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2011.05.30

日本考古学協会第77回総会、の巻

110530b(←小林達雄名誉教授の講演)
 5月27・28・29日(金〜日)
 日本考古学協会第77回総会が東京の國學院大學で開催される。
 金曜日、ホントは早く出たかったが、電子メールの処理などをしているとつい遅くなった。渋谷の駅前で長崎ちゃんぽんを食べて、すぐに会場に向かう。14時、埋蔵文化財保護対策委員会。私は京都府の委員であるが、最近は充分な働きをしていないから、やや肩身が狭い。15時には中座させてもらって、理事会に合流する。

110530c それにしても國學院大學。学生の頃は時々おじゃましてはいたし、ギッシリと遺物が詰まった考古学資料館に感激もしていた。しかし、近年の再開発でほとんどすべての建物が建て替えられ、昔日とはまるで違ってしまっている。ピカピカである。特に驚嘆するのは考古学資料館を発展的解消して新設された学術資料館。資料の質量、展示の充実ともに、わが国の大学博物館としては屈指といってさしつかえないだろう。皆で、凄いね凄いね、と語り合う。我が大学なんか、比較の対象にすらならないのが悲しい限りである。


 理事および國學院大學の皆さんでの食事会は、実行委員会の心尽くしにより、渋谷駅西側の「元祖 くじら屋」。鯨料理の専門店である。すばらしい。鯨のベーコンはトロけるようだし、鯨の赤身の焼肉も絶品である。ついつい、酒杯が進んでしまう。みんな、美味い美味いとパクついていたから、日本考古学協会理事会には捕鯨反対論者はいないことははっきりした。
 最大の課題は土曜日午前の総会である。私の担当は新入会員の御案内と、陵墓問題の報告。少しばかり懸念材料があってヤキモキしたが、それも何とかクリアーでき、ホッとする。新入会員の中に、花園大学で教えたことのあるM田W君が入っているのは嬉しいことである。今は民間の調査企業に職を見つけて、そこで頑張っているという。考古学に逆風が吹き付けているこの時代に、よくここまで精進してくれたと思う。
 陵墓報告では、昨年度の奈良県新木山古墳(「三吉陵墓参考地」)の限定公開、大阪府平塚古墳(「雄略天皇陵」の一部)の立会見学、大阪府誉田山古墳内堤(「応神天皇陵」)の立入調査の成果を報告する。総会、少し長引いたけれども、粛々と議論し、粛々と終了することができる。
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 おもしろかったのは、懇親会後の國學院大學側の二次会。名誉教授の小林達雄先生、現役の吉田恵二先生、柳田康雄先生、谷口康浩先生、内川隆志先生と、学生、卒業生が考古学実習室に集合。私も、誘われるままに紛れ込ませてもらう。いやあ、これはおもしろかった。ここには、古き良き時代の考古学の研究室の雰囲気が明らかに息づいている。学生諸君の顔の輝きが違っている。こんなのを見ていると、大学とはどうあるべきなのか、改めて考えさせられる。花園大学で2年だけ教えたM村君も来ている。私の後任の高橋克壽先生のくんとうを受けて大学院まで進み、この四月からは某県の埋蔵文化財センターに嘱託職員として就職したという。はっきりと自分の途を見つけてくれて、これも嬉しいことである。
 日曜日は研究発表。私は第3会場の担当。すべてを聞けたわけではないが、西光慎治さんの明日香・牽牛子塚古墳と越塚御門古墳、伊野近富さんの京都府馬場南遺跡(恭仁京と関連する)、関根達人さんの北海道に持ち込まれた中世茶道具、石村智さんのパラオ共和国に残る日本統治時代の遺構、五十嵐彰さんの文化財の略奪問題などがおもしろかった。
 台風接近の報道が気になる。帰れなかったらエラいことだ。解散後、早々に新幹線にとびのり、無事に帰洛。

2011.05.16

伯母・山田冨美子、死去、の巻

110516 2011年5月14日午前5時24分、私の伯母・山田冨美子が亡くなった。行年90歳。世間的にいうと長寿の部類に入るのだと思う。私はこれまでなんとなく、90歳を越えたような人の死は大往生ということであり、悲しむよりも祝うべきことのように思っていた。しかしそれはとんでもない思い違いであった。悲しい。涙ばかりが流れる。伯母と過ごしたこれまでの思い出と、もっともっといろんなことをやってあげたかったと思う悔いばかりが頭の中をよぎる。やはり、かけがえのない肉親だったのだということを思い知らされた。
 伯母は、私の父の姉にあたる。5人の兄弟姉妹の4番目である。生涯独身であり、私の実家で私の父母とともに暮らしていた。末っ子である私の父が産まれた直後に、母親(つまり、私の祖母)を亡くした。青春時代には戦争がおこり、山田家でも2人の男子(私の父と伯父)は戦地に送られ、伯母は祖父とともに日々の暮らしに追われる生活を送ることになった。敗戦で、幸いにも父と伯父は生還したけれども、生活の苦しさは相変わらずだった。そのうちに祖父が病に倒れたため、伯母は祖父の介護に専念しなくてならないことになる。そのうちに今度は本人が目を患って片目を失明するという不運に見舞われた。
 そんなわが家であったが、会社づとめをして家を支えてくれていた伯父の仕事も安定し、家業を継いだ父の商売もようやく軌道にのり始めたことで、少しながら光が差し始めた。その頃、父は母と結婚し、私とふたりの妹が産まれた。父母はもちろん、伯母はとても喜んだ。小さかった私たちは、伯母のことを「あーちゃん」と呼んで懐いていた。中でも私に対する伯母の想いは格別だったようだ。親類の誰に聞いても、異口同音に「冨美子さんは昔から、口を開くと邦和のことばかりだった」と言っている。
 伯母は病気がちの人だった。大量の薬を服用しているのは見ていても気の毒だったし、特に胆石の持病を持っていた。年に二度くらい、腹部の激痛と高熱に襲われるのである。だから逆に、伯母にとって入院は日常茶飯事で、手術が終わるとケロリとして帰ってきていた。「無病息災」ならぬ「多病息災」だな、と私たちは軽口を叩いていた。そんな伯母だから、この四月に入院した時も、なんとなくすぐに良くなって帰ってくるような気がしていた。私もしばらくバタバタしてたから、美味しい食事につれていってあげたい、私の職場も一度は見せてあげたいと思いながらもなかなか声をかけてあげることができなかった。退院したら今度こそ、と思っていたのだが、それも今はかなわぬこととなってしまった。後悔先にたたず、とはこのことである。
 多病の伯母であったけれども、ありがたいことに、最期まで一通りの日常生活を送ることが可能だった。今回の入院の直前まで、かなりヨタヨタしながらではあったが、可愛がっていた犬の散歩に出かけることもできた。一ヶ月の入院生活でも、かなり苦しそうではあったが、頭は最期まで明瞭だった。亡くなる前日に私が会った時など、ほとんどロレツが回らない状態の中ででてきた言葉は「お腹はすいてないの? もうここはいいから、早く帰ってご飯を食べなさい」など、私の身を案じるものばかりであった。
 伯母は、不器用な生き方しかできなかった人だったのだと思う。一見、かたくなで、扱いにくい伯母であったが、それは生来の不器用さのせいであり、心は優しくて思いやりのある人だった。亡くなってから、伯母のハンドバックの中から一通の手紙がでてきた。おそらく自分の死を予感していた時に書いたのであろう。そこには「これまで永い間、本当にありがとう」という、家族に対する感謝の言葉がしたためられていた。私はそれを読んで、改めて、心の底から、泣いた。
 伯母ちゃん、どうか安らかにお眠りください。これまで、本当にどうもありがとうm(_ _)m。
                  (2011年5月15日夜半、葬儀場の伯母の棺前において記す) 

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