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2009.03.31

祖父50回忌と吉田泉殿、の巻

P1110536(滞英中の祖父。なかなかにハイカラである(o^-^o))
3月8日(土)
 わが山田家の菩提寺である蹴上の安養寺で、祖父・山田萬吾郎の50回忌の法事。通例として、50回忌というのはむしろめでたいことだとされている。祖父は岐阜の田舎の農家の次男坊で、若い時に神戸に出て働き、そこでたまたま来日中のイギリスの貴族に目をかけてもらった。そのお殿様が帰国する時に「一緒にイギリスに来い」と誘いを受け、イギリスに渡った。これ、明治後半の話だから、当時としてはかなり珍しい事例だったはずである。わが家には家宝のひとつとして、お祖父ちゃんがこの時に使った明治のパスポートが保管してある。数年たって帰国したあと、京都に居を定め、英国じこみのキングズ・イングリッシュにものをいわせて外国人相手の美術の商売を始めた。これが、わが山田家の創設となったのである。

P1110568 3月29日(日)
 京都市が進めていた、堀川の再建・遊歩道化の工事が完成。堀川は平安京とともに造営された歴史的遺産であるが、戦後すぐに水脈を絶たれてコンクリートで固められてしまい(当時の京都市役所の担当者のセンスが疑われる)、まことに無残な状態で放置されてきた。それが数十年ぶりによみがえったのである。これには、素直に喜びたい。ウチの近所なので、マック、クイール、ルークも楽しいお散歩道ができて大喜び。
 午後は、古代学協会の「仁明朝史研究会」。故・角田文衞先生の提唱によって開始し、一年間続けてきたこの研究会も一区切りである。

P1110546 3月30日(月)
 京都大学構内遺跡の現地説明会が開催される。百万遍交差点の南西で、鎌倉時代の西園寺公経の別業であった吉田泉殿の跡と推定される地点である。昨年の発掘調査で綺麗な建物遺構が検出されている。今回の調査地では庭園とみられる河川遺構や敷石遺構が出ており、吉田泉殿の南半部にあたることはまちがいない。鎌倉時代の貴族邸宅についての大発見であるとともに、権勢をふるった西園寺公経の実像に近づく大きな手がかりとなる。
 現場でであったK大学のMY教授、KJ大学のNM教授ご夫妻らとともに、京都大学医学部の芝蘭会館別館のレストランで昼食。
 夜は、伏見の魚三楼で、ウチの学部の歓送迎会。わが大学の名物教授であった朧谷寿先生が、なごりを惜しまれながらの御退任となる。

 さあ、明日からは新年度だ。


2009.03.18

同志社女子大学2008年度卒業式、の巻

 1959年3月17日の夜半から18日の深夜にかけて、若きダライ・ラマ14世法王は兵士に変装してチベットのノルブリンカ離宮を脱出、亡命の途につかれた。今からちょうど50年前のことである。

P1110498 2008年3月18日(水)
 わが同志社女子大学の卒業式・学位授与式。うららかな暖かい日になって、なによりである。いつもながら華やいだ式になる。写真は、わが大学の山田ゼミの第1期の卒業生の3人。卒業式には和服で登場である。終了後は、宝ヶ池のグランドプリンスホテル京都に会場を移し、現代社会学部社会システム学科の「謝恩会」となる。わが学科は、ひとつの学科だけで一学年の定員300人。今年の卒業生は実に300数十人にもおよび、ほかの大学ならばひとつの学部に匹敵するくらいの学生を抱える巨大学科である。学生はこの会にはドレスにお色直ししてくるのが大半(写真下)。したがって、広い会場がドレスアップした女性たちで満員になる。ともあれ、無事に社会に旅立つ日を迎えた彼女らの将来に幸あれ。

 3月7日(土)・8日(日)
 角田文衞先生をしのぶ会が終わったら、すぐに奈良に急行して、条里制・古代都市研究会の大会に出席する。7日は「聖武朝の遷都」、8日は香川県屋島城などの最新成果報告があってそれぞれ興味深いのであるが、実はもうひとつ、これに出席しなくてはならない目的がある。この研究会の次年度の事務局長、私が引き受けることになった。う〜〜ん。お金の勘定とかしなくてはならないぞ・・・ 計算が大の苦手の私が、うまく回すことができるのだろうか・・・ 会員の皆さん、頼りない事務局長ではありますが、なにとぞ御寛恕の上、ぜひ御協力のほど、よろしくお願いもうしあげますm(_ _)m。


2009.03.11

チベット民族蜂起50周年、の巻

Tibet_23月10日
(写真左:1959年3月12日、ポタラ宮殿の周囲で反中国のデモ行進をするチベットの民衆。写真右:1959年3月、ダライ・ラマ法王を守ろうと、法王の住居のノルブリンカ離宮に集結したチベットの民衆。ダライ・ラマ〈木村肥佐生訳〉『チベットわが祖国』、同〈山際素男訳〉『ダライ・ラマ自伝』に拠る)
 この日は、チベット民族蜂起50周年記念日である。この日にあたって、ダライ・ラマ14世法王は声明を出しておられる。なお、日本のマスコミは「チベット動乱50周年」と言っているが、「動乱」ではチベットの人たちが何か悪いことをしたようにもとられかねないので、中央チベット行政府の用語である「民族蜂起」を使うべきであろう。
 中華人民共和国は建国後すぐにチベットへの野望をあらわにし、1951年10月にはついに「人民解放軍」の武力によってチベットを侵略・併合するにいたったのである。ダライ・ラマ14世法王ひきいるチベット政府はその絶望的な状況のなかでなんとか事態の打開をはかったが、その努力もむなしく終わった。今から50年前の1959年3月10日、法王自身の身の安全も脅かされる局面を迎えたことによって、チベットの民衆は法王を守るために続々とノルブリンカ離宮(法王の住居)の周囲に集結し、それとともにラサを中心とするチベット各地に中国への抗議活動が拡大したのであった。しかしそれに対して中国は残忍な弾圧によって応え、ダライ・ラマ法王はついにラサを脱出、インドに亡命することを余儀なくされたのであった。
 1959年2月3日が私の誕生日である。つまり、生まれたての私が温かな布団に包まれてすやすやと眠っていたその同じ時、同じ地球上のチベットではこうした悲劇が進行していたのである。それから50年にわたって中国のチベット抑圧政策は変わることなく続いていることに驚愕するし、心が痛む。最近では、中国に抗議して焼身自殺をはかったチベット人の若い僧侶が、中国の兵士によってすぐに射殺されるという事件がおこった。中国兵は、油をかぶって火だるまになっている人を助けようとするのではなく、逆に銃撃するのだから恐ろしい。

 中国政府と中国共産党の強権手法がすぐに改まることは考えにくい。大多数の中国民衆も、政府と党の都合の良い情報しか流されない統制の中で知らず知らずのうちに洗脳されているから、あてにはならない。しかし、わずかな光明は見えている。それは、中国の心ある知識人たちが昨年、「08憲章=中華連邦共和国憲法要綱」を公表し、賛同の署名を集めていることである。中国政府と党はこの憲章を無視するとともに、一方でこの憲章の広がりを徹底的に封じ込めようとしている。しかし、この憲章に書かれていることは、一言一句までまったく理の当然であり、私は双手を上げて賛同する。特に、「大きな知恵で各民族の共同の繁栄が可能な道と制度設計を探求し、立憲民主制の枠組みの下で中華連邦共和国を樹立する」とされている点はチベット問題の全面的解決につながる。また、「今日の世界のすべての大国の中で、ただ中国だけがいまだに権威主義の政治の中にいる。またそのために絶え間なく人権災害と社会危機が発生しており、中華民族の発展を縛り、人類文明の進歩を制約している。このような局面は絶対に改めねばならない!」と結論づけている点は、やっと中国の国内からもこういう正当な主張をする人々が現れだしたということで、素直に感動する。
 いつの日にか中国が、この憲章が示しているような、世界中の人々の尊敬を集めることのできる国として生まれ変わることを心から望んでいる。

【2009.3.14追記】
 (下記のリンクには衝撃的な画像が含まれていますのでご注意ください) 続報によりますと、上に記したニュースの、2月27日に中国に抗議の焼身自殺をはかって中国兵からの銃弾を浴びたチベット人僧侶は、なんとか一命をとりとめたようです。ただ、中国兵による銃撃は足を狙ったものであった可能性が高いとされており、この僧は両足切断を迫られているといいます。


2009.03.09

角田文衞先生を偲ぶ会、の巻

P1110179(角田先生の書き込みがびっしりとある『尊卑分脈』)
 3月7日(土)
 (財)古代学協会の主催する、角田文衞先生を偲ぶ会が、京都ホテルオークラにおいておこなわれた。先生が亡くなられたのは昨年5月だから、本当はもっと早くやるべきだったのだが、いろんな事情によってのびのびになっていた。しかし、ようやく開催できて、良かった。140人ほどのご列席を得て、盛会であったこともありがたい限りである。
 私は、この時には「映像」の担当。この日のために、角田先生の生前の写真をシコシコとパソコンにとりこみ、パワーポイントに落としていった。角田先生はホントに写真好きで、その時々の記念写真を実によく残しておられたし、また、それには日時や場所も丁寧に記録されていたから、まことに助かる。私なんか、昔の写真はどこにいったか全然わからないもんな・・・ 会場ではうまく映るかどうか不安だったが、なんとかなった。最後の一枚だけ、切り替えがうまくいかなかったのは御愛嬌。バック・グランド・ミュージックはかつての平安博物館の「館歌」でもあった「紫女讃歌」を流す。この歌、芝祐久作曲・白川伊織作詞となっているのであるが、この作詞の白川伊織というのは実は、角田先生の盟友の北海学園大学教授三森定男氏と、角田先生御自身の合作のペンネームである。そしてこのネームの由来は、学生時代の角田先生が左京区の北白川伊織町に下宿していたことによっている。
 それから、NHK京都が放送したことのある角田先生のインタビュー(全体は15分であったが、時間の関係で7分半に切り詰めた)を流す。こちらはもちろん音声入りだったから、ありし日の先生を偲ぶこの上ないよすがとなった。このインタビューの中、「平安時代に生まれ変わりたいですか?」というアナウンサーの質問に対して先生が、「やはりそうですね。下級貴族くらいが良いですね」とにこやかに応えられていたのが印象的だった。
 会場前には、角田先生の遺品などが展示された。中でも皆の目を引いたのは、先生の研究資料。先生が座右の書とされていた『尊卑分脈』(写真)など、どの頁を開いても、つけペンで書かれた小さな小さな文字で、びっしりと書き込みがある。角田文衞という不世出の学者の秘密の一端を見たような気になる。

 終了後は、NJ大学のMKさんと一緒にタクシーにとびのり、奈良で開催中の条里制・古代都市研究会に向かう。


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