« 2005年11月 | トップページ | 2006年1月 »

2005.12.31

今年もあと1時間、の巻

 12月31日(土)
 今年の成果。
 ●外池昇編、外池昇・西田孝司・山田邦和執筆『文久山陵図』(新人物往来社)
 ◎山田邦和「院政王権都市嵯峨の成立と展開」(吉井敏幸・百瀬正恒編『中世の都市と寺院』所収、高志書院)
 ◎山田邦和「中世都市嵯峨の変遷」(平成14〜16年度科学研究費補助金 基盤研究〈A〉〈1〉研究成果報告書『平安京—京都の都市図・都市構造に関する比較統合研究とデジタルデータベースの構築』所収)
 ◎山田邦和「『福原京』の都市構造」(『古代文化』第57巻第4号掲載、古代学協会)
 ◎山田邦和「福原遷都の混迷と挫折」(『古代文化』第57巻第9号掲載、古代学協会)
 ○五島邦治監修、風俗博物館編『源氏物語と京都 六條院へ出かけよう』(宗教文化研究所)への分担執筆「第3部 平安京を歩く」
 ◎山田邦和「平安の京と都〜平安京」(『季刊考古学』第93号「『平安考古学』を考える」掲載、雄山閣)
 その他、短文がいくつか。

 決して多大な成果を挙げたとはいえないけれども、一応はきちんとした論文を数本と、分担執筆ではあるが書物を出すことはできた。満足はできないにしても、多忙の中ではこれが精一杯であった。来年はぜひ、胸を張って皆さんに報告できるような研究成果を出さなければ、と思う。

 それでは皆様、どうぞ良いお年を・・・・

--------------------------------------------------------------

あわただしく、年末、の巻

 1985年も残すところあと数時間。年が変わったといっても生活までも変わるわけではないのだが、まあこれはこれでひとつの区切り、お約束である。と、いうことで、年末恒例のベートーヴェンの交響曲第9番(今日は、ダヴィッド・ジンマン指揮チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団の盤。野心的で刺激的な演奏だ)を聞きながら、年末の日記を記すことしよう。
----------------------------------------------------------------
 12月22日(木)
 今年の講義の最終日。朝めざめてみれば、大雪である。これは大学も休みかな?と思ったが、そういう規程はないそうで、しぶしぶ出かける。ズルをしてタクシーで行こう、と考えたのであるが、みんな考えることは同じらしく、まったくタクシーが捕まらない。しかたないので、ゆっくりゆっくり走るバスに乗り込み、なんとか開講時間にまにあう。
 夜は「平安京・京都研究集会」の準備会で、KF大学のU教授の研究室へおじゃまする。とはいうものの、KF大学のあたりの路面はガリガリに凍結。滑らないように、コワゴワ歩く。滋賀県に住んでいるKさんなんかは、道路が渋滞につぐ渋滞で、結局は涙を呑んで欠席である。まあ、今日は顔合わせということで、やむをえない。
-------------------------------------------------------
 12月23日(金・祝)・25日(日)
 kyotoeki2 旧友のTさんと会う約束をしていたのだが、この人の居住地もまた雪で閉ざされてしまい、京都にでてくることができない。残念。しかたないので、25日に延期。やっと会えて、久しぶりにゆっくりと語らう。京都駅の大階段に、巨大なクリスマス・ツリーが美しく輝いているのを見上げる(写真)。
-------------------------------------------------------
 12月26日(月)
 26・27日は連続で、同志社大学の「シルクロード」の講義の担当の日である。同志社大学京田辺キャンパスに行く。このキャンパス、ほとんど一年ぶりである。わずかな間だったにもかかわらずまるで浦島太郎状態。新しい建物がいっぱい出来ているのに目を奪われる。講義の後、同志社大学歴史資料館で休憩。さらに、新設の文化情報学部のS助教授の研究室を訪ねる。なにもかもピカピカで、羨ましい限りである。
 夜は、京都大学の高橋康夫先生の研究室で研究会。今年度から新しく、「巨椋池<おぐらいけ>歴史調査会」というプロジェクトが立ち上がることになり、そのメンバーに加えていただいたのである。巨椋池は京都盆地の中央部にかつて存在した巨大な湖。京都の歴史を語るのには必須のものである。文献史学・考古学・歴史地理学など、いろんな分野の研究者、しかも気心の知れた方々が集まっている。きっと、気持ちの良い共同研究になるだろうという期待でワクワクである。
---------------------------------------------------------
 12月27日(火)
 同志社大学京田辺キャンパスでの講義の後、京都市内某所に向かう。Hホテルが新たに京都に進出することになり、その開設準備が進められている。ところが、このHホテルの場所、平安時代の歴史を考える上での最重要な遺跡の土地なのである。同ホテルの総支配人のY氏がそのことに着目し、歴史的環境を充分に生かしたホテルづくりをやっていきたい、ついては相談に乗って欲しい、とおっしゃる。これは当方にしても願ったりかなったりのお話である。Y総支配人に、じっくりとその場所の歴史的意義を聞いていただき、今後どのようなプランが考えられるか、お互いに検討しようということになる。
 夜はウチの研究室(花園大学考古学研究室)の忘年会。みんな、一年間ご苦労様。4回生は卒論提出までラストスパート。がんばってよ。1次会のあとは、院生のKさんと飲みに行き、けっきょくはグデングデンになる。帰宅すると、ウチの奥さんにしっかりと怒られてしまった。
--------------------------------------------------------
 12月28日(水)
 楽しみにしていた「10年会」の飲み会がある。かの山中章博士、DJ大学のO先生、M市教育委員会のSさん、O先生の教え子で鍼灸師のAさん、そして私というメンバーである。ちょうど10歳づつ年齢が離れているから、というので「10年会」という名前がついた。
 今日は、O先生行きつけの鮨・割烹の「しきぶ」である。私の通っていた中学校のすぐそばなのだが、こんなステキな店があるなんて知らなかった。本日のメニューは鍋。しかし、鮨店だけあって、こんなネタで鍋をしてよいのだろうか、というほど贅沢な内容である。東京のK先生・N先生ご夫妻(御主人は古代史の学者、奥様は超有名な作家)からO先生がいただかれた銘酒のお相伴にもあずかる。いつもは毒舌の山中博士も、今日ばかりはご満悦である。Aさんの晴れやかな笑顔に久しぶりに出会えたことも、ホントにホントに嬉しい。
--------------------------------------------------------
 12月30日(金)
 連日の不摂生が祟ったのか、ノドが痛い。明らかにカゼである。ほとんど1日寝込んで、なんとか元気回復。

 ウチの奥さんがクリスマスプレゼントだと言って、スカイパーフェクTVの「クラシカ・ジャパン」を契約してくれた。日本唯一のクラシック音楽専門チャンネルである。感謝感激。さっそく番組表を見ると、年末年始にかけて見たい・録りたい番組が目白押しである。特に、マーラーの交響曲全集と、ベートーヴェン交響曲全集(しかも3種類も!)をやるという。録画に大忙しの年末となる。マーラーはレナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィル他。ベートーヴェンはバーンスタイン指揮ウィーン・フィル、クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィル、オットー・クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団。クレンペラーのベートーヴェン全集の映像なんて、珍品中の珍品である。
 それから、スカイパーフェクTVの「tbsチャンネル」で、昨年見逃した中島みゆきさんのライヴの特番が再放送される。とってもとっても嬉しい。
--------------------------------------------------------
 12月31日(土)
 nisiki いよいよ年末。でも、家の中が片づかない。まったく、この怠け癖はしょうがないな。
 お正月の買い物にでかける。出町でいくつか買った後、「京の台所」の錦市場へ。さすがは錦、押すなへすなの大混雑である(写真)。人混みに揉まれながら、京の歳末を味わう。錦の入口にある海産物屋さんで、牡蠣を焼いてその場で食べさせてくれるところがある。いかにも美味しそうだったので、列に並ぶ。ちょうど、私とウチの奥さんのところで売り切れになる。滑り込みセーフ、というところで、これはもしかすると幸先が良いのかもしれない。来年は、ぜひ良い年にしたいものである。

2005.12.24

まだ見ぬ遼に思いを馳せる、の巻

 12月20日(火)
 京都大学の「王権とモニュメント」研究会がある。3年間続いたこの研究会も、そろそろキリをつけて報告書作成にとりかからねばならない、とのこと。これまで色々な勉強をさせてもらってきただけに、ちょっとさみしいな・・・ それに、また「原稿締切」の恐怖に怯えねばならない。
 今日は、古松崇志氏(京都大学人文科学研究所助手)の「慶州城白塔について−塔刹副納品を中心に−」の報告を聞く。慶州城は契丹=遼の皇帝陵である慶陵に附属して造られた都市(城塞)である。そこに建てられた「白塔」の相輪の下から大量の文化財が発見され、不明なところが多い契丹=遼帝国の歴史に光が当てられるところが大きいのだという。感嘆する。

 この研究会、いつも真面目そのものであることが特徴である。ところが、今日に限って、メンバーのY・H氏(韓国考古学)が「ささやかですが忘年会をやりましょう」と言ってくれる。もちろん私に異存はない。結局、報告者の古松氏と、Y・H氏と、美術史のN氏と、日本古代史のY・S氏と、そして私とで飲みに行くことになる。古松さんには、遼の文化の素晴らしさを教えていただいたことに感謝する。前にも書いたことがあるが、遼の遺跡、私もぜひ行ってみたいものである。皇帝陵とそれに附属する都市ということでは、私のやっている日本の天皇陵や都市史研究にも示唆するところが大きいはずである。そういえば、山中章博士に「遼の遺跡? ボクは行きましたよ」と自慢されて、口惜しさに地団駄を踏んだ覚えもある。これは近い将来、ぜひとも行かねばなるまい。

 帰りのタクシーはY・S氏とご一緒させてもらう。この人と話をすると、いつも元気づけてもらえる。心が安まる。昨日のモヤモヤが、ちょっとばかり晴れたような感じである。ありがたいことである。

--------------------------------------------------------------

虚無とカラオケ、の巻

 12月19日(月)
 本年最後の教授会。どんどん気分が虚無的になる。自分の主張を他人に理解してもらうことがこれほど難しいとは・・・・ 我ながら、投げやりなのがわかる。落ちこんだ気分のまま帰宅。ウチの奥さんに愚痴る。じゃあ一杯やろう、ということで、家からそう遠くないところにある雑食いちご屋という不思議な店に入る。コース料理を頼むと、わりあい面白いものがでてくる。一足早いクリスマスだね、と語り合う。食後、ウチの奥様が「カラオケに行きたい」と言う。水曜日に職場の忘年会でカラオケに行くので、練習をしたいのだとのことである。あんまり、夫婦でカラオケに行くということはないのであるが、今日はなにせ気分を変えたいので、お供することにする。とはいえ、ノドの調子が悪く、あんまり歌えない。ひたすら聞き役に回る。奥様は絶好調で、充分に満足された、らしい。

2005.12.23

福原京、今年の打ち止め、の巻

 12月18日(日)
 2日連続で兵庫県行きである。今日は、西宮市の大手前大学史学研究所。同研究所の研究プロジェクト「兵庫津の総合的研究」の2005年度第3回「兵庫津学習会」で、「福原京の都市的検討」の報告をさせてもらうことになる。今年はいろんなところで福原京の話をしたが、これでほぼ打ち止めだろうな。瀟洒な研究所では、担当のF氏、所長のA教授、考古学のH教授にご挨拶。報告会ではもうお一方、須藤宏氏(神戸市教育委員会)の「和田京域の比定」をきくことができる。須藤氏は福原京推定地の各所の発掘調査を担当されている方である。和田京の推定については私と意見の食い違いがあるものの、シンポジウムでは藤田明良氏(天理大学)の司会のもと、楽しく議論することができる。

-----------------------------------------------------------


明石のタコと須恵器、の巻

 12月17日(土)
 講演のため、兵庫県明石市にでむく。明石についたら早速、昼御飯として玉子焼を食べる。やはり、明石に来ると玉子焼(明石焼というのは明石以外での俗称、らしい)でなければ。口の中でとろける風味がなんともいえない。

 あかし学実行委員会主催の平成17年度「あかし楽講座」『古代あかしの物語 』の1コマとして、『高丘古窯址群と明石の焼きもの』を話すことになる。会場は明石駅前の「アスピア明石」という新しい建物の中にある明石生涯学習センターである。最近は講演のお座敷がかかるのは京都の都市史関係のテーマばかりで、須恵器をテーマにするものは久しぶりである。
 播磨の須恵器生産を集中的に勉強したのは、かなり前のことになる。大学院を出てすぐの時に、明石市教育委員会が調査した「鴨谷池遺跡(須恵器窯址とその関連遺跡)」の遺物整理・報告書作成をやったし、同志社大学考古学研究室がおこなった明石地域の遺跡分布調査でも、須恵器窯のある場所を歩きまわった。さらに、播磨は装飾付須恵器の密集地であるから、その面でもかなりの資料を見せていただいた。
 高丘窯址群は播磨東部を代表する須恵器生産地であるが、この話だけで2時間を持たせるのはいささかしんどい。結局、「播磨の須恵器生産」とでもいえる内容になる。聴衆のみなさんは一般の市民の方々であるが、常連さんも多いらしく、みんな、真剣に聞いていただく。

 講演の後、明石市立文化博物館へ行く。今回の講演を紹介してくれた同博物館のYさん(大学の先輩)にご挨拶し、しばし話し込む。それから、博物館の企画展「発掘された明石の歴史展〜直良信夫と明石〜」を見学する。直良信夫は、いうまでもなく、いわゆる「明石原人」の発見者である。直良の苦闘の生涯に思いを馳せ、彼の精緻きわまりないスケッチの数々に驚嘆する。

 明石の中心・魚の棚(うおんたな)商店街をぶらつく。その名の通り、魚屋さんが軒を連ねている。しかし、やはり魚の町・明石である。活きが良いという言葉ではまったく足りない。カワハギはピチピチと撥ねているし、タコはトロ箱から逃げ出して道路をうろつき回る。それを無造作にカギで引っかけて箱に戻すのは、なんともタコにはお気の毒な限りである。アンコウ鍋は好きだが、ここでのアンコウは一匹丸ごとが売っている。たとえ買って帰っても、ウチの奥さんではきっと捌くことができないだろうな。さらに、アカエイが売られているのには驚嘆した。酒のつまみのエイのヒレは好きだが、アカエイの身なんてどうやって食べるのか、まったくわからない。さすがは明石である。いろいろ考えた末、サザエとイイダコを甘辛く炊いたものを詰めてもらい、お土産にする。

 京都に帰ったのは19時頃。日本史研究会の委員会に出向く。日本史研究会の委員会、いつもはケンケンガクガクで21時頃までやっているのに、今日に限ってはもう終わっていた。代表委員のT先生に「せっかく来てもらったのに、今終わったところだよ」と笑われる。結局「じゃあ飲みに行こうか」、ということになり、T先生とR大学のO氏と共に近くの酒場へ。酒杯を傾けながら、日本史研究会の未来について語り合う。

2005.12.20

日本とモンテ=ネグロ、の巻

 私は、ワケのわからん話が大好きである。特に、どういうわけか地理にかかわるトリヴィア・ネタに興味津々で、そうした話を見つけると思わず見入ってしまう。昨日も、こんな抱腹絶倒の話にでくわしたので、どうぞ。ただし、これを知ってたとしても何の役にも立ちません。

 問:日本はなぜ島国になったのか?
 答:1904年に日本はモンテ=ネグロ王国(ツルナ=ゴーラ王国)と戦争をやった。その結果として(?!)、日本は島国になった。

 補注:1904年に日本とモンテ=ネグロとが戦争状態にはいったというのは事実だそうである(!)。こんなこと、世界史の教科書にはでてこなかったので、全然知らなかった。さらに、1905年にこの戦争(さあ、何という戦争だ?)が終わって講和条約を結ぶことになったのだが、うっかりしていて(!?)モンテ=ネグロの代表団を講和会議に呼ぶのを忘れており(!!)、その結果、日本とモンテ=ネグロとの間にはついに平和条約が結ばれなかった。したがって、日本とモンテ=ネグロは今も(!!!)まだ法的には戦争状態にあるのだ、というのである(これにはびっくりびっくり)。

これはいったいなんのこっちゃ?、という方は、ここを御覧ください。

 ちなみに、モンテ=ネグロはもとのユーゴ=スラヴィア連邦(註)の1国で、1992年に連邦が崩壊した後にはセルビアと共に連邦を再建し、さらに2003年に「セルビア・モンテ=ネグロ」に改名した、そうである。

註:ユーゴ=スラヴィア、日本人にはこれを「ユーゴス・ラヴィア」のように発音する人がいますが、間違いです。これは「南(ユーゴ)スラヴ族の国(スラヴィア)」の意味です。まあ、もともとのユーゴ=スラヴィア連邦が消滅してしまった今となっては、ほとんどどうでも良い知識ですが・・・

2005.12.17

ちょっと早いクリスマス、の巻

 12月16日(金)
 朝から家に籠もる。とにかく早く仕上げねばならない仕事が山積み。ため息をついていても仕方ない。ひとつづつ片づけていかねばどうにもならない、というのは、永遠の真理である。なんとか、一番急いでいるひとつの仕事を形にし、メールで送る。ちょっと一息。

 と、いうことで、中休みをとる(次の仕事にとりかかれば良いのに、それをしないのが私である)。街はもうクリスマス気分なのに、わが家だけはそんな気配はまったくない。これでは我ながらあまりにかわいそうなので、ウチの奥さんと一緒に京都フィルハーモニー室内合奏団の「2005 クリスマスコンサート」に出かける。今回のゲストは、超有名なヴァイオリニスト・千住真理子さんである。これは聞き逃せない。クリスマス・コンサートというだけあって、肩のこらない綺麗な曲目が並ぶ。大交響曲も良いが、こんな小品集もタマには良いものだ。千住さんも、朱色とオレンジ色の艶やかな衣装で登場である。
 聞き物は、千住さんのソロでバッハの「ヴァイオリン協奏曲第1番」。私の好きな曲のひとつである。千住さんの最新録音もこのバッハの協奏曲集だというから、悪いはずがない。(そういえば、人気絶頂のヴァイオリニスト・諏訪内晶子さんの最新録音もバッハのヴァイオリン協奏曲だった。最近は女性ヴァイオリニストの間でバッハが流行りなのか? それとも、もしかして千住さんと諏訪内さん、対抗しているのか?〈すみませんm(_ _)m。下司の勘ぐりという奴です〉)。細やかで、しかもロマンティックな演奏を楽しむ。さらに、超絶的な技巧を要するサラサーテの「スパニッシュ・ダンス」を千住さん、目にもとまらぬ早さで駆け抜けてくれた。爽快。アンコールを2曲もサーヴィスしてくれたのも嬉しい。

 演奏が終わってからは、京都コンサートホール内のレストランでディナー。せっかくのクリスマス(まだちょっと早いが・・・)なんだから、ということで、思い切ってちょっと贅沢なコースにすることにした。ウチの奥さんとロゼワインで乾杯。料理も結構でした。最近はどうもイヤなことばかりあってスランプ状態だったのだが、今晩だけは生命の洗濯をすることができた。ありがたや。

2005.12.12

伊勢国潜行、の巻

 日本古代の製鉄史研究の第一人者として知られた、広島大学名誉教授(考古学)・川越哲志氏が急逝されたそうです。謹んでお悔やみ申し上げます。

 12月11日(日)
 ウチの考古学研究室の見学旅行にでかける。ホントは、丹後の遺跡をまわる予定だった。ただ、最近の天候を見てみると、丹後には雪が降る可能性がある。わが大学のマイクロバスだと、もしも雪が積もっていたり、道路が凍結したりすると、たちまち立ち往生することになる。残念ながら、丹後行きは延期。その代わりの場所をどこか考えろ、と学生に命じたら、伊勢・斎宮に行きたい、と言い出した。と、いうことで、山中博士のスパイ網を出し抜く形になるが、いきなり伊勢国である。

 8時半、大学を出発。近江国垂水頓宮跡にたちよる。冷たい雨が降り出す。さらに、国道1号線から鈴鹿峠を越える。幸い、雨も止み始めた。関で休憩をした後、昼前に斎宮に到着。遺跡を歩く。遺跡の一角に建ついつきのみや歴史体験館でしばし遊ぶ。それから、お目当ての斎宮歴史博物館。こここには友人の研究者も多いのだが、残念ながら今日は休日で誰もいない。その分、展示をゆっくりと見る。学生諸君は、土器復元ゲームや土器編年ゲームに興じる。土器復元ゲームは、模造土器のパズルを時間内に組み立てることができたら「あなたは考古学者です!」と言ってもらえる。ためしにやってみると、どれがどこにはいるのかわからなくなり、あえなく玉砕した。とてもこれでは考古学者にはなれない、らしい。

takarazuka 松阪市にはいり、今年の春に開園したばかりの宝塚古墳公園へ。見事な舟形埴輪が出土したことで知られる古墳であるが、私は今回が初めてである。伊勢国随一の巨大前方後円墳(宝塚1号墳)が美しく整備され、造り出しの埴輪群(写真)も復元されている。墳頂に登ると伊勢湾が望め、いささか感動ものである。勉強不足で知らなかったのだが、隣には2号墳という巨大な古墳がある。帆立貝形の前方後円墳だが、造りだし付きの円墳と見ることもできよう。そうなると、円部の径は約85m。これは、円墳とするならば日本でも最大規模のうちにはいるものである。その後、松阪市文化財センターに立ち寄って宝塚古墳出土埴輪の実物を見学。充実した1日だったが、やはり1日では不足である。今度は数日を掛けて伊勢国に殴り込みをかけ、山中博士の寝込みを襲う計画を立てようと思う。

2005.12.10

天皇陵改造について話す、の巻

12月10日(土)
 京都新聞文化センターの講座がある。「天皇陵の話」として3回話すことになっていて、その2回目なのである。何を話そうか、と直前まで迷っていて、結局「江戸時代の天皇陵改造」にテーマを決める。先々週の北花内三歳山古墳(北花内大塚古墳改め。宮内庁治定の飯豊天皇埴口丘陵)の「限定公開」のこともあったし、ちょうど良かろう。「文久の修陵」を中心として、結構詳しく話す。

hotel 今週は、大学でいろいろとゴタゴタがあった。思い出したくもないことばかりなのであるが、払いのけようとしてもどうしても頭の中にあれこれのイヤなことが浮かんでしまう。そんなこんなしているうちに、だんだん気分が滅入ってくる。ガックリ崩れ落ちてへたばりそうな予感がする。これはヤバイ。気分転換に、あてもなく街を歩きながら、ネオンの光を浴びる。外はもうクリスマス気分である(写真は京都ホテルオークラ)。来年こそはおだやかな年になりますように・・・
 帰宅すると、夕食はカニ鍋。暖まる。鍋の後のお雑炊はやはり美味い。汁の一滴までも使いつくしてムダにしないというお雑炊は、世界に冠たる日本の食事の粋であると、私はひそかに信じている。
=============================

六波羅を歩く、の巻

12月9日(金)
 朝日カルチャーセンター京都の講座の日である。「平清盛」がテーマであるから、今回は六波羅を歩くことにする。
 朝寝坊したので、タクシーに飛び乗る。京阪電車五条駅で集合。そこから、六波羅の街中に分け入る。とはいっても、現在はすべてが市街地に飲み込まれているから、ここに平家の時代を見るのは至難の業である。「北御門町」「西御門町」という地名に六波羅の北の惣門を偲び、清盛の泉殿の跡と推定される場所を突っ切り、平正盛(清盛の祖父)の墓堂(常光院)があったと思われる場所で立ち止まる。「池殿町」(池殿平頼盛邸推定地)、「門脇町」(門脇中納言平教盛邸推定地)、「三盛町」(これは詳細不明)、これらも地名だけである。洛東中学校の門の中にある「此附近 平氏六波羅第 六波羅探題府址」を見て、六波羅蜜寺に向かう。六波羅蜜寺では「泥塔」の模作品の奉納を受け付けていた。今度買おうかな? ただ、「建礼門院平徳子が安徳天皇を産む時、平家一門が安産祈願のために奉納した」という解説はちょっといただけない。そういえば、大河ドラマ「義経」でもそうしたシーンがあったな。
 ちょっと休憩して、内大臣平重盛の邸宅・小松殿の遺構の可能性がある積翠園に向かう。病院の構内にあるのだが、京都専売病院だったはずが、ひさしぶりに行くと「東山武田病院」に変わっていてびっくり。池の周囲をそぞろ歩く。
 ここでいったんは解散。希望者だけを引き連れて、これも重盛邸跡という伝承のある小松谷正林寺へ。この伝承は信じることができないが、なんといってもここの見ものは阿弥陀仏経石である。ここにも重盛の伝承がまとわりつくし、「文化の伝播」を考える上でもこの上ない資料となる(山田邦和「まちかど歴史散歩51 複製された石仏」〈『歴史街道』2003年7月号掲載〉、参照)。でも、境内が保育園となっていたのにはびっくり。入っていいものかどうかためらったが、親切そうな保母さんが扉を開けてくれる。

 夕方。大学へ。「火中の栗」の会議。栗が弾けに弾けて、目もあてられない。疲労困憊。研究室で同僚のM先生と呑みながら、歴史哲学談義。現実逃避か?

2005.12.09

お帰りなさい、山中博士、の巻

 あれこれしているうちに、もう12月9日である。たしか、山中章博士がヴェトナムから帰国されるのが今日ではなかっただろうか? お土産話も一杯だろうな。またいつもの山中節が復活するという期待にワクワクしている。私としても歓迎の意を表するべきだろう。そこで、山中博士の帰国を祝って、ささやかな祝辞を捧げることにする。それではみなさん、ご一緒に・・・

2005.12.05

学会ふたつ、の巻

 京都は急な冷え込み。まったくの冬である。寒い!

 12月3日(土)
 文化史学会の2005年度大会にでかける。これは、主として同志社大学文学部文化史学科(去年までは文学部文化学科文化史学専攻)の教員・学生・卒業生で組織している学会である。もちろん私も会員のひとりである。
 ウチの奥さんが鎌倉に行っているので、犬君たちの散歩の義務がある。そうこうしていると時間に遅れてしまった。会場に入るとすぐに、次の報告の司会を引き受けさせられてしまう。午後の総会では役員改選があり、私は監事に指名されてしまった。ありゃりゃ、困ったぞ。監事というと当然のことながら、会計監査をやるための役員である。私のように数字と計算に疎い人間にやらせるなんて、ホントに大丈夫なんだろうか?
 夕方は、ガーデンパレス京都に会場を移して、懇親会。年一回の同窓会という感じである。SK美術館のKさんと話しこむ。
==============================
 12月4日(日)
 昨日は早く帰ったつもりだったのだが、いささか二日酔い気味である。眠い目をしばたかせながら、京都市学校歴史博物館を会場としておこなわれている、京都民俗学会の大会に出かける。
 なぜ山田が民俗学の学会に?と疑問に思う向きもあるだろうが、実は私はこの学会(以前は「京都民俗学談話会」と称していた)の設立にたずさわっているのである。1982年のことであるから、もう四半世紀も前のことである。当時、学会設立の裏方でいろいろと走り回ったことを懐かしく思い出す。
 会場に着くと、学会事務局長である、佛教大学の八木透教授と出会う。お久しぶりです。この数年間はなんやかやで大会にも出席していなかったから、いささか申し訳ない。受付で確認すると、去年から会費も滞納していることを指摘される。ますます申し訳ない。とにかく、滞納会費を払って奇麗な身体に戻る。会場にはいると、ウチの大学の民俗学の院生のA君とOさん、民俗学の学部生のK君がいる。さらに、私の研究室の院生のKさんも合流する。よしよし、結構だぞ。
 報告の中では、大阪狭山市教育委員会の市川秀之氏(この人は私の後輩にあたる)の「肥後和男宮座論の再検討」が興味深かった。さらに面白かったのは、市川氏が報告中に、突然アッと叫んで絶句した。何がおこったのかと思ったら、関西大学名誉教授の横田健一先生が入ってこられたのである。市川氏にしたら、テーマとした肥後和男を直接知っておられる先生のご来場なのだから、そりゃ慌てるはずである。横田先生は当年とって90歳。こんな小さな学会にもこまめに出てこられる(さらに、懇親会までも出席された)のだから、大したものである。さっそくにご挨拶させていただく。

 ここでもお目当ては懇親会。私としては久しぶりなのだが、それでも最古参の会員という「特権」(?)があるのでありがたい。八木教授とは、第1回の大会の時の想い出話で盛り上がる。さらに、理事の村上忠喜氏(京都市文化財保護課。この人も後輩)にお願いして、院生のKさんに研究報告の機会を与えてもらうことにする。なんといっても、学会の懇親会はこうした情報交換と「売り込み」と大学間交流の場である。Kさんにとっても、得難いチャンスの場であるはずである。私も、せいぜい動き回ってウチの「教え子」を売り込んでいかなくちゃ・・・
 とにかく、楽しい場であった。
===========================================

天皇陵古墳にハマる、の巻

 12月2日(金)
 この日から、ウチの奥さんは3日間のお出かけ。鎌倉旅行だそうである。私は別件。12時00分に近鉄新庄駅(奈良県葛城市)に集合。第27回「陵墓」限定公開に参加する。
 日本考古学協会・日本史研究会などの歴史学関係の諸学会は、従来から宮内庁に対して、陵墓に治定<じじょう>されている遺跡(古墳の場合が多い)を公開することを求めてきた。宮内庁は今でも、我々の言うような陵墓の公開には応じられないという姿勢を崩してはいない。しかし、陵墓の発掘調査に際しては、その一部を限定的に各学会代表の研究者に「公開」してきた。それが「『陵墓』限定公開」であり、1979年の第1回から始まって、今では毎年の「年中行事」のようになっている。私も参加したいのは山々であったが、これまではお呼びがかからなかったり、またせっかく誘っていただいても日程が合わなかったりして、行くことができなかった。今回は、 日本考古学協会の枠の中に入れていただき、念願かなっての始めての参加となった。

 sanzaiyama「公開」されるのは奈良県葛城市にある北花内三歳山<きたはなうち・さんざいやま>古墳(写真)(北花内大塚古墳を名称変更〈後述〉)。宮内庁が治定している「飯豊天皇埴口丘陵<いいとよてんのう・はにくちのおかのみささぎ>」である。
 もっとも、ウチの大学で考古学や古代史専攻の学生に「飯豊天皇」ってどんな人?って聞いても、ほとんど答えられないのじゃないだろうか? このブログを見ている学生諸君、もし知らなかったならば、早速にも日本史の事典を引いてみること。今度の授業で質問を浴びせるぞ!

 今回の調査成果は、極めて有益なものとなった。この古墳は前方後円墳ではあるが、三角おむすびのような奇妙な形をしていることが従来から不思議に思われてきた。今回の調査で、それが江戸時代の土盛りによるものだということが判明したのである(ただし、私は今回の新聞報道の内容には異論があるので、そのうちきちんとまとめてみたいと思う)。
 今回の「限定公開」には、画期的なことがあった。その内容については各学会からの公式見解の公表を待たねばならないが、とにかく、宮内庁もここまで「軟化」してくれたか、というような出来事であった。素直に、ありがたいと思う。

 しかし、不敬の輩たちに対する被葬者の祟りか、はたまたヴェトナム逃走中の山中博士の超念力か、見学を開始したとたんに、冷たい雨が降り始めた。風も容赦なく吹き付ける。ありがたくない。傘をさしながら写真を撮っていると、突然の突風に煽られ、傘がはるかに舞い上がった。着地した傘をとりに行こうとして大きく足を踏み出した途端、宮内庁の職員の方が「そこは危ない!」と声をあげてくれた。しかし時すでに遅し、私の足は、濠の底の分厚いヘドロの中にズブリとめり込んでしまった。靴もズボンも泥だらけである。参加者の皆さんから、同情とともに失笑を買ってしまう。天皇陵の研究にハマるというお告げだ、というのは強弁で、やっぱり情けない。穴があったらはいりたい、というのはこのことである。小さくなって、コソコソと逃げ出す。

 見学が終わった後は、葛城市歴史博物館に場を移して検討会。T大学のT氏、K研究所のI氏の司会のもとで、ケンケンガクガクの議論を闘わせる。この古墳の名称については、これまでは北花内大塚古墳と呼んできた。しかし、若手研究者のU氏の研究によって、近世にはこの古墳は「三歳山」と通称されてきたことが明確になってきた。そこで、今回の限定公開を機として名称変更を提案する。幸い、参加者各位の賛同も得たので、今後はこの名称が普及することになるだろう。
 それから、例によって飲み会。T氏、I氏を始め、DC大学のT・N氏、TB大学のO・T氏ら、いつもの陵墓研究のメンバーで騒ぐ。

2005.12.02

内裏に参内、の巻

 鬼のいぬ間に、などとほざいていたら、なんと、ヴェトナムから脅かしが来た。あれま、大変だ。これは予想外だったぞ。もちろん、ヴェトナムにはインターネットは通っていないなどと思っていたのではない(そんなことを思っているようでは、正真正銘のアホである)。しかし、外国からネットに繋ぐなどという芸当(?)を山中博士が実行されるとは、正直いって思っていなかった。

 11月26日(土)
 JR東海京都・近江・奈良文化情報局の主催するイヴェントで、京都御所の見学にでかける。つまり、参内である。もっとも、衣冠束帯に身を固め、というわけではない。まずは御所近くの護王神社の会館を借り、そこで私の講義を聞いてもらう。平安宮の内裏の概観から始まり、中世を経て、現在の京都御所が出来あがるまでの経緯を述べる。参加者37名。
 PB270027 御所の拝観は、管理事務所の職員が先導することになっている。かなり以前に行った時のことであるが、その先導者が凄く怖い中年女性だったことがあった。ちょっとでも列を外れようものならば、鬼のような形相で怒鳴りつけるのである。今回もそんなことならばイヤだな、と思っていたが、今日は優しそうなお爺さんだった。ちょっと安心。ただ、紫宸殿の南庭までは入ることはできなかった。拝観も、だんだん厳しくなっているのかな? 小御所の庭では、紅葉が美しく色づいている(写真)。都の秋である。しばし、見とれる。

« 2005年11月 | トップページ | 2006年1月 »