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2010.10.18

日本考古学協会2010年度兵庫大会・臨時総会、の巻

 くたびれました。

 報道されている通り、2010年10月16日(土)に開催された一般社団法人日本考古学協会の臨時総会において、協会所蔵図書の寄贈先についての議論がおこなわれました。その結果、「図書をイギリスのセインズベリー芸術研究所に寄贈する」ことを骨子とする理事会案が否決されました。経緯はともあれ、総会で議決がなされたわけですから、その結果は粛々と受け止めなくてはならないと思っています。(NHKニュースでの動画はこちら〈一週間程度閲覧可能〉)。

 この結果を受け、日本考古学協会はこの問題の解決に向かって新たな方向性を模索することになります。昨日の大会の終了時に公表されましたが、この問題をとりあつかうための特別委員会を設置することになり、まずは同委員会のための「準備会」が早い段階で発足することになります。なお、すぐに特別委員会を発足させることができないのは、特別委員会の正式の設置には総会の議決が必要であるためです。しかし次回の総会まで手をこまねいているわけにはいきませんので、それまでの間は「準備会」が実質的に特別委員会の機能を代行し、方向性を議論していくことになるはずです。

 私も、今回の問題についてはいろいろと考えさせられるところがありました。私は今年6月以降に理事会の末席を汚しており、その点ではこの問題についての責任を負っているひとりではありますが、私には理事会としての公式見解を述べる権限はありません。今回も、理事会案は明確に提出されているのだからそれについて私が意見を付け加えることはやるべきではない、と思っていましたから、個人的な意見の表明は控えてきました。しかし投票も終わったことですから、その禁は解いてもよいでしょう。以下に述べることは、ひとりの考古学研究者であり、考古学協会の一会員としての私の個人的な考えです。

 まず最初にいっておきますと、今回の臨時総会は、やって良かったと思っております。正直いって、総会の前半にはいろいろと問題があったし、混乱があったことも事実です(さらに、4千人の会員のうち二百人足らずしか出席されていなかったのは寂しい限り)。しかし、会場を移動させてからの後半部は、理事会案に賛成の立場の方、そして反対の立場の方、第三の立場を模索する方、それぞれが冷静かつ粛々と意見を述べました。平行線の部分もないわけではないのですが、議論自体はたいへん有益なものであったと感じています。違う意見を持つ人々が冷静で公平に議論する場が確保されたことは、何にも代え難い成果であるからです。今回の臨時総会の大勢を決めたのは、事前に郵送によって「議決権」を行使された方々の過半数が「否」票を入れられていたことによります。一方、会場の投票結果の限っていうならば、理事会案への賛成が過半数にいたりました。その点では、理事会案は暴論でもなんでもなく、きちんとした説明を聞いていただくならば、かなりの数の方々に納得していただける内容であったことは信じております。

 今回の総会に際して、理事会案が採択されるという結果に誘導するような、法的には何の問題もないけれども、いささか公平さを欠く方法は確かに存在しましたし、告白しますと、私も一度はそれを考えたことがありますし、理事会案を通すだけならばその方法を採ればよかった。しかしさすがにそれを主張することは私の良心が許さなかったし、もしそんなことをしていれば混乱はますます大きくなり、最悪の場合には考古学協会崩壊という事態にもなりかねない。その点で、「負け」の可能性を覚悟しながらも公正な総会にしようと試みた今回の理事会の対応はきわめて正当であったといい得ます。
 
 先日も述べました通り、今回の結果には、会員のひとりひとりに大きな責任が伴っているはずです。理事会が協会の業務執行の責を負っていることは確かであり、そこから逃げることは許されませんが、会員の自主的な集合体である日本考古学協会では理事会のできることなど限られています。今回の問題については、会員のひとりひとりが、新たに設置されます特別委員会とその準備会に対して、図書問題について実現可能な対案を提出すべきであり、その実行の責を負う覚悟を表明すべきです。反対論を述べるのは大いに結構ですし、それについて議論を戦わせることは当然です。しかし、反対はするがその解決は他人に任せて事足れり、などという無責任な態度は許されるべきではありません。さらに、最も許されるべからずことは、反対も賛成もなく、我れ関せずという無関心に終始することでしょう。しかし、これまでの日本考古学協会には、そうした無関心な会員が多かった。正直言って、私も理事になるまでは、日本考古学協会の問題を自分の問題として真剣に考えることがなかったひとりでした。臨時総会の場において、大阪府のOS氏がこの点を鋭く突かれ、我々の全てが猛省することを厳しく指摘されました。O氏の正当な批判に接して、私自身も胸がえぐられるような感を受けました。O氏の問題提起は、全ての会員が真摯に受け止めるべきであると思います。

 今回の理事会案に問題がないわけではありません。むしろそれは、考えに考えたあげく、現実的な選択肢の中から選ばれた苦渋の結論であります。それは確かにベストとは言い難いが、現時点においてはベターであるいうのが皆の思いでありました。私の考えでは、今回の問題には正答といえるものはなく、その点で、自分の案だけがベストであって他の案は愚の骨頂であると決めつけるのは高慢な独善にすぎません。ましてや、理事会案に何か裏取引があるのではと勘ぐるのはまったくの的外れです。


 いささか不謹慎ではありますが、私が個人的に「面白く」思ったのは、日本考古学協会が、ここまで、日本人の、日本人による、日本のための学会であったという事実です。私はどちらかというと日本に(もっと正確にいうならば「京都に」)安住するタイプの人間であり、その点では国粋的であるといってもまちがいではありません。その私から見ても、日本考古学協会の会員諸氏の中にここまで「愛国心」を発露される方が多いとは興味深い限りでした。事実関係でいいますと、日本考古学協会の蔵書は六万冊程度にすぎず、しかもその源泉は自治体の寄贈や大会時の書籍交換の際の「供出」などに頼るところが多く、体系的な収集がおこなわれてきたわけではない。もちろんそこには他のところにはない本も入っていないわけではないし、日本考古学協会蔵書の価値を貶めるつもりはないのですが、どう贔屓目に見ても唯一無二の文化財的なコレクションとはいえない。その他の研究機関には、日本考古学協会の倍から数倍の巨大コレクションをもつところがある(私のささやかな個人蔵書〈報告書だけではないが・・〉ですら、二万冊以上はありますから。その中には鎌倉時代の古文書、江戸時代の考古学史々料といった唯一無二のものも僅かには含まれていますし、戦前の考古学関係図書といったやや珍しいものもある程度はあります)。奈良文化財研究所は30万冊で日本考古学協会の実に5倍、橿原考古学研究所は15万冊で2.5倍です。明治大学にも、日本考古学協会の倍の数の本があるらしい。確かに私も、もし奈良文化財研究所の蔵書が海外に移管されるというのなら、それはあまりにももったいないと思います。また、国宝や重要文化財の文化財が海外に売られるというのなら反対の声を露わにします。しかし今回の問題はそれとは別です。今回問題になっているものは、多数が印刷された「本」であり、孤高のコレクションということはありえない。それは日本国内であれば、多くが存在しています。
 一方、日本考古学の資料は海外にはほとんど送られていないというのが現状です。その現状を見る限り、たとえささやかなコレクションであっても、海外で日本考古学を学ぼうという人にはお役にたてていただける可能性は高い。私のよく存じ上げているある研究者は、病に冒されて自分の生命が尽きることを覚悟した段階で、厖大な量にのぼる自らの蔵書を韓国の研究機関にすべて寄贈され、それからまもなく粛然とこの世を去られました。しかし、彼の遺志は韓国という場で日本考古学を学ぶ若い人々に受け継がれています。私は彼の行為はすばらしいと思っているのですが、本のコレクションは文化財であって国外に出してはいけないという立場にたつならば、彼の行為も「暴挙」と捉えられるべきなのでしょうか。私も、私がこの世を去る時には、私の蔵書はどこかお役にたてていただけるところに寄贈できたらな、と夢みています。しかし、日本国内ではそれはとうてい不可能でしょう。それならばいっそ外国、とくに発展途上国で日本研究に意欲を示しているところに寄贈できないかな、と思っていますが、これも許されざるべきことなのでしょうか。それとも、個人の蔵書は個人のものだからどう処分しようと勝手だが、日本考古学協会という組織である限りそれは許されないということになるのでしょうか。私には、このあたりの論理がもうひとつよくわからないところがあります。

 とはいうものの、個々人の「心情」は理屈よりも強いのだ、ということを痛感しました。このあたりが、理事会案否決のひとつの要因だったのだろう、と思っています。

 もうひとつ「面白かった」のは、日本考古学協会がその実力よりもはるかに、皆の「期待」を寄せられた組織であることです。これは喜ぶべき事なのかもしれません。しかし、日本考古学協会は我が国を代表する考古学の学会ではありますが、しょせんは会員の会費によって成り立っている民間組織にすぎません。年間総予算もせいぜい4千万円程度です。確かに、日本考古学協会が日本考古学のすべての本を集めた「情報センター」を設立・運営するという夢が語られたことはありますが、現実的にはその夢を実現しようと思うとそれだけで莫大なお金が必要となって、そもそも日本考古学協会という弱体な民間組織の手に余ることは自明です。このあたりは、しょせんは国家レベルの政策に委ねるしかない、と思っております。

 あとひとつ、付け加えておきましょう。このあたりは他のみなさんと意見が違うのですが、発掘調査報告書の電子化・インターネット配信の問題です。今回の議論の中でも、考古学協会所蔵図書をすべて裁断して電子化し、インターネットで配信すればみんなの利益になる、という意見がありました。私もその利便性は認めるものの、現実的にはそれはほとんど実現不可能だと考えています。もちろん、電子化の流れ自体は止められませんし、電子化によるメリットも多大なものがあることは事実であってそれを否定するものではありません。
 私が懸念するのは、著作権問題です。あくまで私見ですが、電子化を推進する立場の人々はあまりにも著作権について軽く見ている傾向があります。報告書を電子化すること自体は勝手です。しかしそれをインターネット配信するためには、著作権をクリアしなければなりません。それでは、個々の報告書の著作権はどこにあるのでしょうか(発掘は公的資金によるから報告書に著作権はない、などと主張するひともいますがこれは論外)。発行元の役所や埋蔵文化財センターに著作権があるからそこの許可をとればよい、というのは、報告の本文部分についてはその通りです。しかし、たとえば古墳の報告書で人骨が出て、その鑑定を外部の研究者に依頼して原稿を書いてもらった場合、「著作権譲渡契約」が特に結ばれていない限り、その部分の著作権は外部研究者個人にあります。さらに、組織の研究者であっても、発掘調査報告書に自分の論文を掲載する場合が多い。その著作権がどこにあるかは、争いがあるでしょう。要するに、報告書一冊一冊について、どの部分の著作権が誰にあるかを解きほぐし、そのすべてについて許諾をとらなければ配信などできないのです。つまり、外部の者が「発行元の許可を受けた」というだけで配信することは著作権法上、問題があります。
 少なくともコンプライアンス(法令遵守)を旨とする組織であれば、他者の著作物の配信には慎重にも慎重であるべきです。その点では参考になるのは国立国会図書館の方針です。さすがに国の機関である同図書館はそのあたりに充分に配慮しており、たとえば本の表紙のデザインについても、その著作権者が誰であることを追究し、そこに配信の許可をとるということをやっております。要は、これくらいの配慮がなければ他人の著作物の電子配信などはやってはならない、ということです。
 もちろん、先にも述べましたように電子化の流れそのものまでも否定するものではありません。ただ、話がずれてきましたので、それについてはまた今度。

 


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