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2006.01.29

オニのいぬ間の長岡京、の巻

 1月28日(土)
 山中章博士はインフルエンザでぶっ倒れている、という。これは大変だ。つつしんでお見舞いを申し上げよう。しかし、
>>早く山田博士にうつして治ろう!!
という憎まれ口だけは健在である。この分だと、心配はいらないな。しかし、インフルエンザをうつされてたまるか!!!

 と、いうことで、オニのいぬ間の洗濯ということでもないが、長岡京に関する講演をやってきた。乙訓文化遺産を守る会の「歴史文化教室」というので、昨年秋の一番の話題となった「長岡宮会昌門翔鸞楼」(正確には、「長岡宮朝堂院〈太政官院〉南門翼廊附設楼閣」とでも呼ぶべきかもしれない)をテーマにした講座をやるという。発掘担当者の松崎俊郎さん(向日市埋蔵文化財センター)が発掘の現場報告をやり、さらに、NJ大学のK先生がその意義について講演されることになっていた。ところが、マンの悪いことにK先生が体調を崩され、急遽、ピンチヒッターとしての役割が私に回ってきたのである。題名も、「長岡宮〈翔鸞楼〉発見の意義」ということに決められている。
 これは大変だ。このブログの2005年10月30日条で書いたように、この発掘は日本古代都城史を塗り替えるような大発見であることには間違いはない。しかし、その意義づけはどうせ山中博士を始めとする長岡京の研究者たちがきちんとやられるだろう、とタカをくくっていたから、これまで私はノホホンと眺めていた。とにかく、人前で話をするのであるから、自分なりの位置づけを考えねばならないではないか・・・

 結局、隋・唐の都城との比較を試みることにした。昨年の段階では、この楼閣と唐長安城の大明宮含元殿とを対比させるべきだと考えていたけれども、熟考の結果、それは必ずしも正しくないと考えるにいたった。むしろそれよりも、長安城の太極宮(宮城)の「承天門」こそが、長岡宮の楼閣の源流に位置づけられるべきだ、という結論に達した。桓武天皇は長岡宮に、長安城の太極宮の理想をそのまま再現しようとしたのであると考える。
 まだまだ煮詰まっていない考察ではあるが、今日の講演ではこの論を全面的に展開させていただいた。しゃべっているうちに、ありがたいことにだんだん自分の考えもまとまってくる。これはイケる!と、ある程度の自信を持つことができた。間もなく書かねばならない論文があるのだが、このネタでいこうかな。

 終了後、関係者の皆さんと呑みにいく。最近、体調が悪かったから、お酒の席は久しぶりである。ありがたかったのは、乙訓文化遺産を守る会の会長の都出比呂志先生(大阪大学名誉教授)と久しぶりにご一緒できたこと。楽しい席だった。

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「記号の役割」刊行、の巻

 1月27日(金)
 吉川弘文館から宅急便が届く。平川南・沖森卓也・栄原永遠男・山中章編『文字と古代日本』5「文字表現の獲得」ができあがってきたのである。かなり刊行が遅れただけに、待ちかねた出版となった。
 私はここに、「記号の役割」という論考を書かせてもらった。と、いうより、要するに、編者のひとりである山中章博士からの「強要」により、なにがなんだかわからないまま執筆が決まってしまったのである。「山中です。今度『文字と古代日本』というシリーズを出すことになりました。山田さんには『記号の役割』という項目をお願いすることにしましたからね! じゃあ、よろしく! 〈ガチャ〉」てなところである。
 山中博士の腹づもりでは、おそらく須恵器や瓦のヘラ記号などを扱わせようとしたのであろうが、そうした分野の研究はまだまだ未解明なところが多く、とうてい規定の枚数に達する公算はない。どうするべきか・・・、と悩んだ末に、博士には悪いけれども、まったく異なった構想で書かせてもらうことに独り決めした。このブログの2005年2月22日条に述べたように、角田文衞先生の凄い論文「銘辞学の方法論」(『文化史学』第4号掲載、1951年。後、『角田文衞著作集』第1巻〈1986〉、『古代学の展開』〈2005〉に再録)(この角田論文は、明らかに歴史史料論の金字塔であると思うのであるが、学界ではあまり評価されていないのはさみしい限りである)のひそみに習って、「記号」の意味を考えようと思ったのである。
 結局、(1)記号とは何か、(2)記号の分類、(3)記号の類銘辞性、(4)記号史料学への試み、の4部構成となった。内容には概念考察が多いため、この叢書の他の論文とはかなり色合いが違ったものになってしまったけれども、史料論を展開しようとする限り、こうした考察は不可欠であると信じている。大方の御批判を賜りたい。

 ともあれ、歴史学・考古学の方法論に関わる論文を書けたことは、私にとっても嬉しい。今後は、こうしたテーマも追究していきたいものである。

2006.01.27

日本史研究『陵墓研究の新地平』、の巻

 1月26日(木)
 昨日・今日は「京都学概論」と「考古学概論」の試験。前者では、きちんと授業を聞いているかどうかがすぐに解る、ちょっとイケズな問題を出す。なお、私の試験はいつも「自筆ノートおよび配布資料のみ持ち込み可」である。
 ここ数日は、研究室の掃除を続行。最近ぜんぜん掃除をしていなかったので、その汚いこと汚いこと。いらない書類などを思い切って捨てていくと、あとからあとからどんどんゴミの山ができていく。今まで、こんなにも不要品に囲まれて暮らしていたんだ、と思うと、我ながら情けなくなる。掃除、まだだいぶ時間がかかりそうだ。

 待ちかねていた『日本史研究』521号(2006年1月号)が届く。昨年夏に日本史研究会の例会でシンポジウムをやった「陵墓研究の新地平」の特集号となっている。私は、「平安時代天皇陵研究の展望」を書いた。しかし、口頭で報告するのとそれを文字化するのとでは雲泥の違いがある。昨年の暮れは、この原稿の締め切りに怯え、さんざん苦心して原稿を提出したものである。しかし、喉元過ぎれば熱さを忘れるのは人間の常である。できあがった雑誌をながめて、ちょっとばかり満足感に浸る。
 近年、天皇陵研究はめざましく進捗した。以前は天皇陵というと考古学の独占物の感があったが、最近ではさまざまな分野から学際的研究が進められているのである。しかし、私見によるならば、現在の天皇陵研究にはまだまだ偏りが見られると思う。特に、奈良・平安時代から中世の天皇陵研究の遅れは目立っているのである。私はこうしたことを以前から強く主張し、それに関する論文もいくつか書いてきた。今回の論文はそうした成果を総括し、いずれ組み立てたいと思っている総合的・通時的な「陵制史」像に向けてのデッサンのつもりである。まだまだ不充分な内容ではあるが、自分なりの一応の一里塚が出来たような気分で、ちょっとホッとしている。

 この特集には、拙稿の他にも、
  今尾文昭「考古学からみた律令期陵墓の実像」
  鍛冶宏介「江戸時代中期の陵墓と社会—享保期陵墓製作の展開—」
  上田長生「陵墓管理制度の形成と村・地域社会—幕末期を中心に—」
  後藤真・福島幸宏「時評・近年の陵墓問題の動向について」
がおさめられており、いずれも一読の価値があると思う。特に、今尾さんの論文は新知見に満ちており、おそろしく刺激的である。私自身も、じっくりと読んで勉強させてもらわなければ。

 今年に入って最初の論文が、定評ある学会誌(査読誌)「日本史研究」に載るというのは、なかなか幸先がいいような気がする。しかし、安閑とはしていられない。去年の「貯金」を使い果たしてしまわないうちに、今年なりの研究成果をまとめていかなくちゃ・・・

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武人政権、の巻

 私の人生も山あり谷ありだと思っているが、山中博士ほど波瀾万丈ではないな・・・ とにかく、風呂にも入らずに研究に没頭するかと思えば、うら若き女性記者と仲良くなり、その天罰(?)があたって熱を出し、しまいにはT大学史料編纂所の所長先生から激励されるなど、まったくもって忙しい方である。

 1月24日(火)
 日本史研究会古代史部会・中世史部会合同部会。『日本史講座』論文評会ということで、鈴木拓也氏が「田中聡『蝦夷と隼人・南島の社会』」、佐伯智広氏が「高橋昌明『東アジアの武人政権』」の論評をやられる。著者の田中・高橋両氏もご出席で、盛会だった。そうか〜、この論文はこういうところに着目して読むべきなんだ〜、ということがよく理解できるから、まったくお得な研究会である。
 終了後に高橋先生と雑談していると、「武人政権が永く続くということ(たとえば日本中世)は、その社会が異常であるという証拠です」、とおっしゃる。武士論の第一人者がこういう認識を持っておられるというのは、まったく面白い。私は大賛成であるが。
 普通なら、終了後の懇親会は欠かさないのであるが、しかし、まだ本調子ではない。ということで、珍しく懇親会には出ず。
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センター試験、の巻

 1月21日(土)・22日(日)
 とうとう、恐れていた日が来た。つまり、大学入試センター試験。ウチの大学はKB大学とペアになっていて、隔年でセンター試験の入試会場が当たる。とにかくピリピリ、ヘタをすると新聞沙汰になるから怖い。しかも、ウチのような小さな大学だと、教職員が総動員となる。
 さらに。今年からは英語のリスニング・テストが導入された。これがやっかいこの上ない。いったい、誰がこんなテストを考えたのだ!、と恨み言を叫びたくなる。朝から晩まで、過酷な11時間労働が続く。ぐったり。
 土曜日なので、日本史研究会の委員会がある。くたびれ果てているのでサボろうかと思ったが、そこは小心者の私であるから、あわてて会議室に飛び込む。すると、やっぱりというか、会議はもう終わっていた。代表委員のT先生、研究委員長のSさんらに笑われる。
 ただ、疲れていることもあり、どうも調子が悪い。早々に帰宅、ぐっすりと寝込む。
 
 日曜日はまたまたセンター試験。この日は入試事務室で待機組となったから楽は楽である。しかし、ただただ待っているというのもくたびれるものである。フラフラになって帰宅すると、案の定、熱を出していた。カゼがぶりかえしているようである。こんなのは労災には該当しないのかな? 大学入試センターに治療費を請求してやろうかしら。

2006.01.25

天皇陵史料とショスタコーヴィチ、の巻

 1月20日(金)つづき
 大学院生のKさんと、京都府立総合資料館に出かける。同館のM氏と会い、同館所蔵の天皇陵関係史料を見せていただく。題名だけで想像していたものとまったく違い、驚愕。やっぱり、見てみなくちゃダメだね。新しい研究テーマをいただいた気分である。

 大学にとって返し、明日のための説明会。気が滅入る。

 夜。京都コンサートホールで、京都市交響楽団の第484回定期演奏会を聴く。指揮は井上道義さん。彼の演奏を聴くのはちょうど一年ぶりだな。曲目は、
  シュニトケ:モーツ=アルト・ア・ラ・ハイドン
  プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調op.19
  ショスタコーヴィチ:交響曲第11番ト短調「1905年」op.103
である。
 指揮者の井上さん、聴くたびに、何かやらかしてくれるだろう、という期待がある。今回も裏切られなかった。最初のシュニトケ、まずは電気が消されてホール内が真っ暗になる。いきなりパッと明かりがついたと思うと、カツラをかぶった井上さんが大仰なポーズをとっていて、客席から笑いが巻き起こる。演奏中に、オーケストラの面々がじりじりと指揮者へ向かって移動していくのにびっくり。シュニトケの曲なんだからこれくらいの遊びは充分に許されるハズ。とにかく楽しめた。

 次のプロコフィエフでは、この世のものとは思われない綺麗な女性ヴァイオリニストが登場する。ロシア出身のアナスタシア・チェボタリョーワである(姓が発音しにくいので、日本ではファースト・ネームのアナスタシアで通っている)。この女性、くらしき作陽大学音楽学部の教授で、現在は倉敷在住らしい。弾き始めると、ヴァイオリンの音が小さく、それにびっくり。その分、細やかな音色である。こんなことはCDではわからないな。

 メイン・プロはショスタコーヴィチの交響曲。これは凄かった。ヴィオラから金管から打楽器から、とにかくいろんな楽器が大音量で活躍する曲である。指揮者がこれを煽ること煽ること。京響の面々も、渾身の熱演でそれに応えている。京響を見直した。オケにとっても満足のいく出来映えだったらしく、終了後のメンバーの満足そうな顔が印象的だった。
 京響、井上さんが常任指揮者を勤めていた頃にはショスタコーヴィチを良く演奏しており、「日本一ショスタコの熱いオーケストラ」と言われたこともある。その、ありし日を思い出させるような熱演だった。この勢いを駆って、井上道義指揮の京響でショスタコの交響曲全集でも録音しないかな・・・

2006.01.24

「日本橋は移せばいいの?」、の巻

 「東アジア宮都研究」に「日本橋は移せばいいの?」という主張が登場している。これについては私は、山中博士に完全に同意する。
 それにしても、東京都のI知事というのは従来から思考能力の無い人物だと思ってはいたが、これほどまでとは知らなかった。もちろん、この記事を書いた朝日新聞の新聞記者も顔を洗って出直してきた方が良いというのは山中博士説の通りである。この問題は、考古学における「遺構」と「遺物」、そして「遺跡」の関係をどう考えるか、ということにもつきあたるから、ひとこと言わせてもらおう。

 何がおかしいのか? 「日本橋」を移動することができると考えること自体が、脳味噌を使っていない証拠である。日本橋とは単なる建築物ではない。東海道の終点として、「土地」に密着してこそ意義があるものなのである。それを「あの場所になくても、あの橋があれば良い」だと? ヘソがお茶を沸かすとはこのことである。

 同様のことを京都の三条大橋で考えてみよう。果たして、「三条大橋」を移動させることができますか? 「三条大橋に使われていた材木」「  〃   石材」「   〃  擬宝珠」などであれば博物館に移動させることができる。しかし、それは絶対に「三条大橋の移動」にはならない。三条通が鴨川をわたる場所になければ、それはもはや「三条大橋」ではないからである。

 かなり以前のことになるが、同じくらいバカな事件があった。岡山県が「吉備路風土記の丘」を整備することになり、その計画を同県の県庁の役人が立てたのである。それが公表されると、歴史学者・考古学者は皆、目を疑ったのである。総社市から岡山市西部にいたる丘陵地帯(造山古墳や備中国分寺などがある)を「風土記の丘」とすることになっていた。それはいい。しかし、県の計画では、この丘陵に岡山県各地の文化遺産の主要なものをすべて移動させてくるということになっていたのである。それだけでもバカなのであるが、中でも噴飯モノだったのは、その移動される文化財のリストの中に「雪舟生誕地」が入っていたのである!!
 常識で考えて見てください。ある人物の「生誕地」を移動させることができますか? その人物が生まれた建物ならば、あるいは移動させることは可能だろう。その人物が生まれた布団ならば、博物館に持ってきても良い。しかし、コトは「生誕地」なのである。たとえ、その「生誕地」の土を重機でゴッソリとえぐって他の場所に移したとしても、それは「生誕地」を移動させたことにはならない。「生誕地」とは土地そのもの、空間そのものだからである。
 さすがに、この岡山県の計画は、全国的な失笑の的になり、結局は取り下げられた。岡山県は全国に恥をさらしたのである。

 しかし、恐ろしいのは、こんな程度の思考で「これが小説家の発想なんだよ」と胸を張る人物が権力の座についているということである。こんな知事に投票している東京都民も同罪だといわねばなるまい。私は東京の住民でなくて、ホントに良かった。

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古代学研究所、存続の危機、の巻

 1月20日(金)
 この日の京都新聞朝刊に、「京の古代学研が存続の危機 資金難で3月末に活動停止も」の文字が躍った。「京の考古学研究をリードしてきた古代学研究所(京都市中京区、角田文衛所長)が、資金難から3月末にも学術研究を停止する可能性があることが、19日までに分かった。研究所を運営する財団法人古代学協会が停止の方針を固め、全職員から希望退職を募っている」という内容である。私は、1983年に古代学協会・平安博物館の非常勤の研究嘱託となり、1985年に古代学協会・平安博物館助手(考古学第4研究室勤務)となった。京都文化博物館に移籍した後も、1989〜92年には出向という形で古代学協会・古代学研究所に勤務していた。つまり、古代学協会は私の最初の勤め先であり、「古巣」であった。

 古代学協会は、角田文衞先生が50年以上の永きにわたって主導してこられた研究団体である。1951年に創設され、季刊の学術雑誌『古代学』を創刊する。1957年には文部省所管の財団法人となり、その活動の幅を広げた。さらに、もとの日本銀行京都支店の建物(1969年、国重要文化財指定)の譲渡を受け、1967年には特設の研究機関としての平安博物館を創設した——平安博物館が日本最初の「研究博物館」であったことを、声を大にして言っておきたい——。1972年には季刊『古代学』は休刊されたけれども、その役割は月刊誌の『古代文化』(1967年創刊)が引き継ぎ、現在にいたっているのである。その後、京都府が京都文化博物館を創設するに当たって、古代学協会はその所有の土地を京都府に譲渡するとともに、平安博物館の建物を京都府に寄附し、さらには平安博物館の職員(私もそのひとりだった)を財団法人京都文化財団(京都文化博物館の経営母体)へと移籍させた。その代わりとして古代学協会は新たに「古代学研究所」を設立し、それが現在へと続いているのである。世間では京都文化博物館は平安博物館の後身だと思われている(今でも、京都文化博物館のことを「平安博物館」と呼ぶ人がいる)けれども、正確にいうならばそれは正しくない。このあたりの事情については色々と書き残しておきたいこともあるが、今はその時期ではない。

 古代学協会の運営は通常の学会とは異なる特異なものであった。他の学会ならば、会員(そのほとんどは研究者)が納める会費によって運営されるのが普通である。古代学協会にも「正会員」「会友」はいるけれども、彼らが納める会費は同協会の財政にはあまり大きな比重を占めていなかった。では、運営がどうして成り立っていたかというと、「賛助会員」として名を連ねている数多くの企業が納めてくれる賛助会費に負うところが大きかった。つまり、古代学協会は企業からの寄附金で成り立っていたのである。古代学協会がこれまで、大多数の学会では考えもできないような大規模な事業(多数の研究者を抱えた研究博物館の運営など)をおこなうことができたのは、こうした秘訣があったからである。こうした形で民間の研究機関が運営されてきたのは、まさに角田先生ならではの離れ業であった。すくなくとも歴史学・考古学の学界では空前であったし、おそらくは絶後のことになるであろう。

 しかし、バブル経済の崩壊、その後の「失われた10年間」の間に、こうした文化事業に金を出そうという企業はどんどん減少していった。その後、景気が上向いてきても、拝金主義の成金たち、金のためならばどんなことをやっても憚らないという金の亡者(昨・1/23に逮捕されたライブドア社長・堀江貴文容疑者はその典型であろう)ばかりが目立つ時代になってしまったのである。もちろん、金儲けは、まっとうな手段でやっている限りでは悪いことではない。しかし、企業人たるもの、儲ける一方で、金にはならないけれども人間の真の価値を高める部分に金をつぎ込むくらいの気概を持つべきであろう(もちろん、儲けた金の一部でいい)。茶の湯をたしなみ、美術品を収集し、文化施設を創設し、文化団体に寄附をし、中国の古典を読み、文化人と付き合い、学者はだしの学識を披露する。一流の企業人とはそういう人物でなければならないし、そうした人物こそが尊敬されるというのが正しい社会でなくてはなるまい。
 「古巣」の危機、 暗澹たる気持ちで一杯である。

2006.01.20

本年度最終いろいろ、の巻

 1月16日(月)
 大学で会議だらけ。くたびれ。

 1月17日(火)
 ゼミ、本年度最終。研究室の定例研究会、本年度最終。後者では、めずらしく2回生が報告。

 1月18日(水)
 「京都学概論」、本年度最終。なんとか、豊臣期までこぎつける。晩は会議。またくたびれる。

 1月19日(木)
 「考古学概論」、本年度最終。なんとか、古墳時代の始まりまでこぎつける。本年度は時間配分があまりうまくいかなかった。昼休み、北九州中国書店さんの行商が来る。何冊か購入。午後、大学院の本年度最終。

2006.01.17

「ヒトラー 最期の12日間」再び、の巻

 1月15日(日)つづき
 と、いうことで、新星堂にも寄って、
 フォーレ/レクイエム(ミシェル・コルボ指揮ベルン交響楽団)
 バッハ/オルガン名曲集(2枚組)(マリー=クレール・アラン〈org〉)
 ヴィヴァルディ/ヴァイオリン協奏曲集 作品9「ラ・チェトラ」(フェリックス・アーヨ〈vn〉、イ・ムジチ合奏団)
を購入。アランのバッハ、オルガンの女王だけあって、さすがの貫禄である。
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 さらに、あの「ヒトラー 最期の12日間」(ブルーノ・ガンツ主演、オリヴァー・ヒルシュピーゲル監督、2004年独)(本ブログ2005年8月20日条参照)がDVD(オマケDVD付きの2枚組スペシャル・エディション)になったので、さっそく購入。公開から半年でDVDになるのだから、素早いものだ。
 帰宅してから見直したが、やっぱり凄い名作であることを実感する。もちろん、映画館で見るのと家で見るのとではかなり感じが違う。大きなスクリーンを買って、ホーム・シアターでも作ろうかな・・・

 ゲッベルス宣伝相役の俳優、なんというか、ちょっと見ただけで忘れられなくなるような「異貌」の持ち主で気になっていた。DVDの解説書によると、「ドイツを代表する個性派俳優の一人」であるウルリッヒ・マテスという人だという。かなりよく雰囲気は出していたが、ゲッベルスのイメージとはかなり違ったな。彼のトレードマークともいうべき、片足の悪いことがきちんと演じられていなかったのも気になる。ゲッベルス本人は大の映画ファンで、後世の映画に自分が描かれることを夢みていた。しかし、マテスの演じるゲッベルスを見たら、本人は怒るかもしれないな、と思う。
 マクダ・ゲッベルス夫人を演じたコリンナ・ハルフォーフという人、綺麗で、かつ凛とした品のある女優さんだと思っていたが、これも解説書によると「ドイツ映画演劇界を代表する名女優」だという。さすが、というところか。以前にも書いたが、彼女が6人の子供を毒殺するシーンは、涙なくしては見ることができない戦慄モノの「名場面」である。
 アルベルト・シュペーア軍需相をやったのはハイノ・フェルヒという俳優さん。この人は、私の思い描いていたシュペーア本人のイメージにぴったりであった。再現性という点では、ヒトラーを演じたブルーノ・ガンツと並ぶ双璧だというべきであろう。
 この映画、音声のダイナミック・レンジがすごく広い。映画館ではそれが良かったが、家ではなかなか難儀な代物である。爆弾の大音響の場面になると、ウチの犬がびっくりして飛び起きる。
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2006.01.16

プラッツ近鉄古本祭、の巻

 1月13日(金)
 朝日カルチャーセンター京都の講座。今日から3回は「平安京・京都の歴史を歩く(12)足利尊氏と南北朝の動乱」をやることにした。その第1回で、「鎌倉幕府の崩壊と建武新政権」。鎌倉時代の両統迭立と後醍醐天皇について論じる。しかし、どうも調子が悪い。帰宅すると、どっと疲れが出た感じで、そのまま起きあがれなくなる。

 1月14日(土)
 「博物館実習」の講義の最終日。F助教授と共同で、この間できたばかりの九州国立博物館を紹介し、そのコンセプトと展示について論評を加える。

 1月15日(日)
 プラッツ京都近鉄の「古書まつり」を覗く。この古書市、かつては京都を代表するものであったが、最近では百万遍・みやこメッセ・下鴨などの古本祭にお株を奪われ、規模も縮小していった。往事を知っている者にとっては、いささか寂しい限りである。しかも、会場となっていたプラッツ京都近鉄が来年2月で閉店するというから、今回が最後か、または最後から2回目ということになる。いずれにせよ、京都の永い名物がまたひとつ消えるようで、茫漠たる気持ちである。
 規模は小さいが、それでもよく探せば、他に無いような本を見いだすことができる。今回の掘り出し物は、1930年の宇多天皇1000年御忌の際に出た『宇多天皇御事記』。ウチの奥さんは、源平盛衰記関係の何やら妖しげな本をゲットして悦にいっていた。

 プラッツ京都近鉄が無くなると、そこに入っている旭屋書店やCDの新星堂の各京都店も無くなることになるんだろうな。これは困る。旭屋はワンフロアーとしては京都最大の書店だし、新星堂は輸入盤に定評のあるCD屋さんだ。こういう明確な個性を持った良い店は、絶対に必要なものである。どこかに移転して、ぜひ再開してほしいものだ。

2006.01.13

卒論の日、の巻

 1月9日(月・祝)
 京都文化博物館に、「柳宗悦の民芸と巨匠たち」展を見に行く。木食仏が面白い。「民芸」という言葉が「民衆工芸」の意で造語されたというのは始めて知った。と、いうことは、民芸と考古学はその対象物がかなり重なることになる。両者の関係について、しばし考える。

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 1月10日(火)
 授業再開。久しぶりのゼミである。しかし、いささかイラだつ。
 夜には、B出版社で、OS大学のN氏と打ち合わせ。新しい企画を、ワイワイと考える。

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 1月11日(水)
 朝から調子が悪い。不安になる。夕方、授業をやったおかげで少し回復。

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 1月12日(木)
 一年中で一番ヤキモキする日が来た。卒論・修論の提出日である。朝から、研究室に学生諸君が謹聴した面持ちで出入りする。こちらも、机の前に座っていてもなんか落ち着かない。時間が過ぎていってもぜんぜん顔を見せない学生がいる。だんだんイラだってくる。締め切り時間が近づくにつれて、どんどんヒートアップする。「○○君がまだ来ていない。電話して、とにかく大学に来るように言え!」と怒号をあげる。悲喜こもごもである。最終チェックを終えると、こちらもぐったりと椅子に崩れ落ちる。

2006.01.11

2005年にやったこと、の巻

 1月11日(水)
 ウチの大学の「研究紀要」には、教員が前年度にやったことをまとめる欄がある。作るのはめんどくさいが、自分の備忘録としては有益なのは間違いない。書けたので、転載しておこう。

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〈著書〉
・『文久山陵図』(外池昇編、外池昇・西田孝司・山田邦和執筆)(東京、新人物往来社、2005年2月、全305頁〈山田執筆は204〜210・221〜232頁〉)
・『京都府与謝郡野田川町 幾地地蔵山遺跡現状調査報告書』(花園大学考古学研究室編、山田邦和・鎌田久美子執筆)(花園大学考古学研究報告第14輯、京都府野田川町・京都、野田川町教育委員会・花園大学考古学研究室、2005年3月、24頁+図版10)

〈論文〉
・「中世都市嵯峨の変遷」(平成14〜16年度科学研究費補助金基盤研究A1研究成果報告書『平安京—京都の都市図・都市構造に関する比較研究とデジタルデータベースの構築』所収、〈京都〉、金田章裕〈研究代表者〉、2005年3月、47〜74頁)
・「幕末の天皇陵改造—文久の修陵—」(21世紀COEプログラム「グローバル時代の多元的人文学の拠点形成」第3回報告書『人文知の新たな創造に向けて』上巻掲載、京都、京都大学大学院文学研究科、2005年3月、154〜156頁)
・「院政王権都市嵯峨の成立と展開」(吉井敏幸・百瀬正恒編『中世の都市と寺院』所収、東京、高志書院、2005年4月、87〜110頁)
・「『福原京』の都市構造」(『古代文化』第57巻第4号〈通巻第555号〉掲載、京都、〈財〉古代学協会、2005年4月、13〜27頁)
・「総括と論点提示—日本都市史研究における『階層性』の提唱—」(『中世都市研究会京都大会2005資料集」所収、2005年9月、中世都市研究会、80〜85頁)
・「福原遷都の混迷と挫折」(『古代文化』第57巻第9号〈通巻第560号〉掲載、京都、〈財〉古代学協会、2005年9月、1〜16頁)
・「長岡京右京六条一坊の施設に関する覚書」(第13回京都府埋蔵文化財研究会発表資料集『京都府内の重要遺跡を読み解く・埋蔵文化財をめぐる情報環境』所収、2005年10月、同研究会、63〜66頁)
・「平安の京と都〜平安京」
 「〈口絵〉平安京の発掘調査・よみがえる福原京」(『季刊考古学』第93号掲載、東京、雄山閣、2005年11月、22〜26頁・6〜8頁)

〈その他〉
・「まちかど歴史散歩(69)水底に沈んだ中世の村—京都府八幡市木津川河床遺跡」
 「同(70)苦悩から歓喜へ—京都・伏見の後崇光院太上天皇陵」
 「同(71)異形の神像—京都・広沢1号墳の石像」
 「同(72)美貌の女院の死—京都・養源院と後白河天皇陵」(『歴史街道』平成17年1〜4月号[通巻第201〜204号]掲載、東京、PHP研究所、2005年1〜4月、各8頁)。
・「歴史ドラマの中での貴族と武士」
 「花園大学の特色ある授業(6)京都学概論」(『花園大学人権教育研究センター報』第7号〈通巻26号〉掲載、京都、花園大学人権教育研究センター、2005年4月、59〜61・110〜112頁)
・「京都・歴史遺産の活用と世界遺産」(『都市問題』第96巻第6号〈2005年6月号〉掲載、東京、〈財〉東京市政調査会、2005年6月、20〜24頁)。
・「平安京を歩く」(五島邦治監修、風俗博物館編『六條院へ出かけよう—源氏物語と京都』所収、京都、〈財〉宗教文化研究所、2005年10月、117〜167頁)。
・「考古学の古書コレクション」(『花園大学考古学研究室だより』48掲載、京都、花園大学考古学研究室、2005年11月、1頁)
・「暗澹たる沖縄—2005年の旅から—」(『花園大学人権教育研究センター報』第8号〈通巻27号〉掲載、京都、花園大学人権教育研究センター、2005年12月、35〜37頁)

〈学会報告〉
・「弥生都市はあったか?」討論司会(日本史研究会主催、同研究会古代史部会7月部会、2005年7月4日、於機関紙会館大会議室)
・「平安時代陵墓研究の展望」(日本史研究会主催、同研究会7月例会「陵墓研究の新地平」、2005年7月16日、於機関紙会館大会議室)
・「総括と論点提示—日本都市史研究における『階層性』の提唱—」
 「全体討論」司会(中世都市研究会主催「中世都市研究会2005京都大会」、2005年9月4日、於花園大学無聖館ホール)

〈講演〉
・「日本古代都城研究の展望」(京都府教育委員会・乙訓文化財事務連絡協議会・京都府埋蔵文化財調査研究センター主催「埋蔵文化財セミナー〜京都三都物語—恭仁宮・長岡京・平安京—」、2005年2月20日、於長岡京市中央公民館)
・「平安京・京都の歴史を歩く(8)安倍晴明信仰と鴨川の治水神」(朝日カルチャーセンター京都、2005年1月14日、2月25日、3月11日)
・「同(9)太秦・嵯峨野に秦氏を訪ねる」(朝日カルチャーセンター京都、2005年4月22日、5月13日、6月10日)
・「同(10)保元・平治の乱—中世の開始」(朝日カルチャーセンター京都、2005年7月8日、同29日、9月16日)
・「同(11)平清盛の時代と六波羅」 (朝日カルチャーセンター京都、10月14日、11月11日、12月9日)
・「豊臣秀吉と京都」(JR東海京都・奈良・近江情報文化事務局主催イヴェント、2005年3月19日、於大徳寺方丈)
・「天皇陵をめぐる諸問題(1)(2)」(京都新聞文化センター主催「考古学講座」、2005年1月14日、3月26日、於同センター)
・ 「よみがえる平安京—考古学からみた平安京の実像—」(京都市社会教育振興財団主催「ゴールデンエイジ・アカデミー 《京都の都の歴史と史跡》」、2005年3月25日、於京都アスニー)
・「平安京ボランティア講座」(京都市社会教育振興財団主催、2005年3月26日、於京都アスニー)
・「中世京都と嵯峨」(花園大学 大学コンソーシアム京都提供授業「京都学総論」、2005年5月7日、於キャンパスプラザ京都)
・「明治の京都復興と時代祭」(京都館主催「京都学講座〜京都の三大祭」、2005年5月27日、東京都港区高輪区民センター)
・「福原遷都の混迷と挫折」(京都女子大学宗教・文化研究所ゼミナール、2005年6月4日、於同研究所)
・「都を舞台とした戦さ」(花園大学主催「京都学講座〜みやこの中の戦さ」、2005年6月25日、於キャンパスプラザ京都)
・「平清盛の夢の都—福原京」(花園大学主催「花園大学京都学講座—『源義経とその時代』」、2005年8月1日、於花園大学無聖館ホール)
・「平安京の条坊」(奈良女子大学COEプログラム「古代日本形成の特質解明の研究教育拠点」主催「シンポジウム 古代都市と条坊制」、2005年8月6日、於同大学)
・「よみがえる『福原京』」(兵庫県芸術文化協会主催、県教育委員会埋蔵文化財調査事務所共催「兵庫県生活文化大学・埋蔵文化財教室〜神戸のルーツ『福原京・港』と新大陸の考古学」2005年9月10日、於兵庫県民会館)
・「平安京と京都」(京都五月村クラブ「例会」、2005年9月13日)
・「平安時代後期の都市」(奈良女子大学COEプログラム 古代日本形成の特質解明の研究教育拠点主催「COEサロン」、2005年9月20日、於同大学)
・「中世京都の都市景観」(京都SKYセンター主催「京都SKY大学」、2005年9月28日、於京都新聞社ホール)
・シンポジウム「今に生き 未来に生かす 平安京」パネラー(NPO法人平安京主催「平安京サミット—京雀 都のにぎわい—」、2005年10月2日、於京都文化博物館別館ホール)
・「平清盛の夢の都—福原京—」(京都館主催「Kissポート財団特別連携事業 知られざる京都の魅力〜平家物語の時代編」、2005年10月20日、於東京都港区高輪区民センター)
・「天皇陵の話(1)神武天皇陵」
 「同(2)江戸時代の天皇陵改造(京都新聞文化センター主催「考古学講座」、2005年12月10日・11月12日、於同センター)
・「京都御所の歴史」(JR東海京都・近江・奈良文化情報局主催イヴェント、2005年11月26日、於護王神社・京都御所)
・「高丘古窯址群と明石の焼きもの」(あかし学実行委員会主催 平成17年度「あかし楽講座〜古代あかしの物語」、2005年12月17日、明石市生涯学習センター)。
・「福原京の都市的検討」(大手前大学史学研究所主催 2005年度第3回「兵庫津学習会」、2005年12月18日、於同研究所)。

〈社会活動〉
平安京・京都研究集会世話人、日本史研究会研究委員、文化史学会監事、有限責任中間法人日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会全国委員、古都の森・観光文化協会監事、中世都市研究会2005京都大会実行委員、国立歴史民俗博物館「長岡京の光と陰(仮称)」展示委員、京都大学大学院文学研究科21世紀COE〈グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成〉『王権とモニュメント』研究会学外構成員、共同研究「平安京—京都の都市図・都市構造に関する比較統合研究とデジタルデータベースの構築」(科学研究費補助金基盤研究A1)共同研究員、京都市文化財学習研修施設指定管理者選定委員会(京都市考古資料館他)委員長、京都市環境影響評価委員、加悦町史編纂委員会執筆委員

〈その他〉
展覧会担当「京都・都市の歴史」展(2005年9月1・2日、於花園大学歴史博物館)

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桓武天皇の野望、の巻

 1月8日(日)
 前日はフラフラで、千葉県佐倉市のユーカリが丘駅前のホテルに倒れ込む。
 朝起きるのが辛いが、なんとかベッドから抜け出して、国立歴史民俗博物館に急ぐ。来年度に計画されている特別展覧会「長岡京の光と陰(仮称)」の展示プロジェクト会議。主宰者は、どこにでも登場さる、いわずとも知れた山中章博士(歴博客員教授)である。これが今回の東国行きの目的である(決して、寄席で遊んでくることが目的ではなかった)。午前中はS博物館のE氏とT市文化財センターのC氏の研究報告。平安時代初期の斎宮と多賀城について認識を深める。午後は討論。歴博のN助教授の司会のもと、どんな展示にしたら良いか、夢を語り合う。展覧会の題名として「桓武大帝の野望と挫折」などという案も出て、楽しい。歴博のA教授やH教授もご出席になり、それぞれユニークな視点を披露していただく。私は、桓武天皇の「残像」が後世にどう影響を与えていったか、という点を入れ込みたいと提案する。

 夕刻には、例によって飲み会モードに突入。佐倉駅前の飲み屋で騒ぐ。ちょっと遅れて、TGK大学の古代史のM・Sさん(R博物館のM・J氏の奥様。いつも仲睦まじくて羨ましい限りである)が思いがけずも登場。ますます盛り上がる。私の隣に座られたのはY大学の古代史のM・Y氏。実はボクも痛風持ちなんです、先日も韓国へ行った時に発作が出てヒドイ目に会った、と語られる。いわゆる「同病相哀れむ」ということになり、これもエラく盛り上がる。
 帰りの新幹線(K大学の古代史のY・S氏はいつものように飛行機で帰られたらしい。私も一度飛行機を使ってみようかな、という気になりかけている)では、これも恒例で、山中博士とS・Mさんと語り合いながら帰る。

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お江戸で寄席、の巻

 1月7日(土)
 東国に出かける。
 昼前に、東国の玄関口・花のお江戸に着く。山手線に乗り換えて上野駅に降り立つ。隣接の京成電鉄上野駅に荷物を預け、身軽になったところで、さあどこに行こうかと思案する。主要な用事は明日であるから、今日は自由が利くのである。
 せっかくの上野なんだから、久しぶりに東京国立博物館でも覗いてみるか、と思いながら歩き出す。しかし、どういうわけか足は反対方向に向いてしまう。目の前に、不忍池が広がっている。ここに来るのも久しぶりだ。冬枯れの池の向こうには、お寺のお堂と並んで奇妙な形をした高層ビルがそそり立っている(写真)。sinobazunoikeこういうところ、まさにお江戸だな。池の側では道具屋さんの露店が並んでいる。しばらくひやかす。池の側には台東区立の下町風俗資料館という小さな博物館がある。前から入ってみたかったのだが、やっと念願がかなった。館内はそんなに広くはないが、大正時代の街並みが復元されていて、なかなか面白い。

 お腹が空いたので、目に付いたラーメン屋さんに入る。七志 とんこつ編 上野店という店。横浜に本店のある、けっこう有名な店らしい。これが大正解。まったりとしたとんこつスープに、モチモチした太麺が実にマッチしている。良い店を見つけた。また東国下りの際にはぜひ来よう。

 東博に行くつもりが、またまた反対方向に歩いてしまう。hirokozitei
有名な寄席・鈴本演芸場が目に付く。しかし、入り口には「満員」の赤紙が貼ってある。そうか、そんなに人気があるんだ。と、思うと、急に寄席を覗いてみたくなった。もうひとつの寄席である、お江戸広小路亭に入ることにする。しかし、受付の女性が「座席があまり良くないのですが、いいですか?」と言う。上がってみるとびっくりびっくり。80人ほどの小さな会場であるが、それがぎゅうぎゅう詰めの満席である。座布団をもらい、廊下にはみ出したようなところに割り込む。奇妙な姿勢を強いられるのが辛いが、しばし、東京落語を楽しむ。
 こういうところ、さすがはお江戸だな。今、上方では、大阪にも京都にも常設の落語の寄席は無い。今年、やっとのことで大阪に天満天神繁昌亭が開設されることになっている。それに比べて、東京にはいくつもの常設寄席があるし、それがそれぞれ繁栄しているんだ。正直、羨ましく思うし、お江戸の庶民文化の底力を見たような気になる。

 結局、東博に行くことはできずじまい。恒例によって神田神保町の古本屋さんでたんまりと本を買い込み、千葉県に向かう。ひとりで夕食を食べるのは侘びしいから、携帯電話を掛けて山中章博士とM市教育委員会のSさんを呼び出してしまう。結果は予測通りに、明日のことも考えずにベロベロになる。新春からこれじゃあ、先が思いやられるぞ・・・

2006.01.07

仕事始めと鏡のレプリカ作成、の巻

 1月6日(金)
 もうちょっと休んでいたいが、そうもいかない。大学に今年の初出勤。校門をはいると、学内はひっそりと静まりかえっている。研究室で校務にいそしむ。
 事務仕事から解放された後は、考古学研究室に籠る。昨年末に画材屋さんで、テトリッコ・立体コピー剤という奇妙な品物を買ってきた。赤ちゃんの手形や足形の作成に使われているものだという。これは面白い。きっと、文化財にも応用がきくはずだ。試してみたくてたまらなかったが、これまでは作業をためのまとまった時間がなかなかとれなかった。新年になったことでもあるし、ともあれ実験である。
 rep2 私蔵の方格規矩四神鏡の複製品(写真)に実験台になってもらうことにした。原資料ならばもちろん錫箔を貼り付けて保護しなければならない。しかし、今回の場合、これ自身も複製だから、直接テトリッコを塗り込ませてもらうことにした。
 待つこと20分。テトリッコは、まるでコンニャクのような固まり方をする。rep3ゆっくりとはがすと、「鋳型」のできあがりである。型には少しキズがはいったが、まあこれくらいは仕方あるまい。
 石膏を溶いて、型に流し込む。rep4なんだかワクワクである。早くひっくり返してみたいが、急いては事を仕損じる。ひたすら、待つ。
 石膏が乾いてきたので、やっと型から取り出しである。型を崩さぬように、慎重の上にも慎重に作業する。rep5少しばかりデコボコはあるし、また、型が軟らかいせいか正円になっていない。でも、わりあい見られる出来になった。
 なかなか面白いものである。次は、もっと本格的なレプリカ作成(シリコン樹脂で鋳型を造り、アクリル樹脂を流し込む)に挑戦しようと思う。上手になったら、学生連中に見せつけて驚かしてやろう。

2006.01.06

論文校正、の巻

 1月5日(木)
 年末に、某学術雑誌への投稿論文の再校があがってきていた。なかなか手が付けられないまま、ついに年越しをしてしまった。今日が締め切り、ということで、昨夜からあわてる。しかし、校正をしだすとつい気になることがでてくる。さらに、最新の研究でどうしても引用しておかねばならないものがあるのだが、マンの悪いことに手元にその論文がない。今日は大学の図書館もまだ閉まっているから、万事休すである。仕方ないので、京都府立総合資料館へ駆けつける。あった。よかった。読みふける。最低限の情報を校正刷に書き込んで、某学会の事務所へ急行する。なんとか締め切りに間に合う。
 やっと一仕事が済んだ。ウチの奥さんと待ち合わせて、デパートへ買い物に行く。晩ご飯は、北海道産のカニ・ウニ・イクラの丼弁当。

2006.01.05

初詣のハシゴ、の巻

 2006年1月3日(火)
 前日のお酒が残っている。遅く起きだして、ぼつぼつと年賀状の返信を書き始める。合間を縫って、マックとクイールの散歩を兼ねて御所へ向かう。九条邸跡附近からはるかに建礼門を望む。その背後には朱塗りの承明門、さらに紫宸殿の大屋根が見える。北山はうっすらと雪景色である。これこそ、京都で私が一番好きな景色である。九条邸跡の厳島神社は、平清盛が大輪田泊に勧請したものがさらにここに移されたという伝承を持っている。昨年は平氏政権や福原京について没頭したこともあり、感謝の意を込めて手を合わせよう。

kitano 夕方、初詣の続きをやろうということで、自転車に乗って北野天満宮へ行く。学問の神様なんだから、やっぱりお詣りしておかなければ。ともあれ、凄い人波である。参道に並ぶ露店を覗いて回るのも楽しい(写真)。とはいうものの、今日はタコ焼き屋さんやお好み焼き屋さんばかりで、骨董屋さんは出ていない。正月だからあたりまえだな。夕闇の中、本殿に手を合わせる。今年こそ良い年になりますように、しっかりと良い研究ができますように、真剣に祈る。

 ところが、本殿の脇でおみくじを引いたら、なんと「凶」に当たってしまった。そういえば、何年か前にもこんなことがあった。下御霊神社と八坂神社でおみくじを引いたら、両方とも「凶」であって、なんともがっくり落ちこんだ覚えがある。まあ、その年が特に不幸だったということもないから、要は心の持ち方次第なんだろうな。
 とはいうものの、正月早々こんなことではなんとも気分がムシャクシャする。ウチの奥さんは慰めてくれるが、それだけではとうてい足りない。ええい。厄落としにもう一社お詣りをすることにしよう。北野天満宮よりもほど近い、一条通御前<おんまえ>の大将軍八神社<たいしょうぐんはちじんじゃ>に行く。平安宮の西北の守護神だから、きっと霊験あらたかなはず、だ。本殿に手を合わせるのもそこそこに、とにかくおみくじを引かねばならない。祈りながら引くと、今度は「末吉」だった。めでたさも中くらい、というところか。ただ、北野天満宮の「凶」も、大将軍八神社の「末吉」も、「学問」のところは判で押したように「努力すれば報われる」となっていた。これだけは確かに真実だといって良い。妙な雑事にまどわされず、精進して学問に邁進しなくてはダメだということだろうな。

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お正月のボタン鍋、の巻

 2006年1月2日(月)
 どういうわけか、正月には我が一族が我が家に集まり、ささやかなホーム・パーティーを開く習慣がある。メニューは、これもどういうわけか、決まってボタン鍋。つまり、イノシシの味噌鍋である。この日のために、大晦日には出町(正確には寺町通今出川上ル)の「改新亭」で猪肉を仕入れる。たっぷりと脂の載ったところを買い込むのである。その他にも、なんやかやの買い物で、ウチの奥さんは大忙しである。ちなみに、この改新亭、猪・鹿・熊などの珍しい肉を扱っている、京都の老舗である。そういえば、森浩一先生の『食の体験的文化史』にもこの店のことが出ているな。猪肉のキリコミのおいしさを、森先生の本で教えてもらった。
 ところが、とんだハプニングがあった。お茶やジュースを冷やすために、小型冷蔵庫を1階から2階へと運ぼうとした。けっこうな重さである。大丈夫かな?と思った瞬間、階段の最上段でバランスを崩し、冷蔵庫を投げ出してひっくりかえってしまう。あちこちを打ち身するし、床にキズをつけてしまうし、まったく正月早々さんざんな目にあった。
 しかし、1年に1度のボタン鍋はさすがに美味である。お腹一杯になるとともに、へべれけに酔っぱらう。
 

2006.01.01

謹賀新年、の巻

 2006年1月1日(日)
 皆様、あけましておめでとうございます。ブログからで失礼ではございますが、本年もなにとぞよろしくお願い申し上げます。

 mac_quill←《今年は戌年、マックとクイール》
 新年になった。大晦日は、河原町竹屋町のそば屋で年越し蕎麦。帰宅してから急に、除夜の鐘が聞きたくなる。ウチの奥さんを誘って、同志社大学新町学舎の北側にある報恩寺に出かける。境内には焚火がたかれ、鐘を着く人々が列をなしている。しばらく手を合わせ、新年の幸を祈る。もう一ヶ所、ということで、寺之内堀川の妙蓮寺に立ち寄る。ここはかなりの人手である。ラーメン屋さんの屋台までている。鐘の音を聞くうちに、午前0時が過ぎて新年となる。
 こうなったらついでだ、ということで、今宮神社に向かう。ウチの家はこの神社の氏子圏だから、当然のことながらウチも今宮さんの氏子だということになっている。境内に入るとびっくりびっくり。初詣の参拝客がもう列をなしている。本殿から楼門まで行列が続いていてるから、これは大したものだ。しかたないので、遠くから本殿に手を合わせ、楼門前でマックとクイールの記念写真を撮る。

 と、いうことで、新しい年になった。遅く起きだして、白味噌のお雑煮とお屠蘇。ほどよく酔っぱらう。犬君たちを連れて、近所の晴明神社に初詣。ここも結構な人出である。戌年だから、マックとクイールにも無理矢理に手をあわせさせる。
 そうこうするうちに、山中章博士から連絡がある。今年度の早々の研究報告で必要だから、いくつかの論文を見せてほしい、というのである。正月元旦から研究に没頭しているとは、驚愕とともに敬服の限りである。駅で待っていると、いつも元気な博士の姿が現れる。ウチの家に来ていただいたが、タダでは帰さない。早速に酒杯を傾けることになる。思いがけずも楽しい新年の始まりとなった。

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