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2005.03.31

ライナーの「第5」に涙する、の巻

 3月31日
 久しぶりに、フリッツ・ライナー指揮シカゴ交響楽団によるベートーヴェン「交響曲第5番(通称「運命」)」を取り出して聞いた。私がクラシック音楽を聴くきっかけを作ってくれた懐かしい録音である。
 ライナー(1888〜1963)は、ハンガリー生まれでアメリカで活躍した、20世紀を代表する大指揮者。何を隠そう(別に隠さなくてもいいが・・)、わが最愛の音楽家である。シンシナティ、ピッツバーグ両交響楽団を第一級に育てた後、メトロポリタン歌劇場の指揮者となり、1953年にシカゴ交響楽団の音楽監督に就任した。そしてシカゴを世界有数(個人的には、世界最高と固く信じている)の楽団に育てあげ、亡くなるまでに数多くの名演を繰り広げた。
 ライナーの音楽は、どれをとっても完璧そのもの。これほどまでにオーケストラ音楽の美学を徹底的に追究した指揮者は空前絶後だといわなくてはなるまい。

 そのライナーの「第5」。伝説的な名盤である。この演奏の凄さをどう言いあらわしたら良いのだろうか。目にも止まらぬ速いテンポ、ズシリと響く重低音、切れ味鋭いアインザッツ、輝かしい金管、空恐ろしくなるほどに整えられたアンサンブル、ライナー芸術のすべてがここに凝縮されているといっても言い過ぎではない。しかし、無機的・機械的だというわけではない。テンポを揺らさねばならないところは、ごくわずかにそうしている。たとえば、第1楽章の怒濤の第1主題に続いて、ホルンによって呼び出される第2主題の優美なこと! それに、シカゴ響の完全無欠な演奏力にも唖然とする他ない。とにかく、指揮者の強烈なパッションがCDの向こうからそのまま伝わってくるような演奏だ。

 聴いているうちに、身体が震えてきた。形容ではなくマジで、ブルブルと震えが止まらない。安物のステレオの前で、両手を固く握りしめ、手のひらにはじっとりと汗が滲んでくる。まるで金縛りにあったようだ。それから、涙がボロボロこぼれてくる。我慢できずに、嗚咽すら漏らしてしまう(ヘッドホンで聴いていたから、他人が見たらまったく異様な光景に違いない・・・)。

 聴き終わって、しばらくは呆然と座り込んでいた。久しぶりに聴いたのだが、改めてライナーの凄さを思い知った。録音ですらこれだから、ナマの演奏会で聴いたならばいったいどんなことになるだろう。感動のあまり半狂乱になる聴衆が続出し、おそらく収拾がつかなくなるんじゃないだろうか。心臓発作で倒れる人がでても全然不思議には思わない。

 ライナーの「第5」に始めて感動したのは、確か高校生の頃だったと思う。それ以来、数限りない「第5」を聴いてきたのであるが、ライナー盤ほどの感動を与えてくれるものは他にはない。ライナー盤に欠点があるとすると、それはたったひとつ。この演奏を一旦聴いてしまうと、他のどんな指揮者、どんなオーケストラも、ヤワなフヌケ演奏にしか聞こえなくなってしまう、というところであろう。まったく、麻薬以上だとしか言いようがない。

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 本日、来客多し。夕食は近くのレストランで絶品のミートソース掛けオムライス。帰ってくると、大阪の伯母の訃報の知らせがある。明日はお通夜に行く。



2005.03.30

もう仕事始まる、の巻

 3月30日
 なぜか知らないが、もう仕事が始まる。在学生の単位登録指導、博物館実習予備登録、同・基礎学力試験などなど。昨年までは4月にはいってからこれらのことをやっていたのだが、4月は新入生相手で忙しくなるとかで、今年からは予定が繰り上がり、3月中にやることになる。したがって、入学式が終わってから「さあ今年も仕事だ」という気になる、という節目がなくなってしまった。なかなか気乗りしない。そもそも、在学生に「単位の取り方」を教える、なんてことが必要なのかね? 博物館実習は、博物館学芸員の資格を取得するための必修科目。例によって、たんまりと脅かす。欠席・遅刻厳禁、マジメにやれない奴は登録するな、途中で挫折するようならば最初からやめておけ、などなど。脅かしすぎ?と思わないではないが、免許資格関係科目は、いいかげんな気持ちでとるものではない、というのは私の持論である。その反面、学ぶという熱意のある人にとっては、博物館学芸員課程ほど面白い、ためになる授業は他にはあまりないように思う。


一生懸命、調査報告書を作る、の巻

 3月29日
 丹後・野田川町の幾地地蔵山遺跡の現状調査報告書を、なんとしても今月中にあげてしまわねばならない、ということで、今日は1日その仕事にかかる。予算の制約があるので報告書に掲載する情報を割愛しなくてはならないのが、ちょっとツライ。調査の指揮をとってもらったうちの研究室の鎌田久美子さんにデータをまとめていただく。とにかく少しでも安くあげねばならないので、かなりの部分を自分のパソコンの中で仕上げておかねばならぬ。しかし、文章はともかく、表・図面・写真は、なかなか思った通りに動いてくれない。何度も何度もプリントし直し、そのたびに抜けているところに気が付き、またやり直す。ことに苦労するのは一覧表。私はどうもエクセルと相性が悪く、まだ使い方がよくわかっていない。血みどろの、というのは大げさだが、心情的にはそれくらいの格闘をくりかえす。さらに始末が悪いのは写真。一枚一枚の容量が大きいため、処理に時間がかかる。イライラ、イライラの連続。パソコンを叩き壊したい衝動にかられる。
 でも、とにかく形になった。ホッとして、気が抜ける。
 夕食は好物の豆乳鍋。食べ過ぎたかな? 最近ダイエットの方も気が抜けてるな・・・


2005.03.28

下鴨神社の発掘を見る、の巻

 3月28日
 雨振り。こんな日は、外に出たくない。しかし、下鴨神社(賀茂御祖神社)境内の発掘調査の現地説明会があるので、重いお尻を蹴飛ばすようにして出かける。
 糺の森の中の、小さな小さな発掘現場である。北側には近年復元整備された「奈良の小川」の清流が流れる。そこに続くように、子供の頭ほどある川原石を敷き詰めた「石敷遺構」(6×11m)が広がる。その上に、6×9mの祭祀用土檀が載る。ここでは、平安時代と江戸時代の祭祀遺構が見つかっており、永年にわたる祭祀が継続されていたという。神社境内はなかなか発掘されることがないが、やはり珍しい遺構が出てくるものだ。
 午後は大学である。今年度最後の教授会に出席。夜は、今年で退任する学長先生のお疲れ様会である。


2005.03.27

終末期古墳の講演を聴く、の巻

 3月27日午後
 なかなか忙しい日である。大阪からとって返し、同志社大学に向かう。同志社大学文学部文化史学科開設記念講演会、考古学の白石太一郎先生(奈良大学教授)と西洋中世史の永井三明先生(同志社大学名誉教授)の講演を聴きに行く。同志社は私の母校だが、これまでは「同志社大学文学部文化学科文化史学専攻」という長い名前だった。文化学科に、文化史学をはじめ、教育・心理・国文・哲学および倫理学・美学および芸術学という多分野が包括されており、ほとんど学部と同規模だったのである。その文化学科が分割され、それぞれの専門の学科が誕生するというわけ。
 白石先生は私が学生の時に、橿原考古学研究所の研究員をつとめる傍ら、同志社にも非常勤講師として教えに来られていた。しかし、私が2回生の夏に、千葉にできる国立歴史民俗博物館の創設にかかわるためにそちらに移られた。昨年、御定年のために歴博を退かれ、関西に戻って奈良大学の教授になられたのである。いつも紳士で、ダンディな先生である。
 白石先生の講演は「高松塚・キトラ古墳壁画の解釈とその被葬者」。すごく興味深い内容である。結構踏み込んだ話で、所説紛々である両古墳の年代を明快に推定し、さらには両者の被葬者まできちんと比定された。説得力は無類で、思わずひれ伏しそうになる。
 終了後は、先生を囲んで茶話会。久しぶりに先生とうんとおしゃべりできる。感謝感謝。


中国考古学に圧倒される、の巻

 3月27日午前
 朝早く起きるのは大の苦手なのだが、起きざるを得ない(とはいっても、世間一般から見たらまったく寝坊である)。大阪の国立国際美術館でやっている「中国国宝展」、今日が最終日だということに気がついた。なんとか行かねば。
 と、いうことで、開館に間に合うように出かける。国立国際美術館は千里の万博公園にあった頃にはよく行ったが、中之島に移転してからは始めてである。大阪市立科学館の敷地内に地下式で造ったというユニークな美術館。開館10分前なのに、もう行列ができている。ゲゲッ!出遅れたかな?と思ったが、そんなに待たずに入れた。しかし、入り口で阻まれるというアクシデント。持っていた招待券の有効期限がなんと20日まで。それ以降は割引券になってしまうという。ショック・・・
 とにかく会場にはいると、すばらしく充実した展覧会であることに気付き、仰天する。ホント言うと、展覧会の内容を全く知らず、明や清の時代のケバケバしい焼物などが並んでいるものだと勝手に勘違いしていた。しかし、実は考古学展覧会である。会場は「考古学の新発見」と「仏教美術」の2部構成。前者はさすがの内容。中国考古学の最新成果に圧倒される。江蘇省の獅子山楚王墓出土品は、発掘直後に遺跡を見学させてもらったことがあるので、ことに興味深い。仏教美術の部門では、南北朝時代の作例がたくさんあるのが面白い。魏(北魏)のアルカイックな仏像はよく見ていたが、周(北周)の仏像はそれに比べるとちょっとふっくらとしている。
 なつかしかったのは、かつて京都文化博物館の「大唐長安展」に出品された2体と再会できたこと。西安碑林博物館の「観音菩薩坐像」(No.123)は、その高貴で気品ある表情に魅せられ、なんとしても借用したいと主張した思い出がある品である。碑林博物館側は難色を示したが、とにかく押し切った。いざ搬出という時になって、中国側が嫌がった訳がわかった。なんと!この仏像は展示ケースの中にセメントで固定されており、動かないようになっていたのである。それをノミとカナヅチで丁寧に剥がし、やっとのことで日本にお出ましいただいたのである。しかし、返却の際にまた驚愕! なんと、四ヶ月ぶりに碑林に行くと、展示ケースの中にはこの仏像の、似て非なる模造作品がチョコンとお座りになって代役をつとめておられたのである。もちろん、レプリカという表示は一切なしだった。とにかく、こんな思い出があるので、まるで旧友にあったような思いがする。台座底面の、セメントから引き剥がした痕跡も健在だった。あの時はちょっと乱暴だったかな? ごめんね。


いっぱい講演をやる、の巻

 3月25日・26日
 どういうわけか講演が立て続けになった。
 25日は京都アスニー(京都市社会教育総合センター)で「ゴールデンエイジ・アカデミー 《京都の都の歴史と史跡》」で「よみがえる平安京—考古学からみた平安京の実像—」。60歳以上対象の講座だが、かなり人気があるようで、500人会場で入りきれず、別教室にはテレビ中継をおこない、さらには山科アスニーにも同時中継で200人くらい聞いてもらう、という大々的なことになったらしい。26日午前は同じ会場の「平安京ボランティア講座」。市民の方に平安京案内のボランティアになってもらい、お客様を案内してもらうという企画。その養成講座ということである。これも結構盛況で、100人を超えていた。後者には、中学生の女の子も参加していて、その意識の高さに驚く。
 26日午後には、今度は京都新聞文化センターの「考古学講座」。これは先月と今月が私の担当で、「天皇陵」の話をする。前回は考古学からみた天皇陵問題の概観をしたので、今日は特論。神武天皇陵と「神代三陵」をテーマに据える。神武天皇も神代三代(瓊瓊杵尊、彦火火出見尊、ウガヤ草葺不合尊)ももちろん実在の人物ではないが、こうした「始祖王」の神話が作られるとともに、その具体的なモニュメントとしての山陵が造営されていく様子を論じる。
 授業ならばともかく、一般向けの講演で、2日間に三つというのはさすがに疲れる。家に帰ってしばらくぐったり。知らぬ間に居眠りをする。


2005.03.25

宇治を散策する、の巻

 3月24日
 午前中に、なんとか明日の講演の資料を作り、主催者に届ける。何も前日にあわててやることはないのに、誰だ、こんなに愚図愚図していたのは、と自分を呪い続ける。

 午後は、京都女子大学宗教・文化研究所ゼミナール(野口実教授主宰)の宇治の見学会にお邪魔する。学外からは、私の他に、K大学のMY先生・S大学のMK先生(以上・中世史)、KG大学のU先生(国文学)と、なかなかのメンバーになる。
 JR六地蔵駅で集合、浄妙寺跡(藤原道長建立)→「宇治陵」32・33号地(道長墓に推定する説あり)→松殿山荘(藤原基房の松殿跡)→許波多神社・「宇治陵」第36号地(藤原基経墓という伝承?あり)→電車で京阪宇治駅→宇治市歴史資料館→京都市内某所で宴会、という行程。雲行きが怪しく、祈りのかいもなく途中から雨が降り出した。しかし、やっぱり歩いてみると次々にいろんなことがわかる。最近では、目的地にだけ車で直行し、周辺を歩かなくなったからな・・・ めんどくさがらずに、「歩ケオロジー(Archaeology)」をやろう。

 宇治市歴史資料館では、埋蔵文化財担当の職員の皆さんが総出で説明を聞かせてくれる。ありがたやありがたや。野口先生、MY先生・MK先生と、「藤原氏の権門都市・宇治」の最新研究について議論する。とにかく、ここ数年で、「中世都市宇治」が急激に「熱く」なった。みなさんの熱気に負けないように、私も勉強を続けよう。

 晩は例によって宴会。学生さんたちと、楽しく呑む。連日こんなことで、また体重が増加傾向。う〜ん、くわばらくわばら。


2005.03.23

事務をこなし、広沢池で呑む、の巻

 3月23日
 今日は久しぶりにちょっと体が空いた。そういう時にこそ溜まっている仕事を片づけたらよいのだが、なぜかそんな気にならない。うちの奥さんも仕事に行ってしまったから、ひたすらボーっとする。本当はあさっての講演のレジュメを作らねばならないのだが・・・
 そんなことではいけないので、午後には大学に行く。いくつか、片づけておかねばならない事務仕事があるからだ。本当はもっと早くに片づけるべきなのだが、結局ズルズルと今日まできた。フウフウ言いながら、なんとか書類をあげる。
 夜は、花園大学人権教育研究センターの反省会〈呑み会?〉。このセンター、どういうわけか私が副所長という大層な役目を仰せつかっている。どこで呑み会をやるのかと思えば、なんと嵯峨野・広沢池の池中に張り出した釣殿のような建物。そこでシャブシャブをいただく。なかなか豪勢で、結構でした。


2005.03.21

女帝論を学ぶ、の巻

 3月21日
 連休のはずだが、当方には無縁。日本史研究会古代史部会に出席。部会にいくのがしばらく空いてしまった。一応、日本史研究会古代史部会担当の研究委員なので、これではいけないな。なかなか予定を手帳に書き込まないのが良くない。
 今日は、秋の日本史研究会大会の準備報告。古代の女帝論・天皇論に華を咲かす。ただ、これに限らず、「王権論」をやっていていつも気になることがある。「王」そのものと、「王らしき者」をどれだけ区別するべきなんだろうか。古墳時代後期の飯豊皇女(清寧天皇の崩後に一時的に王権を代行していたといい、「飯豊天皇」とも呼ばれる)は王なのか王らしき者なのか。伝承上の神功皇后は? 聖徳太子は? 時代降って、征夷大将軍は王なのか王らしき者なのか? 頼朝薨後の北条政子は? 足利義満は? いろんなことが頭をよぎる。とにかく、王権論をやるには、「王とは何か」を自分なりにきちんと整理しなくちゃなるまい。


2005.03.20

東アジアの古代都城を学ぶ、の巻

 3月20日
 奈良女子大学でおこなわれた国際講演会「東アジアの古代都市」(奈良女子大学21世紀COEプログラム 古代日本形成の特質解明の研究教育拠点)を聴きに行く。ホントは昨日にシンポジウムがあったのだが、所用のため今日だけの参加である。このプロジェクトの責任者(「拠点リーダー」というらしい。なんか知らんがカッコいい名前だ)である同大学の舘野和己教授が平城京のことを報告、その他、中国古代都城、唐長安城、新羅・百済の都城、ヴェトナム・ハノイのタンロン城(昇竜城)について、それぞれの国の研究者が報告する。
 唐長安城については、10年前に京都文化博物館の特別展「大唐長安展」を担当した時にだいぶ勉強した。と、いうか、やらざるをえなかった。仕事とはいえ、西安にも何度も何度も行ったし、仕事の合間には西安の街をあっちこっち走り回った。そのたびに西安と長安城がどんどん好きになっていった。まあ、長安城で確立した都城制を真似て日本の都ができているのだから、京都にとっても長安城は、お師匠さんというか、先駆者というか、とにかくそんな存在だ。
 ただ、忙しさにかまけて、この10年間は長安の勉強を怠ってきたのも事実。最近では中国にもとんとご無沙汰だな・・・ せめて、こんな講演会がある時には最新情報を聴きに行くべきであろう。
 唐長安城の考古学的調査は、やっぱりかなり進んでいる。特に、大明宮のあたりの調査の進展が著しい。1995年〜96年の大明宮含元殿(大明宮の中心的建造物)の調査はかなりの成果をあげたし、その後には遺跡の整備も進んでいるらしい。資料館もできたそうだし、いずれは見にいかなくちゃならないな、と決意。
 ただ、長安城の復元図は、いまだに1960年代のものがそのまま使われている。そんなはずない、と思っていたら、報告中に映写されるパワーポイントの映像には最新の復元図の一部がチラリチラリと登場。そんなのがあるのならば、最新の復元図の全貌がぜひ見たい〜、と思う。報告の最後には、コンピューター・グラフィックスによる大明宮復元映像まであるというサービスぶり。
 この講演会の情報を教えてくれた奈良女子大学大学院のMさんと会う。研究代表者の舘野先生(いつも、とっても紳士)にもご挨拶。よしよし。

 帰りはCDショップに寄り道。ちょうど、パーヴォ・ベルグルンド指揮ヨーロッパ室内管弦楽団によるシベリウス交響曲全集(シベリウスの権威として知られるこの指揮者の3度目の全集)の輸入盤が安く出ていたので、これ幸いと購入。


 


大徳寺の秘密を探りに行く、の巻

 3月19日、JR東海の京都・奈良・近江情報文化事務局主催の見学会の講師をつとめる。かつては「JR東海京都クラブ」と言っていたもので、主として東京圏の人を対象として、京都の魅力を知ってもらうさまざまなイベントをおこなう(そして、結果的には東海道新幹線の収益につなげる)という事業をやっていた。組織が変わってからはしばらく御無沙汰だったが、久しぶりの登板である。行ってみると、かつてからの固定客の皆さんがかなり混じっていたので少し安心する。
 今日は大徳寺の見学。この見学会は、普段見ることのできないところを交渉して入れてもらうというのがひとつのウリである。今日は、大徳寺方丈で私の講義を聞いた上で、方丈、唐門、三門(金毛閣)、塔頭の大光院を見学する、という内容である。唐門はふだんはまったく公開されていないのであるが、見てみると最近修理が終わったばかりとのことで、輝くばかりの美しさである。スゴイ!! 三門は外側から見ることはいつもだが、今日は特別に階上に上がることができる。これもまったく特別待遇。いわくつきの、ワラジ掃きの千利休像まで見せてもらう。下を見下ろすと、フツーの観光客の人々が「あいつらはなんであんなところに上がらせてもらっているんだ」というような目でにらんでいる。ご免なさいね。三門から伏見城が遠望できることは驚きだった。大光院は秀吉の弟の豊臣秀長の菩提寺。秀長の墓を拝み、木像・肖像画を見せてもらう。これもまったく普通では見ることができないものである。とにかく、満足満足。
 ちなみに、私の講義は「豊臣秀吉と京都」。秀吉政権の本質が「武家関白政権」であったことを強調し、秀吉と京都がいかに密接な関係にあったかというところを説きおこす。

 あんまり楽しいので忘れるところだった。晩は日本史研究会の委員会に出席。またいろいろやらねばならないことが増える。


 



「平安京—京都図研究会」完結、の巻

 日記を書く間隔が空いてきた。こりゃ、いずれは元の木阿弥になるかな?

 3月18日、京都大学で3年間続けてきた共同研究「平安京—京都の都市図・都市構造に関する比較統合研究とデジタルデータベースの構築」(科学研究費補助金基盤研究A1、課題番号14208006、研究代表者:金田章裕・京都大学大学院文学研究科教授)の最終研究会である。つくづく思うのだが、研究会ってのは研究代表者の気質が反映するということ。この研究会は、いつも朗らかな金田先生の気質をそのまま表すように、和気藹々の楽しい集まりだった。終わってしまうのがちょっと残念。それにしても、京都大学の副学長という寸暇を争う激務の中で、こんな研究会を主宰し続けられた金田先生のバイタリティーにも感服。
 この日は、ようやく研究報告書が仕上がり、メンバーに配布される。私は、例の嵯峨の研究をまとめた「中世都市嵯峨の変遷」を執筆。ちょうど前日に自宅に届いた、『中世の都市と寺院』(吉井敏幸・百瀬正恒編、高志書院)に載せた「院政王権都市嵯峨の成立と展開」と併せて、「中世都市嵯峨2部作」が完成したことになる(というほど大げさなものではないが・・)。
 研究会が終わった後は、例によって飲み会。またまた飲み過ぎ。


2005.03.18

今日は卒業式、の巻

 3月17日はわが大学の卒業式。マンの悪いことに雨だったが。これまでは厳しい顔つきで学生を脅かし続けたが、今日ばかりはそんなことはカラリと忘れ、とにかくおめでとう、社会に出てもがんばるんだよ、と言うことができる。やっぱりみんな嬉しそうだね。晩は謝恩会のコンパ。また飲み過ぎる。このごろ毎日呑んでいるな・・・


中世都市嵯峨の報告をする、の巻

 3月16日の夜は、京都大学の一室を借りて内輪の研究会。「中世嵯峨研究会」と銘打つ。K大学大学院の歴史地理学の修了生のTさんが、修士論文で画期的な中世嵯峨の研究をやったというので、臨時の研究会を持ったのである。周辺に声をかけると、なかなか凄い面子が揃う。このテーマの一騎当千の研究者が集合し、若いTさん、ちょっと緊張気味。でも、内容はなかなかに充実。私も思ってもいなかった視点が提出され、勉強になった。
 私も、「関連報告」ということで自分なりの中世嵯峨論を展開する。骨子は、絵図史料にもとづいて中世都市嵯峨を現在の地図上に復元し、その変遷をたどる。また、鎌倉時代の嵯峨は平安時代の白河・鳥羽殿・法住寺殿の正統な後継者としての「院政王権都市」と呼ぶべき存在である。その構造は同時期の鎌倉とほぼ同じであった。13世紀という時代は、東西の王権が期せずして同形同大の2都市(西の嵯峨と東の鎌倉)の建設にいそしんでいた点で、都市史上に画期的な意義を持つ時代だった、ということを論じる。
 その後は懇親会。やっぱりいろんな分野の研究者とワイワイやるのは楽しい。つい飲み過ぎる。


2005.03.15

税金を払い、追い出しコンパをする、の巻

今日は確定申告。僅かだが、税金を払いにいく。お役所の皆さん、私の払った税金を有意義に使ってね!

あさっては卒業式、もとい、最近ではもったいぶって「学位授与式」という。そこで、今日は追い出しコンパ。就職先が決まっている人、決まっていない人、様々であるが、とにかく世間の荒波に漕ぎ出していかねばならぬ。大学生活の中で「学問」に真剣にとりくんだ経験は、必ずやあなた達の人生を底支えしてくれるはずだと思う。卒業生諸君の今後に幸あれ! 


2005.03.14

福原京の勉強をしに行く、の巻

 平清盛が造り上げた新都市が、摂津国の福原である。治承4年(1180)のいわゆる「福原遷都」事件によってあまねく知られているし、また、今放映中の大河ドラマ「義経」でも福原はしばしば登場する。
 私も、この福原の問題については以前から興味を持っていた。「『福原京』に関する都城史的考察」(中山修一先生喜寿記念事業会編『長岡京古文化論叢』Ⅱ所収、京都、三星出版、1992年)という論文を書いたことがあるし、また、この4月には「『福原京』の都市構造」という論文を出す予定でいる。

 3月13日(日)、シンポジウム「『福原(和田)京』の謎を解く」がおこなわれたので、さっそく出かける。兵庫県が計画している県立考古博物館(仮称)のプレ・イベントのひとつであり、会場は同博物館の建設予定地に近い加古郡播磨町の中央公民館。
 岡田章一(県教育委員会)「福原京を掘る」
 鋤柄俊夫(同志社大学) 「平氏の考古学」
 元木泰雄(京都大学)  「院政と平氏政権」
 高橋昌明(神戸大学)  「福原京と大輪田泊」
という報告とシンポジウムという、豪華絢爛、盛りだくさんのメニューである。さらに、播磨町郷土資料館では「春の夜の夢のごとし—平清盛と福原京の考古学—」の特別展をやっているという、まさにいたれりつくせり。

 最寄りのJR土山駅に着くと、改札口でシンポジウムのパネラーの先生方とばったり出会う。これ幸い、厚かましくも車に同乗させてもらう。うんうん、幸先がいいぞ。昼食は名物の明石玉子焼。ちょっと食べ過ぎたかな? シンポジウムも充実した内容である。今日の知見をどう消化し、生かしていくか、思案思案。ともあれ、満足の1日であった。


2005.03.12

A君の須恵器窯研究を読む、の巻

 夕方、花園大学の卒業生で、某県の埋蔵文化財センターで嘱託の調査員をしているA君が来る。地元にある大規模須恵器窯址群の編年や生産の消長を論じた論文を書いたので、原稿を見て欲しいとのこと。この窯址群は、大規模にもかかわらず調査があまり進んでおらず、今までほとんど注目されていなかった。おそらく他地域の研究者にはまったく知られていなかった遺跡であろう。私も、一部の窯の発掘調査に招いていただき、窯と出土遺物の観察をした記憶はあるが、その周辺にそれほどたくさんの窯址が隠れていたなどというのは知らなかった。
 A君の研究は、小学校の資料室や埋文センターの倉庫に埋もれていた微々たる資料を「再発掘」し、この窯址群の展開を丁寧にあとづけた意欲作。こういう地味な作業は、昨今の若い研究者はあんまりやりたがらない。しかし、本当の意味で地域史を再構成しようとするのならば、目先の大発見ばかり追いかけるのではなく、地に足を付けたこうした積み重ねが必要なのだと思う。A君が忙しい現場作業のかたわらで、コツコツとそうした研究に取り組んでくれていることは心強い。A君、がんばれ。



「鴨川の治水神」を巡る、の巻

 昨日は朝日カルチャーセンター京都の現地見学。「安倍晴明信仰と鴨川の治水神を訪ねて」ということで、四条から松原にかけての鴨川のあたりを巡る。

 私の論文のひとつに「鴨川の治水神」(『花園大学文学部研究紀要』第32号、2000年)というのがある。中世から近世にかけて、鴨川の東岸一帯が「治水神の聖地」とみなされていたことを解明するとともに、その「鴨川の治水神」は、ある時は安倍晴明、ある時は中国・夏の禹王<かのうおう>、ある時は弁財天、ある時は地蔵菩薩というように、種々様々に変化する奇妙な神であることを歴史民俗学的に論じたのである。書いた当人としてもなかなか気に入っている一編であるから、ご興味のある方はぜひご一読いただきたい。

 私がこの研究をやることになった動機は、瀬田勝哉先生(中世史、武蔵大学教授)の美しくも魅惑的な論文「失われた五条橋中島」(『洛中洛外の群像—失われた中世京都へ—』所収、平凡社、1994年〈初出は1988年〉)を読んだ時の感動にある。瀬田先生は私の最も尊敬する歴史学者のひとり。どちらかといえば寡作な学者であるが、論文のひとつひとつが、隅々にいたるまで磨き上げられており、論理の精密さはとびっきりである。私も、瀬田先生のように「美しい」論文が書けたらな、といつも思っている。

 「鴨川の治水神」の論文は、瀬田先生の問題提起をさらに発展させたもの。書きあげた時には、瀬田先生からいただいた「宿題」になんとか解答できたような気がして、嬉しかった。瀬田先生から好意的な評価をいただいたことも、ますます嬉しかった。その意味でも、自分にとって大事な論文になったのである。

 晩御飯は、久しぶりに焼肉を食べに行く。勧められるがままに「幻の逸品」とやらを注文。こってりと脂がのって、確かにおいしかった。


2005.03.10

中世墓地の図面作成に取り組む、の巻

 始めて大学に入った時、研究テーマを「中世墓地」にしようと思っていた。大学では考古学をやる、というのは決めていたのだが、高校で日本史を教えてもらった先生が民俗学研究者だったということもあり、民俗学というのも面白そうだな、と思っていた。そこで、考古学と民俗学の接点というべきテーマは何か、と考え、「中世墓地」を勉強し始めたのである。しかし、これは今から考えるとまったく無理無体。そもそも、四半世紀も前のことだから、まだまだ中世土器の編年研究すら緒についたばかりの時代だった。つまり、中世の墓地なんてのは、大学にはいったばかりのペイペイがすぐに取り組めるような分野じゃなかったのである。私も案の定で、しばらく資料を集めたが、あえなく挫折してしまった。
 ところが、時の流れというのは恐ろしいものである。研究者として歩み始めて、それなりの経験を積んでいくと、それまでは五里霧中だったテーマにある時ふっと視界が開けることがある。私の中世墓地研究もまさにその通り。何十年もたつうちに知らず知らずに構想がまとまり、きちんとした研究を世に問うことができるようになった。「京都の都市空間と墓地」(『日本史研究』409号、1996)、「考古学からみた近世京都の墓地」(『関西近世考古学研究』Ⅵ、1998)のふたつである。特に、前者の論文が書けた時には、若き頃の宿願が果たせたような気がして、正直嬉しかった。

 昨年には、丹後の野田川町(京都府与謝郡)の教育委員会から依頼を受けて、幾地地蔵山遺跡という中世墓地遺跡の石造物調査をおこなった。あまり知られていない遺跡であるが、中世墓地としては全国でも屈指のもののひとつであろう。なによりも、地元の皆さんが大事にしていて、今も室町時代の墓地をほぼそのまま見ることができるというのが素晴らしい。町でもこの遺跡を後世に伝えるため、5年間にわたって範囲確認調査をおこない、私もいろいろな相談を受けてきた。そして、その最終年度ということで、現在地上に露出している石造物の悉皆調査をやったのである。花園大学考古学研究室の学生諸君が奮闘してくれて、400個体近い数の石造物(五輪塔・石仏など)を確認し、台帳化することができた。破壊を前提とする調査ではなく、遺跡保存を見据えた調査は気持ちがいい。こういう、地道ではあるが基礎的な調査こそ、大学の研究室がおこなっていくべきものだと思う。

 しかし、正直言って、調査したあとの報告書づくりは苦痛。今月いっぱいになんとか形にしなければならないという義務がある。今日は、調査の中心となってくれているKさんに来ていただいて、ふたりで図面を作る。疲労困憊・・・・・


2005.03.09

保元物語を紐解く、の巻

 寝込んでいる間、朦朧とした意識ではちゃんとした用事はできない。しかたないので、落語を聞くか、音楽を聴くかというのを続けていた。多少気分がよくなってきたので、寝床の中で『保元物語』を開け、パラパラと拾い読みする。

 保元・平治の乱については、最近とみに研究が進んできた。河内祥輔『保元の乱・平治の乱』(2002、吉川弘文館)はその代表作。軍記物である『保元物語』『平治物語』はあえて無視して、同時代史料だけで構成し直す、と宣言した意欲作である。ただ、私の目から見ると、これは角を矯めて牛を殺す結果になったように思う。軍記物も適正な位置づけを与えるならば、歴史の再構成に充分使うことができると考えるからだ。なお、河内氏の著書に対しては、元木泰雄『保元・平治の乱を読みなおす』(2004、NHKブックス)が克明な批判を展開している。

 ともあれ、どちらにしても『保元物語』『平治物語』をきちんと読まなけれりゃ話にならない。と、いうことでまず『保元物語』を紐解いたのである。しかしこれも、最近では諸本研究が進んできて、以前のように流布本だけを読んで事足れりとするわけにはいかない。ボヤいていると、うちの奥さんが「こんな本があるよ」と言ってA4版の大著を差し出してきた。武久堅(監修責任)『保元物語六本対観表』(2004、和泉書院)。古態を残すということが最近の通説になっている半井本を始めとして、鎌倉本、文保本、京大図書館本、金刀比羅宮本、古活字本の6種を丁寧に対照させたという優れものである。凄い!というのは確かなのだが、なぜ、私のまったく知らない間に我が家の書庫にこんな本(しかも高価!)が揃っているのか、どう考えてもわからない。
 しかし、あるものは使わなければ損である。対照させて読んでいくと、やっぱり流布本だけ見ていてはわからないことが見えてくる。流布本で固定された通俗的イメージを、古態本によって修正していくという作業は、いろんな局面でもっともっと必要なのだと思う。


2005.03.07

青山学院大学の入試に登場する、の巻

 青山学院大学の国文学の佐伯真一先生と、京都女子大学の中世史の野口実先生から、面白い情報が届く。
 本年度におこなわれた青山学院大学国際政治経済学部の「国語」の入試問題に、なんと私が登場していた、とのこと。さっそく、密かに(?)入試問題のコピーを取り寄せる。たしかにあった。「次の文章を読んで、後の問に答えよ」の「文章」の中に「考古学者で、京都町衆の後衛たることを自ら標榜する山田邦和氏はこんなことをその著書で述べている」。その後、7行にわたって私の著書(『カラーブックス 京都』)からの引用文が載せられている。他人の論文に引用されることは珍しくないが、大学入試問題に載ったのは始めて。なんだかちょっと嬉しくなる。
 と、いっても、ホントは間接的引用。実は、青山学院が入試に引用したのは野口先生の著書『武家の棟梁の条件』(中公新書)の「あとがき」の一部なのである。その「あとがき」の中にさらに私の文章が引用されて登場している、ということだから、引用の引用ということになる。銅鐸の中に銅鐸が入っているようで分かりづらいが、ご理解いただけましたか?

 『カラーブックス 京都』を書いたのはもう10年も前の1993年のことである。京都人の考え方をわかってもらおうとしていろんなことを盛り込んでいるが、そこで何の気なしに「わたしは武士が嫌いだ。武士道は人殺しと自己破壊の哲学だし、幕府とは広域暴力団が組織化されたものだと思っている」と書いた。私としては別に珍しいことを書いたつもりはなかったのだが、京都以外の人の目にはそれがまったく珍しいものに写ったようである。その筆頭が、当時、職場の同僚だった野口先生で、彼は日本人の中に「武士嫌い」を公言する人間がいるという事実にひどくカルチャーショックを受けられたようで、それがこの文章になって出てきたのである。
 そういえば、この文章、他でも引用されている。今谷明先生の『謎解き中世史』(1997、洋泉社)の66頁に野口先生の著書の紹介と並んで「京都のある若手考古学者がその著作中に『私は武士が嫌いだ。(中略)』と述べた。一昔前まで、このような見解の披瀝は学界ではタブーとさえいえる雰囲気があった」と記されている。実名こそ出ていないが、これ、まちがいなく私のことである。

 以上、自分では常識だと思っていることを言ったら、他人にはまったく非常識で、思わぬ反響を呼ぶことがある、という実例である。


2005.03.05

復活のきざし、の巻

 まだ苦しいが、ちょっと楽になってきた。
 客観的に見れば、たかが風邪ごときで何を大げさな、ということになるが、しんどい身の当人としては風邪も重病も同じことである。普通の人は熱がある時だけ頭がボーッとするらしい。私は自慢じゃないが、普通の時でもボーッとしている。さらに熱があると、ボーッの2乗ということになり、その結果、普通の人以上に苦しい。
 風邪ひきでイヤなのは、喉に残ることである。私はただでさえ喉(気管支?)が弱い。通常でもいつもゲホゲホやっている。ほとんど癖のようなもので、ところかまわず咳がでることがある。しかも、他人からみるとそれが結構な大音量らしい。道を歩きながら大きな咳をして、前の人がびっくりして振り返る、なんてことは日常茶飯事である。私のような仕事の持ち主にとっては喉はなによりも大切な商売道具である。擦り切れでもすれば商売あがったりになるから、大事に使わねば、と思ってはいるのだが・・・


 あらぬことを考えながら、久しぶりに「人気blogランキング」をのぞくと、なんと、「平安京閑話」が1位にランキングされていた。多数の方々を、つまらない独り言におつきあいさせているようで、恐縮することしきり。でも、正直なところ、ちょっと嬉しい。ただ、皆さんのご期待に応えて面白いブログにしよう、なんてことを言い出すときっと長続きしなくなるので、今後もとりとめもないことを書き続けるだけだと思います。ご容赦のほどを・・・

 今日は大学院の入試で、どうしても出勤しなければならなかった。重い頭を抱えながら登校。受験生は他のゼミ生ばかり(私のゼミ生は秋試験で合格済み)だったので、ちょっとは気が楽。ただ、私の面接はいつも厳しいらしく、今日も結構きついことを言ってしまう。それというのも、大学院に入るということは、研究という名の修羅場に飛び込むことだと思っているから。しかし、本心では、ひとりでも多くの若人が学問に目覚めてほしいと思っている。口ではそれと裏腹のことを言っているのだから、大学教師というのは因果な商売だと思う。


2005.03.03

風邪と落語の日々、の巻

 2月27日の日曜日から、風邪をひいた。先週はうちの奥さんがゲホゲホやっていたので、うつったら困るな、と思っていたら、案の定である。とにかく咳がひどく、苦しい。28日(月)は大学で会議があったので仕方なく出勤したが、頭がぼーっとしていしてまったく上の空。用事は立て続けになるもので、その日の夜は、今年夏に本番を実施する中世都市研究会の準備会。しかし、私の言っていることはほとんど支離滅裂である。
 どうしてこう、よく風邪をひくのかわからない。日頃の鍛錬を怠っているといわれれば確かにその通りで、抗弁の余地はない。翌日からは寝込む。私の癖で、病気で寝込んだ時には落語を聞くことにしている。落語で笑っていると、熱があるのを少しは忘れることができるからだ。枕元に落語のCDを山積みして、ひとつひとつ聞いていく。今回は、今は亡き古今亭志ん朝さんをまとめて聞く。江戸っ子らしいチャキチャキとした気っ風のいい、そして明るく朗らかな芸を堪能。
 今日も1日寝ていたので、熱は下がったようだ。まだ喉が痛いのだが、明日はどうしても出勤しなければ。辛いな・・・・


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