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2011.05.16

伯母・山田冨美子、死去、の巻

110516 2011年5月14日午前5時24分、私の伯母・山田冨美子が亡くなった。行年90歳。世間的にいうと長寿の部類に入るのだと思う。私はこれまでなんとなく、90歳を越えたような人の死は大往生ということであり、悲しむよりも祝うべきことのように思っていた。しかしそれはとんでもない思い違いであった。悲しい。涙ばかりが流れる。伯母と過ごしたこれまでの思い出と、もっともっといろんなことをやってあげたかったと思う悔いばかりが頭の中をよぎる。やはり、かけがえのない肉親だったのだということを思い知らされた。
 伯母は、私の父の姉にあたる。5人の兄弟姉妹の4番目である。生涯独身であり、私の実家で私の父母とともに暮らしていた。末っ子である私の父が産まれた直後に、母親(つまり、私の祖母)を亡くした。青春時代には戦争がおこり、山田家でも2人の男子(私の父と伯父)は戦地に送られ、伯母は祖父とともに日々の暮らしに追われる生活を送ることになった。敗戦で、幸いにも父と伯父は生還したけれども、生活の苦しさは相変わらずだった。そのうちに祖父が病に倒れたため、伯母は祖父の介護に専念しなくてならないことになる。そのうちに今度は本人が目を患って片目を失明するという不運に見舞われた。
 そんなわが家であったが、会社づとめをして家を支えてくれていた伯父の仕事も安定し、家業を継いだ父の商売もようやく軌道にのり始めたことで、少しながら光が差し始めた。その頃、父は母と結婚し、私とふたりの妹が産まれた。父母はもちろん、伯母はとても喜んだ。小さかった私たちは、伯母のことを「あーちゃん」と呼んで懐いていた。中でも私に対する伯母の想いは格別だったようだ。親類の誰に聞いても、異口同音に「冨美子さんは昔から、口を開くと邦和のことばかりだった」と言っている。
 伯母は病気がちの人だった。大量の薬を服用しているのは見ていても気の毒だったし、特に胆石の持病を持っていた。年に二度くらい、腹部の激痛と高熱に襲われるのである。だから逆に、伯母にとって入院は日常茶飯事で、手術が終わるとケロリとして帰ってきていた。「無病息災」ならぬ「多病息災」だな、と私たちは軽口を叩いていた。そんな伯母だから、この四月に入院した時も、なんとなくすぐに良くなって帰ってくるような気がしていた。私もしばらくバタバタしてたから、美味しい食事につれていってあげたい、私の職場も一度は見せてあげたいと思いながらもなかなか声をかけてあげることができなかった。退院したら今度こそ、と思っていたのだが、それも今はかなわぬこととなってしまった。後悔先にたたず、とはこのことである。
 多病の伯母であったけれども、ありがたいことに、最期まで一通りの日常生活を送ることが可能だった。今回の入院の直前まで、かなりヨタヨタしながらではあったが、可愛がっていた犬の散歩に出かけることもできた。一ヶ月の入院生活でも、かなり苦しそうではあったが、頭は最期まで明瞭だった。亡くなる前日に私が会った時など、ほとんどロレツが回らない状態の中ででてきた言葉は「お腹はすいてないの? もうここはいいから、早く帰ってご飯を食べなさい」など、私の身を案じるものばかりであった。
 伯母は、不器用な生き方しかできなかった人だったのだと思う。一見、かたくなで、扱いにくい伯母であったが、それは生来の不器用さのせいであり、心は優しくて思いやりのある人だった。亡くなってから、伯母のハンドバックの中から一通の手紙がでてきた。おそらく自分の死を予感していた時に書いたのであろう。そこには「これまで永い間、本当にありがとう」という、家族に対する感謝の言葉がしたためられていた。私はそれを読んで、改めて、心の底から、泣いた。
 伯母ちゃん、どうか安らかにお眠りください。これまで、本当にどうもありがとうm(_ _)m。
                  (2011年5月15日夜半、葬儀場の伯母の棺前において記す) 

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