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2011.10.18

日本考古学協会2011年度栃木大会と侍塚古墳、の巻

111017(←栃木県下侍塚古墳。美しい!!)

 秋は学会シーズン。10月8・9日には日本史研究会大会があった。続く10月15・16日は日本考古学協会大会である。

 今年の日本考古学協会大会は、栃木県栃木市の國學院大學栃木学園教育センターが会場となる。せっかく栃木県に行くのだから、と思って、13日(木)の授業が終わってそのまま新幹線に飛び乗り、夜遅くに那須塩原駅に到着、その駅前のホテルに投宿する。目的は、那須国造碑上侍塚・下侍塚古墳の見学である。いうまでもなく、那須国造碑は日本三古碑のひとつに数えられる国宝。上下両侍塚古墳は徳川光圀の指示によって「日本最初の学術的発掘調査」がおこなわれた古墳である。
 ところが、やはり交通は不便。那須塩原駅から侍塚までのバスは1日に数本しかない。これはよほどうまくやらねば帰れなくなってしまう。時刻表とにらめっこすると、那須塩原駅発が朝の7時40分のバスに乗ると、なんとか帰ってきて考古学協会の理事会に間に合う形で栃木市にはいることができることがわかる。どうしてこんな朝早くのバスなんだ?と思ったのだが、実は沿線の高校の通学のためのものだった。車内は高校生で満杯。

 揺られること一時間。ようやく上侍塚古墳に到着する。思っていたよりもずっと大きいのにまず驚く。墳丘斜面がえらく急傾斜で、えっちらおっちらと昇らねばならない。ただ、つい先日、近藤義郎氏の講演録を読んでいて、墳丘の側面感の重要性を指摘されていたことに共感したばかりなので、これはこれで面白い。上侍塚古墳の北側にはもうひとつ、小型の前方後方墳がある。
 その後は、那須国造碑の笠石神社まで歩く。案内を請うと、宮司さんは外出中とかで、留守役の老婦人が鍵をあけてくれる。写真や複製品では見ていたのだが、現物ははじめて。上質の花崗岩で、水を打ったように綺麗な碑面であることに驚く。
 そして、下侍塚古墳。森浩一先生が「日本で一番美しく整備された古墳」と感嘆された通り、すばらく美しいことに感激。さらに、その周囲にある「侍塚古墳群」を廻る。台地の東端からながめた那珂川の風景も絶品。下侍塚の前には、下野風土記の丘資料館湯津上館と大田原市歴史民俗資料館があるので、こちらでも勉強させてもらう。

 時間切れなので、後ろ髪をひかれるようにして那須をあとにして、栃木市に。協会理事会には充分まにあったぞ。実行委員会の皆さんに迎えていただく。夜は理事会と実行委員会での懇親会。
 15日(土)は全体の記念講演「東亜考古学会の誕生と活動-渤海国東京城の調査を中心に-」(國學院大學栃木短期大学教授 酒寄雅志)がある。東亜考古学会、学史的にも著名だが、酒寄先生の御講演はめっぽうおもしろかった。そのあと、それぞれの分科会のシンポジウム。私の職務は「Ⅲ 古代社会の生業をめぐる諸問題」で開会挨拶をすることである。
 15日夜の全体懇親会、二次会は誘われるままに栃木駅の下の呑み屋で「弥生」グループのところに闖入。16日はふらふらと栃木市内「蔵の街」を散策して会場にはいる。

2011.10.03

古代学協会創立60周年記念式典、の巻

101002
 10月1日(土)
 いよいよこの日がやってきた。(財)古代学協会の創立60周年記念式典である。

 この1年間、この日のために『古代学協会60年史』の編纂にたずさわってきた。この本、実は角田文衞先生が生前に企画されていたものであり、10年前に「50年史」としてすでに出版されていなくてはならないはずだった。しかし、その間に古代学研究所の閉鎖をはじめとする混乱があり、「50年史」は頓挫したままになってしまったのである。
 ようやく昨年にいたってこの事業が再開されることになったのであるが、逆に言うとどうしても2011年10月1日に「60年史」が完成していなくてはならないことになる。しかし、この事業の担当責任者に聞いてみると、この10年間まったく作業は進んでいないということが判明して、私たちは青ざめたのである。これではまたズルズルと10年間を空費することは目に見えている。そこで、いささか無理矢理であったが、鈴木忠司理事と私(協会評議員)が引き取ることにしたのである。ただ、鈴木さんも私も他に仕事を抱えているから、この作業に専念することはできない。そもそも、この大事業を1年という短期間で仕上げるためには、よほどの力業<ちからわざ>が必要である。そこで、協会の旧職員であり、これまでも『平安京提要』『新修国分寺の研究』の編集担当者としてそれらを見事にまとめあげるという手腕を発揮した実績を持つ寺升初代さんを拝み倒して、この事業の主担当者になってもらうことにしたのである。
 それからの1年間はまさに怒濤の日々だった。この間の寺升さんのご苦労はまさに筆舌につくしがたいものがあり、頭を下げるしかない。私は私で、この本の主要部となる「古代学協会の沿革」を形にしなくてはならない。これは実は角田先生が御生前に口述筆記原稿を残されていたものである。しかし、この口述筆記は未完成のまま放置されており、とうていこのままで出版することはできない。どうしてもかなりの編集作業が必要だ。と、いうことで、この難儀な作業を買って出ることになってしまったのである。それだけではなく、平安京をはじめとする国内の発掘調査の成果のまとめといった仕事もかかってくる。自分の分担部分だけで済むわけではなく、寺升さん、鈴木さんとともに、全体についても目を配らなくてはならない。特に難儀なのは資料編。協会の研究員一覧なんか、昔の「要覧」や帳簿をひとつひとつ確認しながら一覧表にまとめていかなくてはならない。ブラックホールに埋没したままになっていた資料が急に出現して、それによって原稿に修正を加えなくてはならないことがでてくるのも数知れず、である。結局、本ができあがったのは、なんと祝賀会の前日の9月30日午後だった。まさに滑り込みである。完成した本を前にした時には、寺升さんも私も、ほとんど放心状態であった。

 ともあれ、10月1日の祝賀会にこぎつけた。今回のもうひとつの目玉は、新進の研究者を支援するために新設した「角田文衞古代学奨励賞」の第1回授賞式である。協会の学術雑誌『古代文化』に論文を掲載した研究者の中から、日本考古学の東村純子氏と、中国古代史の土口史記氏のおふたりが選ばれた。いずれも今後が期待される若手研究者である。未来を担う若手がこうして古代学協会に縁を持ってくれることは、私たちとしても嬉しい。

 今回の祝賀会では、私の仕事はもうひとつある。祝宴の中で「古代学協会60年の歩み」のスライドショーを担当した。そういうと簡単に見えるが、60年史の厖大な資料からセレクトして簡潔にまとめるのはなかなか苦労する。当初は5分くらいの自動スライドショーを流すだけのつもりだったが、予定が急に変更されて私が「弁士」をつとめるハメになる。その分、予定時間が超過してしまって司会の方をヤキモキさせたのは申し訳ないことである。ただ、懐かしい写真をかなり紹介することができたから、参加者の皆さんにも好意的に受け取っていただけたようであるのはありがたい。

 ともあれ、古代学協会は60周年を迎え、新たな歩みを始めることになりました。今までの協会は角田先生という偉大な学者に付き従っていたら良いという面が多分にあったのですが、これからはそうはいきません。古代に関心を持つ多数の研究者や一般の市民の方々から助けていただければこそ、協会の未来は開けると思います。なにとぞ皆様、新しい古代学協会を温かく見守っていただき、ぜひ御助力を頂戴できますよう、お願いいたしますm(_ _)m。

【書いたもの】
■古代学協会編(鈴木忠司・寺升初代・山田邦和編集担当)『古代学協会60年史』(京都、古代学協会、2011年10月1日)、全388頁。
 〜角田文衞(山田邦和編)「第1部古代学協会の沿革〜第1章古代学協会の創立、第2章財団法人古代学協会の誕生と発展、第3章平安博物館の開設と発展、第4章古代学研究所の活動」(3〜46頁)、山田邦和「第1部古代学協会の沿革〜第5章古代学協会の新生」(47〜51頁)、同「第2部古代学協会の研究事業 第1章国内の発掘調査〜第1節古代学協会の考古学的調査の歩み」(55〜61頁)、同「第2部古代学協会の研究事業 第1章国内の発掘調査〜第3節古拙時代遺跡の発掘調査、第4節古典時代とそれ以降の遺跡の調査、第5節平安京跡の考古学的調査」(80〜85・85〜89・89〜104頁)、同「第2部古代学協会の研究事業 第4章共同研究事業 第1節平安建都1200年記念事業〜1『平安京提要』の刊行」(143〜144頁)、同「第3部資料編〜第2表古代学協会組織図」(224・225頁)、麻森敦子・古藤真平・山田邦和「第3部資料編〜第4表研究員一覧」(234〜239頁)、鈴木忠司・山田邦和「第3部資料編〜第7表発掘調査一覧」(257〜272頁)

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