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2005.02.27

自治会長の仕事、ほぼ終了、の巻

 今年度は、 住んでいる町内会の会長という役目を仰せつかっていた。めんどくさいことはイヤなのだが、 洛中に住んでいるからにはこういうこともやらねばならないと観念して引き受けた。以前に住んでいた西京区のニュータウンで自治会長をやった経験はあるのだが、やはり京都の街中とはだいぶ感じが違う。その筆頭は地蔵盆。お盆に、町内に祀られている地蔵様を囲んで、子供たちのためのいろんな催しをやる(私は小さい頃から、全国どこでも地蔵盆があるのだと信じていたが、他の土地には無いらしいと聞いて愕然とした)。準備など、結構たいへんだった。
 とはいうものの、仕事のかなりの部分はうちの奥さんに押しつけてしまったのは事実。奥さんはブータレ言いながらも、結構てきぱきとこなしてくれた。いささか見直す。町内の奥さん方と仲良くなったらしいし、悪いことだけでもないようだ。ただ、この数日は引き継ぎ準備で忙しく、おかげで体調を崩したと言っている。
 ともあれ、ふだん、京都の都市史とか、町の共同体は云々とか、町の自治がどうのこうのとか、両側町とは何ぞやとかいうことを論じているのだから、いい勉強をさせてもらったと思う。

2005.02.26

ミッキーの大フィルを聴く、の巻

 今日の夜は、京都コンサートホールでの大阪フィルハーモニー交響楽団演奏会を聴きに行く。振るのは日本を代表する指揮者のひとり、井上道義さん(愛称ミッキー)。以前、京都市交響楽団の音楽監督をつとめておられたこともあるマエストロである。
 曲目は、井上さんの自作「メモリー・コンクリート」、ショスタコーヴィチ「ステージ・オーケストラのための組曲」から第1・2・4・5・7曲、同「交響曲第5番ニ短調作品47」。自作は井上さんの「自伝的私小説」だということで、いきなり金管と打楽器のフォルテッシモから始まり、びっくりする。刺激的で挑発的な音に満ちた意欲作である。ジャズっぽいところでは指揮者が体中でスウィングし、なかなか面白い。
 2曲目は始めて聞いた曲なのだが、これがめっぽう楽しい。映画音楽の一部を切り取ったものが多いということもあるのだろうが、軽快なワルツやダンスに充ち満ちている。指揮者も楽員も、肩肘張らずに楽しんでいるようだ。深刻なのばかりでなく、こういうショスタコもいいね。大発見をさせてもらった。
 メインはいわゆる「タコ5(ショスタコーヴィチの交響曲第5番)」。ショスタコの交響曲の中では一番ポピュラーな曲目である。ショスタコは井上さんの得意分野であるはずだから、いやがおうでも期待が昂まる。ゆっくりめのテンポで、堂々とリズムが刻まれる。驚くのはフォルテッシモの金管と打楽器の大強奏。とてつもない大音響がホールを揺るがし、ダイナミック・レンジの広さはかなりのものだ。満足満足。
 会場では、クラシック・ファンとして著名なKF大学の中世史のI先生、S大学の中世史のM先生に出会う。ロビーで、ケンケンガクガクの音楽談義に華を咲かせる。
 しかし、解せないことがひとつ。あまりにも観客の入りが悪く、会場に空席が目立った。せっかくの熱演だったのに、ちょっと残念である。

図説本作成の仕事が入る、の巻

 午前中は京都市内某私立博物館で会議。
 夏に源氏物語関係の展覧会をやるという。その関連で、新しい図説本を作ることになる。監修のS大学の平安時代史のG先生に呼ばれて、私も出席する。とにかく、綺麗で楽しく、かつ学問的水準を押さえた本にするとのこと。こういう話は乗ることができる。
 その博物館の館長はなかなかの傑物である。本職は老舗の会社社長なのだが、本業に関係した財団法人の博物館の館長を兼ねている。とにかくエネルギッシュで、次から次へとアイデアがあふれ出て止まらないといったタイプの人物。話をしていても気持ちがいい。今回の展覧会と図説本の話にしても、要するに「とにかく、我々にとってもお客さんにとっても楽しいと思えることをしたい。本も、できうるかぎり楽しいものにしたいから、執筆の先生方は思うままに腕をふるってください。資金のことはどうぞ私におまかせください」ということ。これはありがたい。ひと昔前までは、こんなタイプで学問の振興につくしてくれた財界人がたくさんいたらしい。しかし最近では彼らがどんどん小粒になってきているようだ。その代わりとして、自分が一番偉いとうぬぼれ、研究者を小バカにする知ったかぶり連中が幅をきかせるようになった。その点では、この館長兼社長は今日では珍しいタイプなのかもしれない。とにかく、せっかくの話だから、私も面白い本を作ることに力を注いでみよう。

 その後、K大学の中世史のT先生と待ち合わせ。先生の故郷の逸品という日本酒をいただく。開けるのが楽しみ楽しみ。
 

2005.02.25

古代エジプトにハマリに行く、の巻

 午前中は某カルチャーセンターの講座。京都の安倍晴明信仰と「鴨川の治水神」について話をする。

 午後は、京都文化博物館で開催中の「古代エジプト文明3000年の世界」(〜3/21)に出かける。私にとってはいわゆる古巣の博物館である。展覧会担当は主任学芸員の南博史さん。かなり以前からエジプト展をやりたいとおっしゃってた。それが実を結んだのである。
 会場に入ってみて、リキの入り方に驚いた。会場の造り方も、いいセンスが漂っている。会場の中央にエジプト古代墳墓の玄室を実物大復元したり、エジプト風衣装の試着コーナーがあったり、観客の目を飽きさせない工夫に満ちているのもすばらしい。とにかく、担当者の意欲がビンビン伝わってくるような展示である。もし私が担当学芸員だったら、とてもとてもこうはいかないだろうなぁ・・・
 こういうエジプト展は、通常であれば海外のまとまったコレクションを一括して借りてくることが多い。しかし、この展覧会はあえて日本国内に存在するエジプトの遺物を丁寧に拾い出して構成している。こうなったのはおそらく予算の制約といった事情もあるのだろうが、しかしこれはこれで見事な方針だと思う。国内にどれだけのエジプト美術のコレクションがあるのか、再認識する良いきっかけになるからだ。
 会場を見ていて、ハッと胸をつかれるところがあった。壁面に若い日本人女性の小さな写真が飾られていたのである。説明書きを見ると、この展覧会に当初からかかわってくれた若い研究者であり、展示解説や図録原稿の執筆に力を注いでくれたのであるが、不幸にも病を得、展覧会の完成を見ることなくこの世を去られたとのことである。私は彼女とは面識は無かったけれども、その無念の思いが察せられるとともに、こうした写真をあえて会場にかかげた担当者の優しさに心打たれるのである。

 4階会場を見た後、2階の歴史常設展示室に向かう。一番奥に特設コーナーがあり、古代学協会(平安博物館)が調査したエジプト・アコリス遺跡の遺物の一部が公開されているのである。アコリスは、私にとっては限りなく懐かしい響きを持つ遺跡である。今からもう20年前、まだ20歳代だった私は、2回にわたってこの遺跡の発掘調査にたずさわったのである。当時はまだまだ海外の遺跡発掘調査なんかは珍しい時代だったし、私にとっても最初の海外調査経験である。エジプトの遺跡の調査を通じて、まだ若かった私が得られたものは限りなく大きかったことを、今更ながらに実感する。

 エジプトの香りに触れることができ、なんとなく嬉しくなった1日だった。(この展覧会、3/27〜5/8に東京・古代オリエント博物館、5/21〜6/26に沖縄・浦添市美術館、7/15〜9/4に鹿児島・県歴史資料センター黎明館に巡回予定。お近くの方はぜひ見学していただきたい。)

2005.02.24

「応永鈞命絵図」に会いに行く、の巻

 昨年はいくつかの研究をしたが、そのうちでも特にハマったもののひとつが「中世都市嵯峨」の復元研究である。中世の京都の郊外にはいくつもの「衛星都市」が作られたが、その中でも最大のものがこの嵯峨であった。特に、室町時代には天龍寺や臨川寺を中心として巨大な宗教都市を造り上げていた。私は、中世嵯峨は、人口は1万人に迫り、面積は約150万平方メートルはあった大都市だったと考えている。
 中世都市嵯峨の基本史料のひとつが、室町時代中期の応永33年(1426)に作られた国指定重要文化財「応永鈞命絵図<おうえいきんめいえず>」(天龍寺蔵)である。ここには最盛期の都市嵯峨の様相が細かに描かれている。
 実は、以前勤務していた京都文化博物館で「京都・激動の中世」という特別展を開催した時(1996)に、この「応永鈞命絵図」を出品したいと考えた。中世京都を知る上で不可欠の基礎史料だからだ。しかし、大きさが3m四方もあり、京都文化博物館の展示室では天井につっかえることがわかり、泣く泣くあきらめて縮小写真パネルの展示に切り替えた。
 そんな思い出のある「応永鈞命絵図」、うちの奥さんが京都国立博物館に行ったら、実物が展示されていたという。2月27日まで見ることができるという。これは行かねばなるまい、ということで、雨が降りそうななか、京博に急いだ。
 やっぱり京博は天井の高さが違う。さしもの巨大な「応永鈞命絵図」が広げられていた。ちょっと感動。ふだんは写真版で見ているだけなのだが、やっぱり本物は違うね。じっくりと見ていると、やっぱりいくつか新しいことに気が付く。ありがたや。

 その他にも見所いっぱい。大文字山の上にあった如意寺のありし日を伝える「園城寺境内古図」。ちょうど開催中の伊藤若冲のコーナーでは、百一匹(ホントは58匹)ワンちゃん大行進の「百犬図」。3月27日までの「仏像と写真」コーナーでは空前絶後の異形の彫刻・宝誌和尚像。やっぱり、京博にはしばしば足を運ばなくちゃ。

祝!工藤静香さん復活、の巻

Lotus 自分でもどういうわけかわからないが、永年、工藤静香さんのファンである。ソロデビュー翌年の1988年6月に出た4thシングル「FU-JI-TSU」からだから、かれこれもう17年になる。自分でも呆れるくらいに永い。年甲斐もなく、などと陰口を叩かれているようだが、他人に迷惑をかけるわけでなし、これくらいの道楽は許してもらわなくちゃ。最初の頃は、静香さんの出演するテレビを見ていると、うちの奥さんは目くじら立てて怒ったものだった。しかし、最近はもうあきらめたのか、なんにも言わなくなった。
 世間では、この人に対する評価は驚くほどまっぷたつに分かれるようだ。好きな人は徹底的に好き、嫌いな人にとっては耐え難いほど嫌い、ということになるらしい。私はもちろん前者なのだが、かといって、彼女の何がそんなにいいのか、と言われても、なかなか説明できない。強いていうならば、カッコよさ、強さ、生き方の正直さ、かな?
 工藤静香さんは、ここ3年ほどは芸能活動をほとんど休止していた。もちろん、結婚と出産(しかも立て続けにふたりのお子さん)が続いたからである。それはもちろんおめでたいことなのであるが、テレビでお顔が拝見できないというのは、ファンとしては寂しいものである。
 その静香さん、今回、待望の芸能活動再開!である。2月16日、新曲「Lotus〜生まれし花」が出た。それとともに、テレビやラジオに立て続けに出るようになった。私は内心では、彼女にはこういうバラード調よりも、ロック調アップテンポの曲の方が似合っていると思うのであるが、それは言うべきではあるまい。とにかく祝!復活!なのだから。
 久々の出演番組を見ていると、静香さん、やっぱりカッコいいね。もちろんハタチの時と比べると年齢を感じさせるのは当然だが、少なくとも30代半ば、2児の母には見えない。私としては、これからまたしばらく、番組のチェックと、その録画予約が忙しくなる(ハードディスク+DVDレコーダーを買ったので、ビデオテープの頃に比べるとかなり楽になった)。静香さん、これからも秘かに応援します。がんばってくださいね。

2005.02.23

古代都城の講演をやった、の巻

 この間の日曜日(2月20日)、講演をやってきた。長岡京発掘50周年を記念して、京都府教育委員会・乙訓文化財事務連絡協議会(京都府乙訓地域の2市1町の教育委員会・埋蔵文化財センター)・京都府埋蔵文化財調査研究センターが主催した「埋蔵文化財セミナー」。テーマは「京都三都物語—恭仁宮・長岡京・平安京—」、どっかの観光ポスターで聞いたような題名である。その基調講演を頼まれ、「日本古代都城研究の展望」というのをやる。雨も上がったのが幸いしたのか、200人定員の会場であった(まあ、150人入れば成功かな、と言っていた)のに、蓋を開けてみると300人の市民の方々がつめかけた。感謝感謝。ありがたい限りである。
 私は、平安京・中世京都の研究はずっと続けてきたが、それ以前の都城についてはほとんど発言してこなかった。それらについては私よりもずっとずっと怖くて偉い研究者がいっぱいおられるし、自分の不勉強が暴露されるのもイヤだし、わざと避けてきたのである。しかし、今回の講演はいい機会をいただいた。私なりに日本古代都城史を見つめ直してみよう、と思ったのである。それに、古代都城を扱った書物のほとんどは、飛鳥諸宮・藤原京・平城京についての叙述に大半の頁を裂いており、難波宮・恭仁京・長岡京・平安京についてはあつかいが薄い。そうした現状に違和感を持ってきたから、それを皆さんに聞いていただこうと思った。
 講演の骨子は三つ。
 (1)日本古代都城で画期的だったのは孝徳天皇の難波長柄豊碕宮(前期難波宮)。
 (2)それに続く斉明天皇の「飛鳥京」は、都城史の王道からまったくはずれた「異形かつ反動の都」。  
 (3)聖武天皇の理想は、正都難波宮+副都恭仁京+仏都紫香楽宮という複都制。
 特に(2)などは、かなり挑発的だったようで、まずまず成功かな? ただ、時間が限られていたので、後半の長岡京の部分がほとんど述べられなかったのは残念。またの機会にリベンジを期そう。

2005.02.22

「記号の役割」校正終了

吉川弘文館から『文字と古代日本』というシリーズが出版され始めた。全5巻になるはずで、今は2冊が出ている。私はその最終巻(第5巻)に「記号の役割」という項目を書くことになった。どうしてこんなテーマを私が??とも思うのだが、尊敬する考古学研究者であり、いつもお酒をご一緒させていただいてワイワイ騒がせてもらっている山中章博士(三重大学教授)からのご命令だったので、断るわけにはいかなかった。
角田文衞先生には古く「銘辞学の方法論」(『角田文衞著作集』第1巻)という凄い論文がある。そのひそみに習って「記号」の意味を考えることにした。自分なりにじっくりと煮詰めたつもりではあるが、いささか観念的な臭みが強すぎ、『文字と古代日本』に掲載される他の人の論文(いずれも実証的)とは、かなり論調が違ったものになったようである。いささかためらってしまう。
その結果、昨年末に来た校正刷に手がつけられず、出版社からは矢の催促を受けることになった。いつまでもほうっておくわけにはいかないので、とにかく今日、校正を仕上げて出版社に送った。いちかばちかの賭け、後は野となれ山となれ、というような気分になってしまった。

日記をはじめよう

小さい頃から、日記を付ける習慣が身に付かなかった。小学校でも何度も日記の宿題をもらったが、嫌で嫌で仕方なかった。しかし、今となってみると、いささか反省している。その時々に思ったこと、やったこと、それを記しておくのも悪くはないはずである。毎日毎日書かねばならないというのならば気が重いが、そんな義務化することもないだろう。
最近、ブログというものが流行らしい。わりと気軽に、何でも書けるもののようだ。妻に頼んで、私用のブログを作ってもらった。いつまで続くかわからないが、これを利用して、遅まきながら私も日記を始めることにしよう。

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