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2006.08.27

「日本沈没」を見る、の巻

 8月26日(土)
 話題の映画「日本沈没」を見に行く。
 映画はあまり見ないのですが、「日本沈没」は小松左京の原作がすばらしかったし、また1973年の映画版(森谷司郎監督、橋本忍脚本、小林桂樹・藤岡弘・丹波哲郎・いしだあゆみ他出演)も凄いできあがりだったので、それをどうリメイクしているのかに関心があったのです。

 結論。いやぁ、これはひどい。ひどすぎますね。日本が沈没するという悲劇がひどいのではありません。映画のできあがりがひどいのです。最新の技術を駆使した特撮は凄い迫力であることは確かです。しかし、せっかく金をかけた特撮も、映画全体のおそまつさをカバーすることはできなかった。製作費20億円、あぁ、もったいない。
 もちろん、映画なんだから、原作を忠実になぞらなくてはならない、なんてことは申しません。しかし、この作品は原作がすばらしく精緻な仕上がりなのですから、素直に映像化しただけでも充分な水準に達するはずです。それにもかかわらず、その、せっかくのすばらしい原作をあちこちいじりまわしたあげく、まったくムチャクチャなものに仕上げてしまったのですね。こういうことができる映画製作者は、ある意味で「才能」といえるのかもしれない、と、変なところで感心してしまった(^^;)。

 この樋口真嗣という監督、私はよく知らないが、単なる無能な人物、ということではないらしい。この人はもともと特撮監督であるとともにアニメの絵コンテで評価が高い人だったらしい。そう言われてみれば、『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』(1999年)(京都が破壊〈!!〉される衝撃的映画)の特撮がこの人で、確かにその映像は一見の価値があるものでしたね。今回の「日本沈没」も、そういう点から見ると個々のカットや特撮には目を引くものが多いことは確かです。しかし、その個々のカットが、全体にまったくつながっていないんですね。お話の前後が矛盾し、つじつまが合わず、テンポの緩急がまったく無視され、重要なカットとそうでないカットのバランスがぜんぜんとれていない。つまり、細かいところにこだわるばかりで、全体がまったく見えていない。よくもここまで話を薄っぺらにできたな、と感心するほどのできばえです。要は、監督に「構成力」がない、ということに尽きます。というか、構成力のない人は全体の演出をやってはダメ。監督失格、ということですね(ネットの掲示板を見たら、やはり悪評紛々・非難囂々ですね。お気の毒というか、自業自得というか・・・)。

 恐れることは、この2006年大駄作版「日本沈没」を見た人が、それが真の「日本沈没」だと誤解してしまうこと。むしろ、2006年映画版「日本沈没」は、原「日本沈没」のパロディ版だと思っておいたほうが良いと思います。真の「日本沈没」は今回の映画ではなく、原作および1973年映画版なのだ、ということを解っておいてほしいものです。

 1973年映画版は、もちろん特撮は今回のものに及びませんが、映画全体のできあがりはすばらしい。森谷司郎監督の演出も橋本忍の脚本も非の打ち所がないし、出演者も名優ぞろいです。田所博士=小林桂樹は重厚なアウトサイダー的学者をこれ以上ない存在感で演じていました。小野寺俊夫=藤岡弘のワイルドな演技もすばらしい。さらに特筆されるのは山本首相=丹波哲郎の苦悩に満ちた指導者ぶりですね。個人的には、若きいしだあゆみが演じた阿部玲子の妖艶な魅力に圧倒されたものでした。「日本沈没」を映像で見るならば、(1974年テレビドラマ版も悪くなかったが)、1973年映画版に限ります。


2006.08.17

大文字2006と水尾の里、の巻

 8月15日(月)
 暑い。暑いぞ。
  夜、またまたウチの奥さんに引きずられて、再び千本えんま堂の六斎念仏を見にいく。今日は舞台仕立ての「一般公開」、いわばハレの舞台であり、演目も多様なら、出演者の皆さんもリキが入っている。クライマックスの「獅子と蜘蛛の精」では、蜘蛛の精が客席に放った糸が、私たちに向かってまともに飛び込んでくる。面白かった〜(^o^)。

 8月16日(水)
Seiwatennou
Daimonzi いったんハマりだすととめどがなくなるのが、ウチの奥さんのクセである。どういうわけか、今回は六斎念仏にハマってしまったらしい。今日は、右京区水尾(本来は「ミノオ」のはずだが、「ミズノオ」と呼ばれることも多いし、近年の発音は「ミズオ」)の円覚寺でおこなわれる「円覚寺六斎念仏」を見に行きたいという。彼女の魂胆は見え透いている。私を運転手代わりに使おう、というのである。水尾の里というのは、京都市右京区の一部ではあるけれども、愛宕山の山麓の小さな谷間の集落であり、私もめったに足を運ぶことはない。どうしようかな、としばらく迷ったが、水尾には清和天皇水尾山陵がある。私も同天皇陵にはずいぶんとご無沙汰である。今年のはじめに出した「平安時代天皇陵研究の展望」(『日本史研究』第521号掲載)の中で清和天皇陵を扱ったことでもあるし、現状がどうなっているか、気にはなっていた。こんな機会でもないとなかなか行くこともできない。と、いうことで、覚悟を決めて出かけることにする。
 嵯峨・鳥居本から狭い狭い道をくねくねと登り、保津峡の渓谷を下に見ながら水尾の里に向かう。対向車が来るとすれ違えないような細道である。保津峡駅あたりで車がつかえているぞ、と思ったら、昨日起きた保津川の落石事故の現場検証のために警察が出動しているのであった。落石はありがたくない。くわばらくわばら。
 清和天皇陵(写真)は水尾の集落から、さらに谷を挟んだ反対側の山頂にある。この蒸し暑い中、谷に降りて、また山を登るのは結構な苦行である。やっとたどりついた時には汗だくである。同天皇は「水尾山寺」に葬られ、同寺が事実上の「陵寺」(陵墓を管理する寺院)となっていたから、このあたりの山中を精細に踏査するならば山岳寺院の遺構を見いだすことができるかもしれない。とりくんでみたい気はあるが、かなりのチカラワザになるだろうな。
 水尾の集落に戻り、清和天皇社に参拝、それから六斎念仏がおこなわれる円覚寺に行く。清和天皇は東山・白河の円覚寺(元は摂政藤原基経の山荘・粟田院)で崩御、遺骨がここの水尾山寺に葬られた。後、白河の円覚寺が廃絶したために水尾山寺が円覚寺の名跡を継承したのがこの水尾の円覚寺であるという。小さなお寺であるが、かかっている札に「粟田山円覚寺」の名が書かれているのはちょっと感動モノである。円覚寺六斎念仏についてはウチの奥さんの頁に譲っておこう。
 円覚寺を出て歩き始めると、向こうから男の人がニコニコ笑いながら近寄ってくる。ハテ?、こんなところに知り合いがいたかな?、と思ってよく見ると、なんと、K資料館の近代史のK氏だった。夫婦で六斎念仏を見に来たというのも、ウチと同じである。お互い、奇遇に驚く。

 夜。大文字送り火(何回も繰り返します。頼むから、「大文字焼」と呼ばないでください。他所は知らず、京都では「大文字五山の送り火」「五山の送り火」「大文字送り火」、または単に「大文字」とは言いますが、ぜったいに「大文字焼」とは言いませんので・・・)。お盆の行事のクライマックスである。下長者町通まで出て、うつくしい炎の「大」字に手を合わせる。さあ、これで京都の夏は峠を越えたぞ。


2006.08.14

7月の日記とりもどし、の巻

 一応、日記の形式をとっているのであるから、あんまり間が空くのはいささか困る。サボっていた部分のとりもどし。まずは7月から。

7月7日(金)〜10日(月)
 研究室旅行。7日の19時30分の大阪南港発のフェリーで、宮崎。私は船は大好きなのだが、学生の中には船酔いする者もでる。
 8日:西都原古墳群・西都原考古学博物館、日向国分寺を見学。西都原古墳群は何十年ぶりである。新しい考古学博物館ができている。いかにも金をかけた博物館、という感じであるが、この博物館の展示には賛否両論があるだろうな。「博物館学芸員課程」を履修している学生には、夏のリポートをこの博物館の論評で書くと良い、と示唆する。その後、古墳群を一周。やはり暑くて、へとへと。しかし、台風の直撃をまぬがれただけ幸福と思わねばならないな。日向国分寺では、木喰上人行道(明満)のおおきな仏像に出会い、感激。晩は宮崎市内に戻り、宴会。
 9日:宮崎県立総合博物館、綾城(宮崎県東諸県郡綾町)、みやざき歴史文化館・蓮ヶ池横穴墓群を見学。宮崎県総合博物館は、行く前には、旧態依然の古ぼけた博物館を想像していた(失礼!)。ところが、これがまったく嬉しい予想はずれ。これはすばらしい博物館である。博物館の王道をきちんと踏まえた上で、細部にいたるまで充分な目配りを利かせた意欲的な展示である。詳細は知らないが、これは学芸員によほど力のある人が揃っていないとできないことである、というのはまちがいない。同じ宮崎県立でも、昨日見た西都原考古学博物館とはまったくの好対照の展示である。綾城にいったのはまったくの偶然。そこにある酒泉の杜という観光施設で焼肉の昼食をとることになっていた。学生の幹事にまかせっきりにしていたので、それがどこにあるのか聞いてみると、綾町だという。それならば、中世様式の模擬天守が建てられている綾城のあるところだ。わがままを言って、立ち寄ってもらう。夜のフェリーに乗り込み、ゆらりゆらりと揺られながら酒をちびちびとやる。早朝に大阪着。いったん帰宅した後、大学で会議。

 7月11日(火)
 巨椋池調査会の会議。

 7月12日(水)
 文理閣の黒川美富子さんの御自宅で飲み会。例によって例のごとしとなる。

 7月13日(木)
 K博物館のM氏、来訪。来年の特別展について、相談を受ける。夜は文理閣で編集会議。

 7月14日(金)
 午前、朝日カルチャーセンター京都に出講。「平安京・京都の歴史を歩く(14)天智天皇と幻の大津宮」の1回目で、「『大化改新』と天智天皇」について話す。

 7月15日(土)
 大学での授業を終え、日本史研究会の研究委員会。その後、日本史研究会7月例会「弥生・古墳時代の実年代論」の本番。森岡秀人さん(芦屋市教育委員会)に「弥生時代の実年代論」を、福永伸哉氏(大阪大学大学院文学研究科)に「古墳時代の実年代論」をお願いし、私は司会をつとめる。機関紙会館の大会議室が満員になったので、ホッと一安心。肩の荷を降ろしてから、両氏を囲んでゆっくりと飲む。S大学の考古学のO教授も来て頂いたのは嬉しい限りである。

 7月16日(日)
 前近代日本都市論研究会のスペシャル版。京都文化博物館で「祇園祭」の映画を見る。久しぶりに見たのだが、やはり凄い映画だ。これ、権利関係が複雑に絡み合っているらしくてほとんど「幻の名作」になってしまっているのだが、なんとか解きほぐしてDVD発売してくれないかな? 感動の余韻を残しながら、祇園祭の宵山で賑わう下京の町にでかける。鴨川の「床」で美酒を傾けてから、K研究所のYさんの行きつけの「隠れ家」でまた飲む。

 7月17日(月・祝)
 山鉾巡行の日だが、残念ながら雨。午後、雨の中、仁木宏さんの案内、文理閣の皆さんと「中世上京」を歩く。終了後の、洛北・雲ヶ畑の料亭「洛雲荘」でのごちそうについては、既報の通り。

 7月22日(土)
 今週で、ようやく前期の授業が終了。21日(金)に同志社大学の授業があったので、その前に文化史学科のI教授と雑談。すると、「明日の文化史学科の懇親会への返事をくれていないけれども、出ないの?」と言われる。しまった! 返事を出すのをすっかり忘れていた! 平謝りして、なんとか追加で潜り込ませてもらうことにする(^^;)。22日夜、京都ブライトンホテルで懇親会。京S大学の法制史のT教授と話し込む。二次会は考古学関係者で市内中心部のホテルのバー。


 7月23日(日)
 第16回 平安京・京都研究集会「都の東と西—中世・近世 洛外の交通—」の本番。今回は私は裏方の担当。受付のあたりに陣取る。ちょっと地味なテーマなのでどれくらい来てもらえるかな?と思っていたが、それは杞憂だった。意識の高い方々ばかりで、会としてはありがたい成功である。

 7月28日(金)
 わが研究室の「お疲れ様コンパ」。何がお疲れ様なのかわからないが、とにかく呑む。

 7月29日(土)
 大阪歴史博物館で、「難波宮と飛鳥宮」のシンポジウムがあるので、聞きに行く。古代都城制研究の最先端を吸収。夜は、難波宮研究の第一人者・中尾芳治先生(元・帝塚山学院大学教授)の古稀記念会に出席。会場に着くと、幹事のMさんから「それぞれの都城からひとりづつ挨拶に立ってもらいますからね」と言われ、どういうわけか私が「平安京代表(?)」に指名される。中尾先生の人柄の通りの、和気藹々の楽しい会であった。終了後は森ノ宮駅前の飲み屋に潜り込み、Hさん、Yさんとで二次会(いいや、匿名を止めて言っちゃおう。橿原考古学研究所の林部均さんと、京都大学の吉川真司さんです(^_^)v)。この分野の第一人者おふたりと膝をつき合わせて飲むことができる幸福をかみしめる。

 7月30日(日)
 1617会の例会。ちょっと遠いし(ホントはそうでもないのだが、怠惰な私にはえらく遠く感じるのである(^^;))、二日酔いでもあるし、どうしようかと思っていたが、やっぱり勉強しなくちゃ、ということで、奈良県の宇陀市の宇陀松山城々下町に出かける。知らなかった城下町をじっくりと歩かせてもらい、さらにはじっくりと報告を聞く。そして、八木駅前に場所を移し、例によって飲み会。

 7月31日(月)
 午前、東山の洛翠荘に行く。もちろん存在は知っていたが、なんだか敷居が高い感じがして、今まで入ったことがなかった。いいチャンスである。名匠・7代目小川治兵衛作の明治の名庭がある。庭を拝見しながら、出版社S書院のインタビューを受ける。

 こうやって書いていると、いかにも呑んでばかりだな。そのうちアルコール依存症になるんじゃないだろうか(^^;)。


2006.08.13

六斎念仏について行く、の巻

 8月11日(金)
Senbonrokusai

 午前、朝日カルチャーセンター京都に出講。「平安京・京都の歴史を歩く(14)天智天皇と幻の大津宮」の2回目で、「幻の大津宮と天智天皇陵」について話す。午後、京都文化博物館の特別展「北斎と広重展」を見学。

 帰宅してほっこりしていると、ウチの奥さんが、千本ゑんま堂(引接寺 上京区千本鞍馬口下ル)の千本六斎会の「勧善廻り」(重要有形民俗文化財「京都の六斎念仏〜千本六斎会」) を見たい、という。面白そうなので、ついていくことにする。19時、千本ゑんま堂に着。本堂の中はもうもうとしたお線香の煙で一杯である。奥から、閻魔大王がこわいこわい顔で睨んでおられる。水塔婆を書いてもらい、本堂の裏の池に流す。もちろん、迎え鐘もつかせていただく。
 そうこうしているうちに、六斎念仏が始まる(写真)。リズミックな豆太鼓の響きが心地よい。閻魔様の前での奉納が終わると、いよいよ「勧善廻り」の開始である。閻魔堂を出て、その北側の廬山寺通を西進、あちこちの家の前で念仏踊をおこなうのである。ちょっとずうずうしいとは思ったけれども、ウチの奥さんがついて行くと言ったので、私も同道である。この千本六斎会は、観光客向けのイヴェントではなく、地域の人々が自らの生活の中に守り続けているのである。深く感動。

 8月12日(土)
 恒例、下鴨神社・糺の森の「古本まつり」。いろいろと買い込む。しかし、家に帰ってみると同じ本を買っていたものがある。がっくり(^^;)。


2006.08.09

「美のかけはし」と六道まいり、の巻

 8月8日(火)
 大学の仕事もやっと一段落(←ウソ。さぼっているだけです)。

 行こう行こうと思いながらなかなか行けなかった、京都国立博物館の特別展覧会「美のかけはし—名品が語る京博の歴史—」に出かける。長蛇の列かな?と心配していたが、案外そうでもなかった。しかし、満員のぎゅうぎゅう詰めでも腹が立つし、逆に空いていたら空いていたで、なぜみんな博物館を見に来ないのか、と腹が立ってくる。人間、身勝手なものである(^^;)。
 とにかく、掛け値なしの名品のオンパレード。「京博」に焦点をあてているので、最初の部屋は後白河法皇の法住寺殿、次の部屋は豊臣秀吉の方広寺と、私のテーマに直結するところばかりである。高倉天皇像と後白河法皇像が部屋の両端に並んでいるところなど、思わず随喜の涙がこぼれ、手を合わせて拝んでしまった。と、いうのはちょっと大げさだが、それに近い気分になったのはウソではない。なにせ、去年「福原京論」に熱中した時には高倉天皇には大変々々お世話になった(?)からな・・・ 中央ホールには目玉商品の、神護寺蔵の国宝「源頼朝像」「平重盛像」。先日、昭和初期に描かれた「頼朝像」の模写品を手に入れたばかりだから、これも興味津々である。もっとも、この肖像画の像主については、頼朝ではなく足利尊氏(←8/10補記、勘違いしました。正しくは足利直義でした。Y様、御指摘に深謝)であるという米倉通夫説が提出されて議論になっていることは周知のとおりである。

 帰りに寄り道をしていると、ウチの奥様から電話がかかってきた。ヒマなのならば、六道まいりに行こう、という。これには異存はない。六道まいりも久しぶりである。
 六道珍皇寺、西福寺、六波羅蜜寺を回り、五条通に出て「陶器祭」を冷やかし、若宮八幡宮を通って再び六波羅蜜寺に帰る。珍皇寺では高野槙を買い、卒塔婆に先祖代々と書いてもらい、迎え鐘を撞き(これが長蛇の列)、本堂にお詣りし、卒塔婆を線香の煙で清め、お地蔵様の前に卒塔婆を供え、それに高野槙の枝で水をかけて回向する、という、正規の順序をきちんと踏んでみた。なんだかすがすがしい気分になる。
 そういえば、六道まいりでこの世とあの世を繋ぐ役目を持っているのが高野槙の小枝であること、そして前期・中期古墳の木棺の用材にはほぼ例外なく高野槙の巨木が使われていることの両方に注意を喚起されたのは、森浩一先生だった(『古墳文化小考』)。こうしたことに気づかれるというのは、森先生ならではの豊かな発想力である。まったく脱帽するしかない。ただ、この両者が関連づくのかどうかは、私は未だにわからない。

 途中、ふじひら陶芸さんの登窯の横を通ったら、中から声が聞こえる。窓から覗いてみると、なんと、関西学院大学の西山克教授が地獄絵の絵解きの真っ最中である。もうちょっと早く知っておれば聞かせていただいたのであるが、途中から乱入するわけにもいかず、後悔のホゾを噛む。

 西福寺ではこの時だけ公開される「九相死図」の掛軸にひさしぶりに対面する。九相死図とは、絶世の美女が死に、それが腐乱死体から骨となるという様子を描いた凄惨な絵のことである(西福寺本ではないが、参考のためにリンクしておこう)。私は、これは鳥部野葬地(つまり、六道の辻のあるこのあたり)の実像の描写であると固く信じている。六波羅蜜寺では、萬燈会に参列させてもらう。本堂の中に幾百とも知れぬ灯明が輝くのはなんともいえない幻想的な雰囲気であり、中世の雰囲気にどっぷりとひたることができる。

Hisyaku 驚愕したこと。珍皇寺の本堂では、お蝋燭のお布施を受けとるのに、長い柄のついた柄杓を使っている!!(写真左) なぜこれが面白いのかというと、中世のこのあたりでは、参詣者からお賽銭をいただくのに長い柄杓を使っていたことが、絵画史料から判明するからである。写真右は「清水寺参詣曼陀羅」。五条橋中島(つまり、珍皇寺から500mほど西側)に存在した法城寺<ほうじょうじ>の光景で、お堂の中の向かって左側に大黒天が祀られ、その右側に座った僧侶が長い柄杓を道路側に突き出している(写真の解像度が悪いのですが、おわかりでしょうか?)。この両者、似ている、あまりにも似ている。頭の中でこのふたつの光景が交錯し、思わず、中世にタイムスリップしたような錯覚に襲われてしまう。こういうことがあるから、やっぱり京都っていいんだよな〜(^o^) (と、私が言ってもぜんぜん説得力はないかもしれないが・・・(^^;) )。

 中世の「異界」を堪能した1日だった。



2006.08.03

日本最古型式のマコ!!、の巻

Mako マコ、といっても、一般の方にはなんのことかわからないに違いない。しかし、これは考古学研究者にとってはなくてはならない道具なのである。人によっては「マーコ」と呼ぶこともあるし、漢字で「真弧」と書くこともある。また、その形状によって「クシ」「櫛」と呼ぶ人もある(私は縫い針を使用した手作りのマコを愛用していた。これを「ハリグシ」と呼んでいた)。つまり、考古学で遺物実測をおこなう時の「形取り器」のことである。現在の日本考古学の遺物実測図は世界の最高峰を究める水準に達しているのであるが、その「秘密兵器」となったのがこの簡単な器具だったのである。そもそも、現代の考古学研究者でマコのお世話になったことのない人は皆無といってよいはずである。マコこそは日本考古学の技術史に燦然と輝く大発明だったということには、考古学者であれば誰しも同意することであろう。
 マコを使うと、きわめて精密な実測図があまりに簡単にできてしまうから、先生によってはマコの濫用を戒める人もいた。私たちが学生の頃には、「マコ。甘えてばかりでご免ね。土器はちっとも、似てなか〜ったの〜」という替え歌までも作られていたのである。

 この「マコ」、若き日の小林行雄氏(後、京都大学名誉教授)が発明したものである、というのが通説である。氏の自叙伝にも、昭和5年(1930)夏に「晴れの舞台で使」い、「この実測器は、その後、多少の改良を加えたが、今でも考古学徒のあいだに広く普及している」と記されている(『考古学一路』平凡社、1983年)。ところがこれには異説がある。穴沢和光氏(「和」は異体字)の「小林行雄博士の軌跡」(『考古学京都学派』所収、雄山閣、1994年)には「角田文衞によると京大では能勢丑三が1928年ごろから大きくて精巧なマコを作って遺物の実測を行っており、その実物をいまも角田が保存しているという。小林が土器実測に使用したマコは能勢のものに較べて小さくて粗末に見えたという」と記されているのである。

 先日、久しぶりに角田文衞先生の御自宅にうかがった。「私が若い頃に使っていた遺物実測用具があるのですが、山田さん、もらってくれますか?」と言われたので、頂戴しにいったのである。ドキドキしている私の前に先生が出されてきたのは、まさしく能勢丑三氏が製作された昭和初期のマコであった。先生によると、「これは、能勢丑三さんが使っておられたものを、昭和10年(1935)頃に私がいただいたものです」という。大きさは横17.2cm×縦7.7cm。型取りの部分は薄く削った竹片(おそらく織機の「オサ」の転用)がびっしりと詰められており、確かに精巧な作りである。今でも充分に実測に使えるであろう。
 京都大学総合博物館の常設展示に、初期のマコが飾られていたのを見たことがある。それは、かなり大型のものではあったが、型取りの部分に竹ヒゴが使われており、その間隔もかなりパラパラのものであったと記憶する。おそらくは、これが小林式マコの初期のタイプなのであろう。能勢式マコはそれに比べると、小さくはあるが精密なできあがりであることは確かである。

 小林式と能勢式のマコ、どちらが早かったのかを問いつめてもそれは詮のないことであろう。穴沢氏も指摘される通り、マコはそれ以前からも工業界で型取りのために使用されていたのであり、それがほぼ同時期に複数の研究者によって考古学に導入された、そして、最初の導入者が誰であれ、それを考古学界に普及させた功績者が小林氏であったということは確かだからである。しかしその一方で、この能勢氏製作のマコが、小林式と並ぶとともにそれとは系統を異にする日本最古のマコのひとつであることも、重要な事実として認めなければならないであろう。能勢丑三氏は昭和10年に京都大学を辞任している(角田文衞「能勢丑三略伝」〈『考古学京都学派』所収、雄山閣、1994年〉)から、能勢式のマコはその後の考古学界に直接に受け継がれることはなかった。ただ、能勢丑三氏の後任として京都大学助手になったのは他ならぬ小林氏であったから、小林氏が能勢氏の仕事のやりかたを知らなかったはずはない。したがって、小林氏のいうマコの「改良」には、能勢式マコからの影響があったということも考えられる。もしそうだとすると、現在の我々が使っているマコは、小林式と能勢式が融合し、さらに発達したものだということになる。その点では、この能勢式マコは私たちの考古学技術のはるかな淵源のひとつだといっても良いであろう。

 ともあれ、エラい値打ちモノをいただいた(^_^)v。これは、考古学界にとって学史的な文化財と言わなければなるまい。そのうち、どこかの博物館で展示してもらおうかな・・・ 
 角田先生、ありがとうございました。大事に大事にいたします。m(_ _)m m(_ _)m


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