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2007.03.31

花園大学退任、の巻

 各 位
                         2007年3月31日
 拝啓  時下ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。いつも、「平安京閑話」にお立ち寄りいただき、ありがとうございます。
 さて、               私儀、  
本日をもちまして花園大学文学部教授を退任させていただくこととなりました。在任中に皆様からいただいた御厚情には御礼の言葉もございません。ありがとうございました。

 私が花園大学文学部史学科に着任したのは、1999年4月1日のことでありました。それまで20年の永きにわたって花園大学の考古学分野を担当されてきた伊達宗泰教授が定年を迎えられたため、その後任となったのです。その時、私は京都文化博物館の学芸員の職にあり、ちょうど40歳になったところでした。京都に産まれ育ち、京都をフィールドとして研究活動を続けてきた私にとって、京都に所在する大学としての花園大学での考古学担当教員というポストは、まさに願ってもないものでした。私は、花園大学への就任が決まった時の嬉しさを生涯忘れないだろうと思います。

 それから、8年の歳月がたちました。最初は専任講師という待遇を受けていましたが、学内の御理解を得て2年後には助教授へ、さらに2年後には教授へと昇進させていただくことができました。この8年間は、研究者としての私にとっては、確かに大きな飛躍の時期だったと思います。それは、私の著作目録講演・学会発表一覧に如実に現れていることと思います。また、花園大学歴史博物館の創設にかかわり、その運営にたずさわったこと、花園大学人権教育研究センター副所長という仕事をやらせていただいたこと、所属する文学部史学科の学科主任を3年間にわたって務めたこと、花園大学の改革・改組問題について微力を尽くしたことなど、得難い貴重な経験を積み重ねることができました。40歳代という、人生にとって重要な時期をこうして充実させることができたことは、本当に幸福だったと思います。そして、何よりも貴重だったのは、花園大学考古学研究室に集う、学問的熱気溢れる学生諸君という、他の何にも替えがたい宝物を持つことができたことでした。

 来る4月1日には、同志社女子大学に赴任する予定でおります。今後ともなにとぞよろしく御指導御鞭撻賜れますようお願い申し上げます。また、「平安京閑話」にも、変わらぬご支援をいただければ幸いです。
 略儀ながら、ブログの場をお借りして、皆様にご挨拶申し上げます。

                  花園大学文学部教授 山田邦和

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Hanadai_1
(写真:花園大学無聖館<むしょうかん>。この4階に歴史博物館が入っている)

 昨3月30日、辞令交付式があり、学校法人花園学園理事長より退職辞令を受けた。尊敬する学長老師にご挨拶させていただく時には、思わずウルウルとなりそうになって、言葉につまりかけた。その後、学内を歩いていると、何人もの教職員と学生の皆さんに出会う。数人の職員の方からは、びっくりするほどに固い固い握手を求められ、それによって私は、自分が花園大学でやってきたことが決してムダではなかったことを信じることができた。ありがたいことである。

 自分の人生に、大きな節目となる時が来た。さようなら、花園大学。そして、これまで、本当にありがとうございました m(_ _)m。


2007.03.30

妙心寺の開堂式に出る、の巻

2007年3月25日(日)
 図書出版文理閣の見学会。中世都市嵯峨を歩く。黒川代表、仁木宏さんに、KセンターのMY氏、O町のFK氏、U市のSH氏、そしてウチの奥さんが参加。嵯峨の裏道をうろうろ。終了後は、黒川さんいきつけの嵯峨の店で、新鮮なお刺身。さらに、黒川さんとふたりで京都駅にくりこんで、いつもの通り、呑みすぎ。

 2007年3月26日(月)
 今年度最後の教授会。退任の挨拶をする。さらに、会議。

 2007年3月28日(水)
 WH先生のお宅に、ST氏とともにお邪魔する。WH先生の新著について、密度の濃い会議。と、いうか、先生のパワーに圧倒される。

 2007年3月29日(木)
Gakutyou
 臨済宗大本山妙心寺(いうまでもなく、花園大学の母体)でおこなわれる「阿部宗徹老師開堂式典」に参列する。「開堂式典」とは、妙心寺の開山直系の法灯を受け継いだことを示す重要な儀式である。今回、「妙心寺第704世」(!)となった阿部宗徹老師は、静岡の臨済寺の第27代住職と妙心寺塔頭の慈雲院の第15代住職を兼ねる高僧。何を隠そう、花園大学の阿部浩三学長そのひとである。とにかく、私のような在家の者にとっては、めったに見ることができない儀式であることはまちがいない。
 朝早く起きて、眠気がおさまらない頭で妙心寺に急ぐ。8時、本山塔頭の住職たちに先導され、可愛らしいお稚児さんを従えて阿部老師登場。満山の拍手に送られていったん寺外に出て、勅使門(めったに開かれることはない)から改めて入山する。しずしずと進み、仏殿で最初の儀式。次に、奥の法堂に入り、「視篆式<してんしき>」(本山妙心寺の法灯を継承したことを確認する儀式)をおこなう。さらに仏殿に戻って祈祷してから、塔頭のひとつである玉鳳院に入る。ここは妙心寺の開山塔であるとともに、妙心寺を建立した花園法皇の廟所である(武田信玄はじめ武田一族や、織田信長・信忠の供養塔、豊臣秀吉の子の鶴松〈祥雲院殿〉の墓堂もあり)。非公開の寺院であり、めったなことでは入れてもらえないところであるから、これはありがたい。
 これだけでもう2時間が過ぎている。しばしの休憩の後、10時30分からはまた法堂に場所を移して、式典の中心である「祝聖開堂」の儀。老師は、法堂中央の、見上げるように高い須弥壇に登って数々の法語を唱える。老師はもともと艶のある堂々とした低音の持ち主なのであるが、広い堂内にその美声が響く。12時、4時間にわたる儀式がようやく終了する。
 13時、全日空ホテルの巨大な宴会場に場所を移し、大祝宴。ビールが回る頃に、老師が登場される。重責を果たされた後であるから、老師もいつもの朗らかで楽しい笑顔に戻られている。老師の親友だということで、俳優の滝田栄氏が出席されていたのには驚いた。老師の故郷の青森県八戸市から呼んだ獅子舞、京都上七軒の舞妓さんの踊り、我が花園大学の新体操部・合唱部も出演して、賑やかな式になる。
 学長老師、心よりお祝い申し上げます。本当におめでとうございました。

 終了後、大学に戻って、会議。これで、花園大学での私の役割、終わり。


2007.03.26

平安博物館同窓会、の巻

 2007年3月24日(土)(続き)
 Heianhaku(上:開会の挨拶をする朧谷寿同志社女子大学教授。下:古代学協会理事長角田文衞先生を囲んで〔角田先生の向かって右が私〕)
 夜、ホテル日航プリンセスにでかける。「設立40周年記念 平安博物館職員同窓会」が開かれることになったのである。ワクワクする。

 平安博物館の名は、今や、だんだん忘れられていっているような気がする。若い研究者には、平安博物館の名前を知らない、という人も多いのではないだろうか(>_<)。世間では、現在の京都文化博物館イコール平安博物館だと思われている節もあるが、それは厳密にいうならば誤っている。京都文化博物館は、平安博物館の土地・建物・職員の大半を継承したけれども、まったく別物の組織であった。平安博物館は(財)古代学協会の特設機関として1967年4月に発足した。そして、19年後の1986年3月に展示部門を閉鎖し、同年9月に実質的な終焉をむかえた(形式上の組織廃止は1988年8月)。
 今思い出しても、平安博物館は驚くべき博物館であった。まだまだ博物館の社会的位置づけは低かった時代だった。その中で、確かに平安博物館は異彩を放つ存在であった。日本最初の研究博物館で、「学芸員」制ではなく、大学と同様の「教授・助教授」制をとっていた(ちなみに、私の在職時の辞令は、「財団法人古代学協会研究員に任じ、平安博物館助手に補し、同館考古学第4研究室勤務を命じる」というものであった)。展示も凄かった。平安博物館の英語名称がHeian Museum of Ancient History(直訳すると、平安古代史博物館)であったように、これは古代史を対照とする「歴史博物館」だった。重要文化財に指定された赤煉瓦の明治建築=旧日本銀行京都支店の重厚な建物の中に、旧石器時代から平安時代にいたる古代史の流れが息づいていた。何よりも圧巻だったのは、展示室の中央大ホールに、平安宮内裏清凉殿の実物大(!)復元模型がおさまっていたことである(なお、この素晴らしい清凉殿復元模型はその後、京都文化博物館の創設を主導した故I・H氏の無理解と無教養により、ズタズタの無惨な姿にされてしまった)。最近では博物館の展示に模型を多用することはあたりまえだし、実物大模型も決して珍しくはない。しかし、今の博物館の話をしているのではない。これは今から40年前、1967年のことなのである。当時の博物館の代表格である東京・京都・奈良の国立博物館は歴史博物館ではなく美術史博物館だったから、まさに平安博物館こそは日本の「歴史博物館」のパイオニアだったのである。このような凄い博物館が、民間の研究団体である古代学協会によって運営されていたのだから、これはほとんど奇跡とでもいうべき存在だった。平安博物館は、館長兼教授であった角田文衞先生の情念の賜物であったといってよい。

 私は、学生時代の1979年頃から平安博物館に出入りし、1983年8月〜1985年9月には同館の研究嘱託(非常勤の研究員)になり、さらに1985年10月に常勤の研究員(助手)に採用され、翌年9月まで勤めた。したがって、私は常勤職員としては、平安博物館最末期の1年だけ在籍したことになる。しかし、そこで得たものははるかに大きかった。なお、平安博物館はその時には停廃されることが決まっていたので、私は「平安博物館最後の職員という栄誉(?)は自分のものだ」と思っていたのであるが、その半年後にそれこそ「最後の職員」が着任された。それが、現・京都女子大学教授の野口実先生であった。したがって、野口先生が平安博物館専任講師として在籍されたのは、半年間である。

 平安博物館は研究博物館として、展示よりも調査研究に力を入れていた。そこで育った研究者は数限りない。今、大家といわれるようになった研究者の中にも、若くてまだ「食えなかった」時代に、平安博物館の仕事をやってなんとか糊口をしのぎ、やがて業績をあげて巣立っていった人が多いのである。平安博物館は、当時の古代史・考古学界にとって、人材をプールし、育て、やがて外に出していく、「人材バンク」とでもいうべき役割を果たしていたのである。

 今、平安博物館の開館から40年、停止から21年の歳月が流れた。この時にあたって、片岡肇・元京都文化博物館学芸第2課長らがお世話していただき、職員同窓会を開くことになった。片岡氏の苦労の産物である「平安博物館常勤職員名簿」によると、19年間に平安博物館に関係した人々は、常勤職だけをとっても実に146人の多数に昇るという(そのうち、研究員は40名弱)。今回の同窓会には、元館長の角田先生を始め、35人が集まった。皆さん、本当に懐かしい顔ばかりである。朧谷寿同志社女子大学教授(古代史)、伊藤玄三法政大学名誉教授(考古学)、近藤喬一山口大学名誉教授(考古学)、下條信行愛媛大学教授(考古学)、飯島武次駒澤大学教授(考古学)、鈴木まどか倉敷芸術工科大学教授(エジプト学)、加納重文京都女子大学教授(国文学)、中谷雅治元京都府教育庁文化財保護課長(考古学)、水口薫大手前大学教授(映像論)、鈴木忠司京都文化博物館参事(考古学)、植山茂同館学芸課長補佐(考古学)・・・・。こうやって集まってみると、平安博物館にはよくもこれだけの人々が参集していたものだと、改めて感心する。

 和気藹々の会が終わると、ホテルのバーで二次会。本当に、楽しい会であった。感謝。感謝。
 わずかではあっても平安博物館にかかわった一人として、いつか私は、考古学・古代史の学史上と、博物館史上における平安博物館の意義をまとめて、後世に伝えるような仕事がしたいものである。


広沢池の夜景、の巻

 山中章博士は大英帝国へいつもの三悪トリオのひとりの某古代史研究者は露西亜帝国へ、それぞれ逃亡し、優雅な日々を過ごされる、らしい。相も変わらず京都盆地に沈殿しているのは、私(>_<)。

 2007年3月23日(金)
 京都新聞文化センターに出講。<京都学講座>第3期「京都の原点を探る」で、「平安京前夜」を三回、やることになる。今日は、「桓武天皇の登場」。
 午後、某新聞社の取材を受ける。
 夕方、広沢池に足をのばす。池の南岸に張り出した釣殿のような建物で、花園大学人権教育研究センターの「合評会」。同センター副所長を退任する私と、同じく退任されるF事務局長の歓送会を兼ねることになる。池と遍照寺山の風景を楽しみながら、すき焼きとしゃぶしゃぶ。最終版では、目の回るほど忙しいはずの学長老師も駆けつけてくださる。ありがたや。

 2007年3月24日(土)
 午前、京都商工会議所に出講。同会議所と京都能率協会が、「京都検定」の関連講座として、「学びを深める。京都を極める。京都検定講習会特別プログラム」と題した講習会をおこなうことになる。その(1)として、今回は「京都御所の歴史と楽しみ方」を話す。大きな教室がほぼ満席。160人ほどの応募があったという。結構なことである。


2007.03.22

送別会、の巻

  2007年3月20日(火)
 京都文化博物館で会議。
 その後、東京のT大学のTS助教授(日本中世史)と落ち合い、飲みに行く。楽しい場で、ついつい深酒。ハッと気づいてみたら、夜中の2時。

 2007年3月21日(水・祝)
 (株)アリエル主催の「ことえりサロン」の「1DAY<ワンデイ>セミナー」『雅の平安京VSお江戸の旅』に出講。前半の「王朝貴族と平安京」を担当する。平安京の貴族邸宅の変遷と、そこでの恋愛エピソードを語る。

 午後、大学に戻る。九州国立博物館からI研究員が来学。花園大学考古学研究室所蔵の京都市伏見区黄金塚2号墳出土楯形埴輪の人物線刻像を貸し出す。九州の皆様、この埴輪、次の展示替えによって同博物館の常設展示の一隅を飾るそうですから、ぜひ会いに来てやってください。

 夜、四条大橋近くのレストランで、考古学研究室の主催で、私の送別会をしていただく。在学生諸君の企画のもと、卒業生もたくさん来てくれて、賑やかな会になる。


2007.03.20

花園大学改組、始動、の巻

 花園大学の改組・改革、国の正式の認可はまだであって今は「構想中」の段階であるが、受験生向けへの案内にはすでに公表されている。

 これまでの花園大学は
  文学部    国際禅学科(定員70名)
         史学科(定員125名)
         国文学科(定員90名)
  社会福祉学部 社会福祉学科(定員120名)
         臨床心理学科(定員120名)
の2学部5学科で構成されていた。

2008年度にはこれが
  文学部    国際禅学科 (定員55名)
         日本史学科 (定員60名)(史学科を名称変更)
         文化遺産学科(定員60名)(新設)
         日本文学科 (定員50名)(国文学科を名称変更)
         創造表現学科(定員60名)(新設)
  社会福祉学部 社会福祉学科(定員120名)
         臨床心理学科(定員120名)
の2学部7学科制への改組が構想されている。将来的には社会福祉学部にも学科が増設され、2学部8学科へと発展することも構想されている。花園大学の歴史に残る大転換であることはまちがいない。
 私は、この改組構想への公式見解を述べる立場にはない。しかし、これまで花園大学で禄を喰んできた一員として、また、この「改革」に積極的に関わってきた一員として、私なりの「想い」を吐露しておくことは許されるであろう。

 最近の大学では、文学部を「人文学科」というようなひとつの大きな学科にまとめてしまうことが増えてきた(「大学科制」)。どうも、それが最近の大学改革の流行でもあるらしい。なるほど、「大学科制」は、店の中に多種多様な商品が乱舞している「百貨店」のようなものである。「まだ何をやりたいかわからないが、とりあえずは何々大学に入学しよう。やることは入学してから考えれば良い」という学生の目には、確かにこの方が魅力的に写るかもしれない。
 その点からすると、花園大学の改組計画は、明らかに「時代に逆行している」と言われるであろう。そもそも、大学経営の点からすると、ひとつの学科の定員が50人とか60人などというのは、およそ非効率きわまりないことも確かである。しかし、花園大学はあえてこの道を選択することになった。「何をやりたいかわからない」学生よりも、「俺はこれがやりたいんだ!」という目的意識を持った学生諸君にこそ、入学してほしいのである。必ずしも、与えられたことを何でもソツなくこなす優等生である必要はない。それよりも、自分が興味をもったひとつのことに、誠実に、実直に、根気よくとりくんでくれる学生こそを望みたい、ということなのである。
 そのためには、「何でもやれますよ」という百貨店方式の「大学科制」よりも、明確な個性を持った小規模な学科をいくつもいくつも店開きしておく方がふさわしいはずである(「小学科制」)。いわばこれは、小さな店の中で頑固そうな親父さんが店番をしている、「専門店」である。一見すると、とっつきにくいかもしれないし、確かにハデさはない。しかし、いったん入店してくれて、親父さんに声をかけてくれたならば、その分野についての品物は何でも手に入るし、親父さんも意外と話し好きでいろんな蘊蓄を傾けてくれる、そんな大学をめざすべきだと思うのである。

 特に、「文化遺産学科」は、これまでの史学科の考古学・民俗学・美術史コースと情報歴史学コースを母体として新設される学科である。そこでは、考古学、民俗学、美術史学、情報歴史学、博物館学および文化財論、(「京都学」を中心とする)地域文化論、の6分野が中核となるであろう。新しい「日本史学科」(四年制大学としては日本唯一の「日本史学科」の誕生である!)が文献史学的な歴史学を担当するのに対して、「文化遺産学科」はフィールドワークや実践を主体とした歴史研究の分野である。新しい学科には、まさに多士済々な先生方の着任が予定されているし、その中には学界を驚かすような「サプライズ人事」も含まれている。教員が増員されることによって、学生のひとりひとりにまで目配りの利く少人数教育が実現される。また、他の大学の類似学科では文献史学分野が手薄になることがしばしばであるが、花園大学の文化遺産学科の場合、姉妹学科である「日本史学科」と緊密な連携を保つことによって、そうした弊を避けることができるはずである。

 成算は、ある。何よりも強みなのは、花園大学が京都の中心部にある大学であるということである。なんといっても京都こそは日本の歴史の結節点であり、わが国最大の文化遺産の宝庫であるからである。花園大学は京都盆地の真ん中に所在し、嵯峨野・太秦・花園・御室・宇多野・双ヶ岡といった歴史的地域に囲まれており、さらには京都の中心市街地からも至近の距離にある(「京都市中京区」にある大学は花園大学だけだって、知ってましたか?)。中心キャンパスの全てが平安京の跡地に含まれる唯一の四年制大学、というのも、今では花園大学の看板文句のひとつとなった。
 「京都で学ぶ文化遺産!」。このキャッチフレーズのもとで、花園大学の文化遺産学科は必ずや、他にはないユニークで魅力的な教育と研究の場となるであろう。

 今、花園大学は、新しい時代に向けての第一歩を踏み出そうとしている。


2007.03.18

丹後で中世墓地を、京都で平安京研究史を語る、の巻

 2007年3月9日(金)
 朝日カルチャーセンター京都に出講。「平安京・京都の歴史を歩く(16) 初期の平安京を訪ねて」の第2回目として、「前期平安京の復元」を話す。
 午後、大学で、京都新聞社の取材を受ける。
 夜、木屋町四条の飲み屋で、ウチの研究室の、追い出しコンパ。4回生と在学生ともに、感極まって涙ぐむ学生が続出。こういう風景も、なかなか良いもんだ。

 2007年3月10日(土)
 夕方、W先生御夫妻と会食。お相伴にあずかったのは、私とST氏。和気藹々の楽しい時間となる。御夫妻が執筆最中の京都の歴史の本について、お手伝いさせていただくこととなる。

 2007年3月11日(日)
 丹後行き。京都府与謝野町(岩滝・野田川・加悦の3町が合併した)の「与謝野町文化財講座」(於与謝野町加悦地域公民館)で、「後野福井遺跡と幾地地蔵山遺跡—墓地からみた中世鎌倉から室町時代の歴史像—」を話す。途中、丹波の山中では吹雪になってちょっと心配したが、幸いなことに講座開始の時には雪は止んでいた。まずは福井遺跡の見学をして、それから講演ということになる。
 帰りは、宮津市の三角五輪塔を見て、天橋立駅前でカニを買う。帰宅してからは、「カニすき」をお腹一杯食べる。

 2007年3月12日(月)
 早朝から大学に行って、ばたばたと、研究室のお引っ越し。移動して、新しい研究室に本を並べる。ただ、思ったより早く仕事を終えることができる。ちょっと安堵。

 2007年3月15日(木)
 京都府立総合資料館で、企画展「先人達の京都研究」という、マニアックではあるが非常に見事な展覧会(〜3月25日)をやっている。ここの記念講演「江戸時代の平安京研究」を依頼された。ふだんは扱っていないテーマなので緊張したが、講堂が満員になっているのがありがたい。平安京研究前史、地誌の中の平安京、「中古京師内外地図」と森幸安、固禅入道・藤原(裏松)光世と「大内裏図考証」、藤原貞幹と古瓦、天皇陵研究と平安京、という内容で話す。
 夕方、D大学大学院生Aさんが来宅。研究の近況を聞く。それから、いきつけの中華料理屋で食事。

 2007年3月16日(金)
 朝日カルチャーセンター京都に出講。「平安京・京都の歴史を歩く(16) 初期の平安京を訪ねて」の第3回目として、「平安京の巨大模型と平安宮内裏」の現地見学。最終は、山中油店の「京町屋文化館・上京歴史探訪館」で、山中恵美子副館主のお話を聞かせてもらう。
 午後、会議ふたつ。

 2007年3月17日(土)
 花園大学の学位授与式(卒業式)。ウチのゼミ生ひとりひとりの顔を確認しながら、学位記を渡す。彼らにとっても、私にとっても、大きな節目である。式の後は、同窓会主催のパーティー、史学科研究室、人権教育研究センター、考古学研究室で、それぞれ乾杯。


名護屋城に立つ、の巻

 2007年3月13日(火)
Karatu_1 京都は寒い。寒すぎるぞ。ふっと思い立って、九州にでかけることにする。新幹線と地下鉄・JRを乗り継いで4時間で、始めての佐賀県唐津市。こちらは暖かくて、良かった。しかし、駅のラーメン屋さんは(>_<)の味。
 まずは、弥生の初期の遺跡として有名な「菜畑遺跡」と、そこに併設された「唐津市立末廬館」を見学。それからバスで市内にもどり、唐津城下町をうろうろ。唐津の祭礼「唐津くんち」の曳山を展示した「曳山展示館」が面白い。「唐津市出土文化財管理センター西ノ門館」では、城下町の遺物をながめる。そこから唐津城の模擬天守閣に登る(山の上まで有料のエレベーターがついており、びっくり)。唐津湾の絶景を飽きもせずにながめる。
 さらに、タクシーを飛ばして唐津市東部に向かう。初期の横穴式石室がある横田下古墳をさがしてうろうろする。石室の内部が良く見えなかったのが残念。さらに、「鏡山」の西麓の「古代の森」へ行く。藤原広嗣を祀っている「鏡神社」(唐津藩主寺沢志摩守広高の墓もある)、市立の「古代の森会館」(考古学資料の展示が充実)、恵日寺、島田塚古墳と歩く。恵日寺では、どぎまぎとしていたら、親切なお坊さんが声をかけてくれる。高麗時代(しかし、年号は遼のものが入っている!)の朝鮮鐘(重文)に感激する。弥生の宇木汲田遺跡にも行きたかったが、そうすると帰れなくなる恐れがあるので、虹の松原を散策してから、唐津市内に戻る。
 夕食は、松浦名産のイカの活け造りにする。本来は私は「動いているものは食べない」のだが、これも経験だと思って意を決する。生け簀で泳いでいたイカがすくい上げられて、あっと言う間にバラバラにされてしまう。足をくねらせながらの刺身が登場。なんとも目が恨めしそうで、哀しい。しかし、透き通った刺身は絶品。そのあとのゲソの天麩羅もすばらしい。可哀想だとは思うが、おいしいのも事実。我ながら、罪深いことだな。

 2007年3月14日(水)
Nagoyazyo
 朝早く起きてバスに飛び乗り、今回の目的地である肥前名護屋城跡に向かう。いうまでもなく、豊臣秀吉の朝鮮侵略戦争の根拠地となった城である。唐津から40分、玄界灘の絶景の中、名護屋城の下につく。まずは本丸に登ってから、佐賀県立名護屋城博物館を見学。すばらしく充実した博物館である。難は交通不便(唐津からのバスは1日に数本しかない)なことであるが、それでも年間12万人の入館者があるという。城跡も、博物館の手によって発掘調査と整備が続けられている。整備も、本当に良く考えられていて、史跡整備の見事なお手本である。感動。
 しかし、織豊期の主要城郭のうち、安土城、大坂城(豊臣期のものは徳川期の地下深くに埋まってしまっているが)、名護屋城は国の特別史跡に指定され、こうして地道な研究と整備がおこなわれている。安土城考古博物館、大阪城天守閣、名護屋城博物館という遺跡博物館も充実している。哀しいのは、同じく秀吉が造った、京都にある聚楽第と伏見城。市街地になっている聚楽第跡はある程度やむをえないが、伏見城跡などは史跡にすら指定されていない。本来ならば、全域の保存とともに、「伏見城博物館」くらいは必要だと思うのだがな・・・(>_<)
 名護屋城に感激したあと、呼子の港を散策。ウチの奥さんのリクエストで、呼子名物のイカシューマイを買い込む。唐津ではさらに、クジラの刺身(こんなのがスーパーマーケットで普通に売られているんだね\(^o^)/)を入手し、一路、帰洛。


2007.03.08

関西文化学術研究都市で夢を見る、の巻

 2007年3月3日(土)
 いささかへたばる。
 夜、親しい、古くからの女性の友人ふたりと会食。心地よく、呑む。

 2007年3月4日(日)
 大学の入試、後期日程。出かけてみると、「山田先生、今日は役目は当たっていませんよ」と言われた。しかたなしに、書類づくり。その後、市内某所で会議。

 2007年3月5日(月)
 大学院入試。ただ、今回は私のゼミ生の受験者は、なし。拍子抜け。夜は、呑み会。

Hatanomae2007年3月6日(火)
 ふと思い立って、京都府精華町の関西文化学術研究都市を訪ねる。今から20年前の1985年、私はこの地で発掘調査をおこなっていた。畑ノ前遺跡と煤谷川窯址である。畑ノ前遺跡では、地表下7メートルに及ぶ、現在までに発掘調査されたものとしては日本最大の奈良時代の井戸を掘った。私にとっては、本当に懐かしい思い出の地である。それから以後、関西文化学術研究都市の建設がだんだん進んでいくのを、私は楽しみにしながら見守っていた。ただ、ここしばらくは、ほとんど行ったことがなかったので、その変貌を見たかったのである。
 私のなつかしの地、畑ノ前遺跡は、「畑ノ前公園 遺跡の杜」という小さな公園になっている(写真)。遺跡の中心部である奈良時代の掘立柱建物群のところが公園化されているのである(残念ながら「私の」井戸は、関西文化学術研究都市のメインストリートである精華大通の下になってしまっている)。ただ、遺跡には説明板はあるものの、遺構の表示はまったくなく、ちょっと見た目には遺跡のイメージをつかむのはむつかしい。遺跡を保存してくれたのはありがたいが、もうちょっと親切にしてくれればよいのに、と思ってしまう。
 それから、国立国会図書館関西館を訪れる。ガラスの巨大な建物。静寂の中の広大な閲覧室。これから、しばしばお世話になることにしよう。

Watasinosigotokan もうひとつ、ぜひ見たかったのは「私のしごと館」(写真)。関西文化学術研究都市は「研究」の方ばかりが先行して、「文化」の部分が立ち後れており、特に、観光客も含めて気軽に訪れることのできる集客施設が少ないことが指摘されている。その中で、「私のしごと館」は、国会図書館と並ぶ、重要な集客施設となっている。
 始めて行ってみて、とにかくその規模に仰天した。建物面積は35,000平方メートル。さすがに世界最大の体験型職業労働博物館と言われるだけのことはある。壮大な規模である。
 実はあんまり期待しないで入ったのだが、展示の内容は、けっこう面白かった。映像ばかりでなんとなく子供だましのような機器があったり、手持ちぶさたの案内役が目についたりして、まだまだ工夫の余地はあるとは思うけれども、「ものづくり」の体験コーナーはいろいろあるし、やってみたならばハマるだろうな。観客も、ガラガラじゃないかという予想していたのであるが、前に観光バスが何台も何台も止まっていて、小学生や中学生の団体が次々と入っていき、みんなそれなりに楽しんでいるようだ。これは、悪くない。むしろ、大学生にも範囲を広げて、じっくりと自分の未来を考える職業体験をやらせることができたならば、もっともっと意義ある施設になると思う。最近では、大学生になっても無気力で、何をやりたいのか定まっていない連中が多いのだから。
 この「私のしごと館」、結構な金をつぎこんでいるようで、金食い虫だ、として批判の波にさらされている。しかし、たとえ金がかかろうとも、日本国家としてはやはりこういうものも持っておかねばならないだろう(文化施設を収支決算だけで測り、「税金の無駄遣いだ」「官僚の天下り先だ」というステレオ・タイプの批判で切り捨てて悦に入る最近の風潮、ホント、なんとかならないのかね・・・・)。

 私は、この地に立って、ひとつの夢を見ている。かつて、比較文明学者梅棹忠夫氏は「新京都国民文化都市構想」という論文を発表し、その中で、京都の郊外に芸術を中心とした壮大な「国民文化都市」を建設することを訴えた。それまで「関西学術研究都市」と呼ばれていた都市構想に「文化」の2字が加わり、「関西文化学術研究都市」となったのは、梅棹博士のこの構想がインパクトを与えたからなのである。この構想は、その後に煮詰められていき、「国立総合芸術センター」の構想となった。
 「国立総合芸術センター」とは、聞くだにキモを潰すような壮大なプロジェクトである。なにしろ、芸術博物館、芸術文化大学校、芸術劇場などからなる巨大な複合施設をこの地に建設しようというのである。そして、中心となる芸術博物館は、ルーヴル美術館の数倍(!)に及ぶという、まさに世界最大規模のものが構想されているのである。世界最大の芸術文化の中心が京都の郊外に出現する!、これは、考えただけでもワクワクするような構想なのである。
 もちろん、昨今の情勢からすると、この構想が早急に実現する可能性はかなり薄い。今の日本は経済効率一点張り(最近の「構造改革」論者はそれが正義だと思っているから始末に悪い・・・)だからである。先日にも書いたように、よく似た名前(The national Art center, Tokyo〔「東京国立美術センター」〕)で新設された東京の「国立新美術館」が、巨大な建築と巨額の建築費をかけながら、中身はまったく空虚なものになってしまったことを考えると、ますます道は暗いといわざるをえない。しかし、そんな我が国も、いつかは舵を切り替えて、文化・芸術・学術を大切にする国へと生まれ変わる日が来るかもしれない。それがいつになるかはわからないが、「国立総合芸術センター」が実現することを夢見たいのである。

 くたびれて、帰宅。夜は、京都市交響楽団の「国連加盟50周年記念」コンサートにでかける。竹本泰蔵さんの指揮で、チャイコフスキー「エフゲニー=オネーギン」より“ポロネーズ”と、ドヴォルザークの交響曲第9番ホ短調「新世界より」。そして、小山実稚恵さんのピアノで、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番。小山さんのピアノはいつも華麗で力強い。京響も頑張っていたが、ホルンが弱体だったのが気になるぞ。それと、せっかくのピアノコンチェルトの第1楽章が終わったところで、オヤジ客の一人が携帯電話のアラームを鳴らす。馬鹿者めが。絞め殺してやりたい。
 「新世界より」は、竹本さんの指揮が乗ってきて、かなり面白い演奏になった。指揮者が時々、ゼロコンマ何秒かの休符を入れるのが、なかなか良い味を出している。それと、第2ヴァイオリンとクラリネットが、ギクリとするほどに艶っぽい音を出してくれる。よい夜になった。


2007.03.07

東京でアートに触れる、の巻

Kokuritusinbizyutukan_1 2007年3月2日(金)
 お江戸に下る。
 夜のお仕事なのでホントは遅く行ったらよいのだが、少し早起きして、午前中には東京に着く。まずは、先日できたばかりの国立新美術館 The national Art center, Tokyo(写真)を訪ねる。別に美術が専門であるわけではないが、大学で博物館学芸員課程を担当している身とてしては、やはり話題になった博物館・美術館は見ておかねばならない。ガラスとコンクリートの巨大な建物。レストランには長蛇の列。広大な展示場に、現代美術の数々。圧倒されるのは事実である。
 しかし、私は、華やかなこの施設の中で、暗澹たる気分に襲われる。これは明らかに「美術館」ではないからである。なぜならば、美術館とは博物館の一種としての「美術博物館」なのであり、博物館というのは、「(1)資料の収集・保管」「(2)展示・普及活動」「(3)調査研究」の3分野が不可分のものとして結びついていなくてはならない施設なのである。ところが、国立新美術館は、始めから、しかも高らかに「資料の収集はやらない」「展覧会だけに特化するのだ」と宣言しており、「(1)」をまったく放棄しているのである。だから、これは「美術館」では、ない。
 もちろん、他人がそうした施設を造りたい、というのならば、どうぞ御勝手に、といわざるをえないのであるが、それが「美術館」(ないしはそれと誤解されるような名称)を名乗るとなると話は別だ。それは明らかに僭称なのであり、許してはならないことである。こうした疑似施設が「美術館」だと世間に誤解されると、本物の「美術館」「博物館」は計り知れない迷惑をこうむってしまうのである。こうしたケッタイな施設が堂々と国立の「美術館」を名乗るのだから、世も末だ、という感じである。

 それから、ホテルオークラの前にある大倉集古館。こちらは、本物の博物館である。
 そして、六本木に戻って、六本木ヒルズの森美術館と廻る(本物の美術館かどうかは、知らない)。森美術館では、「笑い」をテーマとした「日本美術が笑う:縄文から20世紀初頭まで」展と、「笑い展:現代アートにみる「おかしみ」の事情」展が組み合わさっており、さらには隣接の森アーツセンター・ギャラリーで「グレゴリー・コルベール『animal totems: a prelude to ashes and snow』」展をやっている。「日本美術が笑う」展はすばらしい。目玉展示品である新出のふたつ、「病草紙断簡(侏儒の男)」と「洛中洛外図屏風」はやはり見もの。後者はなんともいえない異形の洛中洛外図である。ただ、「笑い展」はどちらかというと現代アート作家の悪ふざけを集めたもので、観客としてはあんまり面白くない。「グレゴリー・コルベール」の情感溢れるモノクロ画像はすばらしい。

 さて、お仕事。
 花園大学が協力している、京都館・kissポート財団特別連携講座「京都学講座」で、「知られざる京都の魅力VIII〜京都・宮廷文化編〜」。会場は赤坂区民センターである。先2回は、同僚の福島恒徳教授と松田隆行助教授がそれぞれ、宮廷美術と和宮降嫁を話された。私は、「京都御所の変遷」とする。平安宮内裏から京都御所にいたる変遷をしゃべる。しかし、どうもノドの調子が悪く、お聞き苦しい講演になってしまった。申し訳ない。
 終了は、20時30分。最終の新幹線にギリギリにとびこみ、なんとか帰洛。


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