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2007.07.27

安朱古墓の被葬者は誰?、の巻

7月27日(金)
 ここ数日で、大小とりまぜ、いくつか書いたものが出た。
■山田邦和「太皇太后藤原順子の後山階陵」(「王権とモニュメント」研究会〈上原真人〉編『皇太后の山寺—山科安祥寺の創建と古代山林寺院—』所収、京都、柳原出版、2007年3月15日)84〜112頁
■山田邦和「京都市遠山黄金塚1号墳の再検討」(松藤和人編『同志社大学考古学シリーズIX』「考古学に学ぶ(III)」所収、京都、同志社大学考古学シリーズ刊行会、2007年7月1日)275〜284頁
■山田邦和「中世都市の考古学」(『季刊考古学』第100号「特集・21世紀の日本考古学」掲載、東京、雄山閣出版、2007年8月1日)108〜111頁
■山田邦和監修『とらべる京都 虎の巻—ツアーリーダーうんちくブック—』(改訂版)(〈東京〉、〈JR東海「そうだ京都、行こう」〉、〈2007年〉)山田邦和「京都 歴史のおさらい」     ←これは、去年出したものをそのまま、装丁を替えて改訂版としたもの

 『皇太后の山寺—山科安祥寺の創建と古代山林寺院—』の本は、2003年〜2005年まで続けられた、京都大学大学院文学研究科21世紀COE 「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」の「王権とモニュメント」研究会の成果である。この共同研究の主体となった山科の安祥寺の調査研究の成果は、これまで『安祥寺の研究 I 』『安祥寺の研究 II 』の二冊の報告書として刊行されているが、今回の本は、一般の方々にもわかりやすいように同研究の成果をとりまとめたものである。私といえば、研究会の楽しさにとりまぎれるだけで、報告書にはついに論文を書くことができなかった。せめて、今回の本には書かなきゃ申し訳ない、と焦っていたのであるが、ようやく念願を果たすことができた。この本のハイライトは、吉川真司・京都大学准教授の論文。ここで吉川さんは、例によっての例のごとしの緻密な研究により、大正年間に発見されていた「西野山古墓」が征夷大将軍・坂上田村麻呂の墓であることを立証している。これはすでに新聞でもとりあげられ、古代史学界に大きな興奮を巻き起こした。さすが、吉川さんである。
 私がここで扱ったのは、安祥寺の創建者である、仁明天皇女御・太皇太后藤原順子<のぶこ>の山陵(後山階陵)のことである。共同研究の親分の上原真人教授から頂戴したテーマは「山科の葬地」であったが、書いているうちに順子陵のことだけでいっぱいになった。でも、本全体のテーマからすると、この方が良かったと思う。順子の後山階陵は、現在は山科駅北方の山間部に治定されている。しかし、私はこれは、証拠に欠けると思っている。
 私の論文で問題としたことのひとつは、JR山科駅前で発掘された「安朱古墓」という平安時代前期の墓のことである。二重の木炭木郭という見事な構造を持つこの墓は、発見当初から話題を呼び、藤原順子の本当の陵である可能性も囁かれてきたのである。
 私も、なんとなく、そうかな、と思ってきたのであるが、今回、この古墓について再検討をおこなった。結論だけからいうと、安朱古墓は藤原順子陵ではない、と思う。それでは安朱古墓の被葬者は誰か? 私見では、順子の妹で、文徳天皇女御であった藤原古子(吉子とも)こそが第一候補だと考える。藤原古子? 誰、それ? と言われても仕方ないが、この女性、これから充分に検討する価値がある人だと思う。まあ、吉川さんの西野山古墓=坂上田村麻呂墓説に比べると見劣りはするし、インパクトにも欠けるけれども、仮説としては充分な有効性を持つ、と思っている。
 順子の「夫」であった仁明天皇の陵に隣接する貞観寺の跡地には、山中章博士の御自宅が所在することは有名?である。しかし、思わぬことであったが、藤原順子陵の位置を推定していくと、京都府立洛東高等学校の北端あたりだということになった。あらら! 洛東高校といえば、まさしく山中博士の母校ではないか! やっぱり、博士は最初から平安時代に憑依されていたんだな・・・・


2007.07.17

イギリスの思い出、の巻

7月17日(火)

 昨日まではカラッと涼しいイギリスで中世都市をめぐっていた。今日は、ねばっこい京都の夏の中で、祇園祭の山鉾巡行をながめている。まったく、不思議な感じがする。
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 今回のセッションの正式の名称は次の通り
International Medieval Congress (9-12 July 2007, University of LEEDS)
Session 122 (in Common Room of Seton House, Bodington Hall, University of LEEDS) Monday 09 July 2007: 11.15-12.45
Title: The Features of the Medieval Cities in Japan : The Present Stage of Research
Organiser: Hirokazu TSURUSHIMA, Faculty of Education, KUMAMOTO University
Moderator: Hirokazu TSURUSHIMA
Paper 122-a: KYOTO, the Capital of Medieval Japan / Kunikazu YAMADA, DOSHISHA Women's College of Liberal Arts
Paper 122-b: The Structure of Medieval Cities and Religion in Japan / Hiroshi NIKI, OSAKA City University
Paper 122-c: The Landscape of Local Political Cities in Medieval Japan / Aki YAMAMURA, AICHI Prefectural University

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Photo_1この地図に星印で示したところが、今回の訪問地です。
 今回はイギリスといっても、ロンドン市内は行っていない。また、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドは圏外。つまり、イギリス(グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国)を構成する4地方の内、イングランドだけを訪れたことになる。その限りでの印象を書きつづろう。
 行くまでは、なんとなく、日本もイギリスも大陸の端っこにくっついている島であり、面積も似ている(日本の本州は227,963平方キロ、イギリスのグレートブリテン島は219,850平方キロ)から、なんとなく、よく似た地理の場所のように思っていた。しかし、それはまったくの錯覚であったことを思い知らされた。
 イングランドはだだっ広い! これが旅を通じての強烈な印象である。とにかく、どこを走っても、山というものが見えない。どこまで行っても、低い丘が、のたのたのたのたと続いており、そこに広がる牧草地では羊がのんびりと草を食んでいる。関東平野に似ているのかもしれないが、面積からいうととうていそんな規模ではない。
 英語で、「山」Mountain と 「丘」Hill が違うのは知っていた。辞書によると、マウンテンは標高1000m以上の山、ヒルは標高100m程度の丘だと書いてある。なお、大阪府南部窯址群の須恵器編年の6世紀前葉の標式窯として「陶器山15号窯址」というのがある。学界では、この窯を「MT15号窯址」、そこから出土した須恵器を標式とする須恵器型式を「MT15型式」と呼ぶことが通例であるが、これはおそらく、「陶器山」をMt.Tokiと訳したのであろう。しかし、以前にも指摘したことがある通り、陶器山は標高150m程度の低い丘陵Hillであり、これをマウンテンと呼ぶのは明らかに誤訳なのである。そこまでは知っていたのであるが、なぜ英語で、ヒルとマウンテンをそれほど厳密に呼び分けるのか、判らなかった。
 イングランドの地形を見て、その疑問は氷解した。要するに、イングランドにはマウンテンは本当に数が少ないのである。それに対して、ヒルは、イングランド全土を覆い尽くさんばかりに、のたのたのたのたと延びているのである。
 これは、日本とは明らかに違う環境である。要するに、イングランドは「密度」が本当に低い土地なのである。イギリス最大の都市であるロンドンは人口700万を超える巨大都市であるが、第2都市のバーミンガムははるかに落ちて人口100万、それ以下は大都市と呼ばれるものであってもいずれも人口数十万人の規模にすぎない。これは、ロンドンが異常すぎるほどの巨大都市であり、イギリス全土の標準にはならないことを示している。それに比べて、日本はなんと「密度」の高い土地であろうか。日本人は、山地以外で使用可能な平地だけに、きわめて高密度の生活空間を創り上げてきたのである。日本の現代都市とイギリスのそれとを比べて、日本の都市はいかに雑然としているか、ということが指摘されることがある。しかし、これは無理難題というものだ。だいたいが、日本とイギリスではこれだけ「密度」が違うのだから、そもそも同一の土俵での比較はなりたたないのだから。イギリスの歴史や都市を考える場合、また日本とイギリスの文明の比較をするには、この環境の違いを深く認識しておかねばならない、と思う。


2007.07.16

無事帰国、の巻

 7月16日(月)
 台風の影響もなく、予定通り15時45分、無事に関西国際空港に到着いたしました。祈ってくれていた方々(?)、ありがとうございました。ただ、東海道線の人身事故と地震で、関空特急「はるか」が遅延。それに、祇園祭の宵山で渋滞。18時20分、帰宅しました。


2007.07.15

イギリス滞在中(4)、の巻

7月15日
 早いもので、もう帰国の朝である。朝の早い仁木さんが起き出すかすかな音を聞きながら、私はまだ、うとうと。6時45分、目覚まし代わりにしかけておいた私の携帯電話が、ピロピロピロピロと奇妙奇天烈な電子音を鳴らす。
 仁木さんが採ってくれた日本からの情報によると(このあたり、インターネット時代になって本当に便利になったものだ。昔だと、空港にいってから欠航がわかって大慌て、ということがしばしばだったもんな・・・)、なんとか台風は通り過ぎてくれたらしい。と、いうことは、われわれを迎えにきてくれる飛行機も、無事に関西国際空港を飛び立った、ということだ。一安心。
 イギリスに来ておどろいたことのひとつが、気温の低さ。日本でいうならば、まったく晩秋の涼しさである。暑がりの私にとっては、日本の(特に京都の)蒸し暑さに閉口していたことを考えると、まるで夢のようだ。なによりも、湿度が低いのがありがたい。寒い、という人もいるが、私にとっては快適このうえない。
 それに、イギリスの今の季節は夜が短い。夕方19時頃はまだ、日本でいうならば16時頃の明るさである。夜の21時頃まで明るいのだから、なんだか勘が狂う。所変われば環境も変わるものだ、と、しきりに感心。


イギリス滞在中(3)、の巻

7月14日
ラスティンガムの宿舎のみなさんに別れを告げて、三たび、ヨークに入る。とはいっても、あんまり時間はない。自由時間が1時間半だけもらえたので、駆け足でヨーク駅北側のヨーク国立鉄道博物館へ向かう。なんでも世界最大の鉄道博物館だということで、これは立ち寄る価値がある。中身は確かに広い。歴代のイギリスの鉄道客車が一堂に会している。なかに、Japanese SHINKANSENの車両も展示されているのは、ちょっとうれしい。さらに、日本語の旗に、東京の交通科学館と京都の梅小路機関車館とこのヨーク国立鉄道博物館が姉妹館であることが記されている。ちょっと、うれしい。
 ヨークの町を歩いていて、西方に巨大な観覧車が回っているのが見えて、気になっていた。いってみると、実はこの観覧車、鉄道博物館の付属施設であることが判明。時間もあまりないのであるが、せっかくだから、乗り込む。頂上からのヨークの町の全景は、やはり絶景。夢中でシャッターを押しまくる。
 ヨーク駅で、われわれのグループの半数の方々とはお別れ。そのあと、グループ全体の親方のKM大学のT教授、HB大学のA教授、RM博物館のT准教授、KMG大学のO准教授、それから仁木宏さんと私、というチームで、さらに南下。リンカーンLincolonという小さな町にはいる。ここでも、1874年に建てられたという瀟酒な造りの宿舎に、驚愕。それから、町中のパブで、ビールをやりながら食事。

 リンカーンの宿舎は無線ランが完備していて、自由につなぐことができる。ありがたや。


2007.07.14

イギリス滞在中(2)、の巻

7月11日
 チェスター行き。仁木宏さん、山村亜希さん、RM博物館のTさん、KMG大学のOさんという、日本史グループでの小旅行。1日、足が棒になるまでじっくりと歩き回る。帰り道、私だけは曲がり角を間違えて迷子になりかける。
 リーズに帰ると、IMC(国際中世史学会)恒例だという「IMCダンスパーティ」が始まっている。大食堂を会場にしてのディスコ大会である。びっくり。山村さんが、すごいね、すごいねと、感心することしきり。しばし、楽しむ。

7月12日
 国際中世史学会の最終日。午前中、TさんとOさんのグループの日本史の古文書のテーマの報告と、日本人グループの西洋史の報告に出席する。これで、学会終了。
 一足先にロンドンに向かう山村亜希さんを見送り、私たちは2台の車に荷物を山と積み込んで、出発。東へ東へと車を走らせ、夕方、ノース・ヨーク・ムーアズ国立公園の範囲内にあるラスティンガムLastinghamという小さな小さな村に到着する。ここのホテルは、まさに前世紀イギリスの正統的邸宅を改装したもの。豪華このうえなく、しばし、見とれる。ゆっくりと午後のお茶の時間を過ごし、豪勢な夕食とワイン。

 7月13日
 ゆっくりと朝をむかえる。しばらく朝の散策を楽しんだ後、ノース・ヨーク・ムーアズ国立公園を横切り、北海に面したウィットビーWhitbyという小さな港町へ到着。広大な海に感激しながら町を散策。町を見下ろす丘の上にある修道院の廃墟のウットビー・アビーに登る。
 ラスティンガムに戻ってからは、再び豪勢な夕食。


追伸 結局、うまくつながらず。この更新も、仁木さんのパソコンを借りてやることになる。ですから、やはり最低限の内容です。


 最新情報によると、日本は台風のただ中だという。もしかすると、われわれを迎えにきてくれる便が遅れるかもしれない。うまく飛んでくれると良いのだが・・・・ (ところで、日本では台風の神様って誰だっけ? イギリスから祈りを捧げようと思ったが、みんなで頭をひねっても、わからなかった。誰かご存知なら、我々のためにぜひ祈ってください)。


2007.07.11

イギリス滞在中、の巻


7月7日
 ロンドン着。ヒースロー空港よりレンタカーに乗り込み、ロンドン西郊のリディングヘ。ここで宿泊。

7月8日
 リディングをたって、まずはオックスフォード市を見学。その名も高いオックスフォード大学。壮麗で、目を奪われる。それから、ようやくリーズ入り。
7月9日
 いよいよ本番の日。機械がなかなかつながらず、冷や汗。私の報告は第1番目。緊張に緊張を重ねるが、なんとか原稿を読み終える。まずは成功か?
 午後、ヨークへ。博物館と城壁を巡る。
7月10日
 ふたたびヨーク行き。昨日見ることができなかった部分の城壁と、ヨーク城、それからヨーク大聖堂。
 リーズにとってかえして、西洋史の報告を聞く。

なかなかうまくインターネットにつながりません。これは書く実験。詳報は後ほど。


2007.07.09

イギリス到着、の巻

イギリス、無事に到着。
今、インターネット接続の実験中。


2007.07.06

行ってきます、の巻

2007年7月6日(金)
 山中章博士、御退院おめでとうございます \(^o^)/ \(^o^)/。言っておきますが、山中博士は働きすぎだ、と言っているのは、私だけではないですよ。ほとんど学界全体の世論といってもよいほどなんですよ。少しは身体をいたわってくださいね。

 ともあれ。 う〜〜。忙しい〜〜〜。今日までにかたづけなくてはならない仕事がたくさんあった。必死でとりくんだつもりなのだが、半分しか仕上がらず。あちこちに迷惑をかける。ごめんなさい。

明日から7月16日(月)まで、生まれて始めて、イギリスに行きます。イギリス・リーズ大学University of Leedsでおこなわれる、国際中世学会International Medieval Congressで報告することになったのです。とはいうものの、私独自の判断でそんな大それたことをやろうという決意にいたるはずがなく、要するに、仁木宏さんから、一緒に報告しよう、と誘われたからです。私が「中世の首都・京都 KYOTO, the capital of Medieval Japan」、仁木さんが寺内町と戦国都市、愛知県立大学の山村亜希さんが守護所と戦国城下町の報告をします。何が待っているのかわかりませんが、ヨーロッパの研究者に、日本の中世都市研究の一端を紹介できたら、と思っています。
 しかし、日本語原稿を作るのだけでも大変だったのに、それを英語に翻訳してもらい(自分では翻訳できない(>_<))、リハーサルしてみると大幅に時間超過することがわかったので一斗樽ほど汗をかきながら原稿枚数を削減し、発音を調べ、リハーサルをくりかえして時間におさまるように調整し、中世京都の図面をいっぱいつくり、それに英語のキャプションを貼り込み、さらにパワーポイントの発表資料を作る。こんなに大変な報告、初めてだ・・・・
 ともあれ、明日、行ってきます。向こうからはブログの更新ができるかどうかわかりませんので、詳細は帰ってから。


森浩一先生サイン会予告、の巻

Photo
来る7月21日、森浩一先生の新著の出版を記念して、先生のサイン会がおこなわれます。たくさんの本を出してこられた先生ですが、サイン会をされるというのは大変珍しいことです。森先生のファンの方には見逃せないイヴェントとなることと思います。乞うご期待。


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