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2005.09.30

中世京都と京都の原爆、の巻

9月28日(水)
 ついに、恐れていた「後期授業開始」の週となった。26日(月)は会議だらけ。27日(火)は1講時目から授業。2・3・4回生のゼミを、それぞれ軌道に載せるために奮闘。

 28日(水)は、午後から京都新聞社のホールにでかける。京都SKYセンターが主宰する講座「京都SKY大学」での講演をおこなう。題目は「中世京都の都市景観」。13時30分から15時30分の2時間なので、かなりゆったりとしゃべることができる。最後はいつもの通り、洛中洛外図屏風の画像をみながらの解説となる。
 終了後、すぐに大学にとってかえして「京都学概論」の授業。院政期京都の話をしていたはずなのであるが、どこかで第二次世界大戦時における京都のことに脱線する。こうなると止まらない。京都に空襲が無かったという俗説を論破、さらに、吉田守男氏の説にもとづき、「京都は原爆の投下目標地だった」という事実を力説する。ヒロシマ・ナガサキは実は京都の身代わりだった、という事実に思いをいたすと、思わず胸がつっかえて、教壇上で絶句してしまう。

2005.09.26

富山の結婚式、の巻

 9月25日(日)
 研究室総会の懇親会が終わった後、ただちに駅に向かう。これから富山行きである。最終の特急「サンダーバード」に乗るのだが、車内が蒸し暑く、不快きわまりない。それだけでヘロヘロ。とにかく一刻も早く電車から出たい、という気持ちになる。富山駅着は深夜0時を過ぎている。ホテルにはいり、ベッドに倒れ込む。
 久しぶりの富山は、卒業生のK君の結婚式に出席するためである。K君は花園大学の学部と大学院で考古学を専攻し、修了後は埋蔵文化財の発掘調査を業務とするK株式会社に入社、今は全国各地を飛び回りながら調査をしている。
 今、考古学の「業界」には、民間企業がどんどん参入している。これまでは埋蔵文化財の調査といえば、教育委員会か、または役所が設立した財団法人の埋蔵文化財センターの独占事業だった。民間の研究機関(私が以前勤務していた平安博物館のような)もあるのだが、それはわずかだった。それが、最近の「民間にできるものは民間で」という「規制緩和」の流れに乗り、発掘調査を業務とする会社がどんどん増えてきているのである。

 こうした現状には、従来の学界からは批判もある。営利目的の民間企業が埋蔵文化財調査に乗り出すことに疑問を呈するのである。それらは「発掘会社」などという「蔑称」で呼ばれることもあり、まだまだ学界で完全に認知されたわけではない。雨後の筍のごとく「乱立」したから、いったい全国にそうした企業がどれくらいあるのかもさだかではない。私も、少なくとも「安かろう悪かろう」という調査がはびこることになるのならば、それには警鐘を鳴らさねばなるまい。

 しかし、今、そうした「流れ」ができてしまっている現状は事実として認めなくてはなるまい。要は民間企業であっても充分な質を担保した調査がおこなえれば良いのである。そうした「質」をどう確保していくか、今後はそれが大いに問われることになるのである。

 考古学に情熱をささげ、考古学を一生の職として選びたいという若者は今もたくさんいる。しかし、今、教育委員会も埋蔵文化財センターも博物館も減員々々で、彼らの希望をかなえてやることはとうていできない。そうした中で、K君は民間企業にとびこみ、そこで自分の夢をかなえようとしているのである。これはすばらしいことであると思う。結婚式の最中には、K君が勤める会社の上司の方々にもいろいろな話を聞くことができ、私にとっても得難い勉強になった。

 K君、お幸せに。そして、がんばれ!

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研究室総会、の巻

 9月24日(土)
 朝から大学に出勤。書類の山と格闘。
 昼からはウチの考古学研究室の「総会」をおこなう。年一回の恒例行事で、在学生と卒業生の懇親のの場である。大学院のKさんはじめ、研究室の学生諸君は、立て看板をたてたり、受付を準備したり、奮闘である。ただ、日の設定が悪かったのか、ちょっと集まりがよくない。まあ、これもやむをえまい。第一線で活躍する卒業生の研究報告2本を聞いた後、特別講演の南博史さん(京都文化博物館主任学芸員)の「メソアメリカの遺跡を巡る」を聞く。学生諸君、世界にはいろんな考古学があるんだよ、というところを見てくれたかな?
 終了後は懇親会。ホントはこちらがメインかもしれない。楽しく呑む。

2005.09.24

博物館だらけ、の巻

 9月21日(水)〜23日(金)
 花園大学では「博物館実習」の一環として、博物館学外研修というのを実施している。2泊3日の旅行をして、その間、イヤというほどいろんな博物館を見せる、というのである。参加者は学生約40人。今年の行き先は岡山方面。奈義町現代美術館→津山城跡(復元備中櫓)→津山弥生の里文化財センター・沼遺跡→[宿泊・湯郷温泉]→大原美術館→倉敷考古館→夢二郷土美術館→岡山県立博物館→岡山城天守閣→後楽園→[宿泊・岡山市内]→岡山市立オリエント美術館→BIZEN中南米美術館(旧・森下美術館)→兵庫県立歴史博物館→帰洛、という順路である。ホントは津山郷土資料館・岡山県立美術館・林原美術館にも行きたかったのだが、マンの悪いことにこれが全て臨時休館である。まあ、これはしかたない。

 奈義町現代美術館は、初めていくところである。鄙には稀な、というと大変失礼な言い方になるのだが、正直言ってなかなか行きにくいところである。そこにこんな先鋭的な美術館があるのだから、大したものだ。正直、感動。売り物の「太陽」という作品は、円筒形の展示室そのものを異空間とし、そこに龍安寺の石庭を歪ませて貼り付けてある、という奇妙なものである。しばし遊ぶ。
 特に儲け物だったのは、特別展として「未来美術館へ行こう!—柴川敏之展—」が開かれていたことである。柴川敏之氏は福山市立女子短期大学の先生で、「“2000年後に発掘された現代社会”をテーマに制作活動をしている」のだそうだ。これには息を呑んだ。我々の文明が埋もれてしまい、2000年後に発掘されたという仮定のもとに、「41世紀の美術館」を作ろう、というのである。キュービーちゃん人形、ウルトラマンのおもちゃ、招き猫、携帯電話、テレビのリモコン、泰西名画、そうしたものが、錆と泥に覆われた残骸となっている。要するに、2000年前の文明に対して我々がやっていることと同じことを、2000年後の人々が我々に対してやっているのである。バルタン星人の人形など、悪魔崇拝の宗教の存在を論証するために使われるんではなかろうか? 自分自身の文明が考古学の対照になりうる、ということを突きつけられ、いささか動揺する。ともあれ、すばらしい美術館だ。
 
 津山城跡では復元されたばかりの備中櫓を堪能。津山弥生の里文化財センターは沼遺跡とセットになっており、遺物整理室を公開するなど、市民参加に努めている。湯郷で温泉につかった後、倉敷へ。倉敷考古館で館長間壁忠彦先生にご挨拶。大原美術館はあまり時間をとれなかったのが残念。夢二郷土美術館では、竹久夢二の幻想的な世界に遊ぶ。夢二の描く女性像は、巡り巡って松本零士氏の描く美しい女性(典型はもちろん、我が永遠の女性・メーテル)に連なっていると堅く信じている。岡山県立博物館は、日本刀の作り方など、工夫をこらした展示がある。岡山城天守閣で岡山市内を一望、後楽園で遊んだ後、岡山市内の丘の上のホテルに宿泊。展望バーから岡山の夜景を見ながら、しばし酒杯を傾ける。岡山市立オリエント美術館は、特別展の「ロイヤルコペンハーゲン」展で全館が埋め尽くされており、残念ながらオリエントの展示はほとんど撤収されてしまっていた。「ロイヤルコペンハーゲン」は確かに綺麗なのだが、この美術館、オリエントの展示をおろそかにしてはならないのではなかろうか?

 圧巻だったのは、備前市日生(この間までは日生町であった)のBIZEN中南米美術館である。ここは今年の前半までは森下美術館と名乗っており、メソアメリカ・アンデス両文明の美術のすばらしいコレクションがある。これも、失礼ながら「鄙には稀な」である。私は何回も足を運んでいるが、そのたびに、アメリカ古代文明の精華に心を奪われていた。それが今回、「BIZEN中南米美術館」と改称して再出発したのである。
 入り口では、溌剌とした風貌の男性がわざわざ出迎えに出てくれる。この博物館の理事長・森下矢須之氏である。ありがたい。なんでも、今年の春に理事長職を引き継がれたばかりだという。新理事長のもと、展示もまったく入れ替えられ、「新大陸からのおくりもの〜暮らしを彩る植物」展がおこなわれている。これはすばらしい展示である。明らかに、展示をやる人間が面白がっている。自分が面白くてたまらないものを、人にも面白く見てもらいたい、そんな心情がビンビン伝わってくる。そのくせ、細部までの丁寧な造りにも感心する。中南米の本場のチョコレートや竜舌蘭の蜜などの「試飲」コーナーまであって、小さいながらもいたれりつくせりである。思わず、学生諸君に向けて叫んでしまう。「もし、この展示の凄さがわからないのならば、博物館学芸員資格の取得などやめてしまえ!」。
 前にも書いたことがあるが、こうした熱気あふれる小さな博物館を見るたびに、涙が出るような感動を覚える。これまで、シラケきった学芸員しかいない博物館、なにも解っていないお役人に牛耳られているお役所主義的博物館、展示業者にいいように操られた博物館などを、イヤというほど見てきたからだ。BIZEN中南米美術館の爪のアカを煎じて、そうした退廃博物館にぶちまけてやりたい。心からそう思う。

 最終は兵庫県立歴史博物館。学芸部門のトップである、O館長補佐に久しぶりに会う。ロビーでしばし、想い出話に華を咲かせる。姫路城の雄姿をながめながら、帰洛の途につく。
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奈良女で都市論、の巻

 9月20日(火)
 奈良女子大学に出かける。
 去る8月6日に同大学のCOEプログラムのシンポジウムに呼んでいただいたことは、その日の条に書いた。同プログラムの「サロン」という、やや内輪の研究会があるそうで、そこで話をするように、同大学大学院生のM・Kさんに声をかけていたただいた。テーマは、前回の論旨をもっと深めて「平安時代後期の都市」ということでやれ、といわれる。会場にあてられた会議室に行く。院生や若手研究者だけかと思っていたが、プログラムの主宰者の舘野先生や客員教授のK先生も出席されるそうで、びっくり。
 午後1時から話を始める。平安京とその周辺の「衛星都市」を概観し、さらにその他の「中世都市」を見ながら、「条坊制」の理念がいかにそれらの都市を「呪縛」し続けていたか、それからの「脱皮」がどうおこなわれたか、というところについて私見を述べる。荒削りな試論であるのは自分でもわかっているが、こういう機会に考えをまとめさせていただくのはありがたい。調子に乗って、2時間も話してしまう。そのあと、N・Sさんの司会で、M・KさんとM・Yさんのコメントをいただく。談論風発。ついに5時を回る。実は、当初の予定は午後3時までだったというのを、後で聞いて仰天する。しかし、私は「どれだけ時間をとってもらっても結構です」といわれており、時間延長は私のせいではなかろう。それからはお茶とお菓子でまだまだ議論。ついに7時を過ぎる。そこからは、有志で奈良女子大学近くのイタリアン・レストランに座を移す。さすがに、いつものような鯨飲はひかえるが、その分、話がはずむ。
 帰りの西大寺駅では、N研究所のTさんとバッタリ。お久しぶりです。京都までの電車の中が、また新たな情報交換会と相成る。

2005.09.19

展示プロジェクトと道頓堀、の巻

 9月18日(日)
 昨日(9月17日)は、日本史研究会の委員会だった。午後3時から9時まで、実に延々6時間のロングラン会議である。民主主義というのは、とにかく時間がかかる。くたびれて解散した後は、いつもの串カツ屋さん。ささやかに、ウチの奥様の誕生日を祝う。
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 日が変わって18日。大阪歴史博物館をお借りして、国立歴史民俗博物館の展示プロジェクト「長岡京の光と陰(仮称)」の会議がある。午後の会議だと思いこんでいたので家でゆっくりしていたのだが、たまたま手帳を開くと、なんと朝の10時からである。もう会議が始まっているではないか! 最近、どんどん物忘れと勘違いが多くなっているぞ! とるものもとりあえず、あわてて飛び出す。
 先方では、定刻になっても私が現れないので、山田は痛風の発作がでて七転八倒しているのに違いない、という説に落ち着いたらしい。誰が発信元かは知らないが、まったくいいかげんな推測である。とにかく、歴史博物館に着いて、平謝り。

 この展示プロジェクト、リーダーは山中章博士である。最近、博士と私は口も聞かない犬猿の仲になった(世間の噂ではそうなっているらしい)ので、どういう表情を作るべきか、いろいろと考えていた。しかし、顔を見合わせるとすぐに大笑いしてしまい、しばらく「山中・山田大喧嘩」ネタで盛り上がることしきり。東アジア宮都研究も装いも新たに再開したし、まずはめでたい限りである。

 報告として、地理学の河角龍典さん(立命館大学)の、コンピューターを駆使した都城の地形復元研究を聞く。いつもながらの魔法のような手腕に感嘆。地理学から都城研究にとりくむ若手俊英研究者が登場してきたのは、本当に頼もしい限りである。この手法を展示にどう活かすか、議論を重ねる。

 終了後は、道頓堀にでかけて懇親会。これも実によく盛り上がる。いつもながら、こういう楽しい場を設定してくださる、歴博の仁藤敦史さんと村木二郎さんに感謝m(_ _)m。

2005.09.16

保元の乱を歩く、の巻

9月16日(金)
 朝日カルチャーセンター京都の講座の日が回ってきた。今回は、「保元・平治の乱」を扱ったので、その関連史跡を回ることにする。地下鉄烏丸御池駅で集合する。この場所自身、平治の乱の「焼き討ち」の現場となった後白河上皇の御所・三条東殿の跡地である。普通は「私たちの足元が歴史の舞台だったのです」ということなのだが、地下鉄の駅なので「私たちの頭の上が歴史の舞台だったのです」ということになる。三条東殿跡をぐるりと一周し、以仁王の高倉宮跡を見、白河法皇の三条西殿跡、上西門院や後鳥羽上皇の三条南殿(三条烏丸御所)跡をめぐる。さらに、保元の乱の後白河天皇側の拠点となった高松殿跡に行き、跡地に建つ高松神明社を拝する。指標はないが、この隣には保元の乱後の政界の立役者であった信西入道藤原通憲の邸宅があったはずだ。
 御池通をわたると、今度は東三条殿跡。保元の乱の時には後白河天皇側の源義朝の武力によって接収されたし、戦闘のさなかには後白河天皇がここに一時移御している。閑院跡、堀河院跡、高陽院跡を経て、堀川丸太町のバス停留所から市バスに乗り、「白河」へと移動。後白河法皇が篤く信仰した熊野神社と、崇徳上皇側の拠点であった白河北殿の跡を見る。

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着物と琵琶とお月見と、の巻

 9月15日(木)
 夕方からバタバタ。久しぶりに、着物をきちんと着ることになり(着物は好きなのだが、いつもはまったくの着流しで誤魔化している)、帯の結び方がどうたら、襟の留め方がどうたら、大騒ぎと相成った。ウチの奥さんが、平家詞曲前田流相伝者の鈴木まどかさんから、お月見の宴に誘われた。鈴木まどかさんは、8月の「花園大学京都学講座」で見事な平家琵琶を披露していただいた方である。彼女の美しい微笑みと清らかな声の魅力に再会したくて、私もついていくことにする。
 会場となったのは、下京のとある町屋。そこの御主人が個人的にやっている文化活動の一環として、知り合いを集めて今回の宴となった。こじんまりとした座敷に20人ばかりが並び、ほんのりとロウソクの炎がゆらめく。そこで、まどかさんが平家詞曲をしみじみと語る。大学のホールでの公演(500人のホールが超満員だった)も良かったのだが、やはり本来の平家琵琶はこういう小さい場所で聞くものだと実感。
 語りの終了後には、みんなで当道職屋敷跡に出かけ、平家物語を伝承してきた琵琶法師の歴史をしのぶ。
 さらに、鴨川の河原でお月見をやる。こじんまりとしているが、神経の行き届いた凝った道具立てが並ぶ。たとえば、精選された水出しのお茶を、わざわざこのために竹細工の職人さんに頼んで作ってもらった竹筒と竹のお猪口で酌み交わす。満月にはまだ少し間があるが、それでも中天高く煌々と月が輝く。曇にならなくて良かった。平家詞曲の霊験のお陰かな? 肌をなぜる冷たい風も心地よい。鴨川の河原でお月見なんて、こんなにゆったりとした気分になれるのは久しぶりだった。

2005.09.15

「指揮界のジャンヌ・ダルク」を聴く、の巻

2005年9月14日(水)
 Y氏と待ち合わせをしていたのが、私が時間を間違えてしまい、スッポカシてしまった。手帳にはちゃんと時間を書いておいたのに、どういうわけか勘違いしたのである。あわててY氏の携帯電話に連絡を入れ、とにかく平身低頭である。Yさん、申し訳ありませんでした。

 京都市交響楽団第480回定期演奏会を聴くために、京都コンサートホールにでかける。先日お会いしたYさん(上記のYさんとは別人)に勧めていただいたので、急に行く気になった。アヌ・タリ指揮、伊藤恵<けい>のピアノで、トルミス「序曲第2番」、ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第2番」、チャイコフスキー「交響曲第5番」というプログラムである。
anutali 指揮者のアヌ・タリという人、私は始めて聴くのだが、最近の注目株らしい。エストニアの女性音楽家であり、1972年生まれというからまだ33歳という若さだ。25歳(!)の時に自らエストニア=フィンランド交響楽団を創設し、その音楽監督をつとめているというから凄いものだ。ポスターの写真を見ると、確かに凛とした美女である。「北欧の新星」「指揮界のジャンヌ・ダルク」などという宣伝文句が踊っている。これに興味を引かれた、というと、お前は演奏者が美女かどうかばかり気にしている、邪道だ、音楽ファンの風上にも置けない奴だ、と怒られることになる。そういう非難に対しては、いやそんなことはない、別に美人ばかり選んで聴いているわけではない、たまたまそういう結果になっただけだ、と反論をしなければならない。しかし、実際には二階の袖の一番前で、指揮者の表情が一番良く見える席をとってしまっている。確かに、根性が曲がっているといわれても言い返すことができない。

 万雷の拍手とともにタリ登場。予想に反して、小柄な女性である。美女であることは確かだが、どちらかという幼い顔立ちで、燕尾服を着ているとむしろハイスクール・ボーイとでもいうような印象を受ける。なるほど、誰がつけたか知らないが、「指揮界のジャンヌ・ダルク」とは良く言ったものだ。トレードマークの金髪が、スポットライトを浴びて燃えるように輝いている。
 最初に演奏されたトルミスは、タリの同郷のエストニアの大家であるというが、始めて聞く名前である。その「序曲第2番」も全然知らない曲である。あとで調べてみたらそれもそのはず。この曲は、今回のタリの来日公演で日本初演がなされたものだそうだ。この作曲家については、日本で出ているCDもまったく数少ないから、私の不勉強のせいだけではないようだ。あんまり期待していなかったのだか、最初のティンパニの強打に驚く。力強く生き生きとした曲であり、端倪することのできない傑作だ。あたりまえだが、まだまだ世の中には知らない名曲がいっぱいあることを改めて実感する。
 ラフマニノフは、テンポをゆっくりとった起伏の大きい演奏。ただ、せっかくの伊藤恵さんのピアノが、オーケストラに埋もれてしまって良く聞き取れなかった。もちろんこれは私の席が悪いせいで、ピアニストの責任ではない。

 注目はチャイコフスキーの大曲である。指揮者はちょっとうつむき加減で、淡々と指揮を進める。大向こうをうならせるような派手な身振りはまったくやろうとしない。しかし、出てくる音は大したものだ。ごくたまに、ギラリと目を光らせて指揮棒を突き刺すように振りかざす瞬間がある。見ているこちらまで、肺腑をえぐられたような気分になる。それに、この曲はあちこちに休符がでてくる。凍り付くようなその一瞬の無音状態の作り方が、この指揮者は実に旨い。この可愛らしい小柄な女性、確かに素晴らしい才能の持ち主であるに違いない。
 オーケストラも、渾身の熱演でそれに応えている。特にこの曲は金管楽器が活躍し、その点で難所がいっぱいある。京響の金管の皆さん、そうした難所に正面から立ち向かい、なかなかに頑張っている。これも席のせいで、ふだんは弦楽器に埋もれてしまう金管や木管が良く聞き取れ、ちょっとバランスの変わったチャイコフスキーを楽しむことができた。

 ただ、ひとつ、例によって残念なことがおこる。4楽章の最終部、最高の休符の瞬間に、まだ曲が終わってもいないのにバカな一人の客が「ブラボー」と大声をあげたのである。まったく! 音楽の余韻にひたるとか、最後の瞬間の緊張感を味わうとか、そんな心持ちはまったくない輩である。こいつは音楽を楽しむために演奏会に来ているのではない。誰よりも先に「ブラボー」を叫びたい、それによって自分の自己顕示欲を満たしたい、そのことにしか関心がないのである! 指揮者の棒が降り切り、それまでの緊張感がフッとほぐれる瞬間まで、拍手も掛け声も待ってもバチはあたらないハズなのだが、なぜそうはできないのだろうか?


2005.09.14

美味のハシゴ、の巻

 9月12日(月)・13日(火)
 東アジア宮都研究「個人所有に関する私見」は物凄い反響を呼んでいるようだ。コメント欄が熱い。「上州一揆」さんという方からは、このバトルを見届けようという発言すらなされている。いろんなところで見られていることに改めて驚く。明らかに私が言い出しっぺのこの議論、本来ならば私がきちんと決着をつけねばなるまい。
 だが、今はちょっと考えがまとまらない。ここでの山中章博士のご発言には、確かに細部の論理の粗さがあり、それが他の方々の激烈な反論を呼んでいるところなのであろうが、基本的な部分は鋭く核心を突いていると認めざるをえない。これに対抗するためには、かなりの熟考が必要である。山中博士が別件の要因でブログへの書き込みを「お休み」されているのであるから、私も頭を冷やして考え直してみよう。この問題はしばらく先送りである。まあ、「バトル」を期待されていた方にはお気の毒であるが・・・

 さて、相も変わらずバタバタが続く。12日は朝から夕方まで会議の連続。いいかげんイヤになる。
 13日はまた、朝から夕方まで「博物館実習」の館園実習の2班目をやる。夕方に終わったら、すぐに家にとって返し、服を着替えて、京都ホテルオークラに出かける。先日までおこなわれていた風俗博物館の出張展示「六条院へ行こう」(会場は京都文化博物館)が無事に終了したので、その「お疲れ様会」があるのである。京都ホテルは、前を通るのはいつものことであるが、最上階に登るのは始めてである。「景観論争」を巻き起こした建物だけあって、やはり上に登ると絶景である。東山から比叡山、糺の森から京都御所までが一望できる。しばし見とれる。井筒館長とSJ大学のG氏にご挨拶。さすがは京都第一級のホテルだけあって、バイキングの料理も、他とはひと味もふた味も違う。
 しかし、落ち着いて呑んでもいられない。途中で失礼をして、今度は祇園新橋の日本料亭に向かう。「京都五月村クラブ」という京都の企業関係者の親睦団体があって、その例会に呼んでいただいた。20人足らずの方々が席を囲んでいる。料理がでるまで、まず1時間ほど平安京の話をさせてもらう。それからは京料理のお食事。これもまた、なかなかだった。

 こんな話をすると、山中博士からはまた「贅沢をしている」というお叱りが飛ぶだろうな・・・

2005.09.12

「福原遷都の混迷と挫折」刊行!、の巻

 9月11日(日)続き
 昨晩、『古代文化』の最新号(第57巻第9号)とその抜刷が届いた。私の論文「福原遷都の混迷と挫折」が掲載されている号である。しかも、巻頭論文あつかいにしていただいた。編集委員会の御厚意に感謝。
 このブログでも何度も書いたが、最近、平清盛が造った福原の都にハマッていた。今年の春に『古代文化』誌で「平家と福原」の特集をやる時に、「『福原京』の都市構造」を書かせてもらった。今回の「混迷と挫折」はその副産物である。「福原は正統の首都にはなりえなかった。あえて評価するならば、それは『事実上の副都』であった」というのが私の持論なのであるが、それを全面的に展開したのである。さらに、今回の新機軸は、もうひとつの新首都「摂津国小屋野京(現・兵庫県伊丹市)」の構想を高く評価したことである。歴史の歯車が少し違って動いていれば、伊丹が古代日本最後の都城になった可能性がある、というのはなかなか楽しい想像であった。

 「福原京」(私はあえて「京」という)の位置づけは、考古学だけでもダメであるし、文献史学だけでも、また歴史地理学だけでも無理である。それらを総合し、なおかつ研究者個人々々の真摯な「想定」を加えねば、福原京の復元と評価は不可能なのだと思う。今回の論文は文献史学的方法論に特化したものであり、これだけを見ていただくとおそらく、とても考古学研究者が書いたものだとは思われないのではなかろうか。そもそも私の考古学・歴史学の研究は、自分なりにいろいろな方法論を総合することをめざしてきたものである(角田文衞先生流にいうと「古代学」)。その点では、福原の研究はさまざまな学問の融合をはかることができる点で、まさにありがたいテーマとなったように思う。

 『古代文化』を御覧になっていない方のために、今回の論文の「要旨」を掲載しておこう。ご参考にしていただれば幸いです。ご興味をもたれて、掲載誌を購入してやろうという方は、(財)古代学協会(京都市中京区三条高倉、電話075-252-3000)へお問い合わせくださいませ。
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   福原遷都の混迷と挫折(要旨)
                 山田邦和
 治承4年(1180)6月2日、平清盛の主導により、安徳天皇・高倉上皇・後白河法皇は摂津国福原へと移御した。世にいう『福原遷都』がこれである。しかし、この時に新首都の候補地とされたのは福原ではなく、福原に隣接する和田の地であった。したがって、6月2日の事件を『福原遷都』と呼ぶのは適当ではない。
 『和田京』計画の挫折の後に登場したのが、摂津国小屋野に新京を建設しようとする構想である。従来の研究ではこの新京計画はまったく軽視されてきたが、小屋野は新しい首都となるべき条件を充分に備えた場所であり、清盛も高倉上皇もこの計画を真剣に推進しようとしていたのである。しかし、小屋野遷都計画が実現に向けて動き始めた時、播磨国印南野に新京を造営するという対案が唐突に浮上し、これによって遷都計画全体が混迷に陥ることになる。そこで、清盛は熟慮の結果としてそうした計画を全て放棄し、福原そのものを改造して新首都とするという次善の策にいたることになる。
 一方、7月にはいると高倉上皇の健康が悪化し、それとともに上皇は遷都実現に対する自信を失いつつあった。そこで上皇は、福原の新しい都の建設は推進するけれども平安京は放棄しないという巧妙な妥協案を決定するにいたる。これは、『正都平安京、事実上の副都福原』という複都体制を意味していると考える。
 しかしこれは、福原への全面遷都を希求する清盛の考えとは異なっていた。そこで清盛は、福原に新造内裏を建設し、また八省院造営計画をたてるなど、福原を新しい首都とするための既成事実を積み重ねていこうとした。しかし、そうした計画はまったく拙劣であり、いずれも思うような効果をあげることができなかった。福原は最後まで正統の首都としての権威を獲得することはできず、『事実上の副都』という段階にとどまっていたのである。

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2005.09.11

ヤマヤマ大戦争勃発!?、の巻

 9月11日(日)
 「東アジア宮都研究」9月10日条を見て、驚かれた人も多いことであろう。山中章博士が、これまでにない厳しい口調で私を批判している。そう考えてみると、確かにこれまでもその伏線はあった。8月31日条「平安京をご破算に」などは、「山田博士にけんかを売るつもりはないのだが」と断りながらも、正面からの激突を恐れない激しい意見を開陳されていたのである。さらに、9月9日条の山中博士は、何が原因かはわからないが怒り心頭に発しておられた。これらの要素を結びつけると、山田が何かまずいことをやり、ついに山中博士の逆鱗に触れ、ふたりは決裂して口も聞かない仲になったのだという推論を導き出すことは容易だと思われる。中には、もうしばらくすると、山中・山田の殴り合いが見物できるのではないかと楽しみにしている方もおられるかもしれない。
 しかし、国際情勢というのはそんな皮相的な見方で終始できるものではあるまい。顔ではニコニコし合っている同士が衣の下に鎧を着込んでいたり、ののしり合っているとみせかけたのが実は八百長試合であったり、人前では口も聞かない男女が実は密会をくりかえしていたり、世の中にはそんな複雑怪奇なことが日常茶飯事なのである。さて、このヤマヤマ大戦争、ふたりは本当に決裂したのか、それとも違うのか、果たして真相はいかに? 読者諸氏の判定を期待しよう。
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 いずれにせよ、せっかくの「売られた喧嘩」なのであるから、まず「平安京ご破算論」の私見を開陳しよう。

 私の都市史研究の立脚点が平安京=京都にあるというのはまぎれもない事実である。「発想の根本が平安京に固定されている」という非難は、甘んじて受けよう。平安京=京都研究の忙しさにかこつけて、他の都城に対する勉強と発言を怖がってきたというのもまた確かである。しかし、かといって私が、「平安京こそが日本古代都城の理想であり、他の都城はそこにいたる過程にすぎない」などと主張しているわけではない。また、「南北に長い長方形が日本古代宮都の基本」であると言った覚えはない。東アジアの都城の究極の姿を作りだした唐長安城(実は隋大興城)は東西に長い長方形であったし、さらにそのはるかな原形になった魏(曹魏)のギョウ城(「業」という字に「オオザト」を組み合わせた字)もまたそのスタイルであった。中国には、こうした矩形の都の他にも、魏(北魏)洛陽城などのさまざまな形の都城が建設された。しかし、日本がみずからの宮都を建設するにあたって理想としたものは、後者ではなく前者だと考えている。すなわち、私は、日本古代宮都の基本は、全体が矩形(正方形でも長方形でも良いが、平行四辺形や台形ではない)で、そこに整然とした条坊制を展開することにこそ意義があると考えている。宮が京のどこにあるか、京に「瘤」のような附属施設が付くかどうか(唐長安にも大明宮や曲江池といった「瘤」があった)は、本質的な問題ではないと考える。
 
 山中博士は、考古学だけから古代宮都研究をやれ!、そうでないと文献史料に飲み込まれてしまう!、と言う。しかし、我々はこの勇敢な宣言の背後に秘められた真実を読み取らねばならないであろう。山中博士の考古学的な宮都研究が、実はその背後に膨大な文献史学の業績の消化を持っていることは、博士の論文を注意深く読めば誰しもが感じ取ることができることである。もし、山中博士のこの言葉を無批判に受け入れ、古代宮都研究に文献史学は不要だなどと信じる人がいるならば、それはあまりにも愚かといわざるをえまい。

 いつも申し上げるが、長岡京において日本古代宮都の画期的な転換がはかられたことは山中博士の御説の通りである。しかし、平安京が「長岡京の残滓」にすぎないというのはあまりにも極論であろう。これもいつも強調するが、長岡京と平安京は、いずれも桓武天皇という共通の親が生み出したキョウダイである。長岡京にも「失敗」がまったくなかったわけではあるまい。桓武天皇は、長岡京でのまずいところを、平安京建設にあたっては必ずや修正しようとしたであろう。また、時代に合った新しい要素を付け加えようともしたであろう。確かに、平安京では「忘れ去られた理念」もあったであろう。しかし、理念というものは時代を超えた普遍性を持つものではない。理念が忘れ去られたとすると、それは、8世紀末葉という段階で、その理念そのものがすでに時代遅れとなっていたことによると考えねばなるまい。その点で、平安京には「後発の有利さ」がある。しかし、平安京を貶めなくても長岡京の画期性は充分に評価されるはずである。私は、長岡京の面白さは、桓武天皇が苦闘と試行錯誤をくりかえし、次第に自らの理想を実現していく舞台であったというところにあると思っている(そういう点では、長岡京の試行錯誤を経て「完成」されてしまった平安京は、ずいぶん面白みが欠けている、ということであるならば承認してもよい)。

 一方、「考古学から平安京はどれだけ解っているのか」という博士の問いかけには非常に重いものがあることは認めよう。平安京の考古学的研究はいろいろなハンディを負っている。それは、遺跡が現代の大都市の市街地に完全に重なっているという条件もあるし、特に左京部分では遺跡に後世の攪乱が多くて平安の遺構面が破壊されているという点もある。また、発掘調査の情報にまだまだ未公開のものがあるということも忘れてはなるまい。私たちは、平安京研究はそもそも難しいものであるという前提でとりくんでいかねばならないのである。
 しかし、文献の平安京像に対して考古学が無批判であったとまでいうのは、明らかに間違いである。もちろん、旧来ながらのマンネリ化した平安京像が強固に残っていることは認めてもよい。しかし、そうした像を打破するような動きは、考古学でも文献史学でもおこってきていると信じたい。一例として、「右京の衰退」問題をあげよう。従来は慶滋保胤の『池亭記』の記述を援用し、平安中期の右京は田園に戻ってしまったと考えられていた。それに対して、考古学の立場から始めて異論を呈したのは誰であったか? 思い起こしてほしいものである。それは、他ならぬ山中章「長岡京から平安京へ」(『新版古代の日本』第6巻所収、東京、角川書店、1991年)だったのである。博士はここで、平安中期の右京にもまだまだ建築物が存在することを考古学的に立証されたのである。それを受け継ぎ、さらに発展させたのが、私の「中世都市京都の成立」(古代都城制研究集会第3回報告集『古代都市の構造と展開』所収、奈良、同集会実行委員会、1998年)であり、私はここで『池亭記』を無批判に信用した平安京像が虚像であったことを明確に論じたのである。この両者の見解は心ある文献史学研究者にも衝撃を与えたらしい。それは、京樂真帆子「平安京の空間構造—見えなくなる右京—」(院政期文化論集3『時間と空間』所収、東京、森話社、2003年)という見事な研究を産むことにつながっていくのである。

 私はその後、「『前期平安京』の復元」(『都市—前近代都市論の射程—』所収、東京、青木書店、2002年)という研究を公にした。そこで私は、どこの教科書にでも載っている「平安京」はあくまで観念の世界にだけ存在するものであり、この世に出現した「前期平安京」の実態とは違っていたことを推理したのである。もちろん私の復元図が100パーセント正しいものだとは思っていない。しかし、平安京研究が負っているハンディを認識した上で、それをわずかでも克服するにはどうしたらよいかという、方法論的な苦悩がこの論文に含まれていることだけは読み取ってもらわなければならないのである。

 山中博士にしても私にしても、戦いをいどまねばならぬ真の相手は、「考古学の独立」の美名に隠れて遺物や遺跡の些細な点をいじり回すことだけに終始し、「歴史像」を創り上げていくことを怠っている「考古学研究者」であり、また、考古学をバカにし、文献史料だけで歴史を語ることができると慢心している頭カチコチの古いタイプの文献史学者である。古代宮都研究にとっては、文献史学も考古学もいずれも万能ではない。我々のやらねばならないことは、お互いの方法論の限界を見極めた上で、対等の立場で両者の融合をはかるにはどうしたらよいか、じっくりと考えるべきなのである。

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オペラとミニ酒呑童子の会、の巻

 9月10日(土)続き
 午後は、京都コンサートホールにでかける。クラシック通として知られる今岡典和さん(関西福祉大学、日本中世史)が、「出口武とその仲間たちPartIX オペラ アンサンブル」の券をくださった。今岡さんご自身がバリトンで出演されるという。内容は、ドニゼッティ、ベッリーニ、ヴェルディ、マスカーニ、モーツァルト、プッチーニのオペラから、聞き所を集めている。今岡さんはドニゼッティとヴェルディを歌われる。今岡さんは普段は物静かでむしろおとなしい方なのだが、この時ばかりは違った。堂々たる舞台姿で、朗々と美声を響かせる。音楽を聞くことは聞くが、楽器も楽譜もまるでダメな私としては、とってもとっても羨ましい。
 休憩時間、出番が終わってホッとくつろいでおられる今岡さんにお礼とお祝いを言っていると、堂々とした体格の男性が近づいてくる。なんと、K大学の中世史のM教授ではないか。私も驚いたが、向こうも驚いたようである。全然知らなかったが、M教授は凄いクラシックへの造詣をお持ちだということが判明。同行しておられたYさん(この人の音楽知識も凄い)とも意気投合し、終わったあと、街に繰り出そうということになる。
 四条河原町の焼肉屋に出かけ、ビールを飲み干す。今岡さんも、仲間たちとのお疲れ様会が始まるまでの、最初の半時間だけご一緒してくださる。こちらのビールも美味いが、あれだけ歌った後のビールはまた格別だろうな。M教授とは、ふだんならば、後白河法皇がこうで、平清盛がどうで、高倉上皇がああで、という話ばかりしているのだが、今日ばかりはクラシック音楽談義で盛り上がった。焼肉の後は、M教授御用達のバー。

 今岡さん、M教授、Yさん、楽しい時間でした。ありがとうございました。

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高陽院、の巻

 9月10日(土)
 午前中、京都市埋蔵文化財研究所による高陽院跡発掘調査の現地説明会がおこなわれる。高陽院はいうまでもなく、藤原摂関政治の全盛期を築き上げた藤原頼通が心血を注いで創り上げた豪邸である。そのありさまは「海龍王の御殿のごとし」と言われていた。4町(250m四方)を占めるというのは、天皇の離宮を除くと平安京としては最大の邸宅だということになる。これまでの発掘調査でも、その豪勢な庭園の一部があちこちから検出されていた。
 現地にでかけると、話題を呼んだだけあって凄い人混みである。なかなか説明が始まらないな、と思っていたら、あまりにも来場者が大すぎたため、全体的な説明は取りやめ、個々の調査員が対応することになったらしい。発掘面積は決して大きくないが、出ている遺構は見事なものである。庭園の池の推定南端が綺麗に出ているし、そこには3期の造り替えがあったらしいことも判明した。また、南側を通る大炊御門大路の路面と南側築地の痕跡がしっかりと見えている。すばらしい。この遺跡は、平安時代の貴族邸宅研究に欠かせないものになるであろう。

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2005.09.10

またまた、神戸で福原京の話をする、の巻

 9月10日(金)
 神戸にでかける。
 兵庫県芸術文化協会が主催し、県教育委員会埋蔵文化財調査事務所が共催する「兵庫県生活文化大学〜埋蔵文化財教室」が、今年度は「神戸のルーツ『福原京・港』と新大陸の考古学」というのをやるそうで、そのうちの一回の講演に呼んでもらった。私のテーマは「よみがえる『福原京』」である。声をかけてくださった県教育委員会のおふたりのOさん、ありがとうございました。
 会場となった兵庫県民会館の場所がよくわからないので、三宮駅からテクテク西へ向けて歩く。道をまちがえているような気がしないでもなかったが、兵庫県庁まで行けばなんとかなるだろう、と高をくくっていた。幸いなことに、正解であった。

 会場には60人くらいの市民の方々がお集まりである。年齢的にはほぼすべてが熟年だというのは、平日昼間という時間帯からして当然であろう。ただ、最初にお断り、ということで、私の「福原京論」が通説とはかなり違っていることを述べる。なぜならば、私は「福原遷都は『無かった』」という過激な説を唱えているのである。これは、神戸を愛し誇りに思っておられる地元の方々からすると、場合によっては「侮辱」だと受け止められかねず、感情的な抗議を受けることもありえないことはないであろう。しかし、私としても、表現を軟らかくするというところはできても、学問的な主張を譲るわけにはいかない。私の信じるところを、わかっていただけるように話すしかない。
 大河ドラマ「義経」ネタなどともからめたおかげか、まずまず理解していただけたような気がする。ただ、講演が終わったあと、地元で地域史を研究されているという方が近寄ってこられた。「先生の説は間違いです」と単刀直入におっしゃる。「○○と◎◎は××なんです。△△も□□です。これはどの史料を見ても出てくることです」。ご自分の見解に100パーセントの自信を持っておられることはよくわかる。ただ、私の考え方とはかなり違っているのも事実である。困るのは、その場で議論をすることもできないし、また、多少の議論をしたとしても、それで御説を変更してもらえるとも思えないことである。そうなると、ともかく御説拝聴して、途中で切り上げるしかない。このあたり、難しいところである。

 終わってから、Oさんに県埋蔵文化財事務所へ連れて行ってもらう。再来年には県立考古博物館がオープンするそうで、その時にはこの事務所も新博物館に移転するそうだ。事務所ではMさんにも会う。お久しぶりです。事務所内を「探検」させてもらってから、帰宅の途につく。高速神戸駅の地下街「メトロ神戸」を少しばかりぶらつく。古本屋街、卓球場、ゲームセンター、石の店などがたちならぶ不思議な地下街である。庶民的というかなんというか、奇妙な空間であるが、私はこういうところが大好きである。さらに、三宮のセンター街でちょっとばかり時間をつぶし、京都へ帰る。

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 東アジア宮都研究の9月10日条を開けてみて、仰天した。何かとてつもない事態がおこったらしい。どんなことかわからないが、気になる・・・・

2005.09.09

「京都市文化財学習研修施設指定管理者選定委員会」と本満寺、の巻

9月8日(木)
 「京都市文化財学習研修施設指定管理者選定委員会」の第2回目の会合が開催されるので、出席する。以前にも書いたように、京都市考古資料館と京都市文化財建造物保存技術研修センターのふたつの施設について、指定管理者の「指定候補者」を選定し、市長に答申するという委員会である。私は、どういうわけかその委員長をつとめることになっている(なお、こういう内容の委員会が開かれているということ、何を審議するかということ、誰が委員になっているかということ、私が委員長であること、は、完全に公にされていることであり、機密事項でもなんでもない。もちろん、今日の審議内容を漏らすことはできないが、これはまもなく答申という形で公になるはずである)。
 とにかく、予定の時間をオーバーしてまでも、内容の濃い議論を続けた。私にとっても、この議論を通じて、現代の日本で文化施設が置かれている困難な状況の一端がよく理解できたことは収穫であった。しかし、かなりくたびれた。

 会議が終わって、気分転換に自転車でぶらつく。今出川通を東へ。同志社大学の構内を通ってから、寺町通を北上する。ふっと気がついて、寺町上立売下ルの日蓮宗大本山・本満寺に立ち寄る。ここの墓地に、松平(結城)秀康〈徳川家康の実子、越前福井藩主〉の正妻であった蓮乗院の墓がある(写真
は以前のもの)。renzyoin福井の特産である笏谷石(凝灰岩)で作られた、珍しくも立派な墓である。以前、これを見いだしてかなり感動したので、『歴史街道』での連載に紹介したことがある(山田邦和「まちかど歴史散歩43 北陸からわたってきた墓石〜京都・本満寺」〈『歴史街道』第175号掲載、東京、PHP研究所、2002年〉)。この墓はかなり痛んでいて、今にも崩壊寸前だという風情になっていた。ところが、先日の京都新聞に載った記事によると、これが綺麗に修復されたというのである。まずはめでたいことである。
 しかし、いざ本満寺に行くと、墓地にそびえていたはずのこの墓が見あたらない。人間の記憶はあてにならないし、ましてや私の頭は昨日あったことも忘れているくらいである。しかし、どう考えてもこの墓は墓地の中央で目立っていたはずであり、見逃すはずはない。困り果てて、墓地の管理のおじさんに聞いてみた。すると、なんのことはない。修理にあわせて、墓地から本堂の横に移築されていたのである。私たち考古学の研究者は「原位置」を動かすことにかなりの抵抗があるのだが、これはまあ仕方ないだろう。ぴかぴかになった蓮乗院の墓を拝ませてもらう。

 さらに自転車でふらふら。結局、出雲路橋まで北上してしまう。このあたりはもちろん子供の頃からのおなじみであるはずなのだが、それでも、いくつものびっくりするような新発見をすることができる。京都に住むことのありがたさを今更ながらに感じ取ることができる瞬間である。おそらく私は生涯の終わりまで、こうして京都の町から新しい知識を教え続けられることであろう。

 今出川寺町のジュンク堂書店の営業所の前を通ると、「大正の広重」こと吉田初三郎のパノラマ地図の複製がいくつも飾ってある。初三郎の地図は私もいくつ持っているので、びっくりびっくり。天皇陵を細かく描き込んだ京都・奈良の画があったので、購入する。


2005.09.08

博物館実習と個人所有資料、の巻

 9月7日(水)
 昨日の午前中は大学で会議。憂鬱さが残る会議であった。ずしりとした気分を抱えて、なんとか家にたどりつく。

 7日は博物館実習の「館園実習」の初日。博物館学芸員の資格を取得するためには、大学で決められた単位を取る以外に、実際の博物館での実習に参加することが義務づけられている。通常は学外の博物館にお願いして学生を引き受けてくれるのであるが、花園大学は「博物館相当施設」に指定されている歴史博物館を持っているため、そこで実習をおこなうことにしている。私も、この時ばかりは博物館学芸員に早変わりである。学内で実習をやれるのは便利なことではあるが、学生がふだんの授業気分の延長になると困るので、厳しく厳しくやることにしている。
 2班に分けているから、今日は19人の学生が参加している。さらに四つのグループに分け、「展示の実務」をやらせる。昨年の特別展「洛中大火夢物語—風雲の幕末京都—」があるので、それを再現させることにする。収蔵庫から資料を出すと、学生諸君はさすがに緊張気味である。ひとつひとつ資料を確認し、調書をとり、解説パネルをはめこみ、展示室に並べていく。やはり、ナマの資料をさわらせることは手応えが違うことを実感する。
 私の実習の特徴は、こうしてさわらせる資料の全てが私個人の所有品であることだ。学生には、「君たちは実際の博物館学芸員になったつもりで参加すること。しかも所有者の目前で資料を扱っているということを忘れるな」と宣言している。資料を借用に行った時、学芸員にとって一番怖いのは所有者の目であるからだ。さらに、資料が自分のものであるから、学生に対しても多少の「冒険」をさせることができる。大学所有の資料ならば、破損を恐れるあまりに学生にほとんどさわらせない、ということすらありうる。それでは「教育」になるまい。
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 山中章博士は、個人が資料を持つことに対しては批判的である。つまり、資料を個人が所有することにより、遺跡の盗掘が誘発されたり、資料が私蔵されて非公開につながるということである。博士のそうした危惧にも充分な理があることはもちろんだと思う。
 しかし、公的な機関に資料が所蔵されていることが逆にデメリットとなることもある。たとえば、そこに勤める学芸員が資料に対してまったく愛着を持っておらず、単に職務として管理するだけ、ということがある(私は、学芸員の第一条件は、自分の扱う資料に愛着を持つ事であると思う)。そうした学芸員に限って、「資料の保管」の美名のもと、規則をやたらに振り回して公開をはばんでしまうことがしばしばである。自分のものでないから、雑に扱ってもまったく痛痒を感じない。壊したり、なくしたりしても、誰も責任を負わない。人が変わると資料がどこにいったかわからない、ということもしばしば起こりうるのである。
 私は、世の中には身銭を切らねばわからないこともある、と思うのであるが、どうであろう。

 盗掘の誘発、という山中博士の指摘はたしかに痛いところであり、これにはなかなか反論ができない。しかし、私見では、たとえ資料の個人所有を法律で厳禁したところで、盗掘を根絶するにはいたらないと思う。ブラックマーケットは一片の法令で消滅するほどヤワなものではないと考えるからだ。もし資料の個人所有が禁止されたとしたら、それは逆に、貴重な文化財を水面下におしこめ、永遠に日の目を見せない結果を生むように思う。
 私が昨年書いた論文に「須恵器環状台連結ハソウとその系譜」(『花園史学』第25号掲載、京都、花園大学史学会、2004年)というのがある。これは、私がたまたま市場で見いだした須恵器の「環状台連結ハソウ」(写真)を紹介し、その分類などについて論じたものである。IMG_1551これは珍品であるが、子器がはずれていて妙な形になっていたため、それを目にした中でこの価値に気づいた人は、私の他には多分まったくいなかったであろう。
 また、桓武天皇陵を考える場合の重要な資料としてかつて紹介した(「桓武天皇柏原陵考」〈『文化学年報』第48輯掲載、京都、同志社大学文化学会、1999年〉)ものに、「紀伊郡深草町仏国寺石棺見取図」というものがある。これなど、私が桓武天皇陵の論文を書いていた時に、たまたま古本屋の目録で見つけたものである。この新資料の出現により、桓武天皇陵の候補とされたことがありながら実態が不明確だった「仏国寺古墓」の真相に迫ることができた。
 おそらく、私が購入して紹介しなければ、これらの資料はどこかに流れてしまい、永遠の闇の中に消え去ったと思う。これなど、私としては危ういところで資料を「救出」したつもりでいるのであるが、いかがであろうか? 要は、資料が私蔵であるか公的所有であるかは別として、その資料に関わる人が、どれだけ資料を公益のために活かす覚悟があるか、そこが問われるのではなかろうか。
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博物館の後かたづけ、の巻

 9月5日(月)
 国際的謀略機関の魔手が迫っており、明日の命もわからないというのに、山中章博士は意気軒昂のご様子である。結構なことである。
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 さて、戦い終わって日が暮れて、中世都市研究会京都大会の後かたづけである。とはいっても、ウチの研究室員が奮闘してくれて、ホールの片づけは終わっている。良かった。だって、あそこに並べた机やら椅子やら展示パネルやらの片づけが一番の重労働だもんね。

 そこで今日は、院生の鎌田久美子さん始め3人だけに手伝ってもらい、歴史博物館の撤収をおこなう。小さな展示室とはいえ、2日間だけで終わってしまう展覧会というのは、正直ちょっとさみしい。しかし、これは自分で決めたことだからとやかく言っても始まらない。じっくりと時間をかけて撤収する。
 せっかくだから、地図のたたみ方、掛軸や巻物の巻き方、文書史料の収蔵のやりかたなど、教えながらやる。ちょっとした「博物館実習」である。3人ともさすがにこうしたことは始めてであり、怖々やっているのが微笑ましいほどだ。こういうふうに数人を相手に手取り足取り教えることができると、学生にも身につくと思うのだが、今の大学のシステムは効率優先でとてもとてもこんなに親切にはやっていられない。

 家に電話するとウチの奥さんが、夕食は串カツ屋さんに行きたいという。せっかくだから、鎌田さんも誘って食事することにする。またまた、良く呑みました。

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2005.09.06

中世都市研究会、本番、の巻

 9月3日(土)・4日(日)
 いよいよ本番である。ウチの研究室の学生諸君ががんばってくれたので、昨日のうちに会場設営がかなりのところまで終わってしまった。ありがたい。当日にバタバタするのはイヤだものね。3日の午前中は、いくつかのコースに分かれての見学会もある。しかし、私はそちらにでかけるわけには行かない。会場校担当者として、会場のお守り役、ということである。
 Y・Mさんのご尽力により、京都市埋蔵文化財研究所からは平安京・中世京都の遺跡のきれいな写真パネルを大量にお借りすることができた。会場ロビーに飾り付けると、ちょっとした展覧会気分である。それから、ロビーには長机をたくさん並べる。中世関係の書籍を出している出版社に集まってもらうのである。報告会場、ロビー、博物館、そして見学会が一体化し、小さいながらも「中世京都を語る場」ができあがった。立看板を備えつけ、録画と録音の準備をととのえ、さあ開幕である。

 研究会では、仁木宏、百瀬正恒、野口実、高橋康夫、瀬田勝哉(以上3日)、河角龍典、山本雅和、河内将芳、福島克彦(以上4日)の各氏による9本の報告が続き、その後に私の「総括と論点提示」があり、さらに討論をおこなうことになる。凄い欲張りで、盛りだくさんのプログラムであることは間違いない。いずれの方も、練りに練られたすばらしい報告を披露してくれる。準備会を何度も何度も重ねてきたかいがあった。時間が限られているのがまったく残念なくらいである。

 3日の夕方には、別棟で懇親会である。研究会で頭を使ったあとのビールはことのほか美味い。全国から集まってくださった、いろんな方々にご挨拶する。ただ、ビールがあんなにどんどんと空いていくとは思っていなかった。その反面、料理はたくさん余ってしまった。私の誤算であり、申し訳ない限りである。

 4日の午後、いよいよ私の「総括と論点提示」の番である。しかし、これはいささか分が悪い話である。他の報告者は曲がりなりにも自分の得意分野で話をすることができるのであるが、私はそういうわけにはいかない。とにかく、必死で論点を整理し、なんとか方向性を見いだそうとする。それから、何かやはり新しいことを言わねばならないと思うので、「日本中世都市の『階層性』の提唱」というところに話をもっていく。都市の概念についての私見を披露し(私の概念は、他の研究者とはかなり違っているはずである)、さらには「日本中世には無数の都市が存在した。しかし、そこにはさまざまな『階層性』があったはずである」ということを言ったのである。実証を離れていることはわかっているが、こうした視点も絶対に必要であることを確信している。

 討論の場でも、報告者以外にさまざまな方々にコメントをいただいた。2日間の長丁場であったが、あっという間であった。2日間で、延べ500人を超える方々に集まっていただいたことになる。ありがたい。本当にありがたい。

 終了後、報告者で簡単な打ち上げをやる。嬉しかったのは、東京からわざわざお出でいただいた瀬田勝哉先生に喜んでいただいたこと。瀬田先生がこうした研究会に出られることはまったく珍しいことらしい。それだけに、先生が「こんなに楽しい研究会ができるのですね。さすがに京都ですね」とつぶやかれたのは、私にとっては何よりも嬉しいお褒めの言葉となった。楽しいお酒だった。調子に乗って、瀬田先生を自宅に案内し、「平安京検非違使庁址」の石碑を見ていだくということまでやってしまった。

 とにかく、くたびれた。しかし、充実していた。研究を通じての至福の時間を味わうことができた2日間であった。

 それから、言い忘れてはならないことがある。鎌田久美子さん、高橋誠二君の両大学院生を中心として、わが花園大学考古学研究室のメンバーが本当に良く動いてくれた。彼らの助けがなければ、こんなイベントは絶対にできなかったであろう。
 私は、わが研究室の彼らを、心から誇りに思うことができた。これもまた、何ものにも代え難い収穫だといわねばなるまい。

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追記  世間では、この研究会のために私が疲労困憊し、ついには意識混濁のあげくに死にかかっているという噂が流れているようである。ヘロヘロであるということは確かであり、そこからいうならばこの噂はまったくの間違いであるとはいえないけれども、まだ一応は生きており、日記を書くことができるということもまた事実である。
 この噂が流れた元凶は、山中博士からの電話に私がトンチンカンな応答をしたことによるが、これは私のせいではない。三重大学附近の携帯電話の電波が異常に弱くなっており、電話の声がまったく聞き取れなかったのである。おそらく、山中博士を抹殺せんとして動き出した国際的謀略機関の魔の手が迫っているのではなかろうか?

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とぶらひ、の巻

 9月2日(金)続き
 朝、大学に行こうとすると、電話のベルがなる。受話器をとると、仁木宏さんの絞り出すような声が聞こえる。ふだんは冷静沈着で、何事にも決して動じないこの人が、この時ばかりは涙声になっている。何がおこったのかすぐにわかった。仁木さんと京樂真帆子さん御夫婦の愛犬「右京大夫」(通称は「右京」)が世を去ったのである(京樂さんのブログ春王丸の独り言の9月2日条には、静かな悲しみに満ちた別れの言葉が捧げられている)。右京は、一月ほど前に不治の病に冒されていることがわかった。それを知って驚いたし、犬を飼っている身として私も本当に身につまされた。私は、今晩、研究会の最終打ち合わせで仁木さんの自宅に行き、そこで右京と最期の別れをさせてもらうつもりだった。しかし、一足違いとなってしまった。

 夕方、仁木さんの自宅近くで待ち合わせる。いったい何を持っていったらよいのかわからなかったのだが、ウチの奥さんが知恵をつけてくれて、花屋さんを探す。幸い、駅の近くに小さな花屋さんがあった。女主人に訳を話して、小さな花束を作ってもらう。研究会の最終の詰めを相談し、その後、仁木=京樂邸にうかがう。しかし、「とぶらひ」は苦手である。どう声をかけて良いか、いつもわからなくなる。
 玄関には、もうひとりの愛犬「春王丸」(通称「マル」)が待っていてくれている。マルちゃん、ひさしぶり。京樂さんも、さすがに憔悴している。リビングに上げてもらうと、右京が静かに横たわっている。毛の艶が良く(右京は真っ黒の犬だった)、病に苦しんでいたとは思えない。花を脇に置き、私もしばらく別れを告げる。

 右京はとにかく力が強く、元気な犬だった。いつだったか、研究会の後にさんざっぱら呑んでから、仁木さんの家に押しかけたことがある。一緒に行ったY・Aさんと仁木さんが学問的な話をしている横で、私は右京と遊んでいた。右京がはしゃいではしゃいで、何遍も何遍もとびかかってくる。こっちも酔っぱらっていたし、ついつい力がはいってしまい、しまいには取っ組み合いのじゃれあいになってしまった。私も、まったく犬と変わらない。
 その右京が、今はピクリとも動かずに横たわっているのである。こちらも、目頭が熱くなってくる。犬を飼っている以上、いつかは別れが来るのは当然である(人間が先に逝ってしまったら、それはそれで困ったことになる)。しかし、やはり別れはつらい。
 帰宅して、ウチの2匹の犬を見つめる。この子たちとも、いつかは別れなければならない時がくる。しかし、それまではいっぱいいっぱい、一緒の想い出を作っておこう、と決意を新たにする。

 右京、安らかに。

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「京都・都市の歴史」展を作る、の巻

 9月1日(木)〜2日(金)
 くたびれ果ててヘロヘロになったので、だいぶ日記の間が空いてしまった。急いで取り返そう。

 9月1・2両日には、ウチの研究室の学生諸君を花園大学歴史博物館に集める。今回の中世都市研究会の開催にあわせて博物館もオープンし、研究会に来られた方々に見てもらおう、というのである。

 欲張って、このとき限りの特別展「京都・都市の歴史」展を開催することにする。「山田邦和教授所蔵資料より」と副題を冠した通り、私の持っている資料だけで展示を構成するという、いつもながらの無謀で怖いもの知らずの試みである。tenziただ、目玉資料としては、弘安8年(1285)の京都・五条坊門万里小路の沽却状(売券)がある[写真右端]。これはたぶん新出史料であり、まずまずの値打ちモノであろう。ハンパモノばかりの山田コレクションの中では一番であり、我が家の「家宝」といってもよい。そのうち、どこかに史料紹介しようと思っている。
 まあ、ひとつひとつは大したことなくても、私の興味と関心によって集めたものであるから、全体として見たならばなんとなくまとまりもでてくる。大学の博物館なんだから、これくらいの「遊び」をやらせてもらってもいいんじゃないか、と勝手に考えている。

 そういえば、私の師匠である森浩一先生も、いろんな不思議な資料を所蔵しておられた。同志社大学の歴史資料館には、森先生のコレクションがかなり入っている。森先生はかつて、司馬遼太郎氏から「森浩一は『ガラクタ』を集めて博物館を作ろうとしている。偉い奴だ」という主旨のハガキをもらったことがあるらしい。先生は、まさに「我が意を得たり」という風情で、そのハガキを大事に大事にされておられた。森先生の思われたところは、世間的に見たらガラクタにしか見えないものであっても、研究という光を当てるならば雄弁に語り出してくれる、というところであった。確かに、同志社に保管されていた森コレクションには、他の博物館では見向きもされないような不思議な資料がたくさん含まれていた。私はそんなものをいつも見ているうちに、自分もそんな博物館を作りたい、という夢を持つようになった。今の花園大学歴史博物館には、森先生から私が受け継いだ「想い」の一部がこもっているのではないかと思う。

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