河内大塚山古墳を見る、の巻
12月10日(水)

考古学・歴史学の16の学会連合の要望に応えて、宮内庁も陵墓の調査の公開に少しづつ前向きにとりくんでくれるようになってきている。もちろん、私たちの立場からしたらまだまだ不十分ではあるのだが、それでも以前に比べると隔世の感であることは確かである。今回、大阪府松原市の河内大塚山古墳(大塚陵墓参考地)の立会調査の見学が許されることになった。
この古墳は全長330mの超巨大古墳で、従来から「謎の前方後円墳」と言われてきた。以前はこれを雄略天皇の真陵に宛てる説がほぼ通説となっていたが、雄略天皇陵だとすると古墳時代中期の5世紀後半だということになる。最近では、それよりも古墳時代後期後半の6世紀後半に降るとする説が有力となってきているし、私もそれが正しいと思う。そうすると、奈良県橿原市五条野丸山古墳(見瀬丸山古墳)と並んで、古墳時代後期後半に築造された、ただふたつの超巨大前方後円墳ということになり、その時代の歴史を考える上で最重要の古墳だということになる(ついでに言ってしまおう。よく、河内大塚山古墳を大阪府高槻市今城塚古墳と奈良県五条野丸山古墳の間に編年している考古学の本があるが、これは根拠薄弱である。知られている資料による限り、五条野丸山古墳と河内大塚山古墳の間にはそんなに時期差を考えることはできないと思う。それから「江戸時代、河内大塚山古墳の前方部の上には村があった。だからこの古墳の前方部は大幅に削平されている」とされることも多いのであるが、私見では、これも、ムリ。)。しかし、この古墳についてはほとんどデータが無く、その位置づけについては従来から頭を悩ませてきたのである。
行ってみると、前方部の西端にあって周濠をまたぐ渡り堤の部分が調査されている。ちゃんとした検討は宮内庁の正式報告と、来年度に予定されている反対側の渡り堤の調査の成果を待たねばならないので、まだ軽卒なことをいうべきではないが、この発掘の結果には仰天した! この謎の古墳の位置づけが、よりはっきりしたように思う。
それから、地元研究者のNT氏のご案内で、河内大塚山古墳周辺のあちこちを見学。山中章博士に捧げた柴籬神社(しばがきじんじゃ)の「歯磨き面」はこの時に行ったものである。
皆さんと別れてからは、大阪市立美術館での「三井寺展」を見学。会場への道で同僚のRT客員教授と、また会場内ではR大学のFK客員教授と、それぞれバッタリ。今後数十年は見る事ができないかもしれない秘仏群との出会いに、感動する。

