« 2010年6月 | トップページ | 2010年8月 »

2010.07.22

丹後王国そして平清盛、の巻

7月10日(土)
 国際京都学協会の総会。
 総会のあとに研修会がおこなわれるのであるが、ここで講演をすることになった。お題は同協会理事長のH賀T先生よりのリクエストで、「古代丹後半島と丹後王国」。私は丹後の遺跡には学生時代から親しんできたし、丹後の古墳時代須恵器の研究に没頭したこともある。また、『日本の古代遺跡 京都II』でこの地域の遺跡を紹介したり、『加悦町史 考古資料編』の委員会や京都府の天橋立世界遺産登録運動の委員会に加えていただいて勉強させてもらったこともあるので、できないことはないだろうと思って引き受けた。ただ、よく考えてみるとこれまであんまりやったことのないテーマなので、ちょっと難物である。と、いうことで、準備にかなりの手間がかかってしまう。
 それに、一般的な認識の「丹後王国」については私は懐疑的である。まあ、おそらく考古学研究者のかなりな部分の人々は、大和王権(「倭政権」と呼ぶほうが良いと思う)に対峙するような地域王国を考える論には批判的だと思う。丹後にしても、大和や河内の巨大古墳に匹敵するような巨大古墳は点在するけれども、それがそのまま丹後独立王国の証明にはならない。ただ、もちろん、単なる大和の王権の出先機関や出張所のように扱うのも誤りであるし、丹後の独自性というものも重視せねばならないし、日本海文化圏という視点からの検討も大事であることは論をまたない。地域の独自性と大和からの影響。このふたつをバランスよく配合することが必要だ、というところを強調する。

 7月17日(土)
 丹後王国論にひとくぎりつけると、すぐに頭を平清盛に切り替えねばならない。日本史研究会7月例会で「西八条邸の過去・現在―平家権力と邸宅―」がおこなわれることになり、そこで「平安京左京八条の考古学的検討」の報告を仰せつかった。文献史学からは高橋昌明先生、建築史学から川本重雄先生という大家おふたりが登壇されるので、私はまあ両先生の前座というところであるが、勉強になることは疑いない。
 そうはいうものの、私もこれも今まで平家の西八条第については充分な検討を怠ってきた。しかし、日本史研究会という舞台なのであるからブザマなことはできない。と、いうことで、このあたりの発掘調査報告書と首っ引き、データの整理に大童の日々をおくるハメになる。京都はちょうど祇園祭であり、宵々山までの荒れた天気とはうってかわって山鉾巡行はカラリと晴れ渡ったのだが、それも見に行くことができなかった。しかし、努力のかいあって(?)、西八条第を含む平安京左京八条一坊の考古学について、少しばかり見通しを持つことができたように思う。

 このテーマが微妙なのは、単なる学問的検討にはとどまらず、遺跡保存の問題にかかわってくることである。西八条第は平清盛と平家の本拠地のひとつであるが、その跡地の主要部分は現在、京都市の梅小路公園にとりこまれている。今回、この梅小路公園の北側に隣接し、その一部に食い込む形で、民間企業によって巨大な水族館が建設される計画が進められている。水族館建設予定地は清盛の西八条第からは外れているのであるが、それに関わる遺跡が眠っていることは充分に考えられる。したがって、遺跡の保存・調査・活用に配慮されているかどうか、私たちは注視せねばならないのである。
 そもそも、梅小路公園には西八条第跡を示す説明板がひとつ立っているだけで、他には史跡を顕彰するものはまったくない。いつもながらの京都の史跡軽視である。平家物語などは今も根強い人気があるのだから、ちょっと工夫さえしたならば、あまり費用もかけずに史跡散策と歴史教育の一大スポットを創り出すことはできるはずである。しかし、そんな風になる見込みは立っていない。まことにもったいないといわねばならない。京都市当局は観光客を増加させることにやっきになっているが、一過性のイベントやキャンペーンだけでなく、手近で地道な努力を積み重ねていくことも大事なはずである。
 私は、水族館自体が不必要だとか、造るべきではないなどとは考えない。どうせ造るならば立派なものにしてほしいと思う。しかしその一方、京都に造る限りはどんなものであっても、「歴史の重み」への敬意と配慮が不可欠でなければならない。今回の京都水族館建設計画には、業者側にも行政側にも、どうもそうした敬意が感じられない。そこに最大の問題が潜んでいるのだと思う。

2010.07.07

梅棹忠夫先生を悼む、の巻

 7月6日(月)
 本日は、ダライ・ラマ14世法王の75歳の御誕生日。猊下の御健勝と御長寿を祈念している。

----------------------------------------------------------
100706_3 大学で仕事を終えて帰り支度をしようとして、何の気なしにインターネットのニュースサイトに接続してみると、衝撃的なニュースがとびこんできた。国立民族学博物館初代館長、同博物館顧問、同博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授、京都大学名誉教授、財団法人日本ローマ字会会長、理学博士梅棹忠夫先生が、7月3日にお亡くなりなっていたという。90歳だった。
 専攻の分野が異なっていることもあり、私は梅棹先生に直接お目にかかったことはない。接近遭遇したとはあるのであるが、ご挨拶するチャンスを失してしまった。今から思うと後悔することしきり、である。

 しかし、私はひとりの梅棹ファンだった。子供の頃から梅棹氏の著作には親しんできたのである。あれは確か高校生の時だった。梅棹氏の名著『知的生産の技術』(岩波新書)を紐解いた私は、胸の高鳴りを押さえることができなかった。あこがれていた「学問」の世界への道しるべがここにある!! 特に心引かれたのは、著者が「B6型カード(京大式カード)」と「ひらかなタイプライター」を使って縦横無尽の知的活動をやっていることだった。これに刺激をうけて、私は自分でもB6カードを使ってみることにした。カードを買ってくればよいのだろうが、訳もわからず憧れていた私は、戦後の混乱期の中で梅棹氏が「闇市でうす汚い大きな紙を買ってきて、それを自分で裁断してカードを作った」とあることをそのままなぞり、大きな紙を自分で切ってB6カードを作り、学校のクラブ活動のデータなどをそれで整理していた。
 それから、梅棹氏の本を読んで欲しくてたまらなくなったのが、ひらかなタイプライター(写真下、クリックで拡大)だった。日本語がタイプライターで書ける!! こんなすばらしいことがあるだろうか。売っているところを探しに探して、やっと丸善の京都支店で見つけた。しかし、高校生だった私にはなかなか手がでる代物ではない。何遍も逡巡したあげく、清水の舞台から飛び降りるような気持ちで手に入れた。買い物をして、この時ほど嬉しかったことはめったにない。それからの私は、ひらかなタイプを使いまくった。手紙ももちろんひらかなタイプで書いた。受け取った人はさぞ目を丸くしただろうと思う。ただ、これは一種の遊びで、結局は私にとっては実用にはならなかった。しかし子供の頃の私は、こうした経験を通じて、憧れていた学問の世界に踏み込んだような気になれたのである。それに、後に思わぬところでひらかなタイプの経験が役にたったのは、日本語ワープロが登場した時であった。まったく新しく登場した日本語ワープロなのだが、そのキーボード配置は従来のひらかなやカタカナのタイプのそれを踏襲していた。つまり私は、ほかの人がワープロのキーボードに四苦八苦しているのを横目にみつつ、買ったその日からカナのブラインド・タッチができたのである。

100706_4
 大学にはいってから、これも名著として知られる『文明の生態史観』にとりくんだ。ただ、正直にいうと、その時の私はこの理論はなじめないものを感じていた。そうした違和感を払拭して、「生態史観」の真価に納得することができたのはもうすこし後のことである。
 ちょうどそのころ、大阪・千里の万博公園の跡地に新しい巨大な博物館ができるということを耳にした。それが、梅棹先生が推進力となった国立民族学博物館であった。大学で同級生となったI川N章君などはそのニュースに感動して、さっそくに同博物館の機関誌『季刊民族学』の購読を始めた。私はそこまではいかなかったが、関西で何か大きな学問的変動がおこっているということだけは感じ取れていたように思う。
 それからしばらくの間は、梅棹氏の著作に触れる機会を失していた。それが復活したのは、1987年に出版された『梅棹忠夫の京都案内』であった。これはおそらく、莫大な量にのぼる梅棹氏の著作の中で、最大の異色作であろう。なにせ、ふだんは冷静沈着そのものの梅棹氏が、この本だけではふだんの仮面をかなぐり捨て、京都への熱い想いを吐露するのである。私はそれまではどんな京都本を読んでも納得できなかったが、この本に接した時には、まさに魂が燃えるような感動を覚えた。それまでの私は、自分の世界観が他人とかなり異なっていることに、どこか違和感と阻害感を抱いていた。しかし、梅棹氏の京都論に接して、私ははじめて、自分とまったく同じ感性がここにある!と確信することができたのである。私はこれによって、私の感性を決定づけている要因が、私が京都産まれの京都育ちであるというところにあると悟ることができた。それならば、私は何を恥じることはなく、堂々とこの感性を正面に打ち出せばよい。私は梅棹氏から、自分の進むべき道を照らしていただいたと感じたのである。後に私は『カラーブックス 京都』という小さな本を書く。あまたの京都本とはかなり違うということで、いささかの反響があったようだが、実は私にとってこの本は、梅棹氏の京都本に対するささやかなオマージュのつもりだったのである。

 それからの私は、梅棹氏の本を読みあさった。1989年からは待望の『梅棹忠夫著作集』が出版された。私は、一冊が届くたびにむさぼるようにページを繰った。私にとって、全23巻という大部の書物を隅から隅まで読み尽くしたのは、まったくはじめての経験である。

 梅棹氏の著作はいずれも不滅の価値を持っているし、私が好きなものだけでも挙げだしたらきりがないが、ひとつだけ変わり種を挙げておこう。『著作集』第21巻「都市と文化開発」に掲載されている「新京都国民文化都市構想」である。東京一極集中が進む日本の現状を憂い、それぞれの地方が自立的に動くことのできる分散型社会の実現を唱える。そのためには、地方にもそれぞれ巨大派複合文化施設(「国民文化センター〈仮〉」)を建設し、そこを中核とした地域づくりをおこなうことを提唱する。地域活性化というとすぐ実利的な産業に結びつくのであるが、梅棹氏はそんな短絡的思考はされないのである。そしてさらに、氏の「夢」は膨らむ。「国分寺」にたとえた地方ごとの巨大文化施設を真の意味で活かすには、その「総国分寺」たる超巨大文化施設が必要だ、というのである。そして、この「総国分寺」の中央大神殿こそが、超巨大な芸術博物館と超巨大な図書館からなる「国民文化情報センター」であり、それを中核とした「国民文化都市」を建設することこそ日本の使命である、というのである。そして、梅棹氏は「この芸術博物館は、どれほどの規模のものが必要であろうか。もちろん、正確な床面積など計算のしようもないが、もちろん、ルーブル、メトロポリタン級よりもはるかにおおきく、世界最大の博物館になるだろう。わたしはなんとなく、ルーブルの5倍から10倍くらいかな、とおもっている」という。この、なんと壮大な構想!! 世界最大の芸術の都を日本に建設すべきだ、というのである!
 そして、梅棹氏は説く。
「最後に、場所のことをしるす。(中略)国民文化都市のほうは、たったひとつである。これをどこにもってゆくか。
「ものがものだけに、候補地はそうたくさんはありえない。市民の側に巨大な文化的蓄積がないと、こういうものはとてももちこたえられないからである。東京は、はじめから論外である。東京にもってゆくというのなら、そもそもの話の発端の、国土の分散型再編成という論理がご破算になってしまう。話にならないわけだ。
「わたしは、これはやはり京都のほかには、もってゆくところがないとおもう。京都なら、どんな文化的重荷でも、ちゃんともちこたえるだろう。京都なら、国民文化都市の立地として、国民全部のコンセンサスがえられるだろう。(中略)また、国際的にも、日本のあたらしい国民文化都市が京都につくられたときけば、みんな、ふかい共感をもってなっとくするだろう。(中略)
「もちろん、京都の旧市内は、日本でも最高にすみならされ、ひらきつくされた土地である。とうていそんな新都市をひらく場所はない。だから、ふるい京都に変身をせまるのではない。どこか、ちかい郊外に適当な都市がないものか。(中略)日本の永遠の都、京都も、その近郊にあたらしい都市『新京都国民文化都市』をひらくことができないだろうか。もし、京都市民が、あの厖大な文化的蓄積の総力をあげて『第2の平安京づくり』というほどの意気ごみをみせてやってくれるならば、まちがいなく『新京都国民文化都市』は実現できるであろう」
 氏のこの論文では周到にぼかされているが、この「新京都国民文化都市構想」こそ、京都府の南部に広がる「関西文化学術研究都市」のことなのである。氏は学研都市が理科系・実務系に偏るのを憂い、この論文を発表された。そして、「関西学術研究都市」に「文化」の2文字が加わって「関西文化学術研究都市」となったのは、氏のこの提唱によるものだったのである。事実、京都府は梅棹構想を軸にして、この超巨大な芸術博物館を「国立総合芸術センター(仮)」として、関西文化学術研究都市に建設する構想を国に要望したのである。
 しかし、氏のこの構想は、未だに実現していない。こんな構想を今もちだしたならば、税金の無駄遣いだという短絡的な反論がわき起こるに決まっている。だが氏はいう。「お金がかかるといっても、文化がらみのことは、なんといってもコストが安あがりで、効果がおおきい。そのことにいま、政治家も行政官も気がつきつつあるところである。日本政府は貧乏だけれど、安あがりの文化のことに金をだせぬほどのことはない」。文化政策の基本をこれほど端的にいいあらわした言葉を、わたしは他に知らない。
 私は今、「関西文化学術研究都市」の一角で仕事をしている。もちろんこれは、梅棹氏の夢みた「新京都国民文化都市」ではない。氏は後年にいたるまで、自分の構想に実現のきざしさえないことを嘆いておられた。しかし私は今も、関西文化学術研究都市の姿の背後に「新京都国民文化都市」の幻影を見続けている。

 梅棹忠夫先生。安らかにお眠りください。御生前にお会いすることはかないませんでしたが、私は先生から本当に大きなものをいただき続けていました。ありがとうございました。(合掌)

2010.07.04

第8回「考古学と中世史」シンポジウム「中世人のたからもの」、の巻

100705〔←帝京大学山梨文化財研究所(クリックで拡大)〕
7月3日(日)・4日(日)
 山梨行き。帝京大学山梨文化財研究所(山梨県笛吹市)の第8回「考古学と中世史」シンポジウム。今年のテーマは「中世人のたからものー蔵があらわす権力と富ー」ということで、蔵があつかわれる。このシンポジウム、私は「世話人」の末席に加えていただいているのだが、準備会の日程が毎年、条里制・古代都市研究会の大会と重なってしまうため、ほとんどお手伝いができない。申し訳ないので、せめて本番だけはできるだけ参加させていただくことにしている。とはいうものの、今年は日程の調整ができず、最後まで参加が危ぶまれたのだが、なんとか無理矢理突っ込むことができた。
 帝京大学山梨文化財研究所は山梨県笛吹市の石和温泉<いさわおんせん>にある。そこまでいくためには電車の時刻表とにらめっこ。インターネットの「Yahoo!路線案内」を使えばすぐじゃないか、といわれそうだが、なかなかそうは問屋がおろさないのである。というのも、Yahoo!路線案内だと、第1順位に必ず、京都ー(東海道新幹線のぞみ号)→新横浜ー(横浜線)→八王子ー(中央本線)→石和温泉、というのが出てくる。確かにこれが一番速いのだが、しかしいったい何が悲しゅうて、京都から山梨に行くのにわざわざ横浜や八王子廻りをしなくちゃならないのだ(`ε´)。第一、運賃は高くつくし、横浜線で座席に座れる保証もない。もうひとつの方法は、京都ー(東海道新幹線のぞみ)→名古屋ー(中央本線特急)→甲府経由で石和温泉、という手もある。古代の東山道のルートを継承しているという点ではこれが最も正統的ルートといえるのかもしれないが、どうもこれは好きになれない。中央本線は暑いし、よく揺れる。これにずっと乗ってなくちゃならないと思うだけで気が滅入る。
 と、いうことで、ここはやはり京都ー(東海道新幹線のぞみ)→名古屋ー(同ひかり)→静岡ー(身延線特急ふじかわ)→甲府ー(中央本線)→石和温泉、というルートがいいと信じている。身延線は時間がかかるが、駿河と甲斐の繋がりを実感するには悪くない。第一、座席が指定できる。ただ、本数が僅かなので、乗り継ぎを正確にせねばならないのである。
 なんとか、時間通りに研究所に到着。萩原三雄所長はじめ、皆様にご挨拶。
 しかしこのテーマ、なかなかに難しいな。ひとくちに蔵といっても、米蔵から宝物の蔵まで、千差万別である。遺構においても、明らかに蔵だとわかるものの他に、蔵かどうか頭を悩ませるようなものがたくさんある。
 私にとって、報告の中では、国立歴史民俗博物館准教授の高橋一樹さんの「王権の宝蔵とその歴史的性格」が興味深かった。従来からも注目されてきた蓮華王院宝蔵を独自の視点から再評価したもので、高橋さんらしい、深い問題提起を含んだ周到な研究である。私の作成した中世京都復元図を紹介していただいたのも嬉しい。
 いっぱい勉強したあとは、懇親会。さらに、研究所の大広間にもどってきて、二次会。結局、最後の最後まで飲み続け、気がついたら日が替わってしまっている(^^;)。それにしても、こんなことのできる研究機関、せちがらいこの世の中では少なくなってきてしまったぞ。それが残っているだけでもありがたい限りである。宿泊は研究所近くのスパランドホテル内藤。温泉とホテルが一体となった施設で、翌朝にゆったりと温泉を楽しむことができるのが何よりのごちそうである。値段も朝食こみで7000円ちょっとと、大変にリーズナブルで、いうことなし。

« 2010年6月 | トップページ | 2010年8月 »