« 2005年3月 | トップページ | 2005年5月 »

2005.04.30

奈良博と唐古を堪能する、の巻

 4月29日(金・祝)
 花園大学考古学研究室の見学会をやる。行き先は、奈良国立博物館と唐古・鍵遺跡である。
 奈良国立博物館のお目当ては、特別展「曙光の時代−ドイツで開催した日本考古展−」(3/23〜5/8)である。日本考古学の精華をヨーロッパに紹介するために企画され、ドイツの2都市で巡回して好評を得た展覧会の「里帰り展」である。なんといっても、97遺跡1,555点、しかも国宝3件・重要文化財35件を含むという、豪華絢爛なラインナップは壮観の一言につきる。どの展示品も、考古学の教科書のトップに記載されているような名品ばかりなのである。学生諸君も、それぞれの関心ある時代の遺物に釘付けになる。うんうん、結構結構。遺物が発する無言の語りかけを正面から受け止めてね。真摯な眼差しを輝かせる我が学生諸君をみながら、いささか頼もしく思う。
 奈良博でできるだけ時間をとったために、昼食の時間を切りつめることになる。それぞれ、パンやおにぎりを買って近鉄奈良駅のベンチでむさぼり食う。なんとか予定の電車に間に合い、田原本町の唐古・鍵遺跡に向かう。

 唐古・鍵遺跡は、大和最大の弥生集落として知られている。私にとって思い出深いのは、大学1回生の夏休み(1977年)、私が始めて発掘調査に参加したのがこの唐古・鍵遺跡(第3次調査、当時はまだ唐古遺跡といっていた)だったのである。炎天下の中、大量の弥生式土器や木器の出土に驚嘆しながら、泥と地下水と格闘したことが今更ながらのように思い出される。
 近鉄石見駅から徒歩20分で、遺跡中心部である唐古池に着く。簡単に説明をし、再現された模擬楼閣をながめた後、さらに20分歩いて(暑かった・・・)、新設されたばかりの唐古・鍵考古学ミュージアムに向かう。
 唐古・鍵考古学ミュージアムでは、田原本町教育委員会のFさんが出迎えてくれる。お久しぶりです。私にとっては、高校・大学時代を通じての先輩である。この人の考古学に対する厳しい姿勢を、私はいつも仰ぎ見るような気持ちで眺めてきた。地元である田原本町に就職してからは、100回を超える唐古・鍵遺跡の発掘調査・研究にいつも主導的な役割を果たし、さらには同遺跡の国史跡指定という快挙をなしとげるための推進力となられてきた。昨年の秋に開設されたこの考古学ミュージアムは、まさにFさんの情熱の結実だといえるのだろう。決して大規模とはいえない博物館ではあるが、展示は見事の一語に尽きるものである。唐古・鍵遺跡の桁外れの凄さが、展示の端々から伝わってくる。

 また20分歩いて近鉄田原本駅に出る。西大寺駅で寄り道して、学生有志と一杯やる。一杯のつもりがどんどん盃を重ねてしまい、結局はぐでんぐでんになる。酩酊状態の私の横で、学生諸君は「発掘現場で○○さんの図面に感動した。あれは凄い!」「この遺物を実測する時には、ここをこう見なくちゃ」などと、熱っぽく語り合っている。嬉しいな。やはり、研究室の呑み会はこうでなくっちゃ。私が気づかない間に、いつのまにか、彼らもこういうことに情熱を傾けられるようになったんだ。みんな、考古学の第一歩はやはり遺跡や遺物に対する情熱にあるんだよ。その喜びがわかった時が、まさに考古学の真価に触れた時なんだよ。
 気分良く学び、気分良く呑めた1日だった。



2005.04.28

京都府埋蔵文化財研究会の準備をする、の巻

 4月28日(木)
 午前は考古学概論、午後は大学院の演習と特講。大学院では、鎌倉時代に天武・持統両天皇合葬陵が盗掘された際の記録「阿不幾乃山陵記」を読む。的確な遺跡描写に改めて感嘆する。
 晩はD大学で会合。秋に予定されている「京都府埋蔵文化財研究会」の大会の準備会である。これは、京都府下の考古学研究者の集まりで、年一回大会を開催する。D大学のSさんとKH大学のHさんの主導のもと、テキパキと物事が決まっていく。ただ、マンの悪いことに、大会当日は、ウチの大学の入試が重なってしまった。入試をサボるわけにはいかないので、出席をあきらめる。去年も確か入試にぶち当たって欠席したな。仕方ない、懇親会だけは駆けつけよう。と思っていると、Hさんから「山田さんは紙上参加でいいですから」とのことで、レジュメに原稿を書くことになった。締め切りが怖いな・・・


工藤静香さん新譜、の巻

 4月27日(水)
 某市役所の方の訪問を受ける。市長の諮問にあずかる某委員会の委員を引き受けることになりそう。正式に決まったらまた報告します。
pcca70113
 今日は、工藤静香さんの新譜「心のチカラ(カップリング:潤んだハート)」発売日。仕事を終えて、とるものもとりあえずCD屋さんにかけつける。ところが、なかなか見つからない。店の中を三周くらいしてから、結局店員のお姉さんにありかを教えてもらう。ジャケットが凄くセクシーで、ちょっとドキドキする。
 この新曲、子供向けのアニメ映画「ふたりはプリキュアMax Heart」の主題歌である。しっとりとしたヴォーカルの、彼女らしい曲だ。静香さんは、このアニメでは女王様役の声優としても出演しているという。静香さんは以前にもいくつかのアニメで声優をつとめていた。私が見たのは去年公開の「それいけアンパンマン〜ルビーの願い」だけだが、これがなかなか良かった。ヒロインのおてんば姫=ルビーちゃんとまったく一体化したような名演を聴かせてくれた。こんな役には静香さんはぴったりだな。それからいうと、今回のアニメも期待がもてそう。ただ、映画館に見に行くのはちょっと躊躇するから、ビデオになるのを待とう。
 
 CD屋さんではもうひとつ、中島みゆきさんの新しいDVDを購入。これは凄い! しかし、こちらの感想はまたいずれ。

 帰宅すると、ウチの奥さんが風邪にやられてウンウンと唸っている。したがって、晩御飯は出来合いのトンカツ。急に竹の子が食べたくなったので、見よう見まねで若竹煮を作る。砂糖をどっさり入れて、甘辛く炊く。やっぱりあんまりうまくできあがらなかったのだが、なんとか食べられる。



2005.04.27

新入生歓迎コンパ、の巻

 4月26日
 JR福知山線(「宝塚線」)脱線事故は、ますますの被害拡大が判明する。死者は90人を超え、さらに十数人が閉じこめられたままだというから、おそらく死者100人を数えることになるのは確実だろう。鉄道史上空前の大惨事になってしまった。悲痛な思いで、ニュースに見入る。花園大学社会福祉学部の学生にも軽傷者が出ているらしい。
 この電車に乗っていた学生は、同志社大学の2講目の授業に出席しようとしていた人が多いのだという。それを聞いて、さらにゾッとした。同志社の月曜の2講目というと、私も一部を担当しているオムニバス授業「シルクロード」がある時間帯だ。前期は今出川キャンパス、京田辺キャンパスでは後期の開講なので今回の事故には直接の関係を持たずに済んだが、それでもめぐりあわせによっては私の授業に駆けつけようとした学生が事故に巻き込まれる、ということもありえたわけだ。恐ろしい。

 大学では、2・3・4回生それぞれのゼミをなんとか軌道にのせる。夜は考古学研究室新入生歓迎コンパ。でも、期待の1回生は誰も来ず。3回生ではじめて研究室に入ってきた学生が大半である。大騒ぎ。二次会は学部生にまかせて、私は院生をつれて別の店に行く。

 呑んだくれて遅くに帰宅すると、ウチの奥さんが東京旅行から帰ってきていた。厳島神社展の平家納経完全踏破を果たしたとのことで、ご満悦のようす。神田神保町の古本屋さんでかなりの無駄遣いもしたらしい。


2005.04.26

京都東から西へ、の巻

 4月26日(月)
 犬くんたちの朝の散歩を終えてから、北白川の京都造形芸術大学へと向かう。今年から、この大学の通信教育部の非常勤講師をつとめることになっている。担当は日本中世史のI先生。お久しぶりです。うちの大学に博物館を作る時には、大変大変お世話になった方である。一歩はいると、やっぱり芸術系の大学はどことなく雰囲気が違うことをひしひしと感じる。学生の顔の輝きも、どこか個性的にみえる。
 京都造形芸術大学では、M・M君とM・Kさんと落ち合う。お二人とも花園大学の卒業生である。私が科目全体の統括者、お二人がリポート課題添削者ということで、共同してひとつの科目を担当することになる。通信教育とはいえ、これはこれで立派な大学の授業であり、同大学の非常勤講師という肩書きがつく。若い研究者にとって、やはり大学非常勤講師という肩書きはひとつのステイタスである。M・M君とM・Kさん、せっかくだからこの肩書きを研究に生かしてください。
 京都造形芸術大学を出て、京都市埋蔵文化財調査センターに行く。K副所長からの頼まれごとを受ける。お役にたつなら私も嬉しい。その後、ウチの大学で会議。いつもながらのケンケンガクガク。
 夕方から、日本史研究会事務局で古代史部会の運営委員会、さらには古代史部会・中世史部会の合同部会。そのあいまに、家にとってかえして犬くんたちの夕方の散歩。部会では、天皇陵にも深くかかわる「宗廟」について学ぶ。なかなか難解なテーマだが、うんうんとうなずく。

 今日の午前中に、JR福知山線伊丹駅近辺で大規模な電車転覆事故があったという。やりきれない思い。以前は、この電車をよく使っていた。同志社女子大学と神戸大学の授業をかけもちしていたので、京田辺市の同志社前駅でこの電車にとびのり、尼崎で東海道本線に乗り換えて六甲道で降りて神戸大学へ通っていた。テレビで流される凄惨な映像に、身の毛がよだつ。電車が「く」の字形に折れ曲がって高層マンションにからみついている。
 原因はまだわからない。運転士のスピードの出し過ぎだとか、何者かによる「置き石」だとかという観測が流れる。どちらにしても、やりきれず、また腹立たしい。亡くなられた方々には、心からの哀悼の意を表さなくてはなるまい。


2005.04.25

前近代日本都市論研究会4月例会、の巻

 4月24日(日)
 研究グループ「前近代日本都市論研究会」の例会がある。
 この研究会はもともと、OS大学の日本中世史のNさん(誰にでもわかるだろうから仮名にする必要はないか・・・ 大阪市立大学の仁木宏さんである)が主唱して創設したもので、2年ほど濃い議論を続けた後、2002年に青木書店から論集『都市—前近代都市論の射程—』を出した。この本の書評では、「近来稀に見る《戦闘的な》論集」と評価を受けたことがある。本来ならば、この本が出たために解散ということになるのだが、あまりにもったいないというのでその後も続けることになった。とにかく、考古学、文献史学、歴史地理学などの学際的研究の場として、和気藹々、しかも真剣な議論を続けてきたのである。私も、この研究会のおかげでどんなに勉強させてもらったかわからない。
 今日は、会場は長岡京市内。OR博物館のHさんと、SK大学のKさんの報告。Hさんは飛鳥の都市論を斬新な視点から展開、Kさんは建築や都市の「指図」を克明に検討される。どちらもきわめて面白く、勉強になる。談論も風発で、あっというまに時間がたってしまう。
 さらに楽しみなのは、夜の宴会である。JR長岡京駅近くのこじんまりした寿司屋さんで、おいしい刺身とお寿司である。う〜ん、満足。これだからこの研究会、やめられないんだよな。
---------------------------------------------
 今日からウチの奥さん、また東京行きである。何回目かの厳島神社展見学だという。私は、家に帰ってマックとクイールの散歩。


京都新聞取材あちこち、の巻

 4月23日(土)
 京都新聞社の取材を受ける。月曜日朝刊に連載中の記事で、「道」をテーマにして京都を歩く、ということである。今月のその記事には、「案内人」として上田正昭先生が登場していた。私の「案内」は、白河、太郎焼亡(安元の大火)、そして鳥羽である。白河では、京都市動物園内の法勝寺八角九重塔跡。太郎焼亡は樋口富小路の出火元と、それで焼失した大極殿。鳥羽は「秋の山」と近衛天皇陵・安楽寿院を回り、いろいろと説明をする。写真がいるというので、さまざまにポーズをとる。6月に3回ほど載るということなので見てくださいませ。私の写真はお目汚しかもしれないが・・・


2005.04.23

中世酒屋の実態を眼前にし、腰を抜かす、の巻

 4月22日、つづき
 午後、京都市埋蔵文化財研究所がやっている、平安京左京六条三坊五町(旧・尚徳中学校)の発掘現場におじゃまする。本当は明日が現地説明会なのでその時に行くべきなのだが、どうしても明日は抜けられない用があるので、担当の丸川義広さんに無理を言ってお願いする。行ってみると、まさに驚嘆すべき成果である。14m×16mの範囲の中に、甕を埋め込んだ穴が200基以上も並んでいる。時期は室町時代だという。まさに、中世の酒屋の実態が眼前に展開しているのである。ずっと見ていても飽きない。揚梅小路の路面も綺麗に出ているし、揚梅小路と町小路の交差点もわかるなど、ホントに凄い現場だ。中世京都論を語るのに、今後絶対にはずせない遺跡になるだろう。見せて頂いて、感謝感謝。現場では、K大学の日本古代史のN先生に出会う。同先生も、しきりに感嘆していた。
 ただ、問題点も山積する。だいいち、こんなに広い面積の埋甕群に、どうやって屋根をかけるんだろう? 丸川さんやN先生とともに、首をひねる。


 夜は、D大学の教員になったKさんと一緒に食事。ささやかながらの就職祝いである。店をどこにしようかと迷ったのだが、木屋町通松原上ルの「THE RIVER ORIENTAL」(http://www.theriveroriental.com/history/index.htm)にした。前は通りながら入ったことはなかったので、いわば偵察も兼ねている。明治3年に創業した料亭旅館「鮒鶴」の建物(大正末期建築)を生かしたレストランである。堂々たる5階建ての和風建築で、宮崎駿監督のアニメ映画「千と千尋の神隠し」の舞台「油屋」を思わせる。中は現代的に改装され、なかなか快適。料理も、さまざまなおいしいものが少しづつ出てきて、大変満足する。窓からは鴨川と松原橋が見える。松原橋は古代・中世の五条橋で、川の中央には瀬田勝哉先生(武蔵大学、日本中世史)の研究で有名な「五条橋中島」があったはず。私も、この「五条橋中島」についての研究を書いたことがあるので、なおさら感慨深い。
 なお、母に「今日はTHE RIVER ORIENTALで食事をする」と言ったら、「昔の『鮒鶴』でしょ」と返事が返ってきた。「へ〜えっ、知ってるんだ」というと、すました顔で「あたりまえでしょ。あなたのお父さんと私が(40数年前に)結婚披露宴をやった場所だもの」と言われた。そんなこと始めて聞いたので、まさに仰天である。縁は異なもの、というべきか。
 二次会は河原町三条のいきつけのバー。Kさんとさんざんっぱら盛り上がる。
 いい発掘を見て、おいしいものを食べて、お酒を飲んで、親しい友人と心おきなく話をして、幸せな1日でした。


おいしい焼き肉ランチ、の巻

 4月22日
 午前中は、朝日カルチャーセンター京都の講座。4〜6月期の三回で「嵯峨野・太秦に秦氏を訪ねて」をやる。今回はその予習で、「古墳時代後期とはどういう時代か」を話す。古墳時代後期(6世紀)の巨大古墳の変遷、群集墳の意義、などについて述べる。終わってから、昼食をどこで食べようかと迷っていると、新たにできた「彦左衛門」という小さな焼き肉店が目にはいる。ここでいいか、と思って路地を入ると、小さいなんてとんでもない。奥行きの深い、堂々たる和風建築である。なんでも、明治期には東郷平八郎などが泊まったことのある格式ある料亭旅館で、そこを改装してこの3月にオープンしたという。雰囲気もいいし、食事もおいしく、値段もリーズナブルである。さらにいいのは、綺麗な総支配人がにこやかにお出迎えしてくれることである。これはいいところを見つけた。なんとなく嬉しくなる。さらに副産物は、庭に立っていた石碑の発見。「従是北淀領」と刻まれている。明らかに、江戸時代の淀藩領の境界をあらわす石碑である。凄いね。やっぱり、思いもかけぬところで思いもかけぬ発見があるものだ。


2005.04.20

怒りに震える、の巻

 4月20日
 近年、これほど落ちこんだ日はない。それとともに、今、私は、やり場の無い怒りに震えている。
 事の次第を詳しく述べるわけにはいかないが、大切な大切な友人のひとりが、とてつもない理不尽な災厄に襲われたのである。そのまっただなかに放り込まれて苦悶している友人の姿を思うと、胸がキリキリと痛んでくる。
 神よ! お出でになるならば、どうか彼をお助けください。この災厄が、結果的には軽く過ぎ去ってくれるよう、力をお貸しください。日頃は不信心な私ですが、今日は祈ります。祈ります。なにとぞ、なにとぞ・・・・


2005.04.19

「四円寺」に想いを馳せる、の巻

 4月19日
 また火曜日が巡ってきた。1講時から4講時までぶっ続け。2回生から4回生まで、今年度のゼミをなんとか軌道に乗せようとして奮闘する。

 夜は、京都大学の研究会に出席する。「京都大学大学院文学研究科21世紀COE〈グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成〉『王権とモニュメント』」の定例の研究会である。この会は、京都大学の考古学の上原真人先生がリーダーをつとめておられ、私も「学外構成員」として末席につらねていただいている。一昨年はこの研究会で、山科にある安祥寺上寺跡の測量調査をおこない、うちの研究室の学生諸君にも奮闘してもらった。http://www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/ouken/subject.html
 今日の会は、京都大学の日本中世史の勝山清次先生の「円宗寺の創建と中世王権」の報告。円宗寺は後三条天皇の御願寺として仁和寺の近辺に建てられた寺院であり、円融寺(円融天皇御願)、円教寺(一条天皇御願)、円乗寺(後朱雀天皇御願)と併せて「四円寺」と呼ばれている。勝山先生の報告は、この中の円宗寺に注目し、それと白河(六勝寺)との関係を解き明かしていく。正直言って今まで四円寺についてはあまり勉強してこなかったが、やっぱりすごく大事なお寺だと痛感する。特に、私のやっている天皇陵研究からすると、四円寺には一条・後朱雀・後冷泉・後三条・堀河の5天皇と陽明門院(後朱雀天皇皇后)が葬られたといわれているから、避けて通るわけにはいかない。
 よ〜し、次のターゲットは四円寺だ! などと、ひとりで勝手に盛り上がる。



人事の季節サクラサク、の巻

 人事移動の季節である。ちらほらと、転勤やら退職、就職などの知らせが舞い込んでくる。特に、研究職の人は移動が激しい。あれっ、あの人、こんなところに転出したんだ、と驚くことがしばしばである。KZ大学の日本中世史のKさんがN大学に転出され、T大学の日本中世史のY先生がA大学に転出されたのはびっくりしたな。また、D大学資料館のSさんは同大学の中の新設学部に異動された。

 でも、なにより嬉しいのは、研究職を求めながらなかなか見つからず、苦労を重ねてきた人の就職のニュースである。まずはヨーロッパ中世史のAさん。私と大学の同級生であり、ビザンティオン史を専攻した。私もビザンティオンには興味があったから、学生時代にはいろんなことを語りあっていたものだった。しかし、やはり研究分野が西洋史の中でもマイナーな分野であったせいか、職に恵まれず、大学を出てからもずっと非常勤講師という不安定な立場に甘んじながら研究を続けてきた。彼は私と同い年だから40歳代半ばのはずだ。奥さんが働いておられたからできたんだ、という側面は確かにあるが、それでもふたりの子供を育てながらの研究生活の苦労は筆舌につくせなかっただろうと思う。それでも、いつも物静かな態度を崩さず、黙々と研究を続けていた姿が印象的だった。その彼がN大学の教員として採用されたのである。同じ大学に行ったKさんからそのニュースを聞いて、私まで嬉しくなった。やっぱり、真面目に努力を続けていたら、どこかで誰かが見ていてくれるんだろうな。最近では会うことが少なくなっていたので、久しぶりに声を聞いてみたく、N大学の研究室に電話した。突然私から電話がかかったので彼も驚いたようだが、お祝いを言うと、ホントに嬉しそうな声が返ってきた。苦節25年の苦労が実った、と感慨深く語る。決して感情を顕わにする人ではないが、逆にそれだけに、声の端々に嬉しさがにじみ出てくるようだった。ホント、良かったな〜。

 もうひとりは、私の後輩で日本古代史のKさん。ピカイチの優秀な若手研究者であるが、やはりなかなか職に恵まれず、ずっと非常勤講師暮らしだった。今回、ようやく念願かなってD大学の教員として迎えられた。私とは10歳違いのハズだから、今は30歳代半ば。この人も苦節10年であるが、彼くらいの実力を持ちながらも、それだけの苦労をかさねなければならなかったのである。電話口からは、いつもながらのKさんの、はにかんだような声が聞こえる。それでも、喜びはやはり隠しきれないのはあたりまえだろう。私が何をしてあげられたわけではないのだが、「今の私があるのは山田先生の御指導の賜物です」と言ってくれる。お世辞にしても、そう言ってもらえるとちょっと嬉しい。

 しかし、最近では30歳半ばで大学教員になれるのはまだ運の良い方だろうな。研究職をめざしながらなかなかポストに恵まれない優秀な研究者はうんといるし、場合によっては、一生を非常勤講師(世間ではあまり知られていないが、大学の非常勤講師はきわめて不安定な職であり、それで食べていくのは至難の業である)でおくる人もでてくるのである。そう考えると私なんか、純粋な研究職とはいえないが、大学院マスターコースを出てからわりあい早くに博物館学芸員という職につくことができた。さらに、そこから大学に転出することもできた。まったく不満がなかったといえばウソになるが、それでも他の人と比較するとありがたい限りだと思わなくてはなるまい。それだけに、他の人から後ろ指をさされないような研究成果をあげていかねばならないのだと、覚悟を新たにしよう。

 Aさん、Kさん、とにかく良かった良かった。職の安定を得て、これからバリバリ仕事ができるはず。今後のご活躍を期待します。



2005.04.18

「『福原京』の都市構造」刊行、の巻

 4月17・18日
 17日、家に帰ると、小包が届いていた。私が「『福原京』の都市構造」の論文を書いた『古代文化』第57巻第4号「特輯 平家と福原」が刊行されたのである。待ち遠しかっただけに、嬉しい。私の論文の他、元木泰雄「福原遷都と平氏政権」、伊藤裕偉「伊勢平氏と屋敷」、野口実「平家の本拠をめぐって—立地空間の軍事的評価—」、近藤安紀「『平家物語』における還都—延慶本『平家物語』『山門都帰奏状』の本文について—」、岡田章一「〈図版解説〉兵庫県神戸市 楠・荒田町遺跡」、というラインナップである。編集責任者は京都女子大学宗教・文化研究所の野口実先生。
 私は、10年以上前に「『福原京』に関する都城史的考察」という論文を書いたことがある。『平安時代史事典』に「福原」の項を書いた副産物だった。京都にこだわり続けて研究を続けている私としてはいささか奇妙ではあるが、私の都市史関係の最初の論文は、平安京・京都ではなくこの福原研究だった。
 今回は野口先生の依頼(強要?)に負けて、久しぶりに福原の研究にとりくんだ。やって見ると、面白いこと面白いこと。何度も現地を歩き、史料を読み解くと、やはり以前には気付かなかった事実が続々とわかりだす。『玉葉』や『山槐記』をじっくりと読むのは久しぶりだな。思いがけない功を発揮したのは、ウチの奥さんの『平家物語』関係文献コレクション。私が知らないうちに、もっとも一般的な覚一本だけではなく、延慶本、長門本、四部合戦状本、源平盛衰記、高野本、屋代本、百二十句本と、『平家物語』の代表的な諸本は手元で見ることができるようになっている。特に、平家物語の中でも最も古体をとどめるといわれる延慶本には面白いデータが詰まっている。延慶本を歴史研究に使わないのはまったくもったいない限りであることを痛感する。
 そこで、今回挑戦したのは「福原京の復元」である。そもそも、清盛の福原の復元なんて、まったく無理だとしてこれまでは手がつけられてこなかった(足利健亮先生〈歴史地理学〉による和田京復元案は有名であるが、ちまたではこれを福原復元図と誤解している向きがある。足利先生の復元は、治承4年(1180)6月に一瞬だけ語られただけで消えた机上プランとしての「和田京」であって、その後に実在した福原京とはまったく別物であるから注意)。考古学的な発掘調査の成果をとりいれ、文献史料と矛盾しないように、現在の地図にパズルをはめこむように入れ込んでいく。そのおかげで、「福原京想定復元図」を完成させることができた。もちろん、これは仮定の上に仮定を重ねた試案だが、今後の研究の叩き台には充分なると思っている。ともかく、わりあい気に入っている論文なので、ご興味のある方は紐解いていただきたい。
 しかし、完成してから読み返してみると、いくつか誤字がみつかる。何度も校正刷りで読み返したハズなのにな・・・
-------------------------------------------------------------------
 18日は会議のため出勤。合間を縫って明日のゼミの準備のために、大量の論文をコピーする。教授会はケンケンガクガクの議論が続き、疲労困憊。


中世都市研究会準備会で濃い思いをする、の巻

 4月17日
 K大学のT先生のところで、夏にやる中世都市研究会京都大会(於花園大学、9月3・4日)の準備会をやる。中世都市研究会は、故・網野善彦、故・石井進、大三輪龍彦の3先生の主唱によって1993年に設立された。考古学、文献史学、建築史学、歴史地理学など、さまざまな分野の学際研究によって中世の都市を見つめ直していこう、という研究会である。活発な活動を続けたが、網野先生、ついで石井先生が亡くなられてからは、いったん休会ということになった。惜しいな、と思っていたら、近年はやや装いを変えて再開されることになった。今年は、京都でその大会をおこなうということで、私たち京都の研究者グループ(従来「平安京・京都研究集会」に結集してきたメンバー)が実行委員会を組織したのである。
 今回のテーマは、「中世のなかの『京都』」。中世の首都としての京都の研究を総括し、これからを展望、さらには《京都研究から全国の中世都市研究に発信》しようという壮大な試みである。今回は、その準備報告ということで、各報告者が自分の報告したいことのアウトラインを述べあう。こうしたひとつのイベントをなしとげようとすると、研究だけではなく、事務仕事も膨大である。名簿管理は、会計は、懇親会の運営は、司会は、と、やらねばならぬことは山積している。しかし、こうした研究会の運営にかけては無類の組織力を発揮するN先生(OS大学、中世文献史)の指揮のもと、テキパキと準備が進む。
 ここに集まったメンバーは、考古学、文献史学、歴史地理学、建築史=都市史学と多彩であり、現在の京都都市史研究の中核のある部分を担っている人々である。報告はまさに学際的。いずれの報告者も、自分の狭い専門に凝り固まるのではなく、他の学問分野に充分に理解をはらいながら、丁寧に組みあげていく。結局、午後1時から7時半頃まで、濃い議論を続けた。このままエネルギーを持続させ、本番の成功までもっていこう!


平安前期の建物跡を見る、の巻

 4月16日
 1講時目は「博物館実習」の授業。私が単位認定権者であるが、実際はオムニバスの授業なので、一回目の他は数回を担当するだけ。しかし初日が肝心である。博物館業界の置かれた現状、その厳しさ、それに耐えて博物館員となった人々の成功譚などをのべる。
 授業を早々にひきあげ、平安京右京五条三坊三町跡(佐井通高辻上ル)の現地説明会に急行する。右京の模範的・教科書的な遺跡である。平安時代前期〜中期の建物跡が数棟と、T字形に交わる区画溝が出ている。建物跡の最古のものは平安時代初頭のもの。特に見せてもらうと、柱穴を抜き取った痕に須恵器の杯をほうりこんであり、あきらかに8世紀末葉の建物であることがわかる。そもそも、建物跡の年代を決めるのは普通は至難の業だ。建物に伴う土器を限定するのが難しいからだ。ところが、この遺跡の場合には建物廃絶直後の土器がわかることになり、年代もまったく限定することができる。珍しいことだ。
 遺跡を見終わって、近くのラーメン屋で昼食。細い麺、ちょっと甘口でコクのあるスープが絶品。とりあわせの卵御飯もまことに結構である。

 夜、妹一家が京都に来たので、いっしょに食事をする。妹の夫は○○県の銀行員だが、そこの銀行の大阪支店に転勤になったので、引っ越してきた。食事の中では、焼き竹の子が言語を絶するおいしさ! う〜ん、満足。


2005.04.15

買い物ぶらぶら、の巻

 4月15日
 金曜日は授業がない。でも、ホントは事務仕事をしに出勤しなければならないのだが、なぜかそんな気になれない。まあいいや。今日はほかのことをしよう。
 研究会の資料を作って、CD-ROMに焼いて、それをカバンにほうりこんで家を出る。途中、T先生の自宅のポストにCD-ROMを放り込み、同志社大学に行く。博物館学研究室に寄り、今年退職されたK先生の退職記念論文集を手に入れる。同研究室には若手研究者であるSさん姉妹がいた《 この部分、反省とともに一行削除  4/23 》。それから人事課と図書館。嘱託講師(同志社では非常勤講師のことをこう呼ぶ)の身分証明書と図書館カードを更新する。パソコンに向かっていると、KS大学の古代史のI先生に声をかけられる。お久しぶりです。しかし、図書館では、探していた雑誌がなかった。残念! あとは大学生協で時間をつぶす。やはり、大きな大学は生協が充実しているのが羨ましい。ウチの大学なんか、ほんのこじんまりした書籍売り場しかないからな・・・ 森浩一先生の新刊を始め、数冊を積み上げていたら、この大学の古代・中世史のT先生(蔵書家として知られた先生)にであう。さらに、文房具売り場をひやかす。
 ものはついでで、四条通に足をのばし、ジュンク堂書店へ。今作っている報告書用に、地図を買わねばならない。しばらく来ていなかったら、売り場の配置が大幅に変わっていてびっくり。白石太一郎先生編の『古代を考える—終末期古墳と古代国家』など、ここでも数冊の本を買う。
 もう夕方。古本屋をひやかし、実家に寄ってから、帰宅。のんびりの1日でした。

-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+
4月23日   追記:反省、の巻
 4月15日の日記で、D大学の若手研究者Sさん姉妹のことを書いた。ところが、ある人からおこられてしまった。失礼だ、というのである。読み返してみると、遅まきながら確かにそうであることに気が付いた。少なくとも、デリカシーを欠いた書き方であるのは間違いない。反省した。書いてしまってから今更どうなるものでもないかもしれないが、その部分を削除し、反省の意をあらわすことにした。両Sさん、重ね重ねのご無礼、本当にご免なさい。許してください。


2005.04.14

「論文博士」廃止方針に呆れる、の巻

 4月14日
 木曜日は、午前中に「考古学概論」。いつもよりもちょっと人数が少なめかな? 午後は大学院の演習と特講。大学院演習では、ひさびさに角田文衞先生の『古代学序説』をテキストに選ぶ。空前にして絶後(少なくとも今現在では)の名著なのであるが、それにしてはあんまり読まれていないように思える。考古学だけでなく、文献史学の方々にもぜひ読んで欲しいものだ。しかし、難解なことも確か。さぁ、今期はこれをネタにして大学院生をいじめる(?)ことにしよう(笑)。

 ニュースを見ていたら、「中央教育審議会の大学院部会が『論文博士』制度を廃止するという結論を出した」というのがとびこんできた。現在の日本の博士号には、大学院博士課程(後期課程)の単位をすべて履修してから学位論文を出し、そこで授与される「課程博士」と、大学院に行かなくても相応の論文を提出することによって授与される「論文博士」とがある。私は博士課程前期(いわゆる修士課程)には行ったが博士課程後期(狭義の博士課程)には行っていない。30歳代後半になってそれまでの論文をまとめて大学に提出、博士号をいただいたから、私の博士号は「論文博士」である。
 その制度を廃止するというのである。なんでも、論文博士は「学位のため研究を狭い分野に限定してしまう恐れがある」「日本独自の制度で国際的な通用性に欠ける」からだという。
 まったくバカな話で、あきれて物が言えなくなった。課程博士は大学院に最低5年間在学が条件だから、早ければ27歳で博士誕生である。学位論文の枚数も400字詰原稿用紙300枚程度である。しかし、論文博士は600枚とハードルが高くなるから、それだけの研究の蓄積ができるためには早くとも30歳代後半にならないと無理であろう。そうした実状を無視して、論文博士は研究の幅が狭い、などと言うのは、ほとんど言いがかりにしか見えない。そもそも、いい中年になるまで研究を続け、立派な学術書一冊を書けるほどの力量を備えた研究者に対して「研究の幅が狭い」とか「お前はドクター・コースに行っていないのだから、どれだけ業績があろうと国際的に通用する学位は与えられない」なんて決めつけるのは、失礼を通り越して妄言としかいいようがないであろう。
 論文博士廃止には、もうひとつの問題がある。いわゆる「ディプロマ・ミル(またはディグリー・ミル)」、つまり「ニセ学位販売業」である。世の中には悪どい連中がいるもので、社会的にはまったく認められていない「●●大学」の看板を掲げ、名誉に飢えている金持のところに言葉巧みに売り込みをはかる。「あなたの社会的実績を単位に換算し、博士号を贈ります」というである。むろん、この紙切れ同然の学位記と引き替えに○百万円程度のお金を対価としていただくことになる。その多くは、大学に対する規制の緩いアメリカの大学の「日本事務局」などを名乗っている。
 論文博士が廃止されたら、企業や役所勤めの研究者を学位取得から閉め出すことになる(文部科学省はその代替に「博士課程短期在学コース」の創設を検討しているというが、いったい何のことやら?)。すると、その隙にニセ学位販売業がつけこんで暗躍する、という事態を予想するのは容易であろう。つまり、論文博士廃止は、こうした悪徳業者連中に格好のビジネスチャンスを提供することになる。文部科学省様、論文博士を廃止するならば、それより先に「ディプロマ・ミル」を取り締まってください。そうでないと、とんでもないことになっちゃいますよ。



京都学概論、の巻

 4月13日
 水曜日の午前中、ホントは同志社女子大学大学院の「考古学特講」をするはずであった。しかし、去年はこの授業、受講者がゼロで休講となってしまっていた。今年こそは、と秘かに期するものがあったのだが、フタを開けてみるとあら悲しや。ことしもまた受講生ゼロとあいなり、あえなく玉砕である。まあ、大学院の授業だから普通でも受講者は1〜2名なので、確かにゼロになってもまったく不思議はない。しかし、やっぱり拍子抜けがしてしまうのはいたしかたあるまい。
 よ〜し、これで空いた時間を使って必死に勉強して原稿を書くぞ!、なんて、できもしない決意を固める。

 今日からは、本格的に講義が始まる(昨日はオムニバス授業と演習だけだった)。5講時に「京都学概論」。とにかく、私が好き放題をしゃべるために作られたような授業である。今日はイントロダクション。日本の首都は今でも京都だとか、京都を観光都市と呼ぶなんてナンセンスだとか、京都人の前で京都の悪口をいうととんでもないことになるとか、京都駅ビルはガメラとイリスの闘いの場所になったから日本を代表する建造物として認定されたとか、持論を最大限に噴射する。聞かされる学生がどんな感想を持ったかは知らないが、大学の授業とはこんなものなのだ、と、うそぶき、全然反省しない。

 授業前に事務局に行くと、待ってましたとばかりに捕まってしまう。高校生相手の講義やら、入試説明会での模擬授業やら、なんか知らんがいっぱい引き受けてしまったぞ。むむむむむ。


2005.04.12

一日中しゃべりづめ、の巻

 4月12日
 今日から本格的に授業開始。いつも、新学期最初の火曜日は疲れる。
 なぜなら、1講時に「日本史学入門」。これは1回生向けに史学科教員すべてがオムニバスで担当する授業で、私は学科主任なので、最初に全体的な話をしなければならない。新入生向けは最初が肝心なので、大学での受講の心構えなども話す。反応はまずまずかな?
 2講時「研究入門演習」。2回生向けのゼミである。昔はゼミは3回生になってからはじまったのだが、それではとうていおっつかないため、2回生でも入門的なゼミを始めることにしたのだ。
 3講時「日本史学演習A」。3回生向けのゼミ。考古学専門のゼミは、本格的にはここから始まる。班分け、自己紹介、心づもりなどの話をする。
 4講時「日本史学演習B」。これが4回生向け。卒論が迫ってきているぞ!と脅かす。
 5講時、やっと解放される。しかし、放課後の研究会のための映像選びに手間がかかる。
 放課後。考古学研究室の定例研究会の第一回目。院生のKさんに、去年の丹後・幾地地蔵山遺跡の調査報告をやってもらうのだが、私も補足説明にかなりの時間を割く。
 要するに、今日は朝9時から夜7時半まで、昼休みと4時10分〜6時を除いて、ほぼ喋りっぱなしだということだ。ただ、1講時の日本史学入門と2講時の研究入門演習は、私が提案して新設した科目なのだから文句はいえない(確かに、教育的効果はかなり上がっていると思う)。ただ、ぶっ通しはやっばり疲れるというのは本音である。

 夜、ウチの奥さんが鎌倉の小旅行から帰宅。一昨日はボロ旅館、昨日は豪華ホテルに泊まり、地獄と天国を味わったという。
 その後、出版社社長のKさんが来宅。明日から中国旅行とのことで、ビデオカメラをお貸しする。どうぞお気をつけて行ってきてください。


気の重くなる会議、の巻

 4月11日
 ウチの大学の入試問題ミスが判明し、新聞やホームページで公表された。今日はそのための臨時教授会。こういう会議は気が重い。担当委員の先生方や事務職員の方々は事後処理に走り回り、見ているだけで痛々しい。しかし、人ごとではない。明日は我が身、である。入試は、まさに薄氷を踏むような思いの職務になりつつある。
 明日からは、いよいよ授業の本格的開始。準備がなかなかおっつかない。え〜い、出たとこ勝負だ!というような、不遜な気持ちになる。


2005.04.11

遺跡保護を討論する、の巻

 4月11日
 有限責任中間法人日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会関西連絡会(なんちゅー長い名前だ!)を開くというので、場所としてウチの大学の考古学研究室を提供する。
 日本考古学協会は、わが国最大かつ代表的な考古学の学会である。昨年(だったかな?)、念願の法人化を果たした、のはいいのだが、そのおかげで「有限責任中間法人」というケッタイな名称(どうでもいいが、この名前を考えた人は、まったくネーミングのセンスがないと思う)が付いてしまった。ともかく、全国の考古学者の結集体である。単なる学問的な討論にとどまらず、遺跡保護など、考古学の社会的役割を考えることを重視している。私も、今年度は有限責任中間法人日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会全国委員(改めていう。長い名前だ!)を仰せつかっている。ただ、あんまり熱心な委員ではなく、他の方々には申し訳なく思っている。委員会への出席率もまったく良くないのだが、今回はウチの研究室でやるのだから、休むわけにはいかない。
 午後1時、パラパラと集まってきた委員の先生方に、まず花園大学歴史博物館を見学していただく。小さな小さな博物館だが、これでもかなり苦労して運営しているところを見ていただく。午後2時からは委員会。ケンケンガクガクの討議が7時まで続く(休憩1回のみ)。くたびれた〜。ともかく、他の委員の皆さんの遺跡保存に賭ける情熱は凄いな。
 しかし、現実はむつかしい。誰にでもできる遺跡保存のマニュアル、なんてものはどこにもないのである。現実と理想の狭間で、ひとつでも多くの遺跡の保存をどうやったら実現できるか、わが学界は今後も試行錯誤を続けなくてはならないのだろう。
---------------------------------------------
 3日間、ウチの奥さんが鎌倉旅行に出かけている。しかし、のびのびと羽根をのばすというわけにはいかない。2匹のペキニーズの散歩と御飯の世話が待っている。いつもならこんな会合の後の呑み会に必ず付き合うのだが、今回はパス。犬君たちを優先である。
 夜遅く、ロックバンドをやっている甥(妹の息子)とその友達が来る。パソコンで写真の編集をやってあげる。結構時間がかかり、これもヘトヘト。


2005.04.10

枚方寺内町の新知識に驚嘆する、の巻

 4月9日
 1617会の例会「枚方寺内町の空間構造」に出席する。1617会とは妙な名前の研究会だが、千六百十七年の研究をする会、ではない。「いちろく・いちなな・かい」と読み、16世紀およびそれ以前、17世紀およびそれ以降(つまり、中世・近世の全部)の「都市的な場」を研究する会である。誰のネーミングか知らないが、まったく人を喰った名称である。しかし、会自体はマジメそのもの。近畿のあちこちの中世都市をとりあげ、午前中には見学会、午後にはシンポジウムという豪勢さ。私も、この会でずいぶんと勉強させてもらった。
 と、いうことで、今回は大阪府枚方市にでかける。まったくマヌケな話で、私は現地につくまで、近世の東海道枚方宿をとりあげるのだとばかり思っていた。行ってみるとまったく違い、16世紀の枚方の真宗寺内町がテーマであった。実をいうと、枚方にこんな中世都市があることすら知らなかった。鍛代俊雄氏(國學院大學栃木短期大学)の先駆的研究などがあるというのに、まったく不勉強きわまりないことである。無知を深く恥じる。
 現地は、京阪電車枚方市駅からほど近い丘陵の頂部。古墳時代前期の万年寺山古墳の所在地としては知っていたが、そこに本願寺系の寺院都市が広がっていたのである。本願寺中興の祖・蓮如の息子である実従が入った「順興寺」を中心として、人口千人を数える都市であったという。現地の研究者に丁寧に案内をしてもらい、また、精緻な報告を聞くことができ、世界がまたひとつ広がったような気がする。シンポジウム会場も、枚方宿の鍵屋資料館の大広間という豪華さ。ありがたやありがたや。
 夜は、例によって懇親会に流れる。今日はちょっと遠慮して(?)チューハイに限定。おかげで、あんまり呑みすぎなかった(と、本人は思っている)。


2005.04.08

新入生鳥取引率、の巻

 4月7日・8日
 新入生のオリエンテーションという行事である。花園大学文学部史学科は、一泊の小旅行をやり、そこで新入生同士の懇親を深めてもらうということを恒例としている。今年は鳥取方面。新入生約130名が参加する。少し遠いので不安である。京都を出る時に雨に降られ、渋滞にひっかかるなど、あんまり幸先がよくない。
 しかし、滑り出したら後はなかなかスムースに進む。まずは鳥取県倉吉市に向かう。倉吉博物館と、倉吉の伝統的建造物群(通称「赤瓦と土蔵」)を見学。博物館では、学芸員N氏にひさしぶりにお目にかかる。考古展示室の上野遺跡出土の須恵器出雲型子持壺の大群や野口1号墳の須恵器装飾付壺(いずれも国指定重文)は懐かしい。さすがは伯耆国の中心地だけあって、興味深い遺物が並ぶ。
 夜は三朝温泉のホテルでオリエンテーション。大学とは、史学科とはどういうところか、教員紹介、新入生自己紹介などをおこなう。例年に比べると、なかなか受講態度が良い。結構結構。
 翌日は鳥取城跡に行く。桜の名所として知られており、ちょうどその満開に出会うことができた。しばし見とれる。ぽかぽか陽気だし、お花見気分の史跡見学もいいもんだ。城跡内の「仁風閣」は旧藩主池田家の別邸で、皇太子時代の大正天皇の行啓を迎えるために建てられた洋風建築。これもなかなかのみものだった。それから、駆け足で、鳥取県立博物館をひとめぐり。
 この行事のたびに、何か事故はないか、 トラブルはおこらないかと心配するが、今年はそう大過なく遂行でき、予定通りに帰洛できた。ありがたや。


2005.04.06

読売ライフ京都の取材を受ける、の巻

 4月6日
 読売ライフ京都、というのの編集部から電話がかかってきた。急遽、取材を受けることにする。友人N氏(御土居堀や幕末維新史の研究者として知られている人といえば、わかってしまうだろうな)の紹介とのこと。私が自宅前に建てた「平安京検非違使庁址」石碑の建立経過や意図について聞きたい、とのことである(石碑についてはhttp://homepage1.nifty.com/heiankyo/heian/heian04.html参照)。個人の研究者が乏しい小遣いをはたいて史跡の顕彰碑を建てる、などという酔狂なことをやったため、興味を持たれたようである。
 私は、京都の街中に生まれ、京都の史跡の存在を空気のように呼吸しながら育った。いわば、京都の史跡は私にとってこのうえない歴史の教科書だったのである。私が今、京都の歴史の研究者としてなんとか独り立ちできているのも、子供の頃からのこの経験に負うところが大きい。検非違使庁址の石碑建立は、いわば京都の史跡への私のささやかな恩返し、かな?
 もっとも、京都の史跡顕彰という点では、角田文衞先生(古代学協会理事長・古代学研究所所長)という偉大な模範がおられる。京都の街中、よく探してみると、角田先生の主唱で建てられた史跡石碑や説明板のなんと多いことか。先生にはとうていおよびもつかないが、私もチャンスがあれば、今後も京都の史跡顕彰に力をつくしていきたいと思う。


大学院生に説教する、の巻

 4月5日
 新学期、だんだん本番になってくる。
 大学院生の「単位登録指導」とやらに出席。院生に今さら単位指導を、とも思うので、現実には「説教部屋」とする。大学院生になっても学部の延長であっては困る。大学院は自分で学びとるところである。院生はどこに行っても「研究者の卵」として扱われるから、それにふさわしい覚悟を持て。自分の大学だけにとじこもらず、外の学界に出て行き、そこで切磋琢磨せよ。修士課程の間に公表した論文を持てるようにせよ。とにかく、1年365日24時間、脇目もふらず学問に邁進せよ(これはうちのM助教授が院生を脅かしたセリフ)。
 別に変わったことを言っているわけではなく、大学院生くらいになると当然のことばかり。ただ、そういう覚悟もなしにモラトリアムでなんとなく大学院に進学を希望する学生が、ちょこちょこ見られる(そういう連中はもちろん試験で落ちるが)ので、やはり最初にネジを巻いておかねばならない。
 とはいうものの、学問は楽しいものだよ。新入院生諸君、初心忘れず、楽しくかつ懸命に学んでくれたまえ。

 夕方は非常勤講師の先生方との懇談会。二次会まで行くと、やはりけっこう呑みすぎる。



2005.04.04

博物館の現状を憂う、の巻

 4月4日
 日本史研究会ほか7学会の連名で、「資料館や博物館に対する指定管理者制度の導入に関する要望書」を出す。宛先は総務大臣・文部科学大臣・全国都道府県知事・全国市町村長。特に、京都府知事に要望するべしということで、日本史研究会代表委員(高橋昌明神戸大学教授)、研究委員長(佐藤泰弘甲南大学教授)他が京都府庁を訪れ、さらには記者会見をおこなうということになった。私も、日本史研究会研究委員の末席を汚しているし、博物館界には縁が深いということで、同席することにする。
 指定管理者制度といっても、一般の人にはなかなかピンとこないかもしれない。従来は、博物館や資料館、文化会館などの「公の施設」の運営は、地方自治体が直轄でやるか、または自治体が設立した財団法人などの公共的団体しかやることができなかった。それが、会社や民間法人といった民間事業者にも管理運営を委ねることができるようになった、ということである。つまり、これからは、自治体が博物館を建てた場合、その運営団体を公募し、そこから審査によって適切な「管理者」を選ぶ、ということになる。事実、一部の博物館には、観光会社や展示会社が運営することが決まったところもある。
 どういういきさつでこんな制度ができたのかはわからない。小泉内閣の「規制緩和」、「民間に任せられるところは民間に」ということなのだろう。もちろん、これまで、悪い意味での「お役所」的運営にあぐらをかいていた施設が多いことも事実であろう。そうした現状に対しては、この制度は確かに大変動をもたらす新薬になりうる。しかし、私の見るところ、これは劇薬にすぎるように思う。実際には副作用の方が激しすぎ、病気は治ったが看者は死ぬ、ということがしばしばおこりうるのである。
 つまり、博物館とは「資料収集・調査研究」と「展示・社会教育」の2本柱で成り立っているものだ。このどちらが欠けても、それは博物館とはいえないものになってしまう。しかし、この2本のうち、展示は利益をあげる可能性があるが、研究は「持ち出し」ばかりである。要するに、研究は金にならない、のである。もし博物館の運営を営利企業にまかせてしまったならばどうなるだろうか。利益をあげる部門だけが優先されることにならないであろうか。つまり、観客動員がみこめる派手派手しい展覧会ばかりに力が注がれ、地味で学術的な展覧会は隅に追いやられ、さらには調査や研究はほとんどおこなわれない、ということになりかねないのである。それは、明らかに博物館の自殺行為であろう。
 指定管理者制度というのを考え出した人が、本当にそこまで熟慮してこの制度を導入したのか。また、この制度を適用するにあたって、副作用を避けうる措置が講じられるという保証はあるのか。その意味でも、この制度の運用は慎重な上にも慎重でなければならないと思う。
-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
午後は大学に出勤。明日の非常勤講師懇談会の準備のために、ケーキ屋さんを探しまわる羽目におちいる。


ちょっとゆっくり、の巻

 4月3日
 今日はちょっとゆっくりできる。午前中はお花見を兼ねて、わが家の2匹のペキニーズを御所に散歩に連れて行く。梅は散りかけだが、まだ少しは見ることができる。桃は盛りを少し過ぎたあたり。桜はかなり開いている。ということで、なかなか綺麗。いつもは閑散としているのだが、さすがに花を見に来た人で賑わっていた。白いペキニーズとも出会える。
 帰ってからは、古墳時代についてのK先生の近著を紐解く。遺物の観察が精緻を極めており、その分、かなり難解。ゆっくりでいいから、じっくりと読んでいく。
 晩ご飯は、珍しく自分で作る。オムライス。しかし、ひっくりかえそうとして大失敗となり、卵混ぜのチキンライスに変身。がっくり。まあ、胃袋にはいってしまえば一緒だから良いか。


2005.04.02

新年度始まる、の巻

 4月1日
 新年度がついに始まってしまった。今日は、新年度最初の教授会。新学長が赴任、あいさつがある。小柄で、温厚そうな老師(徳の高い坊さんのことをこう呼ぶそうだ)である。それから、新任の先生方のあいさつ。さらに、新年度の評議員・委員・その他もろもろの選挙。なぜか、とっても手間がかかる。
 本当は新旧教職員の歓送迎会があるのだが、今日はパス。大阪の八尾で、昨日亡くなった伯母のお通夜がある。私の父の姉で、もうあと三日で92歳になるところだった。歳に不足はないとはいうものの、やはりしんみりする。

 4月2日
 入学式である。校門は、新入生、その親御さん、クラブ勧誘の学生、アパート業者のアルバイト、等々でごったがえす。新しい教え子諸君、がんばって勉強するんだよ!
 午後は、学校の事務もろもろを片づける。それから、歴史博物館の展示の修正。博物館は、今日から春の特別展示「羽織裏の粋(おしゃれ)—山名邦和コレクション—」(2005. 4. 2〜 6.25)が開催されている。今回のコレクションの所有の先生は、私も学生時代に教えを受けた。私と一字違いなので、よく間違えられる。

 


« 2005年3月 | トップページ | 2005年5月 »