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2008.05.20

角田文衞先生御葬儀、の巻

Hon〈←角田文衞先生の御著書・編纂書の数々。圧倒される・・・〉

 5月14日に95歳で御逝去された角田文衞先生の御葬儀は、通夜が18日(日)18時〜19時、告別式が19日(月)12時半〜14時半に、いずれも、京都駅八条口からほど近い公益社京都南ブライトホールにおいておこなわれた。私は受付の隅っこでお手伝いをさせていただく。さすがに大先生の御葬儀だけあって、ホールは満杯である。告別式での弔辞は作家・瀬戸内寂聴さん、京都大学名誉教授・樋口隆康先生が読まれた。最後のお別れを、ということで棺の中に花を捧げると、そこには小さく小さくなられた先生が眠っておられた。感謝の言葉をつぶやきながら合掌するが、思わず目頭が潤んでくる。

 私が始めて角田先生の御名前を知ったのは、小学校六年生の時であった。町を自転車で走っていた私は、『紫式部邸宅跡』という看板を掲げた廬山寺というお寺を見つけた。あれっ、紫式部はウチの近所に住んでいたんだ、と思ってなんだか嬉しくなった私は、早速、寺の境内に入ってみた。本堂の前には白砂と苔で造られた清楚な庭があり、そこに紫式部の邸宅跡を示す大きな石碑が据わっていた。本堂の長押の上には、ここに式部邸が存在したことを考証した壮年の学者の写真がかかっていた。キリリとひきしまった端正な容姿が、子供心にも強い印象を与えずにはいなかった。お寺の人が「これは平安博物館館長の角田文衞先生といい、ここに紫式部が住んでいたことを証明してくださった偉い先生なんです」と説明してくれた。これが、私と角田先生との『出会い』だった。
 後年、この話を先生にすると、「あなたはそんな早くから私の名を知っていてくれたのですか」と、逆に感激していただいた。光栄なことである。

 廬山寺ではさらに、平安博物館は三条高倉にあるということを教えてもらった。ヘェ、三条高倉ならばウチのすぐ近所だ、と思うと、私は今度は平安博物館の探検にでかけた。重厚な赤煉瓦の建物の入口をくぐると、展示室はひっそりと静まりかえっていた。京都の人にとって「博物館」というのはまず京都国立博物館のことであるし、私も同博物館には行ったことがあった。しかし、平安博物館は私がそれまで知っていた博物館像とはまったく異なった博物館であった。過去の文化財を単なる美術品として並べるのではなく、そのひとつひとつに歴史を語らせようとする意図が痛いほど伝わってきた。特に、中央ホールの実物大の平安宮内裏清凉殿復元模型は圧巻だった。平安博物館は日本の「歴史博物館」のパイオニアであったのである。私はすっかり魅了されてしまった。こんな博物館を造りあげた角田先生とはどんな人なのだろうか。それ以来、私の心には先生の名前がくっきりと刻み込まれることになった。

 高校時代には、清水睦夫先生「世界史」の講義を受けることができた。清水先生は当時の日本では珍しいロシア・東欧史の学者で、角田先生の高弟であった。私は清水先生の名講義(明らかに、高校の授業のレヴェルをはるかに突き抜けていた)を通じて、「角田史学」の真髄に触れたのである。それに刺激された私は、角田先生がローマ帝国の章を執筆された山川出版社の『世界各国史・東欧史』(旧版)を紐解いた。この本は、帝国の東西分裂を認めず、古典ローマ帝国→中世ローマ帝国という体系でヨーロッパ史を理解しようとする史観で貫かれていた。そこにあったのは、教科書的なヨーロッパ史とはまったく違った世界だった。歴史とは視点を変えることによってどんなに魅力的になるものなのか、それを私は始めて教えられたのである。
 清水先生は、私の家が京都の中京にあることを知り、時々、『古代文化』への起稿論文を平安博物館に届けて欲しい、と頼まれるようになった。郵送すれば済むことなのであるが、それをわざわざ私に命じられるのは、私が考古学に志していることを知っておられたから、平安博物館とのつながりを作ってやろうというお気持ちだったのだと思う。そうして改めて訪ねてみた平安博物館は、高校生の私にとってはまさに見上げるような学問の殿堂であった。当時の私にとって、平安博物館というのは憧れの的であった。

 大学進学が決まる頃、私は『古代学序説』の読破に挑戦した。この名著の『凄さ』については既に語り尽くされている。考古学・文献史学等の統合の上に立ち、世界史的な視野にもとづいた『古代学』の偉容! それは、まさに圧倒的な感銘を私の心に残すものであった。
 当時、平安博物館では大学の授業に準じた「古代学講座」を開催していた。平安博物館の研究員がそれぞれ自分の分野の講義をおこなうのである。館長・角田先生御自身は、土曜日の午前の授業を担当しておられた。大学2回生の時、私は角田先生の講義の受講を申し込んだ。驚いたことに、館外からの受講生は私ひとりで、他は平安博物館の研究員(学界の第一線で活躍されている早々たる先生方である)が受講されるのである。角田先生の講義は、独特の東北弁の訥々としたものであったが、内容は厳しかった。角田先生は絶えず研究員を指名して質問をあびせかけ、答えられないと「あなた、こんなことも知らないのですか」「考古学をやっている以上、こんなことは常識です」などとキツイことを言われるのである(その実況中継の一部は、語りぐさになっている「設問・平安博物館研究員諸氏との対話」〈『古代文化』第32巻第12号〉に見ることができる)。

 駆け出しの時代にこうした高い理想を持つ史観に触れたことは、その後の私の歩む道を決定した。私は今までにさまざまな細かい研究にとりくんだが、そのそれぞれが私なりの『古代学』のテスト・ケースであるという意識は失っていないつもりである。ある人は私の研究を、考古学者としては珍しく文献史学の成果の吸収に積極的だ、と評してくれる。もし本当にそうだとすると、それは私が、『角田史学』から学んだ通り、考古学者である以前になによりもまず歴史学者でありたい、という願いを常に持ち続けているからだと思う。その意味で、『角田史学』に触れることがなければ今の私は存在しなかったであろう。

 大学院博士課程前期を修了した後、私は平安博物館研究嘱託(非常勤)・同館発掘調査部調査員として半年過ごし、それから(財)古代学協会研究員・平安博物館助手に正式採用された。平安博物館への就職が決まった時の嬉しさを、私は生涯忘れないであろう。古代学協会での仕事で最も思い出深いのは、『平安京提要』の編纂事業であった。これを私に命じられた時に角田先生は微笑みながら「この仕事をやりとげることができたならば、『平安京の権威』になれますよ」と言われた。駆け出しの私にとってこれは確かに大きなチャンスをいただいたことであった。もちろん、今でも「平安京の権威」になれたわけではないのであるが、この仕事をやったことによって暗中模索だった私の平安京研究に大きな曙光が指したことは間違いない。ありがたいことであった。

 角田先生に会うたびに言われるのは、「研究者は著書を出さねばなりません」「本を出す予定はどうですか」ということであった。だから、私が博士号を取得し、博士論文を公刊した時には大変々々喜んでいただいた。しかし、その後も会うたびにそう言われるのはなかなか辛いものがあった。最近になってようやく、平安京・京都都市史関係の論文をまとめた論文集を公刊する予定となり、そのことを申し上げるとこれも大変喜んでいただけた。しかし、私の怠惰から同論文集はまだ刊行できず、ついに先生の生前にお目にかけることができなくなってしまった。痛恨事である。

 最近では、さすがにお身体が弱られ、目が見えにくくて本が読めない、とボヤいてられたし、また脚も弱って歩行が困難になっておられた。しかし、古代学協会の「仁明朝史の研究」を始めとして、色々な企画を考え出されては矢継ぎ早に指示を出しておられることは変わりなかった。
 先月の9日、先生の95歳の誕生日に協会の西井芳子・鈴木忠司両氏とともに御自宅にうかがった。ベッドに横たわったまま起きあがることができなくなっておられたことは、なんとも悲しかった。それでも驚いたのは、頭脳は最期まで明晰で、小さな声で「私はまだまだやりたいことがあるのです」とおっしゃっておられたことであった。この時が、私にとって生前の先生との最期の別れになった。

 考古学と文献史学を総合し、洋の東西を問わず世界史の全分野を対象とされた大学者。自力で資金を集めて研究機関を設立・運営していくという離れ業を続けてこられたことも驚嘆に値する。もう、こんなスケールと行動力を兼ね備えた学者は出てこないかもしれない。角田先生の御冥福をお祈りし、先生の「理想」のたとえ万分の一であっても引き継いでいくことを誓いたいと思う。

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