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2009.06.29

北海道・網走、の巻

 090628〔上:常呂遺跡、下:ホンモノのツブ貝の寿司〕
 6月26日(金)・27日(土)
 珍しく、北海道行き。網走市の東京農業大学オホーツクキャンパスでおこなわれる全国大学博物館学講座協議会の大会に出席のためである。
 白状すると、これまで、ほとんど北海道と縁がなかった。その地を訪れたことがあるのも、かなり以前に友人の結婚式で札幌・小樽に行っただけなのであり、今回の訪問で僅か2回目、ということになる。だいたい、飛行機が嫌いなので、ストレス無く鉄道で行ける範囲を超えてしまうところには、どうしても足が向かない、ということになるのである。でも、今回はどうしても行かなくてはならないことになった。
 最初は金曜日の早朝に出発すれば良いと早合点していたのであるが、調べてみると、大阪発で女満別空港に着く飛行機は午後の便しかない。昼前に会場に到着するには、羽田発の7時55分という飛行機しかないのである。これはしかたない。木曜日の授業が終わってから夜に東京に入り、羽田で一泊して飛行機に乗り込むしかない。いやはや、めんどくさいことである。

 金曜日午前、東京農業大学着。市街地から離れた丘の上のキャンパスである。周囲を見渡すと、のたのたのたのたと低い丘が連なり、その間は広大な畑地が広がる。なんとなく日本離れした風景で、以前に見たイングランドの風景を思い出す。11時、事前打ち合わせ会に出席。13時、会議開始。ここで私は、総会の議長を務めねばならない。実は、来年度のこの大会をわが大学で引き受けることになってしまっている。会の副委員長と総会議長は次年度大会開催校が担当する、という義務があるのである。どちらにしても、来年のことを考えると大会の運営の隅々まで見せておいていただいた方が良い。
 報告会では、「網走地域の博物館の現状と課題」ということで、地元の網走市立美術館美幌博物館上湧別町ふるさと館の事例を聞かせていただく。いずれも小規模な博物館であるが、地域に密着した旺盛な活動を続けておられるところが印象的であった。続いて「博物館法省令改訂について」を文化庁美術学芸課長(前・文部科学省生涯学習政策局社会教育課)の栗原祐司氏が話される。2年後から、博物館学芸員課程のカリキュラムが大きく変わる。これは博物館学芸員課程を置いている大学にとって死活的ともいえる大問題なのであるから、詳しく聞いておかねばならない。実は6月29日に文部科学省の説明会が実施されるのであるが、栗原氏はこの改訂を主導した中心的な人物であるので、そちらから話を聞けるのはこの上なく貴重な機会である。
 大会のあとは、網走市内のホテルに会場を移しての情報交換会。みんな、タラバガニに群がる。次年度開催校としての挨拶もさせられてしまう。終了後は、全博協西日本部会長のH大学のYT教授らのおともをして、二次会。

 土曜日、せっかくだからちょっとだけ早く起きて、ホテルの近くの有名遺跡・モヨロ貝塚へと足を伸ばす。
 見学研修会は3コースが用意されるが、私は「常呂コース」に参加。網走市立郷土博物館北海道立北方民族博物館ところ遺跡の森(国指定史跡常呂遺跡)(ところ遺跡の館、ところ埋蔵文化財センター「どきどき」 、東京大学文学部常呂資料陳列館)を見せていただく。網走市立郷土博物館は地味で素朴な展示だが、正直いうと、こういう昔ながらの博物館のほうが心が和む。北海道立北方民族博物館、これは素晴らしい。北海道だけにとどまらず、ロシア、カナダ、アラスカなどをも含めた国際的規模で資料が収集され、みごとな展示が形作られている。この博物館なら、何時間いても飽きないだろうな。また機会を作って、じっくりと訪問することにしよう。
 常呂遺跡(写真)は東大の調査で有名だから名前だけは知っていたが、その中身については、まったく勉強不足であった。行ってみて驚愕。さすがは世界文化遺産への登録を目指すというだけある。数千件の竪穴住居跡が累々と分布する巨大遺跡である。冬になると竪穴住居跡だけに雪が残って面白い写真が撮れるというのも、初めて納得する。東京大学が現地に研究施設を建てて継続的な調査研究にとりくんでいるというのもうらやましい限りである。資料館の中には、オホーツク文化、擦文文化と並んで、トビニタイ文化の土器が並んでいる。つい先般、わが大学の同僚の大西秀之准教授が『トビニタイ文化からのアイヌ文化史』という著書を出されたので、それで名前だけは知っていた。ふむふむ、なるほど、これがその実物か、と、ひとりで頷く。

 充実した1日をすごしたあと、女満別空港へ帰着。お土産を買っていて、ふと空港内の寿司屋を覗くと、O大学のMK教授が生ビールを傾けているのを発見。ご一緒させていただくことにして、本場ならではのホンモノ(?)のツブ貝の寿司(写真)を頬張る。

 6月20日(土)
 花園大学考古学研究室の大会。刊行されたばかりの、花園大学考古学研究室30周年記念論集『花園大学考古学研究論叢II』をいただく。私が花園大学考古学研究室に在籍したのは1999年度から2006年度までの8年間であるが、その間に考古学研究室創設20周年を迎え、その記念として2001年に『花園大学考古学研究論叢』を刊行したことであった。今回、研究室の30周年をむかえて「II」が刊行されたのである。私の後任の高橋克壽准教授の御指導のもと、花園大学考古学研究室がますます発展していることを目の当たりにし、嬉しい気持ちでいっぱいである。

【書いたもの】
◎「『文久の修陵』による天皇陵改造」(花園大学考古学研究室30周年記念論集『花園大学考古学研究論叢II』所収、京都、花園大学考古学研究室30周年記念論集刊行会、2009年3月)201〜211頁。
◎「平安京の空間構造」(舘野和己編『古代都城のかたち』〈同成社古代史選書3〉所収、東京、同成社、2009年6月)、51〜73頁。
【テレビ番組監修】
●山田邦和監修「THE 世界遺産 第55回『日本の古都スペシャルII 古都京都の文化財』」(毎日放送〈TBS〉テレビ、2009年4月26日放送)。

2009.06.22

山中博士に怒られる、の巻

090622〈←待賢門院建立の法金剛院では、今、アジサイの花がまっさかり〉
 6月22日(月)
 ありゃりゃ・・ 山中章博士に怒られてしまったぞ。いつもは山中博士が過激なことを言い、それを私が右往左往しながら宥めるというのが役回りなのに、今回はどうしたことなのだろうか?

 これは、6月3日の「日本考古学協会2009年度総会」の条で、春成秀爾氏らの研究グループがおこなった「放射性炭素年代測定法の新研究によると箸墓古墳は卑弥呼の墓である」との研究発表に対して述べたところです。確かに、ついつい冷静さを欠いた表現をしてしまったかもしれず、それが博士の逆鱗に触れることになったのかもしれません。
 はっきりさせておきたいのは、私は、情報は専門家の間だけでまわしていって、一般の市民の方々やマスコミから隠すべきだ、なんてことはひとことも言っていませんし、考えもしていません。むしろ、情報はどんどん公開して幅広い議論をまきおこしていったら良いと思っています。それは「もちろん、考古学協会の研究発表会は公開されているし、考古学をやっている学生さんたち、一般の考古学愛好者の皆さん、さらにはマスコミの記者たちを排除する理由はない」と書いたとおりです。その点では山中博士とまったく同意見なのです。ただ、今回、考古学協会当局に対して申し上げたのは、事前にマスコミに流れるという予想外の事態がおこったことで、会場が満杯になって聞きたくても聞けない人がでる可能性がある(事実、以前の「弥生時代の実年代の放射性炭素年代測定法」の時には聞けない人がいっぱい出た)。それへの対処をお願いしたのです。聞きたい人が聞けるようにしてほしい、というのは間違っているとは思いません。その結果、当局の機敏な判断によって会場が変更され、みんなが聞けるようになった。このこと自体はまことに結構なことだと思っています。

 たしかに私は、「マスコミを使って自分の学説の既成事実化をたくらんだと思われても抗弁の余地がない」と過激なことを言ってしまったのは確かです。春成氏らの研究グループに対して失礼な物言いだと感じられる方がおられたのならば、そのことはお詫びしなくてはならないと思います。また、山中博士がおっしゃる通り、学界とマスコミがお互いに利用しあっているという側面も否定することはできません。

 ただ、私が危惧するのは、一方の学説だけをマスコミが囃し立てることによって、自由な論議が妨げられるということがありうる、ということなのです。例の「前期旧石器遺跡捏造事件」の時には、日本における旧石器時代の開始の年代がどんどん遡るという一方的な「発見」だけがどんどんマスコミに流れていきました。あとでよく考えてみるとそこにはまるで学問的な検証がなされていなかったり、学界の一部では反論が提起されるところもあったのですが、それはほとんどとりあげられることはなく、「日本旧石器時代の開始は○○万年前にさかのぼる!」「日本の旧石器時代人は高度な精神生活をおくっていた!」などというところばかりがぶち上げられ、高名な学者もそれを大々的にとりあげて一般向けの書物などで紹介したりして、いつしかそれが「通説」となったような気にさせられていったのです。私たちはあの苦い経験をくりかえしてはなりません。

 研究者とマスコミの関係というのは、いわば「両刃の剣」だと思います。使い方によっては善くもなるし、また、まちがった使い方をしてしまうと社会全体に悪影響を与えることにもなりかねません。何が良い使い方で何がまちがった使い方かの基準がどこにあるかは難しいし、私にもうまく言えないのですが、「邪心」の有無、というところになるのではないかと思います。マスコミを使って自分の学説を有利にしようとか、自分の利益を計ろうとか、これによって自分が名声を得ようなどというのは、「邪心」の最たるものでしょう。研究者たるもの、自らの心に絶えずこうした無言の問いかけをしなくてはならないと思います。

 今回の春成氏らの研究グループの報告を聞いて私が目を剥いたのは、「炭素14年代は平均値を記載する」(『日本考古学協会第75回総会研究発表要旨』)とされていたところです。これは明らかにマズい。私はもちろん科学分析の専門家ではないので詳しい知識はないのですが、炭素14年代はどんなに精度があがっても誤差ゼロというところには行き着きません。炭素14年代には必ず、±何年、という幅がつきます。そして、国際的には炭素14年代のプラスマイナスは1σであらわすことが約束事になっています。たとえば、「B.P.1900±50」というような記載法です。しかしそれを「平均値を記載」ということで「B.P.1900」としてしまうことは明らかにルール違反です。グラフには表示してあるといっても、それは免罪符にはならないでしょう。それに、「B.P.1900±50」とは、B.P.1950からB.P.1850(わかりやすくするために西暦に直訳すると、紀元元年〜紀元100年)の間におさまる確率が68.3パーセントということをあらわしており、あとの31.7パーセントはその範囲から逸脱することも充分にありえるのです。さらに、「B.P.1900±50」とは西暦紀元50年である確率が一番高く、西暦紀元元年や紀元100年である確率は低い、というものではありません。「B.P.1900±50」は、西暦紀元元年である確率と紀元50年である確率と100年である確率はまったく同じなのです。この点でも、「平均値を記載」というのはまったく誤ったやりかたなのです。
 こんなことは、理科系の頭を持っていない私ですら知っているくらいの炭素14年代測定法の初歩の初歩ですから、春成氏らのグループという専門家集団がそれを知らないはずはありません。知っていてそれでもあえて「平均値を記載する」というのは確信犯としかいいようがないのであり、と、いうことは、ここには何かの「邪心」を感じざるをえない。そう考えたからこそ、ついつい(私らしからぬ?)厳しい口調になってしまったのです。
 なお、春成氏らのグループの方法は、一見完璧見えても実はあちらこちらで危うい部分を持っており、それは考古学協会当日に座長をつとめられた(こう書いてしまうと、実名がバレバレですね・・(・∀・))flyingmqn氏のブログに詳しいので、そちらに譲らせてください。そうした危うさを持ちながら、「箸墓古墳は卑弥呼の墓であった」と結論づけるのは、やはりかなりの飛躍だと思います。

 もうひとつ大事なのは、マスコミ側と研究者側の間の、ある種の緊張感でしょう。マスコミも、ある研究者のいうことを鵜呑みにしてその成果だけを一方的にとりあげるのではなく、それへの反論も同じくらいの比重でとりあげて欲しいと思います。マスコミは特定の研究者のタイコ持ちなのではなく、公正な議論のための素材を社会に提供する使命があるのですから。この炭素14年代測定法についても、田中良之氏(九州大学)らの研究グループの弥生時代の人骨の研究では、春成氏らのグループの成果とはかなり違った測定値がでているはずです。どちらが正しいのかは私には判断はつきませんが、少なくともそうした成果が公表されている以上、マスコミも春成氏グループだけでなく、そちらにもスポットをあてて公平な情報を出してほしいのです。

 ついでに言っておくと、こうした研究成果にマスコミが「歴博の研究で〜〜ということが判明した」という言い方をするのは、なんとかならないのでしょうかね。もちろん歴博という組織に属する研究者が組織の金と設備を使って出す研究ではあるのですが、研究をするのはあくまで個々の研究者であるはずです。たとえば、私が出す研究成果は、たとえ同志社女子大学の研究費を使っていても、「山田という研究者の成果」なのであって、「同志社女子大学の研究成果」とはちょっと違うと思います。「歴博の研究成果」とされてしまうと、マスコミ報道を聞いた一般の市民の方々に、「そうか、『国立』『権威ある』研究機関が『最新の科学的方法』によって研究し、日本考古学協会という『日本を代表する』考古学の学会で発表されたのだから、これが定説になったのだ」などという誤解をあたえないとも限りません。

 「邪心」をゼロにすることは、私も含め生身の人間にはむつかしいのかもしれない。しかし、私たちは絶えず自分の良心に問いかけ、自戒し続けなくてはならない、と痛感いたします。

2009.06.15

文化財保存全国協議会第40回記念京都大会、の巻

090605〈←宇治平等院「鳳凰堂」。やっぱり、実にうつくしい〉
 6月12日(土)〜13日(日)
 同志社大学において、文化財保存全国協議会(文全協)の第40回記念京都大会。文全協は、大阪府堺市いたすけ古墳の保存運動に端を発し、全国的な文化財保存の中核として活発な活動を続けてきた団体で、今年で創設40周年となる。その記念すべき年の大会を京都でおこなうことになったのである。
 それは大変結構なことなのであるが、どうしたわけか私は今回大会の実行委員会の「事務局長」を仰せつかってしまった!!(゚ロ゚屮)屮。私のように計算に弱く、仕事もいいかげんな人間にこんな大役をまかせるというのは、いったいぜんたいどうなってるんだろうか? しかも、報告もせねばならない、というのだから大変である。
 土曜日は見学会。「宇治の遺跡と文化財」ということで、宇治市の文化財調査と保存の中核をになってこられたSH氏にご案内いただく。最後の最後まで参加人数が確定できなかったのであるが、結局は50人弱の大所帯での移動となった。京阪宇治駅から太閤堤跡、橋寺放生院、宇治上神社、塔の島の十三重石塔を見て、宇治川側で食事。そのあとは平等院とその博物館である鳳翔館(寺院のミュージアムとしては超一級の存在である)、山本宣治墓、県神社と見て、宇治橋に帰ってくる。ちょっと蒸し暑いのが閉口であるが、SH氏の熱のこもった解説と、裏方を努めてくださった実行委員会のHK氏の的確な配慮で、無事に済む。それにしても、宇治市は歴史的遺産を充分に活かした魅力的な町づくりにとりくんでいることがよくわかる。
 そのあとは、同志社大学寒梅館で懇親会。
 日曜日にはいよいよ本番。九時スタートなので、40分前に会場入りして、段取りにかかる。とはいっても、手伝いの同志社大学考古学研究室の学生諸君がテキパキと動いてくれる。これなら安心。
 私はトップバッター(前座?)での登壇。基調報告1「都市遺跡としての京都」。京都の史跡・文化財保存の現状と問題点を紹介する。こうしたテーマでは史跡公園にばかり目がいくが、石碑や説明板の建立による史跡顕彰事業の大事さを力説。もちろん、「平安京検非違使庁址」の石碑を紹介することも忘れない。さらに、京都のような大都市では広面積の遺跡保存はほとんど不可能であるから、むしろ「点」を増やしていくこと、そして、その点同士のネットワーク作り、史跡を知ることのできる拠点施設(博物館など)の建設、それを中核とした町づくりをしていくことが大事だということを述べる。要は、史跡・文化財の保存・活用とは、すなわち町づくりに他ならない、ということなのである。こういう視点で京都の史跡の話をするのはちょっと珍しいのかもしれず、参加者の皆さんにはけっこう好意的に受け止められたとおもう。
 今回は、私のものを含めて合計10本の報告がおこなわれた。いずれも的確で面白い発表で、本当に勉強になった。事務局役はいささかしんどかったが、良い会になって、良かった良かったo(*^▽^*)o。

【書いたもの】
◎「都市遺跡としての京都」(文化財保存全国協議会第40回記念京都大会実行委員会編『文化財保存全国協議会第40回記念京都大会 都市遺跡の調査と保存・活用・整備 予稿集』所収、〈大阪〉、文化財保存全国協議会、2009年6月)、1〜5頁。
【しゃべったこと】
○「都市遺跡としての京都」(文化財保存全国協議会・文化財保存全国協議会第40回記念京都大会実行委員会〈主催〉「文化財保存全国協議会第40回記念京都大会〜都市遺跡の調査と保存・活用・整備」
、於同志社大学明徳館、2009年6月14日)。
【社会活動】
▼文化財保存全国協議会第40回記念京都大会実行委員会事務局長

2009.06.03

日本考古学協会2009年度総会、の巻

090603(左:ダライ・ラマ法王日本代表部事務所のあるビル。右:日本考古学協会総会)
 5月29日(金)〜31日(日)
 東京・早稲田大学において、日本考古学協会の総会。
 金曜日、東京着。ほんの少し時間があるので、どこに寄り道しようかと迷った。いつものように神田神保町の古書店街、という手はあるのだが、急に、新宿にあるダライ・ラマ法王日本代表部事務所を訪ねてみたい!、と思った。ここはチベット亡命政府の在日本大使館ともいえる存在であるし、予約もなしに行ってはマズいかな、という不安はあった。しかし、私はチベットハウス(同事務所文化部)の会員であるし、ささやかではあるが、チベットの皆さんを援助するためのブルー・ブック・プロジェクトの参加者でもある。少なくとも、同事務所の図書室は一般公開しているはずだから、まかりまちがっても図書室を見ることくらいはできるハズである。
 と、いうことで訪れたダライ・ラマ法王日本代表部事務所。新宿三丁目駅から徒歩数分の小さなビルの中にある小さな事務所である。エレベーターを降りると、ちょうど、若いボランティアの女性が出てくるところに行き当たった。来意を告げると中に案内してくれて、ツェワン・ギャルポ・アリヤ経理・広報担当官に引き合わせてくれ、同担当官から話を聞かせてもらうことができる。さらに、ラクパ・ツォコ代表(要するに、中央チベット行政府〈チベット亡命政府〉の「日本駐在大使」)にも挨拶することができた。ありがたいことであった。これからもチベットのサポーターであり続けたいということを伝え、わずかではあるがブルー・ブックに寄付金を納めて事務所を辞する。

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 午後は、日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会。今回は、結構たくさんのメンバーが集まっている。終了後は、やっぱり呑み会(*゚ー゚*)。

 土曜日は、いよいよ本番の総会である。今回の総会は大切なものである。と、いうのは、いままでの日本考古学協会は「有限責任中間法人」であったが、法律改訂によってそれを「一般社団法人」に変更することを議決しなくてはならない。しかし、そのためには会員(約4,000名)の三分の二の出席(含委任状)が必要となり、理事会の皆さんはその確認に大変だったようである。皆さんのご努力もあって総会は成立するにいたり、これは御同慶のいたりであった。本日をもってめでたく、「一般社団法人日本考古学協会」が誕生したのである。

 ただ、今回の総会では、私も言っておきたいことがあった。挙手をしての発言は勇気がいるし、限られた時間を消費することで顰蹙を買うことになるだろうが、それはいたしかたない。少なくとも、私の主張を記録にとどめてもらうことが必要だと思ったのである。
 それはこういうことである。理科系の学会には、そこが発行する学術雑誌に論文を掲載する際に、「論文の著者は論文の著作権を学会に譲り渡さなくてはならない」という規定を持つところが多い。それが徐々に文科系の学会にも波及してきた。と、いうのも、最近では学術雑誌を電子アーカイブにしてインターネットに公開することが流行っており、そのためには学会が著作権を持っていた方がはるかにやりやすいからである。もちろん、電子アーカイブ化自体は大変結構なことであるから進めればよい。しかし、そのための著作権の扱いについては、また別の方策があるはずである。少なくとも、著作権に疎い理科系は知らず、文科系にはこうしたやりかたは馴染まない。なぜならば、文科系の研究者にとって、自らの著作の著作権は研究者としての「生命」に等しい価値を持っているからである。
 したがって、私は、少なくとも私の関係している学会については、学会が著者の著作権を奪い取るという「暴挙」を許すわけにはいかないと決意しているのである。日本考古学協会ではまだそこまでは至っていないのであるが、最近、その方向への危惧が現れ出た。これは、流れができる前に先手を打っておかねばならないであろう。そこで発言を求め、以上のことを述べた。会員の皆さんに私の真意が伝わったかどうかはわからないが、すくなくとも記録にはとどめていただいたハズであり、その点では私の希望はかなえられたことになる。

 しかし、私の発言で時間を喰ったことは確かであるし、その点では理事の皆さんには申し訳ないことをした。と、いうことで、懇親会では理事のみなさんに対してひたすら平身低頭m(. ̄  ̄.)m。苦笑いをされたが、許していただいた(と、思う(^-^;)。結局、いつもの通り二次会まで繰り込んで、またまた大騒ぎ。

 もうひとつ、総会では執行部と実行委員会にお願いをした。それは、29日金曜日の朝日新聞朝刊を見て仰天したからである。そこには、「奈良・箸墓古墳築造、卑弥呼の死亡時期と合致 歴博測定」の大見出しが踊っていた。これはマズいことになった。こういうことは、学会で発表して相互に議論した後にマスコミに出すのが本来である。事前にマスコミに流すというのでは、マスコミを使って自分の学説の既成事実化をたくらんだと思われても抗弁の余地がない。以前にも、この研究グループの弥生時代の開始年代をめぐる放射性炭素年代測定法の成果発表の際、前日にマスコミに報道されたという「前科」があった。その結果どうなったかというと、日本考古学協会の研究発表会の会場は超満員になってしまった。おそらくそこには、考古学協会員以外の人々がかなり参加していたはずである。もちろん、考古学協会の研究発表会は公開されているし、考古学をやっている学生さんたち、一般の考古学愛好者の皆さん、さらにはマスコミの記者たちを排除する理由はない。しかし、考古学協会の研究発表会の意義は第一義的には協会員同士の討論というところにあるのであり、したがって私たち協会員は研究発表を聞く権利を有しているはずである。その権利が侵害されることではいけないはずである。今回もそのような危惧があったので、円滑に研究発表会がおこなわれるようにお願いをしたわけである。
 私のお願いが聞き入れられた結果かどうかはわからないが、31日午後からの研究発表会場は急に変更になり、午前の倍以上の教室になった。これは本当に良かった。その広い会場がほとんど満席に近く、おそらく400人くらいは入場していたからな。私もゆっくりと聞くことができた。日本考古学協会理事会と総会実行委員会の機敏な対応はまさに見事。感謝、感謝。
 なお、この研究発表の内容については、私は納得できなかった。一見すると科学的に見えるけれども、そこにはかなりの仮定の積み重ねと強引な誘導がある。結論の当否は別として、これで「箸墓は卑弥呼の墓だ」と断じるのは飛躍にすぎる、というのが正直なところである。

 発表内容についてはそう感じたのだが、この研究発表の際に司会をつとめられた協会理事のTKI大学のHY教授の名司会ぶりは特筆モノである。ピントはずれの質問については毅然と応対し、さらに報道機関には冷静な対応を求めるなど、見事な手綱さばきですごくカッコ良かった(HYさん、もともとカッコいい人なんですけどね。羨ましい・・・)。
 もうひとつ、私の聞いた研究発表の中ですばらしかったのはKS大学のMK教授による「中国四川省晏爾龍石棺墓地の発掘調査」。私は専門外なので細部についてはよくわからないのであるが、強烈な意志の力がグイグイと迫ってくるのに圧倒された。こんなの聞かされると、私も頑張らなくっちゃな、という気になるな。

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