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2013.02.21

箸墓古墳・西殿塚古墳の陵墓立入調査、の巻

Photo_2(←左:西殿塚古墳、右:箸墓古墳。GooglEarthを原図として編集、クリックで拡大)

 2月20日(木)
 新聞記事やテレビニュースでご存知の通り、陵墓関係15学・協会(大阪歴史学会、京都民科歴史部会、考古学研究会、古代学協会、古代学研究会、史学会、地方史研究協議会、奈良歴史研究会、日本考古学協会、日本史研究会、日本歴史学協会、文化財保存全国協議会、歴史科学協議会、歴史学研究会、歴史教育者協議会)による「陵墓立入調査」がおこなわれた。今回は、奈良県桜井市に所在する箸墓古墳(宮内庁治定の倭迹迹日百襲媛命大市墓)と同県天理市に所在する西殿塚古墳(同・継体天皇皇后手白香皇女衾田陵)が対照。いうまでもなく、双方ともに日本の古墳時代の開始を考える上でなくてはならない重要古墳である。

 昨年までは私は日本考古学協会理事(陵墓担当)として、学会側の窓口役を仰せつかっていたし、その後も2年間はそれを続けるつもりだった。しかし、例の病気のために、結局は辞退せざるをえないことになってしまった。新たに日本考古学協会の陵墓担当理事になられた森岡秀人さんにはちゃんとした引き継ぎさえできず、大変なご迷惑をかけてしまった。もうしわけございませんでしたm(_ _)m。それに、特に箸墓古墳は何かと話題の焦点になることが多い古墳だから、この立入調査を実現させるために森岡さんや大阪歴史学会のK本N文さんがはらわれたご努力は大変なものだったと思う。感謝々々である。

 私は、体調の関係でちょっと参加を危ぶんでいたのだが、それでも、こういう絶好のチャンスを逃すわけにはいかない、という気持ちだった。前日にはひたすらに身体を休めておく。しかし、前夜には、頭の中が箸墓のことでいっばいになって、フトンにはいっても寝付けない。なんとか箸墓を頭から追い払って、今度こそ寝ようとすると、どういうわけか河内大塚山古墳が登場し、その被葬者についていろいろと考えてしまう。そんなこんなで、結局はほとんど寝られなかった。なんたることだ(^^;)。

 奈良にでかけると、寒いこと寒いこと。三輪山もうっすらと雪化粧をしている。なんとか雪や雨があかってくれたのはありがたいのだか、やはり寒いのは身体にこたえる。それに、木の上に積もっていた雪が凍り付いており、時折、風で木が揺れると、その氷の小片がバラバラと降ってくる。一回なんか、落ちてきた氷に鼻の頭を直撃されてしまったぞ。また誰かに古墳の祟りだと言われそうだが、我が国では本当の祟りの場合には、古墳が鳴動することが通例である。少なくとも鳴動はしなかったから、これは大丈夫である(^^;)。
 
 宮内庁の内規により、私たちが立ち入りを認められるのは、古墳の1段目だけ、つまりは裾の部分だけである。箸墓古墳なんか、周囲の外構柵のすぐ内側に1段目があるから、立ち入りを許されたといっても、結局は外構柵のすぐ内側をぐるっと一周できただけ。ふだんのように外構柵の外から見ているのとでは、わずかに数m前進したにすぎない。マスコミは大いに騒いでくれた(上空にはヘリコプターが何機も飛んでいて、正直、うるさくて仕方ない。まるで戦争でもはじまったみたいだった)のであるが、それで一気に邪馬台国問題が解決するなんてことはあるはずがない。しかし、そうはいっても、このわずか数mの差で、従来はわからなかったことも色々と見えてきた。やはり、一歩でもよいから遺跡に入るというのは重要なことだというのを再認識する。

 さらに、今回は特別だったこと。実は、奈良県立橿原考古学研究所が箸墓・西殿塚両古墳を最先端の技術によって上空から測量しており、その成果が「箸墓・西殿塚古墳赤色立体地図の作成 報道発表資料(2012年6月5日)」として公開されている。古墳に関心のある方はぜひ御覧ください。この成果は凄い。技術に疎い私はどんなことをすればこういう図面が作成できるのかさっぱりわからないのであるが、古墳の細部の状況まで克明に描き込まれている。今回は、この図面をもって中にはいり、現地とこの図面を比較検討することができたのである。今回の調査が成果をあげたとすると、それは、この赤色立体地図があってのことであることを特記しておきたい。

 終了後は、ほかの方々は打ち上げの飲み会に繰り込んだはず。しかし私は、体調と相談してこれは遠慮させてもらう。京都行きの近鉄電車に乗り込むと、さすがに疲れがでて、ぐっすりと寝込んでしまう。

 毎度のことであるが、宮内庁の職員の方々、特に、主担当者であるF尾M彦主任調査官に感謝。特にF尾さんは、私たちの活動に真摯に耳をかたむけていただき、それをいつも広い心で受け止めていただいている。本当にありがとうございますm(_ _)m。


2013.02.14

聚楽第の遺跡保存と活用の署名運動、の巻

Photo_4(聚楽第復元図〈クリックで拡大〉。今回の遺構は青い矢印の先端部分、つまり本丸中央の南側の「2012年発掘石垣」の文字の下端のラインである。)

 先日の発掘調査によって、豊臣秀吉の聚楽第(京都市上京区)跡の本丸南側石垣が良好な状態で確認された。京都都市遺跡としては近年稀に見る大発見であることは疑いない。豊臣秀吉研究に対しても、新たな、そして大きな一歩が記されたことになる。
 さらに、この土地は京都府の公有地(府警本部の宿舎建設地)であって、他の遺跡のように保存のために土地を買い上げるということの必要がない。さらにさらに、その南側に隣接する本丸南側堀の推定地は京都市の所管する公園であり、これも公有地である。

 しかしながら、それに対して京都府当局は、遺構は埋め戻して保存はするものの、その上には建物を建ててしまい、史跡指定や公開施設の建設などは考えない、という方針のようである。

 これに対して、京都に本拠をおく全国学会である日本史研究会「聚楽第本丸南辺石垣遺構の保存と活用を求める要望書」を京都府知事および京都府教育委員会教育長あてに提出し、この遺跡の保存と活用を求め、さらには、「『聚楽第本丸南辺石垣遺構の保存と活用を求める要望書』への賛同のお願い」として、署名を集めている(同文によると、「京都府は年度内に工事開始を強行しようとしています。事態は切迫していますので、第一次の集約を2月15日第二次の集約を2月末日とさせていただきたいと思います」とのこと)。

 とりあえず埋め戻して保存されるのだから、そんなにめくじら立てなくてもいいんじゃない?、という意見もあるかもしれないが、私はいままで、「とりあえず保存された」遺跡が、何十年か後には無残な破壊をむかえた事例をごまんと見てきている(『日本中世の首都と王権都市』の第5章「京都の歴史遺産とその活用」に、そのあたりは詳述した)。「とりあえずの保存」では安心できないのである。

 ここで急がなければならないのは、こうした良好な状態にある重要遺跡は、必ず国の史跡に指定するという方向性をもっておくことだと考える。私見では、聚楽第の良好な遺構が史跡指定に該当しないということはありえないし、これが史跡にならないようならば、それは日本の中近世の城郭で史跡指定にふさわしいものは存在しないと言っているに等しい。
 もちろん、国指定史跡への道は決して平坦ではないということは承知している。しかし、日本史の教科書に必ずとりあげられている重要な遺跡で、遺構の保存状態も良好、さらに土地は公有地であるという好条件にめぐまれた遺跡ですら、国の史跡に指定するための方向性を探れないというのは、文化財保護行政の自己否定にほかならないと思う。

 みなさんの賛同と、上記「賛同のお願い」への協力を、ぜひお願いしたいと思います。

(2月16日追記:聚楽第復元図と、今回見つかった石垣遺構の場所を追加しました。今回の遺構が、この城の中でも最も重要な地点のひとつであったことがわかると思う。)
(なお、聚楽第復元図には、早くは桜井成広氏や足利健亮氏によるものがあり、その後、「京都図屏風」の発見によってそれを利用し、さらには考古学的調査の成果をも併せた森島康雄氏、百瀬正恒氏、馬瀬智光氏のものがある。森島・百瀬・馬瀬三氏のものは、おおまかな姿は一致していますが、細部にわたっては多少の違いがみられる。ここでは、三氏の成果を比べ併せながら、現存地割にも合致するような試案を考えてみたので、それを掲載しておく)。


2013.02.08

トンブクトゥ古文書救出作戦、の巻

2013020200000013mai0002view(イスラム過激派が支配していた西アフリカ・マリ北部の世界遺産都市トンブクトゥから、南部の首都バマコに秘密裏に移送されていた歴史的古文書=2013年1月31日、服部正法撮影〈毎日新聞 2月2日(土)2時31分配信より転載〉)

京都女子大学宗教・文化研究所ゼミナールの掲示板に投稿させていただいた話なのだが、あまりに感動したので、ここにも再録。

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最近のニュースで、感動した話をひとつ。

アフリカのマリ共和国が内戦状態であり、先日、フランスが軍事介入したことはご存じの通りと思います。その過程で、歴史地区が世界遺産に指定されているトンブクトゥが争奪の的となりました。トンブクトゥはサハラ砂漠の貿易中継地として13世紀以降に栄え、イスラーム研究の中心都市でもありました。そこには12世紀からの貴重な古文書の大群が残っており、国立研究所のほか、60以上の私立施設が古文書を守ってきたといいます。しかし、今回の内戦でこの古文書群が失われたというニュースが世界を駆け巡りました。

ところが、続報で、この古文書群の大半が、実は救い出されていたことが判明したのです。それも、反政府武装勢力が町を占領する直前に、古文書を砂漠に埋めて隠したといいます。
「ここの人々は大昔のことを覚えている。古文書を隠すのには慣れている。砂漠に出て、安全になるまで埋めておくんだ」。

さらに驚いたこと。国立研究所の所員たちは武装勢力が侵攻してきた時、いったんは首都バマコに逃げ出しました。しかし、彼らは改めて、約1200キロ離れたトンブクトゥに密かに潜入し、武装勢力の目をくぐり抜けながら、深夜などに研究所から徐々に文書を回収したというのです。さらに、古文書は砂漠を行き来する交易商人の助けを借り、文書の箱の上に粉ミルクや米の袋など実際の商品を載せてカムフラージュし、首都バマコの安全地帯まで運んだ。最終的には、研究所が所蔵する古文書約45,000点のうち約20,000点は武装勢力の放火で失われたものの、約25,000点が救出されたというのです。もちろんこれは命がけです。もしこうした行動を武装勢力に見つかったら、否応無しにその場で射殺されていたはずです。彼らは命を張って古文書救出にあたったのです。

これだけでも感動的なのですが、私がもっとも心打たれたのは、トンブクトゥのひとりの観光ガイドさんが語った言葉です。
「これらの古文書は、この町の本当の黄金だ。
「古文書、私たちのモスク、私たちの歴史、これらは私たちの宝なのだ。
「それがなければ、トンブクトゥなど何ものでもない。」

これ以上、何もいうことはありません。この高貴な人々に、一刻も早い安寧の日が来るのを祈っています。

【出典】
『毎日jp』2013年01月30日所収『National Geographic News』「トンブクトゥ、貴重な古文書も被害」
『毎日新聞』2月2日(土)2時31分配信「<マリ>世界遺産都市の古文書救出 秘密裏に移送」
『毎日新聞』2013年02月02日 02時30分「マリ古文書救出:2万5000点、粉ミルクや米の袋で隠し」


2013.02.03

54歳、の巻

130203_3(千本閻魔堂、厄除けのコンニャク。閻魔様の好物、らしい)

 2013年2月3日(日)
 誕生日。満54歳になった。昨日の天気予報では一気に寒くなるといわれていたが、朝になってみると、すくなくとも京都ではそんなことはなく、割合に暖かい。例年だと、たとえ暖冬といわれている時であっても、私の誕生日には雪景色となるのがいつものことだった。その点では今年は例外である。

 7月2日の手術から七ヶ月がすぎたことになる。心臓手術の場合、3ヶ月と6ヶ月が一里塚になるという。3ヶ月で骨がほぼくっつき、さらに3ヶ月たつことによって、心臓が新しい環境に慣れていくのだという。これが本当だと、私の身体も療養の時期をなんとか乗り越え、1段階新しいステップに進んだということなのかもしれない。

 午前中は、ウチの奥さんにせがまれて、彼女が通っている小鼓の会の新年会。単なる宴会ではなく、受講生がそれぞれ小鼓を打つというので、要は私はその撮影係にかり出されたのである。ウチの奥様は昨夜から今朝にかけて、着ていく着物であるとか、その着付けとかに大童。会場は西陣にある料亭の座敷である。小鼓の良し悪しはよくわからないが、彼女としてはいちおう頑張っていたみたいである。なお、開会前には少し時間があったので、会場の近くにある千本閻魔堂(引接寺)の閻魔様に節分のお詣りをし、厄除けの「こんにゃく」を頂戴する。

 奥様の出番が終わったので私は途中で失礼して、これもご近所にある千本釈迦堂(大報恩寺)にお詣りする。この寺は本堂が鎌倉時代の安貞元年(1227)に建てられたものであり、洛中に現存する最古の建造物ということで知られている。今日まで残ったのは確かに奇跡的だな。屋根が通常の寺院建築のような瓦葺ではなく檜皮葺であることからも、なんとも優美な姿であり、眺めるだけで心が落ち着いてくる。

 千本釈迦堂の本堂の前には「太子堂」、別名「経堂」という小さな堂がある。建物は昭和29年(1954)の建築という新しいものであるが、実はこれ、北野天満宮近くにあった「北野経王堂」が江戸時代に解体された時に残された残材を使用して建てられたものである。北野経王堂は足利義満の建立で、遺材から推定すると桁行<けたゆき>19間、梁間<はりま>16間、正面幅58m、奥行48m、高さ26mという巨大さを誇っていた。ちょうど、現存の東大寺大仏殿と平面規模はほぼ同じで、高さだけを半分くらいにしたものだと思ってもらえればよい。北野経王堂は中世京都における最大規模の建造物だったのである。なお、北野経王堂は明徳の乱(明徳2年〈1391〉)で滅ぼされた山名氏清の菩提を弔うための建物であり、今、太子堂の前には「山名陸奥太守氏清之碑」(氏清は丹波・和泉・山城・但馬の守護だったが、官職は陸奥守)が建てられており、京都では数少ない、明徳の乱をしのぶよすがとなっている。

 こうした北野経王堂の話、一作年の「歩いて楽しむ京都の歴史」の2011年4月16日号で紹介した。そうすると、早稲田大学教授で建築家の石山修武氏がえらく感動してくれたようで、その日のうちに同氏のブログ「世田谷村日記」479号(2011年4月16日)
東京新聞の『歩いて楽しむ京都の歴史』山田邦和が眼を引いた。北野経王堂の復元図の図版にビックリ。この巨大建築は知らなかった。(中略)屋根の大きさが山のようで唐招提寺金堂を異様に大きくした感じである。図版に感動してしまった。東京新聞に何故京都の今は亡き巨大建築が登場しているのかは知らぬ。この図版だけでも東京新聞は大した事をした。(下略)
と記していただいている。著名な建築家の先生にお目にとめていただき、記事を書いたかいがあった。

 千本釈迦堂で本堂に向かって手を合わせ、甘酒と振る舞い酒をいただいた後、ここのお寺の名物の「おかめ」のお面を求める。

 無事に誕生日を迎えられたことを感謝。これからは、「一病息災」として、低空飛行でいいから、無理をせずにゆっくりと人生を歩んでいきたいものである。


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