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2005.11.30

「偉大なるシルクロードの遺産」展、の巻

 11月25日(金)
 京都文化博物館で開催中の「偉大なるシルクロードの遺産—中央アジア・オアシス国家の輝き—」展を見る。私など、シルクロードというとつい中国にばかり目がいってしまうのであるが、今回の展覧会は珍しくも、中央アジアのウズベキスタン、タジキスタン両国の文化財が中心である。アレクサンドロス大王の東征、クシャン朝、ソグド人とゾロアスター教、イスラム美術、という4部構成からなっている。アケメネス朝ペルシャ、バクトリア王国など、ふだんはあまり目にすることのできないところの文化財が面白い。バクトリアなんか、「グレコ・バクトリア(ギリシア的バクトリア)」と呼ばれる通り、アレクサンドロスの東征の結果としてできあがった中央アジアのギリシア人国家であり、まさにヘレニズム文化の最たるものである。今回の展覧会、図録がちょっと変わった造りだと思っていたら、印刷はトルコのイスタンブルの印刷会社でやったという。なるほど。
 しかし、せっかくの良い展覧会なのに、会場はあんまり人が入っていない。古巣だけに、ちょっと悲しい。12月4日まで開催しているので、ぜひ皆さん、行ってみてください。


2005.11.27

MIHO MUSEUMに行く、の巻

 山中博士はもう国外逃亡だと思っていたら、まだ日本国内に潜伏していたらしい。脱出の日は今日らしい。しまった! 「鬼のいぬ間の洗濯」を早まってしまったではないか!

 11月23日(水・祝)
 滋賀県甲賀市信楽(ついこの間までは甲賀郡信楽町)にあるMIHO MUSEUMへとでかける。「中国 美の十字路」展が開催されているのである。

 信楽の山奥に、神慈秀明会という宗教団体が巨大な美術館を造った、という話は、かなり以前から耳にしていた。しかし、私は今の今まで敬遠して、行ったことがなかった。別に、新興宗教だから嫌っていたというのではない。むしろ、私は新興宗教には興味津々で、新興宗教の本部を覗きに行くことは秘かな楽しみのひとつですらある(入信はしないけれども)。
 このMIHO MUSEUの先代の館長に、I・Hという男(故人)がいた。このI・H氏、さらに以前には、私の昔の勤務先である(財)京都文化財団(京都文化博物館の経営母体)の実質上の責任者をやっていた人であった。いわば、同博物館の「産みの親」であり、私にとっては元の上司にあたる人物だということになる。もう故人になったので批判は慎まねばならないかもしれないが、私は今でも、博物館のことを何も理解していなかったこの人物を最高権力者に戴かねばねばならなかったことが、京都文化博物館にとっての最大の不幸であったと思っている。ある新聞は開館まもない同博物館を「迷走する巨大飛行機」に喩えて酷評したが、私の見るところ、その責めはひとえにI・H氏が負わねばならないものであったし、その後遺症は現在までもずっと続いてるのである。そのI・H氏が、京都を辞めた後、いつのまにかMIHO MUSEUMに迎えられ、そこの館長におさまっているというのである。私は、それを聞いただけで、この美術館に足を向ける気が失せてしまったのである。
 しかし、今はそのI・H氏もこの世を去った。坊主憎けりゃ袈裟まで、という心持ちでいたが、考えてみると私も、MIHO MUSEUM自体には何の怨みも持っているわけではない。いつまでも妙な意地をはっていても仕方あるまい。ちょっとばかり反省して、MIHO MUSEUMへ出掛けることにしたのである。

 大津から、くねくねとした山道をたどる。どこまで行かねばならないのか、というほどの山奥である。バスは1日に数本が出ているというが、車がないととても行く気にはなれないだろうな(雪に閉ざされる冬季は休館しているという)。やっと到着すると、巨大な駐車場が満杯になっている。あとからあとから、自家用車や観光バスが押し寄せているのが見える。それだけで目を剥いた。駐車場の側には、瀟洒な建物がある。これが美術館か、と思いきや、受付が独立した建物になっているのである。美術館本体は、ここからさらにトンネルをくぐり、谷に架けられた大きな橋を渡った奥にある。無料の電気自動車のサービスがあるので、それを利用させてもらう。
 ともかく、これは瞠目すべき美術館である。第一、金のかけかたが違う。宗教団体とはこんなに金を持っているものなんだな、と驚く。もちろん、美術館を造るのにはただただ金さえかければ良いというものではない。ここでは、無尽蔵(かどうかは知らないが)の金が、「第一級の美術館を造る」という明確な目的に向かって注ぎ込まれているのである。土地(100万平方m!)も、建物も、収蔵品も、それぞれすべて驚嘆すべき完成度を誇っているのである。なるほど、山奥の「桃源郷」を自認するだけのことはある。
 「中国 美の十字路」展も、すばらしい出来映えの展覧会になっている。展示物も、一級文物(中国の国宝)多数を含む超一級品ぞろい。しかも日本初公開のものもたくさん含まれている。シルクロードに焦点をあてたテーマ設定も並のものではない(来年には九州国立博物館に巡回するそうであり、図録の執筆陣に同博物館のI氏が加わっているのも嬉しかった)。とにかく、一見の価値ある美術館であり、展覧会であろう。これからはしばしば足を運ぶことにしよう。(しかし、レストランが一杯で昼食をとりそこねた)。

 その後、滋賀県立陶芸の森に立ち寄って、信楽焼のぐい呑みを買う。そこで、K博物館のK氏夫妻とばったり会ってびっくりびっくり。それから、史跡紫香楽宮跡(甲賀寺跡)に立ち寄ってから、帰洛する。


2005.11.25

日記をとりかえす、の巻

 山中章博士はヴェトナムに逃亡友人のKさんはドイツで優雅な研究生活。それに比べて私だけは・・・、とグチる今日この頃である。とにかく、鬼のいぬ間の洗濯(?)で、日記をとりもどしておこう。

 11月8日(火)
 2講、2回生のゼミは、双ヶ岡古墳群の見学。「古墳」というものを肌で感じさせることにする。夕方、考古学研究室定例研究会では、ビデオ鑑賞。朝日放送が去年放映した、遼の皇帝陵のドキュメンタリーを見る。

 11月11日(金)
 朝日カルチャーセンターに出講。「平清盛と六波羅」の2回目である。

 11月12日(土)
 午前中は大学で「火中の栗」の会議。午後、 京都新聞文化センターに出講。「天皇陵の話」の第1回目として、神武天皇陵を論じる。

 11月13日(日)
 カゼがまだ完治せず、しんどい。午後には日本史研究会60周年記念講演会(於:京都大学時計台記念館)。夜は懇親会だが、ぼーっとしている。

 11月14日(月)
 大学で会議。懸案事項がひとつ片づき、ちょっと一息。

 11月15日(火)
 2回生ゼミでは、平安宮跡の巡見。市街地の中の遺跡を見せる。夜は京都大学の「王権とモニュメント」研究会。五十川伸矢氏(京都橘大学教授)の「京都市山科区安祥寺の梵鐘」と、陝西省文物交流中心から来ておられる韓さんの「唐時代の石灯篭について−日本安祥寺にある蟠竜石柱との比較−」を聞く。

 11月17日(木)
 大学で、入試(「自己推薦入試B方式」)。入試改革の成果があがってきたのか、少しばかりではあるが受験生が増加する。ありがたい。今後の大学改革によって、この「勢い」を確実なものにしていかねば・・・ その後、会議。

 11月19日(土)
 年に一回の、花園大学史学会大会を開催する。回り持ちで、私はこの会長ということになっている。今年で定年退職となられるY教授の記念講演がある。夜は木屋町三条の中華料理店で懇親会。その後、F助教授にひっぱっていかれて、ひさしぶりのカラオケ。

 11月20日(日)
 京都大学の「王権とモニュメント」研究会の成果を公表するシンポジウム「皇太后の山寺—山科安祥寺創建の背景を探る—」に出席する。安祥寺研究がいよいよ大輪の華を咲かせる段階に来たことをつくづく感じる。報告書への論考執筆、きちんと取り組まねば・・・

 11月21日(月)
 教授会。満身創痍。ヘロヘロ。

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2005.11.23

九州国立博物館!の巻

 せっかくの日記だったのに、いろいろと邪魔がはいって、だんだん順番がぐちゃぐちゃになってくる。

 11月6日(日)
 やっと、今回の九州旅行の目的地・九州国立博物館行きである。しかし、すごい人気らしい。同博物館のM氏とI氏が申し訳なさそうにいう。「とにかく開館一番に来てください。それでもだいぶ並ばねばならないと思います・・・」。そこで、9時前には太宰府駅についた。駅にはI氏がわざわざ出迎えてくれる。かたじけない、国立博物館の研究官先生にお出迎えいただいて。歩き始めようとすると、交差点のあちら側で、こっちに向けて大きく手を振っている家族連れが見える。ありゃりゃ。K大学の考古学のM・K教授のご一家と遭遇である。奥様とは久しぶりの出会いだ。可愛らしい小学生のお嬢ちゃんにご挨拶する。

 kyuhaku 開館30分前には博物館の玄関前に着いたのだが、もう長蛇の列ができている。たしかに凄い人出だ。待っている間にも、観光バスがどんどん乗り付けてきて、列は果てしなく延びていく。館内にいるM氏から電話がかかる。「開扉を10分早めることにしました」。やっと入れたと思ったら、玄関前で入場制限。それからエスカレーター前で足止め。さらに会場入口でもしばしの待機である。こんなに人気のある博物館の姿、確かにめったに見れるものではない。

 特別展示は、開館記念特別展『美の国 日本』。とはいっても、これも超満員で、黒山のひとだかりの肩越しにやっと眺めることができる、というものである。展示品は超一級品ばかり。これもめったに見られない目の保養ばかりである。

 この特別展の展示品の中で、特に驚いたのは太田記念美術館蔵の「洛外図屏風(これまでは「京名所図屏風」と呼ばれていた)」が出品されていたことである。この屏風、戦国期の京都(ただし洛外のみ)の景観を知ることができるきわめて重要かつ特異な絵画史料なのであるが、これまではまったく「知る人ぞ知る」といった状態だった。1996年、私が京都文化博物館で「京都・激動の中世」展を担当した時、ぜひこれを展示したいと思った。そこで所有者の美術館に交渉したのであるが、まだ同美術館でもきちんとした検討ができていない資料だからというので、ついにOKしてもらえなかった。そこで、とにかく三拝九拝してお願いして、写真パネルだけの展示(ただし図録には掲載不許可)を実現することができた。おそらく、関西の学界にこの資料を紹介することができた最初の機会だったと思う。しかし、そういうわけなので、鮮明な写真図版が今まで公表されておらず、まさに隔靴掻痒の状態が続いていた。それが今回の九州国立博物館に出品され、図録にも掲載されたから、これからはきちんと検討の対象にすることができる。これで、戦国期の京都研究はまた一歩、大きな前進を示すことであろう。(とはいうものの、私が借りることができなかった資料がこうやって堂々と出品されているのをみると、嬉しい一方で、ちょっとばかり嫉けてしまうな・・・)。

 常設展示も瞠目すべきものである。いや、この博物館では常設展とはいわない。「文化交流展示」と呼ぶそうだ。1「縄文人、海へ」、2「稲づくりから国づくり」、3「遣唐使の時代」、4「アジアの海は日々これ交易」、5「丸くなった地球 近づく西洋」という5つのテーマに基づいた展示がおこなわれている。
 とにかく、これでもかこれでもかというほどに「名品」が並ぶ。たとえば、国宝「蒙古襲来絵詞」が展示室の片隅にひっそりと飾られている、なんてことが他の博物館でありうるだろうか? 「レプリカを使わず、ホンモノで見せる」(ほんの一部だけはやむなくレプリカを使っているところもあったが)というコンセプトが恐ろしいまでに一貫しているのである。確かにこれは、レプリカや映像展示に頼りすぎた最近の博物館業界の傾向に、大きな一石を投じるものであろう。さらに、ワンフロアーとしては、すさまじく広い。3900平方mもあるという。これは、通常の大規模博物館の倍以上の大きさといわねばなるまい。この展示については、同館の宮島新一副館長が刺激的かつ挑発的なメッセージを発信しておられる。

 これはとにかく凄まじいばかりの力業<ちからわざ>である。要するに、この博物館の「文化交流展示」は、5つのテーマは変えずに、しかし出品物は替えながら、永遠に繰り返していくということになるのである。これはつまり、5つの特別展を常に開きつつ、その展示替えを無限に繰り返すというのに等しいことである。博物館業界をちょっとでも知っている者ならば、労力という点でこれがどんな途方もないことであるかが即座に理解できるだろう。この挑戦的な博物館の存在は、今後の博物館界のひとつの「台風の目」になっていくに違いない。この博物館のコンセプトに対して、別の意見を持っていないわけではない。しかし、今はそれを言うべきではないだろう。今はとにかく、この意欲的な試みが船出していくのを寿ぎ、その軌跡をじっくりと見守るべき時なのである。

 入館してから、もう4時間が過ぎている。その間、食事もとらずに展示を見続けた。さすがに疲労困憊である。M氏・I氏らに御礼を言い、再会を約して、博物館を出る。外から見ると、やっぱりデカイ(写真)。脇に移築してある中世墓を眺め、ゆっくりと下に降りていく。

 もうひとつ、ぜひ学生諸君に見せたかったのは、九州歴史資料館である。国立博物館ができるまでの永い間、この資料館が福岡の考古学研究に果たした役割は計り知れない。しかし、国立博物館がオープンしたので、あとわずかでこの資料館は閉館となり、別の町に移されるという。それまでに、一度はウチの学生にこれを見せておきたかった。
 国立博物館とは違い、展示室はひっそりと静まりかえっている。見学者は私たちだけである。なんてことだ。これほど充実した展示であるのに、まったくもったいない限りである。国立博物館の賑わいと比べて、博物館の役割とは何なのか、しばし思いをめぐらす。

 これで日程終了。福岡市内に戻り、みんなで博多ラーメンを食べて、解散である。お疲れ様でした。


2005.11.20

不倫疑惑発覚!?、の巻

 11月20日(日)
 人間、生きていると、まったく思いがけない事態に出くわすものである。

 今日、K大学の日本古代史のY氏に「山田さん、不倫がバレたんですか?」と真顔で聞かれた。いったいなんのことかわからない。キョトンとしていると、「山中さんがそう書いてますよ」と言われた。まさか、いくら私を目のカタキにしている山中博士でも、そんな根も葉もないデマをとばすはずはあるまい。まあ、確かに、私に鉄槌を下す、とか書かれていたな、と思って、家に帰ってから「東アジア宮都研究」をよく見てみて、仰天した! これでは、確かにY氏のいうように読めてしまう! これにはキモが潰れるほど驚いた。さあ大変だ。とにかく、真実を述べるとともに、とんだとばっちりをくらった「YYさん」(山中博士が言及しておられるところの妙齢の女性)に幾重にもお詫びを申し上げねばなるまい。

 11月3日の「文化の日」(なんで文化の日という言葉を博士が毛嫌いするのか、よくわからない。建国記念の日ならばまだ理解できるが・・・)に近江国の史跡ドライブに誘っていただいていたのは事実である。しかし、それはなにも密会ではなく、M市教育委員会のSさんやO市教育委員会のY氏を始め、何人ものグループ(正確な数字は知らない)である。行くつもりで楽しみにしていたのは私も同じなのだが、その2日ほど前から痛風の発作が出始めた。あわてて薬を飲む。前日の晩にはまだ痛んでいたので、Sさんには「もしかしたら行けないかも・・・」という断りのメールを入れる。当日の朝、だいぶ痛みは引いてきたが、まだ片足を引きずる状態である。史跡探訪はほとんどは車の行程だというのではあるが、なかに、大津市の崇福寺跡(これはかなり山を昇る必要がある)など、健脚でないとムリなところが入っている。さらに、明日からは学生を引き連れて九州行きの予定を入れてしまっているから、なんとか無理矢理にでも本日中に痛みを押さえ込まねばならない(痛風の発作は、痛いことは痛いのだが、薬を服用すると数日以内には腫れがひく)。と、いうわけで、ホントに泣く泣く諦めたのである。誘ってくださったSさんやYYさんには、ホントにホントに申し訳ないしだいであった(グループの皆さんには、幾重にも、平身低頭してお詫び申し上げます m(_ _)mゴメンナサイm(_ _)m)。
 そして、湿布を貼った足をいたわりながら、Sさんたちは今どの辺を歩いているのかな?などと想像していたのである。そんな中で新聞を開くと、小山実稚恵さんのコンサートが今日あることがのっていた。私の痛風は、足がネンザしたような感じで痛むのであって、歩くのは大変だが、足を静止させている分にはあまり問題はない。これならコンサートくらいは聴けるだろう、と思い、でかけていった。そうした養生のおかげでなんとか翌日にはなんとか歩くことができるまでに回復し、やや足をひきずりながらでも九州にでかけることができた、という次第なのである。いったい、これのどこが不倫疑惑なんだ!、というわけなのである。

 しかし、デマ話というのは真実よりもはるかに足早だから、今から言い訳してもどうなるものでもないだろう。かといって燎原の火が燃え広がっていくのをそのまま見過ごすこともできないから、真実だけを述べておく次第である(そういえば、チェスタトンの「ブラウン神父もの」の小説の中に、似たような話があったな・・ ブラウン神父が実は極悪の犯罪者だ、という噂話がでて、それが恐るべきスピードで世界をかけめぐっていく。それを、いや、神父はやはり善の化身だ、という打ち消し話が追いかけていくが、いつまでたっても追いつかない、というような話だったと思う)。


2005.11.18

伊都国を歩く、の巻

 11月5日(土)
 朝、夜行バスの学生連中が合流する。これで総勢10人が揃う。賑やかなことである。まずは弥生の「伊都国」にGO!、ということで、前原市の遺跡を訪ねることにする。
 天神から地下鉄→JR(相互乗り入れ)に乗り、周船寺という小さな駅で降りる。ここに、丸隈山古墳があるはずだ。痛風の後の足が痛むのだが、そうも言っていられない。駅から歩いて15分くらいの尾根の上に、古墳がある。5世紀前半というわが国最初期の段階に属する横穴式石室があるので、ぜひ見てみたかった。墳丘は半壊だが、充分に満足。

 周船寺駅に戻り、そこからタクシーに分乗して伊都国歴史博物館へ行く。以前の「伊都国歴史資料館」の時には来たことがあったのだが、大々的に増築して博物館になってからは始めての訪問である。館の背面には、前原の考古学者=故・原田大六氏の銅像が立っている。私は中学生の時に原田氏の著書「実在した神話」を読んで、身体がしびれるような感動を味わった。氏が大阪市立博物館で講演をやるというので、わざわざ出かけていった。その時に採った録音テープがまだ手元にあるが、これは私の宝物のひとつである。銅像を眺めながら、学生諸君に対して「原田大六論」を一席ぶつ。

 博物館の受付では、私の大学時代の後輩でもある、地元の教育委員会のO氏が出迎えてくれる。ありがたや。丁寧に、伊都国の考古学的調査の現状を解説してくれる。ここ10年ほどの調査のめざましい進展がよくわかった。特に、伊都国の「王都」である三雲・井原遺跡群の様相が続々と解明されてきたことを知ることができる。博物館の展示室では、平原の「王墓」の絢爛たる遺物(その中心はもちろん、日本最多の約40面の銅鏡と、そこに含まれる日本最大・直径46cmの「お化け」鏡〈しかも5枚が出土!〉)に再開し、興奮する。
 さて、そこから、伊都国の遺跡巡りをしたいと思う。どうしようかと思っていると、O氏が付き合ってくれるという。三雲遺跡群の発掘現場にまず案内いただき、次は三雲南小路の「王墓」(最近、公園化されて綺麗になった)、曽根遺跡群の古墳群、そして平原「王墓」にいたる。どれくらいの距離がわからないが、かなり歩かせてもらった。おかげで、車で通りすぎたのではわからない、地形の細かな形状が身体に叩き込まれる。くたびれたのは確かだが、これほど良い勉強はあるまい。学生諸君も同感だったと思う。それにしても、最後まで案内いただいたOさんに、心の底から、感謝。

 博多に戻って、旅館にはいる。地下鉄駅からも近い。大学院生のKさんが見つけてきた、一泊朝食付きで4000円という超格安旅館である。私もふだんであればビジネスホテルですませてしまうから、こういう旅館は物珍しい。学生諸君と一緒なら、こういうところで良いな、と実感。
 夜は近くの飲み屋で宴会モード突入である。実はたくらみがあって、明日行く九州国立博物館の研究官のM氏とI氏を呼び出している。M氏は私の大学時代の後輩、I氏はわが花園大学考古学研究室の卒業生である。博物館では国際シンポジウムがあったとかで忙しい中にもかかわらず、私たちのためにわざわざ駆けつけてくれたのがありがたい。
 このI氏、私が花園大学に着任して始めて教え、卒論を読んだ学生である。とはいっても、その時には彼はもうきちんと自分の行く道を持っており、私が「指導」することは何もなかった。彼は卒業後にはSK大学の大学院に進み、そこで修士をとってから中国に留学した。帰国後、某市教育委員会の嘱託を半年ほど勤めた後、九州国立博物館(その当時は設立準備室)の研究官として着任したのである。彼が九州国立博物館に職を得たことは、私にとってもこの上ない喜びであり、また誇りであった。
 M氏・I氏を囲んで、ウチの学生諸君とともに、時間の許す限り、じっくりと呑むことができた。第一線で活躍している先輩の姿に接することができ、学生諸君も必ずや励みになったことだと思う。両氏に感謝・感謝である。
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2005.11.17

福岡・志賀島を訪ねる、の巻

 長らくブログを休んだ。山田はもう死んだのかと思っている人も多かったらしい。そこまではいかなくても、顔をあわせるあちこちで「痛風は? カゼは?」と心配していただいた。それは大したことはないのだが、要するに怠け病である。何をする気にもならない。ただただひたすらパソコン画面を見つめるだけ、という妙な時間が続いた。
 気を取り直して。

 11月4日(金)
 この日から3日間、わが研究室の学生諸君を連れて、福岡旅行である。私と大学院生のKさんは、一足先に新幹線で出かける。学部生たちはその日の夜行バスの方が安いので、そちらにする。
 福岡に昼頃につく。この日はポッカリと空いているから、どこに要っても良い。しばらく考えて、よし、志賀島に渡ろう、ということにする。
 志賀島といえば、いうまでもなく「漢委奴国王」の金印の出土地である。福岡はしばしば来ているが、さすがにここまでは足をのばしてはいなかった。こんな機会でもないと、今度はいつ行けるかわからないからな。
 船の時間を調べて、博多の港に出る。博多湾横断の小さな船旅である。海のない町に育った私は、海が大好きである。潮風がモロに顔に吹き付けるが、それが気持ちよい。30分ほどで、志賀島の港に着く。
 sikanosima うまいぐあいにバス(1時間に一本)が来たので、乗り込む。まずはとにかく、金印公園(写真)へ行かねばなるまい。金印の出土地ははっきりとは解っていないが、だいたいこのあたりだろう、というところに公園が作られている。ただ、行ったところでは山が迫っていて、とても金印出土地とは思えない。おそらく真の出土地は、ここからまだ西へ行った海岸沿いなのだろう。公園の前の路上では、海女(?)のおばさんが二人、サザエを売っている。志賀島の玄界灘側で採れたものだという。お土産にするわけにもいかないので、8個ほどを選んで、七輪で焼いてもらう。潮の香りがして、めっぽう旨い。こういう贅沢ならば、山中博士に誹られることもあるまい。

 次に、「蒙古塚」へ向かう。中世からのものかと思っていたら、最近造られたものだという。ところが、塚へ向かう階段がロープで閉鎖されており、「立ち入り禁止」という札が下がっている。ええい、かまうものか。京都からはるばる来たんだから、と勝手な理屈を付けて、ロープをくぐりぬけ、階段を上がる。頂上まで行って、立ち入り禁止の訳がわかった。高さ2メートルほどの堂々たる石碑が、無惨にひっくり返っている。そうか! 今年の3月の福岡地震の傷痕なんだ! 志賀島の被害はあまり京都まで伝わってはこなかったが、かなりのものだったらしい。tourou志賀島神社では、鎌倉時代の石塔(写真)が崩壊したまま放置されている。同神社の神職の方に話しかけると、神社の社務所なども地震で「動いた」という。よく見ると、確かに建物がズレている。恐ろしや。

 どういうわけか私は、こんな島に来ると「先っちょ」に行ってみたくなる。またバスを待って、とにかく島の北端までたどりつく。先端の小島には、宗像大社が祭られている。やはり海上交通に重要な役割を果たした島なんだ、ということを実感する。驚いたことに、その「先っちょ」に小さな古墳がある。中津宮古墳という。明らかに、この島を拠点にした海人の元締めの墓である。やっぱり、足を運んでみると思いがけない収穫を得ることができるもんだね。

 夕方、福岡市内に戻る。夕食はどこにしようか、ということで、天神駅附近をブラブラ。春夏秋冬宴紀行・弁天という奇妙な店を見つけたので、入ってみる。確かに変な店だ。Kさんを相手に、しこたま呑む。
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2005.11.10

ノドが痛い、の巻

 11月9日(水)
 ノドが痛く、頭が重い。どうやら、山中章博士からカゼをうつされたようだ。仕方ないので、しばらく布団にもぐりこみ、ウトウトする。しかし、博士にはこの2ヶ月ほど会っていないというのに、それでもカゼをうつされてしまうというのは、一体全体どういうことだろう? 博士の念力のパワー、まさに恐るべしである。それとも、三重大学の考古学研究室には「呪いの人形」がずらりと並んでいるのだろうか?

 しかし、
 >山田博士は、一日通風でうなっただけで、
 >それも大したことなかったみたいで、
 >コンサートに出かけて
 >(きっとそのかえりにまたまたフレンチなんぞをくったにちがいないのだ!!
これはかなり事実と反している。痛風は1日ではおさまらずに延々と長引き、ウチの奥さんに不摂生を怒られることしきり。前門のオオカミ(山中博士)、後門のトラ(ウチの奥様)とでもいうべき状況で、私はもはや立つ瀬がありません。コンサートに出かけたことは事実だが、やっぱり足が痛むので、おとなしく家に帰って奥様の質素な手料理を食べました。ダウンされたせいか、山中博士ご自慢の世界的なスパイ網にも翳りが見え始めたのかもしれない。


2005.11.07

小山実稚恵さんのピアノ、の巻

 11月3日(水・祝)
 M市教育委員会のSさんに、近江国の史跡見学に誘ってもらっていた。行くつもりだったのだが、まだ足が痛むので、泣く泣くキャンセル。残念である。

 ポッカリと時間が空いたので、歩かなくても済むところにでかけよう。京都コンサートホールで、日本を代表するピアニストのひとり・小山実稚恵さん「20周年記念演奏会」があるので、行くことにする。幸い、当日券をゲットすることができた。
 ショパン:ピアノ協奏曲第1番 
 スクリャービン:ピアノ協奏曲
 チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番
という豪華プログラムである。管弦楽は広上淳一さん指揮の京都市交響楽団。
 さて、にこやかに小山さんが登場し、さっそく演奏が始まる。それにしても、この優しそうなひとのどこに、こんなパワーが秘められているのだろうか? 恐るべき力強い演奏である。難所といわれるパッセージも軽々と弾いてしまうのには驚嘆する。演奏にもっと「汗」が欲しい、ということはあるのだが、それはムリな無い物ねだりだといわなければなるまい。だいたい、三つの大曲を続けて演奏することができること自体、私には人間技とは思えない。ただ、広上さんの指揮は、老練ではあるけれどもややビジネスライクに見えてしまった。そういうことはあるけれども、充分に満足できた演奏である(今日は、楽章の途中で拍手やブラボーをするというバカな客もいなかった。良かった〜)。会場の割れんばかりの拍手を受けて、何度もカーテン・コール。小山さんの可愛らしい笑みが印象的だった。
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足が痛む、の巻

 10月31日(月) 大学で会議がいっぱい。夜には私の自宅で「平安京・京都研究集会」の世話人会を開く。それから、また足が痛み始める。明らかに、持病の痛風が出たのである。イヤだな。それは仕方ないのだが、山中章博士のせいで、私の持病のことが全世界に発信され、ついには私が倒れて再起不能になった、というところまで話が拡大している。こういうことを見ると、「文献史料」というものの限界を感じてしまう。たとえば、平安時代を論じる場合、最重要な史料は貴族の日記である。しかしそこには必ず、筆者の誤解や誤情報、誇張や偏見などが含まれているはずである。いっぱい史料があって相互に検証できる場合は良いが、たった一つの史料だけで歴史を構成しなければならないことも多い。早い話が、1000年後、私の日記ブログは消え去っているが、山中博士のブログだけが残されたという場合を考えてみると、後世の人々は、山田というのはどうしようもないハチャメチャな奴だという評価を下すに違いない。しかし、事実はまったく逆だということは、私のブログを読んでくれている方は誰でも御存じのハズだ。「史料」の怖さを思い知らされる。

 11月1日(火) 百万遍の古本祭に行く。私自身は、あんまり収穫はなし。むしろ、ウチの奥さんがいろいろと買い込んでいる。
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長岡宮の大発見、の巻

 どんどん日記が遅れるぞ。しかし、考えてみたら、別に日記である必要はないのかもしれない。これからは、必ずしも時間軸に沿っては書けないかも・・・

 10月30日(日)
 長岡宮朝堂院南門西側の発掘調査の現地説明会にでかける。平安宮でいうと「会昌門」に相当する建物である。朝堂院南門の両脇に「翼廊」が延び、その先端に「楼閣」が附属することがわかったという、まさに長岡京研究史上(いや、古代都城研究史上)での画期的な発見があった。こうした建物は、これまでは平安宮の応天門にのみ存在が知られていた(とはいっても絵図史料の上でだけであり、考古学的には確認されていない)ものである。それが長岡宮に存在したことがわかったのである。素晴らしい!
 山中章博士からは早速電話がかかってくる。勝ち誇ったような声が弾んでいる。「どうです! やっぱりこうした画期的な施設は長岡宮で発明されたのですよ! 悔しいでしょう、平安宮が初現ではなくて」。明らかに私を挑発しようとしているのであるが、残念でした、その手には乗りませんよ。私は「朝堂院南門の翼廊+楼閣」が平安宮で始めて発明された、などと主張するつもりはない。これまで言ってきたことも、あくまで「現段階の知見に基づく限りでは」ということにすぎない。長岡宮でこれが初現するということがわかったことは、慶賀のいたりだと思っている。
 ただ、この発見によって、これまでの長岡京復元図には大幅な修正が要求されることになる。さて、どんな案にするべきなのか。これからじっくりと議論を重ねねばなるまい。

 しかし、私の立場からするならば、翼楼+楼閣という都城の荘厳装置を全面的に展開したのが平安宮であることは言っても良いと思う。平安宮では、応天門の左右だけではなく、大極殿の左右にも、また豊楽殿の左右にもそれぞれ楼閣が配されているからである。こうした設計思想には、やはり唐の長安城の大明宮含元殿からの影響を認めるべきであろう。つまり、大明宮→長岡宮朝堂院南門→平安宮の諸施設、というように拡大してきたのである。長岡と平安が血のつながったキョウダイだということが証明されたものだと思っている。

 現地説明会で詳しい説明を聞く。遺構は重要きわまりないが、その残存状態自体はあまり良くない。おそらく、ボーッと掘っていただけならば、多分何が何やらわからないままに見過ごしてしまうであろう。僅かな証拠も見逃さない観察力と、それを総合してひとつにまとめあげる解釈力が、こうした遺跡ほど求められることはない。凄い成果を挙げられた、向日市の研究者諸氏の努力に敬意をささげたいと思う。
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