならば何本かある、とか、単著の論文集の刊行のメドがついた、というのは言い訳にはならないだろうな。確かに、今年はスランプ状態に陥っていたような気がする(´・ω・`)ショボーン。
 来年はひとつ、褌を締め直してがんばろう!!!

2008.12.22

朽木の池の沢遺跡から若狭へ、の巻

12月13日(土)
Ikenosawa いささか二日酔気味で寝過ごしていたら、ウチの奥様がどうしても、滋賀県高島市朽木の「池の沢遺跡」の現説に行きたい、と言い出す。たしかに、平安時代末期から鎌倉時代初期の頃に作られた庭園遺跡の傑作だということは、地元出身のHK君から以前に聞いた事がある。よし、行くか、ということで京都から若狭へ通じる、いわゆる「鯖街道」に沿った朽木とでかける。
 行ってみて、確かに良かった。これはすばらしい遺跡である。古代末〜中世初期の大規模な庭園遺跡が、そっくりそのままといってよいほど良好な状態で残っている。平安京内の貴族邸宅の庭園遺跡はズタズタになっているものがほとんどであるし、寺院の庭園は後世に改変されているものが多い。その点、この池の沢遺跡は、池の跡は窪地となって明瞭に判別できるし、庭石も露出していたらしい。要は、落ち葉とわずかな表土を掻き分ける程度で庭園遺構を検出することができるのである。それに、池に注ぐ泉はまだ生きていて、清らかな山水をサラサラと生み出している。それが、石組みの水口を経て、数十m下の安曇川に瀧となって落ちていくのも圧巻である。この遺跡は、古代・中世の庭園研究の基本となるに違いない。
 この遺跡はおそらく平安貴族の山荘だったのであろうが、いったい誰がこんな庭園を築いたのだろうか。興味津々である。

 池の沢遺跡見学を終えて、朽木で「十割蕎麦」と鯖寿司のセットを頼む。値段は張ったが、味はよかった。それから、朽木陣屋跡と資料館を見学。
 そのまま帰洛しても良いのだが、急に気が変わった。ここまで来たのだから、ひさしぶりに若狭に抜けてみよう。と、いうことで、昔ながらの街道町の面影を残す若狭熊川宿で遊びながら、たらたらと山越えをする。いぜんの上中町の役場の一部を改装した若狭町歴史文化館では、有名な十善の森古墳の冠帽に出会う。それから、須恵器の「脚付連結壺」の新例にも出会う。東海地方特産の脚付連結壺がこんなところにも出ているなんて知らなかったぞ。さらに、若狭の一宮の若狭姫神社に参拝、ひさしぶりの福井県立若狭歴史民俗資料館を見学する。

Tutimikado 京都へ抜けるために、福井県おおい町の旧・名田庄村を通ることにする。名田庄というと、昔なつかしい高石ともやとザ・ナターシャ・セブンを思い出してしまうが、それとともにこの地は陰陽道の土御門家関連史跡の宝庫である(写真)。前から行ってみたかったのだが、やっと念願が果たせた。資料館である暦会館では、京都の梅小路の土御門家の邸宅指図の存在を知る。うんうん、なかなか収穫だぞ。実務家貴族である土御門家が室町時代にこの地に下向して荘園経営をおこない、しかもまったく土着するのではなくてしばしば京都と往復していたというのは、中世の京都の貴族のありかたに面白い示唆を与えるものだと思う。

2008.12.21

河内大塚山古墳を見る、の巻

 12月10日(水)
P1090531
 考古学・歴史学の16の学会連合の要望に応えて、宮内庁も陵墓の調査の公開に少しづつ前向きにとりくんでくれるようになってきている。もちろん、私たちの立場からしたらまだまだ不十分ではあるのだが、それでも以前に比べると隔世の感であることは確かである。今回、大阪府松原市の河内大塚山古墳(大塚陵墓参考地)の立会調査の見学が許されることになった。
 この古墳は全長330mの超巨大古墳で、従来から「謎の前方後円墳」と言われてきた。以前はこれを雄略天皇の真陵に宛てる説がほぼ通説となっていたが、雄略天皇陵だとすると古墳時代中期の5世紀後半だということになる。最近では、それよりも古墳時代後期後半の6世紀後半に降るとする説が有力となってきているし、私もそれが正しいと思う。そうすると、奈良県橿原市五条野丸山古墳(見瀬丸山古墳)と並んで、古墳時代後期後半に築造された、ただふたつの超巨大前方後円墳ということになり、その時代の歴史を考える上で最重要の古墳だということになる(ついでに言ってしまおう。よく、河内大塚山古墳を大阪府高槻市今城塚古墳と奈良県五条野丸山古墳の間に編年している考古学の本があるが、これは根拠薄弱である。知られている資料による限り、五条野丸山古墳と河内大塚山古墳の間にはそんなに時期差を考えることはできないと思う。それから「江戸時代、河内大塚山古墳の前方部の上には村があった。だからこの古墳の前方部は大幅に削平されている」とされることも多いのであるが、私見では、これも、ムリ。)。しかし、この古墳についてはほとんどデータが無く、その位置づけについては従来から頭を悩ませてきたのである。
 行ってみると、前方部の西端にあって周濠をまたぐ渡り堤の部分が調査されている。ちゃんとした検討は宮内庁の正式報告と、来年度に予定されている反対側の渡り堤の調査の成果を待たねばならないので、まだ軽卒なことをいうべきではないが、この発掘の結果には仰天した! この謎の古墳の位置づけが、よりはっきりしたように思う。 

 それから、地元研究者のNT氏のご案内で、河内大塚山古墳周辺のあちこちを見学。山中章博士に捧げた柴籬神社(しばがきじんじゃ)の「歯磨き面」はこの時に行ったものである。
 皆さんと別れてからは、大阪市立美術館での「三井寺展」を見学。会場への道で同僚のRT客員教授と、また会場内ではR大学のFK客員教授と、それぞれバッタリ。今後数十年は見る事ができないかもしれない秘仏群との出会いに、感動する。

2008.12.18

その時歴史が動いた第346回「平安京誕生」の巻

12月18日(水)
Captur1 NHKの「その時歴史が動いた」、今回は「平安京誕生—千年の都に秘められた苦闘—」でした。どなたはんが出はるんかいな、と思っていたら、山中章博士だったんですね。ををっ! カッコいい〜〜〜!!(^Д^)。いつもはこの番組、ゲストと称してケッタイな作家はんとかを出すことが多いのですが、今回は専門家の中の専門家の井上満郎先生(京都産業大学教授)で、結構なことでした。さらに、書架の前で研究にいそしむSM博士のお姿まで拝見することができました。

Capture6←しかし、早良親王の怨霊のこの無惨な姿は、ちょっと酷いと思います・・・・

2008.12.10

文化史学会大会で高橋昌明先生を聞く、の巻

 12月6日(土)
Takahasi 恒例の「文化史学会」大会。つまり、同志社大学文学部文化史学科が母体となって結成している学会である。小さいけれども、雑誌『文化史学』の刊行を着実に続けているし、同志社大学の文化史の卒業生の懇親を深める場としても機能している。私は監事を仰せつかっているので、数日前には事務局にでかけていって領収書と帳簿の首っ引きをやった。どちらも完璧で、めでたしめでたし。
 例年ならばこの大会では研究発表も聞くのだが、所用のためそちらは欠席。公開講演だけにかけつける。どうしても聞き逃せないのは、神戸大学名誉教授・高橋昌明先生が御登壇で、「平家都落ちの諸相を話されることになったのである。高橋先生、滋賀大学から神戸大学という国立大学の教授を永く勤められていた(今春、無事退官されて名誉教授となられた)のであるが、御出身は同志社大学の文化史であり、滋賀大学に迎えられる前には同志社高校でも教鞭をとっておられた。私にとっては、母校での大々々先輩ということになる。先生、普段は口に出されないのであるが、お酒が進んだ時などには同志社に対する熱い想いを語ってくださることがある。
 会場には早く着きすぎたが、しばらく待つと、KJ大学のNM教授も聞きにこられる。ウチの奥様もやや遅れて合流。
 高橋先生の御講演は、さすがにリキの入ったものである。平家都落ちという、わずか一ヶ月程度の大激震を、ひとつひとつ克明に分析される。その中で、あらゆる障害をモノともしない後白河法皇の強烈な意思の貫徹を強調されたところなど、従来の優柔不断な後白河法皇像を一変させるものではなかろうか。「朝敵」という言葉が本来の漢語ではなく、おそらく源頼朝の造語だなんて、まさに目からウロコ、である。終了後は、懇親会。高橋先生は、ここぞとばかり待ち構えていた大学院生連中に取り囲まれて質問攻めにあい、ちょっとしたスター並みである。とっても満足の日、だった。
 
Ts2d0032_2←12/9。ウチの奥さんと食事に出ようと思ったら、お気に入りの中華料理屋さんはもう閉まっていた(;ω;)。しかたないので奥様御勧めのフレンチにしようとしたら、そちらも臨時休業。あらら。ふと見ると、そのフレンチの隣にインド料理(+ネパール料理)レストランのTAJ MAHALという店がある。たまにはインド料理もいいか、というのではいってみる。おおきなおおきなナン。焼きたてで、とっても美味。左側は、ネパール風のシューマイ。
P1090359←これは、裏寺町の四条にあるフランス料理店、キッチン今村亭。ダンナさんと女将さんのふたりだけでやっている小さな小さなお店である。昔々はよく行ったのだが、どういうわけか足が遠のいており、今回は久しぶりの訪問となった。昔と味が変わっていたらどうしよう、と思ったのだが、杞憂だった。決してゴージャスではないが、心のこもった絶品のフランス料理を出してくれる。おいしかった〜〜(o^-^o)

2008.12.05

西大寺で遊ぶ、の巻

山中章博士も中国から無事に帰国し、バリバリと仕事を片付けていっている御様子、まったく御同慶のいたりである(^Д^)。この分だと未来は明るいぞ。

 12月1日(月)
 出勤するために近鉄電車に乗ったら、ついウトウトとしてしまい、ハッと目を覚ますと新田辺駅でドアが閉まるところだった(つд⊂)。授業疲れで帰りの電車で寝過ごすことはしばしば経験しているが、往路でこんなことは始めてだ。これも、復路であれば京都駅が終点だから、そんなに実害はない。しかし往路となると、この電車は急行だから、次の新祝園駅で降りて引き返さなくてはならないことになる。
P1090374_2 しかし、転んでもタダで起きず、地頭は倒るるところに土を掴め、崖から落ちてもキノコを採って這い上がれ、と、いうほど大げさではないのだが、せっかく乗り過ごしたし、今日の授業にはまだ時間があるから、そのまま奈良まで行ってしまうことにした。最近、直木孝次郎氏の論文を読んで称徳天皇陵についてちょっと勉強してみたので、久しぶりに西大寺を訪れる。いうまでもなく、これは奈良時代後期に称徳天皇が創建した巨大寺院である。
 やっぱり行ってみるもんだね。もちろん、始めて来たというわけではないのだが、今まで知らなかったことばかり。愛染堂では、叡尊上人サマ(興正菩薩、というそうだ)の木像にお目にかかる。中世前期に大活躍したお坊さんであり、京都でもあちこちでこの方の事績に出会うことができる。現境内から少しはなれたところの奥の院は、この人の墓所。堂々とした立派な五輪塔に感銘を受ける。
 本堂の前の巨大な東塔の基壇(写真)を眺めていて、周囲に八角形の石列が並んでいることに気づいた。ふ〜ん、と思いながら説明板を読んで、たまげた。この塔、もともとは八角九重塔として建て始められ、それが途中で方形塔に変更されたのだという。八角九重塔といえば平安時代後期に建てられた京都の法勝寺のものが有名なのだが、それより数百年前に西大寺には同様の巨大タワーが計画されていたのである! 称徳天皇という人、単なる異常性格の困ったバアさんかと思っていたのだが、それだけで済ませたら気の毒だということがよくわかった。
 それから、四天王堂にはいる。薄暗い中に安置されている四天王像の邪鬼は称徳天皇時代のものだという。ほうほう、なるほど。その真ん中の十一面観音像を見て、圧倒された。身長6mを超える巨大像である。これは凄い。しかし、解説を読んで、またまたぶっ飛んだ。この像、もともとは鳥羽法皇が造らせて京都の法勝寺に安置していたものを、亀山上皇の命によってこの西大寺に移したのだという。つまりこれは、院政期の白河・六勝寺の重要な構成要素の仏像なのである。偶然とはいえ、またまたここで法勝寺が出てきた! この巨大な彫刻、やっぱり院政期の破天荒な文化的風潮が生み出したものなんだな。
 こんなことがあると、電車の乗り過ごしも悪くないな。これからちょくちょく寝過ごしてみよう( ̄▽ ̄)。もっとも、授業に遅刻すると困るけれども。

2008.12.01

百舌鳥御廟山古墳を見、ゲルギエフを聴く、の巻

P109031311月28日(金)
 現在も、宮内庁によって天皇・皇后や皇族の陵墓に治定(「ちてい」ではなく「じじょう」と訓む)されている古墳や遺跡や建造物には、原則として立ち入ることはできない。これが考古学・歴史学研究への大きな障害となっているのは周知の事実である。そこで、考古学や歴史学の学会では、この30年の間、共同して宮内庁に陵墓公開を求めてきた。なかなか宮内庁のガードは固いのだが、最近では少しそれに変化も見えてきた。
 と、いうことで、今回は宮内庁の「陵墓限定公開」として、大阪府堺市の百舌鳥古墳群にある百舌鳥御廟山古墳(宮内庁では「百舌鳥陵墓参考地」と呼ぶ)が選ばれた。各学会から合計40数人が参加。私は、(財)古代学協会の陵墓担当の資格での参加である。
 今回の陵墓限定公開の特徴は、百舌鳥御廟山古墳の墳丘裾部の発掘調査を、宮内庁と堺市埋蔵文化財センターが「同時調査」をおこなっており、堺市による調査地は市民への公開がなされる、ということである。なぜこんなことになったかというと、百舌鳥御廟山古墳は墳丘部だけが宮内庁管理であり、周濠は堺市管理の民有地であるからである。宮内庁と堺市は綿密に打ち合わせして調査にはいったということであり、一本のトレンチ(試掘溝)が、境界線を境にして宮内庁分と堺市分とに分かれている。この場合、もちろん土層断面図などは一続きになるものが作成されるはずだし、遺物も場合によっては両者の調査のものが接合するということもありうる。そして、墳丘に接した部分に堺市が見学用の仮設通路を設置しており、11月29・30日にはこれを市民の方々にも公開する、ということになっている。
 我々も、この仮設通路からの見学ということになり、トレンチに近づくことに限界があったので、いささか隔靴掻痒の気分である。このことを陵墓公開の退歩とみるか、堺市との同時調査と市民公開という点を評価して陵墓公開の進歩と見るか、いささか悩ましいところである。でも、埴輪列や葺石が綺麗にでているところがあり、これは堪能する。
 見学終了後には、みんなで堺市博物館を見学し、その一室をお借りして討論会をおこなう。
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 さて、討論会終了後には、ビールの誘惑に後ろ髪を引かれながらも帰洛を急ぐ。京都コンサートホールに滑り込み、頭を古墳から音楽に切り替える。「京都の秋音楽祭」の掉尾を飾るロンドン交響楽団の演奏会があるのである。指揮は、今、人気絶頂のワレリー・ゲルギエフ。曲目は、ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第3番」(ピアノ:アレクセイ・ヴォロディン)とプロコフィエフ「ロメオとジュリエット」組曲である。あれっ、と思うと、私の目の前の席にはKF大学のIN教授が座られる。幕間にロビーに出ると、某古代史研究者ことKMさんに声をかけられる。NHさんとご夫婦で来られているとのこと。
 ヴァイオリンを両翼に配置し、チェロやコントラバスを向かって左手に、金管楽器を向かって右手奥に島状にかためるのはゲルギエフの趣味だろうか? あんまり見たことのない楽器配置である。オーケストラはやっぱり凄い。クライマックスでは身震いがするほどの迫力である。ラフマニノフでのピアノは若いピアニスト。初めて聞く名前なのだが、ゲルギエフに同行するくらいだから注目株なんだろうな。ただ、ちょっとピアノがオケに呑まれてしまったような感を受けたのは残念(ピアノのアンコールのショパンのマズルカのロマンティックな演奏は良かった)。ゲルギエフの指揮は指揮棒が無く、10本の指をヒラヒラさせながらなので、なんだかピアニストがふたりいるようなイメージを受けてしまった。プロコフィエフは管楽器が活躍する曲だけに、ロンドン響の名手の妙技が炸裂。チューバなんか、度肝を抜かれるほどの圧倒的な存在感だった。
 どうでもいいことだが、チェロの真ん中の黒髪の女性奏者、なかなかの別嬪さんだった。また、コンサートマスターはなんだか若き日のウラディーミル・ホロヴィッツを想わせる風貌の人。ホロヴィッツがヴァイオリンを引きまくっているようで、なんだか可笑しかったヘ(゚∀゚ヘ)。

 ロンドン交響楽団を聞くのは、実は約30年ぶり。ただ、前の機会の指揮者は、当時は「幻の指揮者」と言われていた故セルジュ・チェリビダッケだった。チェリさんを聞いたことがある、というのは、今ではちょっとした自慢かもしれないな┗(^o^ )┓。
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P1080987←11月18日、祇園のお茶屋「福島」に招いてもらって「平安京」のミニ講演。祇園だということで、祇園歌舞練場の裏側の崇徳天皇廟をネタにすると、聞いてくれた人の中に「自分の先祖は崇徳上皇が讃岐に流された時に同道した従者だったと伝えられている」という方がおられて、びっくりびっくり。拙い講演の後は、すばらしい京料理と舞妓・芸妓さんの踊りを堪能。

2008.11.24

森浩一先生、傘寿おめでとうございます、の巻

P1080958←京都は紅葉まっさかり。あちこちの名所は押すなへすなの大混雑である。でも、穴場はある。これは比叡山西麓の赤山禅院。真っ赤な紅葉と珍しい寒桜のコラボレーションがうつくしい。

11月23日(日)
 四苦八苦していた原稿のひとつがやっと完成。NJ大学のT先生のもとに発送し、ちょっと一息。しかし、まだまだ未成原稿の山は低くならないぞ・・・(´Д⊂グスン
 夕方、京都タワーホテルで、「森浩一先生傘寿をお祝いする会」。昨年の11月にも傘寿記念会がおこなわれているが、それは同志社大学考古学研究室の主催であり、今回は先生が若い頃から手塩にかけて育ててこられた古代学研究会の主催である。ようやくぎりぎりで滑り込む。まずは先生が、「古代学研究会の出発と膨らみ」という講演をおこなわれる。先生、体調を崩されてからは、必要不可欠な以外は講演をセーブしてこられたから、私も先生の講演を聞くのは久しぶりである。改めて聞かせていただくと、森先生が古代学研究会と雑誌「古代学研究」をいかに大事にされてきたかということと、古代学研究会の活動を自分の青年期から壮年期にかけての基軸とされてきたかということがよくわかる。嬉しかったのは、体調がすごくよさそうにお見受けしたこと。昨年とか一昨年はかなりお痩せになっておられて、ちょっと心配した。今日はお顔の艶もよく、話も絶好調である。
 そのあとは、会場を移動しての祝宴が始まる。古代学研究会の菅谷文則代表(滋賀県立大学名誉教授)が軽妙な開会挨拶。先生も、奥様(森淑子同志社女子大学名誉教授)とともに微笑みながら聞いておられる。菅谷さんのおっしゃる「文人考古学」、まさに森先生にぴったりの言葉だと思う。
P1090173

書いたもの
◎山田邦和「森浩一先生の知的格闘技」(『森浩一先生傘寿記念 大寿祝賀文集』所収、枚方、古代学研究会、2008年11月)34頁

2008.11.09

日本考古学協会2008年度大会、の巻

Misaki_2
 11月8・9日(土・日)
 日本考古学協会の大会。今回は愛知県名古屋市の南山大学が会場となる。開会までちょっと時間があったので、名古屋のど真ん中の愛知県芸術文化センターに行って、愛知県美術館を見学。パリのポンピドゥー・センターをモデルにしたというだけあって、巨大な芸術の複合施設である。
 ぎりぎりで考古学協会大会に滑り込み。今回は、「縄文時代晩期の貝塚」「農耕社会の民族考古学」「東海地方の窯業生産」の三つのシンポジウムが併行する。縄文は割愛するとして、まずは窯業生産の会場に潜り込む。東海地方の窯についてはしばらくご無沙汰だったので、思い出しながら最新の研究成果を聞く。また、民族考古学シンポでは、ウチの大学に先年まで在職されていたGA教授がコーディネイターを務められるとともに、私の同僚のOH准教授、さらに同志社大学のWK准教授の報告があるので、それをお目当てに聞きにいく。専門外だが、民族考古学ってなかなか面白いものだな。
 夜の懇親会は、名古屋中心部のホテル。この時にしかお目にかかれない方々が多いので、挨拶回りに飛びまわる。S県立大学に行かれた、私の元同僚のSH教授とも久しぶりの再会を果たす。同大学のSF名誉教授は、「最近の考古学はデータばかりになっている。昔ながらの『文人考古学』を復興させよう!」と怪気炎。どうやら、私も「文人考古学」のお仲間に入れていただいているようで、光栄の限りであるψ(`∇´)ψ。そんなことをしながら二次会までいくと、例によって例のごとしのぐでんぐでん。

 いささか二日酔いの頭を振りながら二日目の会場に行くと、受付に若い女性歌手のCDとチラシが置いてある。あれっ?と思って側を見ると、その御本人が座っておられた。長野県を拠点にして活躍しておられるシンガー・ソング・ライターの美咲さんとおっしゃる方で、長い髪が印象的な、とっても綺麗な女性である。この方、遺跡や文化財に大変々々関心がおありで、信州では現代と古代のコラボレーションを目指した「縄文の女神LIVE」という活動を続けておられるそうで、それがご縁で今回の日本考古学協会大会に呼ばれたのだという。おやおや、お固いばかりが取り柄かと思っていた我が日本考古学協会、なかなか味なことをやるようになったじゃないか( ̄ー ̄)ニヤリ。これは聞き逃せないので、昼休みはライヴの会場に席をとる。美咲さん、縄文時代をイメージした貫頭衣ふうの衣装にギターを持ち、透き通るような爽やかな歌声を響かせる(写真)。うん、これは良いじゃないか。うん、大変に良いぞ。
 せっかくだからCDを手に入れようと思って受付に急ぐと、東アジア考古学の権威として知られるMK教授が先に並んでおられた。彼も大変に気に入ったようで、CDを三枚も購入、愛娘の名前を入れたサインまでしてもらっていたぞ(おやおや、なかなか娘さん想いの良いお父さんじゃないか(・∀・)ニヤニヤ)。私も彼につられて、サインをねだる。
 
 午後は、考古学協会の埋蔵文化財対策委員会の連絡会に出席。3時から白熱の討論が続き、予定を大幅に超過して、終わったのは六時過ぎ。くたびれたけれども、各地の最新の問題点の情報を得ることができる。

2008.11.08

ダライ・ラマ14世法王を拝む、の巻

Kitakyushu2008_2 周期的に回ってくる、スランプ。おかげでブログもしばらくお休みしてしまった。御気遣いいただいた皆様、申し訳ありませんでした。

 ダライ・ラマ14世法王が講演のために来日された。少し前に胆石の手術をなさったそうで案じていたが、それも大過なかったようでなによりである。今回は、北九州市と東京で講演をされるとのこと。関西でもやっていただけたら良いのだが、贅沢はいえない。この機会を逃すと後悔するだろうから、仕事の段取りをつけて、北九州での講演に参加することにした。会場は巨大な北九州メディアドーム。主催者発表では、6000人を超える数の人々が参加したという。
 待つこと1時間半、主催者の福岡県仏教連合会の方々が登場し、最初の「世界平和祈念法要」の開始である。福岡のお坊さんたちが居住まいをただす中、突然、おなじみのエンジ色の袈裟に身を包んだ法王が登壇される。全員が日本風の般若心経を読んだ後に、法王がチベット語で般若心経を朗読されたのが印象的だった。面白かったのは、法王、儀式の継ぎ目のタイミングがよくわからなかったようで、周囲を見回して様子を測っておられたと見るや、カッカッカッという忍び笑いを漏らされていたこと。
 法王の御講演は「幸せへ導く 慈しみのこころ」。法王の独擅場ともいえる、人間にとっての「慈悲の心」の大事さを身振り手振り入りで詳細に説き聞かせる(ただ、残念だったのは、日本語翻訳がいさささか分かりにくく、せっかくの御講演の全体像がよくつかめなかった)。
 法王は、講演そのものよりもその後の質疑応答を楽しみにしておられたようで、司会者が時刻を気にして終了に持っていこうとしても、「ワン・モア・クエッション」と会場を催促される。結局、実に予定を1時間もオーバーする仕儀とあいなった。
 それにしても、この御方はなんと誠実で正直なことだろう。観音菩薩の化身として崇められている身なのであるから、もうちょっと偉そうにしても不思議ではない。それなのに、この人は平然と「自分は一介の僧侶にすぎません。他の人とまったく変わったところはないのです」とおっしゃるし、自分の中に抱えている矛盾も赤裸々にさらけ出し、隠そうとはされない。時には自分のジョークに自分で大受けして、腹の底から高笑いされる(同じような世界的宗教指導者でも、現任のローマ教皇ベネディクト16世が公の場で自分のジョークに大笑いする様子など、私には想像もつかない)。こうした法王の気質を批判する向きもあるようだが、少なくとも私にはこの上なく自然な態度に思える。
 ひとときではあったが、現代世界の最高の人物と、同じ場で同じ空気を共有することができた。これを幸せといわずしてなんと言おう。

 講演が終わった後は福岡に足を伸ばし、KK博物館のIR氏を呼び出して、中州で痛飲。

2008.09.22

清水寺を語り、書写山に登る、の巻

 9月19日(金)
 朝日カルチャーセンター京都の巡見で、醍醐寺の見学会。しかし、台風が接近しているというので気が気ではない。あんのじょう、ポツリポツリと降り出したかと思うと五重塔の前で大雨になる。あわてて三宝院に駆け込んで、庭園を眺めながら雨宿り。
 先日、上醍醐の准胝堂<じゅんていどう>が落雷で火災となり、全焼した。現在、上醍醐への入山は全面禁止となっている。自然災害ではあるし、上醍醐の重要文化財建築は難を逃れたとはいえ、なんとも心痛むことである。

 9月20日(土)
 明後日の予習を兼ねて、清水寺の拝観。ものすごい数の観光客に圧倒される。ちょうど、花山法皇1千年の御遠忌ということで、秘仏のご本尊・十一面千手観音菩薩像の御開帳がおこなわれている。

 9月21日(日)
 伯父の誕生祝い会。90歳の高齢であるが、まだまだカクシャクとして元気でいてくれるのが嬉しい。どうかいつまでも健康で長寿を保たれんことを・・・

P1080171 9月22日(月)
 姫路市教育委員会主催の「平成20年度市民教養講座 歴史遺産Cコース・世界遺産の寺社を訪ねる」の第6回「清水寺・地主神社」に出講。中世史の大家・UM先生から御指名をいただいたので、喜んで出かける。会場は姫路市市民会館の大ホール。驚くべきことに、600人くらいの参加者がおられるという。10時から11時50分までの2時間近くという長講一席だが、それもみなさん熱心に聞いていただく。姫路市民の旺盛な知的好奇心には、まさに脱帽である。
 午後から時間が空いたので、せっかく姫路まで来たのだから、書写山円教寺(えんきょうじ、だと思っていたら、えんぎょうじ、なのだという)に登ることにする。これまで行きたい行きたいと思っていたのだが、なかなかその機会に恵まれなかった。ロープウェーで山上まで上がったのでもうすぐだと思ったらとんでもない。さすがは播磨の名刹、巨大な境内地と伽藍を持つ大寺院である。山道をふうふう言いながら中心伽藍にたどりつき、摩尼殿(写真)や大講堂(本堂)の壮麗さに見とれる。

2008.09.21

『中国貴州省 少数民族の暮らしと祭り』、の巻

Kisyuu ステキな本ができあがった。西幹夫(写真)、黒川美富子(紀行文編集)『中国貴州省 少数民族の暮らしと祭り—苗族・トン族・プイ族・老漢族の村々を行く—』(文理閣)。中国・貴州省の写真集・紀行文集である。私も、「民族で見る貴州」という一文を寄稿させてもらった。
 とにかく、写真がすばらしい。著者の西幹夫さんという方、普通のサラリーマン生活を送ってこられたのだが、50歳の時にふと思い立って写真教室に通い始めたという。そして、特に中国の周縁地域に魅せられて取材旅行を続けて来られた。こんな言い方をすると失礼ではあるが、大器晩成、という言葉がピッタリくる。この本のどの頁からも、貴州省の土の匂い、人々の息吹がただよってくるのを感じざるをえない。その1コマ1コマを丹念に切り取った西さんの才能には、まさに脱帽である。
 そもそも日本では貴州省はあんまり知られていないし、貴州をテーマとした単独の書物もほとんど見られないはずだ。その意味でもこの本は貴重な存在になったと思う。

 私が貴州に行ったのは、2002年の年末から翌年の正月までのことだった。西さん・黒川さんのお供をさせていただいて、始めて異国の地で大晦日と正月を過ごした。しかし、暖かいはずの貴州に大雪が降るという、何十年に一度の異常気象を体験した。その顛末は本書所収の紀行文に書いたので、ご興味のある方は御覧いただければ幸いです。ただ、今年の初めの「チベット騒乱」などの事件によって、中国の少数民族政策の矛盾と問題点が白日のもとに晒された。そうした危惧も盛り込んだので、紀行としてはちょっと毛色の変わった内容かもしれない。

 本書のお問い合わせは、書店または、「図書出版・文理閣」(京都市下京区七条河原町西南角、電話075-351-7553)へどうぞ。

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【書いたもの】
■山田邦和「民族で見る貴州」(西幹夫〈写真〉、黒川美富子〈紀行文編集〉『中国貴州省 少数民族の暮らしと祭り—苗族・トン族・プイ族・老漢族の村々を行く—』所収、京都、文理閣、2008年9月)、213〜222頁。
■山田邦和(監修・文)「リアルイラスト 【鳥瞰】秀吉時代の京都」(『決定版 図説 戦国合戦地図集』〈「歴史群像シリーズ」特別編集〉所収、東京、学習研究社、発行年不記載〈2008年〉)、93〜96頁(「鳥瞰イラスト 秀吉の京都」〈歴史群像シリーズ 戦国セレクション『驀進 豊臣秀吉』所収、東京、学習研究社、2002年4月〉の再録)。
■山田邦和「学界消息〜角田文衞氏の訃」(『日本歴史』第724号掲載、東京、吉川弘文館、2008年9月)、139頁。

2008.09.08

中世都市研究会大会、の巻

 9月4日(木)
 井上道義指揮京都市交響楽団の演奏会。曲目は、モーツァルト:アダージョとロンド、クセナキス:ノモス・ガンマ、ホルスト:組曲「惑星」。実はこれ、1990~1998年に京響音楽監督&第9代常任指揮者を務めた井上さんが、1990年7月に音楽監督&常任指揮者就任披露演奏会(京響第326回定期)で演奏したプログラムをそっくりそのまま再現したものだそうだ。モーツァルトは、フルート、オーボエ、ヴィオラ、チェロの四重奏曲で、井上さんは指揮とチェレスタを兼ねている。クセナキスの曲は、オーケストラが指揮者を取り巻くサラウンド形式で、一番外周には四組の打楽器が配され、迫力満点の音を出す。
 聞き物はなんといっても「惑星」。私の大好きな曲である。この曲での井上さん、いつものようなケレン味をいささか押さえて、着実な音づくりをやっている。「惑星」といえば金管群の見せ場が多いので、ちょっと心配していた。しかし、この期待は良い意味で裏切られた。いゃあ、京響の金管がこんなにウマかったなんて! 特にチューバの活躍がすばらしい。さらに、京都コンサートホール自慢の、日本最大級のパイプオルガンが加わって、迫力満点の合奏を聴かせてくれる。

P10709589月6・7日(土・日)(上:方形周溝墓の表示、下左:弥生2丁目遺跡、下右:弥生式土器発掘ゆかりの地の石碑)
 東京で、2008年度中世都市研究会「都市を比較するーー東アジアの都市と住宅」。行きたいとは思っていたのだが最後まで予定がたたず、ほとんど諦めていた。しかし、ウチの奥さんが背中を押してくれて、やっと出かける決意がつく。
 会場は東大だとしか聞いていなかったので、地下鉄の本郷3丁目駅で降りる。東大の赤門まで行って係の学生さんに聞くと、なんと、赤門からは正反対の浅野キャンパスだという。ぐるっと回り道をして、やっと到着。しかし、このあたりは日本考古学にとっては記念的な遺跡、つまり「弥生式土器」「弥生時代」の名祖<なおや>となった旧・本郷弥生町の向ヶ岡貝塚である。浅野キャンパスの隅には「弥生式土器発掘ゆかりの地」の石碑(写真)が立っている。会場の綺麗な建物の隅には、発掘された方形周溝墓が表示されている(東大のTS准教授が案内してくれた。TSさん、ありがとうございましたm(_ _)m)。さらに、キャンパスの隅っこには「弥生2丁目遺跡」の一部が残されている(写真)。
 今回の中世都市研究会は、東アジア各地の都市と住宅がテーマ。朝鮮半島、中国大陸、ベトナム、鎌倉、十三湊、益田、博多、豊後府内の、それぞれ最新の成果を勉強させてもらう。懇親会ではひさしぶりの先生方に御挨拶。二次会はKRM博物館のMJさんと痛飲。

2008.09.04

ひとつの仕事、完了、の巻

 9月3日(水)
 ずっとずっと懸案になっていた(と、いうよりも、ズルズルと遅れていた)大きな仕事がある。今度こそなんとかしなくては、ということで、一気にとりかかることにした。問題になるのは図面。昔々に作った図面が沢山あるし、それをそのまま使っても良いのだが、やはり、せっかくだからもっと綺麗なものを、という欲がでる。これが間違いのもとで、結局は図面の山を前にして歎息を続けるだけということになってしまった。気を取り直してひとつづつ片づけていくのだが、文章を綴るのではなく、図面というのはやっぱり肩が凝る。ホント、身体を壊す寸前まで行った気がするぞ(>_<)。
 まだまだ不都合は残っているような気がするが、いつまでもそんなことを言っていたらまたズルズルと延びることは必定である。目をつぶってエイヤッと完了し、小包にして発送。ふぅ・・・・ くたびれた・・・

2008.08.30

チベットに願いをこめて断食、の巻

National_flag 8月30日(土)
 午前7時。それでは、中央チベット行政府(チベット亡命政府)とダライ・ラマ法王日本代表部のよびかけに応じて、
「全ての生きとし生きるもの、特にチベット人と中国人の悪い行為を清めるため、そして善いカルマ(善業)を蓄積するため。
「これにより、ダライ・ラマ法王の長寿と健康をもたらし、衆生の繁栄と利益に対する法王の活動を支援します。
「全人類が平和と調和のなかで暮らせるよう、世界におけるあらゆる闘争、病気、苦しみ、惨禍を緩和します。
「今年三月のチベットにおけるデモで政治的理由で闘い、亡くなったチベット人達の悪い行いを清め、彼らがより良い来世に生まれ変わり、いずれは輪廻から解脱するのを助けします。そして中国の残忍な圧制での虐待行為に今なお耐え続けているチベット人達を苦しみから即座に楽にさせるため、チベット問題の真実を早く普及させます。
「威力弾圧と暴力の犠牲となり、宗教の自由と良心や発言の自由に恵まれていない世界中の全ての人々と、特にチベットの人々を自由にし、幸福と自由を享受させます。又、圧制者達の心にある全ての憎しみを取り除き、彼らを慈悲と智慧をもって導きます。
「そして、圧制者に対する慈悲と慈愛から生まれた非暴力かつ平和的な方法で、弾圧行為や暴力そして人権侵害に有効的に反対するよう、全人類に真剣に呼びかけてアピールします。」
の願いをこめて、ささやかではありますが、午後7時まで食を断ちます。

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P1070932 午後7時。12時間の断食が終わりました。この日、日本中で、世界中で、中央チベット行政府のよびかけに呼応してたくさんの人々が食を断ち、チベットに想いを馳せていたはずです。
 せっかくこんなことをやったんだから、断食明けはチベット料理店・ランゼンで食事(写真はチベットのバター茶)。チベットの皆さんの安寧、ひいては全人類の幸福と、ダライ・ラマ14世法王猊下の御長寿を祈念しつつ、ささやかに乾杯。

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西本智実、渾身のチャイコフスキー、の巻

 8月23日(土)
 京都府向日市で、長岡京の北郊の遺跡の現説。あいにくの雨。
 午後は、前近代都市論研究会@伏見。懇親会は伏見の老舗・鳥せい・本店。いつものことながら大人気の店で、ズラリと行列が待っている。私たちは予約客なのでその横をすり抜けて、なんだか申し訳ない。スペシャル席の、土蔵の中を貸し切りである。近くにすごくおいしいおでん屋さんがある、と、いつもの3悪トリオのY氏が宣い、同トリオ筆頭の某古代史研究者K氏がどうしても2次会でそこに行きたい、というので、行くことになる。確かにおいしかったが、最後のお雑炊まで食べてしまうと、身動きとれないほどにお腹がいっぱい。

 8月24日(日)
 向日市文化資料館で、「絵で見る考古学—早川和子原画展」と、京都府埋蔵文化財調査研究センターの「小さな展覧会」を見学。
 午後は、京都コンサートホールで、KF大学のIN教授(日本中世史)御出演の「出口武とその仲間たちPart12」を聞く。曲目は、ヴェルディの歌劇「リゴレット」「トロヴァトーレ」のハイライト。IN教授はトロヴァトーレのルーナ伯爵で御登場である。会場では、K大学のMY教授、SN大学のMK教授とバッタリ。結局、みんなで飲みに行くことになる。大役を果たしたIF教授も後で合流。さんざっぱら、騒ぐ。

 8月26日(火)
 大学で仕事を済ませて、息せき切って京都ブライトンホテルにかけつける。「第20回京都ブライトンホテル協力会 定期総会」があって、そこで講演を頼まれた。せっかく源氏物語1000年紀だということで、テーマは「ブライトンから見る平安京と源氏物語」とする。このホテルの西南の一角は、平安時代の陰陽師安倍晴明の邸宅跡にひっかかっているので、場所としてはまことにふさわしい。社長さんに御挨拶すると、この方は角田文衞先生の御親戚にあたるという。しらなかった・・・ 終了後は、担当してくださった同ホテルのHさんとKさんとでおいしい中華料理。ホテルのバーでは、「晴明」と名付けられたカクテルをあおる。

 8月27日(水)
 京都コンサートホールで、西本智実さんの指揮する大阪フィルハーモニー交響楽団の特別演奏会。ヴェルディ:歌劇「運命の力」序曲、スメタナ:交響詩「わが祖国」より「ヴィシェフラド(高い城)・モルダウ」、チャイコフスキー:交響曲第5番 ホ短調というプログラムである。いやあ、凄かった。特に、彼女の得意のチャイコフスキー(チャイコフスキー財団記念ロシア交響楽団を指揮したDVDも出ている)が圧倒的だった。西本智実という指揮者、容姿の美しさばかりが取り沙汰されて(もちろん、すばらしくキレイなのは確か)人気ばかりが先行しているように言われることがあるが、それは大きな誤りであろう。この曲、チャイコフスキーらしく管楽器が大活躍するが、ホルンがひときわ安定した名技を聞かせてくれるのが嬉しい。トランペットやトロンボーンの見せ場では、京都コンサートホール全体がビリビリと震えているのが伝わってくる。さすがは大フィルである。終了後は今まで経験したことがないほどの拍手の嵐。感極まった観客の皆さんもスタンディング・オベイションで指揮者とオケの熱演に応えている
 面白かったのは、スメタナの2曲、チャイコフスキーの第1楽章と第2楽章、第3楽章と第4楽章をそれぞれ、ほとんど間を置かずに演奏したこと。そういえば、西本さん、以前聞いたシェエラザードでもそんな工夫をしていたな。時々、楽章の間に拍手が巻き起こることがあって迷惑するのだが、その予防なのかな?
 感動の余韻をたっぷりと味わいながらの、幸福な夜となった。

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 ニュースでダライ・ラマ14世法王が入院されたと聞いて案じていたのだが、幸いにも大過なかったとのことで、一安心である。
 あすの30日には、チベットの平和と全人類の安寧を祈るための断食が呼びかけられている。私もささやかながらチベットの人々への想いを共有したいのだが、断食というのはやっぱりちょっと辛いだろうな。努力はしてみるが、果たして私にできるかな・・・・(^^;)

2008.08.18

北野天満宮の神像群、の巻

Daimonzi8月16日(土)
 今年も、大文字。3匹の犬君たちとともに、送り火に向かって手を合わせる。ルークにとっては始めての経験である。

 8月17日(日)
 新聞で見たので、北野天満宮にでかけて、宝物館で開催中の「神々の群像—一千年の時をこえて—」を拝見。本殿の奥の箱の中に平安時代中期の鬼神像群が眠っていたというから、ホント、まだまだ何が出てくるかわからないね。このたび、めでたく再び日の目をみて修理され、国の重要文化財指定という晴れ着をまとっての一般公開である。公式見解では「岐神<くなどのかみ、ふなどのかみ、ちまたのかみ>」の像とされている。私はその見解にはちょっと異論を差し挟みたいが、それでも平安時代の民衆の信仰を知るための一級史料であることは疑いない。彫刻としては稚拙だが、大きな目を見開いてどこかユーモラスな神像群に見入る。

2008.08.16

ウナギとハモと焼肉、の巻

P1070619_3←〔下鴨神社の御手洗祭〕 まだまだ暑い日が続きますね。う〜。原稿が進まないよ〜〜〜。
 
 8月2日(土)
 京都市埋蔵文化財研究所の平安京左京八条三坊四・五町跡発掘調査の現地説明会。場所はなんと!京都駅のまっただ中である。いつも近鉄電車を使う時に、近鉄京都駅とJRの線路に挟まれた細長い空間で発掘調査がおこなわれているのがよく見えていた。なんでも、近鉄がここにホテルを建てるということらしい。駅直結なので確かに利便性は良いが、この土地ではほとんど屏風のような感じの建物になってしまうだろうな。しかし、わずかな空間も有効活用しようという、なかなかに商魂たくましいことである。
 現在は京都駅の中にとりこまれてしまっているからよくわからなくなっているが、このあたりは平安時代末期〜鎌倉時代の京都を語る場合に見逃すことができない、八条院暲子内親王御所の周辺である。八条女院は鳥羽上皇と美福門院藤原得子の皇女で、両親から莫大な量の荘園を受け継ぎ、王家の資産管理者ともいえる日本最大の財産家であった。現在の新幹線の京都駅のあたりが八条院御所の跡地にあたる。今回の発掘調査地の八条三坊五町を見てみると、なんと、女院とも関係が深かった平頼盛の「池殿」の跡地である。いうまでもなく頼盛は清盛の異母弟で、平氏の中で清盛と並ぶ勢力を持っていた人物である。今回の発掘では頼盛に直接結びつくことが確実な遺構は見られないようであるが、やや時期の降る精美な泉が検出されていて、この地の邸宅が「池殿」と呼ばれた由来をうかがうことができる。最近では私も、平氏政権期を含む院政期を勉強する機会が増えてきたから、感慨深く眺める。
 それにしても、この暑い中で、しかも近鉄と新幹線の駅とJRの線路に挟まれた細い細い空間での発掘調査は大変なことである。調査担当者の皆さん、ご苦労様です!

 8月8日(金)
 某出版社でK大学JK研究所のTH氏と、次の企画の打ち合わせ。楽しい本になりますように・・・

 その後、久しぶりに大阪府枚方市にでかける。京都府立大学、京都橘大学、大阪大学の各考古学研究室が合同で、禁野車塚古墳<きんやくるまづか>の測量調査をおこなっているのである。高校生の時、学校の近くだったので、帰宅途中に枚方市のあたりの遺跡にはよく寄り道をしていた。禁野車塚古墳は京阪電車の宮之阪駅の隣だったし、また枚方市駅からもそんなに遠くなかったので、繰り返し繰り返し訪れたものである。最近では行く機会がなかったし、今年度は京都府立大学に出講させていただいているので、同大学で私の授業をとっている学生さんも参加しているというので、せっかくだから見学させてもらうことにした。
 残念ながら府立大学のHT准教授は不在であったが、枚方市文化財研究調査会のN氏が迎えてくれる。禁野車塚は、前方部の西端を現在の天野川がかすめている。もちろん流路は変わっているだろうが、この古墳の被葬者が川と密接な関係を持っていたことは疑いない。古墳は、後円部が高い割には前方部が低く真っ平ら。しかも現状で見る限り、前方部は三味線撥形に開いている。これも、後世の改変が加わっている可能性はあるが、それでも基本的な形はこの通りで良いのではないかと思う。撥形前方部を持つ前方後円墳を考える上でも、重要な古墳だと思う。
 N氏に聞いてみると、すぐ近くの特別史跡・百済寺跡でも枚方市教育委員会が発掘調査をおこなっている最中だという。担当者は私の大学での先輩であるOH氏なので、突然ではあるが覗かせてもらうことにする。大阪府には国の特別史跡はこの百済寺跡と大阪城のたったふたつしかない。また、史跡公園として整備されたパイオニア的存在としても学界では著名な遺跡である。ただ、整備から何十年もたっているので、確かに公園のあちこちが痛んできている。今回、その再整備の方針を立てるために調査を進めているのだという。
 すぐに失礼するつもりだったが、久しぶりにOH氏とお会いできたので、つい話し込んでしまい、結局は仕事終了後に飲みに行くことになる。途中からN氏にも加わってもらい、楽しい時間を過ごす。Oさん、Nさん、ありがとうございましたm(_ _)m。

 8月9日(土)
  京都市埋蔵文化財研究所の平安京左京五条三坊九町跡発掘調査の現地説明会。2週続けての現説というのもめずらしいな。今度は、四条烏丸からほど近い市街地のど真ん中である。ハイライトは室町時代の埋甕の大群で、おそらくは酒屋の跡で間違いない。埋甕の直前と推定される土葬墓が検出されていることも興味深い。

P1070733_3P1070736_2 8月10日(日)
 図書出版文理閣のKM代表の御自宅で、校正に取り組む。と、いうのは表向き(いや、そんなことはないです。ちゃんと仕事もしました。写真左の左隅に、ちゃんと校正刷が写っているでしょ(^^;))で、実はごちそう。舌の上に乗せるとそのままとろけてしまうようなウナギの白焼き、そしてカツオのタタキ、締めはハモとお素麺のお鍋。どうです、おいしそうでしょう・・・

 8月14日(木)
 同志社女子大学の朧谷寿先生の古稀記念論文集の打ち合わせという名目で、10年会。いえいえ、名目ではないです。これもちゃんと仕事をしました。山中章博士とSM博士に、早く原稿を書くようにネジを巻く。祗園の焼肉屋で、めったに口にできない高級なお肉〔写真右〕。私たちの大切な仲間のAEさんが元気な姿を見せてくれ、しかも夜遅くまで付き合ってくれたことに感謝。
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【書いたもの】
 ■山田邦和「コンスタンティノポリスの思い出」「ニュース」(『土車』第116号掲載、京都、古代学協会、2008年3月)3頁・5頁。

2008.07.26

皆様お久しぶり、の巻

 書き込みが長らく中断していました。山田はもう死んでいるんじゃないかという観測が飛び交っていたようですが、それに近かったのは確かです。先月は、O先生の古稀記念論文集の原稿書きで煮詰まっておりました。前からモヤモヤと考えていたテーマですが、いざ書き出すと問題続出で、1行書いては2行消し、こっちの史料を引用してはあっちの史料でそれを打ち消す、ということの繰り返しでした。ああしんどかった・・・ 実は、テーマは「保元の乱」。なんでそんなテーマを、と言われそうですが、京女(きょうおんな、ではない。京都女子大学の略称)の野口実教授の研究会で、K大学のMY教授やSN大学のMK教授に教えていただきながら考えたことをまとめてみました。
 とにかく、その間、ほとんど他の仕事に対応できませんでした。御迷惑をかけた皆様方に深くお詫び申し上げますm(_ _)m。
 でも、ひとつ終わってホッとしたと思うと、タイミング良く次の催促が舞い込んできます。今年はこれで夏休みはすべて潰れそうだな・・・(>_<)

 もう時季はずれですが、日記、少し取り戻しておきます。
 
 5月31日(土)・6月1日(日)
 太秦映画村近くの常盤仲ノ町遺跡の現地説明会を見学した後、三重大学の科研費の研究会へ。ヴェトナム・タンロン皇城跡の調査報告会である。私は、例の、須恵器のような「円筒形土器」の編年についての予察を発表する。

 6月7日(土)
 (財)古代学協会の「仁明朝史研究会」。

 6月15日(日)
 前近代都市論研究会。船場のまんなかの大阪市中央センターで、KMさんとNHさんの報告を聞く。

 6月20日(金)
 全国大学博物館学講座連絡協議会の全国大会で、愛知県豊橋市の愛知大学に出かける。
 ちょっと早い目に出発して、豊橋市動植物公園「のんほいパーク」とその中にある豊橋市自然史博物館を見学。いやぁ、話には聞いていたが、すばらしい博物館だ。設備も充実しているし、何よりも、学芸員の皆さんの意欲がビンビンと伝わってくるような展示がおこなわれているのが感動的である。豊橋市、凄いぞ! 「文化施設なんかいらない」と声高に叫んでいるどこかの地方公共団体の首長に見せてやりたいものである。
 全博協の大会では、現在の博物館業界の問題点があぶり出され、勉強になる。ただ、今後、大学にも博物館を附設する方向性が推奨されていきそうだという感触を得、これは心強い限りである。

 6月21日(土)
 忙しい一日。ゼミのフィールドワークで、伏見の町を巡検。そのあと、ゼミのコンパ。それから、途中退席して、「10年会」。すばらしく美味しいグジ(甘鯛)の酒蒸しの大半を山中章博士にとられたのはちょっと悔しいが、巨大な牡蠣、満願寺唐辛子のスープ、極上のトロを堪能する。何よりも嬉しかったのは私たちの大切な大切な仲間で、難病と闘っているAEさんが元気な姿を見せてくれたことである。忙しかったが、幸せな一日である。

 6月26日(木)
 学校法人同志社の組合の団交。私はどういうわけか、今年の同志社女子大学単組の委員を仰せつかっている。

 6月28日(土)
 京都府木津川市の「木津川市ふれあい文化講座」に出講。会場となった木津川市中央交流会館のいずみホールの内部は、桟敷席なんかがあつて江戸時代の芝居小屋を彷彿とさせる面白い造りである。私の「奈良山丘陵の天皇陵」と、堺女子短期大学の塚口義信学長の「聖徳太子の虚像と実像」の二本立てである。

 6月29日(日)
 同志社女子大学社会システム学会の京都研究会の巡検で、宇治。あいにくの雨模様で、すっかり私が「雨男」にされてしまう。

 7月4日(金)
 京都SKY観光ガイド協会「京都SKY観光ガイド養成講座」に出講。夜は京田辺で、ウチの大学の音楽学科管弦楽団の演奏会を聞く。なかなかの力演。

 7月6日(日)
 大阪・和泉市で「和泉黄金塚古墳を考える」のシンポジウムがあるので、でかけていく。森浩一先生が基調講演をされるので、これは聞き逃せない。大きなホールがいっぱいになっているのは御同慶のいたりである。

 7月12日(土)
 オランダのロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の首席奏者たちが結成したロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団ブラス・クインテットを聞きに行く。世界第一級のオケの奏者の妙技を楽しむ。

 7月13日(日)
 日本史研究会の市民講演会「祇園祭―よみがえる歴史とイメージ―」に出る。河内将芳氏(奈良大学)の「冬の祇園祭―戦国時代祇園会の実像―」と、田中聡氏(立命館大学)の「紙芝居『祇園祭』の再発見」。特に、半世紀ぶりに甦った「紙芝居・祇園祭」の実演が聞き物である。

 7月20日(日)
 オープンキャンパス。ウチの学科のミニ講義を仰せつかっており、「史跡が語る京都の歴史」を午前と午後に開陳。

 7月23日(水)
 やっと、前期の授業の最終。夜はMK氏が東京から来られたので、D大学のMK教授とともにD大学内のフレンチ・レストランで歓談。

 7月25日(金)
 東京より、平家琵琶のSMさんが上洛。下鴨神社のみたらし祭に同道して、清らかな御手洗川の水に足をつける。

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【書いたもの】
 ■山田邦和「『源氏物語』の平安京—固定概念にとらわれない真実の姿求めて—」(『京都民報』第2336号〈2008年5月25日号〉掲載、京都、京都民報社、2008年5月)5頁。
【講演その他】
 □「平安京の天皇陵—大規模陵墓から仏式陵墓へ—」(京都アスニー「ゴールデン・エイジ・アカデミー講座」、於同センター、2008年5月16日)
 □「平安京への道」(ラボール学園〈京都勤労者学園〉「日本史講座—歴史のなかの京都と他所(古代・中世)—」、於同学園、2008年4月28日)
 □「平安京の世界」(京都府立嵯峨野高校社会人講師の講義、2008年6月3日、於京都府立嵯峨野高校)
 □「平安京・京都の歴史を歩く(21)初期摂関時代の展開と御室仁和寺」(朝日カルチャーセンター京都、於同センター、2008年4月11日、5月9日、6月13日)
 □「京都の原点を探る 第7期 院政期の京都」(京都新聞文化センター〈京都検定・京都学講座〉、於同センター、2008年4月25日、5月23日、6月27日)
 □「奈良山丘陵の天皇陵」(木津川市・木津の文化財と緑を守る会・興福寺「第5回木津川市ふれあい文化講座」、於木津川市中央交流会館、2008年6月28日)
 □「京都の歴史(1)(2)」(京都SKY観光ガイド協会「京都SKY観光ガイド養成講座」、於はーとぴあ京都、2008年7月4日)

2008.05.28

平安京・京都研究集会「戦国時代の本能寺と織田信長」、の巻

5月25日(日)
 第17回 平安京・京都研究集会「戦国時代の本能寺と織田信長」を開催いたしました。多数のご来場、ありがとうございました。

 午前中は本能寺跡などを巡検。集合場所の阪急大宮駅に、どんどん人が集まってくる。問い合わせもかなりあったのである程度予想はしていたが、それでも嬉しい悲鳴である。山本雅和氏の解説付きで、大宮六角の本能寺跡、西洞院六角の本能寺跡(「本能寺の変」がおこった場所)、南蛮寺跡、妙覚寺跡、二条新造御所(二条殿)跡などを廻る。いつも通っている場所なのだが、やはり問題意識を持って見ると勉強になる。
 午後はシンポジウム。とうてい座席が足りないと予想できたので、急遽、新たな椅子をたくさん運び込む。吉川義彦、河内将芳、仁木宏、山本雅和の各氏による報告とコメントも充実したものとなった。私は仁木さんと共にシンポジウムの共同司会を担当。ちょっと討論の時間が足りなかったが、なかなか問題点があぶり出されてきたぞ。
 充実した研究会が終わったあとは、例によっての「打ち上げ」懇親会。受付に座っていただいたウチのゼミ生のKTさん・KCさんも参加してくれる(ご苦労様でしたm(_ _)m)。おそらく彼女らにとっては、こういう研究会も懇親会も始めての経験だったと思う。最新の研究成果がぶつかりあい、新たな問題意識に向かって止揚していく現場を経験することは、学問の素晴らしさを感じる一番の方法だと思う。これからも、できるだけ学生諸君にこうした現場を見てもらいたいと思う。

2008.05.21

平安京・京都研究集会「本能寺」予告、の巻

下記の通り、第17回「平安京・京都研究集会」を開催いたします。ふるってご参加ください。

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第17回 平安京・京都研究集会「戦国時代の本能寺と織田信長」
 ご無沙汰してしまい、申し訳ありません。平安京・京都の歴史の学際的研究を積み重ねてきた「平安京・京都研究集会」を久々に再開いたします。
 織田信長が思いがけない最期を遂げた本能寺の変は、戦国の世を揺るがす大事件として、天下統一への歩みを大きく塗り替えました。近年、本能寺跡の発掘調査がめざましい進展を見、従来では考えられなかったような新知見が続々と提示されつつあります。この機会に、本能寺の変の解明を単なる「謎解きゲーム」に終わらせるのではなく、京都の都市史の中に的確に位置づけようとする試みに挑戦いたします。考古学と文献史学のコラボレーションによる新しい歴史像の表出にご期待ください。

日 時 2008年5月25日(日)
現地巡見 午前10時、阪急電車大宮駅改札口集合(本能寺跡、南蛮寺跡、妙覚寺跡、二条御所跡など)         案内:山本雅和氏(京都市埋蔵文化財研究所)
シンポジウム  午後1時半〜午後5時
  場 所 機関誌会館5階大会議室(京都市上京区新町通丸太町上ル東側。市バス府庁前下車すぐ。または地下鉄丸太町駅下車2番出口より西へ2筋目を北へ、徒歩5分)
  報 告   吉川義彦氏(関西文化財調査会、考古学) 「本能寺跡の発掘調査」
        河内将芳氏(奈良大学、日本中世史) 「文献史料からみた中世の本能寺」
  コメント  仁木 宏氏(大阪市立大学、日本中世史) 「都市京都と本能寺・信長」 
        山本雅和氏(京都市埋蔵文化財研究所、考古学) 「本能寺の発掘調査への所見」
主催  平安京・京都研究集会   後援  日本史研究会
要資料代。一般来聴歓迎。
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皆様へお願い
 平安京・京都研究集会の案内は、従来は郵便でおこなってきましたが、省力化と会計の簡素化のため、今後はできるだけ、電子メールの利用に切り替えていきたいと考えます。電子メールでの連絡は無料とさせていただきますので、できるだけこちらのご利用をお願い申し上げます。下記のアドレスに、住所・氏名・所属を明記の上、「電子メールでの連絡希望」と書いてお送りいただければ、会員名簿に登録いたしますので、よろしくお願い申し上げます。
平安京・京都研究集会 事務局 山田邦和 FZK06736アットマークnifty.ne.jp(スパムメール防止のため、一部変更しております。「アットマーク」は「@」です)

2008.05.20

角田文衞先生御葬儀、の巻

Hon〈←角田文衞先生の御著書・編纂書の数々。圧倒される・・・〉

 5月14日に95歳で御逝去された角田文衞先生の御葬儀は、通夜が18日(日)18時〜19時、告別式が19日(月)12時半〜14時半に、いずれも、京都駅八条口からほど近い公益社京都南ブライトホールにおいておこなわれた。私は受付の隅っこでお手伝いをさせていただく。さすがに大先生の御葬儀だけあって、ホールは満杯である。告別式での弔辞は作家・瀬戸内寂聴さん、京都大学名誉教授・樋口隆康先生が読まれた。最後のお別れを、ということで棺の中に花を捧げると、そこには小さく小さくなられた先生が眠っておられた。感謝の言葉をつぶやきながら合掌するが、思わず目頭が潤んでくる。

 私が始めて角田先生の御名前を知ったのは、小学校六年生の時であった。町を自転車で走っていた私は、『紫式部邸宅跡』という看板を掲げた廬山寺というお寺を見つけた。あれっ、紫式部はウチの近所に住んでいたんだ、と思ってなんだか嬉しくなった私は、早速、寺の境内に入ってみた。本堂の前には白砂と苔で造られた清楚な庭があり、そこに紫式部の邸宅跡を示す大きな石碑が据わっていた。本堂の長押の上には、ここに式部邸が存在したことを考証した壮年の学者の写真がかかっていた。キリリとひきしまった端正な容姿が、子供心にも強い印象を与えずにはいなかった。お寺の人が「これは平安博物館館長の角田文衞先生といい、ここに紫式部が住んでいたことを証明してくださった偉い先生なんです」と説明してくれた。これが、私と角田先生との『出会い』だった。
 後年、この話を先生にすると、「あなたはそんな早くから私の名を知っていてくれたのですか」と、逆に感激していただいた。光栄なことである。

 廬山寺ではさらに、平安博物館は三条高倉にあるということを教えてもらった。ヘェ、三条高倉ならばウチのすぐ近所だ、と思うと、私は今度は平安博物館の探検にでかけた。重厚な赤煉瓦の建物の入口をくぐると、展示室はひっそりと静まりかえっていた。京都の人にとって「博物館」というのはまず京都国立博物館のことであるし、私も同博物館には行ったことがあった。しかし、平安博物館は私がそれまで知っていた博物館像とはまったく異なった博物館であった。過去の文化財を単なる美術品として並べるのではなく、そのひとつひとつに歴史を語らせようとする意図が痛いほど伝わってきた。特に、中央ホールの実物大の平安宮内裏清凉殿復元模型は圧巻だった。平安博物館は日本の「歴史博物館」のパイオニアであったのである。私はすっかり魅了されてしまった。こんな博物館を造りあげた角田先生とはどんな人なのだろうか。それ以来、私の心には先生の名前がくっきりと刻み込まれることになった。

 高校時代には、清水睦夫先生「世界史」の講義を受けることができた。清水先生は当時の日本では珍しいロシア・東欧史の学者で、角田先生の高弟であった。私は清水先生の名講義(明らかに、高校の授業のレヴェルをはるかに突き抜けていた)を通じて、「角田史学」の真髄に触れたのである。それに刺激された私は、角田先生がローマ帝国の章を執筆された山川出版社の『世界各国史・東欧史』(旧版)を紐解いた。この本は、帝国の東西分裂を認めず、古典ローマ帝国→中世ローマ帝国という体系でヨーロッパ史を理解しようとする史観で貫かれていた。そこにあったのは、教科書的なヨーロッパ史とはまったく違った世界だった。歴史とは視点を変えることによってどんなに魅力的になるものなのか、それを私は始めて教えられたのである。
 清水先生は、私の家が京都の中京にあることを知り、時々、『古代文化』への起稿論文を平安博物館に届けて欲しい、と頼まれるようになった。郵送すれば済むことなのであるが、それをわざわざ私に命じられるのは、私が考古学に志していることを知っておられたから、平安博物館とのつながりを作ってやろうというお気持ちだったのだと思う。そうして改めて訪ねてみた平安博物館は、高校生の私にとってはまさに見上げるような学問の殿堂であった。当時の私にとって、平安博物館というのは憧れの的であった。

 大学進学が決まる頃、私は『古代学序説』の読破に挑戦した。この名著の『凄さ』については既に語り尽くされている。考古学・文献史学等の統合の上に立ち、世界史的な視野にもとづいた『古代学』の偉容! それは、まさに圧倒的な感銘を私の心に残すものであった。
 当時、平安博物館では大学の授業に準じた「古代学講座」を開催していた。平安博物館の研究員がそれぞれ自分の分野の講義をおこなうのである。館長・角田先生御自身は、土曜日の午前の授業を担当しておられた。大学2回生の時、私は角田先生の講義の受講を申し込んだ。驚いたことに、館外からの受講生は私ひとりで、他は平安博物館の研究員(学界の第一線で活躍されている早々たる先生方である)が受講されるのである。角田先生の講義は、独特の東北弁の訥々としたものであったが、内容は厳しかった。角田先生は絶えず研究員を指名して質問をあびせかけ、答えられないと「あなた、こんなことも知らないのですか」「考古学をやっている以上、こんなことは常識です」などとキツイことを言われるのである(その実況中継の一部は、語りぐさになっている「設問・平安博物館研究員諸氏との対話」〈『古代文化』第32巻第12号〉に見ることができる)。

 駆け出しの時代にこうした高い理想を持つ史観に触れたことは、その後の私の歩む道を決定した。私は今までにさまざまな細かい研究にとりくんだが、そのそれぞれが私なりの『古代学』のテスト・ケースであるという意識は失っていないつもりである。ある人は私の研究を、考古学者としては珍しく文献史学の成果の吸収に積極的だ、と評してくれる。もし本当にそうだとすると、それは私が、『角田史学』から学んだ通り、考古学者である以前になによりもまず歴史学者でありたい、という願いを常に持ち続けているからだと思う。その意味で、『角田史学』に触れることがなければ今の私は存在しなかったであろう。

 大学院博士課程前期を修了した後、私は平安博物館研究嘱託(非常勤)・同館発掘調査部調査員として半年過ごし、それから(財)古代学協会研究員・平安博物館助手に正式採用された。平安博物館への就職が決まった時の嬉しさを、私は生涯忘れないであろう。古代学協会での仕事で最も思い出深いのは、『平安京提要』の編纂事業であった。これを私に命じられた時に角田先生は微笑みながら「この仕事をやりとげることができたならば、『平安京の権威』になれますよ」と言われた。駆け出しの私にとってこれは確かに大きなチャンスをいただいたことであった。もちろん、今でも「平安京の権威」になれたわけではないのであるが、この仕事をやったことによって暗中模索だった私の平安京研究に大きな曙光が指したことは間違いない。ありがたいことであった。

 角田先生に会うたびに言われるのは、「研究者は著書を出さねばなりません」「本を出す予定はどうですか」ということであった。だから、私が博士号を取得し、博士論文を公刊した時には大変々々喜んでいただいた。しかし、その後も会うたびにそう言われるのはなかなか辛いものがあった。最近になってようやく、平安京・京都都市史関係の論文をまとめた論文集を公刊する予定となり、そのことを申し上げるとこれも大変喜んでいただけた。しかし、私の怠惰から同論文集はまだ刊行できず、ついに先生の生前にお目にかけることができなくなってしまった。痛恨事である。

 最近では、さすがにお身体が弱られ、目が見えにくくて本が読めない、とボヤいてられたし、また脚も弱って歩行が困難になっておられた。しかし、古代学協会の「仁明朝史の研究」を始めとして、色々な企画を考え出されては矢継ぎ早に指示を出しておられることは変わりなかった。
 先月の9日、先生の95歳の誕生日に協会の西井芳子・鈴木忠司両氏とともに御自宅にうかがった。ベッドに横たわったまま起きあがることができなくなっておられたことは、なんとも悲しかった。それでも驚いたのは、頭脳は最期まで明晰で、小さな声で「私はまだまだやりたいことがあるのです」とおっしゃっておられたことであった。この時が、私にとって生前の先生との最期の別れになった。

 考古学と文献史学を総合し、洋の東西を問わず世界史の全分野を対象とされた大学者。自力で資金を集めて研究機関を設立・運営していくという離れ業を続けてこられたことも驚嘆に値する。もう、こんなスケールと行動力を兼ね備えた学者は出てこないかもしれない。角田先生の御冥福をお祈りし、先生の「理想」のたとえ万分の一であっても引き継いでいくことを誓いたいと思う。

2008.05.18

1
〈2001年4月、角田文衞先生米寿記念会にて。中央:角田先生。左:角田有智子夫人〉

2008.05.15

巨星墜つ

財団法人古代学協会名誉会長・社団法人紫式部顕彰会会長、文学博士
角田文衞先生におかれましては、
5月14日午後11時59分、御逝去になられました。
95歳でした。

謹んで先生のご冥福をお祈り申し上げます。

2008.05.01

凄いぞ!広上淳一・井上道義、の巻

 4月18日(金)
 京都市交響楽団の第511回定期演奏会。第12代常任指揮者に就任された広上淳一さんの就任記念演奏会である。曲目は、コープランド:市民のためのファンファーレ、ハイドン:交響曲第104番「ロンドン」、リムスキー=コルサコフ:交響組曲「シェエラザード」。広上さんの指揮は、以前に小山実稚恵さんのバックを努められた時に聞いたことがあるだけなのだが、その時にはなんだかビジネスライクに聞こえて、正直言ってあんまり感心しなかった。だから私は、広上さんが京響の新常任になると聞いて、どこまで期待できるか、懐疑的になっていた。しかし、これはどうも私の不明であった。嬉しい誤算とでもいうのか、この日の演奏会は凄かった。最初にコープランドのファンファーレは、これから京都市民と共に歩んでいこうという広上さんの決意がビンビンと伝わってきた。ハイドンも充実していたし、なによりも、私の大好きな「シェエラザード」がすばらしい。ヴァイオリン・ソロを受け持った京響のコンサートマスター、グレブ・ニキティンさんのロマンティックな響きもなんともいえない。広上さんの指揮も余裕綽々で、思いのままにオケをドライヴしながら、シンフォニックにまとめていく。凄い、凄いぞ、広上淳一! 
 閉演後は、おそらく広上さんのアイデアなのだろう、ホールでミニ・コンサートと触れ合い会。広上さんもTシャツに着替えて、気さくに観客の皆さんと語り合い、サインをしている(広上さんって、すごく小柄な人なんですね。ステージ上でのエネルギッシュな指揮姿を見ていると、もっと大きい人のように思っていた・・・)。いっぺんで、広上さんのファンになってしまった。京響、素晴らしい新指揮者を迎えてくれてありがとう!

 4月25日(金)
 朝、ひとつ用事をすませ、それから京都新聞文化センターの講座をやって、某古本屋さんで交渉事をやり、京都文化博物館の特別展「源氏物語千年紀展」のオープニングにでかける。けっこう忙しいぞ。「源氏物語千年紀展」は、源氏物語の存在が確認されてから千年となる今年を記念する各種のイヴェントの中で、中心となるものである。さすがにリキの入った展覧会で、絢爛豪華。
 それから、京都コンサートホールでの特別演奏会、第9回現代日本オーケストラ名曲の夕べ「道義の一押し」にでかける。指揮は私たち夫婦が大好きな井上道義さん。管弦楽は京響を中心として全国のオケから集まった臨時編成のオールジャパン・シンフォニー・オーケストラである。曲目は、芥川也寸志 「オルガンとオーケストラのための響」、伊東乾「天蓋の碑」、石井眞木「交響詩 祇王—横笛とオーケストラのための—」、そして井上道義さんの自作「メモリー・コンクリート」。中でも聞き物だったのは、京都コンサートホールのパイプオルガンが躍動する芥川さんの「響」と、井上さんの自作。後者は以前にも聞いたことがあり、その鮮烈な響きに感動した。楽章の途中に「指揮者のためのカデンツァ」(!)という破天荒な部分がある。要するに、小太鼓のリズムだけに乗って、指揮者が好きなパフォーマンスを繰り広げる、という部分である。ここでの井上さん、礼服を脱ぎ捨ててTシャツ姿になり、ボール紙製の王冠をかぶってタップダンス。それから花束を受け取って楽員ひとりひとりに配っていくという、やりたい放題である。しかし、ほかの人ならばやりすぎと感じられるようなことでも、この人がやるとまったく見事なまでにツボにはまるんだよな。指揮者、オケ、観客が一体となって楽しめた夜だった。

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■京都新聞出版センター編、井上由理子・今西健二・河村吉宏・熊谷栄三郎・黒田正子・高野澄・中村武生・中村勝・永守淳爾・西村彰朗・藤慶之・山田邦和執筆『第4回京都検定 問題と解説』(京都、京都新聞出版センター、2008年4月21日)

2008.04.18

人文地理学会例会と授業開始、の巻

 4月11日(金)
 朝日カルチャーセンターへ出講。
 午後は、京都大学構内遺跡の「吉田泉殿町遺跡」の現地説明会にでかける。鎌倉時代の京都朝廷の重鎮で従一位太政大臣にまで昇った西園寺家の藤原公経の別業「吉田泉殿」の推定地ということで、これは見逃せない。担当者である京都大学文化財総合研究センター(旧・埋蔵文化財研究センター)のIA助教の解説のもと、見事な石敷の雨落溝を持つ建物跡が検出されており、興味深くながめる。京都市文化財保護課の課長に就任されたKT氏や京都市埋蔵文化財研究所の皆さんとともに、遺跡の評価について議論する。

 4月12日〈土〉
 人文地理学会第263回例会「歴史都市の景観復元研究」(於佛教大学四条センター)に出席。私は人文地理学会の会員ではないのだが、幹事をつとめられるB大学のWH教授から、報告を依頼された。私の「中世都市嵯峨の復元」、奈良女子大学の中西和子氏の「伏見城下における都市構造の変遷」の報告と、神戸大学の藤田裕嗣教授の「コメント」がおこなわれる。他分野の研究者の方々の前で喋るのは勝手が違うものだし、学界の重鎮であり、我が国を代表する巨大研究機関のチーフに就任されて御多忙を極めているKA先生までも御出席になっており、いささか緊張する。しかし、討論は大変有益。皆様方からの御教示に多謝。場所を変えての懇親会では、KA先生、OG大学のMS教授らと共に、おいしいワインで乾杯。さらに河岸を変えて、ホテル・グランヴィアのバーで、またまたワイン。

 4月13日(日)
 3回生ゼミの今年始めてのフィールドワークとして、京都御所の一般公開にでかける。桜花は盛りをすぎていたが、しだれ桜で満開のものもまだまだあり、新春の御所を皆と一緒に楽しむ。ついでに、京都府庁本館の一般公開に足をのばす。

 今年度春学期の授業(特記なきものは、同志社女子大学現代社会学部)
〔月〕2講時 「専門基礎演習」(2回生ゼミ)
   3講時 「基礎演習」(1回生ゼミ)
   7講時 同志社大学「日本史」
〔火〕2講時 京都府立大学大学院文学研究科「日本考古学講義IA」
〔水〕2講時 「卒業研究」(4回生ゼミ)
   3講時 「博物館概論」
〔木〕2講時 「応用演習」(3回生ゼミ)
   4講時 「考古学I」

 この他、大学の授業ではないが、金曜の午前には毎月各一回づつ、朝日カルチャーセンターと京都新聞文化センターの講座がはいる。なお、本来は同志社女子大学大学院文学研究科「考古学特論」も予定されていたが、登録をしてみると今年は受講生がゼロとなり(3年に一度くらい、こういうことがある)、残念ながら休講(>_<)。
 同志社大学の「日本史」は夜の授業。昨年は金曜6講時(18時25分〜19時55分)だったが、今年は月曜の7講時、つまり20時05分〜21時25分という遅い時間になった。そんな時間まで学生は学校には残っていないだろう、受講生はせいぜい十数人くらいだろうと予想していたが、フタをあけてみると登録者は180人にのぼっている。何がおこったのだ? 最近の学生さんは夜遅くの授業を苦にしないのかもしれない。
 「応用演習」は3回生ゼミ、「卒業研究」が4回生ゼミ、つまりこのふたつが同志社女子大学でのメインの「山田ゼミ」ということになる。去年は新人ということで少なかったが、今年の応用演習は17人となる。さあ、どういうことを学んでもらうか、授業の前日まで考えあぐねる。とにかく、京都の史跡を見てくれなくては話にならないので、最初から「フィールドワーク重視」を宣言しておき、今年は5回くらいの巡検とゼミ合宿を予定することにする。また、「博物館概論」も、一年たってようやく知名度がでてきたのか、去年よりは受講生が増加。

2008.04.14

工藤静香さんHAPPY BIRTHDAY、の巻

 2008年4月14日(月)
 本日は工藤静香さんの38回目のお誕生日。おめでとうございますm(_ _)m

P1060476
 写真は、先月発売された「歌手ソロデビュー20周年記念企画第3弾」の「Shizuka Kudo 20th Anniversary B-side collection」。つまり、これまでのシングルのうち、A面収録曲は「Shizuka Kudo 20th Anniversary the Best」に集大成された。そこで今回は、B面収録曲の多くが集められたのである(とはいうものの、1996年の映画「爆走!ムーンエンジェル—北へ」の主題曲「ルナ—月の女神」などはなぜか収録されなかった。ゴキゲンな曲なので、ちょっと惜しいぞ)。B面収録曲というのは日があたらず、知らず知らずのうちに埋もれてしまうことが多いので、これはありがたい。
 このCDで一番嬉しいのは、初回限定版だけの特典ではあるが、DVD「SHIBUYA-AX(07.8.31)LIVE DIGEST」が附属していることである。昨年の8月・9月に2回だけ、東京と大阪でソロ・デビュー20周年記念ライヴ「Shizuka Kudo 20th Anniversary the Best」(毎日放送主催、ポニーキャニオン後援、Purple/ON THE LINE企画製作)がおこなわれた。私は大阪のライヴに行ったということは既にのべた。その時に「こんな熱気あふれるライヴをやった時には、その映像も発売しなきゃもったいないぞ。ポニーキャニオンさん、ぜひともよろしくm(_ _)m」と書いたのだが、実際はほとんど諦めていた。それが、まさか私の意見を斟酌してくれたというわけではないだろうが、思いがけず、東京ライヴの映像が、ダイジェスト版(全体の5分の1程度)とはいえ、入手できるようになったのである。「禁断のテレパシー」「FU-JI-TSU」「Blue Rose」「めちゃくちゃに泣いてしまいたい」「嵐の素顔」「Blue Velvet」「慟哭」「抱いてくれたらいいのに」の8曲を見ることができる。
 もちろんナマでライヴに参加するのとDVDの映像とでは感動の度合いがまったく違うが、それでもあの日の興奮を思い出すことは充分に可能なのは、まったくありがたい限りである。白のタンクトップ・シャツにゴールドのデニムのパンツ、それに黒のベストをひっかけたカッコいい姿での「禁断のテレパシー」「FU-JI-TSU」。真っ赤なドレスに身を包んでの、工藤静香最高傑作「Blue Rose」。会場とひとつになった「慟哭」など、充分に楽しめる出来である。今はまだこのDVD付きの初回限定盤が手に入ると思うので、御希望の方はお急ぎのほどを!
 ただ、この東京ライヴと、私が参加した大阪ライヴとを比べると、大阪での方がはるかに出来は良かったのではないかと思う。もちろん、ナマで聞いたものと映像だけのものは比べものにならないから、私のこの感想はあてにはならないことは当然である。ただ、この映像で見る限り、東京では静香さん、歌詞を間違えたり、ノリが悪いようなところが散見される。それに比べて、大阪では2回目ということもあったのか、のびのびと自分の持ち味を発揮していたように思う。今度は大阪ヴァージョンの映像を発売してくれないかな〜〜〜(^^;)

2008.04.11

チベットと共に立ち上がろう!-ダライ・ラマを支援しよう—、の巻

 ダライ・ラマ14世法王が来日された。「中国政府は私のことを悪魔だというが、そう見えますか? 私は単なる人間であって、悪魔ではない。頭に角も生えていないでしょ?」と、ユーモアを交えながら、なおかつ揺るぎない信念を語る姿に感銘を受けた日本国民は多いと思う。
 環境問題・人権問題・貧富問題などについての活動をおこなっている国際的な市民団体「Avaaz.org」が、チベット問題の解決にむけ、「チベットと共に立ち上がろう! - ダライ・ラマを支援しよう—」の署名運動をおこなっています。すでに署名をおこなった人々は160万人を越えています。目標の200万人に達するため、皆さんの御協力を御願いしますm(_ _)m。
 署名はこちら↓
http://www.avaaz.org/jp/tibet_end_the_violence/97.php/?cl_tf_sign=1
 以下、同団体から送られてきたメール・メッセージ(見やすくするために一部編集)を紹介します。
--------------------------------------------(以下、引用)-------------------------------------
みなさん
 チベットの人々は世界に向けて何十年も続く抑圧に苦しむ現状を打破したいと声を上げています。オリンピックで中国への注目が集まっている中で、チベットの指導者であるダライ・ラマ師は、自制と対話によって全ての暴動と暴力にピリオドを打つように求めています。
 中国の指導者たちは公然とダライ・ラマ師を非難していますが、チベットの安定には対話こそが大事であると考える中国当局者も多いのです。中国政府は、今、さらなる残虐行為か対話かの決定的な選択をしようとしています。この選択で、チベットと中国の将来が決まると言えるでしょう。
 わたしたちは、この歴史的な選択に影響を与えることができます。中国政府は自国の評判をとても気にしていますから、わたしたちは中国が正しい進路を選択するよう促すことが可能なのです。胡錦涛中国国家主席は、正しい選択しない限り、『中国産』ブランドも、まもなく開催される北京オリンピック も成功しないという声に耳を傾けるべきです。しかし、同時に胡錦濤主席の注意をひきつけるために、全世界の民衆の力を怒涛のうねりとして押し寄せる必要が あります。下記のリンクをクリックして、すでに署名した150万人に続いて、今すぐに請願書に署名してください。また、今すぐ、このEメールをご友人やご家族に転送してください。わたしたちの目標はチベットのために200万人の声を一つにすることです。
 中国経済は世界が購入する『中国産』製品の輸出に完全に依拠しており、また、中国政府はこの夏の北京オリンピックを尊敬に値する新生中国の祝典とすることを熱望しています。一方で、中国は残酷な過去をもつ非常に多面性のある国であり、その安定性に懸念を抱かざるを得ません。 確かに、チベットの暴動参加者の中には無実の民衆を殺戮した者もいます。しかし、胡主席は中国の安定性と発展に対する最大の危険は、対話と変革を求めるチベット人によるものではなく、抑圧を強めると喧伝する強硬派によるものであることを認めるべきです。
 わたしたちは、この請願書を、抗議集会、デモ行進、集会、個人的な面会の場で、世界各地の中国政府外交官に提出しました。また、わたしたちは、署名が増え続ける限り、請願書を送り続けます。このメールの重要性についてあなた自身が友人に説明した文章をつけて、このメールをアドレス帳に転送していただくようお願いします。また、署名された後に立ち上がる"tell-a-friend"ツールをご利用いただいても結構です。 チベット民衆は何十年もの間、音を立てず苦しんできました。彼らが声を上げるときがついにやってきたのです。彼らの声が聞き遂げられるよう、わたしたちは手を貸さなくてはいけません。

希望と敬意を表して、
Ricken, Iain, Graziela, Paul, Galit, Pascal, Milena, Ben and the whole Avaaz team

以下にチベットの抗議活動とそれに対する中国の反応に関する情報へのリンク があります。
中国軍、ラサに精鋭部隊投入 チベット周辺包囲か
中国当局、四川省の暴動での発砲認める、新華社通信
チベット暴動:日本、外交で苦慮 人権問題で新たな対応も
高村外相、中国要人の来日時にチベット問題を提起へ
--------------------------(引用おわり)---------------------------------

なお、チベット亡命政府の日本代表部(ダライ・ラマ法王日本代表部事務所)による「サポート~チベット支援のために、あなたのご協力を!~」の頁も参照してください。まったくお金をかけずにできる、簡単な支援方法も紹介されています。

2008.04.08

チベット!チベット!チベット!、の巻

 4月7日(月)
 KKさんが伊勢から、好物の「さめんたれ」を届けてくれる\(^o^)/。では、一緒に食事でも、ということになり、日本では珍しい純粋のチベット料理(たいていの店は、チベット料理とはいいながら、ネパール料理との抱き合わせになっている)の店「ランゼン」にでかけることにした。
P1060421 この店では、日本人向けに味つけを変える、というところのない、まったく純粋のチベット郷土料理を味あわせてくれる。したがって、他のレストランのように豪勢なメニューを期待するのは筋違いというものである。ひとつひとつの素朴な味をかみしめながら、チベットの人々に想いを馳せれば良い。写真は肉とキクラゲ入りのお饅頭。肉厚のモチモチした皮と、熱々の具のコンビネーションがなんともいえない。
 先月からのチベットにおける「暴動」と、中華人民共和国政府がそれに対してとった強権的弾圧については、中国を除く世界中にニュースが流れたところである。その映像を見ながら、涙がボロボロとこぼれ落ちるのを止めることができなかった。そして、昨日・今日には北京オリンピックの聖火がロンドンとパリを通るというので、中国に抗議する人々が聖火リレーの妨害行動に立ち上がった、というニュースが流れている。実際の力を使った抗議、というところにまで事態が進展したことはマズイと思うのだが、チベット問題を憂い、中国政府の残虐で暴力的な行為に憤る人々の気持ちには全面的に共感せざるをえない。
P1060432 〔←店で買い求めた、ダライ・ラマ法王の絵葉書と、チベット問題についての本〕 小さな店の長押の上には、チベット仏教の最高指導者にして中央チベット行政府(ガンデンポタン、チベット亡命政府)の指導者ダライ・ラマ法王14世テンジン・ギャツォと、ダライ・ラマに次ぐチベット仏教指導者パンチェン・ラマの先代であるパンチェン・ラマ10世チューキ・ギャルツェン(1989年遷化)の写真が飾ってある(なぜここで飾ってある写真のパンチェン・ラマが先代であるのかは、「パンチェン・ラマ11世問題」およびこちらを参照)。4月6日、ダライ・ラマ法王はチベット人に向けた声明を発表した。ここに説かれている内容は、人類が到達した叡智のひとつの極地というべきであろう。暴力に対して「非暴力」、憎悪に対して「愛」、怒りに対して「理性」、虚偽に対して「真実」、そして弾圧に対して「対話」。「中国の人々の心に憎しみを生むようなことをしてはだれのためにもなりません。暴力と威嚇の上に調和ある社会が築かれることはないのですから、私たちは、心のなかに信頼と敬いの念を育むことで調和ある社会を築いていく必要がある」という言葉には、まさに千金の重みがある。他の民族紛争ならば、民族の指導者たちは憎悪を扇動し、その結果として暴力が無限大の連鎖をくりかえすということになってきたのである。現在の世界で、あれほどまでに理不尽かつ残虐な弾圧にさらされながら、しかしそれに対して暴力で応えるのではなく、忍耐強く対話を求めてきた指導者は、おそらくこの人のほかにはいないであろう。この高潔さと、中国政府の品性のない下劣なプロパガンダは、まったく見事なほどの好対照をなしている。
 それにしても、中国政府のアホさ加減はどうしたことだろう。彼らはとにかく力で押さえつけさえすれば良いのだと考えている。そして、高齢のダライ・ラマ法王14世がこの世を去ればこっちのものだと思っている(おそらく、14世が遷化した後は、自らのいいなりになる傀儡ダライ・ラマを擁立する算段なのであろう)。しかし、それで問題が解決すると思うのはまったく甘い見通しだといわざるをえない。今、チベットがあれほど緊迫しながらもからくもバランスを保っていられるのは、ひとえに対話主義・平和主義のダライ・ラマ法王あればこそである。もし、法王がいなくなれば、その後には強硬主義者や軍事路線主義者の台頭を押さえることができなくなるかもしれない。そうなってしまってはもう遅い。その時、双方が果てしない血を流し続ける地獄の紛争が無限ループで繰り返されることになるのは、他の民族紛争から見てもほとんど明らかなのである。中国政府に必要なことは、ダライ・ラマ法王が繰り返し求め続け、国際社会もそれを支持している「対話」によって問題の解決をはかることでなければならないのである。

2008.04.07

「陵墓」シンポジウム、の巻

Ts2d0018_2〔昼食の親子丼を食べに行ったついでに寄った西陣聖天さん(雨宝院)のしだれ桜=「歓喜桜」も満開。今回は、平安時代の重要文化財・十一面千手観音像も拝観することができた\(^o^)/〕

 4月3日(木)
 新入生のオリエンテーションの開始。このあたり、ウチの大学はなかなか懇切丁寧なところである。
P1060376 夕方、四条で、帰国されたばかりの山中章博士と、SM博士とまちあわせ。ひさしぶりに京都で呑むことになる。場所は祇園の炭火焼肉店。焼肉は久しぶりだな。ワインとビールで、痛飲。帰り際に、木屋町四条の高瀬川沿いに咲く、見事な桜をながめる。ちょっとしたお花見気分である。

 4月5日(土)
 16学協会シンポジウム「『陵墓』研究のいま—神功皇后陵から五社神古墳へ—」(於奈良県文化会館)にでかける。歴史学関係の学会が16集まって、宮内庁に対して天皇陵の公開を要望し続けてきた。今年にはいってちょっとした前進があり、2月22日に奈良市の五社神<ごさし>古墳、つまり宮内庁治定の「神功皇后佐紀池上陵」が限定的に公開されたのである。16学会のひとつに(財)古代学協会がはいっているので、私はそこの「陵墓問題担当」になっている。ただ、私は残念なことに、2月22日の公開日にはヴェトナムに行っており、公開に参加することができなかった。せめてもの、ということで、今回のシンポジウムで公開の成果を学ぶことにする。
 定刻10分前に会場に着くと、受付で「もう席がありませんよ」と言われる。仰天。確かに、中に入ってみると、300人の会場が超満員である。陵墓問題がこんなに市民の方々の関心を集めているとは知らなかった。しかし、立ち見はカンベンして欲しい。会場を見回すと、幸いなことに、前列の中央にひとつだけ空いているところがあった。ありがたい。身を小さくして、椅子にすべりこむ。
 日本考古学協会の西谷正会長の挨拶の後、日本考古学協会の高橋浩二氏(富山大学准教授)の「陵墓公開運動と歴史資料としての陵墓」、古代学研究会の今尾文昭氏(奈良県立橿原考古学研究所総括研究員)の「佐紀古墳群の構成と課題」、大阪歴史学会の岸本直文氏(大阪市立大学准教授)の「五社神古墳の概要」と、考古学研究会の大久保徹也氏(徳島文理大学教授)と日本史研究会の福島幸宏氏(京都府立総合資料館)が司会をされるシンポジウムが続く。シンポジウムでは、文化財保存全国協議会の宮川徏氏の「五社神古墳の築造企画と二系列併立していた大王墓」のコメントがある。今尾・岸本両氏の御報告は、いずれも精緻にして「過激」。これからの古墳研究の方向性のひとつが見えるような気がする。それ以上に重大だったのは、とにかく、陵墓の中に研究者が立ち入ることで、ここまでの情報を引き出すことができる、という事実である。この限定公開は、わずか2時間半くらいのものだったという。それでもこれだけの成果があがる、ということを示したことは、今後の陵墓公開運動に大きな刺激を与えるものとなろう。
 終了後の打ち上げに、私も誘っていただく。近鉄奈良駅近くの呑み屋にくりこんで、例によって大騒ぎ。帰りの電車では知らず知らずのうちに寝込んでしまい、京都駅で別の乗客の方におこしていただく。
 聞いたところでは、この、陵墓の限定公開は多方面の非常な関心を集めたようで、公開日にはマスコミだけではなく、たくさんの市民の方々が遠巻きに「見学」しておられたという。驚いたのは、その中には「御皇室の尊厳と陵墓の安寧を護る国民の会」という数人のグループがあって、日の丸を振りながら「何人も聖域に立ち入るな!宮内庁は陵墓をしっかりと守れ!」というスローガンを掲げてシュプレヒコールをされていたという。しかし、今回のシンポジウムでも、西谷正先生が「私たちの運動は、陵墓を発掘せよ、ということではない。発掘は破壊なのであるから、むしろ陵墓を発掘することには反対である」と表明されていたり、会場から発言された岡山大学の新納泉教授が「陵墓公開運動を政治的な対立にすりかえてはならない」という趣旨を述べられたりしていた。私もまったく同感である。政治的な立場としては、「右」も「左」もあってもよい。天皇制護持を真情とする人がいても良いし、また天皇制撲滅を信念とする人がいても、それはすべて思想信条の自由なのである。私は以前から主張しているのだが、陵墓公開の議論の中に、いわゆる「右翼」の人も積極的に入ってもらったら良いと思う。彼らとも充分な議論をして、陵墓の静謐と立ち入り調査との妥協点をどこで見いだすか、真剣に模索していったら良いと思う。重要なのは、よりたくさんの人々が真の情報に接することができるための環境を作っていく、という一点なのである。

2008.04.05

春爛漫、の巻

P1060359_2入学式が終わり、新学期が始まった。やっと暖かくなり、わが同志社女子大学の京田辺キャンパスの桜並木も満開。

2008.04.02

京都市の新入職員研修、の巻

P10603514月1日(火)
 新年度が始まった。とはいっても、大学は明日から。
 今日は、京都会館会議場にでかける。京都市職員研修センターから、平成20年度「京都市職員研修」の講演を依頼されたのである。この仕事、一昨年もやったことがあるので、再登板ということになる。題名は、「京都・歴史から未来へ」とする。
 会場に入ると、スーツ姿の新入職員が2百数十人、居住まいをただしておられる。皆さん、初日ということで緊張しているのがよくわかる。私が演壇に立つと、号令一荷「起立!礼!着席!」となるのがなんとも恥ずかしい限りである。ふと思いついて手をあげてもらうと、過半数は京都以外の出身者だという。ともあれ、皆さん、難関を突破して京都市の職員になったのだから、がんばって仕事して京都市をより住みやすい街にしていってくださいね。
 講演おわって、ぶらぶらと白川の川岸(写真)を歩きながら帰る。例年になく肌寒い4月1日だが、桜はかなり咲いており、ちょっとしたお花見気分になる。

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