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2009.05.26

出雲路幸神社で疫病除け、そして貝塚「ぼっかんさん」、の巻

P1120376(左:京都市上京区・出雲路幸神社の境内に祭られている「神石(石神様)」と「疫神社」)
(右:大阪府貝塚市・願泉寺の寺内町)
 5月18日(月)
 世間は新型インフルエンザで大騒ぎ。大阪府と兵庫県で感染者が大量に出て、そちら方面ではエラいことになっていたらしい。私も、新型インフルエンザを食い止めるために何かしなくてはならないと思いだした。しかし、私は医者でも薬学者でもない。歴史学の研究者としての私にできることは何か? そう、これは「神頼み」しかない! 古来から、疫病の発生に際してはさまざまな祭祀がおこなわれた。特に、京の都に侵入しようとする疫神を退けることを目的として、四角四堺祭、宮城四隅疫神祭、道饗祭など、いろんな祭りが実施されたのである。
 さいわい、月曜日の大学院の授業は今出川キャンパスである。そこで、授業を振り替えて、外にでかけることにした。同志社女子大学今出川キャンパスの東北側の街中に、出雲路幸神社という小さな小さな神社がある。「こうじんじゃ」とか「さいわいじんじゃ」と読んではならない。「いずもじ・さいのかみのやしろ」と読む。つまり、塞神・道祖神(日本神話の猿田彦命と同一視される)を祭る神社なのである。そして、道祖神は道路の神、性愛の神であるとともに、境界の神である。つまり、現世と異界との境界を守護することにより、現世に悪神が入ってくるのを防ぐ役割をもっている。この神社は「皇城表鬼門守護」を名乗るだけあって、平安京の東北の鬼門を押さえることによって悪神(特に疫神)の侵入を防いでいるのである。
 現に、この境内には男性シンボルになぞらえた道祖神の神石や、疫神社の小さな祠が祀られている(写真左)。私は、この神社は平安時代に平安京の東北隅でおこなわれた「四角四堺祭」の祭場が常設の神社に転化したものだと考えている。この仮説があたっているならば、この神社は平安時代の境界祭祀の痕跡を今に伝える重要な史跡だということになるのである。ともあれ、ここにお詣りしておけば大丈夫、ということで、大学院生の諸君とともに手を合わせる。
 その後、やっぱり京都にも疫病が入ってきて、ウチの大学も5/22〜5/27が休講になってしまった。しかし、京都の感染者は大阪・兵庫に比べると二桁低く、数人にとどまっているから、おそらくは私たちのお詣りの霊験があったのであろう(?)

 5月24日(日)
 大阪府貝塚市に出かける。実は、ここは私の母の故郷。今も、現当主である母の弟を始め、母の一族の多くはここに住んでいる。この日は先代の当主で私からすると大伯父にあたる人の17回忌の法事。ひさしぶりの貝塚訪問である。
 本当ならば、貝塚の中心である貝塚御坊・願泉寺で法事をするはずだった。この願泉寺、大坂本願寺(「石山本願寺」)を退去して紀州の鷺森本願寺に移った顕如上人が、さらに大坂・天満本願寺に移るまでの2年間、居住していた「貝塚本願寺」なのである。
 願泉寺のことを、母の親戚はみんな「ぼっかんさん」と呼ぶ。最初はいったい何のことなのか、さっぱりわからなかった。実はこれ、天文年間(1550頃)にこの寺を創建した初代住職・卜半斎了珍<ぼくはんさい・りょうちん>に由来する呼称なのであり、こんなところに中世が脈々と生き続けているのである! 現在、願泉寺は本堂が大修理中となっている。結局、家に願泉寺の御住職(「御前様<ごぜんさま>」)をお迎えしての法要になる。御前様というからどんな老僧がおいでになるのかと思っていたが、若い若い御方で、ちょっとびっくり。法事が終わった後は、母の従兄弟に案内してもらって、貝塚寺内町を散策(写真右)。


2009.05.23

山田邦和『京都都市史の研究』刊行、の巻

Kyotohon
 懸案になっておりました、私の論文集『京都都市史の研究』が、とうとう完成いたしました(o^-^o)。何年も前から出す出すと言っていたのが遅れに遅れ、やっと今日の仕儀にあいなりました。第1論文集であり学位論文であった『須恵器生産の研究』を出したのが1998年だから、それから11年たってしまい、「10年に一冊の学術書公刊」という目標からはちょっと外れてしまった。
 最初はA5版函無しの予定だったのであるが、吉川弘文館の編集者のみなさんががんばってくれて、B5版函入、ハードカバー(クロス装)ということにしていただいた。なんでも、このクロス装も最高品質のものを選んでいただいたという。ありがたい限りである。頁数は索引を入れて312頁。ホントはもっと入れたい論文もあったが、これ以上分厚くすると定価がバカ高くなるから、それは次の機会へとまわすことにした。定価は9,500円+消費税。これも、最初は1万円台後半になるとの見込みであったので、ちょっと怯えていた。それが、これも出版社の御努力によって税込みで1万円を切る価格に押さえていただいた。おそらく、こんな固い内容の学術書でこの値段は破格だと思う。とにかく、これだけの「厚遇」をいただいた吉川弘文館にはいくら感謝してもしすぎることはない。
 できあがりを手にしていささか感動したのは、紙の質と印刷の良さ。出版社の中には、費用的な問題で技術の低い印刷所を使ったり、また、もともと図面を多用する本に慣れていなかったりして、図面や写真の仕上がりに問題を残すような本を作るところがある。しかし、歴史書に定評のある吉川弘文館は、さすが、というべきであろう。ひょっとすると私の原図よりも綺麗(?)だと思われるくらい、シャープな図に仕上がっている。これはありがたい。本書には、平安京復元図、平安宮復元図、平安京邸宅配置図、唐洛陽城復元図、唐長安城復元図のような、基本中の基本というべき図面をできるだけたくさん収録した。これなら、私自身が使い回しするのにも便利だし、他の研究者の皆さんにもいろいろとお役立ていただくことができるのではなかろうか。
 本書には、平安遷都1200年記念の1994年から、一昨年の2007年までの13年間に書いた論文を収録した。私としては、35歳から48歳までの時期の研究成果だということになる。研究者としての私の人生にとって、これはやはり非常に大きな意味を持っていた時期だと思う。

 もちろん、私の論文のすべてをこの書に収録できたわけではない。いくつかは、頁数の都合で割愛せざるをえなかった。たとえば、平安京・京都の都市民の信仰をあつかった「古代社会の信仰―古代都京の信仰―」や「鴨川の治水神」。六波羅・法住寺殿についての「六波羅・法住寺殿復元試案の作成」。中世の京都の衛星都市である嵯峨についての「院政王権都市嵯峨の成立と展開」「中世都市嵯峨の変遷」。豊臣秀吉の伏見城下町を扱った「伏見城とその城下町の復元」。これらも、私の京都都市史研究の中では必要欠くべかざるものである。さらに、平清盛の福原を論じた「『福原京』に関する都城史的考察」「『福原京』の都市構造」「福原遷都の混迷と挫折」も、私の中では大きな意味を持っている。しかし、欲を言ったらきりがないのであって、それらはまた改めて、別の一書にまとめることにしたいと思っている。

 ともあれ、自分の研究人生の大きな一里塚を築くことができた。吉川弘文館さま、ありがとうございましたm(_ _)m。そして、この本がきちんと売れますように・・・


 目 次
第1部 平安京の都市構造
 第1章 平安京研究の現状
 第2章 桓武朝における楼閣附設建築
 第3章 「前期平安京」の復元
第2部 中世都市京都の成立と展開
 第1章 中世京都都市史研究の課題
 第2章 中世都市京都の成立
 第3章 中世都市京都の変容
 第4章 戦国期京都の復元
第3部 平安京・京都の葬送空間
 第1章 平安京の葬送地
 第2章 京都の都市空間と墓地
 第3章 考古学からみた近世京都の墓地
あとがき
索引

【書いたもの】
◎山田邦和『京都都市史の研究』(東京、吉川弘文館、2009年6月)。

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陵墓シンポジウム、の巻

5月17日(日)
 既報の通り、陵墓関係16学・協会の主催によるシンポジウム「陵墓公開運動の30年-佐紀陵山古墳・伏見城の報告とともに-」がおこなわれた。広報にまで手が回らなかったこともあってどれくらいの人が来ていただけるか不安だったが、200人弱ははいっていただけたと思う。まずまず、成功である。
 私の担当は、「伏見城跡(桃山陵墓地)の立ち入り調査」。仁木宏さん、松尾信裕さん、中井均さんとの共同報告であるが、みなさんとディスカッションの上で、私が代表してしゃべることになった。いささか緊張。でも、パワーポイントのおかげで発表時間を守ることもできたし、まずまず好評だったのではなかろうか。
 驚いたのは、会場の方々に質問用紙を書いてもらうと、深い知識にもとづく的確な質問が頻出したこと。聞いてみると、いずれも伏見の地元の市民の方々だという。伏見について、そこに住んでおられる人の中にはこんなにも伏見を愛し、伏見の歴史や史跡に関心を持たれる方がおられるんだな。すばらしいことである。私たち研究者も、マスコミも、行政も、こうした熱意ある市民の期待に応える責務がある、つくづくそう実感させられた。
 終了後は、京都駅南側の、知る人ぞ知る豚のホルモン焼の専門店水月亭で打ち上げの宴会。私も、この店は久しぶりである。どこか変わったかな?と思ったが、幸い、全然昔と変わっていなかった。ここは、巷にあふれるお上品な焼肉屋とはまったく違う。狭い店中にもうもうと煙をたてながらの焼肉である。ホルモンも、いったいどこの部分なのかさっぱりわからないものが出てくるが、しかしそれがいずれも美味いのである(しかし・・・ ホルモンにビール。通風にはもっとも良くない組み合わせだな・・・ また叱られるぞ・・・)。

【しゃべったこと】
○山田邦和・仁木宏・松尾信裕・中井均「伏見城跡(桃山御陵地)の立ち入り調査」(陵墓関係16学・協会〈主催〉シンポジウム「陵墓公開運動の30年-佐紀陵山古墳・伏見城の報告とともに-」、於キャンパスプラザ京都、2009年5月17日)


2009.05.17

フランス版『京都歴史地図』刊行、の巻

Kyotoatlas(右は、図版の一部。私の原図になる「戦国期京都の酒屋分布図」)
 先日、フランスから国際郵便で重たい重たい荷物が届いた。さっそくにあけてみると、巨大でカラフルな豪華本が出てきた。出版されたばかりの、FIÉVÉ, Nicolas, éditeur"ATLAS HISTORIQUE DE KYOTO, Analyse spatiale des systèmes de mémoire d'une ville, de son architecture et de son paysage urbain"(ニコラ・フィエヴェ編『京都歴史地図—都市の記憶システムの空間的分析と、その建築と都市景観—』)が届いたのであるヽ(´▽`)/。待望の刊行である。しかし、こんなに大きい本になるとは思ってもいなかった。日本風にいえばB4版くらいの大きさで、総ページ数は528ページ、厚さは4.5cmという巨大さなのである。重さは4.4kg(!)だというから、変な姿勢で持ち上げたらギックリ腰にもなりかねない。
 さっそくあけてみた。この本のうち、下記の5章が私の執筆分である(ホントはもう1章書いたのであるが、他の人の執筆分と内容が重複したようで、やむなくカットとなった)。
L'urbanisation de Shirakawa et de Toba à la fin du XIe siècle(11世紀末の白河と鳥羽の都市化), pp.113-116.
Kyôto à l'époque des luttes entre les provinces (1467-1573)(戦国期〈1467〜1573年〉の京都), pp.145-150.
Les châteaux forts et les bastions médiévaux autour de Kyôto(京都をめぐる中世城郭), pp.157-161.
La résidence de Jurakudai et le château de Fushimi(聚楽第と伏見城), pp.167-174.
Le château de Nijô, le palais impérial et le quartier des nobles de Cour(二条城と内裏・公家町), pp.175-182.
Les groupes de quartiers à l'époque d'Edo(江戸時代の京の町組), pp.201-206.

 この本、かなりの難産だったようで、私が原稿を執筆したのはもう10年くらい前になる。京都大学の高橋康夫先生からお話をいただいて、先生のお手伝いという意味合いであった。高橋先生によると、コレージュ・ド・フランス(国立フランス学院)のニコラ・フィエヴェ博士がユネスコからフランス語の『京都歴史地図』を刊行したいという計画を持っておられる、ということで、そこに参加させていただくことになったのである。原稿を書くだけでなく、図面の算段までしなくてはならないので、かなりの大仕事となった。原稿締め切りからだいぶ遅れてしまって、フィエヴェ先生をやきもきさせてしまう仕儀になった(その節はすみませんでした・・・m(_ _)m)。これがご縁で、2002年には1年間京都に滞在して研究されるフィエヴェ博士と初めてお会いすることができた。流暢な日本語を話されるので、ホッと安心した。
 そうして原稿は出したのだが、フランス語への翻訳と図面の製図、さらにはユネスコからの資金の獲得などに多大の労力がかかったらしく、ようやく今日、それが刊行された。おそらく、ここまでこぎつけたフィエヴェ先生の奮闘は大変だっただろう。

 できあがってみると、これは凄い。なんといってもオールカラーというのは迫力がある。なによりも、単なる地図集ではなく、京都の都市史の専門書としても充分通用する内容である。さらに、京都の史跡のカラー写真も豊富だから、ヨーロッパの人々に京都の魅力を紹介することにも一役買うことができるであろう。こんな充実した京都歴史地図集は、日本ですら出版されてはいない。むしろ、この本を補訂してフランス語から日本語に逆翻訳して出版しても、充分意義のあるものになるだろう。おそらく、今後かなりの永い期間にわたって、ヨーロッパにおける日本研究・京都研究の基本書として使い続けられることは確実だろう。そんな重要な書物の製作に参画させてもらった幸福に、感謝々々。
 ただ、個人的にただひとつ悲しいのは、私はフランス語は皆目わからず、この本はまったく読めない、ということ(;ω;)。なにせ、自分で書いた部分を見ても、固有名詞の単語をたどるしかできないのだから、情けない限りである。
 この本の刊行を契機として、ヨーロッパでも京都都市史研究の重要性が広まりますように・・・

書誌を記載しておきます。アマゾンで見ると、定価79ユーロだそうです。つまり日本円に直すと1万円くらい。これは安いといわねばならないでしょうね。お買い得です。もちろんフランス語が読める人に限ってのことですが・・・

"ATLAS HISTORIQUE DE KYOTO, Analyse spatiale des systèmes de mémoire d'une ville, de son architecture et de son paysage urbain"
éditeur : Nicolas FIÉVÉ
Auteur : Paul AKAMATSU, FUJII Tadashi, Francine HÉRAIL, HIRAO Kazuhiro, HONGÔ Keiko, HOSOKAWA Takatoshi, ITÔ Sadahiko, KATÔ Kuniko, Nathalie KOUAMÉ, KÔZAI Katsuhiko, KUMAZAWA Eiji, François MACÉ, Marie MAURIN, Joan PIGGOTT, Philippe PELLETIER, SENDAI Shô'ichirô, TAKAHASHI Yasuo, Corinne TIRY, Charlotte von VERSCHUER, Michel WASSERMAN, YAMADA Kunikazu, YAMASAKI Masafumi
Paru le : 25/11/2008
UNESCO
ISBN-10: 2859174869
ISBN-13: 978-2859174866

【書いたもの】
◎YAMADA Kunikazu,“L'urbanisation de Shirakawa et de Toba à la fin du XIe siècle”,“Kyôto à l'époque des luttes entre les provinces (1467-1573)”,“Les châteaux forts et les bastions médiévaux autour de Kyôto”,“La résidence de Jurakudai et le château de Fushimi”,“Le château de Nijô, le palais impérial et le quartier des nobles de Cour”,“Les groupes de quartiers à l'époque d'Edo”, in Nicolas FIÉVÉ ed., ATLAS HISTORIQUE DE KYOTO, Analyse spatiale des systèmes de mémoire d'une ville, de son architecture et de son paysage urbain (Paris, 2008), pp.113-116,145-150,157-161,167-174,175-182,201-206.


2009.05.15

東京極春日で賀茂祭を見る、の巻

 Aoimaturi〈←今、平安京から山城国に踏み出した斎王代。後ろの森が京都御苑〉
 5月15日(金)
 晴れ。葵祭(賀茂祭)の日。
 京都では毎日のようにどこかでお祭りがおこなわれているが、実際に見ることができるものは数少ない。こちとらも一応は本務を持っているのであるし、それを投げ出しての祭見物というわけにはいかないのである。それが、今日の午前中は仕事がはいっていない。幸い、天気も良いし、葵祭の見物ということにしよう。
 実は、今回はひとつもくろみがあった。ぜひ、丸太町通寺町の角(つまり、京都御苑の東南角)で葵祭の行列を見物させてもらおう、と決めていたのである。一昨年、ひさしぶりに葵祭を見に行った際に、おもしろいことに気がついた。行列の先頭にはまず2騎の検非違使(検非違使志<けびいしのさかん>・検非違使尉<けびいしのじょう>)が先導し、そのあとに「山城使<やましろつかい>」(山城国司の2等官である山城介)が続くのである。つまり、葵祭の行列が出発する御所は平安京の中であるから、その警護は平安京の「首都警察」である検非違使(ちなみに、拙宅は検非違使庁の庁舎跡に位置する)の管轄である。しかし、目的地である賀茂社(上賀茂神社・下鴨神社〈正式には賀茂別雷神社・賀茂御租神社〉)は平安京の外側の山城国に位置するから、その警備の責任は検非違使から離れて山城国司に移ることになる。さすが葵祭。こういうところの伝統はキッチリと引き継がれているのである。
 と、いうことで、出かけた丸太町通寺町の角。丸太町通は平安京の春日小路、寺町通はほぼ平安京の東京極大路にあたっているから、私の立っているのは東京極春日ということになる。そして、東京極大路は平安京の東端の道路であるから、ここが平安京と山城国の境界地点ということになる。アッ、検非違使がこの境界ラインを越えた。ここまでどうもご苦労様。次は山城介。ここからはあなたの担当ですよ。どうかしっかりとお役目を果たしてね。飾馬に堂々とまたがる四位近衛中将の勅使が通り過ぎ、そして今、祭の主役である斎王代が平安京から山城国に入った・・・
 と、こんなことを考えながら祭の行列を眺めていたのは、多くの観客の中でもたぶん私ひとりじゃなかっただろうか。ホント、物好きなことである。

 午後は、古代学協会で「古代文化」編集委員会。帰りにレコード屋さんによって、西本智実さん指揮のブダペスト・フィルハーモニー管弦楽団の演奏による、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」他のDVDを購入。


2009.05.13

阿波勝瑞城館を学ぶ、の巻

Syouzui5月9日(土)・10日(日)
 ひさしぶりに、「1617会」の例会への出席。なんか、最近は日程があわずにご無沙汰していたからな・・・ 今回のテーマは、徳島県藍住町の勝瑞城館(写真上)。すなわち、室町時代の阿波国守護・細川氏と、戦国期に阿波の実権を握った三好氏の居館、つまり阿波国の守護所の遺跡である。と、いうと、私がさもこの遺跡に詳しそうであるが、実はこれまで名前だけしか知っておらず、場所もよく把握していなかった。お恥ずかしや・・・ ともあれ、せっかくの機会だから、勉強させていただきに行くことにした。
 京都駅から高速バスで徳島へ。渋滞を心配したが、なんとか昼前には到着。駅前でうろうろしていると、花園大学の卒業生のM君とH君にバッタリ出会う。M君は徳島県内の自治体、H君は島根県内の自治体において、それぞれ考古学の道で頑張っている。1617会に行く途中というが、思いがけないところで出会った奇遇を喜ぶ。昼飯は徳島駅前のセルフうどんの店。うどんというと讃岐ばかりが名高いが、阿波のうどんも讃岐のそれに比肩する美味しさだと思う。
 9日は、勝瑞城館跡とその周辺の城下町推定地の現地見学会。徳島県教育委員会のIさんと、地元の藍住町教育委員会のSさんとが懇切丁寧な案内をしてくださる。水濠が残されている(写真上)勝瑞城跡は、勝瑞城館の最末期、三好氏統治下の築造であり、本来の勝瑞城館はもっともっと大きかったのだという。発掘地は更地になっているが、もうすでに買収が終わっており、数年後には見事な史跡公園に生まれ変わる予定だという。うらやましい限りであるとともに、藍住町教育委員会と徳島県教育委員会の遺跡保存にかける熱意に、感動。
 城下町推定地の一角には、ほぼ一町規模(120m四方)の細川氏時代の守護所が推定されている。「上杉本洛中洛外図屏風」に描かれた、京都上京の「細川殿」や「三好筑前」邸の姿を思い出しながら歩くと、関心はますます高まってくる。思いがけない出会いだったのは、その近くにある「南陽神社(旧・日枝神社)」(写真下)。なんと! 承久の乱の責を負って四国(当初は土佐、後に阿波)に流された土御門上皇の行宮跡という伝説が残っているという。同上皇の配流地の伝承地はもっと西方(現・阿波市土成町)であることは知っていたが、こんなところにも伝説が残っているとは知らなかった。なんか、嬉しかったぞ。
 楽しく学んだ後は、同町内の旅館にはいって、例によっての大宴会。宿泊だということで気が大きくなったのか、いやあ、呑んだ呑んだ(*^.^*)。二次会の会場から宿屋まで帰ってこれたのが奇跡のようである。
 2日目は、藍住町の大きな役場の上にあるホールで、研究会。勝瑞城館の最新成果のエッセンスを学ばせてもらう。特に、山村亜希さんのいつもながらの緻密な歴史地理学的考察、仁木宏さんのスケールの大きな比較検討に、聞き惚れる。
 帰りの時間が心配だったが、M君の御厚意で徳島駅まで送ってもらうことができた。そうすると逆に少し時間ができたので、今度は徳島ラーメンを味わってから、帰途につく。


2009.05.02

シンポジウム「陵墓公開運動の30年」予告、の巻

425月1日(金)
 来る5月17日、シンポジウム「陵墓公開運動の30年」がおこなわれるので、そのための準備会。談論風発の中で、伏見城跡の立ち入りの成果をまとめていく。なるほど。けっこういろんなことがわかってきたぞ。あんな短時間の立ち入りだけでも、こんなにたくさんの問題点を炙り出すことができるのだから、やっぱり現地を見るということは大事だということを実感する。

と、いうことで、下記のとおりシンポジウムが開催されます。せっかくの成果、できるだけ広く公開したいので、どうかふるってご参加くださいませm(_ _)m。事前申し込み不要ですが、先着300名です。
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シンポジウム「陵墓公開運動の30年-佐紀陵山古墳・伏見城の報告とともに-」

1979年に白髪山古墳が限定公開されてから今年で30年。この節目の年に、本年2月の立ち入りの成果紹介を行いつつ、「陵墓」とその公開のあり方をあらためて考えます。

日時:5月17日(日) 13:00~17:30
場所:キャンパスプラザ京都(JR京都駅下車、西北へ徒歩3分)5階第1講義室(事前申し込み不要、ただし定員は当日先着300名)
資料代:500円
主催:陵墓関係16学・協会(大阪歴史学会、京都民科歴史部会、考古学研究会、古代学協会、古代学研究会、史学会、地方史研究協議会、奈良歴史研究会、日本考古学協会、日本史研究会、日本歴史学協会、文化財保存全国協議会、歴史科学協議会、歴史学会、歴史学研究会、歴史教育者協議会)

主催者挨拶:福永伸哉(日本考古学協会)
陵墓公開を求めて30年:宮川徏(文化財保存全国協議会)
佐紀陵山古墳の報告:岸本直文(大阪歴史学会)
伏見城跡(桃山御陵地)の立ち入り調査:山田邦和(古代学協会)、仁木宏(大阪歴史学会)、松尾信裕(日本歴史学協会)
陵墓公開運動のこれから:後藤真(日本史研究会)
ディスカッション:司会:谷口榮(地方史研究協議会)、森岡秀人(歴史科学協議会)
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