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2005.08.22

人間ドック、の巻

 8月22日(月)
 私はもともと健康に自信がない。不摂生な生活といえばたしかにその通りであるし、もっと気を付けたら良いのはわかっている。しかし、つい・・・というのが現実である。職場での年一回の健康診断も、なんやかやに紛れてサボることが多くなる。
 これではいけない、というので、やっと人間ドックを受診する決意をした。一大決心をして、クリニックに電話をかけた。すると・・・
 「あの〜、人間ドックをお願いしたいのですが」
 「はい、ありがとうございます」
 「今週の○曜日でお願いします」
 「ええと、すみません、その日は予約で一杯ですね」
 「では来週の○曜日では」
 「その日も一杯なんです」
 「じゃあ、いつなら空いているんですか」
 「ちょっとお待ちください・・・ 一番早いので、一ヶ月後ですね」
 「(絶句・・・)」。
人間ドックというものが、こんなに人気があるとは知らなかった。やっと取った予約も、こちらが風邪引きで延期をし、やっと今日にこぎつけたのである。
 行ったクリニックは、西大路御池にある人間ドックや検診の専門機関。一歩足を踏み入れて、すごく綺麗なのが気に入った。ホテルみたいだね、とウチの奥さんとささやきあう。ここでお着替えを、と言われて最初に通された部屋に仰天。そのものズバリ、ホテルのツイン・ルームであった。待合室も心地よいし、各診療室もステキである。看護師さんや検査技師さんも、愛想のいい美人で占められている(おそらく、そうした人ばかり採用しているのだろう)。なるほど、最近の病院は、こんな風にしてお客を集めるんだね。検査では、もちろん人間ドックなんだから、CTとかMRIとか、ふだんはお目にかかれない機械を使ってもらう。終わった後には洒落たレストランでのランチまで付いて、いたれりつくせりであった。
 ただ、その分、やっぱり高くついた。そうそうしばしば通うわけにはいかない値段である。職場と私学共催から補助はでるが、それでもウチの家計にはいささか厳しい。でも仕方ないな。やっぱり健康第一だから。後は、検査結果が悪くないのを祈るばかりである。

 今日から、犬がもう一匹増える。母親と妹が旅行に行くので、3日間だけ預かることになった。さあ、マックとクイールと仲良くしてくれるかな?

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角田文子夫人の葬儀、の巻

 8月21日(日)つづき
 今日は町内の地蔵盆。ウチの奥さんは奮闘。私はちょっとだけお手伝い。

 夕刻、京都駅の南側の公益社南ブライトホールに、お通夜に出かける。古代学協会理事長・古代学研究所所長兼教授角田文衞先生の奥様、角田文子(通称有智子)夫人が8月19日にお亡くなりになったのである。享年87歳だった。昨日、古代学協会にたまたま顔を出して、そのことを告げられた。仰天した。

 奥様は、いつお目にかかっても、竹を割ったような感を受けるチャキチャキとした女性だった。ご出身は知らないが、おそらくは東京なのだろう。はっきりとした関東弁で、とにかく話し始めると止まらない、といった明るい方だった。それが、いつも物静かで穏やかな角田先生と、なんともいえない微笑ましい好対照の雰囲気を作っていた。夫である角田先生のことを、いつも「ウチの先生はね・・・」と言っておられたのも面白かった。
 そんな元気な奥様だったから、病魔に見舞われるとは思ってもいなかった。しかし、それがしばらく前から患われてしまい、お目にかかることもできなくなった。ぜひまたお元気な姿を、と願っていたが、ついにそれも叶わなくなってしまった。永年の伴侶を亡くされた角田先生も、さぞお寂しいことだと思う。とにかく、今は奥様のご冥福をお祈りするばかりである。

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フェスト『ヒトラー 最期の12日間』を読む、の巻

 8月21日(日)
 昨日、映画館で例の映画の原作、ヨアヒム・フェスト『ヒトラー 最期の12日間』(鈴木直訳、東京、岩波書店、2005年)を手に入れた。早速に紐解く。話題のベストセラーである。帯には、「ヒトラーをはじめてここまで人間的に描いた衝撃の歴史ドキュメンタリー」という華麗な宣伝文句が踊っている。この「人間的に」という部分が、今回の映画のミソにもなっている。つまり、ヒルシュピーゲル監督の映画「ヒトラー 最期の12日間」は、ヒトラーを悪魔ではなく、ひとりの人間として描いた。そしてそれが、「悪魔を人間的に描く必要があるのか」、「いや、それでこそ歴史の真実に迫れるのだ」という大論争をまきおきこしている、というのである。

0019340 これほどの論争になるからには、原作もまったく新事実に溢れた凄いものなんだろう、と予想してフェストの本を読んだ。しかし、結果は期待はずれだった。確かに、よくまとめられた書物だ。文体は明晰だし、前後の関係も明確だ。今まで知られなかった新事実がないわけではない。しかし、それにもかかわらず、私はこの本を高く評価することができない。
 なぜならば、ヒトラーの最後については、戦争終結直後の1946年に書かれた、ヒュー・トレヴァ=ローパーの『ヒトラー最期の日』(日本語版は橋本福夫訳、東京、筑摩書房、1975年)という空前の名著が既に存在している。このテーマをあつかう限りは、トレヴァ=ローパーの書物とどう違い、それをどう乗り越えるか、というところが大きな課題として突きつけられているのである

 おそらく、トレヴァ=ローパーを乗り越えるためには、次のふたつの観点が不可欠であろう。ひとつは、エリヒ・ケムカ『ヒットラーを焼いたのは俺だ』〈日本語版は長岡修一訳、東京、同光社磯部書房、1953年〉や今回のトラウドゥル・ユンゲの回想録のような、事件の「当事者」の証言。もうひとつは、エイダ・ペトロヴァ、ピーター・ワトソン『ヒトラー最期の日—50年目の新事実—』〈日本語版は藤井留美訳、東京、原書房、1996年〉のようなロシア側の新史料の発掘である。

 そうした観点からフェストの新著を見てみよう。これは、戦後60年の「衝撃」の成果であるはずにもかかわらず、戦後の翌年に書かれたトレヴァ=ローパーの研究を凌駕する点があまりにも少ないといわねばならない。そもそも、フェストの最大の問題提起だと持ち上げられている「ヒトラーを人間的に描く」という点も、すでにトレヴァ=ローパーの書物の中で充分に語られているのである。それは、村瀬興雄が夙に「(トレヴァ=ローパーの書物からは)ヒトラー自身も、敗北が重なって絶望的な状況になる前までは、明るく親しみやすい人物であって、人の批判を受け入れていた指導者であり、みなに親しまれ愛されていたこと、などを知ることができよう」と解説している通りなのである。その他にも、フェストがトレヴァ=ローパーの書物から「影響」を受けているところを指摘するのは容易である。
 つまり、どうひいき目に見ても、今回のフェストの本は「衝撃の歴史ドキュメンタリー」として鉦と太鼓で宣伝されるだけの内容には欠けていると言わざるを得ない。天下の岩波書店ともあろうものが、筑摩の『ヒトラー最期の日』が絶版になっているのをこれ幸いとして、品性に欠けた宣伝に打って出たとは思いたくないのだが・・・・

 もちろん、昨日述べた通り、映画は傑作。いささかもその価値は衰えるものではない。念のため。


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