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2010.12.31

2010年大晦日、の巻

101231大雪のなかの相国寺
 2010年12月31日(金)
 大晦日。2010年ももうおしまい、である。
 しかし、朝、目をさましたら雪が降っていた。どうやら、日本全国が異常な寒波に被われているらしい。ほかの地域はよく知らないが、京都の大晦日でこんな大雪なのは何十年ぶりだろうか。少したつと止むかな、と思ったが、どんどん降り続いて止むどころではない。しかし、お正月の買い物が待っているので、仕方ないのでおそるおそる車を出す。大晦日に車のスリップ事故をおこしては困る(大晦日に限らず、いつでも事故は困るが・・)。時速20キロくらいのノロノロ運転で進むが、他の運転者もそれくらいで慎重に走っている。無事に帰宅できたのはなにより。

 今年はどういうわけかバタバタのし通しで、コンサートにもほとんど行けなかった。年末恒例の「第9」も、ナマでは聞くことができなかった。無念である(>_<)。来年はできるだけ時間を作って、コンサートホールに通うことにしよう。ついでに言うと、楽しみにしていた工藤静香さんのクリスマスディナーショー、心待ちにしていたのに、なんと今年は山梨と東京だけの開催で、関西ではやらないのだそうだ。山梨は授業に重なって無理。東京に行こうとだいぶんスケジュールを調整したのだが、他の仕事とのバッティングで、これも無理。残念至極である。来年は関西でもぜひやってほしいな。

 雪で道がベトベトなので、祇園さんの「おけら詣り」も断念。これも残念至極。年越しソバを食べて帰宅。仕方ないので、家でCDで「第9」を聞くことにする。さて、今年のしめくくりは何にしようか? 去年はフルトヴェングラー盤だったので、今回はアルトゥーロ・トスカニーニ指揮NBC交響楽団の演奏(1952年)を選ぶ。いやはや、重戦車がギシギシと軋みながら、もの凄い速度で驀進してくるような、すさまじい「第9」である。聞いていていささか息苦しくなってくるという欠点はあるし、楽章の終わりがスッパリと切れすぎというところは好悪が分かれるだろうが、凄い演奏であることは間違いない。1951年のフルトヴェングラーのバイロイト盤は録音がボケボケという難点(オタケンレコードの復刻盤でも充分にはカバーしきれない)があるのだが、その翌年のトスカニーニ盤はさすがにアメリカRCAのテクノロジーの粋を結集しただけあって、モノラルとはいうものの誠に良い音質であることも嬉しい。

 昨日も書いたが、今年は『中日新聞』の「歩いて楽しむ京都の歴史」の連載にけっこう精力をとられた。一回あたり800字とはいえ、毎週の締め切りというのはなかなかのプレッシャーである。しかも、せっかくやるならばありきたりの京都案内には終わらせないでおこう、という欲がでてしまい、マニアックでマイナーな史跡ばかりとりあげ、さらにはそれに自分なりのヒネリを加えているから、これもなかなかに大変なのである。こんなことばかりではネタ切れになるのでは?という不安もあるが、なんとか来年も続けていくつもりです。

 ともあれ、年越しです。皆様、どうぞ良いお年をお迎えくださいm(_ _)m。
 


2010.12.30

2010年にやったこと、の巻

101229(写真:「京まちや平安宮」での宴会)
12月30日
 2010年も、もうおしまい。早いものです。
 年末には例によって、いろいろと忘年会が続く。その中でも特に印象深かったのは、12月18日の宴会である。今年の初めに刊行することができた朧谷壽・山中章編『平安京とその時代』の出版祝賀会、裏の意味は1年遅れの朧谷先生古稀記念祝賀会、もうひとつ裏を返すと、『平安京とその時代』と朧谷先生の古稀をネタにさせてもらって、みんなで楽しく騒ごう、という会である。せっかくの宴会なので会場をどこにしよう、と探していたら、執筆者のおひとりであるY中E美子さんが「ウチを提供しても良い」とのありがたいお言葉である。この場合の「ウチ」というのは、実は上京の伝統的な町屋をそのまま使った文化施設「京まちや平安宮」そのものである。ありがたい限り。しかも、平安宮のど真ん中にあたり、かの平治の乱の際に後白河上皇が幽閉された(あれは幽閉ではない、と主張する研究者もおられるが、私の見るところではいささか無理があると思う)「平安宮一本御書所」の跡という、なんとも贅沢なところである。『平安宮とその時代』の祝賀会として、これ以上の場所というのはちょっと考えがたいであろう。和気藹々の本当に楽しい時間を過ごさせていただく。一次会・二次会の区別なく呑んでいると、もう23時過ぎ。でも、こんな楽しい時間ならば、もっともっと続けていたい。Y中E美子さん、どうもありがとうございましたm(_ _)m。
 翌12月19日には、案の定、二日酔い。しかし、あまりに楽しかったせいか、ぜんぜん不快感のない二日酔いという珍しい状態である。午後には、長岡宮跡第481次調査(朝堂院西方地区)の現地説明会にでかける。前日の宴会に遠路東京からはるばる御参加いただいたT島Iさんとも出会う。この遺跡、なかなか面白いことになりそう。それにしても、廻廊の柱穴の深さに驚く。現代の建物で深くえぐられているのにもかかわらず、それでも基底部は残存しているのであり、ということは、深さ2.5mを超える恐ろしく深い柱穴だということになる。
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 さて、今年ももうおしまいだから、恒例の「2010年にやったこと」をまとめておこう。一応、共編著が一冊出たし、論文らしきもの(?)も3本。懸案になっていた発掘調査報告も、不充分ではあるがなんとか完成できた。それから、毎週の締め切りという「苦行」にあえいでいる『中日新聞』(『東京新聞』にも載っているらしい)の「歩いて楽しむ京都の歴史」も、今のところは穴をあけることなく継続中である。

【著書(共編著)】
■高木博志・山田邦和編『歴史のなかの天皇陵』(京都、思文閣出版、2010年10月15日)、278+52頁。
 〜山田邦和「平安時代の天皇陵」(91〜130頁)。上田長生・北康宏・高木博志・菱田哲郎・山田邦和「座談会 歴史のなかの天皇陵」(212〜273頁)。山田邦和編「陵墓一覧表」(〈13〉〜〈49〉頁)。山田邦和作「天皇陵分布図」(〈50〉〜〈52〉頁)。

【著書(分担執筆)】
■京都新聞出版センター編、池坊中央研究所・井上由理子・太田垣實・河村吉宏・熊谷栄三郎・黒田正子・小嶋一郎・高野澄・中村武生・中村勝・永守淳爾・西村彰朗・前川佳代・山田邦和執筆『第6回京都検定 問題と解説』(京都、京都新聞出版センター、2010年4月23日)本文256頁(分担頁不記載)

【論文】
■山田邦和「保元の乱の関白忠通」(朧谷壽・山中章編『平安京とその時代』所収、京都、思文閣出版、2009年12月22日)、415〜435頁
■山田邦和「伏見城・城下町の研究史と陵墓問題」(大阪歴史学会見学検討会『伏見城研究の成果と課題』資料集所収、同学会、2010年5月29日)
■山田邦和「伏見城・城下町の研究史と陵墓問題」(『ヒストリア』第222号掲載、神戸、大阪歴史学会、2010年10月20日)、71〜86頁。
■山田邦和「都の葬地」(西山良平・鈴木久男編『恒久の都 平安京』〈『古代の都』3〉所収、東京、吉川弘文館、2010年10月20日)、257〜280頁。

【調査報告書】
■山田邦和・村田昌也・河野凡洋・岡田啓司・成瀬光一「平安京右京一条四坊一・二町」(花園大学考古学研究室編『平安京右京二条三坊八町—花園大学構内調査報告VII—(附 平安京右京一条四坊一・二町)』〈花園大学考古学研究報告第15冊〉所収、京都、花園大学考古学研究室、2010年3月31日)、109〜124頁、PL29〜31(山田執筆分:111・124頁)。

【その他の著作】
■山田邦和「古代史料と考古学—飛鳥〜平安時代の考古学の方法—」(松藤和人・門田誠一編『よくわかる考古学』所収、京都、ミネルヴァ書房、2010年5月20日)、114〜117頁。
■山田邦和「〔わが街—大学のある風景〕京都の南郊、歴史遺産の宝庫—京都府京田辺市—」(『大学時報』第59巻333号〈通巻348号〉、東京、日本私立大学連盟、2010年7月20日)、104・105頁。
■山田邦和「京都の天皇陵と私」(『鴨東通信』No.78掲載、京都、思文閣出版、2010年6月30日)6・7頁。
■山田邦和「歩いて楽しむ京都の歴史」(『中日新聞』連載、名古屋、中日新聞社)
 ・「平安京の中心 —大極殿の跡地で想い馳せ—」(2010年3月27日号朝刊)31頁。
 ・「祇園祭のピラミッド —江戸時代の人々、異国の風景に驚愕—」(4月3日号朝刊)、23頁。
 ・「一遍上人の踊り念仏 —都の貴賤の熱狂を呼び起こす—」(4月10日号朝刊)、17頁。
 ・「平安京の医療施設 —貧民や孤児にも恩恵の手のべる—」(4月17日号)、27頁。
 ・「京都御所 —秀吉の統一後から拡張重ねる—」(4月24日号朝刊)、15頁。
 ・「失意の公家の偉業 —平安京研究、寛政の御所再建に光—」(5月1日号朝刊)、15頁。
 ・「もうひとつの三十三間堂 —鳥羽法皇に寄進、伊勢平氏栄達—」(5月8日号朝刊)、14頁。
 ・「最初の足利幕府 —二条高倉に尊氏の邸宅と等持寺—」(5月15日号朝刊)、29頁。
 ・「ふたつの伏見城 —震災受け再建、秀吉 最期の居城—」(5月22日号朝刊)、26頁。
 ・「テロに倒れた政治思想家 —坂本龍馬に大きな影響与える—」(5月29日号朝刊)、15頁。
 ・「大覚寺の大沢池 —中国・唐 長安城の庭園を写す—」(6月5日号朝刊)、17頁。
 ・「安祥寺上寺跡 —険しい山中に眠る平安時代の寺院跡—」(6月12日号朝刊)、17頁。
 ・「山科の山階寺跡 —奈良に移転して興福寺となる—」(6月19日号朝刊)、23頁。
 ・「二条城と堀川 —幕府の威信示す祝祭空間を持つ城—」(6月26日号朝刊)、15頁。
 ・「江戸時代の三角五輪塔 —発掘された中宮賢子の骨蔵器で波紋—」(7月3日号朝刊)、25頁。
 ・「藤森神社の早良親王伝説 —非業の皇子に捧げた鎮魂歌—」(7月10日号朝刊)、16頁。
 ・「西大谷の笏谷石灯籠 —熱心な信仰、越前から奉納—」(7月17日号朝刊)、15頁。
 ・「近衛天皇陵 —薄幸の天皇が眠る多宝塔—」(7月24日号朝刊)、15頁。
 ・「京都大学北部構内遺跡の火葬塚 —火葬所と埋納所の二つの・「陵」—」(7月31日号朝刊)、27頁。
 ・「因幡堂の薬師如来 —火難に備え『脱出装置』背負う—」(8月7日号朝刊)、13頁。
 ・「下鴨神社の御手洗祭 —清流に涼を求め盛夏をしのぐ—」(8月14日号朝刊)、12頁。
 ・「蛤御門の変(上) —御所奪還をはかり長州軍が猛攻—」(8月21日号朝刊)、15頁。
 ・「蛤御門の変(下) —巻き添え市民、恨みより温情さえ—」(8月28日号朝刊)、13頁。
 ・「六道珍皇寺の勧進柄杓 —賽銭集め、中世から変わりまへん—」(9月4日号朝刊)、17頁。
 ・「安部晴明の邸宅跡 —『土御門町』の町名になごり—」(9月11日号朝刊)、17頁。
 ・「天龍寺の殺生禁断碑 —隣接地も境内並みの聖地に—」(9月18日号朝刊)、27頁。
 ・「日蓮宗の宗教大学 —学僧多くて私有陶磁器に名前—」(9月25日号朝刊)、16頁。
 ・「六孫王神社の源氏大名たち —われこそは・・・と血統や家格誇る—」(10月2日号朝刊)、30頁。
 ・「幕末の宣伝戦争-京朱雀野立札 —先手で世論つかんだ新政府軍—」(10月9日号朝刊)、26頁。
 ・「決められなかった天皇陵 —乱立する候補地に苦渋の決断—」(10月16日号朝刊)、22頁。
 ・「平安博物館 —ユニークな日本初の『研究博物館』—」(10月23日号朝刊)、22頁。
 ・「"日本一長い地名" —それ自体が生きた文化遺産—」(10月30日号朝刊)、16頁。
 ・「閑院内裏跡 —鎌倉時代も首都として機能—」(11月6日号朝刊)、16頁。
 ・「藤原頼長の桜塚 —兄と骨肉の争い 惨めな敗死に—」(11月13日号朝刊)、24頁。
 ・「幕末の大野屋 —小藩の壮大な夢支えた総合商社—」(11月20日号朝刊)、15頁。
 ・「因幡堂の二体の石仏 —作者は木食僧・但称 意外な出会い—」(11月27日号朝刊)、26頁。
 ・「等持院の足利歴代将軍像 —第十代を空白とする独自の数え方—」(12月4日号朝刊)、17頁。
 ・「飯岡東原古墳の須恵器 —考古学者としての基礎学ぶ契機に—」(12月11日号朝刊)、22頁。
 ・「清水寺の梟塔 —手水鉢の下を覗くと鳥の彫刻—」(12月18日号朝刊)、20頁。
 ・「足利義満の北山新都心 —豪華絢爛なミニ平安京だった—」(12月25日号朝刊)、23頁。

【学会・研究会報告】
□「平安京左京八条の考古学的検討」(日本史研究会7月例会「西八条邸の過去・現在―平家権力と邸宅―」、於京大会館、2010年7月17日)
□(討論参加)「第20回平安京・京都研究集会『山田邦和著『京都都市史の研究』を読む―京都研究の方法と実践をめぐって―』」(於機関紙会館大会議室、2010年11月7日)
□(討論司会)「博物館危機の時代と大学の学芸員課程」(全国大学博物館学講座協議会平成22年度全国大会、於同志社女子大学純生館、2010年6月18日)
□(討論司会)「奈良県広陵町新木山古墳(三吉陵墓参考地)限定公開 検討会」(於広陵町中央公民館、2010年11月12日)

【講演】
□「京都を愛する」(京都市職員研修センター 平成22年度「京都市職員研修」、於京都会館会議場、2010年4月1日)
□「京都SKY観光ガイド講座」(於京都府総合福祉会館、2010年7月5日)
□「古代丹後半島と丹後王国」(国際京都学協会講演会、於読売京都ビル大会議室、2010年7月10日)
□「京都の歴史」(嵯峨野高校、於御室会館、2010年7月28日)
□「丹後王国論」(「Let's Feel The Campus in 舞鶴」、同志社女子大学・梅花女子大学・京都精華大学、於舞鶴市政記念館・赤れんが倉庫群周辺、2010年8月11日)
□「平家物語」(姫路市教育委員会主催「平成22年度姫路市市民教養講座〈歴史講座〉」、2010年9月6日、於姫路市市民会館)
□「幻の小屋野京構想」(於長寿蔵ブルワリーミュージアム〈兵庫県伊丹市〉、2010年9月7日)
□「須恵器生産と明石」(明石市立高齢者大学校あかねが丘学園、於みなと記念ホール〈明石市〉、2010年10月15日)
□「『平家物語』現地見学」(姫路市教育委員会主催「平成22年度姫路市市民教養講座〈歴史講座〉」、2009年10月31日、六孫王神社、六波羅蜜寺、長講堂、三十三間堂、法住寺を巡見)
□「山科・安祥寺と藤原順子陵」(京都府立洛東高等学校への出張講義、2010年11月19日)
□「〔ラストトークライヴ〕歴史展示に見る京都都市史」(京都文化博物館歴史展示室におけるギャラリートーク、2010年12月5日)
□朝日カルチャーセンター京都「平安京・京都の歴史を歩く」(於同センター)
 (28)「平清盛の覇権と後白河法皇」(〈昨年より継続〉2010年2月12日・3月12日)
 (29)「平清盛・福原遷都の謎」(4月9日・5月7日・6月11日) 
 (30)「源平合戦(治承・寿永の内乱)から平家滅亡へ」(7月9日・7月30日・9月10日)
 (31)「鎌倉幕府の成立と奥州藤原氏の滅亡」(10.8日・11月12日・12月10日)
□朝日カルチャーセンター京都「秀吉はなぜ将軍にならなかったのか」(於同センター、2010年11月15日)
□京都新聞文化センター「京都検定・京都学講座『京都の原点を探る』(於同センター)
 (第13期)「鎌倉幕府の滅亡から南北朝の動乱へ」(〈2009年より続く〉・1月22日・2月26日)
 (第14期)「室町幕府と足利義満」(3月19日・4月23日・5月28日)
 (第15期)「中世京都の「首都圏」と衛星都市」(6月25日・7月23日・8月27日)
 (第16期)「応仁の乱と室町幕府」(9月24日・10月22日・11月26日)
 (第17期)「洛中洛外図屏風と戦国時代の京都」(12月24日・1月28日・〈2011年に続く〉)
□栄中日文化センター「平安京・京都の歴史を探る」(於同センター)
 (2)「古代:桓武天皇の時代」「古代から中世へ:保元の乱は「夜討」だったか?」「中世から近世へ:豊臣秀吉の京都」(4月24日・5月28日・6月25日)
 (3)「古代:長岡京研究の新段階」「古代から中世へ:平治の乱」「中世から近世へ:織田信長と京都」(7月23日・8月27日・9月24日)
□栄中日文化センター「天皇陵古墳を考える」(於同センター)
 (1)「天皇陵問題と古墳研究」「箸墓古墳」「神武天皇陵」(10月22日・11月26日・12月24日)

【テレビ出演】 
△土曜スペシャル「古代ミステリー謎解きの旅〜陰陽師 安倍晴明は日本初の天文学者だった!?」(テレビ東京系、2010年4月17日〈土〉19時00分~20時54分)

【インタビュー記事】
△「秀吉の醍醐の花見をさぐる」(『月刊京都』2010年4月号〈No.705〉、京都、白川書院、2010年4月)

【展覧会】
△同志社女子大学史料室第16回企画展示「宣教師からのおくりもの」(同志社女子大学史料室〈今出川キャンパス ジェームズ館〉、2010年11月19日〜2011年7月29日)(2010年度同志社女子大学史料室運営委員会委員としての分担)

【社会活動】
▼財団法人古代學協會 評議員
▼財団法人古代學協會 古代文化刊行委員会 編集委員
▼一般社団法人日本考古学協会 理事
▼一般社団法人日本考古学協会 埋蔵文化財保護対策委員会 全国委員
▼平安京・京都研究集会 世話人
▼文化史学会 監事
▼京都民俗学会 監事
▼京都市環境影響評価委員
▼条里制・古代都市研究会 事務局長
▼京都市文化財学習研修施設指定管理者選定委員会 委員
▼京都府 天橋立世界遺産登録可能性検討委員会 委員


2010.12.12

飛鳥・越塚御門古墳、の巻

101212 12月11日(土)
 午後から用事があるのだが、飛鳥の牽牛子塚古墳の側で新たに発掘された越塚御門古墳が話題になっており、その現地見学会がおこなわれる。やはり、これは見ておかねば、ということで、久しぶりに朝早く起きて、出かける。前回の牽牛子塚古墳本体の現地見学会の時の経験があるので、見学会開始の10時にはもう長蛇の列になっていることが予想できる。したがって、9時、飛鳥駅着。
 あるいて10分くらいで現地に到着。途中で、古墳の築造企画の研究者として知られるM川S先生とでくわし、同道。かつて牽牛子塚古墳の本体の発掘調査がおこなわれた時、一本だけ出土した歯を鑑定した話などを聞かせていただく。これはなかなか貴重。
 しばらく並んで、やっと列が動き出す。発掘担当者である明日香村教育委員会のS光S治さんは行列の整理に大童のご様子。御挨拶。
 今回の越塚御門古墳、新聞でこの名前を見て、「越塚・御門古墳」かと思っていたが、違った。「越・塚御門古墳」つまり大字越というのの中に塚御門という小字があり、それを採って古墳の名前にした。だから、略するならば「塚御門古墳」である。それにしても、塚の御門という地名、かつては古墳の石槨の入口が見えていたのだろうな。
 横口式石槨はかなり見事。ただ、石槨の破壊は著しく、さらには墳丘すらほとんど残っていないほどに損壊されていることが気になる。いったい、いつ、誰がこの古墳を破壊したんだ? 

 満足してから、あわてて駅に急ぎ、奈良県から大阪府を縦断して、千里に向かう。途中、千里中央駅の前で食べたラーメン「天風堂」、えらくあっさりしたスープで最初は物足りなくなったが、食べ進めるうちにコクが増してきて、絶品であった。
 目的地は国立民族学博物館。ウチの大学の博物館実習の授業の見学会をやるのである。自主参加なので何人来るかな?と危ぶんだが、五人が集まった。まあまあかな。ただ、博物館はアメリカ、オセアニアなどの展示室がリニューアル工事中で見学不能。ただ、「言語展示」のところで、「日本全国の方言で『桃太郎』を聞く」が、機械が一新されながらもそのまま残っていたことは嬉しい。これ、一番のお気に入りだからな。学生も面白い面白いといいながら、結構じっくりと見せてもらう。


2010.12.10

劉暁波氏のノーベル平和賞受賞を祝す、の巻

Photo 12月10日
 遠くノルウェーの首都オスロで、ノーベル平和賞授賞式がおこなわれたという。今年度の受賞者は中華人民共和国の作家にして民主運動家、劉暁波氏(写真)。氏に心からの祝意と敬意を捧げるともに、中華人民共和国の国民の中から始めてのノーベル賞受賞者が出たことを、中華人民共和国の全国民の皆さん、中華人民共和国政府の皆さん、中華人民共和国共産党の皆さんにお祝いを申し上げ、この喜びを共にしたいと思う。
 劉暁波氏の受賞の主要な要因となったのは、氏が起草し、心ある多数の中国知識人の賛同を得て発表された「08憲章=中華連邦共和国憲法要綱」である。これについては以前にもちょっとだけ触れたように、まったく正当な主張である。
 さらに強調しておくと、この憲章の内容は、中華人民共和国の憲法にまったく合致している。同憲法には次のような素晴らしい規定があり、この精神は08憲章と目標を一にしているからである。
 第4条 中華人民共和国の諸民族は、一律に平等である。国家は、すべての少数民族の適法な権利及び利益を保障し、民族間の平等、団結及び相互援助の関係を維持し、発展させる。いずれの民族に対する差別及び抑圧も、これを禁止し、並びに民族の団結を破壊し、又は民族の分裂を引き起こす行為を禁止する。
 第35条 中華人民共和国公民は、言論、出版、集会、結社、行進及び示威の自由を有する。
 第41条1 中華人民共和国公民は、いかなる国家機関又は国家公務員に対しても、批判及び提案を行う権利を有し、いかなる国家機関又は国家公務員の違法行為及び職務怠慢に対しても、関係のの国家機関に不服申し立て、告訴又は告発をする権利を有する。
 等々・・・

 しかし、中国政府と中国共産党のやりかたを見ていると、中国政府要人や中国共産党指導部は中華人民共和国憲法を読んでいないらしいということがよくわかる。もちろんそうした人々は国家の指導と国民の幸福のために全精力を注ぎ込んで多忙を極めているのであり、憲法など丁寧に読んでいる暇など持ち合わせていないことはよくわかる。ただ、せっかく自国にある素晴らしい憲法なのだから、豪勢な中華料理に舌鼓を打っている時間のほんの一部を割いて、たまには憲法に目を通してほしいものである。

 中国では、ノーベル平和賞に呼応して、孔子平和賞」なる賞が制定され、その栄誉ある初代受賞者には台湾にある中華民国の連戦・元副総統が選ばれたという。ただし、連戦氏がこの受賞を承諾したかどうかは不明。

 この経緯を聞いて、60数年前の同じような出来事を思い出した。ヒトラーが支配していたナチ・ドイツの時代、カール・フォン・オシエツキーというジャーナリストで平和活動家がいた。ナチは彼を危険視し、1933年に政権を奪取するや彼を逮捕、刑務所から強制収容所に送った。しかし、世界は彼を忘れてはいなかった。1935年のノーベル平和賞はオシエツキーに贈られたのである。ただ、強制収容所に入れられていた彼はもちろん授賞式には出席できなかった。ナチ・ドイツ政府はオシエツキーへの平和賞授与に激烈に反発し、ついにはドイツ国民がノーベル賞受賞を禁止する決定をくだした。そして、それに替わるものとしてヒトラー自らの決定によって、1937年にドイツ芸術科学国家賞が創設されたのである(同年の受賞者3人の中のひとりは、ナチ党対外政策全国指導者のアルフレート・ローゼンベルク。これは、ナチ古参党員でありながら権力から疎外されていたローゼンベルクを慰めるためだったというから、この賞のお手盛り度が知れる)。

 これ、今回の経緯とまったく類似している。賢明な中国指導部がまさかヒトラー・ドイツの真似をするはずがないとは思うが、世界からは中国共産党とドイツ・ナチ党が類似しているという誤解を産む要因となり、また新たな中国バッシングの種にされるかもしれないから、中国政府はナチ・ドイツとは違うというところを行動で示して欲しいね。つまり、劉暁波氏を釈放し、自由な発言を認めるという度量を示すこと。

 中央チベット行政府(チベット亡命政権)の内閣(カシャック)は、サムドン・リンポチェ5世ロブサン・テンジン首相の名で劉暁波氏の受賞を祝する声明を公表している。そこでは「2010年のノーベル平和賞を受賞されました劉暁波氏に心からのお祝いを申し上げます。この最高の栄誉を同じ国民が受けたことを中国中の皆さまが誇りに思わなければいけません」と述べられている。まったく、同感。

 劉暁波氏が早急に釈放されて自由の身になることを希望するとともに、中華人民共和国が民主化され、真に世界の尊敬を集める国家に生まれ変わることができますよう、祈りを捧げたい。


2010.12.02

同志社女子大学クリスマスツリー、の巻

101202_3
 今年もあとわずかになってしまった。ウチの大学のクリスマスツリー、これまではお隣の同志社大学のそれに比べて、まったく見劣りしていた。今年の春にキャンパスの中庭の整備が完成し、その中央に立派なドイツトウヒの木が植えられた(なお、このドイツトウヒの木を植えていただいた造園業者は、なんと私の学生時代の同級生で、東北地方で考古学研究者と造園会社社長の二足のワラジを掃いているN田S司氏である。奇遇!)。今年からは、この木を使ってのクリスマスツリーとなり、なかなか見事なものとなった。キャンパスの外からは見えないので関係者限定ともいえるが、この写真で同志社女子大学京田辺キャンパスの雰囲気を味わってくださいませ。


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