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2006.11.29

短いもの、いくつか、の巻

 短いものが、いくつか出た。
 山田邦和「歴史への窓〜日本人が描いたピラミッド」(『花園史学』第27号掲載、京都、花園大学史学会、2006年11月)。ウチの大学の史学会の機関誌で、「歴史への窓」という気軽な歴史エッセイを載せる項がある。急遽の執筆でどうしようかと思ったのだが、幕末・明治の京都の銅版画家の玄々堂松田緑山が描いたスフィンクスとピラミッドの版画を題材にした。これが、イギリスの画家デヴィッド・ロバーツの作品の模写であることを指摘。
 山田邦和「考古学とは何か」(『考古学ジャーナル』No.552掲載、東京、ニューサイエンス社、2006年12月)。月刊『考古学ジャーナル』の「今月の言葉」として書いたもの。巻頭なので、ちょっと大上段にふりかぶって、「考古学の定義」を考えてみる。枚数制限が厳しいので論を充分には展開できないのはしかたない。私の考古学の定義=「歴史学の方法学たる史料学の一部門として、物質史料をあつかう学問。つまり『物質史料学』」。自分ではそんなに悪くない定義だと思っている。
 山田邦和「伊江島—龍の火焔」(『花園大学人権教育研究センター報』第10号〈通巻29号〉掲載、京都、花園大学人権教育研究センター、2006年12月)。人権教育研究センターの研修旅行で沖縄に行った時の紀行文。沖縄本島の北西に浮かぶ「伊江島」で考えたことを書く。
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 11月28日(火)
 授業で、いつものように学生を引き連れて平安宮跡を歩く。平安京復元模型のある京都アスニーまで行って、びっくり。今日は休館日だった。無念。その後、内裏跡で突然、自分がどこを歩いているのかわからなくなる。ショック!! 大学に帰ろうとしてバスを待っていると、京都バスが来る。市バスに乗ることばかりを考えていたので、乗り損ねかける。ドアが閉まりかけてから、ハッと気が付く。京都バスならば大学のそばまで行ってくれるのである。あわてて乗り込む。脳細胞が崩壊しかけているような気がするな(^_^;)。我ながら、疲れているようだ(T_T)。
 K大学で、巨椋池調査会の会議。18時から21時までびっしり。「向島の『二ノ丸池』」という短い報告をする。そろそろ大詰めで、成果をまとめなければならない段階に来る。その後は、百万遍の飲みやで一杯。

2006.11.28

洛陽を学ぶ、の巻

11月23日(木・祝)
 角田文衞先生のお宅に招かれる。しばらくぶりにお会いしたら、確かに歩行は辛そうだが、大変お元気になられていて安心する。わが学界では、斎藤忠先生、有光教一先生に次ぐ最高齢者になられている。それにもかかわらず、こちらが負けるほどよく喋られるし、私の最近の研究の内容も、よく聞いていただく。かなりの長時間、ふたりだけでお話しさせていただいた。感謝。
 ウチの奥さんは、楽しみにしていた社員旅行のハズだったのだが、急に体調を崩してしまう。ひどい下痢と嘔吐。旅行に行けなくなる。可哀想。
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 11月24日(金)
 伯父が入院したので、病院に行って、いろいろ説明を受ける。その後、京都新聞文化センターに出講。「<京都学講座>第1期・京都の原点を探る」の「京都のあけぼの」の最終・3回目。「嵯峨野の古墳と秦氏」を話す。
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 11月25日(土)
 大阪歴史博物館での「都城制研究会」に出席する。中国から洛陽の研究者がおふたりお越しになっているので、その方々の報告を聞く。洛陽の考古学調査の最新の知識を得ることができてありがたい。ちょうど、○○博物館研究報告に掲載してもらう論文で隋唐洛陽城の復元図を描いたところだもんな。その後は宴会。
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 11月27日(月)
 同志社大学の授業に行かなくちゃ、と思っていて、ハッと気が付いた。電話をしてみると、やはりそうだ。同志社はEVE祭(いわゆる、創立記念の学園祭)の真っ最中で、授業は休講だ。これは好都合。病院に伯父を見舞う。今日、手術を受けることになっている。患部の激痛を訴えており、早くなんとかしてあげて、と叫びたくなる。88歳の高齢なので少し心配。
 その後、市内某所で会議。夜までかかる。心配していた伯父の手術も、無事成功した。ありがたい。病院の先生や看護師の皆さんに、感謝。病院に寄ってから、帰宅。夕食はうどんで鍋。ウチの奥さんも、かなり回復。

2006.11.26

高橋美久二さん、さようなら、の巻

 11月26日(日)
 24日の新聞に、訃報が掲載された。滋賀県立大学名誉教授・高橋美久二氏(考古学・歴史地理学)が逝去されたのである。享年63歳。哀悼・・・ 本来は「高橋先生」と呼ばなければならないのかもしれないが、やはり、言い慣れた「高橋さん」と呼ばせてもらおう。
 およそ、京都の考古学に関係している人間で、高橋さんの世話にならなかった人がいるだろうか? 失礼を顧みず回顧させていただこう。決して能弁な人ではない。むしろ、相手に対面した時には、唇をちょっと震わせながら、少し口ごもるような口ぶりで話をされる。その朴訥な風貌そのままに、学問にも人間関係にも誠実で真摯な態度を貫かれた研究者であった。私が始めて高橋さんに会ったのは・・・ それは、よく思い出せないほどにはるかな昔のことである。多分、京都府教育庁に勤務しておられた頃のはずである。笑うと前歯の欠けたところが良く目立ち、高橋さんが話をされると、なんだかとっても暖かい雰囲気が周りにただよったことを覚えている。私は高橋さんと発掘調査の現場を共にしたことは無いが、そうした機会に恵まれた研究者のほとんどは、高水準でありながらすごく暖かい現場の雰囲気を回顧されている。さもありなん、と思う。
 高橋さんは永く京都府教育庁(含・京都府埋蔵文化財調査研究センター&京都府立山城郷土資料館)に勤務された後、1995年に新設の滋賀県立大学に助教授として移籍された。大学に移ったことを、すごく喜んでおられたらしい。滋賀県立大学では歴史地理学の講座と博物館学芸員課程の創設および育成に心血を注がれた。その後、教授に昇進され、さらには京都大学で博士号を取得されるなど、世間的に見るならば順風満帆であった。しかし、病魔は迫っていた。辛い治療にも、高橋さんらしく、黙々と耐えておられたという。山中章博士が主宰され、私もお世話になった国立歴史民俗博物館の共同研究にも名前を連ねておられた。私はその研究会の席上で高橋さんにお会いするのを楽しみにしていたのであるが、結局は健康上の理由でほとんどそれがかなわなかった。たまにお会いした時にはいつものように明るい声をかけていただいたのであるが、治療の副作用の痕を見るのは、正直言って辛かった。どんな会話をしていいのか、いつもこちらが口ごもってしまった。
 滋賀県立大学の定年を残したまま、今年の3月、高橋さんは大学を辞された。自らの生命の限界を感じ取られた高橋さんは、残された時間を自分の人生の総括に捧げることを決意されたのだと思う。それから間もなく、高橋美久二編『近江の考古と地理』(彦根、滋賀県立大学人間文化学部考古学研究室、2006年)を送付していただいた。高橋さんが11年間の大学生活で育成してこられたエッセンスがつまっているのが、痛いほどに感じられた。
 いつかは、というようには思っていた。しかし、今、ついにその時を迎えてしまった。葬儀は盛大だった。高橋さんの後任として滋賀県立大学に赴任されたI助教授としばらく会話する。彼は、私の大学生時代の後輩である。良い後任を得られたのだと思う。
 焼香をし、入棺を見守る。高橋さんとの最期の別れをするように促されたが、御尊顔を拝する勇気は出なかった。そのまま、お車が出て行くのに手を合わせ、別れを告げる。高橋美久二先生、これまでお世話になりました。さようなら。どうぞ安らかにお眠りください(涙)。

2006.11.21

古代都城を語る、の巻

Hana
 11月18日(土)
 花園大学史学会の当日。
 福岡・広島出張中にも新幹線にノートパソコンを持ち込んで文字を打ち込んでいたのは、このための準備である。私は、記念講演というのをやることになっているのである。ヘタなことはできないので、とにかく必死でレジュメを作る。
 題名としたのは、「日本古代都城における複都制の系譜—もうひとつの都城史—」。そのほか、報告は非常勤講師のN氏の近代軍事史モノ、さらに専任講師のF・A氏の七世紀の仏教史がある。私のテーマは、ここしばらく、頭の中でグルグルグルグル回していたものである。茫漠たる内容が、やっとのことで形になってくる。今までの通説とはかなり違うが、これはイケる、のではないかという自負はある。「本番」ではかなり緊張したが、なんとか時間通りに終わることができる。聞いていただいた皆さんの反応もまずまずだったように思う。都城史にかけてはプロのF・A氏からも、及第点をいただいたようだ。ちょっとホッとする。終了後、思いがけずも花束をいただく。ありがたや。
 任を果たした後は、木屋町三条で懇親会。卒業生の皆さんにも、たくさん来ていただく。2次会をどうするのかな、と思っていたら、美術史のF・T教授が「カラオケに行こう!」と言い出す。近現代史のM助教授とN氏、さらにはウチの研究室の院生などを引き連れ、客引きのお姉さんの後をついて河原町三条のカラオケ・ボックスになだれ込む。工藤静香さんの「Blue Rose」(久しぶりなので、難しかった)、「青春時代」の替え歌「卒論時代」、宇宙戦艦ヤマト、それから踊るポンポコリンを唄うと、ノドがガラガラになる。我ながらアホである(^_^;)。
 でも、よく学んで、マジメに学問を語って、さらによく遊んだ日になった。

 11月19日(日)
 花園大学史学会の準備のために中断していた論文の完成に没頭。共同研究の親分、K大学の考古学のU教授の御尊顔が目の前をチラチラするような気がしながら、それでもなんとか、形をつける。CD-ROMに原稿を焼こうとして、何度も失敗。疲れているんだな・・・

2006.11.20

福岡と広島の入試、の巻

 11月12日(日)
 (社)紫式部顕彰会の「平安の京都を歩く」という講座に出講。第3回目だという。お題は、「考古学からみる平安貴族の邸宅」。11時半に京都商工会議所前で集合して、その近くの料理屋さんで会食。京都商工会議所は「小右記」の記主・右大臣藤原実資の小野宮の跡。その北側の料理屋さんは、関白藤原道隆の息子で内大臣伊周の弟の隆家の邸宅跡だ。これ幸いとネタにして、一時間ほど講演。そのあとは巡見で、高陽院跡、冷泉院跡、堀河院跡、閑院跡、東三条院跡、高松殿跡、三条烏丸御所(三条南殿)跡、三条西殿跡、高倉宮(東洞院大路・曇華院)跡、三条東殿跡をまわる。くたびれた。

 11月13日(月)〜15日(水)
 やらねばならないことがいっぱいなのに、3日間は拘束されることになる。わが大学も、今年から「地方入試」を始めることになり、私は福岡と広島に出張。月曜、問題用紙の入った頑丈なスーツケースを受けとる。ちょっと緊張。もうひとりの職員の方とともに、そのまま福岡に入る。夜は、一杯やってから、博多ラーメンの屋台を探してうろうろ。
 火曜日、いよいよ福岡での入試に臨む。会場はホテルの一室。欠席者もなしに無事に終わり、ホッとする。そのまま広島に移動。
 夕方、少し時間があるので、広島駅の近くの広島市文化財団文化財課の事務所に立ち寄る。来意をつげると、優しそうな女性の調査員さんが応対してくれ、一般公開もしている収蔵庫を案内してもらう。
 そのあと、せっかくだから、ひさしぶりに広島城に行く。本丸に「明治天皇大本営」の跡が残っているとは知らなかった。天守閣から広島市内を睥睨。
 広島城を出てフラフラ歩きながらフッと上を見上げると、大きな大きなビルが目にはいる。あれっ、と思って確かめてみると、広島県庁だった。県庁ならば、教育委員会もこの中にあるはずだ。ツカツカと入っていって、受付で教育委員会に電話してもらう。よかった、電話口から、旧友のK氏の声が聞こえる。「京都の山田です」「おぉ〜、びっくりした〜、久しぶりだな〜、どうしてるんだ〜」「いま、広島県庁の受付にいます」「??・・・・・ 何しとるねん?」。ということで、久々に面会。結局は飲みにいくことになる。じっくりと語りあう。
 水曜日、広島での試験。これも、大過なく終了できて、ホッとする。すぐに新幹線に飛び乗り、帰洛。新幹線の中でノートパソコンを開いてお仕事。15時、大学帰着。無事に終わってなによりでした。

2006.11.16

新聞に載る、の巻

 11月9日(木)
 朝、起床して、パンを口にほおばりながら「京都新聞」を開くと、いきなり自分の顔写真(写真参照。ただし左側ではありません。右側が私)が飛び込んできた(^_^;)。びっくり。パンをノドにつめそうになる。ちょっぴり気恥ずかしい。
 「観光・京都おもしろ宣言—とっておきの京都論—」というコーナーでインタビューを受けた記事である。「重層する歴史 嵯峨の奥深さ—有機的につながり合う都市」として、私の「中世都市嵯峨」論を簡潔に紹介していただいている。担当していただいた新聞記者が歴史・文化財のプロなので、私の言いたいことがきちんとまとめられている。ありがたい(^o^)
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2006.11.06

展覧会の秋、続き、の巻

 11月3日(金・祝)
 なんだか、調子が悪い。しかし、見たかった展覧会が終わりかけなので、重い身体を引きずるようにして出かける。

 ひとつは、京都市美術館の「ルーヴル美術館展—古代ギリシア芸術・神々の遺産—」。かなり話題になっている展覧会だ。行列に並ぶのはイヤだな、と思っていたが、幸い、ちゃんと中に入れた。
 古代ギリシア彫刻については何の知識もないが、やっぱり良いね。人間の理想的な姿を追究し、洗練に洗練を重ねたらこうなる、という、ひとつの見本である。日本でいうならば天平彫刻に対応するような「古典文化」の華である。目玉品の「アルルのヴィーナス」も良いが、私としては、アテネのパルテノン神殿の「本尊」をローマ時代に縮小模刻した「アテナ・パルテノス=『首飾りをつけたミネルヴァ』」の端正かつ毅然とした凛々しい表情に惹かれた。驚愕したのは、この像の原品は高さ12mを越える巨像で、象牙と黄金をふんだんにまとった豪勢なものだったということ。まさに「大仏」だ。年代は違っても、やっぱりギリシアと天平時代は対応するんだ、と一人合点する。
 気になること。ギリシア彫刻と呼ばれているものは、たいていはローマ帝国の時代になってからの模刻によって現在に伝えられているんだね。この展覧会でも、墓碑など以外は多くがそうした模刻品である。ギリシア文化にあこがれたローマ帝国の人々の心情も察せられるが、こうした作品にはそれぞれ原品があったはずだ。それらはいったいどこに消えてしまったんだろう・・・・
 くたびれて、京都市美術館を出たら、観客の長蛇の列。早く来てよかった・・・

 それから、向かい側の京都国立近代美術館にハシゴ。こちらは一転して「プライスコレクション—若沖と江戸絵画—展」である。伊藤若沖、曽我簫白など、絢爛たる近世絵画の饗宴である。
 楽しむことは楽しめたが、ますます調子が悪くなってくる。残念ながら、リタイア。

 大学では学園祭の真っ最中。あわてて駆けつける。「女装コンテスト」に行かねばならない。もちろん、私が出演するのではない(^_^;)。 学園祭実行委員会の学生諸君から、審査員を依頼されたのである。次から次へと、不思議な「変身」を遂げた諸君が登場する。優勝した男の子は、丸顔のきょとんとした少女に変身。なかなか可愛らしかった。
 終了次第、早々に帰宅。横になると、そのまま寝入ってしまう。

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 11月4日(土)
 本当は日本考古学協会の大会(於愛媛大学)に行くはずだったのだが、公務がはいって泣く泣くあきらめる。この日は、二条城前の京都国際ホテルのでの「教育懇談会」、つまり学生諸君の親御さんたちとの懇談会である。子供のことを心配する親の心は、子供がいくつになろうとも、皆さん一緒。
 終了後、例によってしたたか呑んでしまう。フラフラしながら堀川に降りて、川の中(水はない)を北上して帰宅。
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 11月5日(日)
 入試戦線の開始。今日は、指定校入試の面接。
 終了後、ウチの奥さんを引き連れて百万遍の「古本祭」。最終日なので期待できないかな?と思っていたが、東洋文庫本「日本書紀 巻22(推古紀)」複製の巻子本など、けっこう収穫がある。よしよし。

2006.11.02

「太陽—the Sun—」を見る、の巻

 11月2日(木)
 学園祭期間なので、ちょっとゆっくりしている。でも、ホントは原稿を書かねばならないのだが・・・
 どうしても見たかった映画「太陽—the Sun—」(アレクサンドル・ソクーロフ監督)が、京都では明日でおしまいだという。こりゃ大変だ。と、いうわけで、四条烏丸のcocon烏丸にでかける。

 これは、物凄い映画だ。終わってからも、しばし呆然としていた。テンポは遅すぎるほどに遅い。そして、静かすぎるほどに静かである(そのあたり、去年公開された「ヒトラー—最期の12日間—」とは好対照。しかし、どちらも傑作である。)。しかし、全編に流れるこの異常な緊張感に圧倒される。その静寂の中で、僅かなカットがひとつひとつ、緻密かつ精細に描きこまれていく。よくも、この緊張を2時間も維持できたものだ。たとえば、ドアを閉めるガチャンという音ですら、ビクリと心に突き刺さるほどの静寂と緊張なのである。観客の中には、この異常なテンポと緊張感が理解できず、途中で席を立ってしまう連中もいるんじゃないだろうか? 
 主演のイッセー尾形さんが昭和天皇に似ているとか似てないとかいうのは、こうなるともうどうでもいい。彼の演技は確かに神技といってさしつかえない。それから、香淳皇后良子女王<こうじゅんこうごう・ながこじょおう>を演じた桃井かおりさんと、侍従役の佐野史朗さんも、どちらもすばらしい。この監督、よくもこんなに腕達者な俳優・女優を精選できたものである。ラストに近く、疎開から帰ってきた皇后を天皇が迎えるシーンがすごい。天皇は、不器用に、そしてとまどいながら、皇后のもとに身を寄せる。私は、これほど不器用でありながら、しかもすばらしいラヴ・シーンを他の映画で見たことがないのである。さらに、ラストで、ひとりの若者が自ら死を選んだニュースを聞いた皇后の顔つきがサッと変わるところは圧巻である。何のセリフも喋らずにこの演技ができるのだから、女優・桃井かおりの実力はまさに底知れない。
 それから、東京の大空襲の場面。爆撃機が生き物のようにのたくりながら爆弾を落としていく。爆撃機? 違う。あれは鳥だ。うん?、いや、やっぱり違う。あれは魚だ。翼を持つ魚の大群が、大空を自由に泳ぎながら、無数の小魚を産み落としているのである。そして、地上には地獄絵と化した、燃え上がる大都市が見え隠れしている。この監督の幻想的な映像、ここに極まれりである。

 これは、昭和天皇の史実を描いたものではない。歴史的事実と違うところであればいくつでも指摘することができるし、昭和天皇自身ももっともっと多面的な側面を持つ人物であったと思う。さらに、天皇の戦争責任はどこに行ったんだ、とか、戦争の惨状に触れないのはおかしい、などという批判もありうるだろう。しかし、それは「無いモノねだり」だと思う。これは、昭和天皇を題材にした夢の世界なのである(もしかすると、天皇自身が見た夢の世界なのかもしれない)。夢は現実の反映ではあるけれども、決して現実ではない。たとえて言うならば、夢の中でまた夢を見、その中にまた夢が折り重なっている、とでも言うべきであろうか。

 「辛口映画批評」をやっておられる摂南大学の美川圭教授も、この映画は絶賛しておられる。なるほど。

 さて、お仕事にとりかかろうか。
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研究委員、任期満了、の巻

 10月28日(土)・29日(日)
 京都大学で、日本史研究会の大会。
 2年間、この学会の研究委員(古代史部会担当)をつとめさせてもらった。日本史研究会としては最初の考古学専攻の研究委員ということであった。とはいうものの、今年に入ってからはなんだがバタバタして、会務を他の若い委員の方に押し付けることが多かった。反省することしきり。せめて、最後のおつとめということで、後任は若い考古学研究者のS・H氏をお願いした。快く引き受けていただき、ありがたい限りである。
 眠い目をこすりながら、8時15分に集合。若い人々は、もうテキパキと働いておられる。私がいても足手まといになるような気がして、O総務委員長(R大学)とともに控え室の留守番係に廻る。9時から総会。新任の委員が承認され、一安心。お弁当をいただき、研究報告にはいる。28日は個別報告。坂上康俊氏の「奈良平安時代人口データの再検討」を聞く。申し訳ないことながら、橋本雄氏の「室町政権と東アジア」は4分の3ほど聞いて、こっそりと退室。

 実は、講演をひとつ、やらざるをえないことになっていた。どういうわけか、「平成18年度 全国古川柳研究者大会」で話をすることを頼まれていたのである。古川柳というのは、面白いとは思うが、私はあんまり関係がない。しかし、紹介者が尊敬するK大学の古代史のY・S氏だから、断るわけにはいかない。タクシーに飛び乗り、平安会館に急行。今回は京都御所の見学がセットになっているということで、私に与えられたテーマは「京都御所について」。平安宮から京都御所にいたる、内裏の変遷を解説する。皆さん、熱心に聞いていただいてありがたい。

 また京大に戻ると、小野沢あかね氏の報告「純潔運動にみる戦時日本社会」が始まったばかり。なんとかもう一度会場に潜り込む。勉強して、頭がいっぱいになったところで、お待ちかね(?)のコンパ。古代支部会は、百万遍近くの呑み屋である。最初は出足が悪く、大丈夫かな?と思ったが、次第に満席になった。やれやれ。関東から、SG大学のH・S氏も元気に御出席いただく。
 こちらも、最後の土壇場で退席。我ながら、なんでこんなにハシゴをやるんだろ。ウチの奥さんから「まだか?」と催促が入るのである。またタクシーで、B出版社のK社長の御自宅に急行。A書房のYさん、ウチの奥さんとともに、また痛飲する。

 翌日は共同研究報告。ちょっと呑みすぎの頭を振りながら、8時30分に会場に入る。とはいうものの、ここでも若い方々が一生懸命やってくれていて、私はウロウロしているだけである。古代史部会+中世史部会は、告井幸男氏「摂関・院政期における官人社会」と金井静香氏「鎌倉後期〜南北朝期における荘園領主の変容」の2本がある。告井氏の報告、準備会にあんまり参加できなくて、申し訳ない限りである。ただ、準備会の時に私と討論した内容もちゃんと書き込んでいただいている。ちょっとはお役にもたったようで、嬉しい。金井氏(ところで、「静香」というのは良い御名前ですね(^_^;))の御報告は荘園制にかかわるもので、やっぱり私は荘園のことはぜんぜんわかっていないことが痛感される。昼食は代表委員のT先生と、今出川通沿いの「松尾」で皿うどんと長崎チャンポン。午後は、熱い討論。

 またまた頭がいっぱいになる。書籍売り場では、ウチの奥さんが、なんとか売り上げの目的を達成したらしい。それから、全体の懇親会。またまた、いっぱいビール。
 
 ともあれ、皆さん、お疲れ様でした。私も、一応、無事にお役ご免。

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展覧会の秋、の巻

 10月26日(木)
 急に気が変わって、大学院の授業を博物館見学に振り替える。京都国立博物館で開催中の「京焼—みやこの意匠と技—」。京都生まれ京都育ちの私だが、正直言って、京焼はあんまり好きじゃない。ちょっと華美すぎて、ゴテゴテしているようで落ち着かない気がする。だから、あんまり期待しないで見に行った。ところが!、これが嬉しい期待はずれ。これは凄い展覧会である。担当は同博物館のO主任研究官。同氏の実力と意欲がビンビンと伝わってくるすばらしい仕上がりになっている。普通、京焼について書かれた本や、それをあつかった展覧会は、美術工芸史の人が担当するものである。そうなると、野々村仁清、尾形乾山、初代清水六兵衛、初代高橋道八、初代永楽善五郎といった、いわゆる「名工」の「名品」で構成されることになる。そうした名品に意味がないとは決して言わないが、広大無辺な「京焼」の世界から見ると、「名品」はごく一部分を占めるにすぎず、大多数は無名の陶工の無名の作品であるはずなのである。しかし、これまでの京焼の展覧会や本はそうした無名作品を一顧だにしておらず、私はそれには不満タラタラだったのである。それが、今回の展覧会は違う。さすがは考古学者が構成しただけあって、最近の京都和風迎賓館建設地の出土品などを縦横に駆使し、京焼の世界の全体像が見事に織り出されているのである。ウチの大学院生諸君も唸りながら見学している。ついつい時間がたってしまい、結局、ヘトヘトになりながら閉館まで居続けてしまう。凄いぞ、O氏!!! まったく脱帽である。疲れたが、満足して博物館を出る。(ただ、どうしたわけか楽焼が少なかった。Oさんの趣味かな?〈笑〉)

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 10月27日(金)
 京都新聞文化センターに出講。「<京都学講座>第1期・京都の原点を探る」の「京都のあけぼの」の2回目。「継体天皇の時代と南山城」を話す。
 終了後、京都文化博物館に出かける。と、すぐに捕獲されてしまい、まずは(財)古代学協会で打ち合わせ。そのあと、開催中の「始皇帝と彩色兵馬俑」展を見る。秦・始皇帝陵の兵馬俑はしばしば日本にも来ているし、これもあんまり期待していなかったのに、これも良い意味で裏切られる。最新の発掘調査成果が実に手際よく整理されており、ズシリと手応えのある展覧会に仕上がっている。しかも、コンピューター・グラフィックスなどを駆使した「遊び心」も充分。すばらしい! 

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 10月28日(土)
 独立行政法人科学技術振興機構のデータベースJREC-INにウチの大学の情報が掲載される。感無量。
 この日と次の日は日本史研究会の大会である。このことは、改めて書くことにしよう。

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 10月30日(月)
 大学で会議。次々に問題が山積み。
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 10月31日(火)
 同志社大学の京田辺キャンパスにでかける。同志社大学公開講座で『山城の古代豪族』をやることになり、その最終回の担当となった。同志社大学歴史資料館のT教授から私に与えられたテーマは、「山城国宇治郡と藤原氏」である。参加者は400人ほどで、大教室がぎっしりである。市民の方々の向学心に、今更ながらに驚く。飛鳥時代の藤原鎌足の「陶原館」と天智天皇山科陵、平安時代初期の太皇太后藤原順子の安祥寺、平安時代中期の藤原摂関家の木幡の墓地、同期の藤原頼通の平等院、平安時代後期の藤原氏(特に忠実)の「権門都市・宇治」まで、500年間を一気に駆け抜ける。
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 11月1日(水)
 JR京都駅ビルの「ジェイアール京都伊勢丹」内の「美術館『えき』KYOTO」で開催中の「吉村作治の早大エジプト発掘40年展」を見る。結構な人出である。展示品の数々を見ながら、まだ若かった頃のエジプトでの発掘調査(1983・85両年)に想い出がつのる。私は吉村教授とは面識はないが、エジプト調査中に一度だけ、ルクソールの「ワセダ・ハウス」に「表敬訪問」に行き、そこで同教授にご挨拶だけはさせてもらったことがある。無いものづくめの我々の隊に比べて、早稲田隊の立派な宿舎=研究設備を羨望のまなざしで眺めたものである。そんなことまで、思い出した。

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