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2010.04.28

近江・佐和山城を学ぶ、の巻

 100427〈佐和山城大手門跡付近の土塁遺構(クリックで拡大)〉
 4月25日(日)
 1617会の滋賀例会に参加。最近なかなか日程があわず、1617会にもご無沙汰だった。今回は石田三成の居城として有名な近江国佐和山城。興味はあったが、実は遺跡を踏んだことはなかったので、この機会ということででかけることにした。新幹線で米原まで行き、近江鉄道に乗り換えて鳥居本駅で降りる。たくさんの方々が集まっておられ、近来希にみる盛況の会となったのは御同慶のいたり。
 地元研究者の御案内を受け、まずは佐和山城東側の遺構を見学。本丸のある山に向かって大きな谷がふたつ食い込んでおり、そこが武家屋敷群になってたらしい。谷の入り口をふさぐ形で、「コ」の字形の土塁と濠が築かれている(写真)。見事なもので、これを見るだけでも値打ちがある。
 そのあと、佐和山城の丘陵を東西に横切る「龍譚寺越」の道を登る。地図で見ていると大きな幹線道路のように見えたが、とてもとても。実際は細く険しい山道である。これでは物資の往来はかなり難儀なことであろう。
 時間の関係で佐和山城の本体に上がることはできなかったが、これはまた今度のお楽しみにしておこう。やっと佐和山城の西側にたどりつき、そこにのこされている、島左近の邸宅跡との伝承のある清涼寺や、伝石田三成邸跡を眺めながら彦根市街にいたる。昼食に入った彦根駅前のチャンポン麺はなかなかの美味。時間があるので「某古代史研究者」ことKMさんと平和堂を物色していると、「ひこにゃん」グッズの売り場にいきつく。KMさんの「強要」により、ひこにゃん印の彦根城ケーキを買わされてしまう(でも、帰宅してウチの奥さんに差し上げると、おいしいおいしいと言いながらパクパク食べていたから、モトはとることができた)。
 午後からは研究会。佐和山城研究の最新成果に触れる。佐和山城というと石田三成のイメージが強すぎるのだが、実は浅井長政時代(城主:磯野員昌)、織田信長時代(城主:丹羽長秀)、豊臣秀吉時代(城主:堀秀政→堀尾吉晴→石田三成)、徳川家康時代(城主:井伊直政)、そして井伊氏の彦根築城にともない廃城、といういくつもの段階に分かれる、ということを学ぶ。ここで重要なのは、丹羽長秀時代の佐和山城の意義である。つまり、信長時代には、琵琶湖を囲んで、長浜城に羽柴秀吉、安土城に信長自身、坂本城に明智光秀、大溝城に織田信澄というネットワークが作られていた。ここに丹羽長秀の佐和山城が加わっていないはずはないし、そうなると信長の環琵琶湖網はより強固な布陣になるからである。これは、佐和山城の「正面」が東西のどちらであったか、それは時代によってどのように変化したのか、を考える手かがりにもなるように思う。
 楽しく歩いて、楽しく学んで、そして、例によっての宴会。城郭史研究の第一人者・NHさん(NHさん、このたび、お城の模擬天守の博物館の館長に就任されたとのこと。いうなれば、「城主」となられた。カッコいいですね・・)とも久しぶりにゆっくりと語り合うことができる。くたびれたけれども、良い1日でした。


2010.04.25

パンチェン・ラマ11世ゲンドゥン・チューキ・ニマの無事を祈願する、の巻

1004254月25日(日)
 皆さんはこのあどけない表情の少年をご存じでしょうか。彼こそは、パンチェン・ラマ11世ゲンドゥン・チューキ・ニマ(法名テンジン・ゲンドゥン・イェシェー・ティンレー・プンツォク・ペルサンポ)。つまり、チベット仏教ゲルク派における、ダライ・ラマ法王に次ぐ序列第2位の高僧です。そして本日は、パンチェン・ラマ11世の21歳の御誕生日です。
 通常でしたらこの御誕生日を盛大にお祝いするところですが、この場合はそうはいきません。ゲンドゥン・チューキ・ニマ少年がダライ・ラマ14世法王によってパンチェン・ラマ11世として認定されたのは、彼が6歳だった1995年5月14日。しかし、5月17日、認定されたばかりの11世は両親とともに中国政府によっていずこともなく拉致され、姿を消しました。それから15年。いまだにパンチェン・ラマ11世ゲンドゥン・チューキ・ニマの安否は不明のままです。中国は「ゲンドゥン・チューキ・ニマは市民として両親とともに幸福に過ごしている」と強弁しますがその証拠を提出したことはありません。
 今、チベット本国にいるパンチェン・ラマ11世はゲンドゥン・チューキ・ニマではなく、中国当局によって擁立されたギェンツェン・ノルブです。しかしギェンツェン・ノルブにはダライ・ラマ法王の認定が欠けており、親中国派を除くチベット人はギェンツェン・ノルブを認めていません。
 正統のパンチェン・ラマ11世ゲンドゥン・チューキ・ニマ、今、はたしてどこでどうしておられるのでしょうか。不安はつきませんが、この御誕生日にあたり、パンチェン・ラマ11世ゲンドゥン・チューキ・ニマの御健勝を祈願したいと思います。そして、中国政府が心を改め、パンチェン・ラマ11世ゲンドゥン・チューキ・ニマの解放に踏み切ることを念願したいと思います。


2010.04.23

チベット東部大地震、続報、の巻

 4月22日(木)
 ごく僅かで申し訳ないくらいなのですが、チベット亡命政府の拠点であるインド・ダラムサラに結成された玉樹地震慈善委員会に献ずるために、窓口となっている特定非営利活動法人チベットハウスジャパンに対して振り込みをいたしました。

 現地からの情報によると、この地震での死者は、当局発表の2000人超などというものではないらしい。まだわからないものの、死者が8000人を下回ることはないようだし、1万人を超えるのは確実らしい。暗澹たる思いがさらに広がる。

 中国政府は、外部からの人的支援を断り、被災地の復興資金にあてるための資金援助だけを求めるという方針を打ち出している。それに応えて、中国国内では救援金の募金についての大キャンペーンが繰り広げられ、ひとつのテレビ番組だけで約22億元(約300億円)が集まったらしいし、前回の四川地震の際の募金総額1兆円をはるかに上回る金額が集まるだろう、という観測もある。
 中国政府は、集まった義援金を「被災地の復興資金にあてる」と言っている。そのこと自体はおかしくないのだが、一方で中国政府はこの土地を高原エコ観光都市として再開発する意向を公表している。このふたつを考え併せると、集められた多額の義援金はこの「高原エコ観光都市」の建設に使われる、ということになるように思う。そこで気がかりになるのは、この新しい「高原エコ観光都市」に、それまでそこに住んでいたチベット人たちが安住できる空間がきちんと用意されるのだろうか、ということである。果たして、彼らの意に反して彼らを追い出してしまう、なんてことがおこらないと言い切れるのだろうか。そんな危惧を払拭できないのである。募金自体は人々の善意の賜物であることは確かなのであるが、それがさらにチベットの人々を苦しめる結果になったりしないよう、祈ることしかできない。

 ダライ・ラマ法王は、緊急なのは教育施設と医療施設の復興だ、と断言しておられる。特に、学校の再建こそは何よりも優先されるべきだ、と強調しておられる。私には、なんだかよくわからない「高原エコ観光都市」よりも、法王のおっしゃることの方がはるかに納得できるのだが、皆さんはどうだろうか?


2010.04.21

チベット東部大地震に心が痛む

 2010年4月13日23時49分(日本時間14日7時49分)に、チベット東部・カム地方のケグドゥ(キグド、ケグド、ケグとも表記されるし、ジェクンド、ユルシュルともいう)をマグニチュード7を超える大地震が直撃した。現在は中華人民共和国の支配下にあり、青海省玉樹蔵族<チベット族>自治州玉樹県と呼ばれている地域である。その全貌が明らかになりつつあるが、ケグドゥの人口は3万人(周辺を含めると8万人)というが、死者・行方不明者は2000人を超え、負傷者は1万2000人以上、民家1万5000軒が倒壊、ケグドゥとその周辺の10万人が住居を失ったと伝えられる。現地からの大量の写真は「Kyegu Monastery さんのギャラリー」で見ることができる(ただし、被災者の遺体が火葬のために山積みされているショッキングな写真もあるのでご注意ください)。目を覆うような惨状である。ただでさえ苦しんでいるチベットの人々が、どうしてさらにこんな試練にあわねばならないのか、それを考えると涙がとまらない。しかし、その中でもチベットの各地から集まったチベット仏教の僧侶たちが献身的な救助活動をしておられることには感動する。
 ダライ・ラマ14世法王も、自らの生まれ故郷に近いこの地を襲った災害に悲しみをあらわし、救援活動を行っているチベットの人々(僧侶および在家の人々)への感謝、救助にあたっている中国政府と中国指導部に対する賛辞、支援者への感謝、教育施設・医療施設の復興の必要性、衛生や保健面での世界の支援の呼びかけ、を述べられた。法王にとっては普段は対立している中国政府と中国共産党ではあるが、その救助活動を率直に誉めたたえているところなど、法王ならではの誠実さである。

 法王は、亡命中の身では被災者に直接の救いの手をさしのべられないことを悲しみ、できることなら被災地を訪れて人々と悲しみを共にしたい、そして犠牲者のために祈りを捧げたい、と強く希望している。もちろん直截の救助活動や物質的な援助が急務であることは当然だが、それにも増して重要なのは打ちのめされた人々に対する心のケアであろう。そして、チベット人に対してそれができるのはダライ・ラマ法王しかおられないというのも自明である(付記)。
 被災地でも、被害家屋に法王の肖像写真が掲げられている風景が見られたり、被災者の間からも〝金も物も何もいらない。法王に来ていただくことこそ私たちみんなの願い。法王のお越しがないなら、何をもらったとしても心は満たされない〟という声が聞かれるというし、子供ですら〝私たちにはダライ・ラマ法王がいる。ダライ・ラマ法王は太陽だ。本当に被災地に来てほしいのは(胡錦濤国家主席ではなく法王だ)〟と囁いているという(以上、この記事による)。また、廃墟の片付けをしていたある女性は、瓦礫の中から法王の写真を見つけだした。彼女はすぐにその写真を頭上に掲げて涙を流しながら祈りをつぶやき、それを見た周囲の人々は次々とその写真を受け取り、彼女と同じように祈りを捧げた、という(以上、この記事による)。
 しかし、予想通り、中国政府は法王の現地慰問の希望をケンもホロロに拒絶している。さらに、中国の現地政府は被災地を整理して再開発し、高原エコ観光都市(!)」として売り出す計画をたてているのだという(´ρ`)。

 何もできない私ですが、せめて、今回の災害で苦しまれた人々のために祈りを捧げたいと思います。また、僅かですが、日本赤十字社の救援金募金に応じたいと思います。←〈4/21追記〉申し訳ありませんが、方針変更します。チベット亡命政府の本拠であるダラムサラに「玉樹地震慈善委員会」が発足し、4月21日より募金活動をおこなうことになったとのことです。日本赤十字社でももちろんいけないことはないのですが、やはりチベットの人々への募金は、同じ心情を共有する亡命チベット人の方々こそが最も良い使い方をしていただける(もちろん、亡命地にある同委員会が被災地に救援金を届けるのには困難も予想されますが・・)と信じますので、ささやかな募金は同委員会に献ずることにいたします。

(付記)中国政府がダライ・ラマ法王に対抗させるために擁立した「対立パンチェン・ラマ11世」ギェンツェン・ノルブも、地震被害者に対して義援金を拠出したり、北京の寺院で犠牲者追悼の法要をおこなったり、彼は彼なりに懸命の活動をやっており、それは確かに賞賛に値する。しかし、なにせダライ・ラマ法王の認定が得られず、中国共産党の傀儡、または偽者とさえみなされている「対立パンチェン・ラマ」としては、気の毒ではあるがチベットの人々の心を慰めるには限界があるだろう。なお、細かいことではあるが、この記事の日本語訳、対立パンチェン・ラマ11世の名前を「ギェンツェン・ノルブ」ではなく、「ゲンドゥン・チューキ・ニマ(これは、ダライ・ラマ法王認定の真性のパンチェン・ラマ11世の名前だ)」にしているぞ(!)。ケアレス・ミスではあろうが、中国側の立場にたつ記事としてはマズすぎるぞ(^-^;。


2010.04.18

高橋康夫先生退職記念会、の巻

100417〈←高橋康夫先生御夫妻と(クリックで拡大)〉
 4月17日(土)
 昨日はK大学のYS教授(日本古代史)と呑みにいったら、ついつい深酒。ふらふらしながら起床。
 
 午後からは、高橋康夫先生退職記念シンポジウム「都市史学が開いた地平—都市と歴史と自然をめぐって—」と記念パーティ。高橋先生は永く京都大学大学院工学研究科の建築史学の教授をつとめられ、この3月で定年により御退任になられた。言わずと知れた建築史・都市史のトップ・ランナーである。特に中世京都の都市史研究については余人の追随を許さない業績の持ち主。私も、京都研究を始めた当初から高橋先生の御業績のお世話になってきた。
 その高橋先生の知遇を得たのは、平安建都1200年記念事業(1994年)として、平安京復元模型(現・平安京創生館に展示)の製作の委員会でご一緒させていただいた時である(この時のことは、山田邦和「平安京復元模型製作の思い出」〈『まなびすと』Vol.10掲載、〈京都〉、〈京都市生涯学習総合センター〉、2010年1月〉に書いた)。それ以来、いろんな研究会やらお仕事やらでご一緒させていただく機会が増えた。私たちがやっている平安京・京都研究集会では何度も何度もお世話になったし、2005年にやった中世都市研究会京都大会「中世のなかの『京都』」では高橋先生に実行委員長の任にあたっていただいた。その度ごとにたくさんの勉強をさせていただいたことはどれだけ感謝してもしきれない。
 シンポジウム「都市史学が開いた地平—都市と歴史と自然をめぐって—」は、京都大学芝蘭会館稲森ホールでおこなわれる。高橋先生の基調講演「『京都』—歴史と自然のあいだに」では、先生御自身の研究の歩みをふりかえられる。講演の中で私の名前に触れていただいたのは、光栄の至り。
 記念パーティはウェスティン都ホテルに場所を移す。盛会で結構なのだが、やはり建築学の研究者の方々が多くて私は肩身が狭いのだが、それでも旧知の方々にご挨拶回りをすることができる。
 高橋康夫先生、このたびの御定年で京都大学名誉教授の称号を受けられるとともに、花園大学文学部文化遺産学科教授に就任され、京都を中心とする「地域文化論」を受けもたれることとなった。花園大学、いうまでもなく私の「古巣」である。私としては、高橋先生と同一職場で仕事をさせていただくという機会は逸してしまった。しかし、花園大学の文化遺産学科は高橋康夫先生という大研究者を迎えることにより、ますます発展することと思う。
 高橋先生、今後ともますます御健勝での御活躍をお祈りしております。そして、今後ともなにとぞよろしく御指導のほど、お願いもうしあげますm(_ _)m


2010.04.14

工藤静香さん、お誕生日おめでとう、の巻

100414
 4月14日(水)
 本日は、工藤静香さんの40歳のお誕生日。おめでとうございますo(*^▽^*)o。
 去る4月2日には、テレビ東京系列の『たけしのニッポンのミカタ〜スペシャル・女の努力は報われるのか!?』に、hitomiさん、勝間和代さんとともにゲスト出演されていた。静香さんのテレビ出演、まったく久しぶりであるが、お元気そうでなにより。「子どもが大きくなるまでは家庭第一でやっていく」とおっしゃるのは、いかにも静香さんらしい。ただ、ファンとしては、少しづつでもいいから芸能活動も継続してほしいものである。

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 ちなみに、私も今度、テレビにちょこっと顔をだす、はずです。
 □土曜スペシャル「古代ミステリー謎解きの旅(テレビ東京系、2010年4月17日〈土〉19時00分~20時54分)
 その中の「陰陽師 安倍晴明は日本初の天文学者だった!?」という部分で、平安京創世館に展示されている平安京模型を前にしながら、俳優の大和田獏さんに平安京の説明をする、というのが役回りです。ただ、この番組はテレビ東京で、関西では奈良テレビとテレビ和歌山だけの放送になるらしい(テレビ東京の系列であるはずのテレビ大阪では、なぜか、放送されない)ので、京都では見ることができません(;ω;)。果たしてどんな仕上がりになっているのやら・・・

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フランス・イギリスの旅(3)—パリ2日目—、の巻

 なんやかや要っているうちに、新学期が開始。バタバタしているとブログにも向かえなかった。まあ、ぼちぼちやりましょうや。
 今年度春学期の担当授業(特記なきものは同志社女子大学現代社会学部)
【月】4講時 〈同志社女子大学大学院文学研究科〉考古学特論
   7講時 〈同志社大学文学部〉日本史
【火】3講時 卒業研究
   4講時 博物館学各論A
   5講時 博物館実習
【水】2講時 基礎演習
   3講時 専門基礎演習
【木】2講時 応用演習Ⅰ
   4講時 考古学Ⅰ
これで、つごう9コマ。今年度から「博物館実習」が開講。いよいよ博物館学芸員課程の完成年度である。

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100408a〈←サン・ジェルマン・アン・レーの国立考古学博物館〉
3月22日(月)
 さて、パリの話。ぜったい行きたい、と思っていたのが、パリ郊外のサン・ジェルマン・アン・レー(電車のアナウンスでの発音ではサンジェルマン、オンレと聞こえた)。ここには、国立考古学博物館があるのである。四半世紀前の旅行の時には、休館日の関係で、ルーヴルに行くとサン・ジェルマン・アン・レーに行けない。サン・ジェルマン・アン・レーに行くとルーヴルに行けない、という二者択一を迫られ、結局ルーヴルを選んだという思い出がある。だから、今回は絶対行きたかった。
 サン・ジェルマン・アン・レーに行くには、ホテルの近くからメトロに乗車、シャルル・ド・ゴール=エトワール駅でRER(郊外鉄道)に乗り換え。ついでだから、凱旋門をながめる。サン・ジェルマン・アン・レーに着いたのは9時過ぎ。博物館は10時開館だから、町をぶらぶら。作曲家ドビュッシーの生家がドビュッシー博物館になっているということだが、休館だった。
 国立考古学博物館はもともとのサン・ジェルマン・アン・レー城の建物をそのまま利用している。堀の中にヨーロッパ版横穴式石室ともいえるメガリスが移築されているのを見ることができるのは、ちょっと嬉しい。博物館の中味はさすがの充実。フランス語ができたならよほど勉強になるだろうに、残念ながらその能力は持ち合わせていない。フランスのもの以外に、「世界各地の考古学」とでもいえる展示室がある。その中の1コーナーは東アジアに宛てられており、日本の亀ヶ岡式の縄文式土器などが並べられている。

 博物館の向かいのビストロで絶品のオムレツを食べ、パリの戻る。もうひとつ行きたかったのは、ポンピドゥー・センター。いわずと知れた、フランス大統領ジョルジュ・ポンピドゥーによって建設された、現代美術館、図書館、音響研究所などが合体した巨大複合文化施設である。これも、前回のパリ旅行では休館日にぶつかってしまい、涙を呑んだ。
 ポンピドゥー・センターでは、館の前のおおきな広場も楽しい。市民の憩いの場となっているし、大道芸人がいろんな芸を披露する場ともなっている。センターの上部を占める現代美術館はやっぱりおもしろかった。中には、もし日本の美術館で展示したりしたら大問題になってしまうだろうと思われるような、女性の裸体をテーマとしたりあっけらかんと男女の愛情をあつかったりする映像作品などもあるる。

 くたびれた身体をひきずるようにしてセーヌ川の真ん中のシテ島にわたる。なんといっても都市・パリの発祥の地である。ノートルダム大聖堂などを拝観。ついでにサン=ルイ島も散策。


2010.04.04

「歩いて楽しむ京都の歴史」連載開始、の巻

 100404d
 イギリスに行っていた最中に、中日新聞の連載(毎週金曜日)「歩いて楽しむ京都の歴史」が始まった。京都の史跡と歴史を、あんまり知られていない角度から照らすものにしていきたい。ただ、これまで月一回の連載というのはやったことがあるが、今回は週一回である。すぐにネタが尽きてしまって自転車操業になりそうな悪い予感も押し寄せてくるが、なんとか頑張りたいと思う。「中日新聞」だから東海圏だけかと思っていたのであるが、「東京新聞」も実は中日新聞社東京本社の発行だというから、東京でも見ていただけるのかもしれない。ただ、関西にはほとんど出回らないだろうな。
 連載ですからしばしばのお目汚しかもしれませんが、どうか温かく見守ってくださいませm(_ _)m。

【書いたもの】
■山田邦和「歩いて楽しむ京都の歴史—平安京の中心」(『中日新聞』2010年3月27日号朝刊掲載、名古屋、中日新聞社、2010年3月)31頁。
【しゃべったこと】
□「京都を愛する」(京都市職員研修センター 平成22年度「京都市職員研修」、於京都会館会議場、2010年4月1日)


フランス・イギリスの旅(2)—パリ1日目—、の巻

 100404c(写真上:パリの「魔法の切符」)
 帰国したのはいいが、疲れと時差ボケでヘタっていた。今日になって、ようやく復活。

 今回、パリで私が使える時間は正味わずか3日半。施設の休館日なども睨みながら、機動的に動かねばならない。ホントは郊外に足を伸ばすことをも考えていたのだが、クレジットカード紛失事件のドタバタで機会を喪失してしまった。それは今度のお楽しみだな。

 3月20日(土) 12時20分関西国際空港発。17時15分パリ、シャルル・ド=ゴール空港着。
 3月21日(日) コンコルド広場とチュイルリー広場、ルーヴル美術館、オルセー美術館、クリュニーの中世美術館とローマ浴場跡、ローマ円形闘技場跡。
 3月22日(月) 凱旋門、サン・ジェルマン・アン・レーと国立考古学博物館、ポンピドゥー・センター、ノートルダム大聖堂とシテ島・サン=ルイ島。
 3月23日(火) ヴェルサイユ宮殿、カルチェ財団美術館、カタコンブ、パンテオン。
 3月24日(水) ルーヴル美術館、ギメ美術館、シャイヨー宮。16時10分パリ、シャルル・ド=ゴール空港発。

 以前パリに来たのははるか昔、1983年のことだからもう27年も前だ。エジプト・アコリス遺跡の発掘調査にたずさわった帰路にちょこっと寄ったきりである(この時のことは、「シャンポリオンの墓をたずねて」〈『古代文化』第42巻第6号掲載、京都、古代学協会、1990年〉に少しだけ書いた)。初めて踏むヨーロッパの土地に興奮し、足が棒になるほど歩き回ったことを覚えている。しかし、その時にはいくつかの施設の休館日にぶつかり、涙を呑んだ。今回は四半世紀ぶりのリベンジである。

 シャルル・ド=ゴール空港に着いてまずやらねばならないことは、インフォメーション・センターを探して、そこでパリ・ヴィジットとパリ・ミュージアム・パスというふたつの切符を入手すること。つまり、前者はメトロ(地下鉄)とバスの乗り放題切符。後者は主要な博物館・美術館・史跡のフリー・チケットである。前者の5日間券(4日間券はない)と後者の4日間券で日本円換算1万数千円だから最初はちょっと高くは感じたが、これがめっぽう便利。まさに魔法の切符である。とにかく、メトロさえ駆使できればパリのかなりの部分は効率的に歩き回れる。今回も、どれだけメトロのお世話になったかわからないぞ(ただ、メトロの施設の老朽化が進んでいるようにも思う。エスカレーターの騒音や、傷だらけの車体が気になった)。それに私のように史跡と博物館巡りが主体だと、後者は必需品。ルーヴルやヴェルサイユのようにチケット売場に長蛇の列ができていても、それを尻目にしながら入口に進み、ミュージアム・パスを見せるだけでスッと通れる。受付の女性の「メルシー」の挨拶と笑顔のおまけまで付くから、なんだか特権階級になったような気分すら味わえるスグレ物なのである。

 100404b(写真中:コンコルド広場)
 パリは、なんといってもまずはルーヴル。四半世紀ぶりの訪問である。前回の時には中央の「ガラスのピラミッド」もまだできていなかったから、かなり様変わりしているはずである。ちょっと早い目にでて、コンコルド広場に上がってみる。エジプトのルクソール神殿から運ばれたオベリスク(写真)は、昔に変わらずそびえ立っている。

 ルーヴル滞在は5時間。もちろん駆け足である。そもそもひとつの博物館を一日中歩き回るのは、無理。私の経験則からいうと、5時間が限度である。今回の旅ではルーヴルと大英博物館にそれぞれ5時間滞在したのであるが、私のように、一応は博物館の専門家の端くれであっても、最後のほうになると頭がクラクラしてくる。今でもギリシア・ローマ彫刻の大群とルネッサンス美術が脳裏のどこかで乱舞しているような気がする。ルーヴルではフラッシュ使用以外の写真撮影が自由なのが嬉しい。ここだけで600枚以上、1ギガバイトのメモリーがほぼいっぱいになるまで写真を撮りまくってしまったぞ。

 ルーヴルで「?」と思ったのは、ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングルの名作「泉」に再会したかったのだが、どこにも飾ってなかった。以前にも書いたように、これもまた我が最愛の作品のひとつなのである。また「振られた」かな、とちょっとガックリしたのであるが、そのあと、セーヌ川の向いのオルセー美術館へと入った。もとの駅舎を改造した近代美術の博物館である。こういう、いかにもセンスの良い博物館を造るというのは、さすがにフランスだな。オルセーの中央空間を一巡したあと、南側の半地下式の展示室に足を踏み入れて、思わずギクリとした。愛しの「泉」が、ここに展示されているのである。なるほど。オルセー美術館は1986年の開館だから、それ以降、「泉」はこちらに遷されたのだな。ともあれ、「彼女」との夢の再会が果たせた。ありがたいことである(*゚ー゚*)。
 
100404a(写真下:ローマ時代の円形闘技場跡)
 ホントはこれだけでも一日めいっぱいなのであるが、もうひとつ、行ってみたいところがあった。行きしなの飛行機の中で、ちょっと予習をしようと思ってイヴァン・コンボー (小林茂訳)『パリの歴史 』(文庫クセジュ) を紐解くと、パリの市内にもローマ時代の遺跡がいくつか残されていることが記されていた。しかしこの本、地図が載せられていないのは不親切きわまりない。しかたないので同書の記載とパリの地図をにらめっこすると、だいたいのところが想像できてきた。と、いうことで、クリュニー中世美術館を訪れてそれに隣接するローマ浴場跡を眺め、さらにローマ円形闘技場跡に足を運ぶ。クリュニー中世美術館、古い教会の建物を再利用したもので規模は小さいが、これも国立博物館である。外観は冴えない感じだったが、中味は充実している。驚いたのは、受付に長蛇の列ができていたこと。フランス人の博物館・美術館に対する関心の高さがうかがえる。
 ローマ円形闘技場は住宅地の裏手に残されている。入ってみて、これも驚いた。子どもたちが歓声を上げながらサッカーに興じている。かつてのローマの栄光の地が子どもたちの憩いの場になっている。市街地の中での遺跡保存の理想的な実例である。


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