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2005.08.31

『京都歴史地図集』をつくる、の巻

 8月30日(火)
 いよいよ、中世都市研究会京都大会が迫ってきた。これからは細々とした準備だ。

 今日は、花園大学考古学研究室に実行委員の皆さんに集まってもらう。ちょうど、資料集の印刷もあがってきた。これは、A4版で85頁のきちんとした本になった。編集・印刷担当の野口実先生、お疲れ様でした。
 それから、実行委員会ワーキング・グループで作っていた「京都歴史地図集」の仕上げにかかる。さまざまな時代の京都の復元図・歴史地図をまとめてみた。A3で12頁分の地図が揃ったが、これがなかなかおもしろい。高橋康夫先生の最新の研究成果による中世京都復元図なども含まれている。私も、いままで作ってきたいくつかの復元図を提供した。カラー・プリンターで印刷しているから、なかなかカラフルで綺麗である。みんなで一生懸命、ページを揃え、ホッチキスでとめていく。
 この「京都歴史地図集」、まずまずのステキな仕上がりになったので、お金をとって売ったらどうかという案もあったが、実はまだそこまでの完成度ではない。商品にするのは将来の目標として、とりあえず今回のものはいわば試作版である。どうするかというと、今回の「中世都市研究会京都大会」の参加者へのお土産にしてもらうのである。逆にいうと、大会に参加していただいた方だけが手にすることができる特典ということになる。我ながら、とても親切な研究集会である(自画自賛)。
 さあ、明日もまた研究集会の準備だ。うまくいきますように・・・・


2005.08.30

平城京下三橋遺跡に感嘆する、の巻

 8月29日(月)
 前から気になっていながら、ついつい行きそびれていたところがある。奈良・大和郡山の「下三橋遺跡」(または「仮称・平城京左京十条」)である。「東アジア宮都研究」の山中博士の雄叫びを聞いて、やはり現場を見なければ話にならないということを痛感した。担当の佐藤亜聖さん(元興寺文化財研究所)に電話し、午後からおじゃましたい、とお願いする。
 近鉄大和郡山に着いたのは昼頃。駅近くのショッピングセンターの中のうどん屋に入るが、ぜんぜんおいしくない。ガックリ。そこから、タクシーを拾って現場に向かう。このあたりだ、というので降ろしてもらうが、どこか全然わからない。後で判明したのは、その周囲全部が発掘対象地だということだ。ものすごく広大な土地である。佐藤さんに聞くと、西日本最大のショッピングセンターが計画されているそうだ。
 佐藤さんと、山川均さん(大和郡山市教育委員会)が出迎えてくださる。現説を数日後にひかえてお忙しいのに、申し訳ない。丁寧に案内してもらう。感謝m(_ _)m感謝。

 発掘の成果は、まさに驚嘆すべきものである。平城京の南辺の「羅城」、さらに南側の「南辺条坊」が綺麗に検出されている。ふだん、平安京の攪乱のひどい現場ばかり見ていると、こうしたスッキリした遺跡が羨ましくなる。
 遺跡の評価については、きちんとした成果報告を待って議論をしなければならないし、「東アジア宮都研究」でも熱っぽい論争がくりひろげられているから、深く立ち入るべきではなかろう。ただ、一筋縄でいかない奇妙な遺跡だということは確かである。この遺跡の評価については、大きく分けて
 (1)当初設計の平城京は十条または十二条まである巨大なものであった。それがある段階で九条までに縮小した(「大平城京」説とでも言うべきか?)。
 (2)平城京の南辺には、条坊を備えた「特別区画」が設置されていた。
というふたつの解釈がある。山中博士は(1)を考えられているが、反論も多そうだ。私はどっちつかずではあるが、なんとなく(2)の方が面白いな、と感じている。

 一般論としていうと、「京内に条坊がある」のは当然である。しかし、その逆の「条坊があるから京内だ」というのは、必ずしも真ではないと考えている。つまり、京周辺には「特別区画」が設置されることがあり、そこには条坊が敷設されていてもおかしくない。たとえば、長岡京でも、山中博士が最近注目されている「北辺」がある。成立時期は遅れるが、平安京でも「四円寺」「白河」「法金剛院」「法住寺殿」などは、条坊に準じた都市計画を持つ京周辺の「特別区画」だといえるであろう。
 私は、平城京の右京の北側に飛び出している「北辺」、あれは京内ではなく「京外条坊」として評価するべきだと考える。あるいは、「外京」すら、「巨大な京外条坊」であって、京そのものではないということになる可能性もあると思う。もしこの考えが許されるならば、平城京の平面形は現行の復元図のようなデコボコした奇妙なものにならず、スキッとした長方形の綺麗なものになりうるのである(こんなことを言ったら平城京研究者からは総スカンを食いそうに思うが・・・)。

 ただ、今回の下三橋遺跡を、このような「京外条坊」と考えるか、それとも「大平城京」と考えるかは、まだまだ議論が必要である。特に、今回の条坊は、奈良時代の初期に作られて間もなく埋められたらしい。「京外条坊」説にとってはこれは決定的に不利な事実である。ただ、「大平城京」説についてもいささかためらいが残る。とにかく、これからも調査は続くから、その行方をじっくりと見せてもらいたいと思っている。

 ひとつだけ確かなこと。都市遺跡を掘る場合、「ここは京の外だから掘らなくてもいい」なんてことは絶対にない、ということ。平安京の場合も、京の周縁部分には調査の手が伸びていないところがたくさんある。「遺跡の範囲は広いめに考える」、これは鉄則だと思う。

 奈良の現場を見終わり、山川均さんに車で駅まで送ってもらう。ありがたや。電車のなかでしばらくウトウト。目がさめると、伏見にさしかかっている。途中下車して、伏見の街中での発掘現場を見せてもらう。満足して、帰路につく。京阪丸太町駅で降りて、鴨川の河原で、川と空を眺めながらしばらく寝ころぶ。久しぶりにゆったりとした気分である。帰宅して、ウチの奥さんとともに外出。夕食は串カツ屋に出かける。山中博士とは何回か行ったことのある、高陽院跡の一角に立つ店であるが、ウチの奥さんとはこれが始めてである。ビールで喉をうるおし、揚げたての串カツを頬ばる。結構でございました。


2005.08.28

いじめられる可愛い妹、の巻

 8月28日(日)
 山中章博士のブログ「東アジア宮都研究」8月27日条で、平城京の「十条」について、熱っぽく語られている。いつもながらの山中節が絶好調。まさに、行く所敵を見ず、といった感である。「コメント」を見ると、さらにさらに熱き論争が繰り広げられているのもすばらしい。
 山中博士の獅子吼はとどまるところを知らない。
>>山田博士には申し訳ないが、所詮平安京は日本古代宮都の成れの果てです。
>>『延喜式』などと言う文献があるものだから
>>「考古学者」までがこれを理想のモデルとして考えすぎなのです。
>>あそこに書いてあるのは所詮ほとんど機能しなくなった、
>>建設当時の姿などよく分からなくなった時点でまとめられたものに過ぎないのです。

>>何度も申し上げているように平安京の姿を知ろうと思えば
>>長岡京の考古資料を真剣に、詳細に、分析する以外にないのです。

>>平安京は日本古代宮都の設計者達がいろいろ苦労して、工夫して、
>>なんとか日本的宮都を造ろうとしてきたことをご破算にして、
>>実にシンプルな都として造った結果に過ぎないのです。

 私は前から言っているのだが、長岡京と平安京は、桓武天皇という共通の親から生まれたキョウダイである。もちろん、長岡京の方が先に生まれているのだから、そちらが年上で、平安京が年下であるのに決まっている。たとえてみるならば、長岡京を兄貴とすると、平安京は妹だということになるだろうか(なぜ長岡京が男性で平安京が女性かということについては問うべからず。私はなんとなくそんな気がしている。できれば、松本零士さんが描くような綺麗な女性がいいな・・・)。と、いうことは、長岡京の権化である山中博士にとっても、平安京はいわば歳の離れた可愛い妹であるということになる。しかし、博士はどういうわけか、平安京を厳しく突き放そうとする。いや、博士の真の気持ちは違うかもしれない。妹が可愛いければ可愛いほど、彼女の将来のことを思って、千尋の谷に突き落とすような試練を与えているのではなかろうか? そうだとすると、なんと深い愛であることか! そういう気持ちで眺めると、分厚い眼鏡の奥に隠された博士の鋭い眼差しの隅に、涙の粒がキラリと光っているような気がするではないか!(それとも、あれは単なる目薬だろうか?)

 しかし、長岡京は日本古代宮都の歴史に革命をおこすべく奮闘してきたのだが、不幸なことながら夢半ばにして戦場に倒れた。ヘタなテレビドラマ風にいうと、次のようになるだろうか。
 兄「(病床から)妹よ。親父・桓武の理想を実現すべく闘ってきたが、俺はもう永くない。後はお前に頼む」
 妹「(兄の手を握りしめて)お兄ちゃん、逝かないで! 残されたあたしはどうなるの!」
 兄「いや、お前はもう大人だ。俺がいなくても立派にやっていける。俺が『路線』はひいておいたから、迷うことはないはずだ。今まで辛くあたってきて済まなかったな。お前も、桓武の娘であり、俺の妹であるという誇りを忘れないようにな。妹よ、愛しているよ・・・・(ガクリ)」
 妹「お兄ちゃん! お兄ちゃん!(泣)」
 (涙をふるって、兄の理想を継ぐべく、健気に立ち上がる妹。その凛々しくも美しい表情のクローズ・アップに重ねて、エンディング・テーマ流れる。〉

 私は、長岡京こそは、確かに日本古代都城の中で画期的な都であったということに対して異論は持っていない。長岡京には新しい時代の開幕を告げるさまざまな要素が登場しているということは、山中博士が強調される通りなのである。しかし、長岡京の素晴らしさは、別に、平安京をいじめなくても充分に認められると思うのだが・・・・ 山中先生、いかがでしょうね。こんなに「兄」のことを慕っているのですから、もうちょっと「妹」に優しくしてやってくれませんか?

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白峰神宮に詣る、の巻

 8月27日(土)
 また身体の調子が良くない。グスン(>_<)グスン
 先日、日本史研究会の例会でやった「平安時代の天皇陵」を原稿化しようとしているのだが、なかなか進まない。とりあえず、崇徳天皇陵を書いているのであるが、これが一進一退である。こういう時は、本人様にお願いするしかない。というので、白峰神宮にお詣りをする。いうまでもないと思うが、同神宮は崇徳天皇と淳仁天皇を祭神とする神社である。これで大丈夫。原稿がスラスラと進むはずだ(進まなければ、今度は祇園の崇徳天皇廟に詣でなければなるまい。それでも書けなければ、崇徳天皇の怨霊の祟りだということにして誤魔化そう)。

 気分転換に(気分転換ばっかりだな・・・)、京都駅前のプラッツ近鉄に出かける。「近鉄京都古書大即売会」がお目当て。しかし、この近鉄百貨店、営業不振で間もなく閉店し、建物はヨドバシカメラに身売りするという。時代の流れとはいえ、この百貨店にずっと親しんできた身としては悲しいことである。この「古書大即売会」も風前の灯かな? 規模は小さいが、むしろそれだからこそゆっくりと本を見ることができる。ブラウンフェルス『西洋の都市—その歴史と類型—』(1986)、藤本利治『同業者町』(1963)の2冊をゲットする。後者は地理学の業績で、私たちにはあんまり目にとまらなかった本のように思う。しかし、中身は京都の近世都市史に益するところが多そうだ。やっぱり、古本屋さんをブラブラするというのはいいね。

 それから、例によって同じ建物の旭屋書店と新星堂をさまよう。輸入盤が全品1割引というセールをやっている。エミー・ヴェルヘイという、失礼ながら名前を聞いたことのない女流ヴァイオリニストの「モーツァルト ヴァイオリン協奏曲全集」(エドゥアルド・マルトゥレット指揮コンセルトヘボウ室内管弦楽団)の2枚組が980円のさらに1割引という格安で出ているのが目に止まる。値段を見て、思わず買ってしまう。それから、サー・アンドリュー・デイヴィス指揮BBC交響楽団の「ヴォーン=ウィリアムス 交響曲全集」、これも6枚組が2280円で、さらに1割引という「持ってけドロボー!」値段である。
 家に帰って、このモーツァルトを聴いてみる。値段が値段だけにあんまり期待しなかったのだが、これが嬉しい的はずれ。さわやかな演奏で、大変良い。ヴェルヘイという人、私が無知だっただけで、オランダでは結構有名な音楽家らしい。メジャーなレコード会社には見向きもされないけれども、大変な実力派なんだと思う。こんな値段で良いのだろうか、と、なんだか悪いことをしたような気にすらなる。とにかく、いい買い物をした。

 今日の御飯。昼は四条烏丸のCOCON烏丸(漢字で「古今烏丸」と書くなんてこと、始めて知った)の地下の和風創作ダイニングナチュラルキッチン麹で豚の角煮丼。夜はプラッツ近鉄の廣川で鰻丼。後者は嵐山に本店のある店で、ここの鰻は軟らかくて絶品である。(いずれも、ウチの奥さんのお供)。

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2005.08.25

「城郭と寺社」展を見る、の巻

 8月24日(水)
 体調は直ったが、怠け癖は直らない。いざパソコンに向かって原稿を書こうとするが、ぜんぜん進まない。

 いっそ気分転換だ、と自転車に乗って外出する。お腹が空いた、と思ったら、またまた足は自然に新進亭に向かってしまった。満腹になって帰ろうかと思ったが、ふっと気が付いて、京都市歴史資料館に立ち寄る。「城郭と寺社」展をやっていたはずだ。6月3日からだから、もっともっと早く来るべきだったのだが、どういうわけかサボっていた。資料館の皆さん、すみません<(_ _)>。行ってみると、8月28日(日)つまり今週いっぱいまでだという。滑り込みセーフ、というところである。

 なんの予備知識も持たずに展示室に入って、仰天した。展示品はすべて、江戸幕府大工頭であった中井家の所蔵史料である。その中から、主として京都の城郭と寺社についてのものだけを抜き出しているのだから、これは私にとって必見の展覧会だった。こんなのを危うく見逃すところだったのだから、私ははっきり言ってバカである。
 さすがは中井家資料、どれもこれもすばらしい図面ばかりである。特に質が高いのは二条城の絵図である。これだけ分析しても何本も論文が書けるだろう。その他も見ものばかり。私の研究テーマのひとつである天皇陵関係では、「皇室の菩提寺」である泉涌寺や、室町時代の皇妃などの陵墓が集まる般舟院(今出川千本)の絵図がありがたい。「豊臣時代大坂城指図」が出展されていたのにも目を剥いた。豊臣期大坂城(現在の大坂城は徳川期のもので、豊臣期とは全然形が違う)復元の基本史料としてチョー有名なものである。もちろんモノは知っていたが、実物にお目にかかるのは初めてだ。

 それから、腰を抜かしたのは、「伏見古御城絵図」が飾られていたこと。中井家所蔵史料に伏見城とその城下町の絵図が含まれているのはもちろん知っていたし、以前の論文ではこれにも触れたところであった。しかし、中井家の所蔵史料はいくつものところに分割保管されているから、この「伏見古御城絵図」の実物がどこにあるか、私は知らなかった。というよりも、私はてっきり東京にあるものだと信じきっていたのであり、それでついつい実物を見に行くのを怠っていたのである。なんのことはない、京都市歴史資料館への寄託品の中に含まれていたとは! こんなことならばもっと早く調査に来るべきだった! 私のオマヌケさ加減は、我ながらまったく呆れるばかりである。
 ともあれ、意外なところで待ち人に会えたような気分で、じっくりと眺める。どうも、前の論文で書いたことを訂正せねばならないようだ。やはり実物を見なくちゃダメだね。しかし、ガラスケース越しで、私の視力では細部が見えない。これは改めて見に来させてもらわなくちゃならない。
 資料館のKさんが通りかかられた。私を見つけていただく。続いてUさん。こうなれば、というので2階の研究室に行き、Iさんにもご挨拶。いずれまたの機会の調査を頼んでおく。

2005.08.22

人間ドック、の巻

 8月22日(月)
 私はもともと健康に自信がない。不摂生な生活といえばたしかにその通りであるし、もっと気を付けたら良いのはわかっている。しかし、つい・・・というのが現実である。職場での年一回の健康診断も、なんやかやに紛れてサボることが多くなる。
 これではいけない、というので、やっと人間ドックを受診する決意をした。一大決心をして、クリニックに電話をかけた。すると・・・
 「あの〜、人間ドックをお願いしたいのですが」
 「はい、ありがとうございます」
 「今週の○曜日でお願いします」
 「ええと、すみません、その日は予約で一杯ですね」
 「では来週の○曜日では」
 「その日も一杯なんです」
 「じゃあ、いつなら空いているんですか」
 「ちょっとお待ちください・・・ 一番早いので、一ヶ月後ですね」
 「(絶句・・・)」。
人間ドックというものが、こんなに人気があるとは知らなかった。やっと取った予約も、こちらが風邪引きで延期をし、やっと今日にこぎつけたのである。
 行ったクリニックは、西大路御池にある人間ドックや検診の専門機関。一歩足を踏み入れて、すごく綺麗なのが気に入った。ホテルみたいだね、とウチの奥さんとささやきあう。ここでお着替えを、と言われて最初に通された部屋に仰天。そのものズバリ、ホテルのツイン・ルームであった。待合室も心地よいし、各診療室もステキである。看護師さんや検査技師さんも、愛想のいい美人で占められている(おそらく、そうした人ばかり採用しているのだろう)。なるほど、最近の病院は、こんな風にしてお客を集めるんだね。検査では、もちろん人間ドックなんだから、CTとかMRIとか、ふだんはお目にかかれない機械を使ってもらう。終わった後には洒落たレストランでのランチまで付いて、いたれりつくせりであった。
 ただ、その分、やっぱり高くついた。そうそうしばしば通うわけにはいかない値段である。職場と私学共催から補助はでるが、それでもウチの家計にはいささか厳しい。でも仕方ないな。やっぱり健康第一だから。後は、検査結果が悪くないのを祈るばかりである。

 今日から、犬がもう一匹増える。母親と妹が旅行に行くので、3日間だけ預かることになった。さあ、マックとクイールと仲良くしてくれるかな?

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角田文子夫人の葬儀、の巻

 8月21日(日)つづき
 今日は町内の地蔵盆。ウチの奥さんは奮闘。私はちょっとだけお手伝い。

 夕刻、京都駅の南側の公益社南ブライトホールに、お通夜に出かける。古代学協会理事長・古代学研究所所長兼教授角田文衞先生の奥様、角田文子(通称有智子)夫人が8月19日にお亡くなりになったのである。享年87歳だった。昨日、古代学協会にたまたま顔を出して、そのことを告げられた。仰天した。

 奥様は、いつお目にかかっても、竹を割ったような感を受けるチャキチャキとした女性だった。ご出身は知らないが、おそらくは東京なのだろう。はっきりとした関東弁で、とにかく話し始めると止まらない、といった明るい方だった。それが、いつも物静かで穏やかな角田先生と、なんともいえない微笑ましい好対照の雰囲気を作っていた。夫である角田先生のことを、いつも「ウチの先生はね・・・」と言っておられたのも面白かった。
 そんな元気な奥様だったから、病魔に見舞われるとは思ってもいなかった。しかし、それがしばらく前から患われてしまい、お目にかかることもできなくなった。ぜひまたお元気な姿を、と願っていたが、ついにそれも叶わなくなってしまった。永年の伴侶を亡くされた角田先生も、さぞお寂しいことだと思う。とにかく、今は奥様のご冥福をお祈りするばかりである。

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フェスト『ヒトラー 最期の12日間』を読む、の巻

 8月21日(日)
 昨日、映画館で例の映画の原作、ヨアヒム・フェスト『ヒトラー 最期の12日間』(鈴木直訳、東京、岩波書店、2005年)を手に入れた。早速に紐解く。話題のベストセラーである。帯には、「ヒトラーをはじめてここまで人間的に描いた衝撃の歴史ドキュメンタリー」という華麗な宣伝文句が踊っている。この「人間的に」という部分が、今回の映画のミソにもなっている。つまり、ヒルシュピーゲル監督の映画「ヒトラー 最期の12日間」は、ヒトラーを悪魔ではなく、ひとりの人間として描いた。そしてそれが、「悪魔を人間的に描く必要があるのか」、「いや、それでこそ歴史の真実に迫れるのだ」という大論争をまきおきこしている、というのである。

0019340 これほどの論争になるからには、原作もまったく新事実に溢れた凄いものなんだろう、と予想してフェストの本を読んだ。しかし、結果は期待はずれだった。確かに、よくまとめられた書物だ。文体は明晰だし、前後の関係も明確だ。今まで知られなかった新事実がないわけではない。しかし、それにもかかわらず、私はこの本を高く評価することができない。
 なぜならば、ヒトラーの最後については、戦争終結直後の1946年に書かれた、ヒュー・トレヴァ=ローパーの『ヒトラー最期の日』(日本語版は橋本福夫訳、東京、筑摩書房、1975年)という空前の名著が既に存在している。このテーマをあつかう限りは、トレヴァ=ローパーの書物とどう違い、それをどう乗り越えるか、というところが大きな課題として突きつけられているのである

 おそらく、トレヴァ=ローパーを乗り越えるためには、次のふたつの観点が不可欠であろう。ひとつは、エリヒ・ケムカ『ヒットラーを焼いたのは俺だ』〈日本語版は長岡修一訳、東京、同光社磯部書房、1953年〉や今回のトラウドゥル・ユンゲの回想録のような、事件の「当事者」の証言。もうひとつは、エイダ・ペトロヴァ、ピーター・ワトソン『ヒトラー最期の日—50年目の新事実—』〈日本語版は藤井留美訳、東京、原書房、1996年〉のようなロシア側の新史料の発掘である。

 そうした観点からフェストの新著を見てみよう。これは、戦後60年の「衝撃」の成果であるはずにもかかわらず、戦後の翌年に書かれたトレヴァ=ローパーの研究を凌駕する点があまりにも少ないといわねばならない。そもそも、フェストの最大の問題提起だと持ち上げられている「ヒトラーを人間的に描く」という点も、すでにトレヴァ=ローパーの書物の中で充分に語られているのである。それは、村瀬興雄が夙に「(トレヴァ=ローパーの書物からは)ヒトラー自身も、敗北が重なって絶望的な状況になる前までは、明るく親しみやすい人物であって、人の批判を受け入れていた指導者であり、みなに親しまれ愛されていたこと、などを知ることができよう」と解説している通りなのである。その他にも、フェストがトレヴァ=ローパーの書物から「影響」を受けているところを指摘するのは容易である。
 つまり、どうひいき目に見ても、今回のフェストの本は「衝撃の歴史ドキュメンタリー」として鉦と太鼓で宣伝されるだけの内容には欠けていると言わざるを得ない。天下の岩波書店ともあろうものが、筑摩の『ヒトラー最期の日』が絶版になっているのをこれ幸いとして、品性に欠けた宣伝に打って出たとは思いたくないのだが・・・・

 もちろん、昨日述べた通り、映画は傑作。いささかもその価値は衰えるものではない。念のため。


2005.08.20

「ヒトラー 最期の12日間」を見る、の巻

 8月20日(土)
 珍しく、映画に出かける。映画館なんか、まったく久しぶりだ。四条烏丸の「京都シネマ」に入るのも実はこれが始めてである。
TN_hitler_01 お目当ては、話題の映画「ヒトラー 最期の12日間」(ブルーノ・ガンツ主演、オリヴァー・ヒルシュピーゲル監督、2004年独)である。1945年4月、ソ連軍に完全に包囲されたベルリンで、ヒトラーが自殺する前後の日々を映像化したものである。原作は、最新の研究にもとづくヨアヒム・フェスト『ヒトラー 最期の12日間』(鈴木直訳、東京、岩波書店、2005年)と、トラウドゥル・ユンゲ『私はヒトラーの秘書だった』(高島市子・足立ラーベ加代訳、東京、草思社、2004年)である。特に今回の目玉は、後者の回想録が原作に加えられているところである。なにせ、ユンゲは総統地下壕において最後までヒトラーに近待していた、ヒトラーの個人的秘書であった。ナマの証言なんだから、これは強い。

 映画そのものは、息を呑むような圧倒的な仕上がりであった。2時間35分という長丁場であるのに、一瞬たりともスクリーンから目が離せない。音響効果も物凄い。絶え間なく轟く爆弾の響きが館内を揺るがせ、見ている我々まで戦場に投げ込まれたような錯覚に陥らせる。全体を貫いている、暗くやるせない雰囲気も何ともいえない。戦慄すべき映画、というものがどれほどあるのか知らないが、この作品はまさにそのひとつであるということは断言できる。

 何にも増して凄いのは、ヒトラーその人が乗り移ったとしか思えない、ガンツの圧倒的な名演である。同様の題材の映画としては、アレック・ギネスがヒトラーを演じた「アドルフ・ヒトラー 最後の10日間」(エンニオ・デ・コンチーニ監督、1973年英・伊)(今回の映画はどうして紛らわしい邦題を付けたんだろう?)が記憶に残っており、さすがに名優ギネス(「スター・ウォーズ」のオビ=ワン・ケノービ役でお馴染み)は素晴らしいヒトラーを演じていた。しかし、今回のガンツの演技は、言葉がドイツ語(ギネスは英語だった)であることとも相まって、おそらく映画の中のヒトラー役としては永遠に記憶されるべき出来映えを示している。

 この映画を傑作に仕上げているのは、透徹し切った、恐ろしいまでのリアリズムである。ヒトラーとその周囲の人物たちを単なる戯画化された悪役として描こうとするのではなく、できるだけ忠実にその姿を映像に再現しようとしている。そのリアリズムゆえに、ドイツ本国やイスラエルでは、ヒトラーを美化しているとか、戦争に対する反省を忘れたのかとかいう非難が沸き起こったという。確かに、この映画はナチ=ドイツの恐るべき蛮行までは描き出していない。しかし、そこまで批判するのは無いモノねだりといわざるをえない。総統地下壕の乱痴気騒ぎと、地上で繰り広げられる戦闘の惨劇との対比は充分すぎるほどに描き込まれているのであるから。

 観客の誰しもが身の毛がよだつ思いがするのは、宣伝相ゲッベルスの夫人であるマクダが、6人の愛児に一人づつ毒薬を飲ませて殺害していくシーンであろう。マクダの姿が淡々として、しかも毅然としているだけに、その恐ろしさは際だっている。

 印象的なシーン。軍需相アルベルト・シュペーアが、ひっそりと総統官邸を去っていくところ。シュペーアはヒトラーの「国土焦土命令」に秘かに反抗しており、その実行を妨げていた。それを、処刑覚悟でヒトラーに告白しに来た。実は、彼はもともとヒトラーのお気に入りの建築家であり、この総統官邸も彼が設計した作品だった。その総統官邸の前でふと立ち止まったシュペーアの目が、何も言わないままにヒトラーとの永遠の「別れ」を象徴している。

 ちょっと気になるところ。ヒトラーの永年の愛人であり、自殺前日に結婚してヒトラー夫人となるエヴァ・ブラウン(演じるのはユリアーネ・ケーラー)が魅力的すぎるところ。エヴァ(確か、当時33歳)はこんなにもしっとりと落ち着いた中年女性だったかな?と少し疑問に思ってしまう。

 ともあれ、必見の名作であった。フェストの原作を読んでから、もう一度見に来ようかしら。
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 映画を見た後は、大丸の「夏の大北海道市」で本場直行のお寿司を食べる。ちょっと贅沢。それから、京都文化博物館に行って「六条院へ出かけよう—源氏物語と京都—」展を見る。ウチの奥さんは、牛車に乗れて満足の様子。それから古代学協会に寄ると、気の重い知らせが待っていた。さらに実家に寄ってから、夕食は竹屋町烏丸のオムライス専門店ノエルでシーフード・オムライス。とにかく良く歩きました。

2005.08.19

長岡京と官衙町、の巻

 8月17日(水)つづき〜19日(金)
 17日、大学での会議が終わると、ちょっと研究室で休息をとって、それから、長岡京市埋蔵文化財センターに出かける。まだ、頭はクラクラとしている。
 10月1日・2日に開催される「京都府埋蔵文化財研究会」の打ち合わせのために、同センターのKさんと、K研究所のUさんとに会うのである。私はあいにく大学院の入試が重なってしまったので本番は失礼するのだが、KF大学のHさんから「紙上参加」を命じられた。しかも、テーマは長岡京である。ありゃりゃりゃ、これはマズイぞ。ヘタなことを言って、それが回り回って山中章博士(いうまでもなく「長岡京の鬼!」である)の耳にはいったりしたらオオゴトになってしまうではないか。誰の陰謀だ! とにかく、Kさんから長岡京右京六条一坊一一〜一四町跡(JR長岡京駅西口再開発にともなう発掘調査)の成果をじっくりと聞く。翌18日には、机の上に山中博士やら村井康彦先生やら北村優季氏ら角田文衞先生やらの著書をどっさりと積み上げ、「官衙町」「宿所町」「諸司厨町」についての勉強を泥縄式にやり直すハメにおちいった。何か新しいことを言わねば、という強迫観念に陥り、ムリヤリに平安京の「穀倉院」との比較などを試みてみるが、これはやっぱりいささか不自然である。はてさて、どうなることやら。

 19日(金)の昼ご飯は、久しぶりに麩屋町二条のラーメン屋新進亭にでかける。御主人はこの道一筋何十年の職人、といった風情。白味噌ラーメンが名物だが、私はいつも塩ラーメンを頼む。ラーメンの上にモヤシやタマネギといった野菜がてんこ盛りで、小食の人なら見ただけでお腹一杯になってしまうだろう。ここのラーメン、人によっては好き嫌いがあるらしいのだが、私は京都でも一・二を争う絶品だと思っている。まったりとしたスープをじっくりと楽しむ。

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大急ぎで、の巻

 8月15日(月)〜17日(水)
 ずいぶんと日記の間隔が空いた。なんとか大急ぎで取り戻そう。
 15日(月)も休養。ホントは人間ドックに行こうと思っていたのだが、来週に延期である。起きているような、寝ているような、妙な気分が続く。しんどい。
 16日(火)と17日(水)には、大学でびっちりと会議がある。なんでお盆にまで会議があるんだ、とブツブツ。16日のそれなんかは、朝から夕方まで、7時間ほどぶっ続けで疲労困憊である。しかし、私はまだ、頭が半分くらいしか働いていない。16日は「大文字・五山の送り火」(声を大にしていうが、断じて「大文字焼き」ではない!!)。家の近所の、堀川下長者町の交差点から「大」を拝む。ウチの犬にも拝ませる。息災でありますように。

2005.08.15

熱を出しながら中世都市研究会準備会、の巻

 8月13日(土)・14日(日)
 昨日、大阪に行っている時から、どうも身体の調子がおかしかった。帰りの電車の中でも目を開けていられない。寝たらちょっと良くなるのが普通だが、全然だめである。お腹の調子もおかしい。これはマズイな、と思ったら、案の定、夜中から熱が出始める。38度8分まで上がって、大変苦しい。何回もトイレに駆け込む。お腹に来る風邪を引いたようである。

 13日は中世都市研究会京都大会の最終準備会がある。とても起きあがれないので欠席しようかとも思ったが、会場校担当者としてはどうしても今日決めておかねばならないことがある。ただ、13時から18時までの5時間の長時間に耐える自信は無い。仁木宏さんに電話で相談し、前半は割愛させてもらい、後半部だけでかけることにする。これで少し時間ができたので、ウチの奥さんに車を運転してもらい、医者に行き、さらには大学にモノを取りに行く。家に帰って、少しばかり寝る。
 なんとか這うようにして準備会に出かける。JR長岡京駅前の新設の綺麗なビルの会議室である。嬉しいことに、遠路はるばる、武蔵大学の瀬田勝哉先生が来ていただいている。今回の中世都市研究会、瀬田先生に報告していただけるというのはなんとありがたいことであろう。
 しかし、瀬田先生の前ながら、私は頭がボーッとして、醜態このうえない。なんとか自分の割り当て分をこなすだけで精一杯である。いつもなら一番楽しみな研究会後の懇親会もパス。とにかく寝ることにする。

 翌日の14日(日)は1日寝ていた。風邪引きの時の恒例で、落語と音楽のCDを寝室に持ち込み、聞いてはウトウト、また聞いてはウトウトとする。最近、やっぱり忙しすぎた。熱を出すのも、ちょっとは休憩せよ、という信号なんだろうな。おかげで、ひさしぶりにゆっくりとした日を過ごすことができる。

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マルケヴィッチ盤をゲット、の巻

 8月12日(金)続き
 田出井山古墳を一周して、駅に戻る。そのまま真っ直ぐに帰ろうとするが、つい梅田のタワーレコード(タワーレコードの支店は京都にもあるのだが、これは小さすぎて不満足)に寄り道をしてしまう。。クラシックの輸入盤では名だたる店である。欲しかったサン=サーンス「チェロ協奏曲第1番」(グレゴール・ピアティゴルスキー〈チェロ〉、フリッツ・ライナー指揮RCAビクター交響楽団、1951年モノラル)を探すが、なかなか見つからない。ついに音を上げて、店員のお姉さんに探してもらう。スッタモンダの末、やっと発見。嬉しい。

 それから、指揮者イーゴル・マルケヴィッチがコンサート・ホール・レーベル
に録音した3枚組(メンデルスゾーン交響曲第4番「イタリア」、チャイコフスキー「序曲1812年」など)という珍品があったので、それもゲット。この指揮者(1912露〜1983仏)は、とってもとっても気になる音楽家である。ラムルー管弦楽団を振ったベルリオーズ「幻想交響曲」(1961)など、悪魔的ともいうべき異様な雰囲気が全編に横溢した恐るべき演奏だった。私は今でも「幻想」というと、真っ先にこのマルケヴィッチ盤を取り出して聞く。同じオケとのビゼー「カルメン組曲、アルルの女組曲」も記憶に留められるべき超名演。
 しかし、この指揮者、実力は折り紙付きながら、どういうわけかついに終生、超一流のオーケストラのポストには恵まれず、言い方は悪いが世界各地の中流オーケストラを振り歩いていた。厳しすぎるほど厳しい練習がオケに敬遠され、その結果として彼は1ヶ所に留まることができなかったという噂も聞く。しかし、そこで生み出される音楽の凄さは大したものだった。名声もポストも眼中になく、ただただ自己の信じる道だけをひたすらに歩み続けた、かけがえのない名匠だった。

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田出井山古墳を見る、の巻

 8月12日(金)
 日本考古学協会のS先生から電話があり、急遽、大阪府堺市田出井山<たでいやま>古墳(宮内庁治定の反正天皇百舌鳥耳原北陵)の発掘調査現場(堺市埋蔵文化財センター)に行くことになる。南海電車堺東駅で、S先生とN氏(地元の教育委員会の研究者)と落ち合う。
 もちろん、この古墳の濠から内側は宮内庁の管理下にあり、立ち入ることはできない。今回の発掘現場も、後円部側の濠のさらに外側の民有地である。以前は大きなお屋敷があったが、少し前から空地になっていたらしい。そこが新たに開発されることになったのである。
 事前の情報では「田手井山古墳の二重濠(外濠)が出た」と聞いていたのだが、行ってみて驚いた。発掘途中なので詳しく述べるわけにはいかないが、「外濠」というよりも、他の学術用語を考えた方が良いと思う。遺跡としての古墳の「範囲」をどこまでと捉えるべきか、考えさせられる調査であった。


2005.08.11

沖縄の夏、の巻

 8月8日(月)〜10日(水)
 沖縄行きである。
 花園大学文学部の八木晃介教授率いる花園大学人権教育研究センターでは、毎年夏に「現地考察」をやっている。ここ数年は沖縄行きが続いてるが、今回も対象地は沖縄になった。私も、なぜか同センターの副所長というのをつとめているので、当然のごとく参加する。

 8日、伊丹空港を飛び立つ。だいたい、飛行機は嫌いだ。あんなものが空に浮かぶことすら、私の理解を絶している。しかし、海の外に行くのにはやはり飛行機を使わねばならないから仕方ない。大阪湾の上空からは、埋め立て中の神戸空港予定地が見える。伊丹の近所になんでこんな空港が必要なのか、どうしても私の理解を絶している。

kansi 那覇空港に着くと、まずは恒例のソーキそばで昼食。店員の愛想は悪いが、味はおいしい。続いて、沖縄中部の金武町<きんちょう>に向かう。ここには米軍の基地・キャンプ・ハンセンが所在している。広大な基地である。ここではさまざまな戦闘訓練がおこなわれているそうで、これまでもさまざまな事故がおこってきた。それに加えて、最近では米軍の「都市型訓練施設」が建設されつつあり、反対運動がおきている。確かに、これはいくらなんでもムチャクチャである。建設地は集落から300mしか離れていないし、すぐそばを沖縄自動車道(高速道路)も通っている。そこで射程距離1キロ以上にもおよぶ銃を使って訓練をするというのである。これまでも流れ弾が飛んできて住民がケガするという事故がおこってきたが、こんなところに新たな訓練施設ができたら、住民はおちおち寝てもいられまい。なんでもっと山奥に造ろうという配慮がないのか、どう考えても私の理解を絶している。住民が建てた監視台のヤグラ(写真)(まるで発掘現場の写真撮影用のヤグラのようだ)に登り、すぐそばの訓練施設をながめながら、その間に通っている深い深い「断絶」に思いをめぐらす。

 本日の泊まりは沖縄中部北岸の恩納村<おんなそん>の、おそらく修学旅行生用のホテル。なんか、市営住宅のような不思議な造りである。しかし、部屋は広い。ただ、その分、クーラーがなかなか効かない。夜は外でのバーベキュー。お腹は一杯になるが、やはり暑い。汗だくになりながら肉を掻き込む。

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 9日は、北部の名護市辺野古<へのこ>に向かう。ちょっと時間があるので、ナゴパイナップルパーク園へ立ち寄る。期待していなかったが、これがなかなか面白い。しばらく遊ぶ。パイナップルワインの飲み放題とパイナップルの食べ放題があるが、そんなにたくさん胃袋には入らない。

henoko 辺野古は、宜野湾市にある普天間基地の代替地として、海上基地の建設予定地としてあげられたところである。地元で反対運動をやっておられるUさんに講演をしてもらい、それから現地にでかける。去年来た時には嵐の中だったのでそんなに感じなかったが、やはり綺麗な海である(写真)。この海を守りたい、という気持ちには共感する。しかし、現地は殺伐としている。これまで自由に入れたはずの漁港にはフェンスが新設されているし、新たに配置された警備員が不審そうにこちらを眺めている。suwarikomiその側に、反対派の「座り込み小屋」(写真)が造られている。物々しい雰囲気である。

 現地に行ってみると、やはり色々なものが見えてくる。ひとつは地元の亀裂の大きさ。地元の漁協は賛成に回っているから、反対派は舟を出すために漁港を使うことすらできない。すぐそばには、基地誘致促進派の住民の施設も造られている。人口数百人の村落でこんなことになっているのである。私たちは、つい「地元住民の方々は・・・」と言ってしまいがちになるが、その地元住民が割れているのである。「地元の意見を聞いて・・・」などという言葉を軽々しく使うことは、ここではできない。それに、建設側と反対派の抗争の中で、物理的な「力」が重要な役割を果たしているのにも、暗澹たる気持ちになる。力と力がぶつかり合い、それがやがて力の悪循環になっていくとすると、これほどヤバイことはあるまい。

 もうひとつ、辺野古の運動については深刻な問題に気づく。反対運動をしている方々の中には、とにかく辺野古の美しい海を守りたい(つまり、辺野古以外であれば基地を造っても良い)という人と、沖縄から(さらには日本から)米軍は出て行けという人が共存しているというのである。これは、一見すると同一目標のように見えるが、はっきりと言うと呉越同舟であろう。運動にとって、この差異が望ましくない結果をもたらさねば良いのであるが・・・ いささか落ちこんで、現地を離れる。

 夕食は名護近くの海岸の名護曲<なぐまがい>レストラン。私は知らなかったが、琉球海産物料理の店としては結構有名らしい。どこにでもある国道沿いの飯屋のように見えるが、中身は凄い。アヒル、イルカ、ウミヘビ、ウツボ、ヤギなどをはじめ、他では見たことのないような不思議なメニューが並ぶ。みんなが一緒なのでそんなに変わったものは頼めなかったが、沖縄の庶民料理の粋を堪能する。
 宿に帰ってからは、一室にこもって飲み会。泡盛のロックを傾けると、やっぱり飲みすぎになる。

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 10日(水)は、沖縄国際大学に行く。昨年、米軍のヘリコプターが落ちて校舎が黒焦げになり、あわや大惨事、という大事件がおきたところである。昨年は、われわれは事件の起きた直後にここを訪れた。黒焦げの校舎を米軍が占領し、緊迫感にあふれた雰囲気であったことを思い出す。今は、被害にあった校舎は撤去されてあとかたもなく、真っ黒の壁の一部がブルーシートに覆われて横たわっている。ここでは、旧知の社会学・平和学の石原昌家教授の講演を聴く。石原教授によると、この「壁」の保存をめぐって、大学内はまっぷたつに割れていたらしい。ここでも、暗い気持ちになる。

 石原教授の熱のこもった話を聞いたあと、昼食は石原先生お勧めの沖縄そば屋さん与那原屋に遠征する。沖縄そばは私の大好物であるので、とってもとってもありがたい。やはり、沖縄ではそばに限るね。
 16時20分、那覇空港発。18時10分、伊丹空港着。おくたびれでした。寝ます。

2005.08.07

神戸で福原を語る、の巻

 8月7日(日)
 神戸で、前近代日本都市論研究会がある。
 午前中は「福原京」の跡地をみんなで歩く。神戸大学附属病院前に集合したが、とにかく暑い。うだりそうである。しかし、やっぱり京都とは違うね。祇園神社の階段を登って木陰で一息つくと、海からのそよ風が心地よい。湿度も京都よりは低いように感じる。気持ちがいい。自然のそよ風のさわやかさなんて、しばらく忘れていたように思う。石段に腰掛けて、福原京の故地を眺める。
 それから、兵庫駅前に移動し、研究会をやる。ただ、ちょっと今日は集まりが少ない。主宰者の仁木宏さんも、私的な事情で見学会と懇親会をパスし、研究会にだけ駆けつけられる。今日は、OK大学の中世史のOさんと私で、福原の報告をやる。Oさんのものは福原と大輪田泊の関係を実証的に論じられ、なかなか凄い。ぜひ論文化してほしいものである。私は、秋に出す予定の「福原遷都の混迷と挫折」の要旨を展開する。

 5時に終わって、それから懇親会。私をいれて5人で、ちょっとさみしい。でも、会場はK大学のMさん行きつけの中華料理屋さん「興安亭 名菜シン〈「羊」の字を三つ組み合わせた字〉」である。以前にも連れてきてもらったことがあるが、ご主人のこだわりが見事で、次から次へとおいしいものが出てくる。エスニック風創作中華料理とでもいうべきであろうか。前菜のアワビとクラゲの和え物とか、カニと春雨の鍋なんかは絶品だったな。今日は、お酒よりもむしろ食事を堪能する。みんな、お腹が一杯になって動けなくなる。満足である。

 さて、明日から3日間は沖縄行きだ。きっと暑いだろうな。早く寝なければ。
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奈良女で条坊制を語る、の巻

 8月6日(土)
 (「奈良女」としたが、これはもちろん「ならおんな」ではない。「ならじょ」つまり奈良女子大学のことである。念のため。)

 奈良女子大学COEプログラム「古代日本形成の特質解明の研究教育拠点」が、シンポジウム「古代都市と条坊制」を開くという。リーダーの舘野和己先生(奈良女子大学教授)から報告をするように申しつかった。
報告 林部均氏 (橿原考古学研究所) 「藤原京の条坊」
   佐藤亜聖氏(元興寺文化財研究所)「平城京の条坊」
   山田邦和            「平安京の条坊」
   金子裕之氏(奈良女子大学)   「古代都市と条坊制—齊東方説と日本の古代—」
   司会:舘野和己氏(奈良女子大学)
というラインナップである。楽しい議論ができそうで、ワクワクしながら出掛ける。
 昼前に奈良女に着く。会場の扉を開くと、旧知のY・Sさんがおられ、びっくりする。4月からこのCOE研究員をつとめているという。昼食のお弁当をとりながらうちあわせ。でも、皆さんのレジュメを見せてもらってさらにびっくりびっくり。いずれも、このまま論文として公表できそうなほどにまとまっている。これは困ったぞ。私は出たとこ勝負で、準備不足は明白である。
 他の皆さんの報告は大変勉強になる。知らなかったことだらけで、自分の勉強不足を痛感する。私の報告の順番が回ってくる。仕方ないので、「私は、他の方のような実証的なお話ではなく、もうちょっとホンワカした話をさせてもらいます」と宣言し、ホントに実態の無い話をする。まず平安京の条坊制研究の現状にちょっとだけ触れ、次に「第1次平安京」論争を整理して私見を述べる。さらに、平安京の周辺に成立していった「衛星都市」(白河・六波羅・法住寺殿など)に触れながら、「都城の理念」について論を展開する。かなり挑発的に、「考古学の発掘調査では京の範囲はわからない」とまで極論を展開する。たとえば、平安京では、東京極大路の東側(つまり、京の外側)にも市街地がどんどんと延びていった。そこには、条坊に準ずる方格地割も敷設されていった。おそらく、東京極大路を境にした東西では、視覚的にはまったく都市の景観は変わらなかったであろう。しかし、「理念」の点ではあくまで東京極大路の西側までだけが平安京なのであり、その東側はあくまで「京外」であったのである。
 こうした考え方の提示は、報告者や会場の皆さんにけっこう衝撃を与えたみたいだ。良かった〜。私が出させてもらったかいがあったようだ。会場におられた奈良女の近現代史のK氏からも好意的な発言をいただけたのは嬉しかった。おかげで、その後の討論も楽しく過ごすことができた。私自身も、条坊論についてさまざまな勉強をさせてもらった。ありがたやありがたや。

 終了後は、会場を片づけて、ビールとおつまみが出て、ミニ懇親会。奈良女の院生など、若い研究者の方々ともじっくりお話しをすることができる。調子に乗ったのか、そんなに飲んだつもりはなかったのに、やっぱり飲みすぎていた。帰りは、前川佳代さんと、Y・Sさんと一緒に京都までたどりつく。

2005.08.05

ライナーと伊福部昭のCDだらけ、の巻

 8月4日(木)
 昨日で、やっと「花園大学京都学講座」が終わる。三日間で、延べ1300人という多数の方々に来ていただくことができた。ありがとうございました。

 宅急便屋さんが来て、東京のタワーレコードに注文していたCDがたくさん届く。待っていました。

749677137922 ひとつは、わが最愛の音楽家=フリッツ・ライナーの珍しいモーツァルト(写真)。イギリスのテスタメント・レーベルが復刻してくれたもので、セレナードNo.13「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、ディヴェルティメントNo.17、同No.11の3曲が収められている。前2曲は シカゴ交響楽団、最後の1曲はNBC交響楽団の演奏で、どちらも1954〜55年のモノラル録音である。
 ライナーは自分の最も愛する作曲家としてモーツァルトの名をしばしばあげていた。ただ、残念なことに残された録音は少ないので、今回のCD復刻は貴重である。いささか録音年代が古いので音質を心配したのだが、ぜんぜん気にするほどのことはなかった。明快な音である。演奏は素晴らしいの一言につきる。よくあるような変にロマンティックで粘っこいモーツァルトではなく、爽快なテンポでテキパキと進めながら、細部にわたっては魔法のような変幻自在さをみせる。まさに名人芸である。
 しかし、残された映像で見る限り、ライナーはいつも、ぶっきらぼうに、また何の変哲もないしぐさで指揮棒を振っているだけにしか見えない。しかしそこから紡ぎ出される音は空前絶後の一級品なのだからわからないものだ。この人の棒は、いったいどんな魔力を秘めていたのだろうか? とにかく、ライナーの残してくれた録音は、全人類にとっての永遠の至宝であると信じて疑わない。

 あと、7枚をまとめ買いした。タワーレコード渋谷店の10周年記念企画で、FONTECレーベルが出していた日本人作曲家名盤シリーズがまとめて復刻され、しかも特価で販売されるというのである。これはありがたいことである。このさい、日本を代表する作曲家である伊福部昭<いふくべ・あきら>のシリーズ7枚を全部そろえておくことにした。
  ----------ラインナップ-------------
◎伊福部昭作品集1『交響二題』(交響頌偈「釈迦」、SF交響ファンタジー第1番)石井眞木指揮 新交響楽団
◎伊福部昭作品集2『協奏三題』(ピアノと管弦楽のためのリトミカ・オスティナータ、ヴァイオリン協奏曲第1番、他)井上道義指揮 東京交響楽団
◎伊福部昭作品集3『ギター・リュート作品集』(古代日本旋法による踏歌、ギターのためのトッカータ、箜篌歌、バロック・リュートのためのファンタジア)西村洋(g)、ミンキン(リュート)
◎『伊福部昭管弦楽選集』(交響譚詩、シンフォニア・タプカーラ、ヴァイオリン協奏曲第2番)芥川也寸志指揮 新交響楽団、小林武史(vn) 
◎『伊福部昭作曲家の個展』(シンフォニア・タプカーラ、管弦楽のための「日本組曲」)井上道義指揮 新日本フィルハーモニー交響楽団
◎『伊福部昭 釧路湿原—交響的音画—』大友直人指揮 新星日本交響楽団 
◎『伊福部昭 交響作品集』(日本狂詩曲、土俗的三連詩画、他)山田一雄指揮 新星日本交響楽団

 と、いうと、私がとっても伊福部昭の作品に詳しそうだが、全然そんなことはない。それまで伊福部というと、東映映画「ゴジラ」シリーズの作曲家としてしか知らなかった。もちろん子供の頃、ゴジラ映画に食い入り、圧倒的な量感を持つその音楽に手に汗握ったものである。しかし、その音楽がそんな偉い人のものだとは知らなかった。それが、NAXOSレーベルが伊福部の選集(ヤブロンスキー指揮ロシア・フィル)を出してくれたおかげで、聞く気になった。そうすると、これが凄い! 特に、伊福部の代表作であり、アイヌ民族の音楽をとりいれた「シンフォニア・タプカーラ」(1954、1979改訂)は筆舌につくしがたい素晴らしさである。目から鱗というか、目から緞帳が落ちた思いであった。
 とりあえず今日は、シリーズの中にはいっているふたつの「シンフォニア・タプカーラ」だけを聞くことにする。ひとつは井上道義指揮新日本フィルのもの、もうひとつは芥川也寸志指揮新交響楽団のものである。NAXOSのヤブロンスキー盤と聞き比べである。井上盤は、思いがけずもゆっくりした弱音で始まる。次第次第に熱を帯び、ダイナミックな変幻自在さで飛び回る。芥川盤は、この指揮者の紳士的な容貌からおとなしい演奏だろうと予想したら、これがまったく違った。アマチュア・オケの新響を叱咤激励し、忘我の境地ともいえる熱狂的な演奏を繰り広げる。どちらも個性的で、興奮をかきたてられる。
 しばらく、この大作曲家の作品をひとつひとつ、じっくりと聞いていくことにしよう。楽しみである。

 ちなみに、伊福部自身は北海道釧路市の出身であるが、彼の父は鳥取の旧家の出身だそうである。鳥取県国府町には708年に没した「伊福吉部徳足比売<いふきべのとこたりひめ>」の墓があり、そこから出土した骨蔵器と墓誌は考古学界では誰しもが知る有名な遺物である。大作曲家伊福部昭の遠い祖先はこの伊福吉部徳足比売に繋がっているといわれている。思いがけないところで音楽と考古学が関連を持つものだ。
 

2005.08.03

義経の生涯を学ぶ、の巻

 8月2日(火)
 「花園大学京都学講座 源義経とその時代」の2日目、今日は、前川佳代さん(京都造形芸術大学非常勤講師)の「義経と京都—義経が最も輝いた瞬間<とき>」と新間水緒氏(花園大学文学部教授)の「鴨長明と源平争乱の時代」である。

 義経論をやっていただく前川さんは、花園大学考古学研究室の卒業生である。学部では考古学を学び、立命館大学大学院博士課程前期に進んで文献史学の中世史を、さらに奈良女子大学大学院博士課程後期に進学され、そちらでは考古学をやっておられる。とにかく、考古学と文献史学という、歴史学の車の両輪を駆使することのできる研究者である。今年からは、私が担当する京都造形芸術大学通信教育部の授業の仕事に参加していただいているから、いろいろな部分で接点が増えた。彼女は子供の頃からの「義経ファン」だったとかで、特に義経ゆかりの平泉研究ではたくさんの業績を重ねてこられた。その点では、今回の公開講座にはもっともふさわしい方だといえるだろう。

 今日は、昨日に引き続いて満員の盛況である。ありがたや。でも、昨日に懲りて、レジュメも大量に刷っておいたから、もうあわてなくて済む。私も、自分の講演は昨日で終わっているから、心安らかに拝聴することができた。前川さんの講演は、史料を丁寧にあたりながら、伝説ではない「義経の実像」をきちんきちんと描き出していく。最新の研究成果もちゃんと紹介しながらであるから、これはありがたい。ただ、最後のところで「義経の容貌」(通説では出っ歯の小男で、あまりハンサムではなかったということになっている)に触れた時には、前川さんの「想い」が出たようである。ムキになって義経醜男説に反撥される前川さんを見ると、あぁ、この人はホントに義経が好きなんだな、と微笑ましくなる。

 終了後、前川さんを食事に誘う。京都文化博物館近くのお酒の店である。談論風発、ついつい長居をしていまう。調子に乗って杯を重ねに重ねてしまい、私はまったくグデングデンである。でも、楽しいひとときであった。

 

2005.08.02

花園大学京都学講座、の巻

 8月1日(月)
 大学では、昨日からオープンキャンパスが始まっている。わが研究室は、「考古学体験」として、土器をさわらせたり、拓本を採らせたりする。特に拓本は、初心者がやっても一応の形がでる(土器の実測だとこうはいかない)ので、わりあい高校生には好評である(と、思う)。

 ただ、私は別用。今日から三日間、「花園大学京都学講座—『源義経とその時代』」のコーディネーター兼雑用係兼報告者をやるのである。
 この「京都学講座」、文学部3学科(国際禅学科、史学科、国文学科)の共同事業として、輪番制で担当する。今年は史学科担当なので、何をしようかと考えた。結局、例によっての「ウケ狙い」。大河ドラマ便乗ネタにすることにした。このあたり、我ながらいいかげんといえばいいかげんなのだが(去年も同じ魂胆で、花園大学歴史博物館特別展で幕末ネタ「洛中大火夢物語—風雲の幕末京都」をやったもんな・・・)、弱小私立大学としてはちょっとでも注目を集めるためにはしかたあるまい。それに、平安時代後期=院政期は、私としてもこの頃集中してとりくんでいるテーマであるから、別におかしいことはない。

 と、いうことで、今日はその初日。鈴木まどかさん(前田流平家詞曲伝承者)の「声で読む 平家物語の京都」<平家詞曲の実演および解説>と、私の「平清盛の夢の都−福原京」である。鈴木さんはウチの奥さんのお友達。平家琵琶というと、どうしても妖気ただよう老法師をイメージしがちであるが(失礼!)、鈴木さんは若く綺麗でステキな女性である。講演も上々。艶やかな声に魅了される。
 私は、福原についての自説を展開する。かなり通説とは違っているが、こんな見方もあっていいはずである。盛りだくさんすぎて時間がしんどかったが、まあ言いたいことは言えたかな? とにかく、従来から声を大にして言っていることは、この時期の政権における高倉上皇の再評価である。高倉院を単に清盛の傀儡として見るのではなく、清盛とともに連合政権の一角を担った重要な存在だと考えるのが私見である。とにかく、あの時代の政治体制は「院政」なのだから、高倉院なくして政権はないはずなのである。このような視点で見ることによって、「福原遷都」論も大きく評価が変わってくるはずなのである。

 びっくりしたのは、大入り満員になったこと。会場はわが大学最大のホールで、500人が入る(いや、500人しか入らない。ホントはもっと大きなホールが欲しいな・・・)。例年の「京都学講座」であれば、だいたい200人はいってくれると、ほぼ「成功」と見なされていた。200人以下なら会場がスカスカになってヤバイのだが、それ以上だとまあまあ満席に見えるからだ。それが今回に限って、次から次へとお客さんが来てくれる。レジュメが足りなくなって青くなり、あわてて学生を増し刷りに走らせる。普段は強すぎるほどの冷房も、だんだん効かなくなっていく。結局、ほとんど空席がない満杯状態になった。テーマがタイムリーだったのか、それとも講演者(私ではなく鈴木まどかさん)の魅力か? ともあれ、嬉しい悲鳴であった。

 しかし、私は忙しかった。レジュメの印刷、会場の手配、司会、マイク持ち、それに自分の講演と、いろんなものをこなした。もちろん私ひとりの功績ではなく、同僚の先生方や、ウチの学科の院生・学生諸君が走り回ってくれた。わが大学の学長も来ていただき、最初の挨拶に立ってくださった。ありがたい限りである。とにかく、花園大学は小さな大学であるが、こうやって頑張ってるんだぞというところを多くの市民の方々に見て欲しいと思う。
 でも、くたびれた〜。疲労困憊で帰宅。ビールを一気に空け、遅い食事。それから、いつものテレビドラマ「ER—緊急救命室」(NHK-BS)を見る。今日は、私がファンであるところの、看護士兼医学生アビー・ロックハート(モーラ・ティアニー)が活躍し、ちょっと嬉しい。見終わるとすぐに眠気が襲ってきて、すぐにベッドに倒れ込む。

 
 

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