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2008.03.31

年度末いろいろ、の巻

 今日で2007年度もおしまい。明日からは新学期である。

 3月20日(木・祝)
 (財)古代学協会の「仁明朝史研究会」。

 3月21日(金)
 今年度最後の、わが学部の教員会議。

 3月22日(土)29日(土)
 JR西日本「京都おこしやす大学」の「京の魅力・探訪ウォーク」で、「中世都市嵯峨コース」を担当する(同一内容で2回)。午前中はJR嵯峨嵐山駅前のコミュニティ嵯峨野で私が講演。午後は、皆さんと一緒に中世都市嵯峨の巡見。ありがたかったのは、事務局が交渉していただき、大堰川の川岸に臨む名刹、臨川寺に入らせてもらったことである。このお寺、後醍醐天皇皇子世良親王のために建てられた臨済宗の名刹であるが、ここ数十年は拝観を停止しており、私も入ったことがなかったのである。堂々たる本堂の裏側には、開山の夢窓国師の墓が眠る。開山堂の地下に国師の遺体が埋葬されており、床下をのぞき込むと国師の石室の上端部を見ることができる。その横には、世良親王墓の石塔が建つ。本堂には足利歴代将軍の位牌が安置されており、その中には有名な足利義満の「鹿苑院太上法皇」の位牌もある。とにかく、めったに入ることができないお寺を見せていただき、大満足。

 3月23日(日)
 JR東海「そうだ 京都、行こう!」のイヴェントに出講。京都アスニーで「平安京」講座。午後は平安宮跡を巡見。

 3月24日(月)
 花園大学人権教育研究センターの懇親会。花園会館の「花ごころ」で、豚の鍋に舌鼓を打つ。私は今年度は同センターの「委嘱研究員」であったが、その任期が切れるので、いわば「お別れ会」である。私の論考も載せていただいた「花園大学人権論集」15『個の自立と他者への眼差し』も無事に刊行される。
 この日の産経新聞京都版の「きょうと 京人」に「奥深い歴史の町を楽しもう」と題して、私のインタヴュー記事が掲載される。

 3月25日(火)
 京都SKYセンター主催の「平成19年度 新・京都SKY大学」の「総合活動コースA」に出講。京都新聞社の文化ホールで「平安京・京都の歴史を歩く」を話す。

 3月28日(金)
 京都新聞文化センターに出講。「王朝時代」の3回目で、「宇治の王朝文化—頼通から忠実へ—」を話す。
 夜は、伏見の老舗料亭・魚三楼で、同志社女子大学現代社会学部の歓送迎会。去っていく方々を見送り、新年度から新たにお迎えする方々と歓談する。

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■山田邦和「中世京都の被差別民空間—清水坂と鳥部野—」(花園大学人権教育研究センター編『個の自立と他者への眼差し—時代の風を読み込もう—』〔花園大学人権論集15〕所収、東京、批評社、2008年3月)、193〜223頁。

2008.03.19

新しい家族、の巻

Luke 3月11日(火)
 我が家に大事件。新しい家族が増えたのである。産まれて五ヶ月の真っ黒いペキニーズが来た。ウチの奥さんが「ルーク」と命名する。マック→クイール→ルーク、まるでしりとりである。
 もう30数年前の子供の頃、近所に犬が放し飼いにされていて、私はそれを可愛いがっていた。それを見た父親が、ウチでも犬を飼うことに決め、行きつけのお医者さんで産まれたばかりの子犬をもらってきてくれた。最初はあまりに小さすぎて、踏んづけてしまわないかと心配になるほどだった。メスだったので「メリー」と名付けた。それが、真っ黒いペキニーズだった。コロコロとして、足の先だけが白いのがなんとも可愛いかった。ペキニーズはマックのように茶色とかまたは真っ白が普通であって、クイールのような白黒とか真っ黒というのはかなり珍しい。とにかく、子供の時のこの経験があるので、私はペキニーズが大好きになったし、黒ペキがどこかにいないかな?と思っていた。
 新しくきたルーク、元気でやんちゃで、さっそくに家中を駆け回っている。どうか元気で育ってね。そして、マックとクイールと仲良くしてね。\(^o^)/

Kuzira 3月14日(金)
 朝日カルチャーセンター京都「平安京・京都の歴史を歩く(20)初期摂関時代の京都」の3回目で、「初期摂関時代の展開」。承和の変と応天門の変を中心に講義する。
 その後、京都市役所の方々と打ち合わせ。それが終わると某新聞社に出向き、インタヴューを受ける。
 夜は、東京から久しぶりに上洛されたM氏を囲んで、D大学のMK教授とともに飲み会。MK教授の行きつけの日本料理屋さんで、なんと、珍しいクジラのハリハリ鍋。子供のころはよく食べさせてもらった料理だが、商業捕鯨が禁止されてからは縁遠くなってしまった。M氏とともに、舌鼓。

 3月16日(日)
 大阪歴史博物館で、都城制研究会。中国・西北大学の王維坤教授の日中都城制比較研究と、花園大学の古市晃氏の飛鳥の都市論を聞かせていただく。
 夜は京都に戻る。花園大学の院生と卒業生が、私を囲む会を開いてくれる。場所は先斗町。

 3月17日(月)
 花園大学の「学位授与式(卒業式)」。私としては、これに出席するのは最後ということになる。私が指導した院生4人に、修士(文学)の学位記を手渡す。学窓を離れ、それぞれの道へと進んでいく彼ら彼女らに幸あれ。夜は、河原町四条で卒業式の打ち上げ。

Sotugyou 3月18日(火)
 こんどは昨日とはうってかわって、同志社女子大学の卒業式。なんとなく、京田辺キャンパスで開催されるように思っていたが、違った。今出川キャンパスの栄光館だった。暖かい日になったのがありがたい。栄光館の前は、振袖姿の学生の大群である。こちらはもちろんキリスト教スタイルの儀式。コトリとも音をたてず、粛々と式がすすむ。それは良いのだが、とにかく人がたくさんで、栄光館の中は暑くて閉口である。
 夜は、京都ブライトンホテルに場を移して、ウチの学科の卒業記念パーティ。卒業式ではほとんど振袖だったのが、パーティになると過半がドレスに着替えてくる。それが300人も集まるのだから、確かに華やかきわまりない。ゼミの先生方にはそれぞれの受講生が花束を贈呈して記念写真大会とあいなる。私は今年はまだ4回生を担当していないから「教え子」がいないのであるが、哀れんでもらえたのか(?)、幹事の学生さんからちゃんと花束をもらう。

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■山田邦和「考古学者スウェーデン皇太子入洛」(丸山宏・伊従勉・高木博志編『みやこの近代』所収、京都、思文閣出版、2008年)222〜225頁(「みやこの近代(84)(85)スウェーデン皇太子来洛す(上)(下)」〈『京都新聞』2004年〈平成16年〉7月1日号〈朝刊〉・7月8日号〈朝刊〉掲載、京都、京都新聞社、2004年7月〉の補訂再録)。

2008.03.13

結婚式とパーティ、の巻

 山中博士も無事にヴェトナムに戻られ、遺跡調査を再開されたとのことである。

 3月6日(木)
 KB大学を定年退職されるTM教授のこれまでの御労苦をねぎらう、ということで、D大学のST准教授の御一行とともに大阪・梅田の土佐料理屋にくりこむ。ヴェトナムの眠気がまだ残っていたが、飲み始めるとそんなことも忘れ、ゆっくりとした時間をすごさせていただく。

 3月8日(土)
 花園大学大学院で私が担当した学生であったOK君がめでたく結婚されるということで、披露宴に参列。会場の「びわ湖大津館」とはなんだろうと思っていたら、堂々たる和洋折衷建築に着いた。かつての「琵琶湖ホテル」の建物を改装したのだという。OK君、結婚とともにN県G市の新たな職場に赴任するという。一安心である。かつての「教え子」の諸君がひさしぶりに揃う。故郷に帰ってがんばっているTS君が、もう結婚して子供もいる、ということを聞いてびっくり。さまざまな趣向をこらした披露宴となる。2次会で、ウェディングケーキならぬ「ウェディング豆腐」への入刀があったのには、笑ってしまったぞ。

 P10602643月9日(日)
 山中家の御葬儀に参列したあと、こんどはお祝いの会。新・都ホテルで滋賀県立大学の菅谷文則教授の定年退職の祝賀会があるのである。行ってみてびっくり。300人をこえる大パーティである。これも菅谷教授の交友関係の広さだな。写真は、大峰山から贈られた装束を身につけた山伏姿で挨拶される同教授。

 3月10日(月)
 (財)古代学協会の評議員会。東京から専務理事のSH先生が来洛され、古代学協会の今後について述べられる。まだまだ不確定要素は多いのだが、学術雑誌『古代文化』の重要性は皆の共通する思いである。とにかく、やれるところからやっていこう。

2008.03.10

哀悼、の巻

 3月9日(日)
 悲しい出来事がおこった・・・
 山中章博士の御母堂がみまかられたのである。私がヴェトナムから帰国した次の日だったらしい。山中博士は急遽、帰国された。
 実は、ヴェトナムでの発掘調査中、発掘現場で、御母堂の御病状が良くないことを山中博士から打ち明けられた。「もしかすると、急遽帰らなければならないかもしれない」とおっしゃっていたので、私も案じていたのである。調査が終わって博士が帰国されるまで何とかご無事で、と祈っていたのであるが、それもかなわなかった。俗な言い方をすると「死に目に会えなかった」ということになるのであろうが、「大好きなアジアに息子が行くのだから、死に目に会えなくても『現場、が大事だから!頑張れ!』と言ってくれたとおもう」、というのはまったくその通りだったのだと思う。
 今日、伏見で、博士御母堂の葬儀がしめやかに営まれた。あまり大きいことにしたくない、という博士の御意向もあって、研究者仲間にはほとんど知らせていなかったようである。DJ大学のOH教授、KRM博物館のHK教授、K大学のNR教授、それから、私たちの盟友のSM博士が参列されていた。
 葬儀が終わって、山中博士が御挨拶を述べられる。声をつまらせ、涙をこらえながら感謝の言葉を述べられる博士を見ていると、こちらの目頭も潤んでくる。「自分は神を信じず、人間も死んだら単なる元素に帰るだけだと思っている。しかし、母にだけは来世があって、極楽で楽しく過ごしてもらいたいと思う」というのは、一見するとまったく前後相矛盾しているのであるが、その実、博士ならではの真情に溢れた温かい言葉だったと思う。
 私たちの「10年会」の大切な大切な仲間であるAEさんからは、心のこもった弔電が届いていた。「かくも才気溢れた魂をこの世に送り出してくだされたお母様に、感謝」という言葉には、心から同感である。山中夏美様、山中章博士を慈しみ育てられたことに、私たちは心から感謝いたします。どうか、やすらかにお眠りください・・・ 〔合掌〕

2008.03.07

ヴェトナム(10)、の巻

〔タンロン皇城跡出土須恵質円筒形鉢の分類〕
Photo_2 タンロン皇城跡の遺跡を調査しながら、自分に何ができるのか、ということを考えていた。とはいっても、ヴェトナム考古学にはまったくの門外漢である。遺跡も、さまざまな時期の遺構が複雑怪奇に積み重なっていて、とても一筋縄ではいきそうにない。
 われわれの発掘現場でも、また隣の地区でも、土器・陶器を多量に含んだ包含層が露出している。その中にあって、日本で言うと須恵器か中世の無釉陶器にあたるような焼きの、円筒形の鉢がやたらに目立っている。どれくらい目立つかというと、犬も歩けば棒にあたるという言葉があるが、考古学者も歩けば円筒形鉢にあたる、というくらいにたくさんあるのである。これをじっくりと見ていると、どうも地区ごとに型式の区別ができそうだ。こうした普遍的な遺物の分類と編年をやっておけば、パッと見ただけでだいたいの時代がわかることになる。それは、調査に参加する学生達にも、またこれから現場に来て頂く研究者の皆さん方にも、ある程度は役に立つものになるのではないか、と思い出したのである。それからは時間をみつけてはタンロン皇城跡の各地区を歩き回り、円筒形鉢を観察することにつとめた。現場に寝ころんでいる土器の出土状態を写真にとり、実測用具をとりだして略測していった。
 なお、現場の整理室には大型の「サヤ鉢」(窯道具)が大量に並べられており、私も最初はこの「サヤ鉢」と円筒形鉢を混同していたが、よく見ると両者はぜんぜん違う。サヤ鉢は大型(口径30cm以上)で厚手で粗製の土器であるが、円筒形鉢は中型〜小型(口径15〜25cm)で、作りもなかなか精妙な焼物である。

 研究成果はすみやかに公開して共有財産にすべし、という山中博士の方針に従い、分類の概略を述べよう。
 円筒形鉢は大きくわけてI〜IVの4型式にわけられる。さらに細かく見ると、I型式はIa・Ib・Icの3小型式に、III型式はIIIa・IIIbの2小型式に細別するのが可能になるから、Ia・Ib・Ic・II・IIIa・IIIb・IVの7型式にわけることができるのではないかと思う。

 I型式は、口縁部が「く」の字形に屈曲するものである。タンロン皇城跡の宮殿建物跡にともなうと見られるのは、すべてこの型式である。3つに細分できる。Ia型式は口縁部の屈曲が鋭く、胴部がやや湾曲する。胴部は調整痕を丁寧にナデ消す。Ib型式は口縁部断面がやや方形になり、胴部が円筒形になる。調整痕をナデ消す。Ic型式は口縁部断面が長方形に近くなる。口縁部下端に数条のカキメ沈線をいれる。胴部には縦方向の条線の文様をいれるようになる(西村昌也氏によると割った竹を押し付けて施文するという)。
 II型式は、口縁部断面が楕円形になるもの。一番の特徴は口縁部内面に1条の突帯をめぐらすことである。これは明らかに、I型式で見られた口縁部の屈曲の「痕跡器官(ルジメント)」である(ルジメントの典型例として、考古学の授業で使いたいくらいのものだな)。外面の文様は、Ic式を引き継ぐ。われわれの発掘調査地区であるD3区の下層の遺物包含層にみられる。
 III型式は、口縁部が玉縁状になるもの。われわれの発掘調査地区の上層の包含層にみられる。外面の文様は、Ic〜II式を引き継ぐ。ふたつに細分できる。IIIa型式は口縁部内面の「痕跡器官」の突帯がのこる。IIIb型式は「痕跡器官」が退化し、「く」の字形の屈曲となる。
 IV型式は、全体に退化が進み、ぼったりと厚ぼったい粗製になるもの。外面の文様が消失する。発掘現場では見られなかったが、整理室で見つけた。おそらく、最上層から出土したものだと思う。

 この分類に実年代をあてはめるのは、なかなかにむつかしい。ただ、I型式はタンロン皇城の主要建物に伴うから、李朝(11世紀前葉〜13世紀前葉)から陳朝(13世紀中葉〜14世紀末葉)にかけてのものだと考えてよい。それに対して、II・III式はそうした宮殿の建物を破壊して埋められた分厚い包含層に含まれるから、黎<レ>朝(15世紀中葉〜18世紀末葉)に降ると考えることができる。IV型式は、おそらく黎朝のある段階のものであろう。そうすると、I型式を11世紀〜14世紀、II・III型式を15・16世紀、IV式を17世紀以降と考え、その中で年代を割り振っていくというのが穏当であるように思う(Iaを11世紀、Ibを12世紀、Icを13世紀、IIを14世紀、IIIaを15世紀、IIIbを16世紀、IVを17世紀というように1世紀ごとに割り振れたら綺麗なのだが、まあそんなにうまくは割り切れないだろうな・・・(^^;))。

 ただし、これはあくまでも現段階の仮案である。われわれの共同研究者西村昌也氏の博士論文『紅河平原とメコン・ドンナイ川平原の考古学的研究』(東京大学大学院人文社会研究科2006年度提出)を見せていただくと、ヴェナトム各地ででた多数の同様の土器が分類・編年されている。こうした御業績を勉強させていただき、分類と編年を徐々に固めていきたいものだと思う。

2008.03.06

ヴェトナム(9)、の巻

 無事に日本に帰国しました。みなさま、ありがとうございましたm(_ _)m。

 0000001〈タンロン皇城跡発掘調査現場で、塼<セン>積みの宮殿遺構の観察〉

 3月4日(火)(続き)
 山中博士からは、「お土産が必要なら、午後は発掘を休んで市内で買い物をしていただいても良いですよ」と、めずらしく(?!)優しい言葉を掛けていただく。しかし、なんだかやっぱり遺跡のことが気になって、結局は最後まで現場でウロウロしていた(写真)。そうすると、やはり今まで気がつかなかったことに目を開かされる。刑事ではないが、現場百遍、というのは考古学でもまさに真理だな。
 17時半、作業終了。18時、ホテル帰着。シャワーを浴びてさっぱりする。このホテル、シングル・ルームにはシャワーだけで浴槽は設置していない(学生が宿泊していたツイン・ルームには浴槽がある)。私としては、それはまったく苦にならない。トイレとシャワーがひとつの洗面所の中にあるのは通例であるが、シャワーの部分がガラスの扉で仕切れるようになっていることは大変大変ありがたい。私は、シャワーがカーテンで仕切られているヤツが、濡れたカーテンが身体に触れたり、シャワーのあとに用を足そうとするとトイレまで湯気でもうもうとしていたりというので、大嫌いなのである。おかげで、仕事帰りのシャワーを日課にすることができた。
 あわてて荷物を部屋中にぶちまけるが、なかなか整理はつかない。18時半、皆さんとともに夕食。持ってきたポカリスエットの粉末や液体石鹸の余りを学生たちにさしあげる。
 20時、やっと整理が完了。近くのシェラトン・ホテルまで行ってタクシーを拾う。ここで、山中博士と学生さんとはお別れである。夜の高速道路を疾走して、ハノイの国際空港に到着する。夜の空港は気が滅入るようで嫌いなのであるが、これはやむをえない。チェック・イン・カウンターのところで並んでいると、あちらから大きな荷物をひっぱった日本人男性が近づいてきて私の後ろに並ぶ。あれっ?、と思うと、大学の先輩にあたるNI氏であった。N市教育委員会に所属なのだが、今はそこからユネスコの関連組織に派遣されて国際交流業務を担当しておられる。今回はヴェトナムの農村との交流事業のために来越されたのだという。日本では近くにいるのにいつもお目にかかる機会を逸しているのに、こんなところでバッタリとは面白いことである。お互いに、奇遇を喜ぶ。
 チェック・インは思ったよりも簡単にすみ、あとはひたすらに飛行機を待つ。しかし、眠たくて仕方ない。何でも良いからとにかく早く乗せてよ、と言いたくなる。23時15分、やっとゲートが開き、飛行機に乗り込む。
 23時30分、離陸。やっとウトウトとしたと思ったら、2時間余りでもう朝食が出る。けっきょく、ほとんど寝られなかった。ボーッとした頭を振る中、5時30分(ヴェトナム時間ではまだ夜中の3時30分)、無事に関西国際空港に着陸。6時半の関空特急「はるか」を待ち、8時過ぎに京都に帰ってくる。
 私がいなくなった途端に山中博士は豪華な洋風居酒屋なんぞでグルメと洒落込んでいるようである。私は、久しぶりに和風中華料理屋にでかける。その後、ウチの奥さんが行きたがっていた新開店の居酒屋で日本酒。しかし、やはり寝不足が祟っているようで、一杯飲むともう眠気が襲ってくる。早々に帰宅し、そのまま布団にもぐりこんで、爆睡。そのおかげで、やっと元気を取り戻す。

2008.03.04

ヴェトナム(8)、の巻

 3月4日(火)
P1060249 私のヴェトナム滞在最終日。山中博士らはあと2週間、発掘を継続されるが、私は一足お先に帰国である。今はヴェトナム時間19時(日本時間21時)。これから空港に向かい、深夜の飛行機に乗り込み、日本到着は明日の早朝となる。
 発掘現場で記念写真。両脇は、ヴェトナム在住の考古学者、西村昌也氏・西野範子氏の御夫妻。西村さん、西野さん、本当にお世話になりました。ありがとうございました。そしてもちろん、今回の得難い機会を与えてくださった、山中章博士に、深謝。

2008.03.03

ヴェトナム(7)、の巻

P1050944<>〔コーロア城跡の城壁遺構〕
 3月2日(日)
 この数日、ハノイの気温は変化が激しい。朝がたは結構冷え込むのでセーターなどを着ていくと、昼頃には暑くなってしまい、上着を脱ぎ捨てる、ということになっている。
 さて、発掘もエンジンがかかってきたのであるが、私はあと数日で帰国である。2週間というとかなりの長い時間のように思っていたが、実際には早いものだな。
 この日は、みんなでハノイ北郊のコーロア城跡の見学にでかけることになる。全員そろっての遠出は初めてなので、なんとなくウキウキする。朝8時、われわれのホテルに、ヴェトナム考古学研究所のヒープ氏と、コーロア城跡の発掘調査にとりくんでいるアメリカ・イリノイ大学大学院生のナム氏とが迎えにきてくれる。おふたりとも実に気さくで誠実な方々で、車中でも会話が弾む。
 30分くらいで、コーロアの遺跡に到着する。周囲8kmの大遺跡で、外城・中城・内城の3重の城壁が実によく残っているのに驚愕!! ヴェトナム学界の定説では、これがなんと、紀元前3世紀に構築されたという。もしこの時期比定が本当ならば凄い事である。それを批判する能力はもちあわせていないが、いずれにしても東アジアでは中国文明に比肩する巨大な都市を築いていたことになる。これは見逃せない遺跡である。
 遺跡中心部にある小さなお寺で内城壁を見た後、中城壁と外城壁を踏む。それから、中城壁の北端のナム氏の発掘現場を見学させてもらう。城壁の複雑な構造がよくわかる、きわめて興味深い成果が得られる。その後、もう一度、遺跡中心部に戻って、村の集会所に附設された展示室を観覧。
 ハノイに戻る途中でちょっと豪華な昼御飯をよばれて、われわれの現場まで送ってもらう。ここでヒープ氏とナム氏とはお別れ。お世話になりました。

2008.03.02

ヴェトナム(6)、の巻

 2月29日(金)
 現場を見渡すと、いろいろな土器が露出している。施釉陶器もあるけれども、多くは素焼きの硬質土器で、還元焔焼成の暗灰色の焼物である。ということは、日本の須恵器に該当する焼物だということになる。須恵器の研究ならば、私は専門家の部類に属するはずである。
 と、いうことで、現場やその隣の発掘区に点在する土器を注意してきた。まだはっきりしたことはわからないが、どうも型式変遷が追えそうなものがある。ウチの現場での層位関係と対応させると、うまく編年が組めそうに思える。ヴェトナム考古学界でこういう地味な土器の研究がどこまで進んでいるのか知らないのであるが、自分なりに考えをまとめて見たいものである。
 夜、共同研究者の西村昌也氏・西野範子氏御夫妻のご自宅にうかがい、検討会。

 3月1日(土)
 午前中、山中章博士は三重大学の卒論発表会にインターネット参加されるとかで、現場を離れられる。それにしても、ハノイから日本に電子会議で参加できるとは、時代も変われば変わったものである。昔、私がエジプトの発掘調査に行った時など、日本とはほとんど音信不通。唯一の通信手段はカイロの日本大使館の御厚意で預かってくれる郵便だけだったもんな・・・ しかし、逆に、世界のどこに居ても仕事が追いかけてくるというのは、便利なようでまったく難儀ものでもある。

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