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2006.03.28

山中章博士が罵倒される、の巻

 山中博士のブログ「東アジア宮都研究」あらため「yaaさんの宮都研究」の3月22日条「雑感 報道の自由と文化財情報」に、「通行人」と名乗る人物が「情けない」というコメントを残しておられる。この人、なんだか知らないけれども、怒り心頭に発しておられる。「ここのプログを書いている人」(つまり山中博士)は「馬鹿ですね・・・。呆れるくらいに・・・。泣けてきます」、ということになるらしい(細かいことですが、「通行人」さん、「プログ」ではなく「ブログ」ですよ・・・)。

 「通行人」氏のいうように山中博士が本当に馬鹿なのか、それともぜんぜん逆なのかは、このコメントを読んだ人それぞれが自由に判断なさればよいだろう。ただ、この「通行人」という人が、文化財について(特にそれを規定している関連の法律について)まったく無知だということだけは断言できる。この場合の無知というのは、単に勉強していないということではなく、「知ろうとする気が無い」のだと思う。

 ただ、別の意味で私は、この「通行人」氏のコメントに興味を引かれた。確かに、内容はまったく誤っているのであるが、それでも興味深いのである。なぜなら、「この『通行人』氏の意見の問題点を指摘し、それを論破せよ」、これは充分に、大学の「考古学」の授業のリポートの課題になりうるからである。今度、ウチの大学でぜひ出してやろう※。ここを読んでいるウチの学生諸君、それに備えて、頭を絞って回答を考えておいてね。(だから、回答はまたいずれ)。
 しかし、私たちは、文化財に対してこういう偏見を持ち、しかもそれを自信を持って信じ込んでいる人が少なからずいる、ということは事実として認めねばならないのだと思う。そうした人たちにどのように納得してもらい、文化財への意識を高めてもらうのか、私たちには大きな課題がつきつけられている。

【追記】 ※=ウチの奥さんから、「そんなことに『通行人』氏のコメントを使うと、『通行人』氏の著作権を侵害することになるのではないか?」という指摘がありました。インターネット上に書き込まれた匿名のコメントにもちゃんと著作権があるのは当然ですし、ネット社会では著作権はいろいろ難しい問題を含んでいますから、ウチの奥さんの危惧ももっともです。しかし、結論からいうと、この場合には私は「通行人」氏の著作権を侵害することにはなりません。理由は、『著作権法』第2章第3節第5款「著作権の制限」の第35・36条にあります。また、同法第32条も援用できます。そういうことですので、ご不審の方はどうぞお調べくださいませ。

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斎宮で中世都市を語る、の巻

 3月26日(日)
 三重県立斎宮歴史博物館にでかける。2週連続の斎宮行きである。
 三重県といえばこの人、ということで、電車の中から山中章博士に電話をかける。あわよくば、どこかでおちあって一杯やるつもりである(「そんなことをしておらずに原稿を書けよ!」←良心の声)。しかし、なかなかつながらない。やっとつながったと思うと、三浦半島の厨子で研究会の最中だという。残念!

 斎宮に到着。(財)国史跡斎宮跡保存協会・いつきのみや歴史体験館のMさんに出迎えてもらい、歴史博物館に向かう。博物館では、学芸員のAさんにお会いする。まだわずかながら時間がある、ということで、Aさんに無理をお願いして、史跡斎宮跡の東端の発掘現場と、宮内庁治定の隆子女王(醍醐天皇皇女・斎王)墓と、史跡水池土器製作所跡に連れて行ってもらう。ありがたや。

 さて、午後1時半から本番。昨年夏からやっていた斎宮歴史博物館の歴史講座「源平合戦とその時代」(全5回)の最終回として、私が「源平争乱と中世都市」を担当するのである。会場となった博物館の講堂はほぼ満席。結構なことである。ウチの研究室の大学院生のKさんも、御両親とともに駆けつけてくれている。中世初期の平安京、清盛の福原京について述べるが、それだけで時間をかなり食ってしまう。平泉と鎌倉について少ししか触れられなかったのはいささか残念。しかし、皆さん熱心に聞いていただいた。ありがたや。

 山中博士にフラれたので、終了後は寂しく京都に帰るしかない。しかし、タダで帰るのは面白くないから、残された時間を有効活用し、鳥羽市まで足をのばすことにした。先週食べた「さめんたれ(サメの干物)」の味がどうしても忘れられない。鳥羽でお土産物をあさることにしたのである。
 でも、遊んでばかりではまずいので、鳥羽駅から歩いて、鳥羽城跡に向かう。海の戦国大名九鬼氏の居城である。鳥羽市役所の背後の小高い丘が城跡となっている。頂上に登ると小さな公園があり、その背後に本丸の石垣が残っている。しかし、城跡の主要部は鳥羽小学校の校内になっており、遺存状態はあまり良くない。でも、頂上から海への眺めは爽快。
 さて、それではおみやげ物だ。JR鳥羽駅前の商店街ではさまざまな貝をその場で焼いてくれている。おもわずフラフラと入ってしまい、サザエとヒオキ貝を焼いてもらう。ヒオキ貝はホタテ貝に似ているが、それより大粒ですごく旨い。近鉄鳥羽駅前の大きな土産物のビルにはいると、あるわあるわ。あたりまえだが、海産物のオンパレードである。試食すると、すべてが欲しくなってしまう。もちろんおめあてのサメのタレもある。ホタテの浜焼き、サザエのしぐれ、真珠漬け(真珠貝の貝柱の酒粕漬け。どういうわけか、子供のころからの憧れの的。これを付けると、御飯が何杯でもおかわりできてしまう)、伊勢うどんまで買ってしまうと、大きな袋が一杯になってしまう。やはり伊勢志摩は良いな。山中博士はこんな旨いものばかりに囲まれて生活しているのだろうか? そうだとすると羨ましい限りである。

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「京都案内」の企画、の巻

 3月23日(木)
 朝から、ふたつの仕事にとりくむ。ひとつは、26日(日)の講演の資料作り。もうひとつは、今晩の仕事の準備。
 夜、B出版社にでかける。中世史のN氏とともに検討中の新しい本の企画会議である。B社のK代表と、編集アシスタントとしてウチの奥さんも加わっている。あらたな観点からの「京都案内」にする予定。我々ふたりだけではなく、いろんな研究者の方々に執筆してもらうつもりである。今回はその雛形を作っていき、それを叩き台にしてこねあげていくことになる。ただ、その雛形作りが結構たいへんだった。なんとか方向が見えてきて、一安心。

2006.03.25

マック大脱走、の巻

 3月24日(木)
 今日ほど慌て、怯え、パニックになった日はない。今、思い出すだけでも恐ろしさに胸が打ち震えてしまう。

 わが家の愛犬マックが、「脱走」したのである。

 朝、私は書斎にこもり、依頼されている講演のレジュメ作りに追われていた。マックとクイールを散歩に連れて行ってやらねばならないのであるが、仕事に熱中していてついつい先延ばしにしていた。そういう時、マックは書斎に入り込んできて「外に連れて行け!」と催促をする。しかし、今は手が離せない。その代わりに、玄関のドアを開け、そこに金網をたてかけて、とりあえず外が見えるようにする。2匹のペキニーズは外を見るのが大好き。日がな一日でも外を眺めていて、よその犬が通るとワンワンと吠える。

 安心して仕事をしていたが、ふと玄関に出てみて、仰天した。クイールひとりが所在なさげにこっちを見上げているだけで、マックの姿が見えない。ドアのところを見て、頭を殴られたような衝撃を受けた。仕掛けておいたはずの金網がズレている。マックはそこから外に出たのに違いない。
 慌てて表に飛び出して周囲を見渡すが、マックの姿は見えない。えらいことになった。ふつうの犬ならば帰巣本能があって自然に帰ってくるのかもしれないが、ウチのペキニーズにそんな芸当ができるとは思えない。迷子になったままどこかに消えてしまうということも充分に考えられる。さらに、車に轢かれでもしたら一巻の終わりである。
 頭の中が真っ白になったような気がする。まずどうしたら良いのかもわからない。とにかく、とるものもとりあえず自転車に飛び乗り、走り出す。しかし、はたしてどちらに行けばよいのか。とりあえず家の前の道を北へ。さらに思い直して、一筋東側の堀川通を駆け抜ける。なにせここは大通りであるから、マックが車道に飛び出していたりしたら到底助からない。しかし、それでも姿は見えない。ペダルをこぐ足がガタガタ震えているのがわかる。
 今度は下長者町通を西へ行ってみる。それでもいない。次は出水通だ。ここは細い道だが、けっこう車が通る。やばい。絶望的な気持ちはつのるばかりである。と、出水の猪熊の角まで来た時である。電柱の影で、何やら茶色い塊がノソノソしている。いた! マックだ! あわてて自転車を乗り捨て、名を呼びながら駆け寄る。マックもこちらに気がつき、キョトンとした表情で私を見上げて尻尾を振る。「あれぇ、パパじゃないか。どうしたの?」とでもいいたげな顔である。私はそれどころではない。涙が出そうになる。マックの名前を連呼しながら、固く固く抱きしめてしまう。
 帰宅したが、とうてい立っていられない。そんなに時間はたってはいないはずなのだが、疲労困憊である。本当に、間一髪であった。ちょっと歯車が違う回り方をしていたら、このまま永遠の別れになるところであった。もしそんなことになっていたら、私たちはとうてい立ち直れないだろう。やはり、今後はもっともっと気を付けてやらなきゃならないな。

 とにかく、大パニックの日であった。
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(帰宅直後のマック。こちらの気持ちとは裏腹に、とうてい反省しているようには見えない)


2006.03.23

桓武の野望と巨椋池、の巻

 3月20日(月)
 京都駅で待ち合わせ。R博物館(あんまり匿名にする意味はないな。もちろん国立歴史民俗博物館のことです)の特展「桓武の野望と挫折(あんまり過激すぎる題名なので、まだ仮題の段階)」の打ち合わせである。歴博からはN氏、R大学の地理学のK氏、毎度おなじみの山中章博士、そして私で、K大学のT先生をこの企画に巻き込もうと手練手管の限りをつくすというのである。駅前のルネッサンス・ビルの階上にある中華料理レストランを根城に定め、和気藹々の会合となる。K氏がコンピューター・グラフィックスの試作品を見せてくださる。いつもながらの手腕に驚嘆。T先生もこの企画に快く協力していただけることになり、まずは大団円である。

 しかし、この会合の場で私が山中博士を裏切り、T先生と優雅な酒宴に耽り、さらには山中博士に冷たく当たった、という噂がばらまかれている。その手は桑名の焼きハマグリ、まったくもってホタテガイ、とはまさにこのことである(このあたり、我ながらいささか意味不明)。頭脳明晰な博士も、英国惚けに感染して思考が混乱しているようである。例によって事実はまったく逆であることは、原稿が全然進んでいないことからも立証できる(威張ることではないか(^_^;) )。

 ともあれ、次の予定が入っている。T先生と宇治に出かけ、「巨椋池歴史資源検討委員会」に出席する。農林水産省の近畿農政局巨椋池防災事業所の主催で、私たちがやっている「巨椋池調査会」もこのプロジェクトの一環である。ここでもまた、密度の濃い議論。

2006.03.22

斎宮と伊勢神宮、の巻

 3月19日(日)
 珍しく早起き。クラクラした頭を振りながら家を飛び出す。7時15分の京都駅発の近鉄特急に乗り込み、三重県の斎宮歴史博物館に行く。斎宮駅では、同博物館の榎村寛之氏と竹内英昭氏がわざわざ出迎えてくださる。恐縮である。
 今回のお仕事は、榎村さんから、同博物館の「学芸員による研究成果発表会」への出席を依頼されたのである。学芸員の研究を市民の皆さんに公開し、それに私が「研究成果に対する講評」を加える、という趣向である。これ自体は結構この上ない。しかし、書類を開いてみて驚いた。
 「縄文時代前期の土器編年-山添遺跡・鳥浜貝塚・彦崎貝塚出土資料からみえるもの-」小濱学
 「『蛤合(はまぐりあわせ)かるた屏風』をめぐって」松田珠美
 「東海地域の古代寺院造営氏族に関する基礎研究—伊勢北部を例として−」竹内英昭
 「斎宮の宮的性格について」榎村寛之
つまり、縄文と古代寺院と斎宮と伊勢物語カルタ、という組み合わせなのである。これへのコメントというのはどんなことを喋るべきなのか、どう考えてもわからない。仕方ない、腹をくくろう、ということで、それぞれの研究の注目点を思うままに述べることにする。それとともに、もうひとつ強調したことは、博物館における調査研究活動の重要性である。現在、どこの博物館も締め付けに苦しんでいる。博物館において、収益や観客動員ばかりが求められるようになりつつあるのである。しかし、それは博物館の自殺行為であることは明白である。もちろん、たくさんの方々に見てもらうような博物館にしていく努力をすることは当然である。しかし、その背後には「資料収集保管、展示、調査・研究」という博物館の本来的な活動が充実していなければならないのである。
 うまく言えたかどうかわからないが、榎村さんからは合格点をいただくことができたようである。肩の荷をおろし、ちょっとホッとするる

 昼食は博物館で、「斎王弁当」のお相伴にあずかる。変わったメニューばかりでおいしかった。榎村さんがその中からかまぼこのようなものをつまみ上げ、「これが何かわかりますか?」と聞かれる。私にはさっぱり見当がつかない。榎村さんは笑って「これはサメの干物、こちらでいう『さめのたれ』ですよ」と教えてくれる。これには仰天である。サメを食する習慣を持つ地域があることは知っていたが、伊勢がサメの本場だとは知らなかった。食べてみると、これがめっぽう旨い。ビールのつまみにはもってこいの味である。いいものを教えてもらった。

samenotare 午後の時間が空いたので、久しぶりに伊勢神宮に行ってみたくなった。近鉄で五十鈴川駅まで行き、バスに乗る。内宮のひとつ手前でバスを降り、「おかげ横丁」を通り抜ける。これがすばらしく面白い。江戸後期・明治初期の伊勢の街並みが再現されていて、そこで実際に商売がなされている。地域おこしの見事な模範とさえいえる。「おかげ座」に入った後、人混みに揉まれながらふらふらと歩いていると、志州ひらき屋という干物の店が目につく。やった! 「さめのたれ」がある。店の前でこれを焼いてくれるという。串焼きにしてもらって、すぐに頬ばる。珍味珍味。ただ、こんな旨いものが伊勢だけでしか食べられないなんて、なにか釈然としない思いである。
 伊勢内宮まではあと一息であるが、あっちでサザエを、こっちで帆立貝を、そこではアジの干物を、という感じで食べていると、なかなか先に進まない。ようやく内宮にたどりつく。子供の頃は父親によく連れてきてもらっていたが、大人になってからは久しぶりである。手をあわせ、御利益を願う。
 ホントは外宮もお詣りしたかったが、残念ながら時間が尽きた。外宮は入り口から手をあわせることにして、伊勢市駅から特急に乗り込む。車内では疲れが出たのか、ぐっすりである。
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卒業式と神武天皇陵と鎌倉幕府論、の巻

 3月17日(金)
 卒業式、もとい、学位授与式。ウチのゼミ生に、学位証書をひとりづつ手渡す。式終了後は恒例の記念パーティ。ビールで酔っぱらう。いったん帰宅すると、しばらく寝入ってしまった。あわてて飛び起きて、四条河原町近くの店でウチのゼミの「謝恩会」。鳥と魚の鍋で乾杯。卒業生諸君のこれからの人生に幸あらかし。

 3月18日(土)
 午前、朝日カルチャーセンター川西に出講。R大学のM氏のコーディネイトで、「天皇陵古墳」をテーマとすることになり、その最終回の担当となったのである。これも、M氏からのご要望で、私のテーマは「神武天皇陵をめぐる諸問題」。参加人数は少なかったが、その分、意識の高い人ばかりだったようで、みなさん熱心に食らいついてこられる。センターの女性館長のKさんと話し込む。歴史・考古学にも深い造詣をお持ちで、話していて楽しい。

 午後、川西の講義が終わると、すぐに電車にとびのる。いささかお行儀が悪いのは承知の上で、電車の中でパンを頬ばる。2時前になんとか京都に帰着し、そのまま機関誌会館での日本史研究会3月例会に飛び込む。「鎌倉幕府論の課題と展望」として、川合康氏(東京都立大学)の「鎌倉幕府研究の現状と課題」、近藤成一氏(東京大学史料編纂所)の「川合康氏の鎌倉幕府成立史論について」があるのである。いささか遅刻ではあるが、川合氏のご報告の尻尾の部分になんとか間に合った。会場は超満員。最先端の鎌倉幕府論を聞く。
 その後はもちろん(?)懇親会。しかし、私は日本史研究会の総合委員会があるのでそのまま事務所に居残りである。会議中も、早く終わってくれないかな、と、気もそぞろである。幸いなことに、この日はあまり重要な案件がなく、8時には会議終了してくれた。代表委員の高橋昌明先生とともに、懇親会場の飲み屋さんに急行。宴たけなわ、というところに乱入する。ふだんはあまりお酒をたしなまれない京都女子大学の野口実先生も、ビールをおかわりしながらケンケンガクガクの大議論中。それにしても、川合、高橋、野口3先生と膝をつき合わせて鎌倉幕府論に興じることができるなんて、こんなに幸せなことはない。ただし、東国武士団の細かい議論については私はお手上げ。ひたすらに拝聴するしかない。

2006.03.16

追い出しコンパ他いろいろ、の巻

 3月12日(日)
 JR東海京都・奈良・近江文化情報局の主催のイヴェントとして、花園大学歴史博物館で「山田先生の博物館ゼミ」というのをやる。これまでのイヴェントはどこかの京都の史跡を案内し、そこに私の講演をひっかける、というのものであったが、今回は趣向を変えてみた。要するに、「博物館実習」を体験してもらい、博物館学芸員の仕事を理解してもらうことにしたのである。始めての試みなので、うまくいくかどうか自信はない。したがって、参加者も16人に限定することにした。すぐに予約が埋まったそうだから、まずまずの人気なのだろう。
 最初、歴史博物館の展示室を解説。次に、考古学研究室に場所を移して「資料の観察と調書づくり」をやってもらう。午後は博物館の特別展示室で、いよいよ実際の展示作業である。掛軸や巻物の広げ方と巻き方、地図の展示、ケサン(ガラス製の文鎮)の置き方、キャプションの並べ方、などなど。こういう時には、「山田コレクション」の資料が役に立つ。
 皆さんおくたびれのご様子ではあったが、まずまず好評だったと思う。また次の企画を考えよう。

 3月13日(月)
 大阪行き。大阪ドームで(!!)高校生向けの進路説明会「進路発見!フェスタ」というのがあり、そこでの模擬授業を仰せつかる。こういうの、あんまり得意じゃないけれども、仕方ない。ドームに着くと、広い広い球場のど真ん中にパーテーションで区切ったたくさんの区画があり、そのひとつがわが花園大学に割り当てられている。私のテーマは「【歴史学】考古学が解き明かす古代史」とする。しかし、照明が明るすぎて、持参の液晶プロジェクターがうまくうつらない。さんざっぱら苦労してセッティングする。ウチの区画に集まった高校生は20名ばかり。考古学から日本古代国家の出現をどう解き明かすか、喋る。
 終了後、心斎橋の東急ハンズ(京都にも東急ハンズが欲しいな・・・)でうろうろしてから、大学に戻る。気の重い会議。

 3月14日(火)
 京都市役所の職員の方の訪問を受け、4月の講演の打ち合わせ。
 夜は、京都大学で巨椋池調査会の会議。資料を作っていたら出遅れて、大幅に遅刻する。先日やった、巨椋池の太閤堤の踏査成果について述べる。終了後は、T先生等と飲みに行く。

 3月15日(水)
 朝は原稿に追われる。やっと、なんとか一本を完成し、すぐにメールで送信。疲れがとれていないようで、我ながら頭が働いていない。
 夜、わが考古学研究室の追い出しコンパ。河原町の飲み屋にでかける。今年の卒業生は、みんな非常にがんばってくれた。こういう年ばかりだと嬉しいのだがな。在学生から卒業生へのプレゼントがあるというので何かと思っていたら、卒業生諸君の写真を集め、そのアルバムを『発掘調査報告書』に仕上げている。このアイデアには脱帽した。ひとしきり笑いあう。
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坂詰秀一先生の古稀を祝う、の巻

 3月11日(土)
 東京行きである。去年と今年は、なぜか、いやに東京行きが多いな。主たる用事は夕方なのだが、ウチの奥さんに引っ張っていかれて、まず、青山の家具屋さんを見る。ステキなテーブルがあるという。確かに良いのだが、お値段が張る。迷う。その後、小さなレストランで絶品のハンバーグを食べた後、青山学院大学の前を通る。このあたりはかなりご無沙汰なので、全然忘れていた。KJ大学のN先生はここの大学のご出身なんだ、と一人合点する。
 五島美術館の「よみがえる源氏物語絵巻—平成復元絵巻のすべて—」のポスターが目にはいったので、急に行く気になる。ところが、行ってみてびっくりびっくり。長蛇の列である。聞くと、なんと1時間待ちだという。とうていそれでは夕方の品川に間に合わない。残念ながら、入り口でUターンである。

 東急の上野毛<かみのげ>駅に戻り、電車に乗る。ぼんやりと眺めていると、次の駅が「等々力〈とどろき〉」である。ここでハッと気がついた。等々力といえば、たくさんの古墳が分布している土地のはずである。なるほど、「上野毛」というのも「上」の「野毛」。野毛ならば、東京を代表する古墳のひとつである野毛大塚古墳があるハズだ。そこまで気が付くと、どうしても見ておきたくなり、ウチの奥さんとはここで別行動をとることにする(彼女の目的は、神奈川県立博物館を見ることだった)。
 等々力駅を降りるが、どう行っていいのかわからない。駅の前の地図を睨み、検討をつける。等々力渓谷公園というところに入り、その中にある等々力3号横穴を見学、さらに等々力不動尊の門前の御岳山(御嶽山)古墳に登る。そこから、多摩川野毛町公園の中にある野毛大塚古墳へ。こんなに巨大だとは思わなかった。全長82m、後円部径66m、同高さ11mの帆立貝形前方後円墳である。前方部には埴輪列が復元されている。これは思いもかけない収穫であった。

 急ぎ足で駅にもどり、品川に向かう。目的地はホテルパシフィック東京という豪華なホテル。ここで、坂詰秀一先生古稀記念祝賀会(写真)が開催されるのである。
 sakazume 坂詰先生は立正大学教授であり、永年にわたって同大学の考古学研究室を率いてこられた、東京の考古学界の重鎮である。さらには立正大学の学長までつとめられたことからも、その手腕がわかる。その先生が、今年に古稀を迎えられ、この3月には立正大学を定年で退かれるというのである。会場は、250名に及ぶ多数の参加者で賑やかな限りである。
 ただ、私としては、あんまり知り合いがいない場なので心細い限りであり、受付でうろうろするばかり。坂詰先生にご挨拶を、と思ったが、先生の周りは次から次への人だかりであり、割り込むことができない。腰が引けて改めて周りを見渡すと、立正大学の考古学の池上悟教授の姿が見えた。ちょっと救われた感じで、ご挨拶。すると、あちらも私を捜していたという。何かと思うと、坂詰先生からの御指名でもあるので、祝辞のスピーチをせよと命じられる。ありゃりゃ、これにはびっくり。

 そうこうしているうちに、宴が始まる。万雷の拍手とともに坂詰先生と奥様が御登場。主賓席には、今年94歳(!)を迎えられる我が国考古学界の大長老・斎藤忠氏(大正大学名誉教授)の姿も見える。斎藤先生がまったく歳をかんじさせないハリのある堂々たる声で祝辞を述べられるのには感動する。ひとしきりの御祝いの後、祝宴にはいる。隣席の大阪・U考古学会のT氏とともに、どんどんお酒を飲んでしまう。宴が佳境にはいった頃、あちこちにご挨拶に回る。その後、いよいよスピーチの番が来る。ええい、ままよ、ということで壇上に立つ。

 実は、坂詰先生は私の元の「上司」である。私はかつて、坂詰教授のもとで助手をつとめていたのである。と、いうと、「何を言っているんだ。立正大学に山田なんていう助手はいなかったぞ」と言われるであろうが、それは確かにその通りである。私はかつて(財)古代学協会・古代学研究所に助手として勤務していた。坂詰先生はここに永く関係されておられ、同研究所の教授を兼務されていたのである。つまり、古代学研究所の第3研究室は、坂詰教授・室長—山田助手—非常勤の室員、という構成になっていたのである。もちろん先生は非常勤の教授であって月に一回くらい来られるだけなのであるが、私はそのたびにいろいろな相談事を持ち込み、指示を受けていた。その点では、東京の方々の知らない、京都での坂詰先生を存じ上げている、ということになる。この日、私がこの祝賀会に出席したのも、こういう理由があったからなのであり、そのあたりを述べてお祝いに替えさせていただく。
 「引き出物」として、大冊「東京の考古学2」を始めとして、何冊もの本をいただく。いささか重いのに閉口するが、帰りの新幹線の中で紐解く。

 坂詰先生、改めましておめでとうございます。今後ともますますご健勝で御活躍くださいませ。

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金閣寺と等持院、の巻

 しばらく間が空いてしまった。ヘタっていた。
 山中章博士のブログも間が空いていたので、私と同じようにヘタっておられるのだと解釈し、心を痛めていた。ところが、博士は実は意気軒昂、秘かに大英帝国への外遊を果たし、かの大英博物館を制覇していたのだという。なんだ。本気で心配して損をしてしまったではないか! 

 3月7日(火)
 卒業生のM君、来る。一緒にお好み焼きとビール。

 3月8日(水)
 「平安京・京都研究集会」の準備会。報告者のおひとりである、KF大学のU教授の研究室をお借りしての会である。テーマは、中世末・近世初頭の京都をめぐる交通路。全体の題名を何にしようかとケンケンガクガク。「すべての道は京都に通ず」というのを提案したが、あえなく却下される。

 3月10日(金)
 朝日カルチャーセンター京都の講座。今日は現地見学である。「平安京・京都の歴史を歩く(12)  足利尊氏と南北朝の動乱」の3回目(最終回)として、「等持院と鹿苑寺(金閣寺)」をセッティングする。鹿苑寺(金閣寺)の門前で待ち合わせ。しかし、雨がしとしと降っているのは気が滅入る。金閣を見るのは久しぶりだ。そこから歩いて等持院に向かう。このお寺、いうまでもなく足利将軍家の菩提寺であり、足利歴代将軍の木像が安置されていることで有名である。ここに安置されている歴代将軍像の中には、5代義量と14代義栄の像が欠けている。それがなぜかについては、「平安京探偵団」をどうぞ。ところで、現在の大河ドラマ「功名が辻」では、最後の将軍足利義昭を三谷幸喜さんが演じておられた。三谷さんは脚本家・監督としては明らかに天才であるが、俳優として、しかも義昭役として起用されたことにはちょっと首を傾げざるをえなかった。しかし、この等持院の義昭像を眺めていて、ハッとした。ふっくらとしていて、どこか三谷さんに似ている! 「功名が辻」のプロデューサーがそこまで考えたのならば、これは偉いものである。

 大学にとって返し、明後日の準備。

2006.03.07

巨椋池・太閤堤の踏査、の巻

 3月6日(月)
 最近、外にでるたびに雨に祟られているような気がする。ウチの学生の中に「雨男」または「雨女」がいるのか? 見つけ出して簀巻きにして、龍神への生贄に捧げてやろうかしら。

 農林水産省近畿農政局巨椋池農地防災事業所と(社)農村環境整備センターから巨椋池の調査事業を委託されたことは前に書いた。巨椋池という湖、京都以外の方々はご存じだろうか? 山城国(京都府南部)のほぼ中央、現在の京都市の南郊にかつて存在した、周囲16kmにおよぶ巨大な湖である。この湖を境にして、山城国は南北に別れていたのである。巨大ではあるけれども、平均水深は1m程度というもので、いわば大きなお盆に浅く水を張ったような、奇妙な湖であった。1941年、この湖は完全に干拓され、その跡地は水田地帯に姿を変えた。

 今日は、今回の研究の予備調査ということで、ウチの研究室の大学院生・学部生6人を引き連れて、巨椋池の東端に豊臣秀吉が築いた「太閤堤」を踏査することにした。私自身も、最近ではすぐに自動車に頼ってしまうから、こんなに長い距離を歩くのは久しぶりである。しかし、雨が降り止まないのには弱ったぞ。でも、今日を逃すとまたズルズルと予定が延びてしまうから、ムリにでも強行しよう。
 10時に京阪電車観月橋駅に集合。秀吉が築いた「豊後橋」=現在の観月橋を渡り、もとの「向島」の西端に沿った太閤堤=大和街道を南下する。途中、秀吉の伏見城の出城であった向島城(山田邦和「伏見城とその城下町の復元」〈『豊臣秀吉と京都』所収、文理閣、2001年〉で復元を試みた)の跡地をうろうろ。しかし、今はまったく市街地に飲み込まれてしまって、その痕跡をたどることは至難の技である。さらに南下する。太閤堤の遺構は、周囲よりも3m近く盛り上がっているところと、1mないし1.5m程度に削られているところ、さらにはまったく痕跡を残さないところがある。さらに南下して近鉄向島駅に着く。昼食にしようと思ったが、このあたりは適当な店がないんだよね。ラーメンが食べたくなり、結局は京都文教大学の門前あたりまで延々と足をのばしてしまう。
 もう一度、向島駅に戻り、さらに進む。向島駅の南方には、堤の遺構がかなり綺麗に残されている。高さも4mに及んでいることは嬉しい。どんどん進み、宇治市小倉の古い街並みを通る。近鉄小倉駅にたどりついた頃には、もうヘトヘトである。しかし、やっぱり歴史は歩いて見なくちゃダメだね。学生諸君もおそらく、「歩けオロジー(アーケオロジー=考古学のもじり)」の大事さを実感してくれたんじゃないかな? 巨椋池、どんどん歩いて、今後の本格的な調査計画を立てていこう。
 ホントはビールでも飲みたいところであるが、大学にとって返さなくちゃならない。気の重い会議。身体も心もヘロヘロ。

2006.03.06

原秀三郎氏の大化改新否定論、の巻

 3月4日(土)
 大学の入試(後期日程)。あわてて出勤したら、実は行かなくても良かったことが判明。しかし、行ったら行ったで捕まってしまい、結局は仕事をするハメに陥る。さて、明日は大学院の入試である。これはもちろん、監督と採点に行かなくてはならない。

 一度帰宅してから、日本史研究会古代史部会の例会に出動。本日は、静岡大学名誉教授・原秀三郎氏の「それでも『大化改新』はなかった—吉川真司『律令体制の形成』(『日本史講座』1)に寄せて—」の報告がある。原氏といえば、「大化改新否定論」の提唱者のおひとりとして知られる超大物である。これは聞き逃せない。
 研究会の事務所で、まずは原氏にご挨拶。今回の「仕掛人」である佐藤泰弘研究委員長(甲南大学教授)と吉川真司京都大学大学院助教授も、すでにお越しになっている。14時半から、原氏の報告が始まる。もう70歳をこえておられるのであるが、そうは到底見えない若々しさで、エネルギッシュこの上ない大熱演が展開する。いやあ、このパワーにあやかりたいものである。私としては、勉強不足のために細部にわたっての理解が充分でないのが悲しいのであるが、このエネルギーの放射に触れることができただけでもこの上ない収穫である。1時間半の報告の予定が、実に2時間半にわたって延長戦を繰り広げられた。
 休憩を挟んで、吉川氏の「反論」。この人の、史料の「読み」の鋭さと頭脳の切れ味は定評のあるところである。時間が限られていたのが残念だが、丁々発止の名勝負とあいなった。
 終了後、有志で懇親会。佐藤研究委員長、吉川氏はもちろんのこと、古代官衙研究の第一人者であるN研究所のY氏(原氏の「教え子」にあたられるそうである)やその門下生さんたちも来られ、存分に盛り上がる。原氏のエネルギッシュさはここでも変わらない。ついに、2次会までお付き合いさせていだく。例によって呑みすぎになるが、朗らかな気持ちで帰途につく。

2006.03.03

伊豆国に中世を歩く、の巻

 2月26日(日)〜28日(火)
 静岡県・伊豆に出かける。これは、京都女子大学宗教・文化研究所の野口実教授との共同研究の一環としての調査活動である(掲示板No.4505)。 そういうといかめしく聞こえるが、私としては野口先生にくっついてあっちこっちに連れて行ってもらい、また同研究所ゼミナールに集う学生さん達と楽しくおしゃべりをすることができて、爽快このうえない。今回の調査旅行は、同研究所ゼミナールのメンバーを含めての14名の大所帯となった。
 なお、こういうと「山田は『京女〈きょうおんな〉』に囲まれて旅行に行って鼻の下を伸ばしている」という噂を広める輩が登場するような予感がする(そう! そこで聞き耳を立てておられる山中章先生!、先生のことですよ!〈ただ、最近はブログ更新が止まっていますね。お元気なのですか?〉)。同研究所ゼミナールのメンバーには京都女子大学以外の大学の学生・院生諸君がたくさん参加しており、むろんのこと男性も多数含まれている。さらに、ここにはウチの奥さんまでお世話になっているのであるから、どう考えても無理無体なことはできないのである。念のため。

 26日には、まずウチの犬君たちを京都郊外某所のペット=ホテルに預ける。マックとクイールにすると、始めてのホテル体験である。いい子にしてくれるかどうか、ちょっと不安。京都駅にとって返し、新幹線に乗車。三島駅着は昼過ぎ。ここで同研究所ゼミナール修了生のR書店のSさんと落ち合う。残念ながら外は雨である。
 効率よく回るためにタクシーを拾い、間眠神社(頼朝伝説あり)、法華寺(代用国分尼寺)、宝鏡院(足利義詮創建、義詮の供養塔あり)、三島市立三島暦館、三島市郷土資料館を駆け足で回る。三島駅に帰り、駅前のレンタカー屋で車を借り、今度は黄瀬川の八幡神社に行って、伝・頼朝義経対面石を見物。このあたりは、明らかにウチの奥さんの趣味の世界である。その後、三島大社において、京都から車を飛ばして来た(私にはこんな芸当はできない。長距離運転はすぐに眠たくなる。しかも大雨の中の運転は、とうていムリ)野口教授一行と合流する。ホテルは三島市中心部の三島プラザホテル。夕食は、本町うなよしにおいてウナギ丼の定食。やっぱり三島ではウナギだね。夜は、野口教授とじっくりと話しこむ。

manazurumiszki 27日は、みんなと一緒に真鶴岬へ車を飛ばす。ここは、源頼朝が石橋山の戦いに敗れた後、安房へ逃亡した故地である。岬の先っちょ近くまで行けたのは感激(写真)。そこから、頼朝と北条政子の愛の地といわれる伊豆山神社。さらに伊東市街を抜け、上白岩縄文遺跡に立ち寄り、伊豆市の修善寺温泉に入る。
 修善寺はいうまでもなく、鎌倉2代将軍源頼家が幽閉され、さらには殺害された場所である。一昨年以来2回目なのであるが、やっぱり何度でもこなくちゃ。修善寺と同宝物館、伝・頼家墓などを訪ねる。頼家墓の側に、伝・「十三士墓」(頼家の忠臣達だといわれる)が移築されていた(以前は別の場所にあった。一昨年に来た時は台風のために崩壊していた)のには仰天。お泊まりは、ホテル和光という和風のホテル。やっぱり、温泉では和風旅館に限るね。タイの刺身と肉厚のカニを堪能した後、ゆっくりと温泉につかる。
 この修禅寺のような場所をどう考えるべきか、お湯につかりながら頭をめぐらす。こうした場所も、中世の「都市」として評価しなくてはなるまい。「中世温泉宗教都市」というネーミングを思いついたのだが、どうもゴロが悪い。「中世リゾート都市」「中世保養都市」・・・、う〜ん、どうもうまくないな(^_^;)。しかし、この発想自体は間違っていないと思う。
 
nirayama 28日は、伊豆の国市(地元の方々には悪いが、奇妙な名前を付けたものである)の旧・韮山町に向かう。同市教育委員会のIさん・Yさんが出迎えてくれる。「守山中世遺跡群」と呼ばれる北条氏等の関係史跡(北条氏邸跡発掘調査現場・堀越御所跡・願成就院・守山八幡宮・守山)をご案内いただく。以前来た時とは違い、やっぱり地元の研究者に連れてもらうと観点が違う。守山の頂上から韮山の平野を一望にするのは感激的(写真)(ただし、晴の日ならばここから富士山が綺麗に見えるらしい。今回は曇のため、残念)。さらに、鎌倉時代の石塔を持つ真珠院を訪れる。
 私たちはここで野口教授一行と別れる。本当ならばもっとゆっくりしていきたかったのだが、なにせ犬君たちのお迎えの時間が限定されているのである。後は、駆け足で三島市郷土資料館(山木遺跡〈弥生時代〉・守山中世遺跡群等出土遺物)を見学し、韮山城跡(きわめて残りの良い中世城郭であることに感動!)に登る。さらに、頼朝の流刑地とされている伝・蛭ヶ小島跡に立ち寄り、三島駅に戻る。

 帰りの新幹線ではぐっすりと寝込む。京都着は17時43分。すぐに犬君たちのお出迎え。ちょっとあわただしかったけれども、良い旅になりました。野口教授をはじめ、京都女子大学宗教・文化研究所ゼミナールのメンバーの皆さんに感謝m(_ _)m。

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 追記:今、気が付いた。2月22日で、本ブログ創設1周年である。三日坊主の私としては、よく続いたものである。とりあえず、個人的にはめでたい。と、いっても、別に記念イヴェントをやるほどの気力はないから、ひとりで祝杯をあげることにしよう。

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