« 2005年6月 | トップページ | 2005年8月 »

2005.07.31

森浩一先生喜寿記念会、の巻

 7月30日(土)
Mori 昨晩は学生とのコンパ。飲みすぎで、二日酔い。

 さて、今宵は、森浩一先生喜寿記念祝賀会が京都タワーホテルでおこなわれる(写真:挨拶される森先生)。
 森先生については今更紹介することもあるまい。わが国を代表する考古学者であることはもちろんである。その幅広い学識と豊かな発想、軽妙な語り口で、学界のみならず広く一般の市民をも魅了し続けてこられた。私は、中学生の時に「考古学」という学問に目覚め、最初に買って読んだ考古学の本が、森先生の『カラーブックス 古墳』(保育社)であった。さらに、続けて、『古墳の発掘』(中公新書)を手に入れた。この二冊は、頭が割れるような興奮と感激をもって読むことができたし、今でも凄い名著だと信じている。森先生の御著書は、それほどの影響を子供時代の私に与えたのである。同志社大学に入学する時も、さあこれからあの名高い森先生のもとで学ぶことができるんだ、という感激と誇りで、全身が浮き立つような思いをした。懐かしい思い出である。

 それ以来、森先生の御指導を賜るようになり、30年近い年月がたった。私の研究人生の中でも最も幸せだったことのひとつは、やはり森先生との出会いであるとつくづく感じる。私にとっては、森先生が主宰される同志社大学考古学研究室の自由で闊達な雰囲気が、本当に本当に肌に合っていた。あの「場」が無かったら、おそらく現在の私も無かっただろうと、心からそう思う。
 先生は、弟子たちひとりひとりの研究テーマについて事細かな指導をされるわけではなかった。しかし、私たちは、先生の巨大な「背中」をいつも仰ぎ見て、そこから発せられるオーラを感じながら、自分なりの研究者人生を送ってきたのである。かつて私は、自分の学位論文『須恵器生産の研究』(学生社、1998年)の「あとがき」にこう書いた。「先生から受けた学恩の中で最もありがたいものは、汲めども尽きぬ旺盛な知的好奇心の泉に触れさせていただき、学問の面白さを肌身で感じさせていただくことができたことだと思う」。この感慨は、森先生の教え子であれば誰しもが共通して感じていることだと思う。

 森先生は2001年の年末に体調を崩され、それまでのような無理が効かない身体になられた。それ以来、あれだけ好きだったお酒や夜のお付き合いをキッパリと止められた(これも凄いと思う)。先生とお酒をご一緒させていただけなくなったのは寂しい気もあるが、もちろん先生の御身体のほうが大事である。今でも、日によって体調の上下があるらしいが、今日はお元気なお姿を見せていただき、安心することができた。
 今日の記念品として、『森浩一、食った記録—喜寿記念特別出版—』(編集グループ〈SURE〉、京都、2005年)が配布される。先生は21年の間、1日も欠かさずに自らの食生活の記録を採ってこられた(こう書いてしまうと簡単だが、よく考えてみると、これは戦慄すべき凄さ、としかいいようがない)。その記録を核として、「食」に関するエッセイをまとめた、いかにも森先生らしい本である。書店では販売されず、先生からの配布と、若干部数のみが出版社から直販されるだけだというから、希望者はお早めに。
 会には、全国から森先生の教え子および御友人、約120人が大集合する。久しぶりに会わせていただいた先輩方も多い。楽しく歓談、盛り上がる。

 ありがたいひとときでした。森先生、今後ともどうぞお身体をいたわって、ますます私たちをご教導くださいませ。

 

2005.07.29

「京都の都市空間と墓地」の思い出、の巻

 山中博士の「東アジア宮都研究」の7月26日条「都城の葬地」のところで、「まずは研究史から・・・、と始めてみると、あるワ、あるワ、山田博士の論文のオンパレード」と書かれているが、これはかなりの誇張ですね。私の著作目録を見てもらっても、都城の葬地というテーマがそんなにあるわけではありましぇん。ただ、その中で「京都の都市空間と墓地」(『日本史研究』409、京都、1996年)は、私にとっては「思い出」の論文であり、結構大事にしている論文であることは確かです。

 私が高校2年生の時、日本史担当の非常勤講師として若い民俗学の研究者が来られていた。私はこの先生と気があって、いろんなところにくっついて行かせてもらった。この先生が、現在、帝塚山大学の民俗学の教授になられている赤田光男先生であった。私はもちろん将来的には考古学をやりたいと思っていたんだが、この先生の影響で、民俗学も面白いな、と思えるようになった。そこで、考古学と民俗学の接点というテーマが何かないかな、と思った時に、古代・中世の墓地なんかはどうかな、と思った。

 そこで、いよいよ大学に入ってからは、「ぼくは中世墓地の研究をします」などと口走り、資料を集めていった(今でもその時の資料カードは私の手元にあって、時々は役にたっている)。大学でやっている研究会で何度か発表させてもらったり、関西民俗学研究会(当時存在した、関西各大学の民俗学研究会の連合体)のサマーセミナーで報告させてもらったりもした。しかし、中世墓の研究など、これは無謀というものであった。なにせ30年近く前の話である。そのころはまだまだ中世考古学は未発達で、土器の編年もろくろくできていなかった時代である。中世墓の発掘事例があっても、時期比定すらできないのである。そうした分野を、大学にはいったばかりのペイペイにやれるはずはなかった。そこで、私の中世墓研究はあえなく挫折したのである。

 それから数十年の歳月が流れ去った。中世墓地のことはほとんど忘れ去っていたが、それでも頭の片隅のどこかでは気にはなっていて、報告書に目を通したり、論文のコピーをファイルしたりするくらいのことはしていた。そんなことをしているうちに、ある日突然、知らないうちに自分にも古代・中世の墓の研究ができるようになっていることに気が付いた。歳月の蓄積というものはおそろしいものである。そこで、『平安京提要』に「墓地と葬送」を書き、またそれに引き続いて「平安京・京都研究集会」で報告したのが「京都の都市空間と墓地」だったのである。

 この論文、結構いろんな人が見てくださったようで、そこそこの評価もいただいたと思う。私にとっても、若き日の「夢」をかなえることができたようで、ホントに嬉しかった。この論文にとりえがあるとすると、考古学的知見をベースにしながらも、民俗学や文献史学といった他分野の知見を加え、「都市と葬地」というテーマを徹底的に追究したことであろう。墓をあつかった考古学の論文の場合だと、〝墓をまず火葬墓と土葬墓とに分類して、骨壺には瀬戸と常滑と備前と土師器があって、外部構造は配石墓と石塔墓と何々に分けることができて〟というところから始まるのが通例である。しかし、私はこうしたフツーの方法論を一切とらなかった。そうした分類は決して無意味ではなかろうが、当事者である古代・中世の京都人自身は火葬と土葬の区別にあまり重きを置いていないのであり、「都市と葬地」の関係を扱うばあいには、はっきり言うとそうした分類はどうでも良いことだと考えたのである。こうした「思い切り」は、この論文に限った場合には、確かに成功したように思う。他分野の研究者にもインパクトを与えることができたのではないだろうか。

 ウチの学生に対して、よく言うことがある。「若いうちは、ひとつのことをトコトン突き詰めて勉強することがなによりも大事だ〈私の場合には、須恵器研究がそれにあたる〉。その一方で、できるだけ関心を広く持ち、『種』をあちこちに蒔いておけ。そして、ほんの時々でいいから、水をやっておけ〈関連資料があったらちょっとメモしておくとか、論文のコピーをためておくとか〉。そんなことを十年二十年やっていれば、その時蒔いた種の中から、いつの間にか芽が出ており、知らないうちに花が咲くものがでてくる。それが、自分の研究に『幅』を持たせることになる」。こうしたことをお説教するのは、「京都の都市空間と墓地」での自分の経験があるからなのである。

2005.07.28

都城の羅城、の巻

 山中章博士の日記「東アジア宮都研究」7月25日条26日条を見る。山中博士は凄い研究会に出ておられるらしい。私が小さな京都盆地に閉じこめられて喘いでいる間に、博士はやはり全国を股にかけた研究活動を展開されていた!

 7月25日条の「羅城」の話は、都城研究者にとっては衝撃的な内容である。羅城の意味を、日本古代人は誤解していた、と書かれているからである。学際的な研究では、時々こうした「コロンブスの卵」がある。あわてて、「羅城」に関する研究を見直そうとしたが、これをまともに正面からとりあげた研究ってのはなかなか無いんですね。瀧川政次郎氏や福山敏男氏の古い研究くらいしか。それらをもういちど紐解こうとしたが、頭が混乱してなかなか理解できない。
 そこで拙い知識に頼っていうと、唐長安城では、メインストリートの朱雀大街をはさんで、万年県と長安県というふたつの特別行政区が設定されていた。しかしこのふたつの特別行政区は、長安の城壁内だけでなく、城外のかなりの部分も管轄していたんですね。日本の平安京の左京職・右京職は都の内部だけを管轄するが、長安の場合には都だけを管理する「市役所」が存在しない。また、長安の後身である明清の西安城では、城門の外にも市街地が拡大し、そこが追加の城壁で囲まれていた。こうした事実が頭をよぎり、これが山中博士のいう「羅城」の問題とかかわってくるような気もするのだが、今のところはっきりとは整理がつかない。山口大学の研究会の研究報告を早く読みたいものである。


2005.07.27

京都市環境影響評価委員、の巻

 7月27日(水)
 京都市役所の職員の方々の訪問を受ける。今年度の「京都市環境影響評価審査会」の「委員」を委嘱されることになった。実は、去る25日(月)に第1回の委員会があって、出席しなくてはならなかったのであるが、私は本務校の教授会の準備でやむなく欠席してしまった。そこで、わざわざ委嘱状を持ってきていただき、さらに昨日の委員会の報告を聞かせてもらったのである。恐縮の限りである。
 この委員会、京都市内で大規模な開発などがある時に、いわゆる環境アセスメントをおこなうというものである。委員は環境工学、昆虫生態学、動物行動学、土木工学など、さまざまな分野の先生方ということになる。その中に、やはり考古学も必要だということらしい。従来は田辺昭三先生が永らくつとめておられたのであるが、私がその後任ということになった。大任ではあるが、当面は埋蔵文化財のあるところでの大開発はないようで、あんまり私の出番は無いらしい。しかし、ゴミ問題など、重要な事項について勉強させてもらうことはできそうだ。

 

2005.07.26

火中の栗を掴み取る、の巻

 7月25日(月)
 頭が重い。胃が重い。気が重い。
 夕刻、教授会がある。例の「火中の栗」が、いよいよ本番なのである。「大学全入時代」の開幕に向けて、大学をいかに改革していくかという問題がとりあげられる。この問題にとりくむために、今年度の初めに「改革委員会」が選出され、なんと!私はその委員長にさせられてしまったのである。しかし、「改革」ということになると、必ずどこかに痛みをともない、会議は紛糾することに相場は決まっている。「火中の栗」と表現してきたゆえんである。なぜ私がこんな役割を?とも思うのであるが、もはや仕方ない。改革にとりくまない大学は衰退していくだろうし、私だって未来永劫にわたって花園大学が安泰で、きちんと給料をくれる組織であり続けてほしい。そこで、4月から何回も何回も何回も会議を重ね、改革案を検討してきた。
 しかし、無い知恵をいかに絞ったとしても、これさえやれば大学が未来永劫安泰になる、なんていう魔法のような案はでてこない。たぶんそんなものは存在しないのだと思う。もちろん、採算なんか度外視、どれだけ金をかけても良いし赤字を出しても良いというのならば話はまた別になってくるが、そういうわけにはいくまい。ベストではなく、ベターを求めねば仕方ない。それにしても、かなりの大仕事であった。今日は、その中間報告をおこない、教授会の皆さんの御意見を聞くことになったのである。

 会議の内容を書くわけにはいかないが、とにかくクタクタになってしまった。満身創痍、とでもいった気分である。しかしとにかく、わが大学を良くしていくために、もうひとふんばりしなくてはならない。ただ、今日はもう、そんなことを考える余裕もない。遅くに帰宅し、テレビをぼんやりとながめていたら、眠気が襲ってくる。ベッドに倒れ込んで、そのまま寝入る。

 

2005.07.25

大津城下町を学ぶ、 の巻

 7月24日(日)
 1617会(いちろく・いちなな・かい)の例会がある。
 今回の舞台は滋賀県の大津である。大津城とその城下町の最新の研究成果を聞くことができる、ということである。大津と京都は隣の町であるし、行く機会もしばしばあるというのに、ハッと気づくと大津のことなど何も知らなかった。恥ずかしいことである。それだけに、こういうチャンスは逃せない。それに、大津城は江戸時代初期に廃城になって完全に破壊されたから、その痕跡を探すのは、やはり地元の研究者に案内してもらわなければならない。

 10時にJR大津駅前に集合し、早速巡見にはいる。大津市歴史博物館の樋爪修さんの的確な案内がありがたい。町屋を利用した「まちづくり大津百町館」、大津祭の粋が展示されている「大津祭曳山展示館」で涼をとり、街中をさまよう。ところどころに残る大津城跡の段差に感心することしきり。京阪浜大津駅は子供のことろからよく来ていたが、実はこのあたりが幻の大津城の中心だったんだね。
 じっくりとした巡見を終わって、大津城本丸跡の一角にあるラーメン屋さん「支那そば 大津 天下ご麺」で腹ごしらえ。かなり並ばなければならなかったが、これは美味かった。また来よう。
 それから、浜大津駅近くの会場でシンポジウム。地元の研究者の報告を聞く。俄然興味を引かれたのは、中世の大津が東西ふたつの港に分かれていたらしく、それは現在の大津港とはまったく別物であったこと。これはありがたい発見だ。平安京遷都の時、桓武天皇は「天智天皇の故事〈近江大津宮への遷都〉を偲び、『古津』と呼ばれていたこの場所を再び『大津』と改め」ている。桓武天皇が改称した「大津」とは果たしてどこなのか?という問題に、解明の糸口がついたように思う。

 そのあとは例によって懇親会。大津駅前の町屋ふうの居酒屋で、いつものように騒ぐ。さらに、JR山科駅前の小さな小さな居酒屋で静かな二次会。いい1日だった。


2005.07.24

美女サロメに会いに行く、の巻

 7月23日(土)
 大阪の我孫子で開かれる「京都の大学『学び』フォーラム2005」で、高校生相手の出張講義。「源平内乱期の首都・京都」というテーマで話す。30人くらいの参加で、まずまずの入りかな? ただ、個々の大学の「相談コーナー」の入りが悪いぞ。ちょっとがっくり。
----------------------------------------------------

 ウチの奥さんと梅田で待ち合わせて、神戸へ出かける。兵庫県立美術館「芸術の館」でやっている「ギュスターヴ・モロー展—詩と幻想の画家—」がどうしても見たいのである。モローは19世紀に生きたフランスの画家。フランス象徴主義の代表者であり、神話や聖書などに主題を得た幻想的な絵画で知られている。
Salome
 かなり以前のことであるのでもう詳細は忘れてしまったが、京都で西洋絵画のかなり大きな展覧会が開かれた。それを見に行った時に、モローの「サロメ」の絵に、身体が震えるほどの衝撃を受けた。ヘロデ王の豪華な宮殿の一室。窓からさしこむ光がぼんやりと室内を照らしている。背後にひかえる王の前にスックと立つのは、きらびやかな衣装をまとった美女サロメである。足はつま先立ち。左手をのばし、右手には花を捧げる。目を閉じ、ややうつむき加減で、まるで瞑想しているよう。今から踊ろうとする一瞬の緊張感に息を呑む。私は、この、あくまでも凛としたサロメの表情に惹かれて、絵の前にしばらく立ちすくんでいたのを思い出す。今日、美術館の図書室で本を見せてもらい、この「想い出の作品」が、ロス・アンジェルスのアーマンド・ハマー美術館蔵の《ヘロデ王の前で踊るサロメ》(1876)であることがようやくわかった。ありがたや。

 とにかく、その「サロメ」に電撃をうけてから、モローという画家がずっとずっと気になり続けていいた。20年前にパリに行った時にも、モローの旧宅を改造した「ギュスターヴ・モロー美術館」が見たくて、その前まで訪ねていった。しかし、たまたまその日は休館日にあたっており、泣く泣くひきあげた思い出がある。

 今回は、そのモロー美術館のコレクションの粋が集まっているという。これは見逃せない。モローの不思議な世界に遊ぶことができる。もちろん、例の「ヘロデ王の前で踊るサロメ」はアメリカにあるので出品されていないが、その習作(デッサン)がいくつか並んでおり、昔の恋人に久しぶりに会ったような気分になることができた。とにかくありがたや。

 夕食は、美術館のレストランでフランス料理のコースを頼むことにする。というと、また山中章博士から「贅沢のしすぎだ」という叱責の声が聞こえそうになるのだが、これはウチの奥さんのたっての希望であるから仕方ない。スズキと鯛の魚料理は絶品。ただ、メインのステーキが、いささか味が薄いようでちょっとがっくり。でも、デザートは盛りだくさんで、また満足。
-----------------------------------------------------------

しかし、この美術館、著名な建築家の安藤忠雄さんの建築だというが、まるで迷路。なんとかならんのかね。美術館のホームページを見ると、「この巨大迷路のような建物」、「迷うことも不便さもまた変化していくこの美術館建築の仕掛けを見つける楽しさなのです」などと書かれているが、それも楽しければのことだろう? 少なくとも、私にはこの建築は不快な限りであった。建築家の自己満足だけを許して、使う人を疎外して良いのかね? 有名な建築家の作品を見る時、いつもそう思う。
------------------------------------------------------

あと、美術館の隣の隣にある阪神・淡路大震災祈念 人と防災未来センターを見に行く。巨大地震の凄さを改めて実感。京都をもし巨大地震が起こったら、私たちはどうなるだろう? 暗澹たる気分になる。

==============================

2005.07.22

自己の存在証明としての「著書」、の巻

 「著書」に関することで、こんな話。
(別に私がネオ・ナチだというわけではありません←念の為。)
------------------------------------------------

 ナチ・ドイツ(ドイツ第三帝国)の宣伝大臣(国民啓発宣伝大臣)であったヨーゼフ・ゲッベルスという男がいた(よくゲッペルスと書かれますが、間違いです)。博士号を持ち、ナチの中では珍しいインテリであった。総統ヒトラーと並ぶ演説の名手としても知られていた。幼い頃にわずらった病気のために片足が悪く、その劣等感コンプレックスの裏返しとして強烈な個性を持つことになった。ナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)の全国宣伝指導者(党宣伝部長)として辣腕をふるい、さらには新設された宣伝省の総指揮官として厚顔無恥な宣伝で国民を縛り上げ、ドイツを破滅の淵にまでひっぱっていった人物である。
 政治にかかわる以前の青年時代、彼の野心は文学にあった。彼は作家になりたかったのである。しかし彼の作品は世に受け入れられることはなく、彼は惨めな挫折を味わって文学をあきらめる。

 第二次世界大戦末期の1945年4月、恐ろしい勢いで第三帝国が崩壊し、明日の運命もわからなくなっていた時、なんと!ゲッベルスは自分の著書の校正をやっていた。彼の伝記作家クルト・リースは書く。

「信じがたいことだが、この狂熱的なときに、彼は著作をものしている。・・(中略)・・出版元へ論説を送ってはとりかえし、別のものを送った。・・(中略)・・何週間も彼はゲラ刷を前に考えこみ、文章を吟味した。」

「ゲッベルスが最期まで手を入れていたのでこの本は完成しなかった。この著作に対する熱中ほどゲッベルスらしいものはない。第三帝国の命があと何日かと指おり数えるところへ追いつめられたことを誰よりもよく知りながら、彼は原稿のどうでもいい箇所をいじりまわしてときを過ごしていたのである。もう一度彼は自己に証明したかったのだ——単なる政治家や宣伝家ではなく、なによりもまず作家なのだと。」(リース〈西城信訳〉『ゲッベルス—ヒトラー帝国の演出者—』東京、図書出版社、1971年〈原著1948年〉)
------------------------------------------------

 世界が崩壊するとわかったならば、私ならばいったい何をやるだろう? 酒浸りになる? わめき散らす? 女性をくどく? 気に入らない奴を殺しにいく? 天皇陵を掘りに行く? 家族(含:愛犬)と一緒に、隔絶された静かな時を過ごす?

 いや、私は、最後の最後までモノを書いていたいと思う。執筆中や印刷中の論文があるのならば、最後の最後までそれが形になるように努力を続けたいと思う。世界が崩壊するというのになんという無意味なことを、と笑うならば笑えばよい。私は、倒れ伏す直前に、もう一度、自己に証明したいと思うのである——自分はなによりもまず研究者なのだ、と。

 私の存在証明は、それしか無いのだから。
============================

2005.07.20

お見舞いと「著書」、の巻

 7月20日(水)
 山中章博士ブログ7月20日条で、耳の痛いお見舞いの言葉をいただいた。ホント、その通りですね。私ももう46歳。40歳からの6年間はアッという間だったような気がする。この分だと、まばたきを2〜3回する間に50歳の大台を迎えているかもしれない。
 40歳後半には、ぜひ何冊か本を出したいと思っている。やはりメインは平安京・中世京都の都市史の専門書である。一応の目次案はできているのだが、なかなかにまとめるところまでいかない(とにかく、それに先立つ論文の締め切りが山積みなのです・・・トホホ)。それから、天皇陵の本、これは一般書を2冊くらい。また、「知られざる京都」の案内書も1冊。これは去年までやっていた連載原稿があるので簡単なようだが、それをふくらませなくてはならないのがいささか難物である。あと、某出版社から思わぬテーマでの依頼がある。これは熟慮しなくては。
 時々考えてしまう。死ぬまでに、はたして何冊の著書を出すことができるかな、って。私のような人間にとって、本とは自分の子供のようなものである。私がこの世から消え去っても、世の中のどこかに私の著書が残っているならば、それで満足である。それは、私が生きてきたというなによりも明白な証し<あかし>なのだから。

 ウチの大学院生に説教することがある。今の君たちにとっては、ひとつの研究を論文化することで精一杯で、一冊の著書を出すなどということはほとんど考えることもできないだろう。しかし、それは決して荒唐無稽な夢物語ではない。きちんとした論文を、きちんと統一性のとれたテーマで、毎年1本書くように努力せよ。もちろん、他の仕事に追われて、書けない年もあるかもしれない。それでも、その次の年にはなんとしても書くようにせよ。そういうことを続けてさえいるならば、15年すると(つまり、今20歳代前半の大学院生が30歳代後半になる頃には)、自然と一冊の著書ができあがるはずだ。50枚×10本=500枚の堂々たる著書が。そうすると、それで博士号を取得することもできることになるし、学界でも一定の評価をもらうことができるだろう。しかし、今年は忙しくて書けなかった、次の年も事情があって書けなかった、その次の年も何かの障害が、というように年月がたってしまうと、そのうち論文執筆なんてどうでもよくなってしまうだろう。
 私が学位論文『須恵器生産の研究』(学生社、1998年)を書いた時には、とにかく忙しかった。勤務していた京都文化博物館で、特別展「京都・激動の中世」の開催を担当していた時だったからだ。昼間は展覧会の準備で頭がいっぱい。家に帰って御飯を掻き込むと、そのまま頭を切り換えて、古墳時代の須恵器の論文をまとめる。もちろん、それまで書きためてきた蓄積はあるが、それを筋の通った一書にまとめようとするのは想像を絶する力仕事だった。今思い出しても、自分でもよくやれたと思う。しかし、大事なのはやはり、何かに取り憑かれたように、一気呵成にやりとげることだと思う。そうでなくダラダラとやっていたのでは、著書をまとめるなどできるはずはない。

 私の、単行本としての最初の著書は、実は『日本の古代遺跡28 京都 II 』(共著、保育社、1992年)である。光栄なことに、共著者は山中章博士である。今をときめく山中博士にとっても、たぶんこれが最初の著書だったと記憶する。この光栄に浴したことを、私は生涯忘れません。山中先生、あの頃はお互いまだまだ若かったですね。恥ずかしながら、私は未熟なところばかりでした。でも、ホントに楽しい仕事をさせてもらいました。山中先生に感謝。そして、もちろん、こういうチャンスを与えてくださった、わが偉大なるお師匠様、森浩一先生に感謝感謝 m(_ _)m m(_ _)m。

===============================


お腹が痛い!、の巻

 7月19日(火)
 前期のゼミの最終日である。2回生、3回生、4回生、それぞれに、宿題をたっぷりと出す。

 夕方、ある偉い人に会いにいく。かなり緊張したのであるが、 じっくりと話を聞いてもらう。河岸<かし>を変えて話の続きを、ということで、小さいけれども洒落た店に連れて行ってもらう。ハモのおとしと、いろんなお魚のおつくりがおいしかった。ついつい、お酒が進む。
 ところが、贅沢をさせたもらったのが祟ったのか、料理に何か問題があったのか、それとも日頃の不摂生のツケなのか、夜中に腹痛をおこす。みぞおちのあたりが断続的にキリキリと痛んでくる。何回もトイレに行くとちょっとはおさまるのだが、また痛みだす。そのうち、冷や汗がでてくる。胃腸薬を飲むが、どこまで効くのかわからない。悶々としながら夜中を過ごす。明け方の4時頃、ようやく痛みがおさまってきたので、やっと寝ることができる。しかし、当然のことながら寝不足である。ボーッと起きだし、風呂場で汗を流す。
 これは良くない。忙しさにかまけて、ついつい健康管理がおろそかになっていることへの危険信号でもあろう。とにかく健康第一である。近く、人間ドックにでもはいってきちんと見てもらうことを決意する。

2005.07.19

中世都市研究会の準備、佳境、の巻

 7月18日(月)
 9月3・4日に開催する中世都市研究会京都大会の準備会(掲示板No.3956)を、K大学でおこなう。
 昨日の夜が遅かったもので、いつもながら朝がバタバタである。レジュメをととのえ、10時にはなんとかK大学の会議室にすべり込む。
 今日は、ひとりあたり15分見当で報告をおこない、本番に向けて煮詰めていく。皆さん、けっこう濃い内容である。みんな、がんばっているんですね。合計10本近い報告を聞くと、かなり頭が煮詰まってくる。
 本番では、私は「総括・論点提示」をやらねばならない。他の人の具体的な報告とは違うので、ちょっと毛色の変わった話を持っていった。19世紀中国都市を分析した人類学者G・W・スキナーの理論を援用して日本の都市の全体構造を考えようとしたのである。ただ、正直いってあんまりうまくいかなかった。統計が残っている明治初期は分析できるのだが、それを中世にまで敷延する方法論を見いだすことができず、想像で埋めるしかなくなったのである。皆さんからも(特に仁木宏さんからは)、厳しい批判を受ける。しかたない。敗北を認めよう。戦線再構築を試みなければならない。
 夕方五時頃まで濃い議論を続けた後、開催にむけてのさまざまな事務を詰めていく。ホント、大変なんですから。私は、会場校担当として、細々とした検討課題が山積みする。
 くたびれ果てて、外に出る。もはや真っ暗である。ビールで一応の乾杯。K大学のT先生から、次なる研究課題の提案がある。それをネタにワイワイいうのは楽しい。
 さあ、今日の「宿題」をひとつひとつ片づけていかなくてはならない。

2005.07.18

祇園祭山鉾巡行、の巻

 7月17日(日)
 二日酔いで、クラクラしながら起きる。ウチの奥さんがテレビのスイッチをいれる。もう祇園祭の山鉾巡行が始まっている。昨日の研究会で、「祇園祭宵山の日に研究会を当てるなんて、京都人が設定したとも思えない」とさんざっぱらからかわれてしまった。でも、京都人といってもいろいろなんですよ。祇園祭は京都全体の祭ではなく、あくまで下京の祭です。私は上京(含・中京区北半)の人間ですから、祇園祭にはちょっと距離があるんですよ。と言ったのだが、言い訳にしか聞こえないようだ。
 さて、今日はホントは原稿を書かねばならないのだが、どうしようかな。でも、山鉾巡行は雨に祟られることが多い。そうすると山鉾の掛物にビニールの覆いがかけられてしまい、あんまり面白くない。今日は雨の心配もなさそうだし、やっぱり出かけることにしよう。
 と、いうことで、新町御池へと出かける。日曜日にあたったということで、近年稀に見る人手を記録したらしい。広い御池通の歩道が人波で埋まっている。しかも、やはり蒸し暑い。汗が止まらない。
 山鉾の壮麗さはやっぱり感激モノである。あの巨大な山や鉾が、ギシギシときしみながら驀進していくのは何度見ても凄い。わずかに方向を変える時など、全体がグラリと揺れ、思わずハッと息を呑んでしまう。結局、巡行の後半部、最後の南観音山まで見ることになる。ウチの奥さんは「平家物語」ネタにするために、浄明山と橋弁慶山の追っかけをやる。これは、会所の近くの室町姉小路で待ちかまえていたので、じっくりと見ることができる。

 帰宅後は、まずは汗びっしょりの服を脱ぎ捨ててシャワーをあびる。それから、「月刊京都」から頼まれた原稿にとりかかる。夜までかかって、なんとか書き上げることができる。大河ドラマ「義経」も見る。

=========================================

「陵墓研究の新地平」、の巻

 7月16日(土)
 さて、いよいよ日本史研究会7月例会「陵墓研究の新地平」の本番当日である。午前中は大学にでかけ、授業1コマをこなし、それからレジュメを印刷する。昼御飯のラーメン(手軽なところを選んだので、おいしくなかった(>_<))を掻き込んで、12時には日本史研究会へ。研究委員会に出席し、それから例会に移る。

 どれだけ人が来てくれるか、いささか心配である。天皇陵というややマイナーな問題なので、誰も振り向いてくれないかもしれない。しかし、それは杞憂であった。少しづつ集まってくれて、やがては機関紙会館の会議室が満杯(70人定員)になる。読売テレビも写しに来ていたし、各新聞社の記者さんたちの姿も見える。良かった良かった。
 
 報告は3本。外池昇さん(田園調布学園大学短期大学部助教授)の「近代における陵墓政策の展開と矛盾」、今尾文昭さん(奈良県立橿原考古学研究所)の「考古学から見た律令期陵墓の実像」、そして私の「平安時代陵墓研究の展望」である。司会は高木博志さん(京都大学人文科学研究所助教授)が担当される。外池さんの情熱、今尾さんの精緻な論証、いずれも感銘を受ける。
 私の報告は、平安時代の天皇陵の歩みをたどり、山丘型→陵寺→堂塔式へと移るということを述べる。その過程の中で、寺院または御堂における故天皇の霊魂祭祀が肥大化し、遺骨や遺体はほんのお添え物にしかすぎなくなっていく、と主張する。そして、陵墓に遺体が入っていなくてはならないという観念は、古代・中世にあってはむしろ例外的となっていった。逆に、そうした観念が表面に出てくるのは、江戸時代中・後期の「原理主義的」な国学の隆盛にともなうものであったと考える。我ながらまだまだ荒削りな論であり、いささかわかりにくいことは承知しているが、墓(陵も含む)と遺体を不可分のものと考える議論に問題を投げかけたつもりである。
 嬉しかったのは、お忙しい中をわざわざ時間を割いて、山中章博士が参加してくださったこと。例によっての大きな荷物をガラガラと引っ張ってこられた。ありがたやありがたや。(今、山中博士のブログを見ると、博士は今日、さっそくに桓武天皇陵説がある地点の踏査をされてきたということだ。恐るべし恐るべし)。

 やはり、研究会の後のお酒はおいしい。しかし、隣の席で学生がコンパをやっており、それがまったく他をかえりみない大音声で騒いでいる。うるさい!とも言えず、いささかゲンナリする。それでも、じっくり議論をしながら呑めた。ありがたやありがたや。
 その後、ちょっと飲み足りないので、やっぱり山中博士と別の店に行ってしまった。例によって杯を重ねると、やっぱり呑みすぎる。でも、これもありがたやありがたや。


2005.07.16

坂本龍馬を眺める、の巻

 7月15日(金)
 それにしても、暑い。この暑さはどういうことだ。夏は暑いのはあたりまえだというと確かにそうなのであるが、今日は異常だと思う。頭がクラクラしてくる。いったいこれは、京都だけの局地的現象なのだろうか、それとも日本全国がこうなのだろうか? 他の地域はもう少し過ごしやすいという噂も聞くが、私にはよくわからない。

 さて、明日はいよいよ日本史研究会7月例会「陵墓研究の新地平」である。レジュメを作らなければ、ということで朝からとりかかる。でも、例によって遅々として進まない。はてさて、明日が思いやられるぞ。
 しかたないので(何がしかたないのかわからないが・・)、外に出かける。京都国立博物館の特別展覧会「龍馬の翔けた時代」が明日から始まるので、今日は特別内覧会がある。ふだんは私なんぞはお招きいただけないのであるが、今回は展示担当者が友人の宮川禎一氏(同博物館主任研究官)だったので招待状を頂戴することができた。ありがたいことである。この宮川氏、朝鮮陶質土器や須恵器を研究テーマとするれっきとした考古学者なのであるが、一方で坂本龍馬や幕末にめっぽう詳しい。と、いうよりも、『龍馬を読む愉しさ—再発見の手紙が語ること 』(臨川書店)という著書まであるくらいだから、その方面でも一流の専門家である。氏は、昨年に私の担当でおこなった花園大学歴史博物館の特別展「洛中大火夢物語—風雲の幕末京都—」もちゃんと見に来ていただけた。
 受付には、学芸課のM課長やO研究官がおられる。ちゃんとご挨拶する。近くにいるのに、こんな時でないとなかなかお目にかかれない。しかし、外に出ていると暑さでまいりそうになる。
 「坂本龍馬」はやはり人気のあるテーマと見えて、会場は満杯である。人波を避けて、少し遅れながら見て回る。龍馬の書状が一挙に公開されているのが目玉である。ただ、私としては、幕末の京都を語る絵画史料などが興味深かった。尊王の志士として知られる武市瑞山が、一方ではすばらしい絵画を残した芸術家だったなんて、ぜんぜん知らなかった。ペリー提督の肖像画がたくさん並んでいる。実物を見て描いたものと、そうではないまったくの空想図との違いがよくわかって面白い。
 宮川さん、ありがとうございました。展覧会の成功をお祈り申し上げます。

 なお、京都国立博物館の新館では、「歴代遊行の軌跡」という企画展をやっている。時宗(ときむね、ではありません。じしゅう、です)の歴代の上人(これを遊行上人と呼ぶ)の歩みを、東山の長楽寺の所蔵史料によって紹介する試みである。長楽寺は、時宗の本山である七条道場金光寺を明治時代に合併したため、そうした史料の宝庫となった。一遍上人が開いた時宗は面白い宗派である。じっくりと見ていくと、思いかけない発見もあるだろう。それに、一階の彫刻コーナーではこれにあわせて、長楽寺所蔵の歴代遊行上人の肖像彫刻の中から2体を特別展示している。これがめっぽう素晴らしい。室町時代の彫刻であるが、等身大で、「生きているようだ」というのはこのことである。写実的で、なおかつ深みがあって、中世の肖像彫刻の白眉であることはまちがいないだろう。

 博物館の外に出ると、ますます暑い。これは早く帰って仕事をするべきだ。途中、四条通を通って、祇園祭の山鉾を眺めながら過ぎる。明後日の17日は山鉾巡行だ。しかし、私はとうてい見物にいく時間がない。トホホホ・・・

2005.07.14

いよいよ明後日=「陵墓研究の新地平」、の巻

7月14日(木)
いよいよ明後日の土曜日には、日本史研究会7月例会「陵墓研究の新地平」である。
ご興味をお持ちの方はぜひご来場くださいませ。
それにしても、準備がまだ出来ていないよ〜っ!
---------------------------------------------------------
【日本史研究会 七月例会「陵墓研究の新地平」】
日本史研究会と京都民科歴史部会が共同編集した『「陵墓」からみた日本史』(青木書店、1995年)の出版から十年が経った。その間、宮内庁所蔵資料(文献史料・出土遺物)の部分的公開の実現とも相まって、文献史学・考古学両分野からの陵墓研究は格段の進捗を遂げることになった。そのような新しい研究動向を踏まえつつ、陵墓研究の現状を整理し、そこに内在する問題点を明らかにしたいと考える。

【日 時】7月16日(土)午後1時〜5時
【場 所】機関紙会館5階会議室
   (京都市上京区新町通り丸太町上ル春帯町)
(地下鉄丸太町駅下車2番出口より西へ徒歩5分、市バス府庁前下車すぐ)
【報告者】
外池 昇氏(田園調布学園大学短期大学部)
    「近代における陵墓政策の展開と矛盾」
今尾文昭氏(奈良県立橿原考古学研究所)
    「考古学から見た律令期陵墓の実像」
山田邦和氏(花園大学文学部)
    「平安時代陵墓研究の展望」
討論 (司会)高木博志氏(京都大学人文科学研究所)

  入場無料 一般来聴歓迎
お問い合せは、日本史研究会 075(256)9211

==================================


そんな〜!、の巻

 7月13日(水)
 11日(月)も13日(水)も、夜の会議がある。会議ってのは、どうしてこうくたびれるのだろう。

 別の疲労困憊の原因がある。先日、夏の展覧会の図録本(本年2月26日条参照)の原稿をやっと書き上げた。これも、私がずるずると遅れさせていたものである。11日(月)には、図面を仕上げて、ウチの奥さんに持っていってもらった。肩の荷をおろして安心していると、怖ろしい電話がかかってきた。図面が足りない、という。そんなハズはない、というので、あわてて編集担当のHさんに変わってもらう。私は、平安京の条坊復元図を1枚作ったらそれでお役御免だと思っていた。Hさんは、そうではない、という。図録に載せる地図のうちの10数枚(つまり、ほとんど)を、私が引き受けているというのである。そんなバカな〜!
 こんなことになった原因はよくわからない。私がよく聞かずに安請け合いしたのか、Hさんの説明不足または誤解だったのか。おそらくそのどちらもあるのだろう。ひとつだけ明らかなのは、相互の意思疎通がどこか欠けていたという点である。しかし、事ここにいたったのでは、押し問答や水掛け論、責任のなすり合いをしていても益はない。とにかく印刷の期限は刻々と迫っているのであり、ちょっとでも前へ進まなければ、本がでないことになってしまう。え〜い、やむをえない。作ることにしよう。
 と、いうことで、膨大な地図ととりくむハメにおちいる。平安京にかかわるところは過去に作った原図があるから、それを加工していく。問題は清水寺とか鞍馬寺の詳細図である。大学で大縮尺の地図をコピーし、それを元に作成することにする。こんな時に限って、コンピューターがヘンネシをおこし(これは京ことばかな? 「スネる」ということです)、なかなかいうことを聞いてくれない。なだめすかしながら、作業を進める。
 結局、2日間はこれにかかりっきりになった。12日の深夜は、疲労困憊でベッドに倒れ伏したら、そのまま起きあがれなくなった。13日の早朝に起き出して、なんとか形をととのえ、CD-ROMにデータを焼き、ウチの奥さんに配送を託す。後はHさんにまかせることにしよう。
 仕事を引き受ける時には、充分内容を確認しなければならない、という教訓の日でした。

2005.07.13

吉備考古学の旅、の巻(その2)

 7月10日(日)
 研究室旅行2日目。朝は徒歩で、倉敷「美観地区」へと向かう。以前、ここの川の鯉にエサをやろうとして身体を傾けたら、胸ポケットから携帯電話が滑り落ち、あえなく水没した。恥ずかしながら観光客たちの目の前で川に入り、電話を拾い上げる羽目になった。でも、データは消失。あんなに情けない思いもめったにない。
 それはさておき、今回の目的はもちろん倉敷考古館である。これも、吉備の考古学の一級資料が詰まっているという点では結構な見ものとなる。受付を覗くと、日曜だというのに館長の間壁忠彦先生がおられた。早速にご挨拶する。間壁葭子先生は北海道に出張中だとか。抜き刷りをお渡しする。忠彦先生に、学生の挨拶を受けてくださるようにお願いしたら、「じゃあ少し話をしましょう」ということで、倉敷の近代の歴史、どうしてこの考古館ができあがったかについて、特別の「講義」をしてくださった。ありがたやありがたや。感謝感謝m(_ _)mである。
 考古館を出て、美観地区をぶらつく。街並み保存の点でも観光の点でも、模範的なできばえである。京都でも木屋町通とか三条通とか、こんなふうにできないものであろうか?
 次は、楯築遺跡へと向かう。いわずと知れた弥生の巨大王墓である。今は公園に整備されていて、気持ちよく登れる。墳丘の上からは、倉敷の平野が一望できる。ここにあった神社の御神体として祀られ続けてきた「弧帯石」(重要文化財)は、厳重な収蔵庫(というか、正確には新しい祠)に納められ、脇のガラス窓を通して見ることができる。とはいうものの、中は暗いのであまり良く見えない。学生がガラス窓に貼り付いているのを見ると、まるでノゾキをしているヤバイ兄ちゃんのようである。学生諸君には、「この遺跡を『古墳』と呼んでよいかどうか?」という宿題を出す。
 それから、岡山市内にでかけて、岡山県立博物館へ。博物館から橋をわたったところの大衆食堂で昼食。お爺ちゃんとお婆ちゃんでやっている店で、えらく安い。その代わり、料理がでてくるまでにとんでもなく時間がかかった。博物館では、鯉喰神社弥生墳丘墓で採集された弧帯石を始めて見る。楯築に続く「王墓」だという。感心感心。水ノ子岩遺跡で引き上げられた備前焼の大群、日本刀の製作工程復元など、興味深い資料をじっくりと見る。
 さらに、吉備最古の前方後円墳だとされる浦間茶臼山古墳、吉備で3位の巨大前方後円墳である両宮山古墳に立ち寄る。雨が降り出したので足元は悪いが、なんとか目的を果たすことができる。両古墳は、私も始めて訪れるものだったのでありがたい。浦間茶臼山では、きちっとした段築をほどこした「バチ形前方部」を持つ最初期前方後円墳の姿に、古墳時代初期における吉備と大和のつながりを見る。
 無事、事故もなく、予定通りの時間に京都に帰ることができました。よかったよかった。

2005.07.11

吉備考古学の旅、の巻(その1)

 7月9日(土)
 研究室旅行である。一泊二日の短時間だが、今年は岡山に行くことにする。朝8時に京都駅八条口に集合し、貸し切りバスに乗る。昨年までは「3回生は必ず参加すること」という原則を立てていたが、そうすると色々と支障がでてきたので、今回は自由参加とする。ホントは全員が参加して欲しいんだがな・・・ 研究室旅行すら参加せずに、どうやって学んでいくつもりなのだろう・・・ ただ、そのおかげで参加者はちょうどいい規模におちついた。
 しかし、天気は悪い。学生の中に雨男もしくは雨女がいるのかもしれない。見つけ出して龍神の生贄に捧げてやろうかしら。

kibi バスに揺られて、まずは吉備考古館(写真)へと行く。ここは、学生諸君にぜひ見せておきたかった。1942年(!)に開館したもので、その当時の建物のままである。失礼ながらはっきり言わせてもらうと、建物は老朽化が著しい。というよりも、いつ建物が崩壊しても不思議ではない。天井が剥がれて雨漏りがしているくらいで、展示ケースの中にまで雨が入り込んでいる。ラベルが朽ちかけているものが多いのも気になる。大勢で入ると、もしかすると床が抜けるのではないか。
 しかし! ここに展示されている資料はモノ凄い。昭和の始め、吉備考古学の黎明期に地元の研究者であった時実黙水氏等によって集められた珠玉の資料がうなっている。ほとんど学界で使われていない重要資料も含まれている。岡山県瀬戸内市(旧・邑久町、牛窓町)邑久窯址群の遺物など、須恵器をやっているものにとっては垂涎の的といわねばならない。大きな鴟尾の破片が山のように積まれているのなど、ほとんど絶句モノの風景というべきであろう。
 この考古館、このまま朽ち果てさせるのはいかにも惜しい。しかし、中身の資料だけをコンテナに詰めこんで○○文化財センターに運んだらそれで良い、というものではない。吉備考古館は、もはや建物自身が吉備の考古学史の生き証人であり、わが国の黎明期の博物館の姿を今に伝える重要な遺構であると思う。なんとか、建物を補修してそれ自身を文化財とし、掃除と遺物整理はキチッとしてこの姿を後世に伝える方法はないものだろうか。
 学生諸君には、映像やパネルばかりで無内容な最近のチャラチャラ博物館ではなく、先人が苦闘しながコツコツと創り上げてきた吉備考古館のようなところを見て、今のうちにきちっと記憶に留めておいてほしいと思う。

 それから、作山古墳→備中国分寺→こうもり塚古墳→県立吉備路郷土館→備中国分尼寺跡→造山古墳→吉備津神社というお定まりのコースをたどる。雨は降ったり止んだり。とにかく蒸し暑いのに閉口する。汗だくである。それでも、やっぱり造山・作山両古墳は巨大だね。大きすぎて古墳という感じがしないのが難点だが。造山の後円部頂上に中世城郭の土塁が巡っているなんて、始めて気が付いた(これまで何を見てきたんだ?)。吉備津神社では、みんなで学業成就を祈願する。
 今日のお宿は倉敷の駅前のビジネス・ホテル。夜は近くの居酒屋。みんな、まるで餓鬼のように食べ物を飲み込んでいく。と、突然、店内に異臭が漂う。お客が咳き込み、涙ぐみ始める。私たちの部屋は隔離されていたから無事だったが、原因不明で怖い。まさか毒ガス攻撃ではないだろうが、君子危うきに近寄らず、三十六計逃げるにしかずである。さっさと切り上げて逃亡する。私は院生と2次会の焼鳥屋に行く。学部生はどうやら、誘い合ってボーリングとビリヤードに行ったらしい。元気だな・・・

2005.07.09

保元の乱と友禅染、の巻

 7月8日(金)
 午前、朝日カルチャーセンターに出講。今回と次回は大河ドラマ関連ネタで、平安時代末期の内乱を扱うことにする。今日は保元の乱がテーマ。先日の講演でも保元の乱をやったが、その時に「愚管抄」と古態本の「保元物語」とを対象させて読むと、かなりいろいろなことがわかってきた。乱の開戦の状況も、従来言われていたような単純なものではなく、当事者それぞれの「思い」がかなり違っていたことに気づく。

 それから、京都文化博物館の特別展「京の優雅〜小袖と屏風〜」を見に行く。友禅染の老舗である「千總」のコレクションが一堂に集められている。絢爛豪華にして繊細なデザインの洪水である。細かいところはわからないが、やはりその凄さに圧倒される。
============================


報告書、やっと仕上がる、の巻

 7月7日(木)続き
 『幾地地蔵山遺跡現状調査報告書』の印刷がやっとあがってきた。24ページ+図版10ページのささやかな本である。発行所は野田川町教育委員会と花園大学考古学研究室の連名にし、そのかわり「花園大学考古学研究報告第14輯」と銘打たせてもらった。ウチの研究室の大学院生の鎌田久美子さんががんばってくれたので、私と彼女の「共著」ということになる。私はともかく、彼女にとっては最初の実績である。研究室の学生諸君にもこうやって序々に経験を積んでもらわなくてはならない。あと、発送の仕事が待っている。
==============================


美味なるハモ鍋、の巻

 7月7日(木)
 ある人に、「最近、山中章氏との交換日記のようになってきましたね」と言われてしまった。ナハハハ。でも、せっかく交換日記をするならば、相手は見目麗しき異性であってほしいな。
 その山中博士のブログの7月7日条に、私がまた超高給レストランで豪勇しているようなことが書いてある。博士から電話がかかってきた時に食事+お酒の最中だったのは事実だが、残念ながら高級レストランではなかった。

 その時、K大学のT先生、KJ大学のNO先生、OS大学のNI先生と一緒に、友人のKさんのお宅におじゃましていた。KさんはB出版社の社長で、私たちの研究グループの本を出してくれることになり、その打ち合わせである。本来ならば会社で話をするところなのだが、どうせその後は呑みに行くに決まっている。じゃあ、河岸を変えるのもめんどくさいからウチにお出いでよ、ご馳走するから、というKさんのお誘いにちゃっかりと乗ってしまった。このKさん、仕事も凄いが、料理の腕もすばらしいことはお墨付きである。彼女の手料理がいただけるというおいしい話ならば、断る理由は何もない。ウチの奥さんも一緒に来る。彼女はこの会社でアルバイトをしているので、社長の命令一下、料理の手伝いとなったのである。
 しかし、まずは仕事のお話を片づけないと意味がない。本の内容をじっくりと詰める。あまり売れない純粋の学術書なので、なんだか申し訳ないような気になる。いくつかあった懸案事項もなんとかクリアーし、ありがたいことにゴー・サインがでる。やれやれ、一安心である。
 これで心おきなく飲める、ということになり、さっそくKさんの手料理にかかる。みんな、うまいうまいの連発である。メイン料理はハモの落としと、ハモ鍋。これは絶品であった。何の変哲もないはずのメニューが、この人の手にかかるとなぜこんなにおいしくなるのだろう? ウチの奥さま、ぜひその秘密を探り出して、わが家で実践してくださいね。
 結局、杯を重ねに重ね、Kさんの家を辞したのは夜の11時近かった。Kさん、ごちそうさまでした。ホントに、感謝m(_ _)mm(_ _)m。

2005.07.07

やっと一本書ける、の巻

 7月6日(水)
 先日来、うんうんとうなっていた原稿が、やっと仕上がる。雄山閣出版から出ている雑誌『季刊考古学』が「平安考古学を考える」という特集をやるということで、その中の「平安京」という原稿を頼まれた。短いものなのであるが、これがなかなか書けない。あんまりわかりきったことばかり並べて、気の抜けたような「概説」になるのもイヤだし、かといって新規の知見があるわけではないし、というので、1行書いては休み、また1行書いては他のことをやってしまっていた。
 うなっているうちに、なんとか書きたいことが固まってきた。ここ数日でやっと仕事が進む。まずは思っていることを無茶苦茶に打ち込んでいく。このままでは見るのもイヤな出来映えであるが、それをじっくり修正していく。こういうところ、やっぱりパソコンは便利だ。
 今回のメインは、「第1次平安京」論。京都女子大学の瀧浪貞子教授が唱えられたもので、造営当初の平安京は土御門大路までしか無かったが、それが9世紀後半に2町分北へと拡張し、現在の一条大路までになった、という有名な説である。これは学界に結構な波紋を呼び起こしたが、一方で考古学・文献史学の両面から激烈な反論をも巻き起こした。ただ、最近ではあまりあつかわれなくなったので、改めて私見を述べることにする。うまくいったかどうかはわからないけれども・・・・
--------------------------------------------------------
 夕方は大学の授業と会議。へとへとに疲れる。帰宅したが、何もやる気にならない。う〜ん、次の仕事があるのにな・・・・

2005.07.06

弥生都市論、の巻

 7月4日(月)
 大学で、会議。火中の栗がどんどん弾けて収拾がつかない。

 夜は日本史研究会古代史部会の7月部会。「弥生都市はあったか?」をテーマとする。報告者は京都市埋蔵文化財研究所の山本雅和氏、それから、コメンテイターとして同志社大学歴史資料館の若林邦彦氏をお願いする。司会は私が担当する。
 日本史研究会は従来、文献史学を主体とする学会だった。それが、ようやくというか、やっとというか、序々に考古学も重視しなくちゃならない、ということで、古代史部会の研究委員が増員され、それに私が就くことになった。かなりハードなのだが、日本史研究会に考古学を定着させるためにはこれくらいはやらなくちゃ。そして、その第1弾として企画したのが今回の部会である。
 会場はちょっと欲張って、機関紙会館5階の大会議室をとった。でも、これで数名しか集まらなかったら寂しいな、と思っていたら、三々五々人が集まる。ウチの研究室の学生諸君も何人か顔を出してくれる。結局、部会としては望外の人数になった。良かった〜。
 報告も議論も、かなり中身が濃い。山本氏が「弥生都市」論の研究史を丁寧にまとめてくれる。私も断片的には論文を読んでいるが、これほど体系的に考えてきたわけではないので、なんだかとっても得をした気分になる。若林氏からは、従来の「環濠集落」に対するイメージを転覆させられるような発言があり、かなりの衝撃を受ける。「都市」という言葉の魔力に引きずられ、でてきた遺構の解釈が知らず知らずのうちにねじ曲げられていたこともあるというのは、考古学にたずさわる者のひとりとして自戒せねばならないだろう。会場からの議論も活発で、もっともっと時間が欲しいくらいである。
 夜九時までじっくりと学び、それからいつものように懇親会である。研究委員長のS氏、古代史部会のリーダーであるY氏らとともに、さんざっぱら騒ぐ。いい夜だった。

2005.07.04

佛大の授業、おしまい、の巻

 7月3日(日)
 佛教大学通信教育部の授業の最終日。前2日は平安京の話で使ってしまったから、院政期から始める。駆け足で、やっと戦国期までたどりつき、「洛中洛外図屏風に見る京都」でおしまい。豊臣期の話はできなかった。無念。
 それにしても、私の授業はついつい総花的・通史的・概論的になってしまう。大学の先生方の中には、「○○学概論」などという授業の中で、自分のホントの専門分野だけを延々と繰り広げる人もいるらしい。果たしてこれはどちらがいいのかな? 私も、「今年の『京都学』は遷都以前だけを一年間ずっとやる。来年は平安京。再来年は院政期から鎌倉期。その次は室町・戦国期・・・」というふうに分割した方が良いのだろうか、と思う時はある。しかし、それだと「概論」にならないような気がする。とにかく、大学の授業というのはなかなか難しいものである。

 雨なので、ウチの奥さんが迎えにきてくれる。昼食をどこでとろうか、と迷っているうちに、急にラーメンが食べたくなり、ちょっと遠いが一乗寺の「高安」へ行く。人気店ではあるけれども10人くらいしか入れない小さな店で、だいぶ並ばなければならない。少し甘く仕立てた豚骨スープが名物である。麺は私好みの固目の細麺。ただ、唐揚げを頼んだのがいささか余計だった。巨大な唐揚げが三つも付いてきて、けっきょく食べきれずに持ち帰ることにする。晩御飯はこれを使った唐揚げ定食、という仕儀と相成る。

===================================

「爆走!ムーンエンジェル—北へ」、の巻

 7月2日(続き)
 ヤフーオークションで注文していた「爆走!ムーンエンジェル—北へ」(ポニーキャニオン製作、山口和彦監督、高田純脚本・原案、1996)のビデオが届く。工藤静香さんが単独主演した唯一の映画である。静香さんが主人公の女トラッカーを演じており、北海道の原野を大型トラックを駆って驀進する。(ポスターはこちら)。(なお、静香さん主演映画には「未来の想い出 Last Christmas」〈森田芳光監督、1992〉もあるが、こちらは清水美砂さんとの共同主演である)。
 映画としては、はっきり言ってB級作品である。よほどの工藤静香ファンでないと、途中で見るのをあきらめてしまうだろう。特に脚本のハチャメチャぶりは見事なくらいで、話がズルズルと横滑りして収拾がつかなくなっていき、最後には腰砕け的に破綻してしまう(http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD28142/index.html)。静香さんはここでも確かにステキだが、売り物であるはずのツッパリ・シーンがいかにも不自然である。むしろ、可愛らしい笑顔のシーンの方に惹かれるものがある。
 そんな映画、作る奴も作る奴だが買う奴も買う奴だ、というのはまさに正論であるが、このあたりがファンとしてのつらいところである。しかし、取り柄はないわけではなく、北海道の大地を大型トラックが爆走する映像はやはり爽快。それから、静香さん自身が歌う主題歌「ルナ—月の女神」(アルバムは「doing」〈1996〉に所収)がきわめてノリが良く、ゴキゲンな出来となっている。まあ、遠からず市場やレンタルビデオ屋さんからも消えるだろうから、ファン用のコレクター・アイテムだということかな。

 そういえば、かなり以前になるが、トラック野郎の真似事(?)をやったことがある。山口大学考古学研究室に貸し出していた京都府平尾城山古墳の遺物を引き取るのに、2トンの小型トラック(普通免許で動かせる)で出向いたのである。深夜に大阪南港に行き、そこからフェリーで門司へ行く。本職のトラック運転手さんたちに混じっての一夜はなかなかに面白かった。フェリーには、一般乗客用の客室以外に、地下(?)にトラッカー専用の客室があるなんてこと、始めて知った。門司からは高速道路で山口へ驀進。なんか、ホントのトラック野郎になったような錯覚におちいって、ついついスピードを出しそうになり、安全運転安全運転とつぶやきながら速度を落とす。いい経験だった。


2005.07.03

OMMの古本祭、の巻

 7月2日(土)
 う〜ん、なかなか原稿がかけないよ〜(いつもこんなことばかり言っているな・・・)。ひとつの締め切りが次にずれこみ、次の締め切りがまたずれ込む。どんどんどんどん締め切りが重なっていき、締め切りの団子というか、密集型締め切り群というか、とにかくそういう怖ろしいものに姿を変えている。こんな時に限って、しばらく忘れていた出版社から電話があるから困ったものだ。

 と、いう最中であるのにもかかわらず、ウチの奥さんがどうしても大阪の古本祭に行きたいと言い出す。もちろん原稿は気になるのであるけれども、こればっかりは仕方ない(編集者の皆様ごめんなさい)。とにかく朝早く起きて、できるだけ早く帰るという条件でお供をすることにする。
 会場は、京阪電車天満橋駅の上の大阪マーチャンダイズマートビル(OMM)である。例年のことであるが、このOMMの古本祭はなかなか品揃えが良く、掘り出し物に出会える確率が高い。じっくりと見ていく。見出すと、あれも欲しいこれも欲しいになってしまって、結局はけっこうな買い物になる。遠藤元男『ヴィジュアル史料・日本職人史』全4巻(雄山閣)、『文字と古代日本』既刊分(吉川弘文館)等々をゲット。後者は、私も第5巻の執筆メンバーであるにもかかわらず、どういうわけか今まで買ってなかった。
 歩き回ってくたびれた。昼食は恒例で、OMMビル地階のレストランでのステーキ・ランチ。180gのサーロイン・ステーキで、なかなかに美味い。ただ、こういうとまた贅沢三昧だと誤解されるかもしれないので言っておくと、値段は実は999円+税のお買い得価格である。もちろん輸入肉だろうが、これは安い! 結局、帰途にも寄って持ち帰り弁当にしてもらう。晩ご飯も同じメニューと相成る。
 家に帰って本棚を見てみると、今日買った本の中にすでに持っていたものがあった。いかに、本を買ったまま読んでいないかという証拠だな。トホホホ・・・

2005.07.01

第3回久留倍遺跡シンポジウム、宣伝の巻

山中章博士のブログで見つけました。
第3回久留倍遺跡シンポジウムがあるそうです

山中博士の日記ブログ
しかし、明日か・・・・ 

---------以下、引用----------------
久留倍遺跡と朝明郡
日時  2005年7月2日(土) 13:00~17:30
会場  四日市市総合会館(市庁舎西隣) 8階大ホール(視聴覚室)
次第  13:00~13:15    開会挨拶
    13:15~14:30    岸 宏子先生(作家)「壬申の乱と伊勢・伊賀」
    14:30~14:45    休憩
    14:45〜16:00    武田佐知子先生(大阪外国語大学教授)「聖武天皇の行幸と天皇の衣服」
    16:00~17:15    直木孝次郎先生(大阪市立大学名誉教授)「壬申の乱と伊勢神宮」
    17:15~17:30    山中 章(三重大学教授)「久留倍遺跡のこれから」
主催  久留倍遺跡を考える会 三重大学考古学研究室(久留倍遺跡シンポジウム実行委員会・人文学部伊勢湾文化資料研究センター) 
後援  四日市市教育委員会 後援・助成  岡田文化財団 協賛  大矢知手延素麺組合


« 2005年6月 | トップページ | 2005年8月 »